2011年7月31日日曜日

富士山を巡る静岡vs山梨という幻想

以下に、富士山問題の実際についてなるべく分かりやすく解説をしたいと思います。

  • 静岡(駿河)vs山梨(甲斐)ではない
よく「山梨県と静岡県は富士山を巡り争っていた」と言われることがある。しかしこの表現は歴史的経緯を見れば全く誤りと言うことが分かります。

山梨県と静岡県間で争っていたのではなく、「吉田」(甲斐国)と「河口(川口)」(甲斐国)などが争っていたように、また「大宮」(駿河国)と「村山」(駿河国)が争っていたことがあったように、歴史の中で「(登山口を有する)環富士山地域で利権を巡り争っていた」のである。なので「山梨県と静岡県間で争っていた」という表現は切り取りにしか過ぎないのである。

一例として「武田信虎の富士登山 -大永二年の登頂をめぐって-」から引用しようと思う。

川口の御師たちも舟津から吉田口登山道に向かうルートを道者に推奨していたようである。(中略)また文化7年(1810)の川口・吉田の山役銭をめぐる論争において、山内字鈴原より、五合目中宮迄は川口村にて道者仕來と川口は主張し、幕府はその事実を認定している。一方吉田の言い分は、北口登山之もの、上吉田村切手無之、参拝は不致筈之處、(中略)という認識であり、そもそも舟津から小御岳への舟津口登山道を認めていない

川口と吉田の著しいとも言える認識の違いが垣間見えます。これは同じ甲斐国の「川口」と「吉田」間の論争であるが、これらの事例は他にも多く確認されているのである。なので駿河と甲斐が争っていたという表現は、全くもっておかしなものと言える。そしてその環富士山地域の中で徳川幕府から庇護を受けた大宮が最終的に優位となったというだけの話である。個人的にはその自然の成り行きによって出来た土地認識の部分が適当であり、それに任せたいと思っている。「川口」と「吉田」とで論争していたように、「大宮」と「吉田」間の論争も事実としてあります(『浅間神社の歴史』古今書院版 P487-488)

  • 浅間大社への抗議はこれら利権争いの延長線
これら環富士山地域による過去の争いの延長線が「昭和」という時代に(なぜか)起きたのが、「浅間大社への抗議」であると言えます。ではなぜ昭和に起きたのかというと、多くの神社の中でも浅間大社の土地のみ無償で引き渡されなかったという、いわば「事務的なミス(といっていい)」が明治時代に起こり、それの最終整理が昭和に行われたためです。抗議の裏には「あわよくば利権を崩せるかもしれない」という考えがあったのだと思います。それは江戸時代などとは異にする、もっと悪質な意図があると見たほうが良いです。

1953(昭和28)年2月5日のことだ。東京都内で富士山の形をしたみこしを担いでいるのは山梨県の人たち。実はこれ、明治時代に国有地とされた富士山頂の一部を、静岡県の富士山本宮浅間大社に譲与するとした決定への抗議だ。(富士山頂の所有めぐり抗議 産経新聞)

これを見て私は、山梨県全域というわけではなくてあくまでも「環富士山地域の1つ」である「吉田」による動きではないかと推測していました。どうも山梨県全体の抗議とは思えなかったのです。そして調べてみました。

1953年抗議当時

現在の富士吉田市のお祭り

上の写真と下の写真の神輿は同じものです。そして下の写真は「吉田の火祭り」で用いられるものなので、つまりは1953年の抗議の人たちは吉田の人たちが中心ということになります。ですから静岡vs山梨とかではなく、環富士山地域の利権争いの一幕ということなのです。問題は、昭和という時代に果たしてそれをする意味があるのかということなのです。文明的な行いでは無いように私は思います。

  • 幻想

富士山に関する争いは他に「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」にて取り上げています。また「裏富士」という言葉ですが、葛飾北斎や歌川広重らの作品名にも採用されている歴史用語です(『冨嶽三十六景』『富嶽百景』『不二三十六景』等)。別に静岡県の人が作った名称ではありません。

「静岡と山梨は互いに昔から富士山を巡り争っていた」とか「静岡県が一方的に裏富士と言っている」など、これらはすべて幻想です。もし本当に富士山に関心があるのなら、歴史的な考え方をしたほうが賢明かと思います。そういう人が増えることを願って已みません。

2011年7月30日土曜日

湧玉池の歴史

湧玉池は富士山本宮浅間大社の境内に位置する湧水である。しかしながら、湧玉池単独でも歴史として語るに十分な逸話がある。


  • 和歌にみる湧玉池
平兼盛による歌に、以下のようなものがある。『兼盛集』より。
平兼盛
〈詞書〉
駿河にふじといふ所の池には、色々なる玉なむわくといふ。それにりんじの祭しける日よみてうたはする
〈歌〉
つかふべきかずにをとらむ浅間なる御手洗川のそこにわくたま






平兼盛は「駿河守」であったため、このような歌が詠まれたのであると推測される。既に平安時代に湧玉池が歌に読まれるものに相当していたことが分かる。平兼盛は三十六歌仙にも数えられています。

そして後に道者により禊の場として利用されるのである。登山道の起点には必ず禊の場があるが、大宮口の起点としては湧玉池がそれに該当する。浅間大社の社記では、山宮の地に浅間大神を祀っていたものが大宮の地に移された(浅間大社)のは、この湧玉池の存在があったためとしている。

  • 垢離銭
湧玉池にて禊を行う際に「垢離銭」が発生していたという。この禊はもちろん道者によるものであるから、道者が払っていたわけである。『寺辺明鏡録』の慶長13年6月の条に

大宮と言う所ニトマルナリ。先ソコニテコリヲトル。コリノ代六文出シテ、大宮殿へ参也」
とある。「先ソコニテ」も重要な部分である。「大宮殿」とは浅間大社のことである。

