2025年7月27日日曜日

蔦屋重三郎版元で葛飾北斎画の狂歌本から富士宮市の歴史を考える

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では"狂歌"が1つのキーワードとなっている。そして狂歌本を出版する描写も大河ドラマ内で確認できる。

そこで考えていきたいことに、狂歌に富士宮市を題材としたものは無いのだろうか、ということがある。『往来物』のタイトルにもなっている地であるから、あるに相違ない。

そこで少し探してみたところ、それらしきものが確認されたので、少し検討してみようと思う。その狂歌集は寛政11年 (1799)『東遊』(『狂歌東遊』)である。

葛飾北斎


『東遊』は葛飾北斎画で浅草菴市人撰の狂歌集である。蔦屋重三郎刊であるが、これは二代目である。そして今回挙げたいのは以下の収録歌である。

みくらゐに のほるや不二の 山さくら 大宮口の 花さくやひめ/末広菴長清

狂歌師「末広菴長清」は正木桂長清とも言うようである。(石川2008;p.66-67)には以下のようにある。

小林ふみ子氏のご教示によれば、桂長清は伯楽連、後に浅草連の主要人物の一人として富士見連を率い、末広庵とも称したという。

その小林氏の論稿である(小林2008)にて挙げられている「♦9」「♦10」「♦32」の作品にも名が見える。

では狂歌を見ていきたい。みくらいは=御位で、「さくら」と「花咲く」と「サクヤヒメ」をかけている格好である。17世紀には富士山の垂迹神は木花之佐久夜毘売となっていたため、それが素直に反映されている。

またここでいう「大宮口」とは、大宮・村山口登山道で言うところの大宮口であると思われる。「大宮口」は歴史用語であり、様々な史料に認められる。では近い年代の史料を数点挙げてみたい。

三方に道あり駿河よりのぼる方を大宮口といふ。 相模路より登かたを須走口といふ。(中略)甲斐より登るかたを吉田口といふ。 ー文化14年(1817)/小山田与清『國鎮記』


国学者の小山田与清による著である。富士山の登山口を「三口」で表す、往古よりの王道パターンである。

甲州より登るを吉田口といひ駿州ゟ登ルを大宮口といひ相州より登ルを繕走口 ー文政7年(1824)/十返舎一九『諸国名山往来』

蔦屋重三郎は十返舎一九とも懇意にしていたことでも知られている。これも富士山の登山口を「三口」で表すパターンである。

十返舎一九

勿論もっと古い時代の記録は存在しているが、比較的近い時代のものを挙げてみた。須走口が各史料で「相州」とあるのは、御厨地方(小山町から御殿場市一帯、裾野市の一部)は小田原藩領であったためである。なので宝永大噴火による被害で御厨地方救済に動いていたのは、小田原藩二代目藩主の大久保忠増だったわけである。

ところで『國鎮記』や『諸国名山往来』には「村山口」の文言が見えない。では村山口は存在していなかったのだろうか?…もちろん否である。

つまりこれらの記述は大宮口(村山口)という意で記しているのである。この事実そのものが、現代において「大宮・村山口登山道」と呼称される根拠となるものと言える。勿論、大宮→村山→富士山という登拝様式が登山記等から認められる事実からもそう言えるのではあるが。

また絵図においてもこの現象は同様であり、小泉斐『富岳写真』の「冨士山南面従吉原馬到十里木村全図」は麓から山頂にかけて「正面大宮口」の文字で埋められている。これは当の本人が富士登山を行っている。これも村山口が存在していなかったというわけではなく、大宮口(村山口)という意で記していることになる。

この『富岳写真』であるが、文献により解説が異なり判然としない。(羽黒町1994;p.9)には以下のようにある。

小泉斐は寛政7年、立原翠軒ら水戸藩士5人とともに富士登山を行っている。このとき登山の有り様を写生して『富士山画巻』をものにした。(中略)小泉斐が弘化2年、80歳の時に上梓した『富岳写真』一巻は、天覧に供された『富士山画巻』より数十図を選んだもであった。

このようにあり、『富岳写真』の作品は寛政期まで遡る潜在性を有しているように見受けられる。一方(栃木県立美術館, 滋賀県立近代美術館編;p.136)には以下のようにある。

