2023年3月26日日曜日

武田信玄の再度の駿河侵攻から富士城開城までを富士氏・井出氏の動きから考える

武田信玄が「樽峠越え」で甲斐に戻った頃、徳川氏と北条氏間で大きな動きが発生した。それは


「徳川」と「北条・今川」間の和睦


である。結果、今川氏真は懸川城を明け渡した。三者間の和睦によるものであるので、氏真は安全に駿河国の北条勢力下へと避難したのである。この知らせを聞いた信玄は、驚天動地だっただろう。何故なら徳川は、口裏合わせをして時を同じくして侵攻を開始した間柄であったからである。

北条氏政

武田信玄は今川氏真を討つ機会を完全に見失った。そして氏真は北条氏政の嫡子である「国王丸」(北条氏直)を養子とし、国王丸が駿河名跡を継承することを了承した。永禄12年(1569)5月23日の今川氏真書状から、この時点で国王丸による継承が決定していたことが知られる。そしてその旨は、北条氏から富士氏にも伝えられた。



これは永禄12年(1569)閏5月3日の北条氏政判物である。またこの追而書に「富士上下方」とあるが、これは「富士上方」と「富士下方」を合わせた言葉である。

また懸川城開城後に発給された「井出伊賀守」への今川氏真判物が2通程残る。うち1通は、これまでの大宮城での奉公に対して新恩給与と富士上方屋敷分の諸役免除を認めたものである。もう1通を以下に掲載する。


先程と同様、「富士城」での奉公を賞する内容である。ここに「富士城」とあるのは大宮城のことであり、今川氏や北条氏が用いていた(前田1992;p.84)。今回タイトルに採用したのは、このためである。

この人物について(大久保2008;p.58)は幼名を「千熊」とした井出氏で、"井出千熊=井出伊賀守"であるとしている。

そして武田信玄は永禄12年(1569年)6月に再び駿河侵攻を開始する。今回は「御殿場口」から駿河国に侵入した。信玄が本気になって大宮城攻略を目指したのである。


  • 3度目の大宮城の戦い


武田信玄の駿河侵攻開始から樽峠越えまでの過程考、富士郡勢の富士氏・井出氏・佐野氏の動向から見る」でも取り上げた今川氏真の感状により、3度目の「大宮城の攻撃」の様子が見えてくる。「同六月廿三日、信玄以大軍彼城江取懸、昼夜廿日余費、雖及種々行候、堅固相拘、結句人数討捕候、然処、自氏政可罷退之書礼、三通参着之上、双方以扱出城候」の部分がそれに該当する。

同感状には「23日」とあるが、北条氏の発給文書で記される「25日」が正しいとされる。つまり永禄12年6月25日、武田信玄の大軍による猛攻を受け、大宮城は開城したことが分かる。氏真は富士氏が2年にも及び自らの手で守りきったことに対して"忠信之至也"と感謝している。

大宮城の開城自体は武田方の文書により7月であることが分かる。(平山2022;p.212)には以下のようにある。


果たして、永禄12年6月、信玄は駿河に出陣し、深沢城、三島、伊豆韮山などを攻撃し、転じて富士郡大宮城(城主富士信忠)を包囲すると、7月3日、これを降伏された。これにより信玄は、甲斐から駿河に抜ける要衝大宮城の確保に成功したのである


この部分を見ていこう。


永禄12年7月2日の書状によると、開城の交渉は穴山信君が行っていたことが分かる。そして翌3日には開城した。


武田信玄は念願の大宮城開城を果たしたのである。


  • 武田方が大宮城を開城させたことの意味


大宮城の開城は"武田方が富士郡を支配下に置くことに成功した"ということを意味する。これは北条氏にとってとてつもない痛手である。大宮城の開城により、武田方は駿州往還や中道往還を安全に移動することが可能となった。

武田軍は進路および退路を得たことになり、また大宮城への在陣も可能となった。実際第3期駿河侵攻で武田信玄は、大宮城に在陣してから駿河国の蒲原城攻めを行っているのである。