  • 特別天然記念物
湧玉池は1952年に特別天然記念物に指定されている。特別天然記念物というものはそう簡単に指定されるものではない。湧玉池は景観または文化まで備えた文化財であり、特別天然記念物に指定されるのも頷ける。すばらしい文化財であると言える。

  • 参考文献
  1. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P476-477
  2. 遠藤秀男,「富士信仰の成立と村山修験」,『山岳宗教史研究叢書9 富士・御嶽と中部霊山』,2004(オンデマンド版)
※2はしっかり読んではいませんが参考になるかと思う

2011年7月29日金曜日

勝山記・妙法寺記にみる富士山

『勝山記』・『妙法寺記』は河口湖周辺の年代記である。『勝山記』においては、より古い型をもつとされる「冨士御室浅間神社」所蔵のものが代表である。『妙法寺記』は妙法寺に伝わる異写本である。お互い共通の原本が存在していたとされるが、所在は不明である。

ここから重要な部分を抜き出す(『妙法寺記』)。

1480年:「冨士山吉田取井(鳥居)立」

吉田に鳥居が建立。

1495年:「吉田村諏方大明神 鐘武州より鋳テ上ル」

吉田諏訪神社に鐘楼ができる。

1496年:「北条ノ君(中略)冨士へ御井テ」

北条早雲の富士登山。

1500年:「吉田トリイ卯月廿日タツ」「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」 

吉田に鳥居建立。後者はよく取り上げられる記述で、これは関東の乱のために須走口から道者が多く登ったことを意味する。当時の戦況などにより登山ルートの変更を強いられることもあったということである。

1522年:「武田殿冨士参詣有之」

武田家当主の武田信虎の富士登山。

1553年:「六月導者富士へ参詣多コト不及言説」

登山期の登山者の増加を示している。

  • 『妙法寺記』の実際
『勝山記』・『妙法寺記』は河口湖周辺の年代記といわれるが、読んでみて意外にも郡内の記述が突出しているわけではない。

地域
回数
甲州・当国など                   
65
郡内・当所
4
小山田・中津森など
39
信州・信濃
34
伊豆
4
国中
11
河内
3
郡内の豪族
30
駿州・駿河
25
越後
3
都留郡・当郡など
10
御屋形・武田殿など
64
穴山
2
相州・相模
14
武田氏と国境」より

「武田氏と国境」では、「まず甲斐、ついで都留郡の順に意識されており、郡内の領主小山田氏以上に武田氏の動向に注意を払っている」としている。富士山関連の検証としては、意外に活用できない。

  • 原本
これらは写本とされているが、「どちらが原本に最も近いのか」という議論は多い。またそもそも『勝山記』・『妙法寺記』のどちらかが原本であるという考え方もある。これらは研究者により分かれているが、笹本正治氏は「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」の中でこれら問題に触れている。『勝山記』と『妙法寺記』では『勝山記』の方が振り仮名や送り仮名が多く、総合的な字数が多い。振り仮名などの関係で『勝山記』の方がより読みやすく、違いが確認できる。これらから笹本正治氏は、『妙法寺記』を読みながら写字したため、その関係で振り仮名などが付加されたという可能性を指摘している。つまり『妙法寺記』が原本により近いと主張している。

  • 参考文献 
  1. 笹本正治,「武田氏と国境」「小山田氏と武田氏―外交を中心として―」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣出版,1993年
  2. 『浅間神社史料』P13,浅間神社社務所,1934年

富士上方と富士下方

富士郡の地域は大きく分けると「富士上方(ふじかみかた)」と「富士下方(しもかた)」に分けることができる。

富士上方とは
大宮町・白糸・芝富・上野・上井出・北山・富丘」一帯を指す。

富士下方とは
今泉・原田・吉原・伝法・鷹岡」など一帯を指す。

富士上(下)方という用語は、富士氏(富士大宮司)への朱印状などで多くみられる。特に今川・北条・武田氏が領土争いを繰り広げた時代の書状には多く見られる。

足利義持から富士大宮司宛

室町幕府(足利将軍)からの浅間大社への書状に「富士浅間宮領駿河国富士上方」とあったり(上)、今川義元による富士氏への書状「富士上方富知行百姓内徳之事」にあるように、「富士上方」という言葉が頻繁に用いられていたことがわかる。

永正9年(1512)「義忠寄進状」、※全文は掲載せず
また北条氏政から富士信忠への書状では富士上方と富士下方をまとめて「富士上下方」という言葉を用いています(下)。

北条氏政から富士信忠宛
現在の富士宮市と富士市を見ても、概ね富士宮市は「富士上方」、富士市は「富士下方」に一致している。

富士信忠が富士上方の支配権を約束されていたことを考えると、やはり富士氏は大きな影響力を保持していたと言えるであろう。

  • 参考文献
宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P376-396

2011年7月28日木曜日

隔掻録にみる富士山

『隔掻録』は「甲斐国志にみる富士山」でも述べているように『甲斐国志』がベースである。そのため記述は非常に類似しているが、甲斐国志にみられない部分もあるため、富士山の歴史を考える上で同じく参考となると言える。
隔掻録
隔掻録は以下から構成されている。
  • 富士山上略記
  • 山中ノ話
  • 富士八海
  • 富士山産物
  • 御身貫並偽字
  • 淺間ヲ仙元ト書事
  • 賓永四年山焼ノ事
  • 庚申ヲ縁年トスル事参詣人数ノ事
  • 農鳥ノ事
  • 富士行者小傳
ここから重要な部分を抜き出す。

