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2025年8月17日日曜日

富士山本宮浅間大社の和歌と湧玉池

最近近世の和歌に接する機会に恵まれたので、本稿では中世の和歌を数首取り上げ、検討していきたいと思う。対象は富士山本宮浅間大社(以下、浅間大社)としたいと思う。

まず浅間大社を題材とした和歌は、潜在的にはかなりの数が認められる。しかし和歌の性質上、断定できないものが多い。以下では確実性が高いものに絞り、内容を検討していきたい。



平兼盛『兼盛集』より。

詞書:
駿河に富士とふ所の池には、色々なる玉なむ湧くと云。それに臨時の祭しける日、よみて歌はする
和歌:
仕ふべき 数に劣らん 浅間なる みたらし川の そこに湧く玉

詞書から感じとれるのは、浅間大社の賑やかさである。臨時の祭りが催される程、人々にとって重要な存在であったのだろう。古い時代の富士大宮の様相を示す一史料と言える。

みたらし川は、現在の湧玉池である。歴史的には上池のみが湧玉池で、下池を御手洗川と呼称されたが、(髙橋2025;p.71)にあるように当初から上池を湧玉池と呼んでいたのかは分からない。

『新勅撰和歌集』の北条泰時の歌には以下のようにある。

詞書:
駿河国に神拝し侍けるに、ふじの宮によみてたてまつりける
和歌:
ちはやぶる 神世のつきの さえぬれば みたらしがはも にごらざりけり

「ふじの宮」は浅間大社のことであり、市名の由来である。(中川2025;p.28-29)によると、「神世のつき」は九条良経の『新古今和歌集』収録歌に拠ったものと推察されている。またその特徴を述べている(中川2025;p.117)。

御手洗川については、紀行文にも確認される。飛鳥井雅有『春の深山路』には以下のようにある。

富士河も袖つくばかり浅くて、心を砕く波もなし(中略)宿の端に河あり。潤川、これは浅間大明神宝殿の下より出でたる御手洗の末とかや。

浅間大明神宝殿、つまり浅間大社の御手洗川の末を潤井川としている。これは現代においても相違ないのであるが、この解像度の高さには驚きを隠せない。

以下は『続後撰和歌集』に収録される、隆弁の和歌である。

詞書:
四月廿日あまりのころ、するがのふじの社にこもりて侍りけるに、さくらの花さかりに見えければ、よみ侍りける 

和歌:
ふじのねは さきける花の ならひまで 猶時しらぬ 山ざくらかな 

(中川1984;p.22)では同集に収録されるもう一首を含め、以下のように論じている。

前者は典型的釈教歌、後者も詠作機会が寓土浅間神社参籠の折である。これよりして、この時期の隆弁は、歌人としてよりも、法印にして鶴岡若宮社別当の法力豊かな僧侶としての側面から人々に認識されていたのではないかと推測され、より直接的には、先述の後嵯峨天皇中宮御産の加持などが、同集への入集を果す機縁の1つとなっているのではないかとも憶断される。

また「時しらぬ」の成語から当歌を取り上げ背景を論じたものに(石田2011)があり、重要な視点である。このように『勅撰集』に浅間大社を題材としたものが複数首確認されるわけであるが、この事実1つとってしてみても、浅間大社の位置づけの高さが垣間見えると言える。

このように相当に認知度が高く、そして特別に神聖視され、この地にて拝することに重要な意味があったのである。湧玉池・御手洗川は「水垢離」を行う場でもあった。慶長13年(1608)の『寺辺明鏡集』には以下のようにある。

同六月九日ヨリ、駿河ヲ立テ、フヂ山上スルナリ。(中略)大宮ト言処ニトマルナリ。先ソコニテコリヲトル。コリノ代六文出シテ大宮殿ヘ参也

『春の深山路』でも「殿」とあったが、「大宮殿」は浅間大社のことである。この「コリ」は湧玉池での垢離であるが、富士登山開始時において垢離をとる風習が明確に示されている。「先」とあることから、本殿に向かう前に垢離を行うことが慣例であった可能性がある。

というのも、同じく近世初期の作とされる御物絵巻『をくり』には以下のようにあるのである。

吉原の、富士の裾野を、まんのぼり、はや富士川で、垢離を取り、大宮浅間、富士浅間、心しずかに、伏し拝み

「富士川で垢離を取る」とあるが、吉原から大宮へ移る/移った場面における内容であることを考えると、これは御手洗川を指しているのではないだろうか(潤井川という可能性もある)。

であれば「垢離→伏し拝み」という手順が確認され、『寺辺明鏡集』と同様の流れと見ることもできる。この一帯での垢離を示す古い部類の史料と言える。

天保10年(1839)『東海道中山道道中記』(諸国道中袖鏡)には以下のようにある。

高しま出口にうるい川かち渡り、冬は橋あり。此川大宮浅間のみたらしより流る。

潤井川が御手洗川より始まるとする記録はかなり多く見られ、またその流れを指して「凡夫川」とするものもある。であるから、上の「富士川で垢離を取り」は凡夫川である可能性もある。

  • 参考文献
  1. 荒木繁・山本吉左右編注『説経節』、平凡社、1973
  2. 中川博夫「大僧正隆弁 : その伝と和歌」『藝文研究 46 』、1984、1-32
  3. 石田 千尋「富士山像の形成と展開ー上代から中世までの文学作品を通してー」『山梨英和大学紀要 10』、2011、1-32頁
  4. 中川博夫「北条泰時の和歌を読む」「北条泰時の和歌の様相」『鶴見大学紀要 62』、2025、25-81・83-131頁
  5. 髙橋菜月「特別天然記念物「湧玉池」の歴史」『富士山学 第5号』、2025、71-79

2025年8月13日水曜日

近世近代移行期の富士氏とその文化環境について

『徳川実紀』のうち「昭徳院殿御実紀」に、富士氏として以下の名が見える。

駿州富士本宮浅間太神大宮司 富士又八郎 

内容は、富士本宮浅間惣社(富士山本宮浅間大社)の修理費捻出のための勧進(三カ国)を富士又八郎に許可するものである。時は安政6年(1859)8月のことである。

この富士又八郎とは、「富士重本」のことである。つまり重本は浅間大社の大宮司であった。富士重本と言えば、駿州赤心隊の隊長であったことでも知られる。(小野1995;p.189)から引用する。

2月(註:慶応4年(1868))に入ると、東海道において戦略的に官軍の重要な一翼を占める尾張藩が、「勤王誘引係」を遠江に送り込んで政治工作を行い、その結果浜松藩の帰順を確定的なものにしたが、この誘引係は浜松の諏訪大祝杉浦大学・宇布見付神主中村源左衛門貞則・桑原真清らにも面会し、神職の協力をも取り付けることに成功した。桑原・大久保・鈴木および日坂宿神主朝比奈内蔵之進は、この尾張藩誘引係に随行して駿河神職の説得工作に従事し、このとき説得に応じた神職を中心として、報国隊と強調して活動する駿河赤心隊が結成されることになる

そして同文献から赤心隊に関係するものを引用し、以下に一覧化する。あくまでも同文献は報国隊に連動したもののみ掲載しているため、赤心隊自体の事跡は別途調べる必要性があることは留意する必要性がある。

出来事
慶応4年(1868)4.25赤心隊と一同に吹上・紅葉山警衛を務める。
          4.29報国隊より27人・赤心隊より10人、御守衛大炮隊=御親兵に抜擢される。
            6.2城中大広間にて招魂祭執行。(中略)報国・赤心両隊神供役を務める。
             6.27 富士亦八郎(赤心隊長)・朝比奈内蔵進等、天朝のため終身奉公を願い出る。
          7.29 大炮隊員,報国隊・赤心隊への復隊を命じられる。
明治元年(1868)9.22 赤心隊員駿河草薙神社神主森斎宮,襲撃され負傷。
明治2年(1869) 6.29 東京九段に招魂社創建

東京招魂社については、以下のようにある(小野1995;p.190)。

6月2日には、戦没者の慰霊を目的として招魂祭が城中大広間で行われているが、この祭祀は、主として駿遠の神職たちが担っており、軍事面以外にも隊員は起用されていたといえよう。このことが、後の東京招魂社創建の前提をなしている


また同文献を読むと分かるように、報国隊の面々は歌会等を通してネットワークを形成していたことが分かる。また古典の口釈などが頻繁に行われていることから、それが国学を背景とするネットワークであったように思われる。

実はこのような国学ネットワークというのは、富士本宮においても脈々と受け継がれてきたものではないのかとするのが、私の見解である。

(小野1995;p.161)に吉田家遠江国執奏社家として「浜松五社大明神」の「森家」が記される。この森家であるが、富士本宮と縁が深い。『浅間神社の歴史』より引用する。

第三十七代信章は遠江浜松五社明神神主森民部少輔の弟で数馬という。正徳5年10月選ばれて信時の第三女に配し、大宮司の職を継いだ。

つまり富士信章は森家の人間なのである。そして妻は富士信時の娘である。ちなみに富士大宮の富士氏は、途中で血脈を維持できていない。一方で関東の富士家は富士信忠以来の血脈は維持している。

この信章であるが、国学者の荷田春満の門人であったことでも知られる。そしてやはり歌を通してネットワークが形成されていたようである。それが分かる史料に『かのこまだら』がある。

『かのこまだら』は享保8年(1723)の奉納歌集であり、北風村盈の発案で沼津の住吉社/沼津浅間宮へ奉納したものである。その冒頭は信章のものとなっているため(上野1985;p.603)、信章は中心的存在であったと考えられる。ここに国学ネットワークを見出すことはできないだろうか。

というのも、北風家にそのような傾向を認めることができるのである。村盈がそうであったのかは分からない。しかながら、国学としての繋がりは見いだせるのではないだろうか。それが前提となったネットワークであったように思われるのである。

以下に信章の和歌を掲載する(上野1985;p.603)(上野1985;p.607)。

さまさまの 山はあれとも 雪白き ふしの姿に くらへむはなし/富士浅間大宮司中務少輔和邇部宿祢信章

白雪の かのこまたらの ふる言も 残るかひある けふのふしのね/富士浅間大宮司中務少輔和邇部宿祢信章

そして信章の国学エッセンスは後の大宮司にも受け継がれた。例えば後代の富士民濟は『荷田御風五十算詩歌』に名が見える。つまり民濟は荷田派に属していたように見受けられるのである。それが更に後代の富士重本にも受け継がれていったと見るのは、やや飛躍しているだろうか。いや、むしろ大きくなっていったと見てもよいかもしれない。