ちなみに比較的長い日数大宮城に在陣しており、富士大宮で武田信玄関連のエピソードが多いのは納得できるものがある。


  • 参考文献
  1. 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号
  2. 大久保俊昭(2008) 『戦国期今川氏の領域と支配』岩田書院
  3. 小笠原春香 (2019)『戦国大名武田氏の外交と戦争』岩田書院
  4. 松本将太(2022)「戦国期における大宮の様相」『富士山学』第2号
  5. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』、KADOKAWA

2023年3月19日日曜日

武田信玄の駿河侵攻開始から樽峠越えまでの過程考、富士郡勢の富士氏・井出氏・佐野氏の動向から見る

駿河侵攻は、永禄11年(1568)に開始された武田氏による駿河国への軍事侵攻である。この未曾有の危機から駿河国の富士郡勢もあますことなく行動を強いられ、それ故に古文書で多くの活動が確認される。


武田信玄

先で取り上げた「遠州忩劇」と「駿河侵攻」とを合わせると、富士郡の主だった面々は文書であらかた登場していると言って良い。それほどまでに、駿河侵攻の影響は大きかったのである。今回は駿河侵攻時の「富士氏」「井出氏」「佐野氏」の動向を見ていきたい。しかしその前に「駿河侵攻の区分と概要」について以下で記してみたい。


  • 駿河侵攻の区分と概要

武田信玄による駿河侵攻は、1度でなされたわけではない。甲斐から出兵し駿河に入りまた甲斐に戻りその後再出兵するといったように、繰り返された。それらは「第1・2・3期」に振り分けられることが多い。以下に、その概略を示す。

時期内容
第一期永禄11年(1568)12月から翌12年(1569)4月駿州往還より侵入。駿府一時占領後、甲斐撤退
第二期永禄12年5月から同年10月御殿場口より侵入、大宮城を落とし富士郡を手にする(その後甲斐に帰陣し、直ちに駿河に侵攻せず小田原侵攻を行う)
第三期永禄12年11月から元亀2年(1571)12月駿州往還より侵入。駿河山西地域を攻略後、駿河一国を手にする

(久保田ら2021;p.8)は「第3期」を「~元亀2年(1571)12月」としているが、私もこの解釈を支持するところである。

富士宮市『徳川家康と本門寺堀』には「永禄13年(1570)に駿河国は武田氏の支配下となる」とあるが、元亀元年(同年4月に永禄から改元)に入っても未だ武田氏と北条氏が駿河国で交戦し年内はその様相であるので、正しい記述のようには思われない。

例えば永禄12年(1569年)11月9日に武田信玄が諏訪大社へ戦勝祈願した際の願文には「今度向于駿州出陳、則蒲原落城、興国寺同前、駿州一円令静謐」とある。蒲原城と興国寺城を落城させ、「駿州一円」を支配下に置きたいという意である。その興国寺城は落とされていないわけであるので、武田氏の観点から考えてみても「永禄13年(1570)に武田氏の支配下となる」とは言えないのではないだろうか。また「大宮城(浅間大社大宮司富士氏居館)」ともあるが、大宮城が富士大宮司の居館であったかどうかは実際は分かっていない。

駿河侵攻の過程は、実はかなり煩雑である。それは単に「武田vs今川」という性質に留まらないからである。今川氏真は第1期の早々に駿府を追われており、そこに救援として北条氏が駆けつけることで戦況が膠着状態となる。

しかも武田氏の侵攻と同時に、既に口裏合わせをしていた徳川氏も遠江侵攻を開始しており、当然今川方は徳川方とも戦うこととなる。北条氏は今川氏を救援する立場なので、徳川とも遠江で対峙するのである。つまり、遠江情勢も含めれば以下のような構造が見えることになる。


今川・北条vs武田・徳川 ※懸川城開城前


武田と徳川の動きは連動しており、このあまりにも複雑な構造が理解を難しくさせている。しかもこれさえも駿河侵攻の中で構造は変化していくのであり、今川氏真が懸川城を開城した際は"今川・北条と徳川間の和睦"の元に手続きがなされるので、それ以後は


今川・北条vs武田 ※懸川城開城後


となるのである。無論武田氏は、この結果に不満を持つわけである。近年はその過程にも注目が集まることが多い。(小笠原2019)(丸島2022)(平山2022)は実はこの部分についても多く言及するものであって、駿河侵攻は近年特に注目されていると言って良い