<富士山上略記>
  • 駿州ノ大宮司モ例祭ニハ北口ヲ登ルヲ例トス
富士大宮司(浅間大社)が村山を避け北口から登ったという慣例を指している。

  • 行者ハ南ニ登リテ北ニ降リ北ニ登リテ南ニ降ルヲ御山ヲ裂クト称シ
表口から登り北口から降りる、またはその逆などは「山を裂く」といい、良しとされなかったようである。

  • 渾テ此ヨリ上ハ一切駿河ノ持分ニテ吉田ハ関スルコトナシ。
(8合目)より上は駿河国のものであるため、吉田は関わることはできない。

  • 村上ノ拝所アリ、駒ヶ嶽ヲ向へ下レバ大日堂アリ(是より表大日ト云ヒ、薬師ケ嶽ノ薬師ヲ裏薬師ト云フナリ、村山口・大宮口ヨリ登ル者此所二出ヅ)別当村山ノ山伏三人ナリ「大鏡坊・辻坊・地西坊コレヲ三坊ト云フ」
大日堂(表口)を表大日、薬師堂(北口)を裏薬師と呼ばれていたということが分かる。その後、村山三坊のことを記述している。

<庚申ヲ縁年トスル事参詣人数ノ事>
  • 今モ年々ノ詣人平均スルニ吉田ロヨリ登ル者八千人ソノ他ハ駿州ノ三ロヲ合シテ是ニ相伯仲スト云ヘリ
吉田口より登る人は8000人で、これは駿河側の3登山道の登山者を合計した程の規模であったということ。吉田口の利用者が多かったことが伺える重要な記述である。

2011年7月27日水曜日

甲斐国志にみる富士山

『甲斐国志』(かいこくし)は江戸時代に編さんされた山梨県の地誌である。

その甲斐国志の巻之三五は「都留郡」の部分であり、富士山に関する記述で埋められている。したがって、富士山の歴史を知る上で参考になる部分は非常に多いと言える。

ここで1回『隔掻録』(かくそうろく)という別の地誌についても考えてみたい。隔掻録は文化13年(1816年)に書かれたとされる。「月所錄」とあり「月所」なる人物により書かれたとされるが、この人物についてはあまりよく分かっていない。また序に「森嶋弥十郎(子与)の友人」という旨のことが記されている。子与という人物は実は「松平定能の命により甲斐国志の都留郡の部分を担当した人物」である。そしてこの甲斐国志の記述に、自分が地元の住民や登山者などに尋ねた内容を追加し書き入れて完成したものが『隔掻録』である。だから甲斐国志と隔掻録の内容は、特に後半の多くで一致する部分が見られる。ですから甲斐国志の巻三五を読めば隔掻録の概ねは網羅したことになる。

甲斐国志巻之三五から、重要な部分を抜き出す。

  • 郡の西南二当リ南面は駿河二属シ、北面は本州に属ス
富士山の南は駿河国、北は甲斐国である。

  • 八合目ヨリ頂上二至テハ両国の堺ナシ 
8合目より上は両国の堺はない。

  • 登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口、村山口大宮口ノ四道也(中略)南面を表トシ北面ヲ裏トスレドモ古より諸国登山ノ旅人ハ北面ヨリ登ル者多シ
登山道は北は吉田口、南は須走口、村山・大宮口の四道がある。南面が表で北面が裏であるけれども、登山者は北面より登る者が多い。

  • 径弐尺御釜ト称ス此辺ヨ上女人参詣ヲ禁ス永録7(甲子)年6月小山田信有ガ文書に女姓禅定之追立トアル
女人禁制に関すること。

  • 堂アリ表大日ト云 
(七合目に)堂があり「表大日」という。これは大日堂を表大日と読んだということであり、薬師堂は表と比較して「裏薬師」と呼んだようである(隔掻録)。

  • 四五月ノ山上ノ雪消ル時遠望スレバ牛ノ形二消ノコリ或ハ鳥ノ形二残ル是ヲ農牛、農鳥ト云
富士山の雪が消える時に遠望して、鳥の形消え残っていることを「農鳥」といい、牛の形に残っていれば「農牛」という。

  • 富士八海-山中海、明見(あすみ)海、川ロ海、西(せの)海、精進海、本栖海、志比礼(しびれ)海、須戸(すと)海  
富士講信者が「八海巡リ」というものを行っていたが、その八海がこれである。須戸海は駿河国富士郡にあるので、八海巡り=甲斐国というわけではない。

  • 左の如文字尋常ノ者二通ゼズ皆異字ヲ用フ相伝人穴ノ行中仙元明神教へ給フ文字ナリト云 
角行が唱えた御神語があり、特殊なものである。またこれら特殊な文字郡は富士講みもみられるという。

2011年7月26日火曜日

都良香の富士山記

『富士山記』(ふじさんのき)は平安時代の官人である「都良香」(みやこのよしか)により著された作品である。富士山の歴史を語るときによく出される作品である。

都良香
なぜよく登場するかというと、実際に富士山に登らないと分からないような記述がみられ、平安時代という比較的早い時代における富士山頂の当時の様子を示した例として希少と考えられるからである。また文人であるため、その立場からも重要視されている。


ここから重要な部分を抜き出す。

  • 史籍の記せる所を歷く覧るに、未だ此の山より高きは有らざるなり

書物などを見渡しても、この山より高い山はないと記している。それら共通認識が平安時代には既にあった、ということになる。
  • 貞観17年11月5日、吏民舊きに仍りて祭りを致す
これは大宮での祭事を指していると考えられている(しかし明確ではない)。「吏民」は「吏」と「民」をまとめたものであり、役人(吏)と民(民衆)が混ざって祭事が執り行われていたという事が分かる。

  • 白衣の美女二人有り、山の巓の上に雙び舞う
古来より「富士山と女人」を結びつける考え方が存在したことが伺える。

  • 山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり。山に神有り、浅間大神と名づく
富士山の名前は富士郡から由来すると記している。また富士山の神としての「浅間大神」を示している。

