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2022年6月3日金曜日

曽我物語のかぐや姫説話と富士浅間大菩薩、曽我五郎時致の解釈について

『曽我物語』は「かぐや姫説話」が取り入れられていることでも知られる(富士山のかぐや姫説話については「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照下さい)。

『曽我物語』は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にて記したように「本地物」としての性格もあるが、そのうちの「富士」はかぐや姫説話を引くことで説かれているのである。以下で、やや長くなるが真名本の該当箇所を引用してみる。


曽我五郎時致

---

五郎、申しけるは、「心細く思し召すも理なり。あれも恋路の煙なれば、御心に類ひてこそ見え候らめ。あの富士の嶽の煙を恋路の煙と申し候ふ由緒は、昔富士の郡に老人の夫婦ありけるが、一人の孝子もなくして老い行く末を歎きける程に、後苑の竹の中に七つ八つばかりと打見えたる女子一人出で来れり。老人は二人ながら立ち出でて、これを見て、『汝はいづくの里より来たれる少き者ぞ。父母はあるか、兄弟はあるか、姉妹・親類はいづくにあるか』と尋ね問ひければ、かの少き者、打泣きて、『我には父母もなし、親類もなし。ただ忽然として富士山より下りたるなり。先世の時各々のために宿縁を残せし故に、その余報未だ尽きず。一人の孝子なき事を歎き給ふ間、その報恩のために来れり。各々我に恐るる事なか
れ』とぞ語りける。

その時二人の老人たちこの少き者を賞きく程に、その形斜めならず、芙蓉の眸気高くて、宿殖徳本の形、衆人愛敬の躰は天下に双びなき程の美人なり。かの少き者 、名をば赫屋姫とぞ申しける。家主の翁をば管竹の翁と号して、その嫗をばかさうの嫗と申す。 これら三人の者共は夜も昼も額を合せて営み養ひて過ぎ行く程に、この赫屋姫成人して十五歳と申しける秋のころ、駿河の国の国司、見国のために下られたりける折節、この赫屋姫の事を聞て、翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。 これに依て娘の赫屋姫と国司と夫婦の契有て、国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

かくて年月を送る程に、翁夫婦は一期の程は不足の念ひなくして、最後めでたく隠れ候ひぬ。 その後、中五年有りて、赫屋姫国司に会ひて語りけるは、『今は暇申して、自らは富士の山の仙宮に帰らむ。我はこれもとより仙女なり。かの菅竹の翁夫婦に過去の宿縁あるが故に、その恩を報ぜむがために且く仙宮より来れり。また御辺のためにも先世の夫婦の情を残せし故に、今また来りて夫婦となるなり。翁夫婦も自が宿縁尽きて、早や空しく死して別れぬ。童と君と余業の契も今は早や過ぎぬれば、本の仙宮へ返るなり。自ら恋しく思し食されん時は、この筥を取りつつ常に聞て見給ふべし』とて、その夜の暁方には舁消すやうに失せにけり。夜明くれば、国司は空しき床にただ独り留り居て、泣き悲しむ事限りもなし。かの仙女約束の如く、件の筥の蓋を開て見ければ、移る形も、来る事は遅くして、返る形は早ければ、なかなか肝を迷はす怨となれり。

かくて月日空しく過ぎ行けども、悲歎の闇路は晴れ遣らず。その時かの国司泣く泣く、独り留り居て、起きて思ふも口惜しく、臥して悲しむも堪へ難し。かの返魂香の筥をば腋に挍みつつ、富士の禅定に至りて四方を見亘せば、山の頂きに大なる池あり。その池の中に太多の嶋あり。嶋の中に宮殿楼閣に似たる巌石ども太多あり。中より件の赫屋姫は顕れ出でたり。その形人間の類にはあらず。玉の冠、錦の袂、天人の影向に異ならず。これを見てかの国司は悲しみに堪へずして、終にかの返魂香の筥を腋の下に懐きながら、その池に身を投げて失せにけり。その筥の内なる返魂香の煙こそ絶えずして今の世までも候ふなれ。

されば、この山は仙人所住の明山なれば、その麓において命を捨つるものならば、などか我らも仙人の眷属と成て、修羅闘諍の苦患をば免れざらむ。多く余業この世に残りたりとも、仙人値遇の結縁に依て富士の郡の御霊神とならざらむ。また我らが本意なれば、もとより報恩の合戦、謝徳の闘諍なれば、山神もなどか納受なかるべき。中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救ひ給はざらん。これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなりされば注万葉の歌には、
 唐衣過ぎにし春を顕して光さやけき身こそなりけれ

これは赫屋姫の、仙宮より来て翁夫婦の過去の厚恩を報ぜし事なり。

 紅の一本故を種として末摘花はあらはれにけり

これは国司の、仙女の契に依て神と顕れし事なり。かかるめでたき明山の麓において屍を曝しつつ、命をば富士浅間の大菩薩に奉り、名をば後代に留めて、和漢の両朝までも伝へん事こそ喜しけれ」と申しも了てざりければ涙の雑と浮べば、十郎これを見て、武き物封の心どもなれども、理を知れる折節は心細く覚えて、互ひに袖をぞ捶りける。十郎、

 我が身には悲しきことの絶えせねば今日を限りの袖ぞ露けき

五郎流るる涙を押へて、

 道すがら乾く間もなき袂かな今日を限りと思ふ涙に

と。

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曽我十郎祐成(伏木曽我の場面)


(福田2016;pp.239-241)は以下のように説明する。

本書は右の『神道集』と深くかかわって成立したものであり、それは近似の文化圏に属した作品と推される。その先後を判ずることは容易ではないが、随処に『神道集』と通じる唱導的詞章が見られる。(中略)その詞章は、ほぼ同文に近く饒舌な傍線部分(註:上では引いていない)をはずすと、およそ『神道集』のそれになる。ただし国司が翁夫妻を召し寄せて「此の国の官吏」に任じ、「国務政道を管竹の翁が心に任せてけり」との叙述は、『神道集』には見えない。次の「富士山縁起」が問題となろう。最後の赫屋姫・国司の富士浅間大菩薩の応述示現の叙述は、『神道集』とほぼ一致しており、「男体・女体」を説くことも同じである。が、これもその祭祀の地を明らかにすることはない

『神道集』と対応する箇所が多いことは、従来から指摘される。福田は『神道集』に見えない箇所の存在も指摘する。それは

翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。(中略)国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

の箇所である。つまり国司は、翁を要職に就かせているのである。かぐや姫の云う「その報恩のために来れり」の「報恩」にあたると解釈できる。かぐや姫が来たことで翁の人生に変化が訪れたわけである。

このかぐや姫説話に対する五郎の解釈は独特である。五郎の論理では「仙人(天人、かぐや姫)がおわすような山の山麓で命を捨てればその後の苦難から逃れることができる」としているのである。これは兄弟が富士山麓の地で仇討ちをすることに対する理由の説明となっている。そして富士山麓で死することで「富士郡の御霊神となる」と高らかに述べているのである。

「報恩の合戦、謝徳の闘諍」であることを山神は受け入れてくれるとし、そしてその本地仏を「千手観音」としている。かぐや姫説話は「報恩譚」としての側面もあるため、報恩を説く『曽我物語』との相性は良かったのであろう。また唱導僧や浄土宗の僧侶の関与も指摘されるという(坂井2014;p.88)。

しかし富士の神、ここでは富士浅間大菩薩の本地仏を「千手観音」とする例は珍しい。やはり垂迹神は富士浅間大菩薩(または赫夜姫ないし木花開耶姫命)で本地仏は大日如来とするものが多いだろう。この点について(大川1998;p.44)は以下のように説明する。

『妙本寺本 曽我物語』の「真字本曽我物語・神道集同文一覧」によると「部分的には同文的な箇所も発見されるが、直接の伝承関係を思はせるものではない」とある。両者を比較して特に異なるのは、B(註:「されば、この山は仙人所住の明山なれば…」以後の部分)後半の富士浅間大菩薩の本地のくだりである。『神道集』では本地仏をいわない。本地仏を千手観音とする『曽我物語』の富士山に関する記述は、独自な面があるということになろう

