この史料について「中世南奥の地域権力と社会」では以下のように記している。
観応元年11月、京において直義が尊氏・高師直らと争っていたころ、関東にあっては直義派の執事上杉憲顕と尊氏派の高師冬らが争っていた。(中略)師冬は、甲斐に逃れて須沢城に拠ったが、翌年正月4日、上杉兵庫助(憲将)が数万騎の兵を率いて攻め、17日落城し師冬は自殺した。(中略)師冬が討たれたことで、上杉憲顕1人だけの執事であったので、基氏の判始めは憲顕の指揮によるもので、正月18日に基氏は憲将に命じて富士大宮司に甲斐の通路を警固させている。ここに関東も直義方の支配するところとなった。
まずここから、富士大宮司はこのとき足利直義方であったことがわかるのである。
また亀田俊和『観応の擾乱』でも
だが、直義がいかに消極的であろうとも、戦況は彼に有利に進行し続けた。(中略)同日夜(註:観応元年(1350)1月16日)、信濃守護小笠原政長も京都の自宅に放火して出京し、直義派に寝返った。つい6日ほど前まで、分国信濃で部下が直義党と激しく交戦していたのにである。(中略)一方、この日(註:17日)は甲斐国須沢城で関東執事高師冬が戦死した。関東地方は上杉氏を主力とする直義派がほぼ制圧した。
と記される通り、このとき関東は直義派が支配する状況であった。また「中世南奥の地域権力と社会」に
11月12日に上杉能憲が常陸で兵を挙げ、12月26日、義房が師冬方から基氏を奪い返そうとしていたころ、駿河国府中で義房の家人等は尊氏方の景宗らと合戦を行っていた。景宗は、狩野孫左衛門尉、石塔氏家人らと散々の合戦を行い、軍忠に励んでいた。そして義房は、12月15日(註:石塔義房のことで観応元年)、伊豆国宅郡(田方郡)の地を三島社神社盛実代頼に還付することを守護代に命じ、翌2年2月22日、重ねて命じて光頼に交付し、なおも3月27日に共料所として宅郡の地を交付している。このことから、義房が伊豆国の守護であったことが知られる。
とある。富士大宮司は駿河国富士郡の領主であり、また伊豆守護が直義方の石塔義房であったことを考えると、河東の地(富士川以東)は直義方が支配するところであったと見てよい。しかし府中には今川氏がおり伊達景宗が直義方と交戦していることを考えると、富士川以西はまだ尊氏方の勢力の方が大きかったと考えられる。そういう意味では、富士氏の本拠である富士上方は緊張状態にあったと言えるのかもしれない。
富士大宮司は富士氏の筆頭であるが、このとき「警固を命ぜられている」という事実は大変重要である。つまり「武力を保持していた」ということの証左であり、それは南北朝時代にまで遡ることが出来るのである。
「甲斐国通路」は駿河国から甲斐国へ繋がる街道のことであるから、まず「中道往還」か「駿州往還」が考えられる(当時そのように呼称されていたというわけではなくそれに準ずるもの)。
武田勝頼書状 |
上のものは天正8年(1580年)に比定される文書で(「駿州往還と富士宮市内房の歴史」を参照)、南北朝期とは時代を著しく異にするものであるが、南北朝期も甲斐と駿河の境は「本栖」「河内」であった。本栖が「中道往還」であり、「河内」が「駿州往還」なのである。第一義的にはこれらが考えられる(個人的には中道往還の方であると考えている)。
また「相催庶子等」についても重要である。この部分について「戦国期今川氏の領域と支配」は
観応2年(1351)正月18日、観応の擾乱に際し、富士大宮司が上杉憲将から甲斐への交通路の警固が命じられており、その軍事力は「相催庶子等」と明示されている。この頃からすでに国人領主としての活動が開始されている。
と説明している。富士大宮司の直系以外の一族(庶子)も武力を保持していたわけであり、ここに重層的な武力構造が認められるのである。これが観応2年(1351)の段階で認められるという事実は、大変重要であると言えるだろう。
同年12月、富士上方に隣接する庵原郡内房・桜野の地で尊氏軍と直義軍は衝突し、尊氏方の勝利となる。その後の翌年2月、直義は没することとなる。この一連の合戦記録で富士大宮司が出陣している様子は無い。
参考としてであるが、『太平記』の「笛吹峠軍事」に「棕櫚の葉」(旗)が出てきており、これが富士大宮司の馬印・旗印ではないかとされることもある。しかし桜野の戦いにおいて姿が見えないことから、軍勢を率いて交戦する程の武力はまだ保持していなかったと考えている。
- 参考文献
- 渡部正俊,「石塔氏小考―義房と子息頼房・義基」『中世南奥の地域権力と社会』,岩田書院,2002
- 亀田俊和,『観応の擾乱』,中央公論新社,2017
- 大久保俊昭,「今川氏と宗教」『戦国期今川氏の領域と支配』,岩田書院,2008
- 山田敏恭,「高一族と上杉一族、その存亡を分けた理由とは?」『初期室町幕府研究の最前線』,2018