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2024年11月10日日曜日

大宮・村山口登山道を巡る問題行為およびガイド問題について考える

昨今、富士山を巡る様々な問題がニュースとなっている。最近も以下のようなものがあった。

誰が?なぜ? 富士山登山道に無数の矢印 富士宮口6~8合目の岩などに塗料で 登山ガイド「許せない」(静岡新聞DIGITAL  2024年11月9日)

富士山の富士宮ルートの6~8合目にかけ、登山道沿いの岩などにペンキのような塗料で無数の矢印が描かれていることが8日、地元の登山ガイドへの取材で分かった。一部は山小屋の石積みにも描かれていた。同日までに静岡県などに報告したという。富士山は国立公園に指定されていて、自然公園法などに抵触する可能性がある。(中略)男性は、6合目以上が通行止めになった9月10日以降から10月下旬にかけ、何者かが複数回にわたって矢印を付けたと推察。「しつこく描かれていてひどい状況。何が目的かは不明だが、富士山の景観を汚す行為で気分が悪い。許せない」と憤った。  富士山では2017年にも須走ルートで無数の矢印が見つかり、国や県などが除去作業に追われた。

そして「有識者」および一般のコメントでは、この行為に対して否定的見解および非難するコメントが寄せられた。




実は富士山におけるこの種の迷惑行為であるが、従来から問題となってきたという事実がある。

幻の「富士山・村山古道」が人気 5年前、ガイド本が出版され話題に(中日新聞 2011年1月13日)
 行政困り顔「本物確証なく危険」
幻の富士山大宮・村山口登山道(通称・村山古道)とされるルートが、登山者の間でひそかな人気を呼んでいる。明治末に廃絶した古道を再発見した、と主張するガイド本が5年前に出版されたのを契機に登山熱に火が付いた。しかし、国や富士宮市教育委員会は、同書が紹介するルートが本物の古道である確証はなく、登山者の安全も確保できていないと懸念している。
昨年10月24日未明、富士宮市の村山浅間神社を出発。富士山富士宮口新6合目までの標高差約2000メートルを12時間半かけて踏破した。たどったのはガイド本「富士山村山古道を歩く」(風濤社)が村山古道だと主張するルート。富士山信仰を研究する登山家で、同書の著者畠堀操八さん(67)=神奈川県藤沢市=が率いる登山者グループに同行した。畠堀さんは、約8年前から同市村山の住民有志と協力して古道を調査。古老の記憶などを頼りにルートを特定し、倒木や雑草を切り払って整備した。2006年に、「幻の古道の在りかを突き止めた」としてガイド本を出版、インターネット上などで話題になった。地元では、古道を活用した“村おこし”への期待も高い。
一方で、行政側は登山者の増加に頭を痛めている。市教委はガイド本のルートについて「学術的な調査に基づいていない。本物だとの誤解が広がっては困る」と懐疑的。県埋蔵文化財調査研究所が08年度に実施した調査も、札打ち場など古道沿いにあった施設の遺構16カ所を確認したが、施設同士を結ぶ登山道までは確定しなかった。地元住民の有志はガイド本のルート沿い約20カ所に案内板を設置したが、数年前に静岡森林管理署に撤去を求められ、やむなく応じた。有志からは「登山者の遭難を防ぐための案内板をなぜ」と不満が渦巻く。管理署は「ガイド本のルートは獣道との違いも不明確な道もあり危険。利用を促すわけにはいかない」と説明する。(抜粋)

このような迷惑行為が行われてきたという過去がある(「記事B」とする)。無論、これが昨今のニュースであったのであれば、コメントも非難するものが多くを占めたことであろう。そもそも村山口登山道の学術的調査の嚆矢は、『富士山村山口登山道調査報告書』(1993年)である。



この時代には既に、村山口登山道における施設跡の平坦地は調査されている。したがって

明治末に廃絶した古道を再発見した

という言い分そのものが、まずあり得ない。各媒体でもそのように流布しているようであり、この浅ましい程の執念は理解しがたい。1993年の調査において施設跡の平坦地はほぼすべて把握されており、追加で発見されたものは『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』(静岡県富士山世界遺産センター)において「SX8」と呼称される地点のみである。現在は更に詳細な分析がなされ、学術的な研究で立証されたルートが公開されている。

記事Bは「倒木や雑草を切り払って整備した」と美化した表現となっているが、「無許可での荒らし行為」と大きくは違わないものである。富士山は国有林の箇所だけではない。財産区もあり、これらは公有林である。これらの承諾を受け行われた行為ではないのは明白であり、独善的な行為であったことは当人たちも否定できないだろう。

オリエンテーリングという競技でも無断でのフラッグ設置などが問題になることがあるようであるが、まさしくそれに類するものであろう。こういう無神経な人々は底がない。例えば富士山麓の財産区では以下のような事象もあった。

勝手に山菜採取 男女23人検挙 静岡 (静岡新聞デジタル 2010年6月2日)
地元住民が管理する財産区から山菜を無断で採取したとして、富士宮署は5月13〜31日までに、窃盗の疑いで28〜75歳の山梨県などに住む男女23人を検挙した。同署の調べでは、男女らの多くは高齢者で、富士宮市根原の立ち入りが禁止された山中に侵入し、ワラビやウド、フキといった山菜を採取したとされる。同署によると、この場所は有刺鉄線で囲まれた数万平方メートルの土地。男女ら は鉄線を乗り越えて侵入したとみられる。近くの大学が行う生態系調査への協力と不法投棄防止のため、「山菜採り禁止」「立ち入り禁止」と 書いた看板を立て、注意を促していた。この場所は「不審者が勝手に入って山菜を採っていく」との苦情が毎年寄せられていたため、同署が警戒を強めていた。

大学側はデータを取り、論文などを書くこともある。例えば植物の発育調査を経時的に行ったり、場合によっては数カ年必要なものもあるだろう。もっと長いものもあるかもしれない。しかし"意図せぬ人工的な介入"があったということから、そのデータはもうそのまま使えない。つまり数年の研究も無神経な人々によって一瞬にして台無しになってしまったりするのである。

実は村山口登山道でもそのような危機があった。上の「有志」を名乗るような組織の行動を見てみると、シャベルなどで土を深く掘り起こすなどしていることが確認できる。しかしこれを登山道で無作為にやっていたら、埋蔵物を散逸してしまう危険性がある。

例えば中宮八幡堂の跡地からは「17C」や「17~18C」、つまり17世紀に遡ることができる埋蔵物が発掘調査により発掘されている。これらは施設跡であることを示す重要な要素となる。しかし有志を名乗る組織が勝手に掘り起こしてしまったら、建物跡の基礎跡等も分からなくなってしまうのである。そうすれば村山口登山道の形跡は失われることになる。