この過程の中で北条氏が宿敵上杉氏と和与したり(永禄12年7月)、その1年後には手切(和与解消)となったりしている(元亀元年7月)。ここも複雑さの要因であるが、和与と手切が繰り返される要因は、北条氏や武田氏が自身の領国が攻撃される憂いを絶つため常に上杉と交渉しているためである。

この"自身の領国が攻撃される憂い"を更に巧妙に用いたのが武田氏で、第2期で「その後甲斐に帰陣し、直ちに駿河に侵攻せず小田原侵攻を行う」と記したように、信玄は小田原侵攻を行うことで、駿河の北条勢を相模に引き戻させている。北条氏からすれば、本領の相模が危うければ、戻らざるを得ない。

第3期では北条方の勢力は少なくなっていたため、武田氏は順当に侵攻を進めていくのである。この流れが理解できれば、駿河侵攻は概ね感覚を掴むことができると考える。

ところで、第1期の「駿府の一時占領」という結果は、信玄にとって満足のいくものであっただろうか。間違いなく、想定外であったであろう。この記事は、その「想定外」を紐解くものである。

※駿河侵攻および「武田氏の不満と徳川との不和」については(小笠原2019)が詳細に取り上げているが、同氏の博士論文が公開されており、誰でも閲覧可能である。また富士郡に関しても多く言及されている。従って「武田氏の不満と徳川との不和」と「富士郡に関する部分」を博士論文の頁数に沿って以下にまとめて示す(「戦国大名武田氏の外交と権力」)。特に「武田氏の不満と徳川との不和」と「富士氏と大宮城の戦い」を読んでいただければ当記事の理解が早まると思われる。

内容
善徳寺の会盟48-49
武田氏の不満と徳川との不和150-160
富士氏と大宮城の戦い177-179
柚野の篠原氏 296-313

ちなみに富士宮市HPは篠原氏を「武田氏の家臣」としているが、とてもそうは思われない(「寺院と地域の歴史をつなぐ特別コース」)。篠原氏については「遠江高天神小笠原信興の考察」(黒田2001所収)でも言及されている。

  • 武田氏による調略と1度目の大宮城攻撃


武田氏は第1期では「駿州往還」を用いて駿河に侵攻した。そこで「駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力は誰であろうか」と、信玄は考えるのである。そして「衝突がないようあらかじめ調略しておこう」とも考えるのである。


穴山信君

実は実際にそれがなされている。武田方は"駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力"である佐野一族らと予め話をつけている。(平山2022;p.143)には以下のようにある。


富士郡の佐野一族などは、国境を接する武田方の穴山氏の調略を受諾し、武田軍が動くと同時に従属することを誓約していた


佐野一族が富士宮市の一族であることは知られているように思うが、実は富士郡でも「上稲子」を本拠としており(小和田1996)、此処はまさに"駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力"と言える。武田方は駿府に軍を進めるにあたって、なるべく障害がないことを望んだのである。



上稲子に隣接する甲斐の河内地方は穴山氏が領する所であるので、交渉は穴山信君が対応している。


惣左衛門尉は「佐野惣左衛門尉」のことで佐野一族の人物である。12月7日というと、駿河に入る直前にあたる。佐野氏はめぼしい軍事的能力を保有する勢力ではないため、この判断は致し方ないとしか言いようがない。抵抗していたら佐野一族は滅亡していたかもしれないし、現在富士宮市・富士市に佐野姓は見られなかったかもしれない。

しかし富士郡でも富士氏は、あくまで今川方として行動した。実は駿河侵攻で武田方がいち早く攻撃したのが、富士氏当主「富士信忠」が籠城する「大宮城(富士城)」であった。駿河侵攻の解説は「薩埵峠の戦い」から始まるきらいがあるが、本来は大宮城の戦いから話されるべきなのである。ここを通さず話をすると、後の「樽峠越え」の理由も見えてこない。

