2012年8月19日日曜日

富士山のウソ

世界遺産登録に向けた活動が高まってきているようで、富士山の歴史について取り上げる場面も多く見られるようになってきています。

しかしながら大きな誤解や語弊のある表現も多く見られ、その表現に驚いてしまうことも少なくありません。今回、世間で多く勘違いされていることや勘違いされやすい部分を重点的に取り上げ、説明していこうと思います。5本立てです。


  • 「富士」が富士山から由来すると示す根拠が実は全く無い

富士山の語源」にて「そもそも地名と山の名称どちらが先につけられると思いますか?」と投げかけました。普通に考えて、地名と山名では地名の方が先に付くわけです。『平城京二条大路木簡』の天平7年(735年)の木簡3点に「富士郡」とみられ、非常に古来から富士郡が存在したことが証明されています。そしてそんな中、平安時代の『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とあり、富士山という名は富士郡から由来すると記されているわけです。ですから学術的には、富士山は富士郡から由来すると考えられています(少なくとも史料上からそう言わざるを得ない)。氏族名が富士である「富士氏」も、富士山から来ているか分からないわけです。むしろ「富士郡」から由来していると考えるべきでしょう。そもそも富士氏が誕生した時代、「富士山」という名称が存在していたかすら分かっていないのである。逆もそうです。


  • 富士講は江戸時代より前はそもそも存在していない

これをすごく勘違いしている人が多い。もっというと、富士講の隆盛は1730年以後と言われているので、江戸時代初期などほとんど成立していなかったものと考えて良い。角行が富士講を成立させたわけではないのに、そのように勘違いしてしまうからでしょう。最近の本や論文では(昔からそうだけれども)、富士講が江戸初期から成立していたと記すものはほとんどありません。また、江戸時代以後富士信仰が盛んになったという表現もおかしい。たしかに民衆により広く定着したのは江戸時代以後であるが、歴史書などから古来より富士信仰が定着していたことは知られています。


  • 歴史的に「静岡vs山梨」という構図が成り立っていたわけではない

これは本当に悪意しかないように思えるのですが、別に「静岡vs山梨」であったわけではない。山梨の地域同士も道者を奪いあったり、静岡の地域同士も争ったりしていたわけです。そして富士山の争いといったら普通これを指すというものに「元禄・安永の争論」があります。これは須走(駿河)からの動きにより須走と大宮(駿河)間とで勃発した騒動なのですが、その争いの中で吉田(甲斐)も少し言動を加えたりしています。この駿河の地域同士が中心であった争いを、大きくドラマ化させ「山梨と静岡が争っていたぞ!」と言っているわけです。実際根拠として示されるのはこの「元禄・安永の争論」なのですが、蓋を開ければそのような事実ではないのである。なぜそんなにも争っていたことにしたいのかがよく分かりません。


  • 富士山の神=コノハナノサクヤビメという考えは江戸時代以降

この誤解が非常に多い気がします。よくあるのは「〇〇年に浅間神社が建立され、コノハナノサクヤビメが祭神とされてきました」というものである。でも実際は江戸時代にコノハナノサクヤビメが富士山の神として祀られるようになったのであって、これは近世以後の現象にしか過ぎないのです。つまり平安時代とか鎌倉時代とか戦国時代の話のときに、コノハナノサクヤビメを持ち出すのはおかしいわけです。


  • 村山の時系列の把握がなされていない

村山は富士信仰の各拠点の中でも修験道の地として有名である。そしてその関係で聖護院との関係が深い。しかしながら村山というのは、『地蔵菩薩霊験記』にもみられるように富士山麓の各地域の中でも早期から深い信仰が成立していた地域でもある。ですから時系列別の把握が重要となってくるが(富士講のように近世以後ではない)、そこがごっちゃになってしまう。よくあるのは「村山は◯世紀から修験の地として栄えてきた…」といい、「聖護院が〇〇を行なっていた…」と関連付け、なぜか「◯世紀から〇〇が行われていた」と結んでしまうことである。聖護院の例は一例であるが、例えばこの場合で言ったとき、村山が聖護院と関係を持ったのは15世紀以後なので、◯世紀からそれらが行われてきたわけではないのである。これはコノハナノサクヤビメの例と似ていて、近世の出来事を古来からの現象と間違えて考えてしまうことでもある。村山は近世以後形態を大きく変化させているため、棲み分けする必要性がある。