『神道集』では国司が反魂箱を懐へ入れ、富士山頂の煙の立つ池に身を投げる。その両方の煙が絶えぬ様子から「不死の煙」と呼ばれ、それが「富士山」「富士郡」の「富士」にかけられ、転じて「富士の煙」となったとする。そして赫屋姫と国司は富士浅間大菩薩として示現し、これは「男体・女体御す」としている。富士浅間大菩薩は「男体」でもあり「女体」でもあるとしているわけである。

この示現および「男体・女体」の箇所は『曽我物語』でも引用されているが、一方でその直前の説明で本地仏についても言及しており、これは『神道集』では確認されないものである。

しかし『曽我物語』の場合、この箇所は「されば…」と由緒に対する五郎の解釈として語られる部分であるため、由緒の説明・引用は既に終えているという解釈も出来る。どちらにせよ、『曽我物語』の独自性を示すことには変わりはない。おそらく真名本『曽我物語』ないしその原典となった史料の成立当時の価値観が反映されたことによる結果と見てよいだろう。また(大川1998;p.46)は

真名本『曽我物語』の中で富士浅間大菩薩の用例を調べていくと不思議なことに気付く。登場人物の神仏祈願等にしばしば名があがるものに、二所(箱根権現・伊豆山権現)・三島大明神・富士浅間の大菩薩・足柄明神が上げられる。『曽我物語』の基盤ともいうべき土地の範囲が自ずと浮かんでくる神仏の列挙である。本稿で注目していきたいのは、富士浅間の大菩薩である。東洋文庫では、次のような注を付けている。

富士山の周囲にある多くの浅間社。木花咲耶姫命と男神(小異あり)を祀っている。ここでは特定の浅間社をさしていうのではなく、所々に顕現した浅間社をさし、それを本地垂迹の考え方から「菩薩」とよんだもの。

特定の神社を指すのではないという見方は、富士浅間の大菩薩についてのみ見える見解である。他の権現・明神ではそのようなことはない。(中略)ところが、富士浅間の大菩薩については、巻七の富士野へ向かう途次に十郎と五郎によって語られている。つまり、どこの浅間社においてということではないのである。したがって東洋文庫の注でもどこの浅間社であるのかが特定できないということであろう。

としている。これは(福田2016;p.241)の「これもその祭祀の地を明らかにすることはない」にも繋がって来るのであるが、富士浅間大菩薩はだいぶ拡大解釈が可能な神という印象を持たざるを得ない。

仁田四郎忠常が人穴を探索する様子。「曽我物語図屏風」等を筆頭とし、富士宮市域を題材とした大和絵等の作例は極めて多い


『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月4日条には以下のようにある。

四日。庚子。陰。巳尅。仁田四郎忠常出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮。不能廻踵。不意進行。又暗兮。令痛心神。主従各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顔。不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流。失拠于欲渡。只迷惑之外無他。爰当火光河向見奇特之間。郎従四人忽死亡。而忠常依彼霊之訓。投入恩賜御剱於件河。全命帰參云云。古老云。是浅間大菩薩御在所。往昔以降。敢不得見其所云云。今次第尤可恐乎云云。

意訳を以下に記す。


4日になると仁田忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、(頼家様より)賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。


源頼家は「富士の狩倉」に出かけた際、同地に存在する「人穴」(静岡県富士宮市)を仁田忠常に探索させた。上の4日条は、その人穴の探索より帰ってきた忠常の報告である。

まず「是浅間大菩薩御在所」とあり、人穴は浅間大菩薩の御在所であるとしている。単に"富士山信仰の一端を示す"と解釈してもよいが、そもそも仮に富士浅間大菩薩の御在所を想定する場合、本来なら浅間社ないし富士山体でなければおかしいと思うのである。しかし『吾妻鏡』は「穴の中」としている。富士山信仰の受容の広さと片付けて良いかもしれないが、やや不思議な印象を持たざるをえない。

そこで『曽我物語』に再び目を向けた時、そもそも同物語で想定されているのは「浅間社」ですらない可能性があるのではないだろうか。富士浅間大菩薩の示現の幅の広さが『吾妻鏡』で示されている以上、全くおかしなことではない。

「かぐや姫説話」の引用は『神道集』から行い、五郎の解釈の部分は「これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなり」以外の部分は別の材料から付加されたものと考えたい。『曽我物語』成立の中で次第に付加されていったものであると思われる。そして『曽我物語』がいう「富士浅間大菩薩」は、浅間社に示現したものとは想定していない可能性も考えたい。

  • 参考文献
  1. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  2. 大川信子(1998)「真名本『曽我物語』における久能と富士浅間大菩薩-梶原氏との関わりを通して」(『平成8年国文学年次別論文集 中世2』所収 平成10年 朋文出版)
  3. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987
  4. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988
  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2020年1月20日月曜日

尹良親王と田貫次郎の伝説と田貫湖

ダイヤモンド富士のスポットとしても知られる「田貫湖」。そのほとりには「田貫神社」が位置し、「尹良親王」と「田貫次郎」が祀られている。

両者は「人神」として祀られているのであるが、このような事例は富士郡では稀有であり、今回はこの部分について考えていきたい。まず『浪合記』という史料に

駿河国冨士谷宇津野ニ移シ田貫カ館ニ入レ奉ル此田貫次郎ト申者ハ元ハ冨士浅間ノ神主ナリ神職ヲ嫡子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス(中略)冨士十二郷ノ者ハ新田義助厚恩ノ者共ナリ

とある。内容としては一行が尹良親王を奉じて吉野から上野国に移動する過程で駿河国富士谷の宇津野(=現在の富士宮市内野、"うつの"と読む)に移り、そこで田貫次郎の館に入るという内容である。田貫次郎は「富士浅間の神職」であったといい、その神職は既に嫡子である「左京亮」に譲っており自身は内野にて隠居生活を送っているというものである。

富士宮市内野

まず同記録の信憑性についてであるが、多くで信憑性が疑われている。しかし地理的背景だけで言えば、意外にも整合性が取れている印象がある。まず実際現在の富士宮市内野に隣接する形で田貫湖が存在している(この伝説から田貫湖と名付けられたとも)。そして地理的には上野国の途中に位置している。

一方「富士浅間ノ神職」については、どの浅間神社を指しているかは不明である。また同じ内容が『東武談叢』にもあるといい、『駿国雑志』がこれを引用している。内容は両者ともほぼ同じである。『白糸をめぐる郷土研究』では「富士浅間ノ神職」について

或は甲斐の明日見浅間ともゆふ

としているが、その出典等は示されていない。ただこの記述を思うに、「富士十二郷」の記述の存在が関係していると思われるのである。偽書である『宮下文書』には「富士十二郷」についての記述が確認でき、また同書には「富士大宮司直時」の名も確認できる(現在はその箇所が不明です、教えて下さい)。偽書も全くの架空ではなく実在する人物を取り入れていることから「直時」の名が見えていると考えられる。そして『宮下文書』が発見されたのが何を隠そう「明日見」なのである。おそらく著者は『宮下文書』を念頭に置いて「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」としたのではないだろうか。とりあえず「富士浅間」だけでははっきりしないとは言えるが、仮に富士山本宮浅間大社だと仮定してしまうと、整合性は全く無い。

田貫湖

『浪合記』によると、尹良親王は元中3年(1386)8月8日に征夷大将軍となり源氏姓を給わったとある。そして従者は吉野から上野国に迎え奉るのであるが、その道中に寄っているのが内野なのである。そしてここで「(元)冨士浅間ノ神主」として田貫次郎が出てくるのである。ではこの時代の富士山本宮浅間大社の神職が誰かを考えた時、史料的にはまず「富士直時」と同子「弥一丸」の存在が挙げられる


直時は「譲状」にて子である弥一丸に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲る約束をしているのである。富士郡にて「直時」の名が見える史料は、この文書の他に「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にしか見られないように思える。したがってここに見える「直時」とは、富士大宮司である富士直時であると考えるのが妥当である。そもそもこのような広大な領地を譲ることができる権力者自体が、大変に限られてくるのである。「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にも「康永四年三月十日卒」とあり、予定通り弥一丸に譲渡されたのであろう。