  • 頂上に平地あり…
これは実際に登らないと書けないものである。「宛も蹲虎の如し」→現在の虎岩のことである。

このように詳細な地質的記述から、実際に登って見たその風景などを記していると考えられている。

「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」では、以下のように分析をしている。

山頂のリアルな描写は、どう見ても観念的な創作とは見られない。作者が神仙の道に多大な興味を寄せていたことを考えれば、当時の富士山にはすでに山岳修行者が存在し、彼らの見聞をもとにして、かかる文章が記述されたものと考えられる。しかし、この作品は他に類例のない、孤立した特異な資料といえる。おそらくその文章の素材は、八世紀後半の、富士山の噴煙が途絶えた一時期に登頂を果たした人物が、山頂の景観について詳細な見聞を伝えたものと考えられる。しかし、貞観6年(864)以降のあいつぐ富士山の噴火活動によって、登山が困難になったため、後につづく登山者があらわれず、これに続く記録が残されなかったのであろう。

とても興味深い作品である。

  • 参考文献
  1. 西岡芳文,「中世の富士山-「富士縁起」の古層をさぐる-」『日本中世史の再発見』,吉川弘文館,2003
  2. 小山真人,『富士を知る』,集英社

2011年7月25日月曜日

富士宮市という市名の由来

「富士宮市」という名称の由来はこのようなものである。(富士宮市HPより引用)

市ノ名称
富士宮市(ふじのみやし)トス
理由
大宮町富丘村ヲ廃シ、其ノ区域ヲ以テ新市ヲ置ク場合、其ノ名称ハ、当地ニハ駿河国一ノ宮官幣大社浅間神社鎮座セラレ、其ノ奥ノ宮ハ富士山頂ニ鎮座マシマシテ、一名富士ノ宮トモ称セラレ、往昔ヨリ人口ニ膾炙(かいしゃ)セラレ、依テ新市ノ名称トシテ真ニ相応シク、之ニ付テハ両町村共何等異議ナキヲ以テ、新市ノ名称ハ富士宮市(ふじのみやし)ト称ス。

膾炙→広く世人に好まれ、話題に上がって知れわたること
とある。これは内務省に対する提出文書であり、公的な正式文書です。

しかし、富士宮という所は「大宮」を中心としてきた地域で「大宮市」にしたかったのだが、埼玉県に既に「大宮市」が存在していたために登録できなかったといわれる。

「富士ノ宮トモ称セラレ」という部分は浅間大社が古来「富士の宮」とも呼ばれていたという意味である。全体的にはこんな感じである。

市の名称を「富士宮市」とする。
大宮町と富丘村を廃し新市を定めることとする。当地には駿河国一宮である浅間神社があり富士山頂にはその奥宮が鎮座している。浅間大社は別名「富士の宮」とも称され、人々に知れ渡る存在であった。この名称に両町村共に異論はなく、これをもって「富士宮市」とすることとする。

たしかに浅間大社は「富士の宮」や「富士宮」と呼ばれていました。
『今昔物語集』にある「富士の宮」
翻刻テキスト
そもそも大宮は、古来富士郡の大領(富士郡の最高地位)などが所在していた重要地で、「大宮城」(武田氏の滅亡の年に焼滅したと伝わる)や「大宮宿」(天正6年の今川氏下知状に既に見られる)などが形成されてきた地である。徳川幕府が代官を置いた地であったことからも重要視されていたのは間違いない。

察するに…
「大宮市」が使えないことを踏まえ模索する中で、「富士(の)宮」が「浅間神社の門前町」という地域像とも一致することから採用されたと考えられる。先人たちの地域像へのこだわりが垣間見れます。

富士宮(1867年)、大政奉還の年
つまり、とことん「地域色が強い名称」であると言えるのである。そして唯一「大宮町」としてのDNAを残せた「宮」という文字は市民の中でも大切にされている。

湧玉池畔に位置した割烹旅館「梅月」

  • 宮っ子
他にも市名に「宮」がつく地域があります。例えば栃木の「宇都宮」ですが、これも元は神社の「宮」(宇都宮大明神)から由来し、富士宮市と同様の例です。富士宮には「宮っ子」という言葉が存在します。他の地域はどうかみてみると、宇都宮市には「宮っ子チャレンジウィーク」なるものがあるくらいなので、やはり宮とつく地域には「宮っ子」という言葉が存在するようです。ゴロの良さなどもあると思いますが、「文化的なエリア」というものを潜在的に認識し、内外から呼ばれているのかもしれません。


  • 他市町村の由来
結構市名の由来は面白いものですよ。

静岡:賤機山→賤ヶ丘→静岡となったといわれる。山の名称から由来する。

焼津:日本武尊が東征の折に賊に襲われた。その時草薙の剣で対抗し火を放って難を逃れたことから。

熱海:ある時海岸から温泉が湧きでて白い煙を吹き出した。それを「熱つ海」といったことから。

御殿場:徳川家康が駿府に戻る旅路の途中、休憩所の御殿をこの地に置いたことから、または家康が没した後、日光東照宮へ運ぶ際に休憩所を置いたことによるとも。

2011年7月21日木曜日

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不二の高嶺に雪は降りける

今回は『万葉集』に集録されている、以下の著名な和歌について取り上げていきたい。

  • 山部赤人の歌

著名な富士山の和歌として、山部赤人の以下の歌が知られる(万葉集三)。

山部宿祢赤人望不尽山歌一首 并短歌

天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎
天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利
時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不尽能高嶺者