  • まとめ

荷田春満門人であった富士信章は国学を推奨し、それは数代後の大宮司にも受け継がれ、その証左として民濟は荷田派であった。更に数代後には重本の代となるが、駿州赤心隊長を務めた背景として、国学的思想または従来よりのネットワークの関与が想定された。

  • 参考文献
  1. 宮地直一・広野三郎『浅間神社の歴史』
  2. 上野洋三編『近世和歌撰集集成第1巻地下篇』、1985、603-611頁
  3. 黒板勝美編『新訂増補国史大系 続徳川実紀 第三篇』、1991、618頁
  4. 小野将「幕末期の在地神職集団と「草奔隊」運動」『近世の社会集団―由緒と言説』、山川出版社、1995、153-208頁

2025年7月27日日曜日

蔦屋重三郎版元で葛飾北斎画の狂歌本から富士宮市の歴史を考える

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では"狂歌"が1つのキーワードとなっている。そして狂歌本を出版する描写も大河ドラマ内で確認できる。

そこで考えていきたいことに、狂歌に富士宮市を題材としたものは無いのだろうか、ということがある。『往来物』のタイトルにもなっている地であるから、あるに相違ない。

そこで少し探してみたところ、それらしきものが確認されたので、少し検討してみようと思う。その狂歌集は寛政11年 (1799)『東遊』(『狂歌東遊』)である。

葛飾北斎


『東遊』は葛飾北斎画で浅草菴市人撰の狂歌集である。蔦屋重三郎刊であるが、これは二代目である。そして今回挙げたいのは以下の収録歌である。

みくらゐに のほるや不二の 山さくら 大宮口の 花さくやひめ/末広菴長清

狂歌師「末広菴長清」は正木桂長清とも言うようである。(石川2008;p.66-67)には以下のようにある。

小林ふみ子氏のご教示によれば、桂長清は伯楽連、後に浅草連の主要人物の一人として富士見連を率い、末広庵とも称したという。

その小林氏の論稿である(小林2008)にて挙げられている「♦9」「♦10」「♦32」の作品にも名が見える。

では狂歌を見ていきたい。みくらいは=御位で、「さくら」と「花咲く」と「サクヤヒメ」をかけている格好である。17世紀には富士山の垂迹神は木花之佐久夜毘売となっていたため、それが素直に反映されている。

またここでいう「大宮口」とは、大宮・村山口登山道で言うところの大宮口であると思われる。「大宮口」は歴史用語であり、様々な史料に認められる。では近い年代の史料を数点挙げてみたい。

三方に道あり駿河よりのぼる方を大宮口といふ。 相模路より登かたを須走口といふ。(中略)甲斐より登るかたを吉田口といふ。 ー文化14年(1817)/小山田与清『國鎮記』


国学者の小山田与清による著である。富士山の登山口を「三口」で表す、往古よりの王道パターンである。

甲州より登るを吉田口といひ駿州ゟ登ルを大宮口といひ相州より登ルを繕走口 ー文政7年(1824)/十返舎一九『諸国名山往来』

蔦屋重三郎は十返舎一九とも懇意にしていたことでも知られている。これも富士山の登山口を「三口」で表すパターンである。

十返舎一九

勿論もっと古い時代の記録は存在しているが、比較的近い時代のものを挙げてみた。須走口が各史料で「相州」とあるのは、御厨地方(小山町から御殿場市一帯、裾野市の一部)は小田原藩領であったためである。なので宝永大噴火による被害で御厨地方救済に動いていたのは、小田原藩二代目藩主の大久保忠増だったわけである。

ところで『國鎮記』や『諸国名山往来』には「村山口」の文言が見えない。では村山口は存在していなかったのだろうか?…もちろん否である。

つまりこれらの記述は大宮口(村山口)という意で記しているのである。この事実そのものが、現代において「大宮・村山口登山道」と呼称される根拠となるものと言える。勿論、大宮→村山→富士山という登拝様式が登山記等から認められる事実からもそう言えるのではあるが。

また絵図においてもこの現象は同様であり、小泉斐『富岳写真』の「冨士山南面従吉原馬到十里木村全図」は麓から山頂にかけて「正面大宮口」の文字で埋められている。これは当の本人が富士登山を行っている。これも村山口が存在していなかったというわけではなく、大宮口(村山口)という意で記していることになる。

この『富岳写真』であるが、文献により解説が異なり判然としない。(羽黒町1994;p.9)には以下のようにある。

小泉斐は寛政7年、立原翠軒ら水戸藩士5人とともに富士登山を行っている。このとき登山の有り様を写生して『富士山画巻』をものにした。(中略)小泉斐が弘化2年、80歳の時に上梓した『富岳写真』一巻は、天覧に供された『富士山画巻』より数十図を選んだもであった。

このようにあり、『富岳写真』の作品は寛政期まで遡る潜在性を有しているように見受けられる。一方(栃木県立美術館, 滋賀県立近代美術館編;p.136)には以下のようにある。

寛政6年(1794)、水戸藩士大場維景は富士山登頂を果たした。それに触発された同藩史局の総裁立原翠軒ら5名は、翌7年(1795)、『大日本史』編纂の史料調査のため関西方面に赴くが、その江戸へ帰る途上に富士登山を試みた。(中略)その登山過程の風景をスケッチしたものが《富岳真状》(東京都中央図書館蔵)であり、それを浄写したのが本図(註:富士登岳図巻)である。

また(栃木県立美術館, 滋賀県立近代美術館編;p.138)の『富嶽写真』(富岳写真)の解説は以下のようなものである。

斐が富士登頂を果たしてから50年が経過して出版された版本である。(中略)本図の他、府中市美術館本、東京都立中央図書館本、東京国立博物館本など複数の異本が存在し、それぞれに出版の際の事情が反映されている。奥書には、斐の門生島崎玉淵ら4名が中心となり刊行を企画したことが触れられている。

このように「富士登山の際スケッチしたもの」と「それを浄写したもの」、「後に選定し出版したもの」の存在が明かされており、やはりそれぞれの関係が判然としない。少なくとも、富士登山が行われた18世紀の風景・考えが反映されたものと考えて良さそうである。

19世紀前半になると多くの地誌が著されたので、大宮口や村山口という文言を見る機会が急激に増えてくる。『駿河記』は1820年、『駿河国新風土記』は1834年、『駿国雑誌』は1843年、『駿河志料』は1861年という具合である。

これら駿河国の地誌だけではなく且つ時代が遡る史料においても多く「大宮口」の文言が確認されることから、大宮口の存在は広く認識されていたものと考えられる。狂歌に歌われるに十分な背景があるというわけだ。

また面白い史料がある。文政13年 (1830)の喜多村信節『嬉遊笑覧』に以下のような箇所がある。

「これをかたらひ山の頂にて終らんことをはかるに須山口大宮口等の者ども…」

これも富士山中の描写であって、やはりそこでも大宮口の文言を用いている。このように見ていくと、当時の慣例として富士山頂までを包括して「大宮口」としている例が多く認められることが分かる。

一方、両方の文言を用いて説明している場合もある。例えば以下のようなものである。

此山〔南口 須走口村山口大宮口三道あり〕を表とし… /嘉永4年(1851)『甲斐叢書』

このように駿河国の登山口は「表口」とも称されていた。各史料を見ると、大宮・村山口だけでなく須走口も表口と称されていたことが分かる。「大宮口」「村山口」「須走口」すべてが表口である。

江戸の文化人が、富士山の祭神として木花之佐久夜毘売を認識しており、そして富士山の登山口として大宮口を知り得ていたことを示す一史料といえる。近年、学術面ではない部分で大宮口の認識を急速に失わせようとする活動が確認されるのは、明確に誤った方針であると言える。


  • 参考文献
  1. 黒羽町教育委員会『黒羽が誇る 小泉斐回顧展(図録)』、1994
  2. 栃木県立美術館・滋賀県立近代美術館編『江戸絵画にみる画人たちのネットワーク 小泉斐と高田敬輔』、2005
  3. 小林 ふみ子「江戸狂歌の大型摺物一覧(未定稿)」『法政大学キャリアデザイン学部紀要 5巻』、2008、227-264
  4. 石川了「三世浅草庵としての黒川春村(補遺)」『大妻国文 巻39』、2008、53-67

2023年1月1日日曜日

徳川家康および徳川家臣団と富士宮市・富士市

今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。




徳川家康は、現在の富士宮市域に何度も足を運んでいることが史料から知られる。そして、当地に関わる徳川家康文書も多く確認されている。

しかし今回は各徳川家康文書を見ていくのではなくて、大局的に①「武田征伐後」②「本能寺の変後」③「徳川家康の関東移封後」と大きく捉えていきたいと思う。これらはすべて天正期にあたる。その中で現在の富士宮市で起こった徳川家康およびその家臣団が関わる出来事について考えていきたい。

  • 武田征伐後

天正10年(1582)4月、甲斐の武田氏を滅亡させた織田信長はその帰路で中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと到る。そして同盟者である家康もこのとき出向いている。その様子が『信長公記』に記されている。

織田信長

『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ…

と記す。ここに見える行程を記すと

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

となる。ここで人穴の後に「浮島ヶ原」が出てくるのはおかしいので、地名を誤ったのであろう(※原本要確認)。少なくとも、中道往還を上から降ってきていることは明らかである。また三条西実枝『甲信紀行の歌』の記録と併せて考えると、神野は井出より北部に位置すると思われる。なので「本栖→神野→井出」としても良いように思われる。

大宮を発った後に浮島ヶ原に向かい、その後富士川を超え庵原郡の蒲原に入ったとすれば行程に違和感はないため、実際の行程は

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原

というものであったのだろう。以下では『信長公記』の内容をもう少し見ていきたい。

滅亡へと追いやられた武田氏の領国である甲斐国を超え、信長一行は駿河国に入る。気の緩みからか、神野ヶ原・井出野での小姓たちの自由な行動が記される(ちなみにこの「神野」は『吾妻鏡』にて曽我兄弟の仇討ちが行われた地として記される。『曽我物語』の方は「井出」としている。両方の地名が確認できる点からも重要な記録と言える)。

一行は人穴を見物し、ここに休憩所を設ける。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があったとする。「白糸の滝名所あり」と記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが読み取れる。(この後浮島ヶ原に行ったとある)

また後北条軍の当地でのこれまでの動向を記し、中道往還や駿州往還を進んで大宮の伽藍等を焼き払い、更に本栖方面まで放火したとある。後北条氏が織田方の甲州征伐に呼応して武田領へ進軍したことを示している。「身方地、大宮の諸伽藍を初めとして」とあるが、ここでの「大宮」は「富士大宮」全体を指していると考えられる。