そして「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」には田貫次郎なる人物が神職として存在していたことを示す箇所は無い。そしてそれは「左京亮」も同様である(江戸時代の三十三代富士大宮司である富士信公くらいである)。とりあえず『浪合記』の「冨士浅間ノ神主ナリ」の浅間神社は、何処に設定しているかは分からない。しかし史実としては富士山本宮浅間大社を指す可能性はとても低いということは言って良いのではないだろうか。

私は『宮下文書』と『浪合記』に「冨士十二郷」なる用語が共通して見えることを考えると、「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」という指摘は大いに傾聴に値するのではないかと考える。「富士十二郷」については『今川記』に「富士郡下方十二郷」なる言葉が確認できるので、「富士十二郷」という区分は実際に存在した可能性がある。しかし同史料の内容も疑問視されていることも事実であり(「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」)、全く異なる方面から確認できるこの「富士十二郷」の真偽は不明である。

とりあえず「田貫次郎」の話は、あくまでも伝説の領域を出ない内容であるということを示しておきたいと思う。

  • 参考文献
  1. 渡辺兵定,『白糸をめぐる郷土研究 : 渡辺兵定翁遺稿』,1953年
  2. 『駿国雑志』

2017年2月13日月曜日

富士市の島地名と水害そして浅間神社

浅間神社の総本宮は富士山本宮浅間大社(富士宮市)であるが、隣接する富士市域にも浅間神社は多く存在する。現在の富士宮市域は中世より≒富士上方と称され、富士市域は≒富士下方と称されてきた。富士市域は大きく「旧富士市域」「旧吉原市域」と大別でき(現在からするとやや大きすぎる分け方である)、例えば権威を誇った富士下方五社はどちらかと言えば旧吉原市域に偏る。


しかしこれらを見ていると、自然に以下のような疑問が湧き出してくるものである。それは

(吉原と比したとき)旧富士市域は富士山から遠くまた登拝路も限られるのにも関わらず何故浅間神社の分布が旧吉原市域以上に存在しているのか

という疑問である。そして米之宮浅間神社以外は軒並み創建が下る(時代が新しい)ということも特徴としてあり、これらも疑問となってくる。

浅間神社分布図(富士山包括的保存管理計画 本冊より)

この疑問に答えてくれるのが富士市立博物館刊行物『加島 米と水』(企画展解説図録)である。同図録に以下のような説明がある。

富士山の裾に位置する加島にも米之宮浅間神社をはじめとして10社がまつられていますが、米之宮以外はすべて加島南部という狭い地域に集中しています。この地域だけで、富士山南西麓における浅間神社の1/4を占めています。(中略)米づくりのために開かれた村が、水神・農耕神的な性格を持つ浅間神社を勧請するに至ったのは不自然なことではないと思われます。

新田開発が行えるようになったのは比較的後世のことなので、旧富士市側の浅間神社というのは創建が比較的新しいのである。地名を見てみると旧富士市域に「島」がつく地名が大変に多い。「島」が付く地名に対して「幕末・富士川下流域の農事」では以下のように説明している。

周囲には森島・中島・川成島など島がつく地名が多い、これらはかつて富士川の氾濫原の中で島のようにみえた微高地の集落であると伝えられている。またこれらはほぼそのまま近世村の村名となり、島がつく村名は加島二十六ヶ村のうち九村に及ぶ。

とある。つまり富士川の氾濫でその土地が水に浮かぶ島のように見えたことから由来する、と言っているのである。例えば「川成島」などはそのままである(川で島が成る)。

富士市森島・五貫島・宮下一帯(昭和30年代)

富士市森島・五貫島・宮下一帯(昭和50年代)。昭和30年代と比して建築物の進出が見受けられるが、それでも殆ど人家は無い

当ブログでは明治期の地名から「島」の付く地名(大字)を割り出してみることとする(タイトルの「島地名」とはこれらを指す)。
下表の(吉原)→図中での旧吉原市のこと 下表の(富士)→図中での旧富士市のこと


自治地名
加島村(富士)中島 五味島 水戸島 森島
田子の浦村(富士)柳島 鮫島 宮島 五乄島(=五貫島) 川成島
島田村(吉原)荒田島 青島 田島 田島新田
伝法村(吉原)瓜島

共通の割り出し方法で試みたが、如何に旧富士市側で「島」がつく地名が多いのかが分かる。また面積比で考えてしまうと圧倒的とも言える。これは富士川流域がどちらかと言えば旧富士市側であったためである。※藤村翔,「富士郡家関連遺跡群の成立と展開 富士市東平遺跡とその周辺」『静岡県考古学研究 45』に、旧来の富士川氾濫域が掲載されていますのでご参考までに

また加島村域には「宮下」という地名があるが、『加島 米と水』は宮下についてこう記している。

宮下を歩くと、あちこちに石垣で周囲を補強され、高さを整えられた畑や屋敷があることに気づきます。このような高低の差が生じたのは、かつて富士川の氾濫によって土砂が宮下に流れ込み、土地が不均一になったためだと語られています。(中略)そもそも宮下の名は、山神社というお宮の下に集落が開けたことに由来していると語られています。山神社はかつて宮下では最も富士川寄りに位置し、その境内の敷地は大井川流域の舟型屋敷(舟形の形態をとることによって洪水・氾濫から敷地を守る)のように、富士川に向けて奥宮が舳先、鳥居が艫になる舟形を呈しています

まず「」は神社を意味する語である。そしてこの地に「山神社」があり、山神社の下に集落が開けたために「宮下」という地名となっているのであるが、例えばこのようなランドマークがなければやはり他の「中島・五味島・水戸島・森島」同様「〇〇島」という地名になっていたに違いない。

水神社(富士市松岡)
また以下のようにもある。

加島平野は富士川の扇状地であり、富士川がもたらした砂礫によって形成されています。(中略)江戸初期に富士川の治水が進み、加島には次々と新田や新しい村が開かれていきました、近年までタバショ(田場所)と呼ばれていた水田地帯を生み出します

治水により新田開発が進んでいったが、地名としてはそのまま残ったという形であろう。新田開発により米の栽培も可能となり、『駿河国新風土記』に以下のような記述がされるまでに至る。

米ハ早稲、多く他村に先ち熟す、7月中に出す、此を加島米と称す

とあるという。また水害が多かったことは、中世資料からも見出だせる。永禄12年(1569年)6月、武田信玄は駿河侵攻の過程で富士氏の大宮城(富士城)に攻め入り、これを落城させた。

武田信玄

大宮城主「富士信忠」は後北条氏の勧めもあり穴山信君を通じて開城し、駿河富士大宮は武田氏のものとなった。これらの動向を『甲陽軍鑑』ではこう記している

永禄12年6月2日に、信玄公、甲府を御たちありて、駿河ふじの大宮(註:富士宮市のこと)へ御馬を出さる(中略)同18日に、三嶋をやき、がわなりじまに御陣をとり給ふ、一夜の内に大水いで、信玄公の諸勢、道具を津なみにひかれ候へども、無何事早々甲府へ御馬をいれ給ふ

つまり武田信玄は川成島に陣を張ったが大水が出て道具等も水にさらされ、甲府への撤退を余儀なくされたのである。「大水いで」「津波」とあり、海方面からの水害を推測させる。陣を置くような場所であるから完全に沿岸とは考えられにくいが、そのような地であっても道具が水にさらされるような状況に容易に陥り得る地だったのである。しかしこの頃の富士川流域は現在より東側であったとされるため、これが富士川の氾濫を指す可能性も考慮しておく必要性がある。『駿河志料』の「川成島」の頁では武田信玄の動向を記した後、「此地水害あるべき川なし 若しくは富士川の水ならんかとも思えど」とし、「水害」が川由来であるか判断を決めかねている様子が見られる。「下」(海)からも「横」(富士川氾濫)からも水害の危険性を有していたのである。

この川成島は富士川の渡船場であった。しかし慶長7年(1602)6月頃、徳川家康の命でより富士上方に近い「岩淵-岩本間」で行うようになったという(大高康正「富士参詣曼荼羅にみる富士登拝と参詣路 : 新出の常滑市松栄寺本を対象に」)。つまり川成島は平常時より水が入り組んだ地であったのである。