であるから、有志らの行動はむしろ村山口登山道の発見を阻害する行動であったと言うこともできる。「数年の研究」どころか「歴史そのもの」を失うところだったのである。

御室大日堂跡

村山口登山道の保存を唱えていた著名な人物に故・小島鳥水氏が居る。氏は聡明な人物であり、とても見識が深かった。(小島1927)「不盡の高根」には以下のようにある。

私は、前に大宮口はもっとも低いところから、日本で一番高いところに登る興味だと述べた。しかし、も一つある。それは大宮口こそ、富士のあらゆる登山道で、もっとも古くから開けた旧道むしろ古道であることだ。だが、それは今私たちの取った道ではない。大宮浅間神社の裏から粟倉、村山を経て、札打、天照教まで大裾野を通り、八幡堂近くから、深山景象の大森林帯を通過し、約二千メートルの一合目直下から灌木帯を過ぎて今の四合目まで出る道がそれだ(中略)今川家御朱印(天文二十四年)にも、村山室中で魚を商なってはならぬとか、不浄の者の出入を止めろとか禁制があって、それには、この村山なる事を明示している。富士の表口というのは、大宮口であるが、つまるところ村山口であったのだ。私がこの道を取って登山したのは約十七、八年前であったが、その当時、既に衰微して、荒村行を賦ふするに恰好かっこうな題目であったが、まだしも白衣の道者も来れば、御師おしも数軒は残っていたが、今度来て聞くと哀かなしいかな、村山では御師の家も退転してしまい、古道は木こりや炭焼きが通うばかりで、道路も見分かぬまでに荒廃に任せているという。私が知ってからでも、その当時新道なるものが出来て、仏坂を経てカケス畑に出で、馬返しから四合半で古道に合したものだが、これも長くは続かず、私たちの今度取った路は最新のもので、二合目で前の新道なるものを併せ、四合目で村山からの古道を合せている。富士のようなむきだしの石山で、しかも懐ふところの深くない山ですら、道路の変遷と盛衰はこのように烈しい。(中略)
 氷河のない富士山は破壊力においてすら微温的であるから、時に雪なだれで森林を決壊し、薙なぎを作ることはあっても、現に今度の大宮口でも、三合目の茗荷岳を左に見て登るころ、森林のある丸山二座の間を中断して、「なだれ」の押しだした痕跡を、明白に認められることは出来ても、人間がこわす道路の変遷の甚だしいのにはおよばない。後の富士登山史を研究する者が、恐らく万葉以来、一般登山者の使用した最古道、村山口の所在地を、捜索に苦しむ時代が来ないとも限らないから、私は大宮口の人たちに、栄える新道はますます守り育てて盛んにすべきであるが、古道の村山を史蹟としても、天然記念物としても、純美なる森林風景としても、保存の方法を講ぜられんことを望む。
 我祖先が、始めて神秘な山へ印した足跡を、大切に保存しないということは、永久に続く登山者をも、やがて忘却してしまうことだ。それではあまりに冷たく、さびしくはないか。私はなお思う、古くして滅びゆくもの、皆美し。(以下略)

このように述べられ、後の時代に村山口登山道の道程が失われることを危惧されていた。そして研究者らが研究する段階では事跡等も不明になってしまっているとも限らない、と警鐘を鳴らしていた。

今現在、小島氏に伝えられることがあるとしたら、「(上のような)危機もありましたが、研究者により大宮・村山口登山道の全容は明らかとなり、保存の観点にも注意が払われている」ということだろうか。このように学術的な観点から大宮・村山口登山道の全容は明らかとなっているが、記事Bの面々らはそれをあえて伏せているきらいもある。そして20世紀の調査についても触れようとしない。あくまでも"自分たちが発見したのだ"ということにしたいがためである。また独自の見解もあるようであるが、そこに学術性がなければ、それは想像でしかないのではないだろうか。

小島氏は村山口登山道に対する強い思いがあったようであり、後の(小島1936)"すたれ行く富士の古道」(村山口のために)"でも再び村山口に言及している。氏は論考の冒頭で、私が最も好きな聖護院門跡道興の短歌を載せ、そこから本論に入る。そして若山牧水の和歌から上の論考(不盡の高根)を回顧され

村山古道の跡に、假に歌碑として建てても、少しも不似合ひなことは無いと思はれる

と振り返り、ここで「村山古道」という表現を用いている。以下に続きを一部掲載する。

それが可なりに古い時代(後述)から、明治末期までは、村山口といふ名でも知られてゐた。然るに大宮口の新道(現今のは新々道)が開けて、村山口は全く廃滅に帰し、今では富士登山者の中でも、村山といふ名を口にする人も無い、或は全く知らない人すらある。(中略)

村山口は、私蔵の古い一枚摺(年代不明)の地図に依ると「表宗本寺京都聖護院宮内村山興法寺富士別当三ヶ坊あり」と見えてゐるし、又「富士山表口真面之図」と題する大判一枚摺に依ると、富士山別当村山興法寺三坊蔵板とある。(中略)

この地形図式錦絵で見ると(中略)ここに上述の三坊が控えてゐる。それから発心門を潜り、安生山を左に見て、靏芝、亀芝(草を使った跡が、靏亀の形を成してゐる)を右に、中宮八幡社にかかり、女人堂に至る。これから上は、女人禁制である。(中略)そして村山口の頂上は、銀明水と東賽ノ河原の間に「村山拝所」としてしるされてある。一合目から九合目には、今日のように何合何という小さい区切れがなくて、合が単位になってゐる。

(中略)序でを以て言ふ、「馬返し」なる名は、富士にも日光にもあって、昔の登山者には、懐かしい名詞だが、これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう。(中略)武田久吉博士が、未だ一介の学生たりし青年時代に、私のところへ寄せられた富士便りのハガキをたまたま見つけ出したから、左に援用する。村山口経由の登山である。日付けは明治三十八年八月五日で、日本山岳会成立以前のことである。

ここで「これからは、そういう地名も廃たれ、辞書でも引かないと意味が解らなくなるだろう」とあるのは、氏の先見の明であると言える。また武田久吉氏の村山口を経た登山も記され、貴重な記録となっている(ここでは略す)。また以下のようにある。

(中略)大體の路筋を言へば、大宮浅間神社から大宮新田を通過し、賽の河原から粟倉に到り、村山に達するので、村山の標高は須走より低く、御殿場より聊か高いぐらゐのところ…

ここも極めて正確で、かつ細かい記述である。恐らく昔の富士宮市の人々は「賽の河原」(舞々木町)が何処かは知っていたことであろう。しかし現在は知るものも少ないし、ここを経由したことも忘れられている。

(中略)村山から札打、天照教、細紺野を経て、八幡堂下に至るまで、所謂裾野帯であるが、八幡堂下より、草木はおのずと深山的のものになり、一合目までには、蘚苔地衣類多く「オオクボシダ」など、樅の大樹に密生している。(中略)然るに、この千年の歴史ある村山口が、明治末期から俄かに衰微し、大正昭和となって全く廢滅したのは、他の登山口の勃興したためでなく、大宮口自らが、もつと距離の短かい、比較的安楽な道を、新たに開拓しためであった。

(中略)数多い富士登山道の中で、捨てられて顧みられない村山の古道を拾い上げた所以は、第一にそういった、古くて美くしく、故にまた懐かしい憶い出話を、語ることを、私が好むからである。第二に、私あたりの旧に属する登山者が、今のうちに書き残して置かなければ、古道は、その物語までも失はなければならなくなると気遣はれるからである。第三に、村山は、古道と言っても、明治末期までは、ともかくも伝統と生命を保ってゐた。衰亡史の第一頁を切ってからは、至って新しい。それだけに、資料も猶ほ豊富に残されてゐる筈だから、私の、継ぎ合せて拵へたやうな貧しい本文が捨石となって、富士の研究家、又は大宮附近の古老の口からなりと、村山興亡史の發表を促すことになれば幸ひである。第四に富士の新道として、山中口、精進口、上井出口、人穴口などが、続々開拓されて、中には実際、未だ幾何も利用されてないものもあるらしい。富士登山に対するそれだけの熱が山麓の人々にあるならば、歴史あり、伝説あり、自然美に富める村山口を、回復、保存、維持して行くべきではなからうか。村山口の道路が、或は長く、或は幾分か峻しく、時間もかかるといふのは、此際、むしろ不幸なる幸福であらねばならぬ。(以下略)

大宮新道に注力していったのは、やはり自然の成り行きであろう。そして村山口登山道が廃れていったのも、やむを得ないことであると思われる。しかしそこにそのままの状態で残ってさえすれば、後の時代に辿ることもできよう。

