武田信玄が「樽峠越え」で甲斐に戻った頃、徳川氏と北条氏間で大きな動きが発生した。それは
「徳川」と「北条・今川」間の和睦
である。結果、今川氏真は懸川城を明け渡した。三者間の和睦によるものであるので、氏真は安全に駿河国の北条勢力下へと避難したのである。この知らせを聞いた信玄は、驚天動地だっただろう。何故なら徳川は、口裏合わせをして時を同じくして侵攻を開始した間柄であったからである。
北条氏政 |
武田信玄は今川氏真を討つ機会を完全に見失った。そして氏真は北条氏政の嫡子である「国王丸」(北条氏直)を養子とし、国王丸が駿河名跡を継承することを了承した。永禄12年(1569)5月23日の今川氏真書状から、この時点で国王丸による継承が決定していたことが知られる。そしてその旨は、北条氏から富士氏にも伝えられた。
これは永禄12年(1569)閏5月3日の北条氏政判物である。またこの追而書に「富士上下方」とあるが、これは「富士上方」と「富士下方」を合わせた言葉である。
また懸川城開城後に発給された「井出伊賀守」への今川氏真判物が2通程残る。うち1通は、これまでの大宮城での奉公に対して新恩給与と富士上方屋敷分の諸役免除を認めたものである。もう1通を以下に掲載する。
先程と同様、「富士城」での奉公を賞する内容である。ここに「富士城」とあるのは大宮城のことであり、今川氏や北条氏が用いていた(前田1992;p.84)。今回タイトルに採用したのは、このためである。
この人物について(大久保2008;p.58)は幼名を「千熊」とした井出氏で、"井出千熊=井出伊賀守"であるとしている。
そして武田信玄は永禄12年(1569年)6月に再び駿河侵攻を開始する。今回は「御殿場口」から駿河国に侵入した。信玄が本気になって大宮城攻略を目指したのである。
- 3度目の大宮城の戦い
「武田信玄の駿河侵攻開始から樽峠越えまでの過程考、富士郡勢の富士氏・井出氏・佐野氏の動向から見る」でも取り上げた今川氏真の感状により、3度目の「大宮城の攻撃」の様子が見えてくる。「同六月廿三日、信玄以大軍彼城江取懸、昼夜廿日余費、雖及種々行候、堅固相拘、結句人数討捕候、然処、自氏政可罷退之書礼、三通参着之上、双方以扱出城候」の部分がそれに該当する。
同感状には「23日」とあるが、北条氏の発給文書で記される「25日」が正しいとされる。つまり永禄12年6月25日、武田信玄の大軍による猛攻を受け、大宮城は開城したことが分かる。氏真は富士氏が2年にも及び自らの手で守りきったことに対して"忠信之至也"と感謝している。
大宮城の開城自体は武田方の文書により7月であることが分かる。(平山2022;p.212)には以下のようにある。
果たして、永禄12年6月、信玄は駿河に出陣し、深沢城、三島、伊豆韮山などを攻撃し、転じて富士郡大宮城(城主富士信忠)を包囲すると、7月3日、これを降伏された。これにより信玄は、甲斐から駿河に抜ける要衝大宮城の確保に成功したのである。
この部分を見ていこう。
永禄12年7月2日の書状によると、開城の交渉は穴山信君が行っていたことが分かる。そして翌3日には開城した。
武田信玄は念願の大宮城開城を果たしたのである。
- 武田方が大宮城を開城させたことの意味
大宮城の開城は"武田方が富士郡を支配下に置くことに成功した"ということを意味する。これは北条氏にとってとてつもない痛手である。大宮城の開城により、武田方は駿州往還や中道往還を安全に移動することが可能となった。
武田軍は進路および退路を得たことになり、また大宮城への在陣も可能となった。実際第3期駿河侵攻で武田信玄は、大宮城に在陣してから駿河国の蒲原城攻めを行っているのである。
ちなみに比較的長い日数大宮城に在陣しており、富士大宮で武田信玄関連のエピソードが多いのは納得できるものがある。
- 参考文献
- 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号
- 大久保俊昭(2008) 『戦国期今川氏の領域と支配』岩田書院
- 小笠原春香 (2019)『戦国大名武田氏の外交と戦争』岩田書院
- 松本将太(2022)「戦国期における大宮の様相」『富士山学』第2号
- 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』、KADOKAWA