富士市立博物館HPより
㊾は「柏原遺跡」(富士市、現在の東田子の浦駅付近)という遺跡であるが、この遺跡から津波または高潮堆積物が発見されている。弥生時代後期から古墳時代前期頃に位置づけられるという(『考古学からみた静岡の自然災害と復興』を参照)。この辺り一帯には同様のものが見出だせるであろう。この富士下方の地で「島」とある場所は、基本的に類似した地理的環境にあったと推測できる。これら水害を抑えるに成功するのは、雁堤の完成まで待つこととなる。

ちなみにであるが、米之宮浅間神社もその神社名にあるように「米」と無関係ではない。「富士信仰と環境伝承」には以下のようにある。

山頂の垂訓の中に、富士山はお米の山である。ミロクの世というのは、弥勒菩薩、浅間菩薩であり、ともにお米の菩薩であって、富士山そのものは「穀聚山」で、穀物が集まるとかく。つまり米や麦が集結して出来上がった山であるから、麓の鹿島村に向かって米の粒を三粒、富士山の上から米の菩薩がばら撒いた。(中略)鹿島村では、現在も米之宮という江戸時代からの神社がございますが、この伝説と結びついているかもしれません。

「米」との接点を求める所を考えると、米之宮浅間神社の創建もある程度下るのではないかと考えられる。この伝承自体の成立は、同神社の創建を考える上で重要になるだろう。加島の地に「米」を冠した神社が成立したのには、意味があると思うのである。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館『加島 米と水』,1998
  2. 荻野裕子,「幕末・富士川下流域の農事」『民具マンスリー第33巻10号』,2001
  3. 富士郡役所「静岡県富士郡々治一覧表」,1893年
  4. 静岡県考古学会,『考古学からみた静岡の自然災害と復興』,2013
  5. 宮田登,「富士信仰と環境伝承」『山と森のフォークロア』,1996

2015年4月24日金曜日

富士山本宮浅間大社と静岡浅間神社の浅間造の相違点

富士山本宮浅間大社本殿は「浅間造」と称される独特の建築で知られる。その本殿について記す文献があるので、その類の資料から実像に迫っていきたい。まず静岡浅間神社と富士山本宮浅間大社の浅間造の明確な違いは、以下の点である。

富士山本宮浅間大社→本殿が浅間造
静岡浅間神社→拝殿が浅間造

双方の浅間造の建築については、「浅間大社本殿と静岡浅間神社拝殿の形態的特徴について」が詳しい。内容については明確に誤った部分もあり信憑性にやや疑いを残しつつつも、実際見ないと分からない部分もあり参考となる。

そこで両浅間社の上層平面図を眺めると、上層部分の床に下層から上層へのアプローチ空間をみることが出来た。図面の表記から浅間大社本殿では階段が設置されていることが分かるが、静岡浅間神社拝殿では取り外し可能の板が床面に確認できる。(中略)両浅間社に聞き取り調査を行った際に上層空間へのアプローチについて聞いたところ、図面の表記通り浅間大社本殿では常設の階段が、静岡浅間神社拝殿では床面を外し梯子を架けることが確認できた。また、静岡浅間神社拝殿で梯子を架ける際には狩野栄信・狩野寛信の天井絵が描かれている。(中略)狩野派によって描かれた絵がある天井絵を頻繁に取り外す事はないと考えられ、梯子を架けることはほとんどなかったのではないかと推察できる。以上より、常設の階段が設置されている浅間大社本殿は上層部分を使用する事を計画して設計されたものだと考えられる。一方で、静岡浅間神社拝殿は非常設の梯子による上層空間へのアプローチであることから、上層空間の使用は考えていなかったと考えられる。

独特の建築で知られる宇治平等院などは、左右の翼廊上層部分に似たような建築がある。この部分のみ取り出すと、浅間造と非常に類似しているのが分かる。現地で実際拝見してみたが、人間が上層部分に(余裕をもって)入れる程の隙間は無かった。ある意味では、静岡浅間神社に近いと言える。

同氏の論文で『富士山本宮浅間大社本殿の重層建築形態に関する再検討-新史料の紹介を含めて-』というものがある。

一方、大正時代の修理工事の際に作成された図面によると礎石から箱棟頂部まで四丈九尺であることがわかる。これより、江戸時代の記録と比較すると最大で九尺の違いがあることが分かる。また、明治時代に本殿から御神体が発見されるという出来事があったのだが、その時の記録によると「主典古矢之三階下ノ梁上二、筥有ルヲ見出シ」とあり、三階部分から発見されたと記されている。もちろん明治時代の本殿は現在の本殿の社殿同様に二階建てであり、三階という表現は不可解である。しかし大社の神主の間では三階という表現が用いられていた事は興味深い事である。

おそらく、外見としては「二重」であるため、『富嶽之記』(1733年)では「本殿二重閣」とあり、『駿河記』(1809年)などでは「本社二階」とある。しかし内部の人間はそこに階段があることを知っているわけなので、「三階」とする記録があるのだろう。しかし個人的には、明治時代の記録に歴史性はあまり感じないので、中世-近世で「三階」という意識があったとはあまり思わない。

本殿は社の中でも重要な箇所であり、その上層部に御神体があるのは全くおかしなことではない。御神体に多くの機会をもって関わるということは無かったため、人が上層空間を使用する意図で階段状にしたかは疑問が残る。この御神体は、富士大宮司ですら容易には見ることができなかったものなのである(建部恭宣,「浅間造の研究5」を参考)。明確な意図があったかどうかは分からない。

註:富士山本宮浅間大社と静岡浅間神社の間では毎年4月・11月に合同祭祀が行われていたことが知られ、中世後期にまで遡ることができるという(大高康正,富士山縁起と「浅間御本地」『中世の寺社縁起と参詣』,2013)。

  • 参考文献
  1. 佐藤翔二,「浅間大社本殿と静岡浅間神社拝殿の形態的特徴について(駿河国浅間社社殿の研究その1)」学術講演梗概集2013, 387-388, 2013
  2. 佐藤翔二,「富士山本宮浅間大社本殿の重層建築形態に関する再検討-新史料の紹介を含めて-」,日本建築学会関東支部研究報告集 83(II), 645-648, 2013
  3. 建部恭宣,「浅間大社本殿上層について(浅間造の研究5)」,学術講演梗概集F-2, 25-26, 1999

2013年5月7日火曜日

浅間大菩薩縁起を考える

近年の富士山史関連の学術的見地において、最も大きな発見・動きは「新出の富士山縁起が発見されたこと」ではないかと思う。その中でも『浅間大菩薩縁起』の標題をもつ富士山縁起は注目されるものであり、現在「神奈川県立金沢文庫」に収蔵されている(富士縁起(全海書写)ではない方*1

浅間大菩薩縁起

「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」には以下のようにある。

たまたま金沢文庫の仕事のかかわりで『浅間大菩薩縁起』という、中世の富士山の縁起を記した写本が見つかりました。(中略)それはちょうど巻末にあたる部分で、奥書には底本が建長3年(1251)に写されたものであることが記されております。(中略)

これが『浅間大菩薩縁起』である。また以下のようにもあります。

それ(『富士浅間大菩薩の発見』)と前後して、(中略)雑多な古書の切れはしを集めた箱の中から、鎌倉時代の終わりに全海という鎌倉極楽寺系の律宗の学僧が書き写した富士山の縁起の1部を探しだしてきました。断簡ではありますが、これは明らかに今まで知られていた富士縁起の1番古い形を伝え、しかも「かぐや姫」伝説の部分が含まれていたのです

とある。これは富士縁起(全海書写)です。

富士縁起(全海書写)

『浅間大菩薩縁起』には末代上人以前に「金時(上人)」「覧薩(上人)」という人物が登山を行なっていたことが記されているのである。これは、これまでの(富士山史の)解明作業の限界点を広げる発見であり、興味深い。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

この縁起は、底本段階ですでに錯簡があったらしく、配列について若干の疑義はあるが、末代が登山する以前、年代も分からない往古に金時上人が初めて登山し、山頂い仏具などを埋納したという。次に覧薩上人が天元6年(983)6月28日に登山、さらに天喜5年(1057)に日代上人が登山したという。

このことから、末代上人が初登頂と考えるこれまでの傾向に終止符を打ちそうである。またこれらの人物の名前が伊豆走湯山の開祖とされる人物と共通する部分がみられるといい、関係性が指摘されている。

