このように浅間大社により管理されてきたという歴史はひたすら長い間継続されてきたわけですが、神社本体が動くわけではありませんよね。実際は中の人間が動くわけです。そこで重要な考え方として、「浅間大社の誰がタクトを握っていたのか」ということがあります。
それは「富士氏」です。浅間大社の中の人が富士氏であり、浅間大社の頂点にいた存在です。そして浅間大社に管理権が与えられていた中でそれらを実際に利用してきたのも、富士氏です。ですから富士山の八合目以上を支配していたのは、言ってみれば「富士氏」なのです。この表現は、歴史に忠実に沿った表現といえます。なぜそのように言えるかというと、実際文書上でそう表現されているからです。
これは寛永年間(1624~1643)の文書ですが、ここに「大宮司しはい之所」とあります。これは富士山頂についての話をしているのですが、つまりは富士山頂は大宮司支配の地と考えられていたわけです。大宮司というのは富士大宮司のことで、富士氏を指します。これは当時の支配者である徳川忠長の付家老により出された文書であるため、支配者により正確にそのように考えられていたということになります(当時徳川忠長は富士山一帯を支配していた立場である)。
「みくりや(御厨)・すはしり(須走)の者共」は、現在の御殿場と小山町の人たちを指します。「永原慶二,富士山宝永大爆発」によると、御厨という名称は伊勢神宮領の鮎沢御厨があったことに由来するという。そして「むさと勧請」を禁じられていることから、勝手に金銭徴収することを禁止されたわけです。富士山頂での権限や行動範囲が縮小されたことになります。須走・御厨というのは、比較的権限を保持している方です。吉田(甲斐)より権限自体は保持していたと思います。それでも、表立ったことはできなかったのです。
また、徳川忠長が立てた制札にこのようなものがある(制札自体は地方奉行である村上三右衛門が出している)。
二条目にて、大宮司の指示で内院散銭を拾うように義務づけられています。このように、基本的に大宮司が富士山頂において権限を保持していました。これら複数の文書などで、判断できます。
では、それ以後はどうであったかという検討に入ります。須走村の役人の書付(1686年)にこのようにあります(右)。三カ条の1つに「四人之衆御支配二御座候」とあります。つまり須走からみても、浅間大社の神職四人の支配とされていたのです。
なぜ富士氏が徳川家と関わりが深いと言われるかというと、徳川家康により庇護されただけでなく、後の徳川家の人間にも庇護された事実があるからである。これら権限に反発する動きとして後に争論が起き、須走とぶつかっていくこととなります。須走は噴火の影響を大きく受けたため、生活のためにも必要な争いであったのでしょう。
参考文献
- 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』P174-191, 角川書店,2002
- 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
- 『浅間文書纂』P241