この富士氏の強い抵抗が信玄の大誤算となり、予定を大いに狂わせることになる。


  • 富士郡の主だった勢力

以下に、富士郡の主だった勢力について、その本拠と共に一覧化する。


本拠特徴
富士氏富士大宮当主富士信忠は富士城城主
井出氏井出・上野国衆に准ずる存在。上野にて警固を行い、また富士城に籠城する
吉野氏山本周辺葛山氏の家臣(=富士郡には葛山氏の支配領域が点在する
佐野氏上稲子在地の土豪
矢部氏吉原商人

ぞれぞれ立場は異なり、駿河侵攻時に軍役奉公が確認されるのは「富士氏」「井出氏」である。吉野氏は葛山氏の家臣であるが、遠州忩劇時の軍事行動は認められても(久保田2000;p.51-53)、駿河侵攻時の動向は管見の限り確認できなかった。

富士氏は国衆であるが、それ以外の面々は土豪層として括られることが多い。井出氏は「国衆に准ずる存在」としたが、限りなく国衆に近い位置にあると考える。

従って、この記事では「富士氏」「井出氏」「佐野氏」を考えていきたいと思う。


  • 駿河侵攻で浮かび上がる富士郡の特徴


見逃されてしまっている河東地域(富士川以東)の根本的な性質がある。それは"河東地域に国衆が少なかった"という点である。(鈴木2019;p.176)には以下のようにある。


彼らの本拠地を地図に落としてみると、今川氏の本国であった駿河では国衆が少ないのに対し、占有地にあたる遠江・三河に有力な国衆たちが多かったことが、よくわかるだろう。(中略)逆に、今川氏という強大な領域権力が以前から存在したために、富士川以西の駿河中西部には「国衆」が成立しなかったともいえる。


この指摘は重要であり、駿河国の国衆事情を簡便に書き記している。実は河東地域の主だった国衆は、葛山氏と富士氏くらいしか居ないのである。そして「遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍」で記したように、富士郡には葛山氏の支配領域も存在した。

また(松本2022;p.51)は「今川氏の大宮支配に関する文書発給も行われており、大宮司領は今川氏直轄(代官支配、代官は信忠か)の部分と、信忠の支配分が混在していた可能性があると考える」としている。

同論考は富士大宮という「町」の性格を"「富士大宮楽市令」の文言にのみに拠る"のではなく、更に広い視点で見たものであり、注目される。従来のその種の論考、特に(長澤2016)を見るに、楽市令後から時を経て非楽市化している部分に強い比重を置いてしまい、「市」そのものに対する評価の帰結を急ぎ過ぎている印象は拭えない。

富士大宮楽市令は「押買狼藉非分等有之旨申条」の文言から「それを申した主体が居る」という理解がなされ、「富士氏側の要請による」と学術的に理解される事が多い。この楽市令は、富士氏の歴史の中でこそ語られるべきなのである。

また今川氏が富士氏を引き留めることができた一要因に、このような国衆側の要求に応えていたという背景も関係するのではないだろうか。つまり氏真の試みは成功しているのである。

  • 北条氏の援軍と富士郡

ここまで富士郡の特性について述べてきた。つまり武田氏が河東地域を押さえたい場合、平たく言えば「葛山氏」と「富士氏」を調略してしまえば済む話なのである


北条氏政


実はこのうち葛山氏が駿河侵攻前に既に調略されていたため、武田氏は駿東郡・富士郡は順当に落とせると踏んでいたものと思われる。しかしそうはならなかった。その理由は


 北条氏が迅速に駿河入りを果たしたため


である。勿論大宮城の抵抗もそうであるが、北条氏の存在が極めて大きい。北条氏の動きは迅速であり、以下のような過程を経た。

日時内容
永禄11年(1568)12月12日北条氏当主「北条氏政」、伊豆国三島に着陣
同14日 北条軍が庵原郡に入る
同29日富士郡村山の「富士山興法寺」に禁制を発給
同月末北条氏信が蒲原城に入城

武田軍が12月6日に出立していることを考えると、この動きは「相当に速い」といって良いだろう。また早くも29日に富士上方の寺社に禁制を発給し、勢力下に置いている。また北条氏の当主自ら動いていることから、北条氏の相当な意気込みが見えてくる。(黒田2001;p.117)には以下のようにある。