  • 富士山大縁起(東泉院所伝)について

富士山縁起には「富士山大縁起」(東泉院所伝)というものがあり、『浅間台菩薩縁起』との関連性を見出すことができる。「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」には以下のようにある。

奥書によると、この縁起書は、年代は不明であるが「五社正別当妙行」と称する人物が相伝し、正和5年(1316)に「正別当頼尊」が書写したものが原本であるという。(中略)最初の3部は考元天皇元年に震旦から来訪した「金覧(言偏に覧)上人」が記したという体裁となっているため

とある。また「(東泉院の縁起が)それほど古いテキストとは思われない」(P120)としている。そしてその「金覧(言偏に覧)上人」について以下のように推測している。

東泉院本大縁起の「金覧上人」とは、末代以前のこの2人の登頂者の人名、ひいては走湯山開創の二仙人の名を合成したものと考えることも可能である。室町後期以降、村山修験は聖護院末に包含されたために、役行者を開創として崇めるようになるが、これと袂を分かった走湯山系の修験の一派が、下方地区に東泉院を建てて移動し、醍醐派の法灯と、古い伝承を伝えたのではないであろうか。

これらを鑑みると、東泉院は富士山信仰から離別してできた過程できた建造物とも捉えられるのである。この縁起について「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」では

富士山だけで完結しておらず、隣にある愛鷹山を含み込んでいたということがわかります。その中に「かぐや姫」の説話が含まれているのです。(中略)東海道筋に位置していた今泉東泉院に伝わる縁起は、富士山よりも愛鷹山を強調しています。

とあり、東泉院は富士山から離れた東海道を意識した建造物とみられている。また愛鷹山に重点を置いていたと見られている。「愛鷹山縁起」という見方ができるのである。

では『浅間大菩薩縁起』を考えていきたい。「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」には以下のようにある。

新出『縁起』は、巻末に建長3年(1251)「冨士滝本往生寺」において書写した旨の本奥書がある。滝本往生寺とは、富士山の村山登山口(廃道)の1合目、ちょうど森林限界にあたる地点に江戸中期まで存在した山岳寺院である。

つまり村山に伝わる富士山縁起である。一般に滝本往生寺(御室大日)は富士山興法寺(大日堂・浅間社・大棟梁権現)に含まず、別個として扱う。それは先にもあるように森林限界にあたる比較的標高の高い場所に位置するためである。

『浅間大菩薩縁起』によると、末代は本名を「有鑑」といい、駿河国の人物であるという。また以下のようにある。

末代の登頂は、山麓の「高下貴賎」の住人の支援を受け、下山後は山宮(大宮浅間社の末社)の宮司・神官らが歎讃したという。

また『地蔵菩薩霊験記』などと共通の内容がみられ、縁起以外の史料と共通した記述がみられる点はかなり大きい。「金時(上人)」「覧薩(上人)」については、以下のように説明している。

新出『縁起』が記す末代以前の金時・覧薩・日代、三名の富士登頂者は、いずれも従来全く知られていなかった人名である。(中略)新出『縁起』が引用する『金時上人記』なるものが、こうした記述の下敷きになった可能性はあり、伝説的な人名であるにしても、9世紀ごろに富士登頂に成功した人物がいた可能性は高い。しかし末代の直接の先蹤といえる日代の存在は、ある程度確実な記事によっていると考えられるのに対し金時・覧薩の二名は事跡も明瞭ではなく、実在性に疑問が残る。なぜならば、この2人の名前が走湯山の開創伝説に登頂する仙人の名前を模しているからである。

としている。しかし日代は少なくとも末代以前に登頂したと考えられるので、今後大きく影響を与えていくものであると思う。そしてこの縁起は、村山と伊豆走湯山との関係をいっそ裏付けるものとなっている。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文, 「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」,『史学 73(1), 1-14』,慶應義塾大学,2004
  2. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  3. 西岡芳文,「富士山をめぐる知識と言説-中世情報史の視点から-」『立教大学日本学研究所年報 (5)』,2006
  4. 神奈川県立金沢文庫編,『金沢文庫の中世神道資料』,神奈川県立金沢文庫,1996
  5. 神奈川県立金沢文庫編,『寺社縁起と神仏霊験譚』,神奈川県立金沢文庫,2003
*1: この2つは両方とも「金沢文庫の富士山縁起」と説明されることがあるので、区別する必要はある

2013年5月3日金曜日

富士山噴火と甲斐国八代郡浅間神社の創建

富士山信仰において、その富士山を祀る神社として「浅間神社」がある。甲斐国における浅間神社創建の直接の動機となった出来事は富士山の噴火であり、噴火の様子と合わせ甲斐国初の浅間神社建立までの過程は比較的詳細に記録されている。

※正史で確認できる富士山噴火の最初の記録は天応元年(781)である。

  • 浅間神社建立までの背景

『日本三代実録』の貞観6年5月5日の記録に

駿河国言。富士郡正三位浅間大神大山火。其勢甚熾。焼山方一二許里。光炎高廿許丈。大有声如雷。地震三度。歴十余日。火猶不滅。焦岩崩嶺。沙石如雨。煙雲鬱蒸。人不得近。大山西北。有本栖水海。所焼岩石。流埋海中。遠卅許里。広三四許里。高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。

とあり、駿河国側が富士山の噴火を報告している。

『日本三代実録』貞観6年7月17日の記録に

甲斐国言。駿河国富士大山。忽有暴火。焼砕崗巒。草木焦殺。土鑠石流。埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯。魚鼈皆死。百姓居宅。与海共埋。或有宅無人。其数難記。両海以東。亦有水海。名曰河口海。火焔赴向河口海。本栖剗等海。未焼埋之前。地大震動。雷電暴雨。雲霧晦冥。山野難弁。然後有此災異焉。

とあり、今度は甲斐国側が噴火の被害を報告している。こうやってみると噴火の報告は甲斐国でかなり遅れているが、それほど被害が大きかったのだと解釈されることが多い。

このとき「セの海」が分断され、現在の「精進湖」と「西湖」が形成されている。つまり元はくっついていたわけであり、甲斐国の地理を一変させるほどの噴火であった。

『日本三代実録』貞観6年8月5日の記録に

下知甲斐国司云。駿河国富士山火。彼国言上。決之蓍亀云。浅間名神祢宜祝等不勤斎敬之所致也。仍応鎮謝之状告知国訖。宜亦奉幣解謝焉。

とあり、中央側から甲斐国に「駿河国が亀ト(きぼく)を行い富士山の噴火の原因をつきとめたところ、浅間明神の禰宜・祝らが斎敬を怠ったためであったと言上してきたので、駿河国司に浅間明神に鎮謝するよう告知した。したがって甲斐国も駿河国の浅間明神に解謝せよ」と言った。

この記述から「駿河国に浅間神社は存在するが、甲斐国にはこの時点で存在していない」ということは明白である。この事実は非常に大きく、浅間神社の由来を駿河国に限定することができる。またこの「浅間明神」については、富士山本宮浅間大社を指すとされている。文中にある「浅間名神祢宜祝等」とは現在の富士山本宮浅間大社の神職を指すのである。

『日本三代実録』貞観7年12月9日の記録に

勅。甲斐国八代郡立浅間明神祠。列於官社。即置祝祢宜。随時致祭。先是。彼国司言。往年八代郡暴風大雨。雷電地震。雲霧杳冥。難弁山野。駿河国富士大山西峯。急有熾火。焼砕巌谷。今年八代郡擬大領無位伴直真貞託宣云。我浅間明神。欲得此国斎祭。頃年為国吏成凶咎。為百姓病死。然未曽覚悟。仍成此恠。須早定神社。兼任祝祢宜。々潔斎奉祭。真貞之身。或伸可八尺。或屈可二尺。変体長短。吐件等詞。国司求之卜筮。所告同於託宣。於是依明神願。以真貞為祝。同郡人伴秋吉為祢宜。郡家以南作建神宮。且令鎮謝。雖然異火之変。于今未止。遣使者察。埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮。垣有四隅。以丹青石立。其四面石高一丈八尺許。広三尺。厚一尺余。立石之門。相去一尺。中有一重高閣。以石構営。彩色美麗。不可勝言。望請。斎祭兼預官社。従之。