寛政6年(1794)、水戸藩士大場維景は富士山登頂を果たした。それに触発された同藩史局の総裁立原翠軒ら5名は、翌7年(1795)、『大日本史』編纂の史料調査のため関西方面に赴くが、その江戸へ帰る途上に富士登山を試みた。(中略)その登山過程の風景をスケッチしたものが《富岳真状》(東京都中央図書館蔵)であり、それを浄写したのが本図(註:富士登岳図巻)である。

また(栃木県立美術館, 滋賀県立近代美術館編;p.138)の『富嶽写真』(富岳写真)の解説は以下のようなものである。

斐が富士登頂を果たしてから50年が経過して出版された版本である。(中略)本図の他、府中市美術館本、東京都立中央図書館本、東京国立博物館本など複数の異本が存在し、それぞれに出版の際の事情が反映されている。奥書には、斐の門生島崎玉淵ら4名が中心となり刊行を企画したことが触れられている。

このように「富士登山の際スケッチしたもの」と「それを浄写したもの」、「後に選定し出版したもの」の存在が明かされており、やはりそれぞれの関係が判然としない。少なくとも、富士登山が行われた18世紀の風景・考えが反映されたものと考えて良さそうである。

19世紀前半になると多くの地誌が著されたので、大宮口や村山口という文言を見る機会が急激に増えてくる。『駿河記』は1820年、『駿河国新風土記』は1834年、『駿国雑誌』は1843年、『駿河志料』は1861年という具合である。

これら駿河国の地誌だけではなく且つ時代が遡る史料においても多く「大宮口」の文言が確認されることから、大宮口の存在は広く認識されていたものと考えられる。狂歌に歌われるに十分な背景があるというわけだ。

また面白い史料がある。文政13年 (1830)の喜多村信節『嬉遊笑覧』に以下のような箇所がある。

「これをかたらひ山の頂にて終らんことをはかるに須山口大宮口等の者ども…」

これも富士山中の描写であって、やはりそこでも大宮口の文言を用いている。このように見ていくと、当時の慣例として富士山頂までを包括して「大宮口」としている例が多く認められることが分かる。

一方、両方の文言を用いて説明している場合もある。例えば以下のようなものである。

此山〔南口 須走口村山口大宮口三道あり〕を表とし… /嘉永4年(1851)『甲斐叢書』

このように駿河国の登山口は「表口」とも称されていた。各史料を見ると、大宮・村山口だけでなく須走口も表口と称されていたことが分かる。「大宮口」「村山口」「須走口」すべてが表口である。

江戸の文化人が、富士山の祭神として木花之佐久夜毘売を認識しており、そして富士山の登山口として大宮口を知り得ていたことを示す一史料といえる。近年、学術面ではない部分で大宮口の認識を急速に失わせようとする活動が確認されるのは、明確に誤った方針であると言える。


  • 参考文献
  1. 黒羽町教育委員会『黒羽が誇る 小泉斐回顧展(図録)』、1994
  2. 栃木県立美術館・滋賀県立近代美術館編『江戸絵画にみる画人たちのネットワーク 小泉斐と高田敬輔』、2005
  3. 小林 ふみ子「江戸狂歌の大型摺物一覧(未定稿)」『法政大学キャリアデザイン学部紀要 5巻』、2008、227-264
  4. 石川了「三世浅草庵としての黒川春村(補遺)」『大妻国文 巻39』、2008、53-67

2025年4月27日日曜日

天子ヶ岳の瓔珞つつじ、炭焼長者伝承と田貫次郎の娘延菊の伝承について

TVにて富士宮市の民話が放送されるようなので、今回取り上げていきたいと思う。 



この天子ヶ岳の瓔珞ツツジの民話は、典型的な「炭焼長者」系統の民話である。全国に残る炭焼長者の民話は、概ね以下のような筋書きを有する。


炭焼を生活の糧とする男が居て、その男に関する風説または夢の中での登場などによって遠く離れた女性に男の存在が認識される。その女性は高貴な立場である。女性は実際男に会いに来る。女性は小判を男に授けるが、男はお金に関心がなく、池に投げ入れてしまう(鳥に放つ)。その無心さに女性は驚く。二人は無事結ばれる。炭焼きの炭が黄金と化し、男は長者と呼ばれるようになる。