河東地域には駿東郡の葛山氏元、富士郡の富士信忠という有力国衆が存在していた。富士氏は今川方の立場を取り、本拠大宮城に籠城して武田方に対抗したが、葛山氏は今川氏から離反して武田方に与した。氏元は武田氏の侵攻に際して瀬名谷に引き退いたというから、今川氏本陣のもとに参陣していた後、瀬名信輝・朝比奈信置らとともに武田氏に従属して戦線を離脱したととらえられる。(中略)北条氏が駿東郡に進軍すると、ほとんど抵抗をうけることなく葛山氏の支配領域がその軍事的勢力下に収められているとみられるのは、そのためだろう。


つまり北条氏は武田氏の駿河侵攻から大きな時を隔てず、駿東郡と富士郡を軍事的勢力下に収めているのである。また上記のように富士郡には葛山氏支配下の地域も点在しており、それらも北条氏の軍事的勢力下に収められたことになる。富士氏の躍進の背景に、郡下に武田方の勢力が居なかった点は挙げられるのではないだろうか。

それにしてもこの「葛山氏元」「瀬名信輝」「朝比奈信置」の謀反は、かなり衝撃的に受け止められたであろう。葛山氏は今川家の御一家衆である上、自前で朱印状を発給するような独立性の高い国衆であり、大きな権力を保持している。瀬名信輝は今川氏一族である。朝比奈信置も重臣である。これらが一度に、しかも進軍途中で謀反を起こすのは絶望的な状況である。氏真の撤退も止む無しだろう。

武田方は、佐野氏にしたのと同じように、国衆らにも調略の手を既に伸ばしていたわけである。しかし興津川以東の北条方と駿府・山西地域の今川方に挟まれ、武田氏は窮地に陥ることになる。


  • 信玄の駿河封じ込め


(清水市2002)を参考に作成、左端の河川は「興津川」

これは侵攻開始の永禄11年(1568)12月から翌12年(1569)3月の状況である。この図を見て明らかなように、興津川を挟んで東側を北条軍、西側に武田軍が布陣している。そして薩埵山・大宮城・蒲原城も北条方であることから、興津川以東は北条方が押さえている状況であった

しかし横山城に主力を置く武田方はどうだろうか(このとき武田氏は久能城を築城していた)。駿府は一揆衆が奪還し背後の山西地域には未だ今川方が健在であり、興津川以東は北条方が押さえているのだから、横山城・久能城の武田軍は取り囲まれていると言わざるをえない。薩埵山・蒲原城は東海道に位置するので、当然通過は出来ない。

武田軍の退路はこのとき駿州往還(現在の国道52号線)しか見当たらないが、駿州往還を進めば富士大宮の富士氏と薩埵峠・蒲原城の北条軍に挟撃されてしまうのである(矢印:橙)。無論、富士上方は完全に今川方(北条方)であるので「中道往還」も絶望的である。

実際に武田軍は、駿州往還を通す試みをした形跡が認められる。



しかし正月18日、遊野(富士宮市柚野)において鈴木助一が武田方の敵を討ち取っており、やはり駿州往還沿いの守りは固かったようである。そこで武田方は帰路を確保するために、2度目の大宮城攻めを敢行する。今回武田軍は特に力を入れ、穴山信君と葛山氏元の連合軍で攻勢を仕掛けた。両者共、相当の軍事力を持っている。


  • 二度目の大宮城攻めと中道往還の情勢

大宮城攻撃は3度行われているが、1度目と2度目共に第1期駿河侵攻の際に行われている。つまり武田軍は、侵攻開始から甲斐帰還の間に大宮城に2度の攻撃を加えていることになる。それほどまでに、大宮城を落とす必要性があったのである。

なぜこのような事が分かるのかと言うと、今川氏真が後に「富士信通」(富士蔵人)宛の感状を与えており、詳細が記されているためである。駿河侵攻後に直ぐに大宮城を攻撃したことが分かるのも、この書状による。この感状は他の同様の内容を示す感状と一括りにされ「暇状」とも通称され、極めて有名な書状である(前田2001)。

2度目の大宮城攻撃は「殊巳二月朔日、穴山・葛山方為始、大宮城江雖成動、手負・死人仕出 還而失勝利引退候」とあるように、2月1日の穴山信君と葛山氏元の連合軍によるものであった。つまり駿河侵攻で今川氏を裏切った葛山氏元が大宮城攻撃に参加していることになる。これには富士氏も思うところがあったであろう。