とあり、噴火から1年半経過し、甲斐国八代郡に浅間明神祠が建立され官社に列し、祝や祢宜がおかれ祭が行われることとなったと記している。

『日本三代実録』貞観7年12月の記録に

令甲斐国於山梨郡致祭浅間明神。一同八代郡。

とあり、山梨郡にも浅間神社が建立されている。つまり富士山噴火により「八代郡と山梨郡」にそれぞれ浅間神社が建立されているのである。

これら一連の動きについて、「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」では以下のように分析している。

当時甲斐国は中国であり、駿河国は上国であった。(中略)この時期に甲斐国は国力を増進させていることがわかる。甲斐国府の移転もそれと関連しているという指摘もある。そこで、甲斐国司や其の配下の郡司らは、富士山噴火のパニックを機に駿河と同じ浅間神を祀る神社を造ること、それも他に類のない壮麗な石造の社にしつらえて、力量を誇示し、この神の加護を得て甲斐の国土の安全をはかること、(中略)駿河国と互角の国になる、という政治的意図もあったであろう。
としている。

  • 八代郡の浅間神社はどの浅間神社を指すのか

甲斐国初の浅間神社は、『日本三代実録』では八代郡に建立されたことを示している。『和名抄』によると、国司が勤務する国府は八代郡であったという。つまり甲斐国の中心は八代郡であったということになる。その八代郡であるが、この時代はある同一の場所でも郡の所属は変移しているという事実がある。そのため、郡の範囲としては計りがたい部分がある。例えば現在の南都留郡の一部も、この時代は八代郡に属していたと考えられている。

また『日本三代実録』貞観7年12月9日条の「郡家以南作建神宮」という記録は注目される。これは「八代郡家の南方」という意味であり、八代郡の中でも南方の位置に建立されたことを示している。そうするといっそ「現在の南都留郡辺り」は無視できない。多くでは、以下の3説が有力視されている。

  • 一宮浅間神社(甲斐国一宮)
  • 市川大門の浅間神社
  • 河口浅間神社

また「埋剗海千許町。仰而見之。正中最頂飾造社宮」という記録も無視できない。「湖を埋めた地点より千町程離れたところにあり、仰ぎみると富士山の山頂を背にして浅間明神祠がある」と言っている。富士山から近いとも遠いともどちらもとれるような印象であるが、仰ぎ見るという表現はあまりに遠い場所というわけでもないと思える。中世以降の言い方であるが、いわゆる「国中」(甲府盆地)辺りでは明らかに富士山は隠れており、「仰ぎみる」という状況にはないと思える。また市川大門も富士山からみて西方向に遠く、仰ぎ見るという状況にはないと思える。そうすると、個人的には「河口浅間神社」が有力に思える。実際最近は「河口浅間神社説」が有力視されてきています。逆に「北口本宮冨士浅間神社」という説はほとんどない。そもそも北口の浅間社が形成されたのは16世紀以降と考えられている。

  • 参考文献
  1. 菅原征子,「富士山噴火による甲斐国八代郡浅間神社の創建」『シャーマニズムとその周辺』,第一書房,2000

2013年4月28日日曜日

紙本着色富士曼荼羅図を考える

以下は、奈良市矢田原組合所蔵の富士曼荼羅図である(奈良市指定文化財)。


江戸時代中期に作成されたものとされ、表口を描いている。「絹本着色富士曼荼羅図」の作成時期などと比較すれば時代はやや下るが、個人的にはそれでも比較的早い例に思える。例えば多く残る富士山関連の絵図(曼荼羅図など信仰関連)は富士講関連のものが多く、富士講は江戸時代中期以降に成立したものなので、作例として時代は大きく下っていることが多い。しかし当曼荼羅図はそれに該当しない。またそれら曼荼羅図が大和国に伝わっているという事実は大変興味深い。それは当地に表口関連の信仰があったことを示すためである。全体としては、位置関係が大きくデフォルメされている印象がある。

  • 富士山本宮浅間大社
下に描かれる海は駿河湾であるが、具体的にどこを指すかは推定し難い。ただその上の円上の水場は湧玉池であると思われる。従って、その上の社は富士山本宮浅間大社に比定できる。

富士山本宮浅間大社

  • 村山
位置関係としてやや不自然にあるのが以下の社である。ただ竜頭滝を示すと思われる水場があるため、これは富士山興法寺に比定できる。

富士山興法寺

上の場所が富士山興法寺だとすると、以下の場所が何を指すのかはいっそ不明となる。村山であると思えるが、「すやり霞」により大きく逸脱した場所を指していることも考えられる。


この社より上は、すべての道者が杖をもち登山を行なっている。中宮八幡堂などの建造物を示したのだろうか。


この社より上の道者は松明に火を灯している。このことから、上の図の場所との時間的差異や距離感を演出しているように思われる。また「絹本着色富士曼荼羅図」では大日堂と推定される建造物より上の道者が同じく松明に火を灯し登拝を行なっている。このことから、以下の社は大日堂を思わせる。



山頂である。阿弥陀三尊が描かれており、山頂の神聖さを示している。また、登拝路の頂上に鳥居を描いているのは特徴的に思える。「登拝路の終着点に神社が位置する」という概念を明確に示している。

山頂の阿弥陀三尊

当時はまだ「浅間神社奥宮」ではなく「富士山興法寺の大日堂」として存在していたはずである。その当時に描かれた曼荼羅図で鳥居が描かれているという事実は大きい。と同時に、詳細な作成時期の分析も必要と思える。

全体としては位置関係などにデフォルメされた印象を強く感じ、当地に知見のない人物が描いたように思える。ただ全体的には村山に重きが置かれているように感じるため、村山修験と関わりのある人たちが背景にあると思われる。


  • 参考文献

  1. 富山県「立山博物館」編,『立山・富士山・白山みつの山めぐり : 霊山巡礼の旅「三禅定」 : 富山県「立山博物館」平成二十二年度特別企画展』,2010年

2013年4月23日火曜日

県指定富士浅間曼荼羅図を考える

富士曼荼羅図は複数が現存しているが、その中でも「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は著明である。しかしその次を上げるとすれば、やはり以下の富士参詣曼荼羅図であろう。

富士参詣曼荼羅図

この県指定富士参詣曼荼羅図は「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)と同様室町時代作と考えられており、また同じく絹本着色である。以下、この県指定富士参詣曼荼羅図について取り上げたい。また当曼荼羅図について詳細に検討している文献に「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」(大高康正)がありますので、そちらをベースに書いていきたいと思います。

この富士曼荼羅図は駿河国の現在の富士山本宮浅間大社を中心として描かれたものであり、それは湧玉池が大きく描かれていることからも明確である。他「清見寺」(+関所)「富士川」「駿河湾」「三保松原」などが描かれており、この点で言えば重要文化財指定富士曼荼羅図と広い意味での構成は同様である。しかしこの曼荼羅図において特筆すべきは、本宮を主体とし、また本宮と関わりがあると考えられる要素が広く散りばめられていることである。また本宮をスケールアップしつつも、遠くに位置するはずの「清見寺」などが遮るものなく下部に位置し、富士川が真ん中を横断する構造は絹本著色富士曼荼羅図よりデフォルメされている印象は非常に強い。

大高氏は本宮の社殿左右にある「棕櫚の木」に着目している。

浅間大社と棕櫚の木と神官
棕櫚は富士氏の家紋であり、この関係は注目である。棕櫚は「神霊の宿る葉として昔から尊ばれた」(『姓氏・地名・家紋総合事典』)と言われていることから、強いメッセージ性を感じるものである。

また同稿では「境内には道者と烏帽子を被る神官と思しき人物の二種しか描かれていない」とある。そして「本宮の聖域性が強調されている」としている。

富士山本宮浅間大社の神官
元画像が悪く見えにくいが、これが「烏帽子を被る神官と思しき人物」である。本宮の神官(のうち上級社人)を絵で記したものは他に無いように思える。個人的には神官が3人という点が気にかかり、大宮司・公文・案主(つまり富士氏)を指す可能性も考えたい。

また神官から上の部分をみると巫女が描かれており、これを「国指定本の富士山興法寺にみられたものと同様で、ここが村山であることを示していよう」としている。国指定本とは、重要文化財指定の曼荼羅図を指している。また「滝と橋」の図も興味深い。