その後の「大宮は要害然るべきにつきて」であるが、"富士大宮は要害の地であるため、その富士大宮に位置する浅間大社に御座所・御陣宿を設けた"という解釈ではないかと思う。浅間大社を要害といっているのではなく、富士大宮という地を要害と述べ、御座所・御陣宿を設けるにふさわしい地であるという解釈が自然であろう。

また、浅間大社にて信長は家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。その後は浮島ヶ原→蒲原へと向かっている。

『家忠日記』によると

天正10年4月11日条: 大宮まで帰陣候
翌12日条: 上様大宮まで御成候

とある。「帰陣」したのは松平家忠一行で、「上様」とは織田信長を指す。つまり『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していると言える。従って、この一連の記述はかなり信憑性が高いと言えるだろう。

  • 本能寺の変後

『家忠日記』天正10年(1582)7月8日条に「家康は大宮金宮迄着候」とある。家康は「本能寺の変」後に不安定となっていた織田領の信濃国へ向かう過程で大宮の「金宮」を通っている。

「金宮」は富士宮市淀師金之宮のことで、永禄12年(1569)12月17日「北条氏政判物」に

一所 よとし  金宮  とかみ

とあることでも知られる。「淀師」「金宮」「外神」が「一所」として記されていることから考えても、現在の富士宮市淀師金之宮を指すと考えてよいだろう。

またここで気になることがある。「上様大宮まで御成候」とあるように、家忠は織田信長のことは敬称で記しているが、一方で主君の家康のことは「家康は大宮金宮まで着候」と呼び捨てにしていることである。松平一族(出身)から見たとき、家康の存在はまだ敬称をつけるに相応しいとは考えられていなかったのだろう。しかしその後は敬称が認められるというので、立場の変化で周辺の受け止め方も変わっていったとみられる。

この年の家康の動きは大変なもので、本能寺の変後の天正10年(1582)6月から7月にかけて大坂→伊賀越→三河→遠江→駿河→甲斐→信濃を移動している。遠江・駿河・甲斐は浜松-掛川-江尻-大宮-精進-甲府と移動しているので、家康は東海道から中道往還に入っていることが分かる。

また『家忠日記』天正17年(1589)8月28日条に「殿様昨日大宮迄御成候」とある。以下で説明する「富士山木引」の最中に家康が富士大宮を通り、甲府へと向かっている。これも、中道往還が該当する。中道往還が重要な街道であったことが分かり、このイメージが重要ではないと思う。

  • 富士山木引

徳川家康家臣団の動きとして特筆すべきものに「富士山木引」がある。以下にその過程を記す。期間が極めて長いため、"木引き→川下し→吉原"の流れが把握できる箇所までを抜粋という形で記す。すべて『家忠日記』に見える内容である。


日時内容
天正17年(1589)7月9日家忠、富士山麓へ木引へ向かうよう指示を受ける
同19日家忠、普請の人夫を大宮まで向かわせる
同年8月3日賀島(現在の静岡県富士市)の舟手が来る家忠は上井出の小屋に到着(賀島の舟手は、おそらく富士川の渡河を意味すると思われる)
同4日家忠は酒井家次の普請組に入る(※前日の情報では井伊直政の普請組に入るとの情報であった)
同5日木引をしたが成果は乏しい
同6日雨のため道作りに留まる
同7日木引きで少し木を出す
同8日木引きを130人規模で行う
同9日木引きを進める
同10日木引きを進める。家忠、松平伊昌と朝比奈十左衛門をもてなす
同11日雨天中止
同12日木引きを進めるも雨降る
同13日雨天中止
同14日雨天中止
同15日木引きを進めるも雨降る
同16日木引きを進めるも雨で中止
同17日大木の調達が必要となったため、平岩親吉と酒井家次の組を動員することとなる。大木の木引きのための道作りを行う
同19日木引きを行う
同20日大木を引く。雨天
同21日木引きを行う。雨天
同22日材木調達。雨天
同23日木引きを進めるも雨で中止
同24日木引きを行う
同25日富士山に雪積もる。105人体制で木引き。
同26日富士山に雪積もる。木を上井出の小屋場に引き出す
同27日材木調達
同28日材木調達。家康が昨日大宮に到着、家忠は甲府へ向かう道筋まで出向いた
同29平岩親吉普請組の大木を平岩親吉と酒井家次の二組で沼久保まで引き出す手筈となり、その道まで引いた
同30日木引きを行う。大木を大き(註:青木に比定)まで引き出す
同年9月1日木引きを行う
同2日木引きを行う
同3日木引きを行う
同4日木引きを行う。沼久保の川へ木を運び入れる
同5日二十町分の材木を川下しした
同6日二十町分の材木を川下しした。夜より雨。
同7日洲に引っ掛かり川下しできず
同8日昼まで雨。雨による増水で木が流れる
同9日水深が浅く川下しできず。陸地を引いて運ぶ。野田衆と信州松尾衆間で喧嘩あり。
同10日木引きを行う
同11日木引きを行う
同12日木を吉原まで引き届けた。そこから舟に届ける。
同13日夜より雨。家忠、大宮へ帰る。
同19日木引きを行う。家忠は保科正直の小屋に陣替。


これらを見ると、駿河国富士郡の各地名が確認される。富士上方が「大宮」「上井出」「沼久保」「大き(青木)」であり、富士下方が「賀島」「吉原」である

松平家忠は9月2日時点では興津に居た。同3日に「賀島の舟手」とあるのは、富士川を渡河したことを示すと思われる。渡河後に北上し、富士上方の上井出に到着したわけである。

松平家忠

8月3日条に上井出の「小屋場」とあるが、同26日条でこの小屋場に木を引き出していることが分かるので、小屋場は木を集めておく場所であることが分かる。

そしてこの木引き事業には有力家臣が参加しており、松平家忠をはじめ酒井家次・井伊直政・本多忠勝・松平伊昌・平岩親吉・保科正直・奥平信昌・菅沼定盈・西郷家員・設楽貞通といった名だたる武将の名が見える。これらは全員富士上方一帯に居たと見てよいだろう。


井伊直政

また天正18年(1590)3月23日にも別件で「天神山」の材木を引いた記録が残るが、この天神山は上井出の山のことである。


天神山

天正18年の2月から3月にかけて富士郡・駿河郡は特筆すべき動向が認められるので、『家忠日記』より内容を引用する。


日時内容
天正18年(1590)2月10日徳川家康、賀島(静岡県富士市)まで到る
同13日松平家忠、吉原(静岡県富士市)の御茶屋の材料担当となる。材木の調達を進める
同14日家忠、吉原への陣替を命じられる
同15日家忠、吉原に陣替する
同16日家忠、御茶屋の材木調達を行う    
同年3月14日家忠の元に豊臣秀吉が吉原まで御成になるとの情報が入ったため、吉原に御陣屋の設営に向かう
同16日家忠、吉原の御陣屋の設営を行う
同18日家忠、材木調達を行う
同19日家忠、吉原の御陣屋を更に拡大させる
同20日家忠、吉原の普請に人員を向かわせる
同23日天神山(富士宮市上井出)にて材木を引く
同24日引き続き材木を引く
同26日豊臣秀吉、吉原に到る
同27日秀吉、沼津に到る
同29日山中城(三島市)を豊臣秀次が攻め落とす

 

ここで何故吉原に陣が敷かれたり御茶屋が設けられたりしたのかという点について、少し考えてみたい。

この天正18年2月というのはまさに「小田原征伐」が開始された時であり、そのために秀吉は東海道を用いて東国に遠征しているのである。そして吉原に御陣屋や御茶屋が設けられたということは、ここを「滞在場所」として想定していることになる。これは吉原周辺が安全地帯の東端に近いためであると思われる。

吉原や沼津が徳川方の領地であり、それより東に至ると後北条氏の手が及んでいるわけである。そのため吉原はその「境目」に位置すると言える。

そもそも吉原は、今川氏と後北条氏との争いの時点で既に「境目」としての位置づけがあったように思われる。例えば「駿甲相三国同盟」の際、武田信玄の長女である「黄梅院」が後北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。

沼津・三島が境目に該当し、そこに近接する吉原も同様の性質があったと思われるのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地に近い役割があったと考えられる。

また「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。「第二次河東の乱」時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。(池上1991)に以下のようにある。

天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである 

しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺(静岡県富士宮市)に着陣。今川軍と武田軍の合流を察した後北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後、後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』は天文14年の様子を以下のように記す。

此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…


とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。この小田原征伐の場合、沼津や吉原が「境目」に該当すると言って良い

富士山木引の話に戻るが、この富士山木引で注目されるのは材木の運搬を富士川を用いて行っている点である。洲に引っかかったり水深が浅く運搬できない日もあったようであるが、富士川水運の早例と言えるであろう。記録から、以下のような手順であったことが分かる。

まず富士山で伐採された材木は上井出の小屋に集められる。


上井出


そして大き(青木)まで引き出す。


青木

そこから富士川流域の沼久保まで引き出し、川下しする。


沼久保


そして吉原まで届けられる。川下しでどこまで材木を運搬できたのかは必ずしも明瞭ではないものの、富士川を用いて運搬を行った事実は読み取れる。と同時に、まだ技術と経験不足を示す内容となっているとも言える。


本多忠勝


このような富士川を用いた水運、すなわち「富士川水運」ないし「富士川舟運」と呼ばれるものは、近世が初例とされることも多い。しかしその解釈は誤りであると言ってよいだろう。公権力が組織的に富士川水運を行っている事例が『家忠日記』から確認できる。


  • 徳川家康関東移封後の富士宮市
天正18年(1590)8月に豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封する。従って、駿河国は豊臣領となった。そこで確認される特徴的な動向に「豊臣秀吉朱印状による寺社領の安堵」が挙げられる。しかも多くが同年12月28日に一斉に行われているという点でかなり特徴的である


豊臣秀吉


それを一覧化する(富士宮市内の寺社に限る、天正18年(1590)のもの)。

石高
富士大宮司・社人領412
富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)380
別当宝幢院122
富士氏公文領77
辻之坊75
北山本門寺50
富士段所与八郎45
富士氏案主領34
先照寺16
大悟庵9
安養寺7


ちなみに富士山本宮浅間大社に関しては、天正19年(1591)に駿府城主「中村一氏」による直判で1077石が安堵されている。一社でこの石高は相当なものである。

中村一氏

これは豊臣秀吉朱印状の380石を大きく逸脱しており、また富士大宮司・社人領の412石で考えても逸脱していると言えるのであるが(松本2020;p.6)、翌年にあえて中村一氏による直判文書が発給されていることから考えると、1077石が正しいのだろう(これらを合わせたものとも考えられる)。どちらにせよ、同社の権威の大きさを感じるものである。