田兒之浦従 打出而見者真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留

上は万葉仮名であり、それを読み下したものが以下である。



この「望不尽山歌」であるが、「富士山を望(のぞ)む歌」と訓読されることが多いが、「富士山を望(まつ)る歌」と訓読するのが良いとする論者も居る(櫻井満『櫻井満著作集第4巻』107-108頁,おうふう,2000年)。

まず、「望不尽山歌」一首の内容を以下に示す。


「富士の山を望む歌」一首の内容意味
天地の分かれし時ゆ天地の分かれた太古の昔から神々しくて高く貴い
渡る日の影も空行く日も光も山に隠れ照る月の光もみえない
時じくそ雪は降りける季節に関わらず雪は降っている

以下にその反歌とその訳を示す。


反歌
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける
訳:田子の浦越しに打ち出てみると真っ白に富士の高嶺に雪がふっていることだ

「時じくそ雪は降りける」は「≒季節外れの雪」という解釈もでき、冬の歌ではないと考えられる。この反歌のみ取り上げられることも多いが、本来この「一首」と「反歌」はセットであるため、並べて考えられるべきである。

  • 『新古今和歌集』・『百人一首』バージョン

また時代は大きく下り、『新古今和歌集』には以下の形で集録されている。

田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

注意しなければならないのは、一般に上の歌を紹介する際「…雪は降りつつ/山部赤人」と山部赤人の名をクレジットさせているが、山部赤人自身はそのようには詠んでいないという事実である


『万葉集』『新古今和歌集』
田子の浦田子の浦
真白にそ白妙の
雪は降りける雪は降りつつ

この点について『新 日本古典文学大系1 萬葉集一』は以下のように説明している。

新古今集に「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(冬・山部赤人)。(中略)これは選者の改作ではなく、平安時代の万葉集の訓読の1つであろう

平安時代には万葉集の原歌では意味が通らず、その時代の言葉に合わせたという解釈である。しかし我々がこの歌を捉える時、まず「『新古今集』のものは赤人の言葉ではない」ということはとりあえず把握しておくべきであろう。

『万葉集』がオリジナルであるため、この二例を紹介する際に『新古今集』のものを『万葉集』より先に挙げる傾向には強い違和感を感じるものである。また二例のうち『百人一首』は後世の『新古今集』の方から採って集録している。つまり『百人一首』が初出ということは決してなく、この部分も多くで誤認されている部分である。

  • 田子浦の所在地について

この和歌にある「田子浦」は、現在の静岡県富士市の田子の浦とは異なるとするものが定説である。有力な説は静岡県清水区を比定地とする説であり、その中でも「由比」「蒲原」が良く挙げられている(どちらも清水区である)。そもそも~9世紀の記録で、現在の清水区を指して「たごのうら」とする史料は複数以上見いだせても、現在の富士市を指す形の史料は現存すらしていないのである。例えば「廬原郡多胡浦」(いはらぐんたごのうら)という記録は『続日本紀』に見いだせるが、「富士郡田子浦」といった記録も無い。
(※この部分については「田子浦と吉原湊その地理と歴史」にて取り上げたので御参照下さい)。

中谷顧山『富嶽之記』(江戸時代)には以下のようにある。

7月2日、鞠子の宿を出て、駿府浅間の社に参る。(中略)蒲原を過て、富士川の急流を越、東堤より本街道を離れ、北の方十五町、岩本村に至り、…

「鞠子宿」は現在の静岡県駿河区丸子に存在した東海道五十三次の宿である。そこから駿府の浅間神社に至るのだが、記録ではその後田子の浦へ出たとある。そして以下のように記している。

富士の雪峯に残るを見れば、赤人の歌おもひ出て風景かぎりなし

そしてその後に蒲原に至っていることを考えると、蒲原の手前のエリアを指して「田子の浦」と言っているということになる。実はこのように現在の清水区を「田子の浦」としている史料は古代に限らず近世においても多々見いだせる。一方、中世において富士川の東側を「田子の浦」とする例がみられることも事実である。つまり現在の富士市域を田子の浦とする記録が中世には存在しているということである。例えば13世紀成立という『東関紀行』は東海道西からの旅路を示すが

清見関→蒲原→田子浦→浮島が原

と移動しており、蒲原より東側を田子の浦としている。また同じく13世紀成立という『十六夜日記』は

清見関→清見潟→富士川→田子の浦

としている。特にこの『十六夜日記』は富士川の東を田子の浦としており、これは現在の富士市域といって相違ない。また江戸時代作成の『駿府風土記』を見る。

『駿府風土記』より

田子ノウラ」とあるのがそれである。この位置は現在の富士市域である。

「富士清見寺図」(16世紀)/清見寺は古くから富士山と共に描かれることが多い

  • 田子の浦ゆ

山部赤人の歌には重要なポイントがあり、それは「田子の浦」とある点である。この「ゆ」は「通って」という意味であり、そのため訳は「田子の浦越しに」とか「田子の浦を通って」といった表現となるのである。


詳細は上記で挙げた別稿で記しているが、多くで指摘されてきたように古来は由比・蒲原一帯の海沿いを指して「田子の浦」と称していたのではないだろうか。山部赤人の歌は、上の浮世絵のような情景を思い浮かばせる。

私個人としては、『万葉集』が編纂されたような時代は"庵原郡域のみ"を田子の浦と呼称していたのではないかと考える。庵原郡は現在の静岡市清水区・富士宮市・富士市が該当しますが、このうち海に面する地域に該当するのは清水区のみであるので、清水区こそがこの時代の田子の浦ではないかと思うところである。

  • まとめ
大きく以下の点がポイントとなる。

  1. 『万葉集』成立の時代(8世紀とする)、田子の浦の所在地を現在の清水区としている史料は存在するが(『万葉集』・『続日本紀』)、現在の富士市としている史料はそもそも存在しない
  2. その上で、現在の富士市を指すと解釈し得る史料の早例は13世紀の『十六夜日記』等であり、時代は下る
  3. 中世に関わらず近世にかけても、田子の浦の所在地は史料によって清水区を指すものと富士市を指すものとで混在している