竜頭池から流れい出る水
これは「竜頭の池」から流れでたものとしている。また左方向には「道者が弓矢を射る様子」があり、以下のように説明している。

本宮近辺の大字阿幸地にも「矢立」という小字が残っており、吉凶を占うということが目的の矢立の習俗は、各所で頻繁にみられたのであろう。

阿幸地は「悪王子」から来ている。「浅間大菩薩縁起」(滝本往生寺所伝)などの富士山縁起には、山頂の水精ケ岳に悪王子が祭られて「悪王子ケ岳」とも呼ばれ、末代ゆかりの霊地とされていたようである(「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』P123)。

  • 背景
大高氏は作成主体は浅間大社の社人衆にあったとし、特に勧進活動に関係する宮崎氏などではないかと想定している(宮崎氏については「社家町としての駿河大宮」を参照)。そして作成時期については十六世紀後半を想定しているという。当時の本宮の情勢などを大きく加味しているようだ。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「富士参詣曼荼羅再考-富士山本宮浅間大社所蔵・静岡県指定本を対象に-」,『絵解き研究 18』, 2004年
  2. 丹羽基二,『姓氏・地名・家紋総合事典』,新人物往来社,1988年

2013年1月1日火曜日

浅間大社と富知神社

「富知神社」は富士宮市朝日町に位置する神社である。この神社の特筆すべきはその「名称」と「伝承」である。まず「名称」についてであるが、「富知」という名称は「富士」との関連性を考えなければならない。大きく2つのパターンが考えられ、①「富士」の元の表記・呼称②「富士」の派生の2つが考えられる。どちらかは不明であるが、どちらかであろう。

「富知神社」の伝承を間接的に示す資料はいくつかあるが、まず『古史伝』を挙げてみたい。『古史伝』は国学者として著明な平田篤胤が記したものであるが、そこに「フクチ」への考察が記載されている。



ここでは富士と「フクシ(ジ)」との関係について細かく記している。その流れの中で「富知神社」が出てくる。


「福地権現」と言われる所以として、富士氏に伝わる古記に「福地明神」とあるからだとしている。富士氏はもちろん浅間大社の富士氏のことである。その富士氏の「富士民済」が書いた『富士本宮浅間社記』の記述は重要である。富士民済は第四十一代富士氏当主であり、時期的には江戸時代中期である。「安永の論争」に関わる人物であり、富士山本宮浅間大社の富士山頂の管理・支配はこのとき揺るぎないものとなった。

『古史伝』にある「富士氏の家なる古記」と『富士本宮浅間社記』は同一、または『富士本宮浅間社記』の記述の元となる史料と同一と思われる。双方とも江戸時代によるものなので、そこで「古記」と記すということは、その記述の元となる史料はあったと考えるのが自然である。



『富士本宮浅間社記』では「福地神社の位置した場所に浅間神社が遷宮した」としている。この記述に従えば、元は現在の浅間大社の位置(富士宮市宮町)に富知神社(富士宮市朝日町)が位置していたことになる。たしかに距離的には隣接していると言える。しかしながらあまりに異なる時代の話であるので伝承の域は出ず、真偽は全く不明である。ただしこの記述は、浅間大社の成立を考える上で大変興味深いものである。

追記:
富士山本宮浅間大社の建立を伝える史料として『富士本宮浅間社記』があり、また大同元年(806)に坂上田村麻呂が建立したと記されている。この記述は同社記が初出であると思われていたが、そうではないようである。

元禄10年(1697)の富士山大縁起(富士市立博物館企画展図録『富士山縁起の世界―赫夜姫・愛鷹・犬飼―』のうちNo.41)に

平城天王御宇大同元年丙戌年、樓金銀、建立社頭、奉請浅間、今大宮是也

とある。これは大同元年の富士山本宮浅間大社の建立を指す。そして同記録が成立したのは元禄10年(1697)であるので、それより遡ることができると言うことが出来る。

  • 参考文献
  1. 遠藤秀男,「富士山信仰の発生と浅間信仰の成立」『富士浅間信仰 』P7-11,雄山閣出版,1987年
  2. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(1973年版)P609,名著出版
  3. 平田篤胤 ,『古史伝』三十一
  4. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995

2012年10月17日水曜日

吉田御師の北口本宮冨士浅間神社掌握の過程

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」にありますように、現在の北口本宮冨士浅間神社については、戦国期において初めて浅間社が建立されたと考えられている。一方江戸時代、とくに江戸中期以降は吉田御師との関係が綿密である。御師によって掌握されていると言って良い。戦国前期においては浅間社が存在していなかったばかりか、吉田御師と神社との関係も薄いものであったというのに、江戸時代中期にはこのような関係が生まれている。つまり、この短期間で非常に大きな変移があったと言える。

といっても、同じく郡内の富士御室浅間神社はまた性格が異なる。こちらは古来より浅間社として成立してきた神社であり、御師とも強く結びつきがあった。御師から神職が選ばれていたわけであり、表裏一体とも言える。そういう意味で、北口本宮冨士浅間神社とは性格が全く異なる。北口も戦国時代、御師が神務に関わっていた部分は認められるが、それは富士御室浅間神社と比較すればその要素は圧倒的に少ない。

北口本宮冨士浅間神社の変化を考えると、当神社が御師により支配されていったと考える方がすんなり理解がゆく。

元亀3年の「宜吉田屋敷割帳」に「大鳥居祢宜」や「下祢宜」と記されている。「吉田」と「大鳥居」ということから北口の祢宜(神職)の屋敷と解釈されるが、「浅間祢宜」と評されていない。これについて「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」ではこのように述べている。

なぜ浅間祢宜と言わなかったのであろう。これについては、次のように推定される。永禄四年に、武田信玄が社殿を造営する以前には恐らく、ここには社殿といえるほどの建造物はなく、大鳥居内は富士山遥拝の神域とされ、その中に小祠くらいはあったかもしれないが、注連張を設け、そこで富士に向かって祈願、祈祷が行われていたのではないであろうか

これは「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」で記した笹本正治氏の解釈とも繋がる。しかも戦国期の文書では「諏訪祢宜」と見えるのである。つまり、この時代(戦国時代)の北口社の中心人物は諏訪祢宜であったのである。というより、浅間祢宜が存在していなかったわけである。

資料1
明暦2年(1656年)に「御師職分についての訴状」がある。これは浅間社から御師に対して、境内の掃除や灯明番等において怠惰のなきようにと通達したものである。そしてその中で、宮の掃除や番は祢宜の職分であって、御師の職分ではない旨を訴えている。これは、浅間社の神職が御師に対して抵抗を示していたことを表している。時代が下るに伴い御師の介入が大きくなり、それに抵抗感を感じているわけである。御師による北口社支配の初期段階と言ってよいだろう。

宝永年間に北口社の祢宜「小佐野若挟」は、宮の支配権は神職に有りとして、御師の自由な祈祷を妨げようとした。それらに対する御師の訴状(宝永5年、1708年)に「祢宜の神社支配についての訴状」がある(資料1)。この中で、(御師の主観による)神職と御師の職分について記している。そしてその中で「神社の最も重要な祈願・祈祷は御師が努め、日常的な管理は祢宜が受け持つべき」とある。つまり御師たちは、神職より御師が祈願・祈祷を行うにふさわしいとしているのである。本来祈願・祈祷というのは神職が行うものであるので、御師の主張はかなり域を出たものと言えるだろう。

つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。

これらの流れを文献1が取り上げ帰結を記しているが、その解釈を要約すると「御師の解決法は、本殿以外の社殿の一部を御師の祈祷所として利用することを望む内容であるから、本殿の利用までは望んでいない以上御師が後退した形である」としている。しかしこれは神職の優位とは言い難い。そもそも北口は、御師が掌握していたものでは全くなかった。その中でここまで掌握されかけているのである。つまり、着実に御師の力が増しているのである。ただし文献の中で「神社に参拝する道者は、すべて御師を経由するわけであるから、御師との強調関係を簡単に失うことはできない」とある。たしかに道者は御師を経由して参拝しており、神社としては道者という最大の参拝者を失うわけにはいかない。その後ろにいる御師とは、協調関係は失うことはできなかったのである。

ここで御師はさらに神社との関係を深めるため、大きな動きに移るようになる。それは、「御師が神職になる」という選択である。これはどちらかというと、富士御室浅間神社のシステムである。しかしそこで「伝統的な体制に留まろうと考える人」と「御師」という2つに分かれることとなる。そこで争論が生じるようになる。