炭焼長者の民話には「池/淵」と「小判」が登場することが殆どである。これがこの民話の原型である。池は小判を投げ入れる存在であったり、女性が自身の姿を映す鏡として登場することもある。炭の黄金化は、民話を読む限りでは女性と出会う前から既に発生していた現象であったと読み取れる。男はそれが価値のあるものと分かっていなかった、というように読み取れる。

同民話は様々な解釈が可能である。男性側で言えば無欲・無心さの推奨であったり、文明を知ることの重要性を示唆しているようにも思える。女性側で見れば、身分に拘らないことなどを示唆しているようにも思える。どう解釈するかは、人によっても分かれるだろう。

天子ヶ岳の民話は炭の黄金化の要素が薄まり(黄金が出る等に変化)、ここに女性の最期を含めているという点で、棲み分けができるように思う。天子ヶ岳は静岡県と山梨県に跨るとは言っても、山頂一帯は静岡県富士宮市に所在している。天子ヶ岳の民話はそれぞれ異動があるが、富士郡(つまり静岡県)が軸となっていることが多い

また山中共古『吉居雑話』によると、富士郡大宮(富士宮市)の俗謡として天子ガ嶽の瓔珞つつじが歌われていたとある(『諸国叢書』No.1、1984年)。山中は明治40年(1907)から明治45年(1912)まで吉原(現在の静岡県富士市)におり、その折に『吉居雑話』は著された(広瀬1987)。

この一帯に伝わる民話は、以下のような筋書きである(中山1933;p.939)。


ヤウラクツツジ〔瓔珞躑躅〕

富士山の裾野に炭焼の松五郎が住んでみたが、或時王女が訪れ来て夫婦となり、松五郎は有名な炭焼長者となった。其後王女は病を得て永眠されたが、遺言により王女の瓔珞の冠を都見える天子ヶ嶽に埋めた。其翌年の春埋めた冠から芽が出て美しい隣躅が咲いた。此躑躅の枝を折ると、必ず大嵐があるとて里人は恐れてゐる(裾野の伝説)。炭焼長者伝説の一變型である。


そして文政3年(1820)の『駿河記』には以下のようにある。


天子ヶ嶽 或きりう山といふ 
富士山より西にあたる高山なり。此嶽は駿河甲斐二図に跨る。西南は嶺まで上稻子村に隷す。同村入山より登凡三拾餘町許、丑寅は猪頭・内野・佐折・原・半野五ヶ村に隷す。西北は甲斐國上佐野郷に隷せり

この山の頂に古塚あり。俗傳云むかし天子の皇女を葬し奉る所。故に天子獄と唱ふ。丑寅の麓に長者ヶ原と稱する廣き邱あり。中に池沼あり。むかし炭焼をのこ此處に住す。某の皇女あやしき所謂ありてこの國に下り、彼賤男の妻となり、また富士の麓に黄金出で、これを得てをのこ俄に富貴の身となり彈南長者と呼ぶ。

皇女薨御の後、高貴人なればとて此山上に登せて葬し奉る。今御塚の傍に瑤珞躑躅とて生じたる木、次第に大木となり實を結びて今は其種落ち、苗木多く生ずといふ。其外長者のことに賴朝卿富士御狩を率合附會して種々の俗談あれどもここに漏す。

但しこの野説を按に、竹取物語等によつて俗の混じ傳へたることにやあらん。然れども弾南長者の事跡、總て芝川通の諸村の俗頻に語傳へ、猪頭遠照寺七面堂に彈南が位牌を置ことなど縁あるべし。(以下略)

以下に地図を掲載する。



地図を見ると分かるように、天子ヶ岳から向かって西は南部町・身延町(山梨県南巨摩郡)、北は長者ヶ岳・毛無山等を経て本栖湖(身延町および富士河口湖町)が位置する。その関係からか、天子ヶ岳の民話は富士宮市だけでなく南部町や富士河口湖町にも伝わっている