これらの事実を考えると「山部赤人の歌にある「田子の浦」とは何処であるのか?」というテーマで議論する際、まず諸説として「富士市説」を先頭として挙げていること自体が妙であるということが分かるのである。諸説ある中で、富士市説は筆頭にはならないだろう。

また「3」については膨大な史料を検討する必要があり、今後の研究に期待するところである。

2011年7月19日火曜日

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神

吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講」の続編みたいなものです。北口本宮冨士浅間神社ですが、中世以前の当神社について述べたものは、意外に少ない。そこで創建からおおまかに振り返りたいと思います。

  • 創建
『甲斐国社記・寺記』に

延暦7年甲斐守紀豊庭朝臣造営、延暦8年甲斐守紀豊庭朝臣大塚丘浅間明神現地へ移す、仁和元年甲斐守藤原当興朝臣造営、貞応2年北条右京大夫平義時建立

とある。延暦7年(788年)に紀豊庭が造営し、延暦8年(789年)には大塚丘に祀られていた浅間明神をその場所に移したとある。そして仁和元年(855年)には藤原当興が造営し、貞応2年に平義時が建立したとある。甲斐守や右京大夫は「職」みたいなものです。「大塚丘」にはヤマトタケルが遥拝したという伝承がある。

つまり浅間神社はその場所に移されたわけであり、起源の時点であったわけではないことが伺える。また『甲斐国志』にはこのようにあります。

往古ヨリ此社中ヲ諏方ノ森ト稱スルハ浅間明神勧請セザル以前ヨリ諏方明神鎮座アル故ナリト云古文書二諏方ノ森浅間明神トアル是ナリ

「浅間明神は諏訪森に勧請されたのだが、それ以前にその地には諏訪明神が鎮座していた」ということを示している。つまり平たく言うと、諏訪神社の境内に浅間神社が勧請という形で祀られることとなったと考えていい。そしてこの勧請という形で祀られることとなった浅間神社が富士講により立場が大きくなり、今現在「浅間神社」という扱いとなっているという感じだと思われる。

戦国期甲斐国側の浅間神社と領主武田氏と小山田氏」にて小山田信有の諏訪禰宜に対する判物の内容を掲載したが(天文17年)、これらの記録について「武田信玄と富士信仰」では以下のように述べている。

このことからして、当時はまだ吉田の北口浅間神社はできておらず、この場所には諏訪社のみが鎮座していたものといえよう

まずこれは現在の北口本宮冨士浅間神社に対する判物であるが、それが諏訪禰宜に宛てられている事実がある。また「新宮を立てる場合」という記述からも、諏訪社のみが鎮座していたことを伺わせる内容である。

また上記の「大塚丘」について、「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」では以下のように説明している。

この塚は、浅間神社の勧請によってそれまでの遥拝所がつぶされたので、永禄以後に新たに設けられた遥拝所と考えられる。

このように、諏訪神社という信仰空間に勧請という形で浅間神社が祭祀されるようになったと考えられている。

諏訪大明神富士浅間宮火防御祭礼之図
  • 吉田諏訪大明神
『妙法寺記』には明応3年(1494年)と明応4年にそれぞれ「吉田村諏方大明神 鐘武州より鋳テ上ル」「吉田鐘楼堂此年卯月棟上ス」とある。このときは吉田諏訪大明神という認識の上での建立であったようである。当時、まだ富士講は存在していませんでしたからね。

  • 八葉九尊図

a:浅間神社 b:仁王門 c:すわ大明神(諏訪神社) d:よし田ノ町
下の木が多くある部分は諏訪森と考えていいと思う。これは『八葉九尊図』(1680年)で、八葉(仏教的用語)を中心とする曼荼羅図のようなものである。当時の様子がよく伺える重要な図である。

  • 参考文献
  1. 山梨県立図書館,『甲斐国社記・寺記 第1巻』P871-874・940-947,1967年
  2. 『甲斐国志』神社部第十七
  3. 『妙法寺記』・『勝山記』
  4. 富士吉田市歴史民俗博物館,『博物館だよりMARUBI №29』
  5. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  6. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年

2011年7月16日土曜日

浅間大社の菊花紋と葵紋と五三桐

富士山本宮浅間大社の建築として注目される箇所に、「蟇股(かえるまた)」がある。「浅間造」の二階の部分の蟇股には複数の「家紋」が見られるのである。今回はその部分について迫って行きたい。

  • 史料に見る家紋の記録

中谷顧山『富嶽之記』(1733年)に「本殿二重閣、彩食彫物等美盡し、菊葵の紋あり」という記述がある。つまり少なくとも18世紀前半には「菊花紋」と「葵紋」の彫刻が本殿にあったということになる。

『浅間神社の歴史』ではこれを「富士氏の家紋と間違えたのではないか」という見解を示しているが、実はそうではない。本殿はかなり高い位置にあり、また蟇股という細かな部分になるので見逃しがあったのだろう。

  • 菊花紋と葵紋が並列する蟇股

非常に興味深いのであるが、正面蟇股という重要な部分に「菊花紋」と「葵紋」が並んでいる(※かなり撮影の難しい箇所であるため画像が粗いですがご了承下さい)。



右が菊花紋で左が葵紋である。


十六菊
徳川葵













建部(1998)は

身舎の蟇股でまず目を惹くのは正面中央の蟇股で、脚の内部に菊の紋と葵の紋が二つ並んでいる。衆知のように、菊の紋は天皇家の紋であり、葵の紋は徳川家の家紋である。当然のことながら、正面中央というのは一番重要な場所であり、徳川家康が幕府直轄の仕事として浅間大社の造営をしたとすれば、正面に葵の紋をもってくるのは当然と考えられる。しかし、何故家紋の並列した題材を彫ったのか、という疑問が残る。管見の限りでは、2つの家紋、しかも菊の紋と並べた蟇股というのは残念ながら知らない。これも富士山本宮浅間大社の特徴の一つとしてみてよいだろう。