しかし学術的な保証なく人工的な手が加われば、そうはいかない。その危険性があったのである。また小島氏の述べるような「後の富士登山史を研究する者」「富士の研究家」によって村山口登山道のルートが明らかとなった昨今、これが村山口の登山者にも十分に認識されていないのは唯一危惧される点である。

その上でこれが作為的なものであったのなら(記事Bの面々)、小島氏の思惑とも異なるものであろう。また「ガイド問題」については「富士宮市の博物館構想を通史的性格から考える、文化・芸術の拠り所としての表現」にて言及しているので御参照頂きたく思う。

追記(2025/04/24)。以下ではもう少し踏み込んで山の諸問題について考えていきたい。

Mt.FUJI 100というトレイルランニングのレースがある。そのプロデューサーの方の投稿が以下のものである。



内容は、私設で無許可に看板等を設けることに対する注意喚起である。改めて私は、これが普通の感覚ではないかと思う。

そしてこの種のレースに明らかに賛同していないと取れる意見も散見される。



ハッシュタグを付けて投稿しているところから見ても、"物申す"というスタンスであることが分かる。ハッシュタグは、その対象に関心がある人に見つけてもらうための工夫なのだから。私がこの投稿を見つけられたのも、この工夫があったためである。これをあえて本番数日前に投稿するところに、意図が感じられる。そして、自らを「登山ガイド」と名乗っている。

ここで考えていきたいのは、そもそも登山文化を考える時、それそのものが自然的ではないということである。私も登山をするので分かるのであるが、登山道を整備するということは"自然的ではない状態にする"ということなのである。

土を掘り起こし、時には木の板などを打ち込み、時には金属を打ち込み、時には鎖場といって岩に金属を打ち込んだりもする。自然的ではないから、そこを歩けるのである。登山道の箇所だけ一段低くなるため大雨の際は登山道に水が流れ込み、どんどんえぐれていく。これも、登山道にしていなければ本来生じ得なかった現象といえる。

登山ガイドは、その登山道の恩恵を特に受けている。言い換えれば、自然的でなくしたものの恩恵を受けているので、ガイドとして活動できているのである。特にビジネスになっている場合は、フリーライドした上で更に金銭を得ているという見方もできる(入山料がある山も存在する)。ガイドがガイド利用者に"ここにはトイレがありますから使ってください"と言っても、そのトイレはあなたが整備したものではないのだから。

私は登山道で無い所を歩くのも好きである。これは推奨されてはいない。というのも遭難のリスクもあるし、別の踏み跡を形成することに繋がりうるし、落石が生じる可能性がある。整備された登山道でも落石が生じることがあり、その際は「ラック!」と叫んで下に居る人に警鐘するのが習わしである。勿論私は、そういう性質ではない箇所で外れて登山しているに過ぎないが。実は登山道ではない所を踏破する考えの方が、よっぽど自然的なのである。

私が違和感に感じるのは、一部の登山者が"自らは自然に全く手を加えておらず、そこに変化をもたらす存在ではない"という誤解を抱いていることである。別に登山をしてはいけないと言っているわけではない。登山道を用いる人であればそれは皆同じサイドに居る人間であるという自覚は必要ではないだろうか、ということなのである。日本で整備された登山道の総延長は計り知れない。これらは草木・花を根こそぎ取り除いで形成したものである。特にチェーンスパイクなどは、地面その他を傷める道具でもある。つまり登山者であろうとトレイルランニングであろうと、基本は同じサイドなのである。

ちなみに私は、トレイルランニングをやったことが無い。

追記(2025/05/03)。以下ではトレイルランニング運営側と野鳥団体側とで確認される意見や認識の齟齬について見ていきたい。「ウルトラトレイル・マウントフジ2023 全体説明会議事録」という資料にそれが示されている。冒頭で所感を述べ、後半で具体的な言説を見ていきたい。

議事録を一通り見てまず驚かされるのが、ひたすらに"机上の空論"をしているということである。すべてにおいて何の根拠もないのである。驚くべきは、それが野鳥団体側においてみられるということである。このパターンは初めて見たので驚いた。

まずトレイルランニングの運営側というのは野鳥の専門家ではないから、運営側が調査をしてもあまり意味はない。手法も分からないのだから。だから世の中には"委嘱"というシステムがある。つまり専門的な調査ができる機関に研究を依頼するのである。まずはそれをすればいい話なのである。

そして野鳥団体側の出席者を見たときに、学術的なこと、つまりアカデミックな要素が一定レベルに達していない人が居る可能性がある。上述したように"運営側というのは野鳥の専門家ではないから、運営側が調査をしてもあまり意味はない"ということは専門家であれば分かると思うのであるが、それを等閑視している所を見ると、その蓋然性が高い。

学位等を保持しているのか、研究報告をしたことがあるのか、その研究は査読ありなのか否かといったことを1人1人確認する必要性があると思う。専門家だからこそ代替案が出せるのだから。もちろんすべてが学位等を保持している必要性はないと思うが、その場合は専門性が担保されていないということになる。例えば日本野鳥の会南富士支部の方が調査に対して「有意に見られる結果が出ています」という文言を用いているけれども、調査・研究でいう「有意」というのは簡単に用いることができる言葉ではなくて、しっかりとしたモデル化が必要である。それがあるのか否かというレベルも見る必要性がある。

そもそも野鳥団体側に緊張感が見られない。緊張感が必要なのはむしろ野鳥団体側なのだから。何故なら、調査・研究を行って"野鳥に対し有意な影響は見られなかった"という結果が出たとしたら、大局が動くからである。なので普通に考えればむしろ野鳥団体側が材料を用意しなければならない。そして「全体説明会」なのであるから本来他の事柄についても議論しなければならないのにも関わらず、明らかに「野鳥」に偏りすぎている。つまり自分の畑分野についての準備が説明会の時点でできていないので、議論が進んでいないのである。

そもそも天子ヶ岳は野鳥団体のものではない。であるからそもそも両陣営は全くの対等であって、どちらか一方が優位という性質のものではない。にも関わらず、野鳥団体側は何か勘違いしているように見受けられる。それが終始不思議で仕方がない。

現時点では"トレイルランニング大会が行われることによって野鳥に良好な影響を与えるということはなさそうだ"くらいのことしか分からないように思う。例えば人が沢山通ることで繁殖行動が増えたりとか、もしかしてそういうこともあり得るわけであるが、一応それは否定できるというくらいの材料しか存在していない。

以下では具体的な発言を見ていこう。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:全然違う時にやって調査になるのですか

公益財団法人日本鳥類保護連盟:小鳥の調査は連盟の職員が個人的に大会に参加し、大会当日にランナーと一緒に走って取ったデータです

環境省国内希少野生動植物種保存推進員:それはわかりました。全コース見ないままで調査しないで予算がないから強行してしまう、ということですね。そう理解していいですか。


興味深いのは、同じ野鳥団体側でも意見の乖離があるということである。つまり推進員は、日本鳥類保護連盟も関わった調査方法に疑義があるわけである。しかし"全然違う時期に調査をやると何が問題であるのか"ということを言語化して伝えないと、説得力が無いし意味もない。全然違う時期に調査するメリットだってあるはずだ。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:私が理解するのではなく、寒さや飢えで死んでしまう鳥たちのために言っているのであって、私に理解しろと言われたってそういうものではない。時期を外すことができないと言うが、Facebookなどを見ると随分大会をやっているようですね。


トレイルランニングが開催されたことによって飢えてしまうというエビデンスを提示して下さい。実際に何度か行われているので、飢えの有無自体は調べることができるわけである。私はとりあえずは研究機関に委嘱して、大会後に飢えの有無を調べるところから始めてもよいと考える。これは定点カメラを多数設置して、鳥たちの様子を観察することで可能となる。勿論各所許可は必要かもしれない。飢えていなかったら、推進員の推測は誤っていたことになる。その場合、推進員はその誤りを認める必要性がある。これがアカデミズムの世界である。