またこれらの戦いについて将亦以自分及二ヶ年、矢・鉄砲玉薬、篭城内者、人数等扶持出之候、忠信之至也」と記されている。この記録から、大宮城の戦いが鉄砲を用いるような極めて激しい攻防戦であったことが分かる。まさに大河ドラマで見るような鉄砲を用いた戦が、紛れもなく当地でも行われたのである。管見の限り富士郡下で鉄砲を用いたような戦が行われたのは、この大宮城の戦い以外にはないように思われる。

しかし2度目の攻撃にもかかわらず、大宮城は落とせなかった。

また驚愕すべき武田信玄書状が残っている。永禄12年(1569)2月24日の佐野惣左衛門尉宛の判物である。(小和田1996;p.129-130)には以下のようにある。


この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみえる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。富士兵部少輔というのは、いうまでもなく、富士大宮司で、しかも大宮城の城主であった。永禄12年2月24日の時点ではまだ富士兵部少輔信忠は大宮城に籠城して戦っていた。


つまりこれは「空手形」なのであり、武田氏の駿河侵攻がこの段階で全くもって上手くいっていなかったことを示す証左と言えるものである。実際はこのとき、富士郡・駿東郡に宛行うことが可能な土地など無かったのである。おそらく武田氏は大宮城を落とせると踏んでおり、文書の下書きを策定済みであったのだろう。実際は落とすことが出来ず、一方で佐野氏に文書を発給する必要性にも迫られていたと考えられる。

また2度目の大宮城攻撃の翌月の3月2日には井出氏が上野筋で敵を討ち捕っている。上野筋は中道往還にあたるので、つまり武田軍は帰路を意地でもこじ開けようとしていたのである。しかし以下の感状から分かるように、武田方の試みは成功していない。



上のものは北条氏政を発給者とする井出正次(井出甚助)宛の感状であり、上野筋での戦功を賞する内容である。



これは上に同じく「上野筋の戦い」における戦功を賞した北条氏政の感状であり、宛所は井出正直(井出藤九郎)である。このように富士郡は「富士氏」「井出氏」が守っていたのである。

北条氏政が井出正直の戦功を賞した日と同日の、武田信玄書状が注目される。信玄の心境をよく示すものであり、多くで取り上げられる。


兵糧も無限ではないし、北条氏は上杉氏との和与を画策し動いていたため、越後の上杉氏が甲斐へ侵攻する可能性もあった。ついに武田軍は、駿州往還または中道往還での帰省を断念せざるを得なくなったのである。

この三条目に見える「信玄滅亡無疑候」、つまり「(信長に見捨てられたら)信玄が滅亡することは疑い無し」という危機感を形成した背景に、富士氏の存在も含まれることは言うまでもない。


  • 信玄の樽峠越え

樽峠越えルート(推定)

大まかな推定ルートを記した。この部分は(清水市2002;p38-39、同部分は前田利久による)でも言及されている。(平山2022;p.185)には以下のようにある。

不利を悟った信玄は、秘かに甲斐への撤退準備を進めるよう、家臣に命じた。信玄は、北条氏と対陣中、秘かに興津川上流の中河内川、樽川沿いに新道を切り開いており、甲斐への撤退路の確保につとめていた。『軍鑑』によると、重臣原昌胤が、新道開削の陣頭指揮を執っていたという。(中略)このような準備を整えた信玄は、駿河在陣を諦め、4月24日早朝から退却を開始し、甲駿国境の樽峠を越えて、甲斐に撤退した。