とあり、建部氏の述べることはもっともである。

  • 葵紋のみの蟇股

本殿の西側の蟇股には「葵紋」が単独で見られる。富士山本宮浅間大社が徳川家と関係が深いことは知られているが、これはその一端であろう。


建部(1998)は

上層身舎の西側面、北側の柱間にとりつけた蟇股は、中央に葵の紋を配しその周りを唐草で囲んだ彫刻が施されている。浅間大社の西側には、現在もそうであるが、富士山への登山道があった。つまり、登山に先だってまず神前で参拝した人々は、西側の登山道からも浅間大社の本殿を見ることができたのである。

としている。西側が登山道となったのは比較的新しいので、建部氏のこの箇所の論考には同調できないが、葵紋があることは必然と言えよう。


  • 菊花紋と桐紋が並列する蟇股

東側は「菊花紋」と「桐紋」が並列する蟇股である。



建部(1998)は

それでは何故、「関ヶ原の合戦に大勝した徳川家康が造営に着手したと伝えられる」浅間大社の本殿に、豊臣家の家紋を題材にした蟇股が取り付けられているのだろうか。(中略)慶長11年(1606)より少し前に造営された浅間大社本殿の蟇股に、豊臣家を象徴する五三の桐の紋が取り付けられていたわけであるが、ここでその頃の時代背景を少し考えてみたい。(中略)したがって、慶長11年に浅間大社の社殿が造営された時には、まだ豊臣氏は滅びていなかったことになる。

としている。まだ豊臣氏が滅ぼされていなかった時代であるので、一定の配慮を持ったという見解を示している。

  • 蟇股の富士山

直接的には浅間大社の建築物に富士山は描かれていないと思っていたが、背面中央の部分に富士山が装飾されている。これもまた浅間大社特有であると言えるだろう。


特別な建築(浅間造)であるが故に、目に見えないところにこういうものが隠れていたのである。

建部(1998)は

背面の中央に取り付けられた蟇股の脚内には、富士山が描かれている。蟇股の題材として富士山が描かれているものは、ここ浅間大社だけであり、他に例がないと思われる。

としている。


  • まとめ


徳川家は富士山を特別視していたことは間違いない。松島仁「富士山学を拓く」(『静岡県富士山世界遺産センター News Letter-Vol.34』)によると、江戸城本丸中奥休息の間のうち、上段の床間には三保の松原や清見寺をともなった富士山が描かれているという。松島氏は

将軍の身体と一体化することにより「御威光」を生み出す文化装置。それこそが江戸城内に描かれた富士山でした

としている。そしてここに絵画の「政治的側面」や「思想面」を見出だせるとしている。この蟇股に描かれる富士山にも同様のものを感じるのである。

  • 参考文献
  1. 建部恭宣「浅間大社本殿の建築形式」『東海支部研究報告集 36』,1998
  2. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P147(1974年版),名著出版
  3. 宮地直一『浅間神社の歴史』(1973年版)P305,名著出版
  4. 松島仁「富士山学を拓く」『静岡県富士山世界遺産センター News Letter-Vol.34』,2017

2011年7月15日金曜日

浅間大社と神仏習合

富士山に神仏習合の影響があるということは、浅間大社も神仏習合の影響があるということになります。

富士山本宮浅間大社は間違いなく神仏習合の形はありました。
社頭絵図写し(1672年)
例えば護摩堂であるが、これは既に1560年の『今川氏真判物』の中で触れられている。

富士大宮司別当領之事  (中略)然者社中護摩堂年来断絶之上、…

地震や噴火などで倒壊して場所は変わった可能性はあるが、1560年には少なくともあったということが確認できる。2008年の発掘調査でも護摩堂跡が見つかっているが、当時の記事では「道者が護摩堂を見おろせられる位置に存在した」とある。

また、この図には「三重塔」が描かれている。浅間大社にはかつて三重塔が存在していた。その他多くの仏教的建築が見られる。まさに神仏習合がみてとれるのである。

『別当祐泉口上書写』では

一 社家二神体ト申体ヲ、佛家ニハ御正体申習い、浅間大明神浅間大菩薩トモ、何百年来唱来申候御事。

とある。ご神体は「浅間大明神」や「浅間大菩薩」などと呼ばれたということで、「浅間大菩薩」という語は神仏習合に影響を受けた言葉だと思う。特に社家より佛家(仏家)で「浅間大菩薩」は用いられたようである。

しかしこれらは神仏分離令によりことごとく破壊されることとなる。

2011年7月14日木曜日

浅間造とは

  • 浅間造りとは
浅間造は桁行五間、梁間四間の構造の上に更に社殿を構成する二重構造の神社建築。他の二重構造においても浅間造と言われる。浅間大社の社殿は浅間造で重要文化財に指定されている。


  • 浅間大社の浅間造
浅間大社の浅間造は徳川家康が造営したもので「富士山が正面に見える位置に上げ、お供え物をする」という意味があったと言われている。1604年から造営が始まり1606年に完成している。家康は富士山が好きであったと言われており、そのようなことも関係していると思われる。富士山を大切に思い、大宮(富士宮)を特別視したのかもしれない。

『富士曼荼羅図』にみられる浅間大社の浅間造(江戸時代)

  • 浅間造という名称
上の富士曼荼羅図でもみられる浅間造は、徳川家康による造営である。しかし当初は「浅間造」とは呼ばれていなかったようである。様々な書物ではこのように表記されてきた。