以下に富士宮市以外の地で伝わっていたものを一覧化する。また芝川町に伝わっていたものもここに記す。

伝承地(芝川町以外は現在の自治体名)女性の設定男性の設定(居住地)出典
山梨県南都留郡富士河口湖町京の長者の娘藤次郎(静岡県富士宮市猪之頭)(小澤・稲田1981;p.148)
富士河口湖町京の公卿の娘藤次郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.148-149)
富士河口湖町都の姫藤二郎(小澤・稲田1981;p.149)
富士河口湖町京の天子の姫藤二郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.149)
富士河口湖町天皇家の操の姫 藤次郎(猪之頭)(小澤・稲田1981;p.149-150)
山梨県南巨摩郡南部町皇女松五郎(富士の麓)(小澤・稲田1981;p.150)
南部町醜い都の姫君長次郎(富士の麓)(小澤・稲田1981;p.150)
旧富士郡芝川町皇女様松五郎(柚野、生まれは甲斐の明日見)(渡辺昭五1982;p.232-233)
旧芝川町お姫様駿河国の富士の麓の長次郎(渡辺昭五1982;p.233-234)
旧芝川町富士姫富士のふもとの藤次郎(渡辺昭五1982;p.234)

つまり富士宮市の民話が隣接する地にも伝搬していたのである。男の名前が変化するのは、口承故だろう。富士河口湖町の伝承が男の居住地を猪之頭とするのは、同町の人も頻繁に利用したと推測される中道往還がこの周辺を通過するため、同地が仮託されたためではないだろうか。

一方で南部町の伝承では「富士の麓」等とあって、猪之頭ではない。これは南部町から富士宮市に行く場合、中道往還を経ることはないためである。また南部町の方が富士宮市と文化圏が近く、天子ヶ岳も近い。であるから、南部町のそれは富士宮市固有の伝承により近いものになっていたはずである。芝川町・南部町のものは、炭の黄金化が組み入れられていないという傾向がある

南部町には上佐野という地域がある。南部町も富士宮市同様に佐野姓が多くおり、富士宮市の稲子地区を根拠地とした佐野氏との関係性は従来より良く指摘されている。(服部1980;p.290-291)には以下のようにある。


上佐野の歴史は佐野備後守綱好から始まる。「佐野備後守綱好ハ文明3(1471)年関東大乱ノ砌リ当地ニ引籠り天子ヶ嶽ノ麓ヲ開基トシ、ソノ名字ヲ以テ所ノ名ヲ佐野村ト号ス」という銘が、崩れた塔にあったということが寛延元辰(1748)年10月の文書にあり、村人の悉くがそれを信じている。名字を以って佐野の村名ができたということは疑わしいが、備後守の存在は歴史的事実であろう。

このように、天子ヶ岳との文化圏の近さを感じさせるものがある。そして全国に多く残る炭焼長者系統の民話の1つに過ぎないのにも関わらず、この天子ヶ岳の民話は特別な魅力を放っている。それは天子ヶ岳頂上に伝承を所以とする史跡が残るためである。(小檜山俊1970:p.67-71)には以下のようにある。

天子岳の頂上は、ちょっとした林間広場である。そのはずれに、小さな、古びた石の祠。その両側にサルスベリのようなツツジの大樹が二本。祠の前から、かすかにくだる道がある。(中略)その夜、ノブさんからこんな話をきいた(註:山梨県南巨摩郡南部町上佐野小草里に住む女性)。

天子岳にちっちゃなお宮さんがござったげな…。あれはなあ...むかし、富士のすそ野に松五郎という炭焼きがおじゃってな、毎日毎日炭を焼いていなさっただ。その炭を焼く煙をみて、天子様のお姫様が都からはるばるたずねてござしゃった。なんでも、煙の立つほうにお姫様の良縁があると神様のお告げがあってなあ…。

そして松五郎とめでたく夫婦になられただ...じゃが、間もなくお姫様は病気でなくなってしもうた...。松五郎はきっと都の天子様が悲しんでおられるだろうと、姫の形見の瓔珞の冠を、都からみえるあの高い山へ埋めた…そして冠を埋めたあとに、あの石のお宮さんをたてたんじゃ。天子様がお姫様のことを思い出されたら、いつでもこの山を見てくだされ…。そしたらここには姫の形見があります...と天子様に申し上げたい気持ちで松五郎はあのお宮さんをおったてたんじゃろ。そいであの山を天子岳と呼ぶようになったんじゃて。