「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。

神位、神幣新規申請についての書状
この内容によると、御師たちは「浅間大菩薩」ではなく「浅間大神」という神号を使用したことなどを不快に思っているようである。しかし本当のところは、相談せずにこのようなことを実行したことに納得がいかなかったという話のようである。また御師たちは吉田家をよく思っていなかったので、吉田家を介して行なったことに不満があったのである。

そして訴訟された側はこのような主張をしている。

答書
つまり「橘屋中務」「鶴屋新助」といった御師は、「神位、神幣を受けて格式を上げることに専念すべし」という考え方であったようである。この争論は内済によって決められ、「浅間大菩薩とするも、浅間大神とするも、互いに妨げるべきではない」という結論となった。こういう過程を経て、御師が神職となるケースも増えていったようである。御師はその性格上浅間社を推したため、諏訪社は追いやられていき、浅間神社が優位となっていったのだろう。

そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。

論考の中で

御師は、お山の守護者として、神礼の授与社として尊敬を受けたが、富士講とは一線を画する神道家としての性格を持つ姿になったようである

とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。

「このようにみてくると、地元の者の習慣の中には、天地の堺を超えて五合目に登る形態はみられない。頂上まで行くのは夏山を踏む富士講道者のみである」「御師の行動範囲は、道者・構中を出迎える下吉田愛染と浅間神社の裏門との間に限られる

とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。

  • 参考文献
  1. 星野芳三,「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」,『甲斐路』77号,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年

2012年9月22日土曜日

絹本著色富士曼荼羅図を考える

「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は富士曼荼羅図の代表である。参詣曼荼羅図において、特に絹本のもので現存するものはかなり限られており、絹本の富士曼荼羅図は3点しか現存しない(「参詣曼荼羅試論」による)。


「参詣曼荼羅試論」に準ずる

この絵画は狩野元信の壺形朱印があり、また本宮の社殿が浅間造でないことから、多くで室町時代作と考えられている。

壺形朱印(当図の右下)
当時の富士信仰を探るにおいて非常に重要なものである。近藤喜博氏は『神道史学』にて以下のように述べている。

この画家は少なくとも現実に大宮の社地を一度は踏んだことがあり、富士山の縁起や地誌的事を耳にして、筆をとっていると考えている

このようにこの曼荼羅図はデフォルトされた部分とは別に、信仰面においてはリアルな描写がされている。白衣姿の道者が登拝を行う姿、湧玉池にて禊を行う道者、その湧玉池の神聖な湧水の流れ…当時の登山風俗をよく示している。この図の中心にある水辺は「湧玉池」であり、それほど禊を重視しているとも取れる。また道者が火を灯しながら登山をしているため、夜行登山であることも分かる。頂上にある三峰、阿弥陀如来、薬師如来の描写も重要な部分である。「参詣曼荼羅試論」で大高氏は「本図の作成が富士登山信仰を絵解くことに目的があった」としている。富士山は山頂に至るほど神聖とされていたが、本図もそのような意識があったと考えられる。1つ1つの空間を意識させる構成のように思える。

当図は全体で237人の人物が描かれている。子供を除くと男性が209人、女性が22人であるという。道者とそれ以外の居住者が描かれており、各人物が如何様な身分であったかについて「参詣曼荼羅試論」では詳しく説明がなされている。


  • 日輪・月輪


この「日輪・月輪」の組み合わせは、他の曼荼羅図でも確認できる。『太平記』では後醍醐天皇が笠置山で掲げた旗が「日輪・月輪」の意匠であったと記している。

  • 清見寺付近



清見寺と境内の三重塔が描かれている。門前の門については、ほとんどの文献で「清見寺関」であるとされる。「海の東海道」にはこの関所について以下のように説明している。

船に乗った道者の着いたのは「蒲原船関」であろうという指摘があるが(永禄11年、駿府浅間神社文書)、それよりも吉原湊であると考えた方が、より直接的である

つまりここで「清見寺関」「蒲原船関」「吉原湊」の説があると言えるが、やはり「清見寺関」と考えるのが素直なように思える。

他、「船(駿河湾で八隻)」「道者」「海水を汲む者」や「連歌師」などが描かれている。

茶を販売する様子
船にも道者が乗っていることから、地上にいる道者も船でやってきたことを示している。

潤井川で禊をする者(左)
これらの図示から参詣曼荼羅試論では「参詣ルートを意識して描いていることが指摘できる」としている。

  • 富士山本宮浅間大社付近



湧玉池で禊をする道者が描かれており、すべて男性である。

流鏑馬神事
この白馬であるが、参詣曼荼羅試論では「白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう」としている。本宮と流鏑馬の関係を示すものは、文書では「武田勝頼判物」が初見であると思われる。

大宮道者坊
大宮道者坊は、本宮の社人が営む道者坊である。

神官
社人と思われる。

  • 富士山興法寺付近



富士山興法寺の各建造物を示し、拝殿では巫女が舞う姿が見られる。


その前に見える道者数名は女性である。僧とそれに同行する数人の者が居る。また下部の「竜頭滝」には注目である。この中で1名のみ、巫女の前に立つ道者と同様の格好をした人物(女性)が禊をしている。解釈としては「女性でも禊を行なっていた可能性がある」ということになる。


上の僧の格好をした人物とその一行について、「この一行は、村山に文明18年(1486)に来訪した聖護院道興の一行を想起させるものがある」としている。服装が異なり、身分の高い高僧を意図している可能性は高いと思われる。

3名の女性

またこの3名の女性が居る位置より上では女性が見当たらず、これが女性が登拝できる限界点を示している。つまり「女人禁制」である。


また上の図の左の4人は白装束であり、またそれより上はすべて白装束姿であることから参詣曼荼羅試論では「この場所で全ての富士参詣者が白装束に身を包むことが、形式化していたことがわかる」と述べている。

松明をうける道者
また「富士信仰の成立と村山修験」で遠藤秀男氏はこのように説明している。

湧玉池では数人の男が裸で池水につかり、垢離をとっている。その上方には村山浅間が描かれて、ここでも水垢離をとる道者が表現されている。登山者はここから俗界との縁を切り、森林中の踏みわけ通を登り始める

このように「俗界」とそれらとは異なる「聖地」の境界があったとしている。その接点となる場所に浅間神社が存在するのである。ですから浅間神社は「門」にあたると言える。登山道でいうところの起点である。だから浅間神社境内またはそれに隣接する形で必ず禊の場があるし、道者は水垢離を行なってから登山に入ったのである。その世界観を示したのが「富士曼荼羅図」である。また村山に関しては「今川義元判物」にて「村山室中」と表現され、同判物の中で村山を聖域とする旨が示されている。「村山室中」という聖域としての空間があり、そこは世俗とは一線を画す特別な空間であったのである。

童子が道者を案内する様子
「富士信仰と曼荼羅」では以下のようにある。

この仏の世界をわが目で見、自らの体で触れることができるということを説くために、このような「俗界」「神域」「聖地」という三区域に分けた図柄がつくられたのではないかと思われる

この曼荼羅図は富士山信仰を広める目的があり、富士信仰を絵画という形で説いたものとしている。

尚「富士宮市立中央図書館」2階には原寸大のレプリカが展示されているので、興味ある方はどうぞ。

  • 追加部分

この図のいくつかの場所で、後に「追加された部分がある」と指摘されている。そしてそれを「人物図像を追加することによって、駿河国以東、東国方面からの富士参詣者の誘致を意図したのではないか」と説明している。禊に女性の道者が含まれている部分(この部分は追加された部分としている)などは「後に限界点の延長を示した故」としている。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「参詣曼荼羅試論」『参詣曼荼羅の研究』,岩田書院,2012年
  2. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978年
  3. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960年
  4. 平野栄次,「富士信仰と曼荼羅」『聖地と他界観』(仏教民俗学大系3),名著出版,1987年
  5. 若林淳之,『海の東海道』P14-17,静岡新聞社,1998年
  6. 皇學館大学佐川記念神道博物館編,「神社名宝展 : 参り・祈り・奉る : 皇學館大学創立百三十周年・再興五十周年記念特別展」,2012年