『大宮司別当公文案主連署造営見分願写』(1708年):「賽殿造」
『富嶽之記』(1733年):「本殿二重閣」
『駿河記』(1809年):「本社二階」

このように「二階」や「二重」などの用語にて表現されてきたようである。

  • 参考文献
建部恭宣,「浅間造の研究」1~10(論文)

2011年7月8日金曜日

江戸駿河町と富士山

今回は日本橋界隈の「駿河町」(旧名、日本橋室町、東京都中央区)について取り上げたいと思います。なぜ駿河町かというと、駿河町は富士山とセットで描かれることが多く、「江戸と富士山」といったらまずでてくるのが「駿河町」であるからである。

ここで少し駿河と江戸の関係について載せてみたいと思う。

参考:家康公を学ぶ

  • 駿府銀座と江戸銀座
駿府銀座の由来は慶長13年(1608)に徳川家康が京都伏見の銀座を駿府に移したことにはじまるという。その駿府銀座が慶長17年(1612)に江戸に移されることになったそれが現在の銀座であるという。町の区切りなども駿府銀座を参考にしたという。
  • 金座
駿河には小判を鋳造する金座があった。駿河にある、秤を使って駿河小判を鋳造していた場所が現在の日本銀行静岡支店の場所という。その金座は慶長17年(1612)に江戸に移された。江戸金座があった場所が現在の日銀本店の場所という。

紫のエリアが静岡市金座町
そして本題の駿河町についてです。これもHPを参考に冒頭は説明します。

この駿河町の由来をまとめると「駿河町は駿河の者によって開かれた町なので、駿府の七間町から見た城と富士山の景色を江戸に再現するためや懐かしみから駿河町とした」という感じになります。
駿河の人によって開かれたというのはなかなか信ぴょう性があると思います。そういうことは結構あったりするものです。これはもっともっと後の時代の話かもしれないが、現在の静岡市中心部(や富士宮市中心部)の人は甲斐国から移り住んだ人が多いという説がある。甲斐国の人々は商売上手であり、成功者が移り住んだという説だ。のんびりした駿河国にはないセンスを持ち合わせたのではないかと思う。富士宮も昔は商都であったので、多くの人が行き交っていたと考えられる。

  • 絵画
駿河町を描いた絵として、有名な歌川広重の『名所江戸百景』「するがてふ」という浮世絵がある。
『名所江戸百景』「するがてふ」

あと、この有名な絵も駿河町である。
「朝鮮通信使来朝図」

またこちらも有名だ。三井越後屋のマークが見て取れるが、現在でいう「三越」である。
「江都駿河町三井見世略図」
江戸の人たちが富士を特別に想っていたのではないかと推測される。

今年は日本橋100周年らしく、イベントを多くやるそうである。金座・銀座含め、こういう部分も注目してもらえたらいいなと思う。

  • 参考文献
久保田淳,『富士山 信仰と芸術の源』P216-229,小学館,2009年

2011年7月4日月曜日

富士山の豆知識

富士山にはなかなか面白いエピソードがあります。それも特別な山ならではなのかもしれません。「富士山の高さは3776メートル」とかそういうことではない豆知識をご紹介します。(既にブログで出ている内容は載せていません)

狩野探幽「富士山図」
  • どこまでが富士山なのか
富士山は「噴火物が届いた範囲」までとされています。これを基準とすると周囲153km、直径は東西39km、南北37km、面積は900平方キロメートルになります。「火山灰」は含まれません。それを含んでしまうと関東一円が富士山となってしまいます。そもそも「噴火物が届いた範囲」という定義自体に無理があると思います。
浅間大社奥宮
  • 世界文化遺産としての富士山の範囲
これはあまり知られていませんが、世界文化遺産としての(申請中)富士山とは、「富士山山体の内、標高1500m以上の範囲」と明確に定義されています。村山浅間神社などはいわゆる「構成資産」です。

  • 富士山頂には郵便局がある
富士宮口頂上に「富士山頂郵便局」という郵便局があります。ここからはがきを投函すると、 オリジナルの印を押してもらえるようです。また富士山頂郵便局の限定品などが多く販売されており、登山証明や思い出としても良いと思います。

  • 「富士」と「冨士」
「冨」は画数でいうと11画です。陰陽の考え方で奇数は陽となります。昔は陽は縁起がよいとしたのでそれにちなんで「冨士」とすることがあります。葛飾北斎の「富嶽三十六景」・「富嶽百景」などをみると混在されており、特別統一はされてないようですね。

  • 五千円札の富士山
五千円札の富士山は岡田紅陽という人が本栖湖の北西岸から撮影した富士山です。

  • 富士山頂から見る水平線までの距離
富士山頂剣ヶ峰から見える水平線までの距離はピタゴラスの定理によるとこうなるようです。



rは地球の半径の約6400km。答えは220kmだそうです。

  • 〇〇富士という山
実は日本各地には「〇〇富士」とつく山が全国各地にあります。形が富士山に似ているためにそう呼ばれるのです。全国278もの例があるそうです。最も北の例では北海道の「利尻富士」、南は沖縄県で「本部富士」などがあります。

  • 富士山が一番遠くから見える場所
富士山が最も遠くから見える場所とされているのは和歌山県那智勝浦町とされています。

業平東下り図(尾形光琳)

  • 登山道は県道 
登山道は実は「県道」だったりします。富士宮口は静岡県の「県道」の1つであり、吉田口は山梨県の県道の1つです。吉田口なら正式名称は「県道富士上吉田線」といいます。

---終わり

  • 参考文献
  1. 富士吉田市歴史民俗博物館,『博物館だよりMARUBI №19』
  2. 小山真人,『富士を知る』,集英社
  3. 「推薦書原案」