一般論以外の言説において、終始エビデンスが不足しているんですよね。運営側がエビデンスを求めようとして調査をしようとしている一方、専門家側がエビデンスを提示せずに既成事実のようにして話を進めるのはあまりお利口ではない。

そもそも専門家ではない人が野鳥調査などできないのだから、単に無茶振りをしているようにしか映らないのである。これは専門家側も普段からそのレベルの調査くらいしかしていませんよ、と言っているに等しい。この業界のアカデミズムはこの程度のレベルですよ、と言ってしまっているのだ


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:だからやめればいいじゃないですか。


この発言が出せたのは見方を変えれば凄く良いことではないだろうか。一例を出せば野鳥観察にしても、野鳥からすれば観察などして欲しくはないのである。常に警戒せねばならないし、それもストレスだろう。

野鳥観察の会などが、山に分け入り、集団で行ったりしている事例もよく聞く。もちろん静かに分け入っているわけであるが、そこは野生に生きるものなので感知できていないとするのは失礼だろう。それは日本野鳥の会富士山麓支部が述べる所の「突然の非日常」ではないのか。であればストレスがかかるから野鳥観察は駄目だと言うことも出来るし、推進員の言葉を借りて言えば「ストレスを感じる鳥たちのために言っているのであって、私に理解しろと言われたってそういうものではない」とも言えてしまう。そして帰結として「だからやめればいいじゃないですか」とも言えてしまうわけである。そのような表現をしてもいいというカードを与えてくれたというわけだ。

野鳥にとっては人間の介入がゼロの方が良いに決まっている。一方で動画サイト等によると、人間が野鳥と仲良くしているものがあったりする。それを見てほくそ笑むのは良いが、それを見た他の鳥はその鳥を警戒するかもしれない。人間が気づいていないだけで、野鳥と触れ合わんとする行為そのものが、鳥にとって何らかの支障をきたしていることもあり得ると思う。こういうものもすべて駄目とするくらいの気概を持たないと成立しないような要求をしているように映ってしまっている。

そもそも四桁にも上る野鳥調査費を払わせておいてその上で「開催中止」を求めているということは、あわよくば野鳥調査費だけひったくろうとしていることになる。この調査は学術的にも活用できるし、ジャーナルに掲載したっていいわけである。むしろ感謝しなければならないはずなのである。天子山地は別に野鳥団体の所有物ではないのだから。

まず調査に対して感謝する。その上で調査から出来うる限りの対応策を導き出すという姿勢が必要なのではないだろうか。その対応策にこそ専門家としての叡智が生かされるべきであって、その土台を模索しようとしないのであれば、存在意義などないだろう。


日本野鳥の会 南富士支部:先ほど秋の開催と台風のお話がありましたけども、具体的な数値を出して欲しいです。10月はそんなにはたくさん来てなかったです。前に一度秋に開催した時があって、たまたまその時に台風だったかどうか知らないけれど、たった1回の経験でダメだという結論を出した。そのこと自体が問題だと思う。もう少し何回か経験して、ちゃんとしたデータを重ねて、そういうのを出してもらわないと説得力がないです。


そもそも過去の台風というのはデータベース化されそれを元に多くで報道されており、9月10月に多いというのは一般論としても知られている(「9月17日は台風の特異日本格的な台風時期に突入」)。

単に「実際秋に台風は多いのですか?」と質問すれば済むだけの話なのを「たった1回の経験でダメだという結論を出した。そのこと自体が問題だと思う。もう少し何回か経験して、ちゃんとしたデータを重ねて、そういうのを出してもらわないと説得力がないです」となってしまうのはただただ不思議である。

むしろ「10月はそんなにはたくさん来てなかったです」と客観的に分かるデータを、質問者側こそが提示すべきではないだろうか。自分はデータを出さないのに、相手にだけ求めるのは良くない。とても良くないことであるし、稚拙である。

まずは自分から調べてみる、そういう姿勢が必要だと思う。会議に出るのなら尚更である。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:君たちが調査をすると言うが、何のための調査かわからないのですよ。予算を10分の1か100分の1しか出さないで、日にちも変えずどんな検討をしているのかわからないまま強行するだけ。富士山クラブさんが飼っている可愛い小鳥が飢えて死んでしまうんです。それが目に見えているのでやめてくれと言っている。それと行政がどうのと言われても、私達は行政のためにやっているのではない。


先ほど「別にやめろと言っているわけではなく(原文ママ)」と言っていたのに、もう変わっている。そもそも「君たち」というのは失礼ではないだろうか。繰り返しになるが「飢える」のエビデンスを提示すべきである。日本野鳥の会 南富士支部の方の言葉を借りて言えば「目に見えている」とかではなくてデータを重ねて、そういうのを出してもらわないと説得力がないですという話になる。


環境省国内希少野生動植物種保存推進員:自然公園で特別な鳥が見られるのは幸せなことですが、普通な鳥はスズメでもシジュウカラでもヤマガラでも見られたらとても山を歩いていて幸せになれる。普段目にする奴らが道脇でやっている。そっちが大事だと思っている。その調査はやろうと思えばできるが、今回ランナーとして走ってくれた時は、前のランナーが通ったらいない。その状態で調査と言っても無理だと思います。私は1日2回犬と一緒に山を歩いているがそのイメージと、走って1種類でした2種類でしたとそんなわけがない。毎日見ているし、夜も歩いている。飛び立ったりすると迷惑をかけたとコースを変えたりもしている。


言語化が上手く出来ていないから何を言いたいのかはよくわからないが、"1日2回犬と一緒に山を歩いている"ことが全く問題ないのであれば、いよいよ説得力がなくなってくる。

ここまでの論調を見ると「犬が鳥を襲う心配はないのか」「そもそも鳥は犬に対して脅威を感じないのか」というような揚げ足取りを可能にしてしまっている。実際"犬が鳥を食べてしまった"という事例はそれなりに認められる。

この説明会からでは分からないが、少なくともトレイルランニングにゼロリスクを求めることはお門違いである。それをしてしまったら"犬が鳥に危害を加える可能性はゼロではないから、山での犬の散歩は禁止"ということにもなりかねない。そもそも山に犬を連れてくることの是非が議論されることもあったりする。すべての人がすべからく常識の範囲内で折り合いどころを見つけ、公共の場で活動しているのが世の中なのである


NPO法人富士トレイルランナーズ倶楽部事務局長:今回吉田さんにやっていただいた調査はこれまでにない貴重な調査だったと思いますが、これはあくまでボランティアベースでやっていただいたことなので、本来であれば総合的知識を持った方にお願いする以上は仕事として発注しないといけないと思っているが、そこは今のNPOの財政事情ではすぐに着手はできない。次回大会の寄付エントリーがどの程度集まるかによって、その次からは拡大していければと考えている。