お宮のそばに大きなツツジの木があったじゃろ...村ではみんな瓔珞ツツジといってなあ、あのツツジの枝を折ると必ず雨が降ったもんじゃて…、お姫様がが泣きなさる涙雨じゃ…いうてなあ、わしらちっせえころ、長雨が続いたりすると、だれじゃ、天子様のツツジを取ったのは…よう叱られたもんじゃて…。小草里という名にふさわしい、草深い山村のロマン伝説である。


やはり昔の人は話し方が上手い。おそらく民話を口で伝えるということに慣れているのだろう。それはいいとして、この石祠と瓔珞ツツジは現存している。しかし2本あったという瓔珞ツツジのうち1本は枯れてしまったという。

皇女の死後まで含めた物語の美しさと民話に仮託された史跡が現存するという要素が、この天子ヶ岳の民話をより魅力的なものに変化させている。

またこれの派生形として田貫湖周辺に伝わる尹良親王伝説と一体化した民話も存在する(渡辺昭五1982;p.234-235)。こちらは炭焼の男という設定ではない。しかしこれは明らかに従来の伝承にさらに附加する形で形成された民話である。これは『浪合記』『信濃宮伝』に見られる伝記(史実ではない)に影響を受けた形だろう(近藤1906)。『浪合記』は近世に多く書写されたというから、それが地方に伝搬し、形成されたのであろう。筋書きは以下のようなものである。

田貫湖辺りの内野の地に田貫次郎という者が住んでおり、そこに東国から遠征してきた尹良親王一行が訪れてきた。田貫次郎の娘である延菊は親王の世話を行った。やがて親王は上野国に向かうが、道中で戦死してしまう。富士郡の人々はこれを悲しみ、天子ヶ岳の頂上に祠を設け弔った。

戦死の知らせが延菊の耳に届くと、これを深く悲しみ、食べることも寝ることもしなかった。ある日の夜、延菊はひっそりと家を抜け出し、天子ヶ岳の頂で頭に冠を載せ手に瓔珞を捧げて殉死してしまう。郷人はこれを哀れみ、天子ヶ岳に合葬した。翌年、その地から1株のツツジが生えてきて美しい花を咲かせた。

郷人はその花の形が瓔珞に似ていることから延菊が霊化したものと考え、その木を瓔珞ツツジと名付けた。その枝を折ると晴天であってもたちまち黒雲を生じ、大雨を降らすという。人によっては雨乞神として敬ったともいう。


実は田貫湖周辺というのは、このような雨乞いの要素を含む民話が多く残っている。それは何故だろうか?

その答えとして「水不足が問題となることが多かった」ということが考えられる。以下は富士宮市・富士市の河川分布図である。



これを見ると分かるように、富士宮市は全域に河川が分布している。古代から考えてみよう。縄文時代草創期の集落跡を示す国指定史跡「大鹿窪遺跡」がそうであるように、富士宮市域は古から発展していた地域であった。大規模集落跡は河川の付近に所在する例も多く、大鹿窪遺跡もその例に漏れない。つまり文明の条件として河川は極めて重要な存在なのである。

同遺跡からは伊豆神津島産や信州産の黒曜石が出土しており、他地域との交流があったことが分かっている。しかしこれら大規模な遺跡は多くあったわけでは決してないのだから、それがある地域はオアシスであり、ある意味では大・大・大都会であったわけである。

しかし天子山地付近というのは、河川の空白地点となっていた。それは古代を経て中世・近世も不変であった。富士山の麓と異なり相対的に標高が低いこの一帯は、人も居住していたことであろう。しかし河川がなければ、水の入手は降雨に頼るしかない。そのような環境下で「雨乞い」の民話が成立したのは、想像に難くないだろう。


  • 参考文献
  1. 近藤瓶城(1906)『史籍集覧 第3冊』,近藤出版部
  2. 中山太郎(1933)『日本民俗學辭典』,昭和書房
  3. 小檜山俊(1970)『東海自然歩道』,養神書院
  4. 服部治則(1980)『農村社会の研究―山梨県下における親分子分慣行 』,御茶の水書房
  5. 小澤俊夫・稲田浩二(1981)『日本昔話通観 第12巻 山梨・長野』,同朋社
  6. 渡辺昭五(1982)『日本伝説大系 第7巻』,みずうみ書房
  7. 『諸国叢書』(1984),成城大学民俗学研究
  8. 広瀬千香(1987)『諸国叢書 第四輯』、成城大学民俗学研究所、242-244