この文書が持つ意味は複雑である。まず、だれがどうしたものかを書いてみたい。この文書には足利義政、後花園天皇、富士忠時、藤原俊顕が関わる。そしてこういう流れである。
「足利義政」が富士忠時を「能登守」に推挙することを提案
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「後花園天皇」が許可を与える
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「藤原俊顕」がその意向を文書にて明示する
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富士忠時が受給
当時の権力者である足利氏が天皇と関係を深くしていることは当たり前であるが、その足利氏の室町幕府将軍である義政が直々に忠時を推挙している点は面白い。少なくとも、それだけの地位がこのとき富士氏にあったということは想像に難くない。富士氏を語る上で、この事象は注目されるべき点であろう。若林淳之氏(歴史学者)が言うように、足利氏と関係が深い駿河今川氏の存在も背景にあると思う。
- 和邇部姓
この文書にて和迩部(和邇部)忠時とあることも、注目されるべき点である。系図が残っており、和邇部氏からの流れであることは記されている。しかし、記されているからといって、実際そうであるとは限らないし、そう名乗っていたかもわからない。この場合、少なくとも当時実際に「和邇部姓」を用いていたことが確認できる。これは非常に大きなことである。
- 富士大宮司と村山
村山の富士山興法寺の大日堂に、「大宮司前能登守忠時・同子親時」との銘がある仏像が発見されている。これは村山の衆徒や富士氏らが共同して製作した仏像である。「親時」とは富士親時のことで、忠時の嫡子である。このことから、富士氏らが村山との独自の関係を持っていたことを察することができる。富士氏(大宮)と村山との関係の理解は非常に難解である。少なくとも南北朝期に富士山信仰の双方の拠点とで、互いに奉納するに至るまでの何らかの結びつきはあったのだろう。例えば村山の「富士行」で知られる「頼尊」は、富士氏の系図にもその名が見える。忠時から六代さかのぼって二十一代富士直時の従兄弟にあたる。
この「後花園天皇口宣案」と奉納物から、当時の富士氏の権威がそれなりに見えてくる。
- 参考文献
富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡』P186-187,2000年