『甲陽軍鑑』には「駿河いはらの山を打越、道もなき所を原隼人助工夫に任、甲府へ御馬をいれ給ふ」とあり、信玄にとって苦難の脱出となったのである。

  • 参考文献
  1. 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号
  2. 小和田哲男(1996)「佐野氏古文書写」『地方史静岡』第24号
  3. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  4. 黒田基樹 (2001)『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院
  5. 前田利久(2001)「今川家旧臣の再仕官」『戦国期静岡の研究』、清文堂出版
  6. 清水市教育委員会(2002)『薩埵山陣場跡』
  7. 大久保俊昭(2008) 『戦国期今川氏の領域と支配』岩田書院
  8. 長澤伸樹(2016)「富士大宮楽市令の再検討」『中世史研究』第41号
  9. 富士宮市(2018)『徳川家康と本門寺堀』
  10. 小笠原春香 (2019)『戦国大名武田氏の外交と戦争』岩田書院
  11. 鈴木将典(2019)「国衆の統制」『今川義元とその時代』、戎光祥出版
  12. 久保田昌希・加藤哲(2021)「確認された王禅寺所蔵「北条氏照・氏規連署書状」について」『川崎市文化財調査集録』第55号
  13. 松本将太(2022)「戦国期における大宮の様相」『富士山学』第2号
  14. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』、KADOKAWA
  15. 丸島和洋(2022)「武田信玄の駿河侵攻と対織田・徳川氏外交」『武田氏研究』65号

2023年3月12日日曜日

遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍

「遠州忩劇」(「遠州錯乱)とは、永禄6年 (1563) に勃発した"遠江国国衆たちの今川氏に対する反乱"である。発端は遠江の引馬城主「飯尾連龍」の逆心であり、連龍死後の永禄9年(1566)まで続いた。そのため、今川氏の文書では「引馬一変」と呼称されることもある。

実はこの乱の鎮圧に富士郡勢もかなり関与しており、しかもそれは早期から確認できる。この辺りは富士郡の性質も良く見えてくるので、今回取り上げていきたい。


今川氏真

家康にとって「遠州忩劇」は救いであったと思われる。(久保田2000;p.50)が指摘するように、永禄6年は三河一揆が勃発しており、今川氏は家康に打撃を与える好機であった。しかし今川氏真はそれが出来なかった。その原因こそ遠州忩劇であり、今川氏は三河一揆に加勢できる状況ではなかったのである。


  • 飯田口合戦の富士又八郎


「飯田(口)合戦」は、遠州忩劇勃発以後の「反乱勢」と「今川方」との初めての合戦であると思われ、富士氏からは「富士又八郎」が参加している。

(平山2022;p.48)には以下のようにある。


飯尾方と今川方は、永禄6年12月20日以前に、引馬飯田口で激突した(飯田口合戦)。かなりの激戦であったらしく、氏真は朝比奈右兵衛大夫、富士郡の富士又八郎、馬伏塚の小笠原与左衛門尉らに感状を与えている。


富士郡は遠州から見て遠方であるものの参加しており、総動員に近い状況であったと推察される。富士郡の勢力を動員しなければならない程、今川氏にとって危機的状況であったのだろう。


  • 牛飼原の陣の吉野氏


遠州忩劇時に「吉野日向守」が今川方として牛飼原(遠江国豊田郡森町)に在陣していたことが知られる。これは永禄8年(1565)11月1日の葛山氏元の発給文書から知られ、「去年従三州牛飼原野陣江茂早速来之条」とある。この軍役奉公に対する判物であるが、この事実から明らかなように、吉野氏は葛山氏の家臣である。今川氏発給文書でない点から、葛山氏の独立性を感じるところである。

吉野氏が何時から葛山氏の家臣であったのかを考える際、年未詳の「吉野九郎左衛門尉」を宛所とする葛山氏広の発給文書が知られる。氏広の発給文書はこの感状を含めた2点に限られもう1点は神社宛のものであるといい、(有光2013p.125)は天文初期に比定している。

このように氏広の代には既に家臣であったことは明らかであるが、文書の残り方から見ても、吉野氏が葛山氏の重臣であったという推測は許される範囲であろう。この従属関係は次代の氏元期にも引き継がれ、「吉野郷三郎」が河東の乱時の軍役奉公に対する感状を受給している。一方で同内容の今川義元の感状も存在したようである(『駿河記』に認められるが真偽不明、書状自体は現存せず)。(有光2013pp.178-191)はこの時の葛山氏の立場を「今川氏方か北条氏方かはわからない」としているが、やはりここは今川方であったと考えてよいように思う。