そうなんですよね。


公益財団法人日本鳥類保護連盟:先ほどはご意見いただきありがとうございます。ここで何回か参加させていただいて、ほぼ意見が平行線なのでどうしたものかと思いますが、いくつかできることがあると思います。先ほど水越さんがおっしゃっていたように非日常的なものがよくないという話もありました。私たちは何千人の人が何時間もかけて通過するイメージしかない。163kmもあればスタート地点とゴール地点でばらつき方も全然違う。実際に各チェックポイントを作ってどれくらいの時間をかけてどれくらいの人が通過していくのか視覚的に見せていくだけでも落とし所を作る手がかりになるのではと思います。私は日本鳥類保護連盟側の人間なので、渡邉さんと半場さんのおっしゃることもわかる。でも少なくともこれが国交省のアセスメントに基づいた調査ということであれば、我々はもっとちゃんと調査にお金をかけてやりなさいと言えますが、実際には調査義務がないトレイルランの方のほうが歩み寄って来ている段階で、完全に喧嘩腰でキレてしまったらもう皆さんを呼ばないで勝手にやりますとなりかねない。何かしら落とし所を作っていかないと、色々な立場の人がいて色々な考えがあるわけで完全に1つになるというのはなかなか難しい。ここで1番リーダーシップを取れるのは環境省だと思う。環境省さんがワーキンググループを作ったり、調査方法をどうするかということを渡邊さんや半場さんや水越さんや地元の方を集めて聞いたほうがいいと思います。その中で実際にこれだけのお金を出せるという現実があるわけで、それに対してこちらから何千万もお金がかかるような調査をやりなさいと言っても無理だと思います。あるお金でどうするのか。手弁当で一部をやらなくてはいけないかもしれない、地元野鳥の会に頼らなくてはならないかもしれない。ここ2〜3年日本鳥類保護連盟と富士トレイルランナーズ倶楽部とで調査方法を決めてきましたけど、地元の人も含めてどうしていくか話すほうがいい。そうしないとこうしましょうと決めて1年後に発表したとしてもまた同じように、そんなことやっても意味がないと言われると思います。私は少なくとも大事なお金をドブに捨てるような調査をやったつもりはありませんが、そういう風に思われてしまう。地元の人が一緒になって調査方法をどうしましょうかと考えていく場を環境省さんに作っていただきたいと思うのですが、そういうことは環境省さんの仕事としてはどうなのかお聞きしたいと思っております。


そうですよね。"実際には調査義務がないトレイルランの方のほうが歩み寄って来ている段階で、完全に喧嘩腰でキレてしまったらもう皆さんを呼ばないで勝手にやりますとなりかねない"…これがすべてでしょう。そもそも両陣営は対等な立場なのだから。

平たくいうと、鳥好きのおじさんがただ暴れているだけの場になってしまっていて、物事の本質に迫ることが出来ていないわけです。


  • 参考文献
  1. 小島烏水(1927)「不盡の高根」『名家の旅』、朝日新聞社、185-249
  2. 小島烏水(1936)「すたれ行く富士の古道」『山』、梓書房、4-13
  3. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』

2023年1月1日日曜日

徳川家康および徳川家臣団と富士宮市・富士市

今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。




徳川家康は、現在の富士宮市域に何度も足を運んでいることが史料から知られる。そして、当地に関わる徳川家康文書も多く確認されている。

しかし今回は各徳川家康文書を見ていくのではなくて、大局的に①「武田征伐後」②「本能寺の変後」③「徳川家康の関東移封後」と大きく捉えていきたいと思う。これらはすべて天正期にあたる。その中で現在の富士宮市で起こった徳川家康およびその家臣団が関わる出来事について考えていきたい。

  • 武田征伐後

天正10年(1582)4月、甲斐の武田氏を滅亡させた織田信長はその帰路で中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと到る。そして同盟者である家康もこのとき出向いている。その様子が『信長公記』に記されている。

織田信長

『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ…

と記す。ここに見える行程を記すと

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

となる。ここで人穴の後に「浮島ヶ原」が出てくるのはおかしいので、地名を誤ったのであろう(※原本要確認)。少なくとも、中道往還を上から降ってきていることは明らかである。また三条西実枝『甲信紀行の歌』の記録と併せて考えると、神野は井出より北部に位置すると思われる。なので「本栖→神野→井出」としても良いように思われる。

大宮を発った後に浮島ヶ原に向かい、その後富士川を超え庵原郡の蒲原に入ったとすれば行程に違和感はないため、実際の行程は

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原

というものであったのだろう。以下では『信長公記』の内容をもう少し見ていきたい。

滅亡へと追いやられた武田氏の領国である甲斐国を超え、信長一行は駿河国に入る。気の緩みからか、神野ヶ原・井出野での小姓たちの自由な行動が記される(ちなみにこの「神野」は『吾妻鏡』にて曽我兄弟の仇討ちが行われた地として記される。『曽我物語』の方は「井出」としている。両方の地名が確認できる点からも重要な記録と言える)。

一行は人穴を見物し、ここに休憩所を設ける。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があったとする。「白糸の滝名所あり」と記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが読み取れる。(この後浮島ヶ原に行ったとある)

また後北条軍の当地でのこれまでの動向を記し、中道往還や駿州往還を進んで大宮の伽藍等を焼き払い、更に本栖方面まで放火したとある。後北条氏が織田方の甲州征伐に呼応して武田領へ進軍したことを示している。「身方地、大宮の諸伽藍を初めとして」とあるが、ここでの「大宮」は「富士大宮」全体を指していると考えられる。

その後の「大宮は要害然るべきにつきて」であるが、"富士大宮は要害の地であるため、その富士大宮に位置する浅間大社に御座所・御陣宿を設けた"という解釈ではないかと思う。浅間大社を要害といっているのではなく、富士大宮という地を要害と述べ、御座所・御陣宿を設けるにふさわしい地であるという解釈が自然であろう。

また、浅間大社にて信長は家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。その後は浮島ヶ原→蒲原へと向かっている。

『家忠日記』によると

天正10年4月11日条: 大宮まで帰陣候
翌12日条: 上様大宮まで御成候

とある。「帰陣」したのは松平家忠一行で、「上様」とは織田信長を指す。つまり『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していると言える。従って、この一連の記述はかなり信憑性が高いと言えるだろう。

  • 本能寺の変後

『家忠日記』天正10年(1582)7月8日条に「家康は大宮金宮迄着候」とある。家康は「本能寺の変」後に不安定となっていた織田領の信濃国へ向かう過程で大宮の「金宮」を通っている。

「金宮」は富士宮市淀師金之宮のことで、永禄12年(1569)12月17日「北条氏政判物」に

一所 よとし  金宮  とかみ

とあることでも知られる。「淀師」「金宮」「外神」が「一所」として記されていることから考えても、現在の富士宮市淀師金之宮を指すと考えてよいだろう。

またここで気になることがある。「上様大宮まで御成候」とあるように、家忠は織田信長のことは敬称で記しているが、一方で主君の家康のことは「家康は大宮金宮まで着候」と呼び捨てにしていることである。松平一族(出身)から見たとき、家康の存在はまだ敬称をつけるに相応しいとは考えられていなかったのだろう。しかしその後は敬称が認められるというので、立場の変化で周辺の受け止め方も変わっていったとみられる。

この年の家康の動きは大変なもので、本能寺の変後の天正10年(1582)6月から7月にかけて大坂→伊賀越→三河→遠江→駿河→甲斐→信濃を移動している。遠江・駿河・甲斐は浜松-掛川-江尻-大宮-精進-甲府と移動しているので、家康は東海道から中道往還に入っていることが分かる。

また『家忠日記』天正17年(1589)8月28日条に「殿様昨日大宮迄御成候」とある。以下で説明する「富士山木引」の最中に家康が富士大宮を通り、甲府へと向かっている。これも、中道往還が該当する。中道往還が重要な街道であったことが分かり、このイメージが重要ではないと思う。

  • 富士山木引

徳川家康家臣団の動きとして特筆すべきものに「富士山木引」がある。以下にその過程を記す。期間が極めて長いため、"木引き→川下し→吉原"の流れが把握できる箇所までを抜粋という形で記す。すべて『家忠日記』に見える内容である。


日時内容
天正17年(1589)7月9日家忠、富士山麓へ木引へ向かうよう指示を受ける
同19日家忠、普請の人夫を大宮まで向かわせる
同年8月3日賀島(現在の静岡県富士市)の舟手が来る家忠は上井出の小屋に到着(賀島の舟手は、おそらく富士川の渡河を意味すると思われる)
同4日家忠は酒井家次の普請組に入る(※前日の情報では井伊直政の普請組に入るとの情報であった)
同5日木引をしたが成果は乏しい
同6日雨のため道作りに留まる
同7日木引きで少し木を出す
同8日木引きを130人規模で行う
同9日木引きを進める
同10日木引きを進める。家忠、松平伊昌と朝比奈十左衛門をもてなす
同11日雨天中止
同12日木引きを進めるも雨降る
同13日雨天中止
同14日雨天中止
同15日木引きを進めるも雨降る
同16日木引きを進めるも雨で中止
同17日大木の調達が必要となったため、平岩親吉と酒井家次の組を動員することとなる。大木の木引きのための道作りを行う
同19日木引きを行う
同20日大木を引く。雨天
同21日木引きを行う。雨天
同22日材木調達。雨天
同23日木引きを進めるも雨で中止
同24日木引きを行う
同25日富士山に雪積もる。105人体制で木引き。
同26日富士山に雪積もる。木を上井出の小屋場に引き出す
同27日材木調達
同28日材木調達。家康が昨日大宮に到着、家忠は甲府へ向かう道筋まで出向いた
同29平岩親吉普請組の大木を平岩親吉と酒井家次の二組で沼久保まで引き出す手筈となり、その道まで引いた
同30日木引きを行う。大木を大き(註:青木に比定)まで引き出す
同年9月1日木引きを行う
同2日木引きを行う
同3日木引きを行う
同4日木引きを行う。沼久保の川へ木を運び入れる
同5日二十町分の材木を川下しした
同6日二十町分の材木を川下しした。夜より雨。
同7日洲に引っ掛かり川下しできず
同8日昼まで雨。雨による増水で木が流れる
同9日水深が浅く川下しできず。陸地を引いて運ぶ。野田衆と信州松尾衆間で喧嘩あり。
同10日木引きを行う
同11日木引きを行う
同12日木を吉原まで引き届けた。そこから舟に届ける。
同13日夜より雨。家忠、大宮へ帰る。
同19日木引きを行う。家忠は保科正直の小屋に陣替。


これらを見ると、駿河国富士郡の各地名が確認される。富士上方が「大宮」「上井出」「沼久保」「大き(青木)」であり、富士下方が「賀島」「吉原」である

松平家忠は9月2日時点では興津に居た。同3日に「賀島の舟手」とあるのは、富士川を渡河したことを示すと思われる。渡河後に北上し、富士上方の上井出に到着したわけである。

松平家忠

8月3日条に上井出の「小屋場」とあるが、同26日条でこの小屋場に木を引き出していることが分かるので、小屋場は木を集めておく場所であることが分かる。

そしてこの木引き事業には有力家臣が参加しており、松平家忠をはじめ酒井家次・井伊直政・本多忠勝・松平伊昌・平岩親吉・保科正直・奥平信昌・菅沼定盈・西郷家員・設楽貞通といった名だたる武将の名が見える。これらは全員富士上方一帯に居たと見てよいだろう。


井伊直政

また天正18年(1590)3月23日にも別件で「天神山」の材木を引いた記録が残るが、この天神山は上井出の山のことである。


天神山

天正18年の2月から3月にかけて富士郡・駿河郡は特筆すべき動向が認められるので、『家忠日記』より内容を引用する。


日時内容
天正18年(1590)2月10日徳川家康、賀島(静岡県富士市)まで到る
同13日松平家忠、吉原(静岡県富士市)の御茶屋の材料担当となる。材木の調達を進める
同14日家忠、吉原への陣替を命じられる
同15日家忠、吉原に陣替する
同16日家忠、御茶屋の材木調達を行う    
同年3月14日家忠の元に豊臣秀吉が吉原まで御成になるとの情報が入ったため、吉原に御陣屋の設営に向かう
同16日家忠、吉原の御陣屋の設営を行う
同18日家忠、材木調達を行う
同19日家忠、吉原の御陣屋を更に拡大させる
同20日家忠、吉原の普請に人員を向かわせる
同23日天神山(富士宮市上井出)にて材木を引く
同24日引き続き材木を引く
同26日豊臣秀吉、吉原に到る
同27日秀吉、沼津に到る
同29日山中城(三島市)を豊臣秀次が攻め落とす

 

ここで何故吉原に陣が敷かれたり御茶屋が設けられたりしたのかという点について、少し考えてみたい。

この天正18年2月というのはまさに「小田原征伐」が開始された時であり、そのために秀吉は東海道を用いて東国に遠征しているのである。そして吉原に御陣屋や御茶屋が設けられたということは、ここを「滞在場所」として想定していることになる。これは吉原周辺が安全地帯の東端に近いためであると思われる。

吉原や沼津が徳川方の領地であり、それより東に至ると後北条氏の手が及んでいるわけである。そのため吉原はその「境目」に位置すると言える。

そもそも吉原は、今川氏と後北条氏との争いの時点で既に「境目」としての位置づけがあったように思われる。例えば「駿甲相三国同盟」の際、武田信玄の長女である「黄梅院」が後北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。

沼津・三島が境目に該当し、そこに近接する吉原も同様の性質があったと思われるのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地に近い役割があったと考えられる。

また「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。「第二次河東の乱」時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。(池上1991)に以下のようにある。

天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである 

しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺(静岡県富士宮市)に着陣。今川軍と武田軍の合流を察した後北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後、後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』は天文14年の様子を以下のように記す。

此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…


とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。この小田原征伐の場合、沼津や吉原が「境目」に該当すると言って良い

富士山木引の話に戻るが、この富士山木引で注目されるのは材木の運搬を富士川を用いて行っている点である。洲に引っかかったり水深が浅く運搬できない日もあったようであるが、富士川水運の早例と言えるであろう。記録から、以下のような手順であったことが分かる。

まず富士山で伐採された材木は上井出の小屋に集められる。


上井出


そして大き(青木)まで引き出す。


青木

そこから富士川流域の沼久保まで引き出し、川下しする。


沼久保


そして吉原まで届けられる。川下しでどこまで材木を運搬できたのかは必ずしも明瞭ではないものの、富士川を用いて運搬を行った事実は読み取れる。と同時に、まだ技術と経験不足を示す内容となっているとも言える。


本多忠勝


このような富士川を用いた水運、すなわち「富士川水運」ないし「富士川舟運」と呼ばれるものは、近世が初例とされることも多い。しかしその解釈は誤りであると言ってよいだろう。公権力が組織的に富士川水運を行っている事例が『家忠日記』から確認できる。


  • 徳川家康関東移封後の富士宮市
天正18年(1590)8月に豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封する。従って、駿河国は豊臣領となった。そこで確認される特徴的な動向に「豊臣秀吉朱印状による寺社領の安堵」が挙げられる。しかも多くが同年12月28日に一斉に行われているという点でかなり特徴的である


豊臣秀吉


それを一覧化する(富士宮市内の寺社に限る、天正18年(1590)のもの)。

石高
富士大宮司・社人領412
富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)380
別当宝幢院122
富士氏公文領77
辻之坊75
北山本門寺50
富士段所与八郎45
富士氏案主領34
先照寺16
大悟庵9
安養寺7


ちなみに富士山本宮浅間大社に関しては、天正19年(1591)に駿府城主「中村一氏」による直判で1077石が安堵されている。一社でこの石高は相当なものである。

中村一氏

これは豊臣秀吉朱印状の380石を大きく逸脱しており、また富士大宮司・社人領の412石で考えても逸脱していると言えるのであるが(松本2020;p.6)、翌年にあえて中村一氏による直判文書が発給されていることから考えると、1077石が正しいのだろう(これらを合わせたものとも考えられる)。どちらにせよ、同社の権威の大きさを感じるものである。

また富士浅間宮の「富士大宮司」「公文」「案主」「社人」「宝幢院」といった神職は分かるが、「(富士)段所」の立場はよく分からないものがある。

これら一連の寺領安堵から、徳川家康の影響力が排除され、豊臣権力が確実に流入していることが分かる。天正期の目まぐるしい変移が感じられるものである。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希(2019),「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』
  2. 松本和明(2020),「駿河国における朱印寺社領成立について」『人文論集』 71(1)
  3. 池上裕子(1991)「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号

2022年6月5日日曜日

富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念

富士の巻狩での源頼家の初鹿狩りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」にて初狩りに伴う儀式として登場した矢口祭。この矢(口)祭の契機となる「初狩」をした人物は、将軍または執権となるような"将来を担うと想定される人物"に限局されている。そして矢口餅(十字餅)は三口まであり、その三者も当日その場で選ばれるという点で共通している。

以下に、『吾妻鏡』に見える富士山麓にて催された狩りの事例を一覧化した。


場所主催者特記事項
建久4年(1193)5月藍沢・富士野源頼朝源頼家の初鹿狩り・曾我兄弟の仇討ち
建仁3年(1203)6月富士野(人穴)源頼家人穴の調査(記述はこれのみ)
嘉禎3年(1237)7月藍沢北条経時経時の初鹿狩り
仁治2年(1241)9月藍沢北条経時経時が熊を射取る


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子

上のうち、矢口祭は下線(①「建久4年(1193)5月」②「嘉禎3年(1237)7月」)のものと「③建久4年(1193)9月の北条泰時の初鹿狩り」の三例で認められるので、それらを考えていきたい。

  • (1)建久4年(1193)5月、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経・海野幸氏矢口餅を陪膳矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と「さて三の口はどのようにするのか」と述べ、曾我祐信を試すような物言いをする。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに対し頼朝は「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」と「"三の口は将軍が召し上がって下さい"と答えると思っていた」という旨を述べ「無念である」とまで言うのである(坂井2014;pp.82-84)。

実は曽我祐信が頼朝に認められるためには、2つのパターンが存在したと想定されるのである。それは

  1. 「三の口は将軍が召し上がって下さい」と源頼朝に矢口餅を勧める
  2. 祐信が独自の作法を取り入れる

の2点である。1は頼朝の発言から分かることであるが、2は「北条泰時の初狩りに伴う矢(口)祭」から分かるのである。そうすれば「無念」とは言われなかったのである。

  • (2)建久4年(1193)9月、北条泰時の初鹿狩りに伴う矢口祭

実は富士の巻狩の同年、北条泰時も伊豆国で初狩りを経験している。『吾妻鏡』建久4年(1193)9月11日条には以下のようにある。

十一日 甲戌 江間殿の嫡男の童形、この間江間にありて、昨日参著す。去ぬる七日の卯の剋、伊豆国において、小鹿一頭を射獲たり。(中略)三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。小時あって、諏方の祝盛澄を召すに、殊に遅参す。(中略)およそ十字を含むの體、三口の禮に及びて、おのおの伝え用いるところ、皆差別あり。珍重の由、御感の仰せを蒙る。その後勸盃數献と云々。

以下に、儀式の流れを表化して示す。

儀式の手順人物内容
北条義時矢口餅を準備(このとき頼朝と足利義兼・山名義範以下数人が列した)
十字餅を供える
小山朝政十字餅の一の口。源頼朝の前で蹲踞して三度食べる。一口目は矢叫を発したが、二口三口目は発さず
三浦義連十字餅の二の口。三度食べる。毎度矢叫びを発する。
諏訪盛澄十字餅の三の口。この人選を頼朝は深く悩んだ上で召したが、盛澄は遅参した。三度食べ、矢叫びは行わず
数献盃を重ねる

十字餅は、「富士の巻狩」の場合と同様のものであろう。しかし今回も頼朝は④の三の口の時だけに限って何か思うところがあるような行動を取っているのである。富士の巻狩の際は「三口の事は何様たるべきやてへれば」と試し、北条泰時の初鹿狩りの際は「三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。」と三の口の人選のみ深く悩んでいる。

そして深慮した結果召した「諏訪盛澄」は遅参したというのに、最終的には「それぞれ作法が異なる」と感心しているのである。頼朝にとって遅参は大きな問題ではなかったのである。また盛澄は三の口を頼朝に勧めることもしていない。結果論ではあるが、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭で曽我祐信は他の二人と趣を変える必要性があったのである。頼朝が言う「おのおの伝え用いるところ」の部分に意味があるのだとは思うが、なぜ異なることが頼朝にとって良しとされるのかは定かではない。少なくとも、源頼家の初鹿狩りで覚えたような後味の悪さは、これら一連の記述からは感じられない。

ただ諏訪盛澄を召したのには、頼朝なりの理由があったように思うのである。というのも、源頼家の矢口祭と重なるものがあるからである。源頼家の矢口祭の三の口は「曾我祐信」であったが、祐信は当初頼朝に敵対し(石橋山の合戦で頼朝に敵対)、後に宥免された人物である。実は盛澄も似たような経緯を持つ人物なのである。

諏訪盛澄は長年在京していた人物であったという。しかし平家に属していたため、頼朝が挙兵する中でも関東への参向が遅れていたため、囚人となっていた。しかし彼を断罪することで「流鏑馬一流」が永久に廃されてしまうことを憂慮した頼朝が彼を召し出し、見事な射芸を披露したことで頼朝により「厚免」されたという背景がある(坂井2014;p.250)。

つまり矢口祭の「三の口」は、頼朝に一度は弓を引いた経歴を有する、または有事に自陣に参陣しなかった人物が選ばれていることになる。つまり「頼朝から試される立場の人間」ということになる。そして実際に試されているのであり、明らかに三の口の人選には理由があったと思われるのである。

  • (3)嘉禎3年(1237)7月、北条経時の初鹿狩り

鎌倉幕府の四代執権である北条経時も嘉禎3年(1237)7月に初鹿狩りを経験している。嘉禎3年(1237)7月25日条には以下のようにある。

廿五日 庚子 北条左親衛(註:北条経時)ひそかに藍沢に赴き、今日初めて鹿を獲たり。すなはち矢口餅を祭る。一口は三浦泰村、二口は小山長村、三口は下河辺行光と云々。

猟りの場所は藍沢である。そしてやはり「矢口祭」が記される。(五味ら2011:p.161)は「時頼」としているが、誤りであろう。

北条経時は仁治2年(1241)9月にも藍沢で狩りを行っている。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月14日条には以下のようにある。

十四日 己亥 北条左親衛(註:北条経時)が狩獲のために藍沢に行き向はる。若狹前司・小山五郎左衛門尉・駿河式部大夫・同五郎左衛門尉・下河辺左衛門尉・海野左衛門太郎等扈従す。また甲斐・信濃両国住人数輩、獲師等を相具し、渡御を待ちたてまつると云々。

そして22日に帰っているのである。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月22日条には以下のようにある。

廿二日 丁未 左親衛藍澤より帰らる。数日山野を踏み、熊・猪・鹿多くこれを獲たり。(以下略)


鎌倉時代、富士山麓では有力者により狩りが多く催されていたことが分かる

  • 参考文献
  1. 五味ら(2011)『現代語訳 吾妻鏡 10』,吉川弘文館
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2022年6月3日金曜日

曽我物語のかぐや姫説話と富士浅間大菩薩、曽我五郎時致の解釈について

『曽我物語』は「かぐや姫説話」が取り入れられていることでも知られる(富士山のかぐや姫説話については「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照下さい)。

『曽我物語』は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にて記したように「本地物」としての性格もあるが、そのうちの「富士」はかぐや姫説話を引くことで説かれているのである。以下で、やや長くなるが真名本の該当箇所を引用してみる。