あと「表富士・裏富士」などの件も世間では昔から言い争っていたことにされていますが、史料からどちらが裏富士と称されていたかは既に知られています。学術的にはそんなことは分かりきっていて、議論するまでもないというのが事実なのです。

2012年8月16日木曜日

富士市の吉原地区に残る富士山信仰跡

富士山東泉院の成り立ち」にて、富士市エリアへの富士信仰の広がりを説明しました。富士市の旧吉原地区、特に鈴川エリアというのはこれらが最も明確にみられるエリアであるように思える。つまり、富士信仰の広がりの痕跡が明確に認められるのである。

富士山本宮浅間大社の古来の祭祀に「浜下り」なるものがある。『浅間神社の歴史』にはこのようにある。
身禊の神事である。鈴川の海浜にて執行するための浜下りの名がある。神職一同身禊し畢って、大宮司・公文・案主は富士丘社に詣づ。正鎰取祓を修す。次にあぢ神に詣で式を終る

富士大宮司・公文・案主は浅間大社のTOP3であり、富士氏である。つまり富士家が自ら鈴川に赴き、鈴川の海浜にて禊を行なっていたわけである。自ら赴いていることから、優先度の高い重要な神事と考えて良い。またその後も「富士丘社」や「あぢ神」などの神社で神事を行なっているといい、そのような慣例があったと言える。

ここにある「あぢ神」というのは、「阿字神社」(富士市鈴川町)のことである。


阿字神社およびこの周辺は大変興味深い土地であり、不明な点は多いが「見附宿」があったと言われる地である。吉原宿(初期)の前身ともされ、長きにわたり宿場町としての様相を呈していた。

浅間大社と阿字神社とで関係が深いことは、『駿河志料』の記録でも分かる。鈴川の「阿字神社」の項には以下のようにある。

大宮浅間4月11日申日祭祀前海邉祓潔のとき、此社を拝する例なり

つまり、浅間大社の祭事に関わる社と言える。しかし何故鈴川にて神事を行う慣例があったのであろうか。これは当然の疑問である。なぜなら、わざわざ富士山信仰の中心地から離れ鈴川の地で神事を行う必要性が全く見当たらないからである。そして、鈴川との接点を見出すことが難しい。

これを野本寛一氏(民俗学者)はこう説明している。

富士山本宮浅間大社の神池である湧玉池の水が神田川を流れ、潤井川を経由し海に注ぐ。その地点が海岸であり砂山であって、浅間大社と関係が深いことが挙げられる。

この場合、富士山の湧水の流れが行き着く神聖な場所と見られていたという解釈となる。実際に水の流れが信仰となっている例はいくつもみられる。例えば有名な諏訪大社であるが、諏訪大社の御神体は守屋山であって、守屋山に降った雨の恵みが分かれい出る「水分信仰」でもあったとされる。つまり水の流れ・恵みが信仰を形成していたわけである。


富士山の絵画として名高い『絹本著色富士曼荼羅図』(重文)であるが、水の流れが明確に表現されていることが分かる。富士山信仰の絵において、水の流れは無視できない部分であったのかもしれない。


旧来の富士川というのは、現在よりも東側に流域を持っていたことは知られている。その時代の潤井川というのは現在の田子の浦港方面へと注ぐが、その直前で「和田川」「沼川」が合流していた。ここを「三股淵」という。つまり三股というのは「潤井川」「沼川」「和田川」のことを指す。この三股淵に関わる伝説がある。『駿河志料』に「又云、里人の傳へは、古へ此三股淵に毎年往来の女子を捕へ、生贄に奉れり、…」と続く。また『駿河記』にも同様の記述がみられる。いくつか分化はしているが、基本的には「三股淵に大蛇が住んでいて、生贄として女子が捧げられた。その中に阿字という女性がいた」と続く構成である。この伝説に「阿字」とあるため、これらの伝説に関わる神社であることは間違いない(「大高康正,富士山縁起と「浅間御本地」」に詳しい)。

そもそもこの鈴川の地というのは、古代よりこのような性質を持つ地であったのではないだろうか。「スルガ国造とスルガ国」には以下のようにある。

『日本書紀』安閑2年5月甲寅条には駿河国に「稚贄屯倉」を置いたことが見える。『地名辞典』は、富士市赤淵川を古くは生贄(イケニエ)川と称し、富士市大字鈴川付近を牲(イケニエ)淵と称したことから、この付近に比定する。

とある。他に『駿河志料』の鈴川の「富士塚」の項にはこのようにある。

石仏地蔵より南へ二町許、祓潔の場なり。上に云、大宮浅間神事祓潔のとき垢離の後、大宮司社人富士塚に参詣し、御祓正鎰取次第にあり、又富士登山の者汐垢離をとり、石一つ宛かつぎ上、此塚の上に置て祓をす、因て是を富士塚と称す

ここに記される富士塚とは、以下の富士塚(富士市鈴川西町所在)と同様であると思われる。このことから、浅間大社の大宮司(富士氏)はこの富士塚で神事を行なっていたと言える。この関係は重要である。

ここ鈴川一帯は、昔は「砂丘」であったといわれている。そしてそれら砂丘一帯が「香久山」と称されていたと言われる。これらの名残があるのは、鈴川に隣接する今井の「香久山妙法寺」である。以下の写真の石碑の銘にも見られる。



この妙法寺は別名「毘沙門天」と称され、当地ではその方が知られているかもしれない。そうすると、かなり広い範囲を「香久山」と呼んでいたと推測される。寺の山号や地理的な関係から、かなり古くから香久山と称されていたとみて良い気がする。「香久山」というのは、大和三山の香久山から由来する。また妙法寺境内に「香久山稲荷社」があると聞いており実際伺ってみたが、どれが香久山稲荷かはよく分からなかった。


『駿河国冨士山絵図』にみられる海岸沿いのいくつもの山は、砂丘か富士塚と考えられる。鈴川を探ることで、富士信仰の広がりが確認できる。

  • 参考文献
  1. 野本寛一,「富士の信仰と文学-その1-」『地方史静岡第6号』,静岡県立中央図書館 
  2. 『浅間神社の歴史』祭儀の頁
  3. 仁藤敦史,「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』,1992

2012年8月2日木曜日

日本霊異記にみる役行者と富士山

『日本霊異記』(「興福寺本」)

富士山に関する記録として古いものでは、まず『常陸国風土記』が挙げられる。そして次によく『万葉集』が挙げられる。そしてその次に古いものとして、『日本霊異記』(にほんりょういき、9世紀前半成立とされる)が出てくる。『日本霊異記』は、興福寺の僧「景戒」が記した仏教説話集である。

孔雀王の呪法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁第二十八

『日本霊異記』における富士山に関する記述は、どのようなものであるか。それは「孔雀王の呪法を修持して異しき験力を得、以て現に仙と作りて天を飛びし縁第二十八」に記されている。この部分を簡単に説明する。前置きのみ書いておくと、優婆塞(役行者)が朝廷の命により伊豆の島に流されている…という設定です。

昼は勅命に従い島内(伊豆)にて修行した。夜は駿河国の富士山に行って修行を続けた。ところが優婆塞は斧やまさかりによる極刑を許されて、天皇のいる都近くに帰りたいと願い、そのために刃に伏して処刑されそうになったため再び危うく逃れて富士山に登った。

ここで、富士山を修験的側面と結びつける考え方が確認できる。そのため、この記録は富士信仰を考えるにおいて非常に重要である。 この記録は古い部類に入るため、その当時の富士山の性格を表す記録として非常に貴重である。

さて「富士山」というのは、「富士山の語源」で取り上げましたように、いろいろな表記がみられます。『日本霊異記』で富士山は「駿河富岻嶺(するがふじのたけ)」と記されています。

この記録で以下は言えると思います。

  • 富士山と修験を結びつける考えが明確にみられる(富士山と仏教)
  • 「富士山=駿河国」という普遍的認識は9世紀でも同様である

この記録は、役行者の説明としてもよく取り上げられる。ただ、夜伊豆を出発して海を走って富士山に行くというのは、現実的ではない。ですから実際にそのようなことを行なったわけではありません。しかしこれらの記録が信仰性を示すことは、何ら揺るがないのである。

「富士-信仰・文学・絵画」では以下のように説明している。

役行者は実在の人物であったようであるが、その行動自体は伝説化されていたのであり、この『日本霊異記』の記述も史実を示しているとは考えられない。しかし、この時期に、富士を活動の場とする山岳修行が始まっていた事実は示していると考えるべきであろう。

富士信仰を説明する際、外して語ることができない記録と言えそうである。


  • 参考文献
  1. 影山純夫,「富士-信仰・文学・絵画」『山口大学教育学部研究論叢第45巻第1部』,1995