特に注目されるのは、天文15年(1546)4月22日に氏元が吉野郷三郎に久日・山本・小泉の所領を安堵していることであり、しかも以前より吉野氏の所領であったことが確認できる点である。また永禄元年(1558)8月12日に吉野氏は富士高原の関の支配を認められている。



つまり葛山氏は富士郡各地を支配下に置いていたことが分かるのである。遠州忩劇後の永禄11年(1568)2月2日には、淀士(淀師)の新四郎名を市川権右衛門に給付することを葛山氏は命じている。

また富士上方の大宮司領の代官職は「葛山甚左衛門尉」のもとにあった。永禄4年(1561)7月20日に富士信忠が大宮城代に任ぜられたと同時に解任されてはいるが、従来任じられていた事実からも影響力を強く感じるところである。もっとも文書には「如前々相計之」とあり、(大石2020;p.193)が指摘するように以前より城主としての立場は信忠の元にあったと捉えられるものである。

また先の富士高原関の支配を認める文書に「於富士高原仁村上被取候定之事」とあるが、この「高原」という言葉は大字・小字でないのにも関わらず現在も用いられており、感慨深いものがある。専ら「上の山本」という意味で用いられる。関所の存在や「富士本道」としての位置づけが、「高原」という言葉を現代にまで残したのだろう。つまり交通の要衝であり、そこを葛山氏が押さえ、給人である吉野氏が所領としていたわけである。

そのような立場の中で吉野氏は、今川方として遠州忩劇時に対応に追われたのだった。


  • 森彦左衛門尉の河舟労功


森彦左衛門尉が遠州忩劇舞台の地である遠州で「河舟労功」という形で奉公していたことが知られる。森彦左衛門尉は富士川沿岸の地である内房郷橋上(富士宮市内房橋上)の船方衆を束ねる存在である。この彦左衛門尉は戦地で渡船を担っていたわけである。

このような渡船の奉公は義元の頃にも確認され、天文20年(1551)4月17日の今川義元判物に「先年乱中走廻云、殊昼夜河舟労功」とある。


また永禄13年に比定される橋上の船役所に宛てた葛山氏元朱印状が残り、瀬名氏の縁者が富士川を渡る際に必要となる手形を役所側が与えるよう命じた内容となっている。これが「森家文書」として伝わっている背景を考えるに、やはり中心として主導したのは森彦左衛門尉だろう。

その後は穴山信君の発給文書で名が見え、武田方として活動していたことが分かる。これらはすべて同一人物である。『駿河記』の内房「綱橋」の項に「里民彦右衛門森氏家に今川義元氏真又は葛山備中守等の文書を蔵す。共に富士川越舟の事を載すと云」とある。

渡船に携わる者が戦時に河舟労功として動員され、見返りとして諸役免除を認められていたことが分かる。戦国大名は武士だけでなく渡船の要員にまで神経を張り巡らせていたわけである。大名支配の重要な側面を示すものである。


  • 武田氏の動き

武田信玄

(久保田2000;p.58)にあるように、遠州忩劇勃発後に甲斐の武田晴信はこの事態を早くも察知していた。それは永禄6年閏12月6日の晴信の佐野主税助宛の文書から知られるが、その内容が興味深い(この文書に見える佐野氏は甲斐の佐野一族であって富士郡の佐野一族ではない)。


(平山2022;p.59-62)には以下のようにある。


この追伸に書かれている事実は、信玄の意思と動きを如実に知らせてくれる貴重な情報と言える。信玄は、今川氏真が遠江の反今川方に敗退するようならば、ただちに軍勢を率いて駿河に侵攻する意思を示したのだ。(中略)書状に見える「彼国之本意」については、「駿河の回復を目指す今川氏真の本意を支援するためにも」とも、「駿河を奪いとることは信玄の本意である」とも解釈する余地があるからである。私は、後者の解釈に魅力を感じている。


何れにせよ富士軍勢を含めた今川方の活躍もあって、遠州忩劇は一応の終息を見た。しかしながらこの遠州忩劇は、今川氏の衰退に一層拍車をかけたことは言うまでもない。


  • 参考文献

  1. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  2. 有光友學(2013)『戦国大名今川氏と葛山氏』、吉川弘文館
  3. 大石泰史(2020)『城の政治戦略』、KADOKAWA 
  4. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA