誰が?なぜ? 富士山登山道に無数の矢印 富士宮口6~8合目の岩などに塗料で 登山ガイド「許せない」(静岡新聞DIGITAL 2024年11月9日)
富士山の富士宮ルートの6~8合目にかけ、登山道沿いの岩などにペンキのような塗料で無数の矢印が描かれていることが8日、地元の登山ガイドへの取材で分かった。一部は山小屋の石積みにも描かれていた。同日までに静岡県などに報告したという。富士山は国立公園に指定されていて、自然公園法などに抵触する可能性がある。(中略)男性は、6合目以上が通行止めになった9月10日以降から10月下旬にかけ、何者かが複数回にわたって矢印を付けたと推察。「しつこく描かれていてひどい状況。何が目的かは不明だが、富士山の景観を汚す行為で気分が悪い。許せない」と憤った。 富士山では2017年にも須走ルートで無数の矢印が見つかり、国や県などが除去作業に追われた。
そして「有識者」および一般のコメントでは、この行為に対して否定的見解および非難するコメントが寄せられた。
実は富士山におけるこの種の迷惑行為であるが、従来から問題となってきたという事実がある。
幻の「富士山・村山古道」が人気 5年前、ガイド本が出版され話題に(中日新聞 2011年1月13日)
行政困り顔「本物確証なく危険」
幻の富士山大宮・村山口登山道(通称・村山古道)とされるルートが、登山者の間でひそかな人気を呼んでいる。明治末に廃絶した古道を再発見した、と主張するガイド本が5年前に出版されたのを契機に登山熱に火が付いた。しかし、国や富士宮市教育委員会は、同書が紹介するルートが本物の古道である確証はなく、登山者の安全も確保できていないと懸念している。
昨年10月24日未明、富士宮市の村山浅間神社を出発。富士山富士宮口新6合目までの標高差約2000メートルを12時間半かけて踏破した。たどったのはガイド本「富士山村山古道を歩く」(風濤社)が村山古道だと主張するルート。富士山信仰を研究する登山家で、同書の著者畠堀操八さん(67)=神奈川県藤沢市=が率いる登山者グループに同行した。畠堀さんは、約8年前から同市村山の住民有志と協力して古道を調査。古老の記憶などを頼りにルートを特定し、倒木や雑草を切り払って整備した。2006年に、「幻の古道の在りかを突き止めた」としてガイド本を出版、インターネット上などで話題になった。地元では、古道を活用した“村おこし”への期待も高い。
一方で、行政側は登山者の増加に頭を痛めている。市教委はガイド本のルートについて「学術的な調査に基づいていない。本物だとの誤解が広がっては困る」と懐疑的。県埋蔵文化財調査研究所が08年度に実施した調査も、札打ち場など古道沿いにあった施設の遺構16カ所を確認したが、施設同士を結ぶ登山道までは確定しなかった。地元住民の有志はガイド本のルート沿い約20カ所に案内板を設置したが、数年前に静岡森林管理署に撤去を求められ、やむなく応じた。有志からは「登山者の遭難を防ぐための案内板をなぜ」と不満が渦巻く。管理署は「ガイド本のルートは獣道との違いも不明確な道もあり危険。利用を促すわけにはいかない」と説明する。(抜粋)
このような迷惑行為が行われてきたという過去がある(「記事B」とする)。無論、これが昨今のニュースであったのであれば、コメントも非難するものが多くを占めたことであろう。そもそも村山口登山道の学術的調査の嚆矢は、『富士山村山口登山道調査報告書』(1993年)である。
この時代には既に、村山口登山道における施設跡の平坦地は調査されている。したがって
明治末に廃絶した古道を再発見した
という言い分そのものが、まずあり得ない。各媒体でもそのように流布しているようであり、この浅ましい程の執念は理解しがたい。1993年の調査において施設跡の平坦地はほぼすべて把握されており、追加で発見されたものは『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』(静岡県富士山世界遺産センター)において「SX8」と呼称される地点のみである。現在は更に詳細な分析がなされ、学術的な研究で立証されたルートが公開されている。
記事Bは「倒木や雑草を切り払って整備した」と美化した表現となっているが、「無許可での荒らし行為」と大きくは違わないものである。富士山は国有林の箇所だけではない。財産区もあり、これらは公有林である。これらの承諾を受け行われた行為ではないのは明白であり、独善的な行為であったことは当人たちも否定できないだろう。
こういう無神経な人々は底がない。例えば富士山麓の財産区では以下のような事象もあった。
勝手に山菜採取 男女23人検挙 静岡 (静岡新聞デジタル 2010年6月2日)
地元住民が管理する財産区から山菜を無断で採取したとして、富士宮署は5月13〜31日までに、窃盗の疑いで28〜75歳の山梨県などに住む男女23人を検挙した。同署の調べでは、男女らの多くは高齢者で、富士宮市根原の立ち入りが禁止された山中に侵入し、ワラビやウド、フキといった山菜を採取したとされる。同署によると、この場所は有刺鉄線で囲まれた数万平方メートルの土地。男女ら は鉄線を乗り越えて侵入したとみられる。近くの大学が行う生態系調査への協力と不法投棄防止のため、「山菜採り禁止」「立ち入り禁止」と 書いた看板を立て、注意を促していた。この場所は「不審者が勝手に入って山菜を採っていく」との苦情が毎年寄せられていたため、同署が警戒を強めていた。
大学側はデータを取り、論文などを書くこともある。例えば植物の発育調査を経時的に行ったり、場合によっては数カ年必要なものもあるだろう。もっと長いものもあるかもしれない。しかし"意図せぬ人工的な介入"があったということから、そのデータはもうそのまま使えない。つまり数年の研究も無神経な人々によって一瞬にして台無しになってしまったりするのである。
実は村山口登山道でもそのような危機があった。上の「有志」を名乗るような組織の行動を見てみると、シャベルなどで土を深く掘り起こすなどしていることが確認できる。しかしこれを登山道で無作為にやっていたら、埋蔵物を散逸してしまう危険性がある。
例えば中宮八幡堂の跡地からは「17C」や「17~18C」、つまり17世紀に遡ることができる埋蔵物が発掘調査により発掘されている。これらは施設跡であることを示す重要な要素となる。しかし有志を名乗る組織が勝手に掘り起こしてしまったら、建物跡の基礎跡等も分からなくなってしまうのである。そうすれば村山口登山道の形跡は失われることになる。
であるから、有志らの行動はむしろ村山口登山道の発見を阻害する行動であったと言うこともできる。「数年の研究」どころか「歴史そのもの」を失うところだったのである。
御室大日堂跡 |
村山口登山道の保存を唱えていた著名な人物に故・小島鳥水氏が居る。氏は聡明な人物であり、とても見識が深かった。(小島1927)「不盡の高根」には以下のようにある。
私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ(中略)今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦ふするに恰好かっこうな題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師おしも数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀かなしいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐ふところの深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。(中略)
氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙なぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。(以下略)
このように述べられ、後の時代に村山口登山道の道程が失われることを危惧されていた。そして研究者らが研究する段階では事跡等も不明になってしまっているとも限らない、と警鐘を鳴らしていた。
今現在、小島氏に伝えられることがあるとしたら、「(上のような)危機もありましたが、研究者により大宮・村山口登山道の全容は明らかとなり、保存の観点にも注意が払われている」ということだろうか。このように学術的な観点から大宮・村山口登山道の全容は明らかとなっているが、記事Bの面々らはそれをあえて伏せているきらいもある。独自の見解もあるようであるが、そこに学術性がなければ、それは想像でしかないのではないだろうか。
小島氏は村山口登山道に対する強い思いがあったようであり、後の(小島1936)"すたれ行く富士の古道」(村山口のために)"でも再び村山口に言及している。氏は論考の冒頭で、私が最も好きな聖護院門跡道興の短歌を載せ、そこから本論に入る。そして若山牧水の和歌から上の論考(不盡の高根)を回顧され
村山古道の跡に、假に歌碑として建てても、少しも不似合ひなことは無いと思はれる
と振り返り、ここで「村山古道」という表現を用いている。以下に続きを一部掲載する。
それが可なりに古い時代(後述)から、明治末期までは、村山口といふ名でも知られてゐた。然るに大宮口の新道(現今のは新々道)が開けて、村山口は全く廃滅に帰し、今では富士登山者の中でも、村山といふ名を口にする人も無い、或は全く知らない人すらある。(中略)村山口は、私蔵の古い一枚摺(年代不明)の地図に依ると「表宗本寺京都聖護院宮内村山興法寺富士別当三ヶ坊あり」と見えてゐるし、又「富士山表口真面之図」と題する大判一枚摺に依ると、富士山別当村山興法寺三坊蔵板とある。(中略)
この地形図式錦絵で見ると(中略)ここに上述の三坊が控えてゐる。それから発心門を潜り、安生山を左に見て、靏芝、亀芝(草を使った跡が、靏亀の形を成してゐる)を右に、中宮八幡社にかかり、女人堂に至る。これから上は、女人禁制である。(中略)そして村山口の頂上は、銀明水と東賽ノ河原の間に「村山拝所」としてしるされてある。一合目から九合目には、今日のように何合何という小さい区切れがなくて、合が単位になってゐる。(中略)序でを以て言ふ、「馬返し」なる名は、富士にも日光にもあって、昔の登山者には、懐かしい名詞だが、これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう。(中略)武田久吉博士が、未だ一介の学生たりし青年時代に、私のところへ寄せられた富士便りのハガキをたまたま見つけ出したから、左に援用する。村山口経由の登山である。日付けは明治三十八年八月五日で、日本山岳会成立以前のことである。
ここで「これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう」とあるのは、氏の先見の明であると言える。また武田久吉氏の村山口を経た登山も記され、貴重な記録となっている(ここでは略す)。また以下のようにある。
(中略)大體の路筋を言へば、大宮浅間神社から大宮新田を通過し、賽の河原から粟倉に到り、村山に達するので、村山の標高は須走より低く、御殿場より聊か高いぐらゐのところ…
ここも極めて正確で、かつ細かい記述である。恐らく昔の富士宮市の人々は「賽の河原」(舞々木町)が何処かは知っていたことであろう。しかし現在は知るものも少ないし、ここを経由したことも忘れられている。
(中略)村山から札打、天照教、細紺野を経て、八幡堂下に至るまで、所謂裾野帯であるが、八幡堂下より、草木はおのずと深山的のものになり、一合目までには、蘚苔地衣類多く「オオクボシダ」など、樅の大樹に密生している。(中略)然るに、この千年の歴史ある村山口が、明治末期から俄かに衰微し、大正昭和となって全く廢滅したのは、他の登山口の勃興したためでなく、大宮口自らが、もつと距離の短かい、比較的安楽な道を、新たに開拓しためであった。(中略)数多い富士登山道の中で、捨てられて顧みられない村山の古道を拾い上げた所以は、第一にそういった、古くて美くしく、故にまた懐かしい憶い出話を、語ることを、私が好むからである。第二に、私あたりの旧に属する登山者が、今のうちに書き残して置かなければ、古道は、その物語までも失はなければならなくなると気遣はれるからである。第三に、村山は、古道と言っても、明治末期までは、ともかくも伝統と生命を保ってゐた。衰亡史の第一頁を切ってからは、至って新しい。それだけに、資料も猶ほ豊富に残されてゐる筈だから、私の、継ぎ合せて拵へたやうな貧しい本文が捨石となって、富士の研究家、又は大宮附近の古老の口からなりと、村山興亡史の發表を促すことになれば幸ひである。第四に富士の新道として、山中口、精進口、上井出口、人穴口などが、続々開拓されて、中には実際、未だ幾何も利用されてないものもあるらしい。富士登山に対するそれだけの熱が山麓の人々にあるならば、歴史あり、伝説あり、自然美に富める村山口を、回復、保存、維持して行くべきではなからうか。村山口の道路が、或は長く、或は幾分か峻しく、時間もかかるといふのは、此際、むしろ不幸なる幸福であらねばならぬ。(以下略)
大宮新道に注力していったのは、やはり自然の成り行きであろう。そして村山口登山道が廃れていったのも、やむを得ないことであると思われる。しかしそこにそのままの状態で残ってさえすれば、後の時代に辿ることもできよう。
しかし学術的な保証なく人工的な手が加われば、そうはいかない。その危険性があったのである。また小島氏の述べるような「後の富士登山史を研究する者」「富士の研究家」によって村山口登山道のルートが明らかとなった昨今、これが村山口の登山者にも十分に認識されていないのは唯一危惧される点である。
その上でこれが作為的なものであったのなら、小島氏の思惑とも異なるものであろう。また「ガイド問題」については「富士宮市の博物館構想を通史的性格から考える、文化・芸術の拠り所としての表現」にて言及しているので御参照頂きたく思う。
- 参考文献
- 小島烏水(1927)「不盡の高根」『名家の旅』、朝日新聞社、185-249
- 小島烏水(1936)「すたれ行く富士の古道」『山』、梓書房、4-13
- 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』