- 大宮城とは
『駿河記』には
「当城ハ昔時大宮司某ノ築城スル処也、今川義元朝臣ノ頃富士兵部小輔信忠城代氏真ノ時富士蔵人某。元亀三年武田信玄入道当城ヲ攻、蔵人籠城防戦シテ不落、ココ二於テ北条氏政扱ヲ以テ蔵人開城ス…」などとある。
『駿河国志』には
「大宮神田、大宮浅間社の市町なり。…曲輪とて塁あり」とある。
『駿河国新風土記』には
「神田町ノ北二神田塁ノ古城跡アリ。コノ城ハ大宮司和邇部氏築ク所ニテ」とある。これら記すところをまとめると、「神田町の北に所在・富士氏が築城したと伝わる・今川氏に属して武田氏と交戦した」となる。
発掘調査に基づいて書くと、浅間大社とほぼ一体をなし、現在の城山公園当たりに主郭があったようである。しかし「曲輪」「塁」などで書き示すところ、「強固な城」とはいえないように思う。
- 武田氏の駿河侵攻
去る辰十二月九日駿甲の境錯乱の乱の処…。殊に巳の二月遡日穴山葛山方を始めとして大宮城え動き成すといえども…還って勝利を失い引き候。同じく六月廿三日信玄大軍をもって彼の城之取り懸り…種々行いに及び候といえども堅固に相拘り結局数人討捕り候。然る処氏政より罷り退くべきの書札三通参着の上双方の扱いをもって出成候。(中略)忠信の至り也。只今進退困窮についての暇の儀申すの間…東西いず方において進退相定むべし。… 氏真(花押)
これより「永禄11年12月」・「永禄12年2月」・「永禄12年6月」と、3回にわたり武田軍が大宮城に攻撃していることがわかり、そして富士氏は善戦していることがわかる。しかし3回目の武田信玄の攻撃には耐えられなかったようである(この感状を受け取った後、穴山信君を通し降伏している)。
穴山葛山方:穴山信君と葛山氏元による大宮城への攻撃
信玄大軍をもって彼の城之取り懸り:武田信玄の本隊の攻撃
磯貝正義『定本武田信玄』には以下のようにある。
富士郡に入り、二十五日(一説に二十三日)より大宮城の攻撃を開始した。大宮城は富士浅間社の大宮司富士兵部少輔の守るところで、さきの興津対陣中、信玄は穴山信君・葛山氏元らに攻めさせたが、かえって手負死人らが続出して敗退してしまった。
とある。この「二十五日(一説に二十三日)」という部分ですが、上の氏真感状(1571年)では二十三日としているが、北条家の複数の文書には「廿五日(二十五日)」とあるためである。しかし氏真感状は時期を隔ててから出されたものであるから、二十五日と見られることが多い。
「戦国大名領の研究―甲斐武田氏領の展開」によると、このようにある。
永禄12年に入って、両者の最初の争点となったのは、甲州より駿河への入口にあたる富士の大宮城の攻防であった。ここで注目されることは、早くもこの二月朔日の大宮城攻撃軍に駿東郡領主の葛山氏一族が武田側として加わっている点である。(中略)信玄の駿河侵攻直後に葛山氏は武田側に帰属しており、駿東郡での調略をめぐっては武田方に有利な展開であったといえる。
このように、大宮の知見があったと考えられる葛山氏などが敵方にいたことは、確かに不利な情勢であったといえる。しかし武田側でも有力な存在であった穴山氏や知見のある葛山氏を相手にして富士氏は撃退に成功しているという事実は、重要な点であるように思える。以下のように続く。
信玄は帰陣後の五月、(中略)西上野の小幡氏宛にも一層忠信を励むよう督促している。そして五月二十三日には(中略)書状をだしているが、その同日に氏政はその子氏直を今川氏真の養子として、駿河の仕置を任されたと、大宮城を守っている富士氏に通知している。その後、『甲陽軍艦』によれば、信玄は六月二日に甲府を出発して、再度駿河へ侵入し、まず大宮城を囲み、韮山・山中へ出張し、十七日には三嶋を焼いている。(中略)そして伊豆よりの帰路、七月二日には懸案の大宮城を開城させ、富士氏を穴山信君に配属させている。
とある。このように信玄の本隊の攻撃により開城し、穴山信君がその後の処務を行なっている。例えば開城の交渉を司ったのも信君であった。武田氏にとって大宮攻略は鍵であったので、大きな進歩であっただろう。この穴山信君であるが、後に武田氏を裏切り徳川家康に付く。武田氏滅亡後、家康と共に京巡りを行なっていた最中に本能寺の変が起き、領国に近い安全圏まで退こうとする中、土民に襲撃されて殺されてしまったという(なぜか家康と同行せず)。
そして「忠信の至り也。只今進退困窮についての暇の儀申すの間…東西いず方において進退相定むべし」の部分から、氏真はいままで忠義を尽くしてくれたことに感謝し、暇を与える旨の意思を伝えていることがわかる。つまり「自由にしていいよ」ということであり、言ってみれば今川氏からも認められた別れであった。その後富士信忠(富士氏・信通の父)は武田氏に付くことを決意し、今川氏から離れることとなる。
駿河侵攻の時期、北条氏康と氏政から永禄11年から12年にかけて5通の書状が発給されている。「氏政より罷り退くべきの書札三通」は多分これらの中のものであろう。
北条氏政から富士信忠へ |
駿河侵攻の時期、北条氏康と氏政から永禄11年から12年にかけて5通の書状が発給されている。「氏政より罷り退くべきの書札三通」は多分これらの中のものであろう。
- おわりに
- 参考文献
- 富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡-大宮城跡にかかわる埋蔵文化財発掘調査報告書-』,2000年
- 柴辻俊六,『戦国大名領の研究―甲斐武田氏領の展開』P58-62,名著出版,1981年
- 佐野安朗,『古城 第51号』P87-92「大宮城の戦いと十四ノ城砦群」,2006年
- 磯貝正義,『定本武田信玄』P263-265,新人物往来社,1977年
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