また富士浅間宮の「富士大宮司」「公文」「案主」「社人」「宝幢院」といった神職は分かるが、「(富士)段所」の立場はよく分からないものがある。

これら一連の寺領安堵から、徳川家康の影響力が排除され、豊臣権力が確実に流入していることが分かる。天正期の目まぐるしい変移が感じられるものである。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希(2019),「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』
  2. 松本和明(2020),「駿河国における朱印寺社領成立について」『人文論集』 71(1)
  3. 池上裕子(1991)「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号

2022年5月1日日曜日

吾妻鏡から駿河国富士郡、特に曽我兄弟の仇討ちの地である富士宮市域を考える

鎌倉時代の駿河国富士郡(現在の静岡県富士宮市・富士市)でどのような出来事があったのかということを、『吾妻鏡』は教えてくれる。以下では、『吾妻鏡』にて富士郡の事象として確認できる事柄を一覧化した(※富士郡かどうか定かではないものは一部除く。富士郡とある箇所はすべてを掲載した)。

  • 『吾妻鏡』に見える富士郡の事象

西暦出来事
治承4年(1180)10月14日鉢田の戦い(場所諸説あり)
同20日富士川の戦い(場所諸説あり)
文治2年(1186)6月9日富士領の年貢を早く納めるよう、朝廷より催促される
同7月19日源頼朝、福地社に神田を寄進
文治3年(1187)12月10日富士郡の田所職を橘為茂(橘遠茂の子)が賜る
※橘遠茂については「曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について」を参照
文治4年(1188)6月4日朝廷、富士領の扱いについて子細を調べた上で沙汰するよう命じる
文治5年(1189)7月5日源頼朝、富士御領の帝尺院に田地を寄附する
同11月8日富士郡の年貢である綿が朝廷に献上される
建久4年(1193)5月15日-同30日源頼朝、富士野にて巻狩りを行う(曽我兄弟の仇討ち)
※「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」を参照
建久6年(1195)12月2日富士郡の年貢である綿が京都へ送られる
建仁3年(1203)6月3日源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる
同4日忠常、人穴から戻り報告を行う
建暦2年(1212)5月7日 北条朝時、富士郡に下向
建保4年(1216)12月20日富士御領の年貢が未だ皆済されていないと報告される
建保7年(1219)3月26日北条泰時、富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)に参拝する
貞応2年(1223)6月20日 富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)の遷宮儀式が執り行われる
寛喜元年(1229)11月26日幕府より材木の杣入(材木調達)が富士郡に命じられる
寛元2年(1244)2月3日富士姫(北条泰時の娘)、富士郡へ下向

  • 富士御領について

以下では上の事象の中でも「富士御領の扱い」について考えていきたい。(五味;pp.47-48)には以下のようにある。


つぎに仇討の舞台となった富士野はどうであろうか。『吾妻鏡』の文治2年(1186)6月9日条は富士領が関東御領であると記し、同4年6月4日条はここがかつて平家の所領だったと記し、その領主として北条義時の名をあげている。さらに富士郡については、済物は後白河院に進上されているものの、田所職の給与を北条時政が行なっているのをみれば、時政の所領であったとわかる(文治5年11月8日、3年12月10日条)。どうみても富士野一帯は北条氏の所領だったわけである


富士郡は年貢を朝廷に納める義務があったが、土地関係の沙汰は北条氏が行っている。ちなみに当然「富士野」は富士領に含まれるが、「富士野=富士領全体」ではないので注意されたい。また『小田原市史』には以下のようにある。


まず事件そのものの政治性について見るが、敵討の場が富士野であり、そこが北条氏の所領であった点に注目したい。『吾妻鏡』文治3年(1187)12月10日条によれば、この日に富士郡の田所職が時政の計によって橘遠茂の子為茂に与えられており、このことから富士郡は時政が管轄していたことが分かる。その富士郡の富士野での巻狩りであれば、当然、接待役は時政ということになり、事実、当日に「駄餉」を献じている。またその記事では、時政の庇護した為茂の父遠茂は、平氏に属して頼朝に敵対していたとあるので、曽我兄弟と同様に、時政は頼朝に敵対して没落した武士などを広く庇護していたことも知られる。


敵方の将であった「橘遠茂」の子息にあたる「橘為茂」を保護するという時政の方針には、独自性を感じるものがある。「寛大」と取ることもできるかもしれない。また(小田原市;p.257)には「そして何よりも敵討の場である富士野の地が名越氏の所領として伝えられていたのである。それは次の『吾妻鏡』建暦2年(1212)5月7日条から知られる」とあるが、これは北条氏一族にあたる「名越流」の朝時の不祥事を指す。

北条朝時は不祥事後に富士郡に下向しており、下向しているからにはこの地が北条氏関係の所領であったと考えることができるためである。

では、実際に『吾妻鏡』の記述を確認していきたい。

後白河法皇


一、富士領の事

件の年貢、早く進済すべし。御領たるべきの由、先々仰せられをはんぬ。定めて存知すらんか。…(文治2年(1186)6月9日条)


源頼朝に対し年貢の進済を促す内容である。


甲午 駿河国富士領上政所福地社に神田を寄せたてまつる。江間四郎これを沙汰す(文治2年(1186)7月19日条)


この「福地社」は現在の富知神社(静岡県富士宮市朝日町)のように思われる。『延喜式』の富士郡三座の一角「富知神社」も、この社であると思われる。


北条殿の計ひとして、富士郡田所職を賜はる(文治3年(1187)12月10日条)


ここでいう「北条殿」は北条時政のことであり、五味が指摘するように時政の所領であったのであろう。


八条院領

 同国富士神領(文治4年(1188)6月4日条)


「神領」とあるからには「富士山本宮浅間大社の所領」ということで良いと思う。


癸亥 駿河国富士の御領帝釈院に田地を寄附せらる。これ奥州征伐の祈祷なり。江間小四郎これを沙汰す(文治5年(1189)7月5日条)


富士郡の「帝釈院」への寄進を示す。


また綿千両を仙洞に奉らる。これ駿河国富士郡の済物なり(文治5年(1189)11月8日条)


後白河法皇に、富士郡の年貢である「綿」を献上したことを示す。綿は富士郡の特産品であったと考えられる。


駿河国富士郡の済物綿千両、京都に進ぜらる。(建久6年(1195)12月2日条)


これも同様の内容である。


廿日 戊辰 富士御領の済物京進の錦、皆済の儀なきの旨と云々。甘苔の夫は必ず今明中に進發せしむべきの由と云々(建保4年(1216)12月20日条)


富士御領の済物である綿の未納分があり、それを納めるよう促す内容である。これをみると年貢は相当の負担であったことが分かる。このような当たり前に負担を強いる体制を見ると、朝廷の衰退は成るべくしてなったように思える。

またこの「甘苔」とは「富士海苔」のことではないかと思われる。富士海苔は芝川流域で採れるカワノリのことであり、富士郡の特産品である。カワノリは歴史的にも「海苔」と記さず「苔」と記す例が認められるので、これがカワノリである可能性は高いように思われる。であるとすれば、富士海苔とするのが妥当であろう。


  • まとめ


『吾妻鏡』を見ると、比較的富士郡は頻出するように思える。これは五味氏が指摘するように、富士郡が北条氏の所領であったことが関係すると思われる。北条氏関係者の富士郡への下向例が多いのもその証左である。


源頼家

まとめると、以下ようなことが分かる。


  1. 北条氏の所領があり、同関係者が度々下向する地でもあった
  2. 富士郡の上方(富士宮市)は巻狩・狩倉として用いられていた(源頼朝・源頼家)
  3. 年貢が綿であった
  4. 有力な社があり、重要な位置を占めていた

具体的に富士郡の何処へ下向したのか、綿はどこで栽培されていたのか、材木はどこから調達したのかといった問題はあるものの、実際これらは現在の富士宮市に関わるものが多いように思う。例えば材木を運ぶには道を経由する必要があると思うが、それが可能であるのはどちらかと言えば富士宮市域ではないかと思う。

富士宮市には駿河国一宮である富士山本宮浅間大社が位置する。『吾妻鏡』建保7年(1219)3月26日条に

辛酉 駿州かの国に下著したまふ。これ富士浅間宮以下の神拝のためなり。去ぬる正月廿二日、守に任じたまふといへども、國郡忩劇連続するの間、今に延引すと云々。

とある。つまり「駿河守」に任じられたのなら富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)に参拝するのは当然の習わしなのである。富士山本宮浅間大社は極めて社格が高く、様々な顔がある。駿河国一宮であり、浅間神社の総本宮であり、『延喜式』の富士郡三座のうちの一つでもある。

しかしこれらの中で「駿河国一宮」という立場は極めて重要な位置を占めるのではないかと思うのである。北条泰時は浅間神社の総本宮であるから浅間大社に参拝したのではなく、駿河国一宮であるので駿河守として参拝したのである。そのような求心力となり得るものが富士宮市には点在していた。「富士の御領帝釈院」(文治5年(1189)7月5日条)も富士宮市であろう。『吾妻鏡』から富士宮市が重要地であったことは明らかなのである。

  • 参考文献
  1. 五味文彦(2018),『増補 吾妻鏡の方法』,吉川弘文館 
  2. 小田原市(1998),『小田原市史』通史編 原始 古代 中世

2020年6月8日月曜日

富士山八合目以上を所有する浅間大社とその近現代史

これは「富士山本宮浅間大社が富士山八合目以上を所有する理由を歴史から考える」の続編になります。このページでは主に近現代史について取り上げたいと思います。

徳川家康

  • 近現代史より以前

近世は上記の記事で示している通りである。つまり近世を通して富士山本宮浅間大社が八合目以上の用地に対して優位的立場にあり、管理以上の位置づけに居たことが明らかであるという事実である。具体的に言えば、徳川忠長支配時代の寛永年間(1624年-1645年)に八合目以上の地を指して「大宮司支配の所」という古文書が残り、また明和・安永の争論では1779年に八合目以上を指して「大宮持たるべし」という幕府の裁許を得ている点が挙げられる。

  • 近代-現代の置かれていた状況

まず明治4年(1871)、「社寺上知令」が布告された。これは端的に言えば「社寺の所有地を国有化するもの」である。しかし社寺から見ればこれは納得がいくものではない。なのでその後紆余曲折があり、大正10年に「国有財産法」が制定された。この法は端的に言えば「社寺の用地を無償で貸し付けることができる」というものであった。あくまで「無償で貸し付けている」という体であり、やはり社寺から「返還」という形での処分を望む声は多かったのである。そこで昭和14年(1939)に「寺院等ニ無償ニテ貸付シアル国有財産ノ処分ニ関スル法律」が制定された。しかし戦争によりこれらの処務は行えなくなっている。

終戦後、本格的に社寺の処分問題に取り組むため「国有境内地処分法」が制定された。これは「社寺等に無償で貸し付けている用地のうち、宗教活動に必要と認められる用地は申請があれば社寺等に譲与する」というものである。同法の制定により全国の社寺が申請を行い、それは富士山本宮浅間神社も同様であった。これがおおまかな動向である。

  • 国有境内地処分法における審議の始まり

大蔵省財務局は『社寺境内地処分誌』(以下大蔵省(1954))の中で以下のように説明している。

富士山八合目以上の国有地は、従来から富士宮市字大宮の富士山本宮浅間神社(元官幣大社)に対し神社敷地として無償貸付してあったものである。(中略)しかしながらこれが処理は重要且つ複雑な問題があり又先ず比較的安易な他の多数の案件の進捗を図る都合もあってほとんど最後の審議に廻された

とあり、富士山本宮浅間神社はそもそも審議が遅かったようである。ちなみに他の浅間神社は富士山頂の無償貸付とは関係がなかった。大蔵省(1954)に

    その数は全国を通じ一千三百余社、その一割が駿河と甲斐の山麓付近に所在している。しかしながらこれら他の浅間神社に対しては富士山頂の無償貸付関係が全然なかったので、国有境内処分の問題は起こらなかった

    とある。つまり複数の当事者は存在せず、本来的にはいざこざは起こりにくいのである。複数の浅間神社間で富士山の土地を争ったという性質のものではなく、「現浅間大社 to 国」の問題なのである。



    とりあえずここでは

    富士山八合目以上の国有地は従来から富士山本宮浅間神社に無償貸付されており、他浅間神社はそのような関係にはなかった

    という事実が理解できれば良いと思います。

    • 国有境内地処分法における審査の結果

    審査は昭和27年2月27日に行われ、以下のような答申があった。


    本宮奥宮
    申請地(坪)17,5351,226,0281,243,564
    譲与する土地(坪)17,53549,95267,487

    つまり本宮の用地はすべてが譲与されたが、奥宮の地は一部のみであったのである。

    ここでよく勘違いされていることがあるのであるが、従来より富士山本宮浅間神社は富士山頂を社有地にしており、当初の国有境内地処分法でもそれらは特に問題なく認められているのである。そして大蔵大臣がこの答申の通りに処方するよう東海財務局長に指示を行い、昭和27年12月に東海財務局長から浅間大社に対し富士山頂を含む用地の譲与処分が行われている

    この点が多くで誤解されている。つまり「急に富士山頂の土地が浅間神社の手元に転がってきた」というものでは決してないのである。また裁判云々関係なく、このとき富士山頂の奥宮(の建造物等)の土地は普通に譲与されている。しかしながら完全には浅間神社側の要望通りという様にはいかなかったのである。


    • 結果に対する請願

    全国の社寺において、政府の決定に対し改めて用地譲与を請願するという事態が発生した。一般的な有名どころでいえば「北野天満宮(京都)」「靖国神社(東京)」などもそうであった。ちなみに両者とも請願内容を正式に「棄却」されている。

    そして富士山本宮浅間大社も同様に請願を行った。結果どのような処分が下されたかというと、実は「例外的な保留」に留まっているのである。これが浅間大社の例が特殊である所以である。

    『松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図』より

    浅間大社は「国有境内地処分法第六条第一項」に基づき、除外された1,176,076坪の土地の譲与を請願した。実はこの条項の定めでは請願があれば審議会に諮問しなければならないことになっており、答申自体は出されているのである。それが以下のものである。

    ① 富士山頂の訴願の目的地については、公用又は公益上必要な土地を除き、これを訴願人に譲与するのが相当である
    ② ①の公用又は公益上必要な土地の範囲は実地の状況に即し決定すべきである
    ③ 本件の処理に際しては、富士山の持つ特殊性にかんがみ、将来の管理上の問題につき訴願人から誓約書を徴する等の措置を講ずることが望ましい 

    つまり何を隠そう審査会では「公益上必要な土地以外は浅間大社に譲与すべき」という判断が下されているのである。しかし、この答申に基づく大蔵大臣による裁決は出されていない。つまり帰結としては「例外的な保留」という状態であったのである。しかしこの「答申」の存在は、後の裁判の重要な判断材料となったことは言うまでもない。

    • 一部地域の抗議運動

    この"無償譲与の決定"に対し、実は一部地域で抗議運動があった。

    1953(昭和28)年2月5日のことだ。東京都内で富士山の形をしたみこしを担いでいるのは山梨県の人たち。実はこれ、明治時代に国有地とされた富士山頂の一部を、静岡県の富士山本宮浅間大社に譲与するとした決定への抗議だ。(富士山頂の所有めぐり抗議 産経新聞)


    上の写真はそのときのものである。つまり山梨県の人々である。この神輿は「吉田の火祭り」で用いられる神輿であるが、このときはプロパガンダの道具と化したのである。(岩科1993;p.36)には以下のようにある。

    昭和28年2月5日、大蔵省が富士山頂を静岡県に譲り渡したことに対して、山梨県と富士吉田市の「富士山私有地化反対」の大デモンストレーションが、新橋駅前で開かれ、浅間神社の御影神輿(富士山型)をかついだ氏子が狂ったように荒れ廻ったが、そのなかには多くの富士講先達がまざっていた。


    解せない点を強いて言うならば、浅間神社は山梨県側にもあり、それらの中には標高が高い地点を社有地にしているものがある。この判例はむしろそれら浅間神社の財産を守る「楔」になるはずであるということである。しかしながら、どうもそういう方向にはいかなかった。

    仮に今回富士山頂の土地が譲与されなかった場合、他の浅間神社が持つ富士山体にかかる土地も国有地にしなければ筋が通らなくなってしまう、ということである。なぜなら「富士山は特別な山であるから」という理由であった場合、やはり他の浅間神社の境内地も全く状況が同じであるからである。ダブルスタンダードになってしまいますよ、ということなのである。例えば山梨県の冨士御室浅間神社本宮の例が良いだろう。『包括的保存管理計画(本冊)』に

    冨士御室浅間神社(構成資産8)は、本来の神社境内地が存在する本宮(もとみや)及び移築後の社殿が現存する里宮(さとみや)の2箇所から成る。修験及び登拝などの富士山信仰の拠点としての意義を持つ吉田口登山道(構成要素 1-5)の二合目の本宮の境内、及び後に本宮から河口湖畔の産土神の居処へと本殿が移築された現在の里宮の境内は、ともに冨士御室浅間神社の境内として一体の価値を構成している。 

    とあるように、冨士御室浅間神社本宮は二合目に位置している。ちなみにこの位置は世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つである「富士山域」の範囲に含まれており、また吉田口二合目は標高1,700m以上の地点である。なので冨士御室浅間神社本宮は「富士山にある神社」と言って相違ない

    吉田の火祭りで用いられる神輿

    つまり、山梨県の人々が本件に抗議する場合、例えば冨士御室浅間神社本宮の土地を国に譲与する姿勢を見せなければおかしいのである。

    しかし現在、このしこりは無くなっていると言ってよいであろう。例えば山梨県と静岡県の共同で作成された『推薦書原案』には「富士山八合目以上は富士山本宮浅間大社の土地である」という旨が明記されている。つまり山梨県も主体となり作成された文書で明記される程に"十分に受容された理解"と捉えられているのである。

    • 「例外的な保留」状態の解消

    昭和22年に新憲法が施行され、政教分離原則が規定された。つまり新憲法というのは「従来の社寺と国との関係」を否定する立場にあるのである。「社寺に無償貸付してある財産のうち宗教活動に必要なものは譲与することができる」という内容を盛り込んだ「法律第五三号」が当時制定された背景もここにある。

    そこで、この曖昧な状態(現在に至っても浅間神社の土地を国が預かり保管している状態)を解決する必要性が生じたのである。このねじれ状態の解消のため、浅間大社側は裁判を行うこととなった。


    人によって受け止め方は異なるかもしれないが、富士山本宮浅間神社には明らかに利があるのである。つまり

    1. 富士山八合目以上の国有地が従来から浅間大社に無償貸付されてきたという事実
    2. 古文書等の証拠が残っている
    3. 「国有境内地処分法第六条第一項」に基づく請願に対する答申の存在
    4. 他の「二荒山神社」「白山比咩神社」「大物忌神社」といった類似する事例では申請通り譲与されているという事実

    といったものがあり、正直勝訴する見込みの方が大いにあったのである。私はこの裁判を何度行ったとしても、おそらく帰結は同様のものになるだろうと思う。

    • 判決(要旨)

    判決は以下のような要旨にまとめることができる。

    1. 新憲法では「特別利益供与」が禁止されている。しかし現在、浅間神社の土地を国が預かり保管しているという状態である。仮にこれが供与にあたる場合、国は神社に土地を返還する必要がある。このように用地等を社寺に返還するという対処はそもそも国による「無償貸付」の関係を解消するための処置である。したがって今回の譲与という行為は特別の利益供与にはあたらず、憲法89条には抵触しない
    2. 富士山八合目以上の土地は、法律に定める「譲与の要件」をすべて満たしている
    3. 公益上国有としなければならないという必要性は現存していない(公益上の視点から国有化すべきという指摘はあたらない)

    この趣旨をもって、被告東海財務局長の行政処分は違法であるとの判決が下されたのである。


    • 参考文献

    1. 大蔵省管財局編,『社寺境内地処分誌』, 1954年
    2. 『判例タイムズ』129,判例タイムズ社,1962年
    3. 岩科小一郎「江戸の富士講」『日本常民文化研究所調査報告 第4集 富士講と富士塚 —東京・埼玉・千葉・神奈川—』1993年
    4. 文化庁・環境省・林野庁・山梨県・静岡県,『包括的保存管理計画(本冊)』

    2020年1月8日水曜日

    富士山本宮浅間大社が富士山八合目以上を所有する理由を歴史から考える

    全国には数多の山があります。『日本山名総覧』の説明によると、国土地理院発行の2.5万分図に記載されている山は「16667山」あるといいます。この中には社寺が所有しているものも多く含まれます。つまり「山」を社寺が所有していることは、何ら珍しいことではないのです。実は富士山もその例に漏れず、富士山の場合は神社が一部土地を所有しています(八合目以上)。その神社が「富士山本宮浅間大社」なのです。



    新聞記事(WEB版)にそれらに関する興味深い記事があったので、引用させて頂きます。

    富士山頂、県境決めず一緒に守る 山梨と静岡(朝日新聞デジタル 2020年1月6日)
    国を代表する山である富士山は、その圧倒的な存在感と知名度ゆえに山梨、静岡両県の争いの要因にもなってきた。その最たるものが境界問題だ。静岡県裾野市の市立富士山資料館には、1779年、江戸幕府が出した裁許状が展示されている。富士山頂の土地をめぐり富士山本宮浅間大社(同県富士宮市)や上吉田村(山梨県富士吉田市)の有力者らが起こした争いへの判決だ。「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた。第二次大戦後、全国の社寺に貸し付けられていた国有地が原則、無償譲与されることになり、大社は国に8合目以上の譲渡を求めた。しかし、国は一部しか認めず、大社は提訴。1974年に最高裁で勝訴し、2004年、ほとんどの土地が無償で譲渡された。(抜粋)

    とあります。実はこの部分は、富士山を世界遺産に登録する際にユネスコに提出された『推薦書』にもはっきりと明記されているレベルの、識者にとっては周知の事実です。

    世界遺産登録というのは、一筋縄にはいきません。ユネスコに『推薦書』を提出し、現地調査等を経て、その上で推薦書の内容が繰り返し吟味され認められた場合のみ登録がなされるのです。あまり知られてはいませんが、推薦書は「日本国」が提出する資料であり、富士山の世界遺産登録の根底をなすものです。

    推薦書

    『推薦書』には以下のように記されています。

    ①そのうち、八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)の区域については、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地であるとされてきた。それは、山頂に存在する噴火口(内院)の底部に浅間大神が鎮座するとの考え方に基づき、その底部とほぼ同じ標高に当たる八合目から山頂までの区域が最も神聖性の高い区域と考えられてきたからである。  
    1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が八合目以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された。

    とあります。これが推薦書に記されていることから、富士山本宮浅間大社の立場は国にもお墨付きを得ている形となっています。今回はこの部分について考えていきたいと思います。まず

    1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた

    の箇所についてですが、これは以下の箇所が該当します。

    幕府裁許状(安永8年)
    安永8年の幕府裁許状には富士山本宮浅間大社が「関ヶ原の戦い」の際に戦勝を祈願し、見事それが成就したことから、幕府が本殿や末社などを残らず再建したということが記されています。また、内院散銭(富士山頂に投げ入れられたお金のこと)を修理代として寄進したことも記されています。まずここから

    徳川氏により"山頂における権限に対して"富士山本宮浅間大社が特別な庇護を得ていた

    ということが分かります。但しこの史料だけでは「富士山頂の支配」とは言い難いと言えます。しかし他に土地の帰属等が分かる史料も存在しているので、見ていきましょう。


    この古文書について青柳(2002)は以下のように説明している。

    富士浅間本宮に対する優遇政策は徳川忠長にも引き継がれたようで、この時期「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」という文面の通達が、忠長の付家老である朝倉筑後守と鳥居土佐守から、地方奉行である村上三右衛門に宛てて出されている。つまり、ここにおいて富士山頂は、富士浅間本宮の「しはい(支配)」の土地と認められたのである

    とある。「大宮司しはい」の大宮司は本宮の「富士大宮司」のことであり、みくりやは「御厨」で「すはしり」は「須走」のことである。このように少なくとも寛永年間に富士山本宮浅間大社が支配していたことを示す古文書がしっかりと残っているのである。

    徳川忠長
    また以下は貞享3年(1686)の古文書である。


    青柳(2002)には以下のようにある。

    富士山は八合目以上の大行合から山頂までは富士浅間本宮の4人の神職が支配している土地である、という認識を示しているのである。彼らに取って、そこは須走村でも小田原藩領でもない、寛永期に定められたままの「大宮しはい」の土地であった

    としている。「行合より八葉」ということから、大行合(おおゆきあい、八合目)から八葉(はちよう、山頂)までを支配していたことになる。また「大宮町大宮司殿」・「宮内殿」・「民部殿」・「宝当院」(別当)はすべて富士山本宮浅間大社に関わる神職である。「大宮町大宮司殿」は富士大宮司であり、「宮内殿」・「民部殿」は公文・案主、「宝当院」は宝幢院であり別当である。

    このような歴史を元に現在「富士山本宮浅間大社の土地」という扱いになっているのである。しかしこの長い歴史の中で、当然ながら土地帰属に関する衝突が皆無という訳にはいかなかった。実はその衝突から「より帰属を明確にする」必要性が出てきており、それらの成果物が現在のこの状況を作り出したと言っても良いのである。

    青柳(2002)には以下のようにある。

    17世紀末から18世紀初頭にかけて、富士山頂の土地に対する須走村の認識は明らかに変化しているのであるが、そのさなかである元禄16(1703)年には、須走村は富士浅間本宮と富士山頂をめぐって衝突を起こしている

    とある。「元禄の争論」と言われるものである。須走村は富士山本宮浅間大社を相手取り訴訟を起こした。相手は富士大宮司、公文・案主、宝幢院である。これらの争いは内済で済まされ(和解のようなもの)、須走村に利のある内容で決着した。実はこの訴訟では結果的に土地帰属は明確でないまま終えているのである。

    青柳(2002)には以下のようにある。

    ところで、この元禄争論は「富士山頂の薬師嶽から御馬乗石までは須走村分の土地である」という須走村の主張は是か非かという、富士浅間本宮と須走村の間での境界争論(境論)としての性格を持っていたにもかかわらず、内済ではその点は一切触れられていない。どのように富士山頂付近に境界を確定するか、という問題は棚上げにされたのである

    とある。この古文書は『小山町史』等にも掲載されているが、確かにそのような形跡は見られない。またその後も認識の相違が度々生じていた。青柳(2002)には以下のようにある。

    しかし18世紀以降になると富士山頂付近もまた山麓村々の土地の一部として認識されはじめるようになる。須走村の場合、貞享3年段階に至っても依然として同所は富士浅間本宮に帰属する土地であると認識していたが、その22年後の宝永5(1708)年になると、村鑑の中で「惣じて大行合より御馬乗石と申す所までは駿東郡須走村の地内にて御座候」と、大行合から山頂の「御馬乗石(駒ケ嶽)」までは自分の村の土地だ、と主張するようになっている。

    とある。これを見て「根拠も無しに自分の土地と言うとは何事だ」と思われるかもしれませんが、このときそのような余裕は無かったのである。

    この"宝永5(1708)年になると"の部分が極めて重要であり、実はこの前年に富士山の宝永大噴火があったのである。そのため須走村としてはこれまでの序列や土地帰属観を無視してまでも"価値のある"富士山頂周辺の土地を得たいという思惑があったのである。これは、人間の心理を考えれば当然とも言えるだろう。

    絹本著色富士曼荼羅図

    これら須走村側の変化が生じていく中で、「明和・安永の争論」というものが起こった。これは大争論であり、ここで曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしようという動きが生じたのである。実はこの争論で出てくるのが、記事中に出ていた

    「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた

    の部分であり、『推薦書』にある

    富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。

    の部分なのである。ではその歴史の重大転換を見ていきたいと思う。

    この争論は富士山頂にて亡くなった登山者が発見されたことから始まり、この登山者を"どこが請け負うか"ということが問題となった。青柳(2002)に

    ある土地で死骸処理を実施することは、その土地を誰が所持しているのかという問題と密接に関係している

    とあるように、まさに土地帰属の問題が出てきたのである。ここに吉田村(現在の山梨県富士吉田市)も関与してくることとなり、三者で争われることになったのである。青柳(2002)に

    明和・安永争論は富士浅間本宮・須走村・吉田村の三つ巴で争われることになった。そして互いが死骸処理を担当すべき地理的範囲はどこからどこまでかという争点を有していたため、今度は元禄争論と異なって、富士山八合目から山頂にかけての土地をめぐる境界の位置に争点の主眼が置かれるもである

    とある。これをもっと分かりやすく言えば

    富士山登山口を有する「大宮」(駿河)「須走」(駿河)「吉田」(甲斐)の三者の争いであり、駿河・甲斐双方の有力者が関与した山頂の土地帰属に関する最終的な争い

    とうことなのである。ここで決まったことは歴史の積み重ねによる事実上の最終決定であり、これが現在にも引き継がれているのである。

    この争論に際して須走村は郡奉行に史料を提出したが、この中には土地所持について保証を受けたことを示すものは無かった。しかしこれは富士本宮も同様であり、土地所持の保証を示すような検地帳や朱印状は提出されていなかった。吉田村は言わずもがなである。

    そして最終的に幕府は以下のような裁許を与えた。青柳(2002)に

    まず、山頂付近の土地については「冨士山八合目より上ハ大宮持たるへし」との判断が示された。富士浅間本宮の主張が認められるかたちとなったのである。(中略)ここでの「大宮持」とは、八合目より上では富士浅間本宮が諸経営活動および死骸処理について優越的な立場にあることを保証する、というくらいの意味であろう

    とあるように、「富士山八合目より上は大宮持たるべし」と判断されたのである。しかし青柳氏が述べるように「=土地所持」というよりは「優位的立場にあることは明白である」という域を出ないようにも思える。「曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしよう」という流れであったはずであったが、やはり曖昧な状態は続いていたと言える。ここは解釈が大きく分かれる所であり、難しい。

    大宮持たるべし

    しかしながら徳川忠長支配時代の寛永年間(1624年-1645年)に「大宮司支配の所」という古文書が残り、また明和・安永の争論では1779年に「大宮持たるべし」という幕府の裁許を得た。これら長きに渡り富士本宮が優位的な位置に居続けたことは、指摘されてきた通りである。

    山梨県知事と静岡県副知事が文化庁長官に推薦書を提出する様子

    そしてそのまま現代に至り、現代の叡智を持って1974年に最高裁判所にて判決が出されたという流れなのである。実は驚くことに最高裁判所の判決でも江戸幕府の裁許が重視されている。これにより限りなく「完全かつ最終的に解決した」と言える状況となったのである。帰結としては妥当な着地点という印象を持つ人も多いだろう。

    更に言えば、推薦書にこれらが明記されたことは「完全かつ最終的に解決した」状態を更に補完する結果となったと言える。何故なら、推薦書のその原案は静岡県と山梨県が共同で作成し文化庁へ提出した経緯があるためである。

    • 参考文献 
    1. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年
    2. 高埜利彦,『近世の朝廷と宗教』,吉川弘文館,2014年
    3. 『推薦書』(日本国)

    2018年7月3日火曜日

    富士宮市の基本情報及び富士山との関係

    このページは「富士宮市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。ただこのページは「歴史」についても少し触れようと思います。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

    富士宮市からの富士山
    キーワード:
    世界文化遺産、構成資産、富士山本宮浅間大社、富士上方、富士大宮司、富士氏、大宮城(富士城)、富士川舟運、中道往還、大宮(富士宮市の中心部の従来の地名、登山口)、村山(登山口、富士山修験道の中心地)

    最低標高:35m  最高標高3,776m、標高差日本一

    富士宮市は静岡県東部の市。富士山を主体として考えた際の静岡県側の中心自治体である。「富士宮」(=富士ノ宮)という富士山本宮浅間大社を指す古来の言葉が市名の由来である。中世より「富士上方」と称され、その範囲は現在の富士宮市域と概ね一致している。富士宮口新五合目が位置する、富士山への玄関口である。

    歴史的に見てこの地で何が大きな事象とされていたかといえば、それは「富士大宮司の動向」であった。「富士大宮司」は富士氏の筆頭が名乗る神職名である。つまり以下の構造が見えてくるのである。

    • 富士氏:富士宮市を根拠地とした氏族
    • 富士大宮司:上の氏族の当主が名乗る「神社の神職名」
    • 富士山本宮浅間大社:上の神社のこと

    これは先ず押さえておく必要があるだろう。富士氏は戦国時代には大宮城(富士城)の城主でもあった。

    紫の箇所は護摩堂跡とされ、また周辺には三重塔もあった。大宮城は大社の東側に位置した

    ここからは市域の下→上に移動しながら説明しておこうと思う。市域の下には富士川が流れており、この地域の人々は富士川舟運を糧としていた。「森家」や「沼久保の問屋跡」が知られる。

    現在は両者は1つの市である

    森家は市域でも「旧芝川町域」を根拠地としていたが、この芝川には「佐野氏」や「篠原氏」もおり、特に佐野姓は現在多く存在している。

    また中道往還の存在がこの地域の文明を支えていたとも言え、中道往還沿いに富士山本宮浅間大社は位置している。


    その一帯は古来より「大宮」と言い、登山道の起点である。大宮は戦国時代楽市が行われたことでも知られている。


    以下はその朱印状である。

    発給者:今川氏真 宛:富士信忠

    また大宮より東北に「村山」という地があり、ここも登山口である。それをまとめた呼称が「大宮・村山口登山道」であり、以下のような地理的関係にある。


    つまり「大宮」「村山」という富士山関係の主要な歴史地区が複数含まれているのが富士宮市なのである。そのため「富士宮市と富士山」という枠組みで歴史を説明するのは、あまりに大きすぎると言える。村山には富士山興法寺があり(以下の各施設群を総称した呼称であるが、主に中世の呼称)、それを管理する村山三坊が知られる。


    大鏡坊・辻之坊・地西坊を合わせて「村山三坊」という。



    世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。


    構成資産
    大宮・村山口登山道
    富士山本宮浅間大社
    山宮浅間神社
    村山浅間神社
    人穴富士講遺跡
    白糸ノ滝

    富士上方でもより上方に至ると富士五山の各寺が見えてくるし、構成資産のうち「人穴富士講遺跡」や「白糸ノ滝」も姿を見せてくる。

    様々な「講」による建立物が現在も残る
    人穴富士講遺跡には富士講信者による多くの建立物が残り、また白糸ノ滝にも関連する石碑がある。環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。


    No.「富士山がある風景100選」展望地
    61道の駅朝霧高原
    62朝霧さわやかパーキング
    63朝霧自然公園(朝霧アリーナ)
    64田貫湖
    65長者ヶ岳
    66白糸の滝付近
    67白糸自然公園
    68狩宿下馬桜
    69西臼塚駐車場
    70天母山自然公園
    71山宮浅間神社
    72柚野の里
    73興徳寺
    74潤井川桜並木
    75神田川御手洗橋
    76富士山本宮浅間大社
    77稲瀬川

    また富士宮市は「特別天然記念物」を複数保持する市でもあり、1つは「湧玉池」ともう1つは「狩宿の下馬桜」である。狩宿の下馬桜は日本五大桜にも数えられる著名な一本桜である。市の最北部に行くと毛無山が位置するが、毛無山は鉱山でもあり、それは富士金山と呼ばれた。このように自然関係の文化財に恵まれた市と言えるだろう。


    千居遺跡
    以上が、「富士宮市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

    • 富士宮市における「富士〇〇」

    富士宮市には「富士」を冠する歴史的名称が多い。これは周辺の静岡県の地域と比較しても圧倒的である。概ね、以下のようなものが該当する。

    1. 富士山
    2. 富士川
    3. 富士野(富士の巻狩の地)
    4. 富士氏
    5. 富士城(大宮城)
    6. 富士海苔
    7. 富士金山
    8. 富士五山(ここは含めたり含めなかったり。比較的最近の名称です)

    実は「富士山の歴史」というのは、このうちの1つに過ぎないのである。このうち「3」と「6」と「8」は当ブログではまだ未着手である。

    何より恐ろしいのは、富士宮市の刊行物を見ると「3」と「6」は出てきているのかさえ疑わしいことである。例えば、『富士野往来』も言及しているケースが殆ど無いように思われる。多くの時代に関して、同じようなことが言える。

    「富士川と富士宮市」というテーマで論じるものも思いの外少ない。富士市が同テーマで企画展を、しかも複数回行っている点から考えても不可解である。「森家」や「富士山木引」といったことも、富士宮市の刊行物で見かけたことがない。そもそも「富士氏」自体も"取り上げている"とはとても言えない状態なのである。「等閑視の常態化」が垣間見えるのである。

    実はこれらには共通項があり、「中世期」というワードが挙げられる。例えば富士宮市教育委員会による歴代の「調査報告書」を見ても、中世期を取り上げたものは殆どないのである。対して「古代」は多く見いだせる。このような両極端な状況は深く危惧するところであり、改善を求めたいところである。かなり可能性を狭める行為であると言わざるを得ない。

    2018年5月4日金曜日

    富士山本宮浅間大社と流鏑馬の歴史

    今回は「中世における富士山本宮浅間大社と流鏑馬の関係」について考えていきたい。まず一般に「浅間大社の流鏑馬は源頼朝が富士の巻狩に際し奉納したのが起源である」とされる。これは大正7年(1918)調査の「官幣大社浅間神社特別行事」に

    建久4年5月源頼朝公富士ノ巻狩ノ時、神前二流鏑馬ノ式ヲ奉納セラレシニ始マルト言ヒ伝フレドモ詳ナラズ…

    とあること以外に根拠となる伝聞はないとされる。富士宮市教育委員会編「富士山本宮浅間大社流鏑馬調査報告書」でも記されているように、この記録でさえも「詳ナラズ」としているので伝承の域は全く出ない。ただ鎌倉時代より時は下るが中世の記録で浅間大社と流鏑馬の関係を示す史料は存在しているので、そちらから考えていきたい。

    武田勝頼

    まず浅間大社と流鏑馬の関係が古文書で明確に確認できるのは、早い例で天正元年(1573)12月17日「武田勝頼朱印状」がある。


    同報告書では

    ここには「富士大宮鏑流馬銭之事、如旧規淀師之郷可請取」とあり、旧規の通りに鏑流馬領として淀師の郷を与えるというものである。ここに「如旧規」とあるので、浅間大社鏑流馬領は勝頼以前、少なくとも信玄当時からの例に従ったものである。ということは、流鏑馬も天正以前に遡るものである。

    としている。この朱印状より少なくとも天正年間以前より流鏑馬が浅間大社にて行われていたということが確認できる。

    また流鏑馬神事を考える際、『富士大宮神事帳』(以下『神事帳』)は特に注目される。これは浅間大社の年間祭礼を記す記録であり、浅間大社社人である「鎰取」職の時茂、「四和尚」職の春長、「一和尚」職の清長によって記された記録である。奥付に天正5年(1577)の年号が見えるといい、同年成立と考えられる(参考:他の令制国神社の年中行事史料を一覧化した文献として、鈴木聡子「神社年中行事の研究の現状とその意義について」『國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所年報 第10号』がある)。

    ただ『神事帳』には祭礼役の負担者として「葛山殿」「瀬名殿」といった人物も見えるので、天正5年時点の状況を示しているわけではないと考えられる。「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では

    このことは、祭礼役の負担者が今川被官であったことを示している。さらに、「富士大宮神事帳」に記載されている祭礼事例が、今川期のものであった可能性を指摘できる

    としている。記録から見ると祭礼自体は今川期のものを記していると見て特には差し支えないと考えられる。というのは、瀬名氏と葛山氏は共謀して今川氏を裏切っているのであるが、永禄11年頃にはそれがなされているのであり、天正5年時点で祭礼役として名が見えるのはおかしいためである(参考:「中世の裾野 新史料にみる戦国期の葛山氏」)。

    『神事帳』の5月の項には「成手若宮流鏑馬御神事」「山宮流鏑馬天上御神事」「大宮天上御神事」「大宮・山宮参あまつら銭」「あまつら銭」「流鏑馬御座の御酒」「若之宮流鏑馬」「福地流鏑馬」とあるといい、12月にも臨時の流鏑馬神事に関する記述が多く見られる。つまり今川期に流鏑馬神事が行われていたと言って良いのである

    また『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』という記録がある。これは武田勝頼が浅間大社の造営を行った際に多くの家臣が神馬を奉納し、記録としてまとめられたものである(以下『「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考』を参考にする)。原本は存在せず『甲斐国志』に引用が認められる他、写本が2つ残り、①「賜蘆文庫文書」のものと②永昌院所蔵『兜巖史略』にある「奉納記」(永昌院本とする)がある。また甲斐国志・賜蘆文庫文書と比べると永昌院本の方が家臣の数が多く示されており(92人)、また逆に永昌院本にはなく甲斐国志には名が見える場合もある。

    この永昌院本は長篠の戦いで討ち死した武将の名が見当たらず、逆にその家督を継いだ人物の名が連ねているので、同論考では成立が長篠の戦い以後に記されたという仮説を示している。これは疑いないと言え、また氏は武田家臣が神馬奉納を実施した時期を詳細な検討から「天正5年1月から5月の間」までに絞り込んでいる。また同論考では原本では更に家臣数は増えるであろうと推測している。相当数の家臣が人馬を奉納しており、この事実が流鏑馬神事に与えた影響は少なくないと考えられる。馬専用の厩舎もあったであろうし、流鏑馬を行える環境は整っていたと言えるのである。また『富士大宮神事帳』にも奥付に天正5年とあることから、『富士大宮神事帳』および『駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記』が同時期に意図をもって1つの史料として作成された可能性がある。

    また「絹本著色富士曼荼羅図」の図から流鏑馬との関係を見出す論考もある。「富士参詣曼荼羅試論-富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に-」には以下のようにある。

    湧玉池の下方に騎乗者のいない白馬が描かれるが、白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう。この集団は流鏑馬神事を行っていた「居住者」の図像である

    としている。

    白馬と帯同者(『絹本著色富士曼荼羅図』)

    また近世になると『富士本宮年中祭礼之次第』が記されており、「加島五騎」「下方五騎」「上方二騎」等が組織され流鏑馬が行われていたことが分かる。小笠原流については「保阪太一 ,「小笠原長清と小笠原流」『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,2015」に詳しい。

    • 参考文献
    1. 富士宮市教育委員会,『富士山本宮浅間大社流鏑馬調査報告書』,2007
    2. 合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」」『武田氏研究 第30号』,2004
    3. 相場明子,「富士山本宮浅間大社の流鏑馬神事-農耕神事と武芸の観点から-」『文化学研究 20号』,2011
    4. 平山優,「駿河富士大宮浅間神社神馬奉納記」考『武田氏研究 第45号』,2012
    5. 佐藤八郎,「駿州大宮神場奉納記」について『武田氏研究 第9号』,1992 
    6. 大高康正,「富士参詣曼荼羅試論--富士山本宮浅間大社所蔵・国指定本を対象に」『山岳修験34号』,2004  後に刊行された『参詣曼荼羅の研究』所収
    7. 杉嵜典子,「富士周辺の山宮祭祀」『神道宗教 191号』,2003
    8. 有光友學,「〔講演載録〕中世の裾野 新史料にみる戦国期の葛山氏」,『裾野市史研究』第7巻,1995

    2017年4月21日金曜日

    中道往還と浅間大社そして大宮口登山道

    中道往還は「甲府盆地と吉原宿を結ぶ街道」である。


    中道往還は甲斐国から駿河国に入ると、そのまま真下に直行する。しかし富士山本宮浅間大社のある地点の西側でL字型に曲がり(桝形)、浅間大社前を通過し富士大宮の町を過ぎた後、斜め下に降り吉原宿に至る。これが駿河国側のルートである。ルートをみると桝形の部分が大変特徴的であることが分かる。これは駿河国側の中道往還の大きな特徴と言っても良い。

    橙:中道往還ルート 青:登拝道(登山道)
    • 中道往還の位置づけ

    『甲斐国志』に以下のような記述がある。
    本州九筋ヨリ他州ヘ通ズル路九条アリ
    本州(=甲斐国)から他国に行く道が9つあったという意味であり、それぞれ
    ①若彦路②中道往還③河内路④鎌倉街道⑤萩原口⑥雁坂口⑦穂坂路⑧諏訪口⑨大門嶺口
    が該当するとされる。下線のものが駿河国へと繋がる街道である(④は御殿場へ至るのでここに含めた)。これが甲斐国から見た場合である。以下に街道のルートおよびその名称を載せる。

    名称(+別名)経路
    中道往還、右左口路甲府盆地-吉原
    駿州往還、河内路、身延路甲府盆地-静岡市(富士市)
    鎌倉街道、駿州東往還、御坂路甲府盆地-御殿場

    実は九条(九の街道)ある中で現在の富士宮市にかかるものは①若彦路②中道往還③河内路と大変多く、如何に現在の富士宮市域が甲斐国と交通面で密接であったのかがこれだけでも十分読み取れる。戦国時代、武田氏はあるときは河内路を用いて、またあるときは中道往還を用いた。そのため、河内路沿いの地である松野(富士市)の領主「荻氏」は何度も武田氏と交戦している。16世紀中盤の領主は「荻慶徳」であったといい、甲斐の武田信虎軍と戦い討死している。次代は「荻清誉」であり、信虎の次代である武田信玄軍と戦いやはり討死している。これは「内房口の戦い」と呼ばれるもので、内房(現在の富士宮市)で討死している。そのため首塚は富士宮市内房尾崎の地にあるのであるが、もちろん内房も河内路に属する地である。

    中道往還は起源が大変に古いとされ、3世紀頃には既に成立していたと見るものもある(甲斐国と駿河国で差異はある)。また源平合戦(治承・寿永の乱、最期は壇ノ浦の戦いにて平氏は滅亡)の1つである「鉢田の戦い」の際は若彦路が用いられた。

    • 遺跡と中道往還
    仮に3世紀という古代の時代に拓かれていたとすると、遺跡群の分布を考えていく必要性がある。富士郡下では主要路沿いに古墳群が分布しており、5世紀末期頃に築かれたという「伊勢塚古墳」は根方街道と東海道の交差点にある他、5世紀から7世紀にかけてとされる東平遺跡を構成する富知六所浅間神社周辺の集落部分は、やはり根方街道と東海道の交差地点にある。8世紀頃になると伝法古墳群と東平遺跡一帯に集約させる姿を見せ、この一帯に機能が集中している。このように東平遺跡一帯が拠点であったが、9世紀になるともっと広い地点に機能を分散させる形で遺跡が分布されるようになる。10世紀代には浅間大社の地点で墨書土器が出土している他、近くには「泉遺跡」が確認されており、この辺りは中道往還沿いである(泉遺跡は中道往還と河川の中間地点)。これらの事実は、意図を持って中道往還沿いに集落機能を持たせたと考えても良いように思える。富士郡庁と富士郡官舎は未だ発見されていないが、おそらく発掘地点はやはり街道沿いになるであろう。

    • 中世の中道往還
    先程「浅間大社は中道往還沿いにある」と記しましたが、いよいよここから中道往還の経路に関わる部分について書いていきたい。まず浅間大社が位置した富士大宮において、交通面を中心として考えた際にまず浮かんでくるものは「六斎市」、そして「楽市令」である。

    「富士大宮楽市令」の発給文書から、この神田の地で六斎市(月に六回市が開かれる)が行われていたことが分かり、またそれらが楽市化されたことが知られる。またそれに伴い神田橋関が廃止されたことも知られる。現在も神田橋が残るが、その辺りに神田橋関があったと推測され、ここを中道往還が通過していた。六斎市が行われていた事実から、中道往還の経済路としての位置づけを改めて確認することができる。

    「楽市論」では以下の興味深い指摘をしており、傾聴すべきである。

    実は私は、富士浅間神社の地図を見たとき、神社参道、神社から山宮への道、さらには富士山頂への道という「信仰の道」が、基本的に〈南北の道〉なのに、浅間神社の門前町、駿州中道往還の〈社会経済の道〉が〈東西の道〉で、両者が直交することに大変興味をもった。これは建築学の神代雄一郎が述べる「奥宮・神社・御旅所を結ぶ信仰の道と、紐状にならぶ人家を数珠つなぎにするように走る社会経済の道が直交する」の定式そのものだからである。(中略)神社が今の敷地内に営まれたのは、ここが四神相応の地だったからだろう。東の川〈青龍〉は湧玉池から流れ出す神田川である。西の大道〈白虎〉は駿州中道往還で、古くは甲州から立宿に来て、桝形からそのまま直進し潤井川に出て、黒田、山本、高原と中道往還を下ったと思われる。北の〈玄武〉の山は当然富士山で、南の〈朱雀〉は今の駐車場辺りや神田川の中洲などだろう。(中略)中世の富士大宮は門前町でもあり、宿場町でもあった。江戸時代の宿場町の多くに桝形が見られるが、すでに中世の富士大宮には結界性があった。

    確かに、各地の社寺参詣曼荼羅図をみても、「東:川ないし滝、南・西:道 北:信仰山(神社を基準として)」という構成は多いように思える。浅間大社もそれらの例に外れることなく計画されたものであったと思われる。ここでいう「数珠」とは、以下のような意味である。

    注:繋いだ場合であり、実際の路順ではない

    "神社から山宮への道、さらには富士山頂への道という「信仰の道」が、基本的に〈南北の道〉"とあるのは、下の地図で「青:登拝道(登山道)」と示した部分を指す。これを氏は「道者たちの動線は駿州中道往還と一度も交差しない」という表現をしているが、確かに登拝道と中道往還は直接的にはクロスしていないし、異なる方向へと向かっている。例えば『富士の道の記』(「天保十四年癸卯八月」の後書あるため、それ(1843年)以前に記されたと言える、天保9年頃という)には以下のようにある。

    大宮の駅 駿州富士郡に属す。此所は東海道の官駅吉原の宿より甲州にの往還にて、常に人馬の往来絶間なく、繁花なる市中也。且また身延山等にも是を行くもの有。(中略)富士山本宮浅間大明神の社 大宮の駅の左の方にあり。(中略)本宮東の方回廊の内より、富士登山の関門有。是なん大宮口と称す
    とあり中道往還の説明をしつつ、社殿の東から登山道が始まることを説明している。これは丁度湧玉池の部分であり、中道往還と登山道を区別していることが分かる。

    橙:中道往還ルート 青:登拝道(登山道)
    説明中の「桝形からそのまま直進し潤井川に出て、黒田、山本、高原と…」の部分はいわゆる「富士本道」が該当すると思われ、実際は中道往還とは区別されることが多い。富士大宮は六斎市、または後の楽市が行われる商業地であったが、それは中道往還の存在があって成立するものであった。また明らかに浅間神社の門前を通す形となっており、社人町または商人・職人等が住まう雑色町を通過する形が確認できる。『楽市論』では神田橋が境界となっていたとしているが、桝形からなるこの通りが「商業」「信仰」といった上で重要地点であったことは間違いないと言える。


    吉田口登山道は北口本宮冨士浅間神社境内の金鳥居(登山鳥居)から延びる形となっているが、富士山本宮浅間大社も登山道が境内から延びる形となっていると考えるべきであろう。

    • 参考文献
    1. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
    2. 藤村翔,「富士郡家関連遺跡群の成立と展開 富士市東平遺跡とその周辺」『静岡県考古学研究 45』, 53-66, 2014-03 
    3. 西川広平,「世界遺産富士山「巡礼路の特定」に関する作業報告,『山梨県立博物館研究紀要9』, 70-63, 2015
    4. 加藤浩徳・志摩 憲寿・中西航,「交通システムの発展と社会的要因との関係:山梨県を事例に」,『社会技術研究論文集8』,11-28, 2011
    5. 山梨県教育委員会,『若彦路』(山梨県歴史の道調査報告書第8集),1986