曽我五郎時致

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五郎、申しけるは、「心細く思し召すも理なり。あれも恋路の煙なれば、御心に類ひてこそ見え候らめ。あの富士の嶽の煙を恋路の煙と申し候ふ由緒は、昔富士の郡に老人の夫婦ありけるが、一人の孝子もなくして老い行く末を歎きける程に、後苑の竹の中に七つ八つばかりと打見えたる女子一人出で来れり。老人は二人ながら立ち出でて、これを見て、『汝はいづくの里より来たれる少き者ぞ。父母はあるか、兄弟はあるか、姉妹・親類はいづくにあるか』と尋ね問ひければ、かの少き者、打泣きて、『我には父母もなし、親類もなし。ただ忽然として富士山より下りたるなり。先世の時各々のために宿縁を残せし故に、その余報未だ尽きず。一人の孝子なき事を歎き給ふ間、その報恩のために来れり。各々我に恐るる事なか
れ』とぞ語りける。

その時二人の老人たちこの少き者を賞きく程に、その形斜めならず、芙蓉の眸気高くて、宿殖徳本の形、衆人愛敬の躰は天下に双びなき程の美人なり。かの少き者 、名をば赫屋姫とぞ申しける。家主の翁をば管竹の翁と号して、その嫗をばかさうの嫗と申す。 これら三人の者共は夜も昼も額を合せて営み養ひて過ぎ行く程に、この赫屋姫成人して十五歳と申しける秋のころ、駿河の国の国司、見国のために下られたりける折節、この赫屋姫の事を聞て、翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。 これに依て娘の赫屋姫と国司と夫婦の契有て、国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

かくて年月を送る程に、翁夫婦は一期の程は不足の念ひなくして、最後めでたく隠れ候ひぬ。 その後、中五年有りて、赫屋姫国司に会ひて語りけるは、『今は暇申して、自らは富士の山の仙宮に帰らむ。我はこれもとより仙女なり。かの菅竹の翁夫婦に過去の宿縁あるが故に、その恩を報ぜむがために且く仙宮より来れり。また御辺のためにも先世の夫婦の情を残せし故に、今また来りて夫婦となるなり。翁夫婦も自が宿縁尽きて、早や空しく死して別れぬ。童と君と余業の契も今は早や過ぎぬれば、本の仙宮へ返るなり。自ら恋しく思し食されん時は、この筥を取りつつ常に聞て見給ふべし』とて、その夜の暁方には舁消すやうに失せにけり。夜明くれば、国司は空しき床にただ独り留り居て、泣き悲しむ事限りもなし。かの仙女約束の如く、件の筥の蓋を開て見ければ、移る形も、来る事は遅くして、返る形は早ければ、なかなか肝を迷はす怨となれり。

かくて月日空しく過ぎ行けども、悲歎の闇路は晴れ遣らず。その時かの国司泣く泣く、独り留り居て、起きて思ふも口惜しく、臥して悲しむも堪へ難し。かの返魂香の筥をば腋に挍みつつ、富士の禅定に至りて四方を見亘せば、山の頂きに大なる池あり。その池の中に太多の嶋あり。嶋の中に宮殿楼閣に似たる巌石ども太多あり。中より件の赫屋姫は顕れ出でたり。その形人間の類にはあらず。玉の冠、錦の袂、天人の影向に異ならず。これを見てかの国司は悲しみに堪へずして、終にかの返魂香の筥を腋の下に懐きながら、その池に身を投げて失せにけり。その筥の内なる返魂香の煙こそ絶えずして今の世までも候ふなれ。

されば、この山は仙人所住の明山なれば、その麓において命を捨つるものならば、などか我らも仙人の眷属と成て、修羅闘諍の苦患をば免れざらむ。多く余業この世に残りたりとも、仙人値遇の結縁に依て富士の郡の御霊神とならざらむ。また我らが本意なれば、もとより報恩の合戦、謝徳の闘諍なれば、山神もなどか納受なかるべき。中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救ひ給はざらん。これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなりされば注万葉の歌には、
 唐衣過ぎにし春を顕して光さやけき身こそなりけれ

これは赫屋姫の、仙宮より来て翁夫婦の過去の厚恩を報ぜし事なり。

 紅の一本故を種として末摘花はあらはれにけり

これは国司の、仙女の契に依て神と顕れし事なり。かかるめでたき明山の麓において屍を曝しつつ、命をば富士浅間の大菩薩に奉り、名をば後代に留めて、和漢の両朝までも伝へん事こそ喜しけれ」と申しも了てざりければ涙の雑と浮べば、十郎これを見て、武き物封の心どもなれども、理を知れる折節は心細く覚えて、互ひに袖をぞ捶りける。十郎、

 我が身には悲しきことの絶えせねば今日を限りの袖ぞ露けき

五郎流るる涙を押へて、

 道すがら乾く間もなき袂かな今日を限りと思ふ涙に

と。

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曽我十郎祐成(伏木曽我の場面)


(福田2016;pp.239-241)は以下のように説明する。

本書は右の『神道集』と深くかかわって成立したものであり、それは近似の文化圏に属した作品と推される。その先後を判ずることは容易ではないが、随処に『神道集』と通じる唱導的詞章が見られる。(中略)その詞章は、ほぼ同文に近く饒舌な傍線部分(註:上では引いていない)をはずすと、およそ『神道集』のそれになる。ただし国司が翁夫妻を召し寄せて「此の国の官吏」に任じ、「国務政道を管竹の翁が心に任せてけり」との叙述は、『神道集』には見えない。次の「富士山縁起」が問題となろう。最後の赫屋姫・国司の富士浅間大菩薩の応述示現の叙述は、『神道集』とほぼ一致しており、「男体・女体」を説くことも同じである。が、これもその祭祀の地を明らかにすることはない

『神道集』と対応する箇所が多いことは、従来から指摘される。福田は『神道集』に見えない箇所の存在も指摘する。それは

翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。(中略)国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

の箇所である。つまり国司は、翁を要職に就かせているのである。かぐや姫の云う「その報恩のために来れり」の「報恩」にあたると解釈できる。かぐや姫が来たことで翁の人生に変化が訪れたわけである。

このかぐや姫説話に対する五郎の解釈は独特である。五郎の論理では「仙人(天人、かぐや姫)がおわすような山の山麓で命を捨てればその後の苦難から逃れることができる」としているのである。これは兄弟が富士山麓の地で仇討ちをすることに対する理由の説明となっている。そして富士山麓で死することで「富士郡の御霊神となる」と高らかに述べているのである。

「報恩の合戦、謝徳の闘諍」であることを山神は受け入れてくれるとし、そしてその本地仏を「千手観音」としている。かぐや姫説話は「報恩譚」としての側面もあるため、報恩を説く『曽我物語』との相性は良かったのであろう。また唱導僧や浄土宗の僧侶の関与も指摘されるという(坂井2014;p.88)。

しかし富士の神、ここでは富士浅間大菩薩の本地仏を「千手観音」とする例は珍しい。やはり垂迹神は富士浅間大菩薩(または赫夜姫ないし木花開耶姫命)で本地仏は大日如来とするものが多いだろう。この点について(大川1998;p.44)は以下のように説明する。

『妙本寺本 曽我物語』の「真字本曽我物語・神道集同文一覧」によると「部分的には同文的な箇所も発見されるが、直接の伝承関係を思はせるものではない」とある。両者を比較して特に異なるのは、B(註:「されば、この山は仙人所住の明山なれば…」以後の部分)後半の富士浅間大菩薩の本地のくだりである。『神道集』では本地仏をいわない。本地仏を千手観音とする『曽我物語』の富士山に関する記述は、独自な面があるということになろう

『神道集』では国司が反魂箱を懐へ入れ、富士山頂の煙の立つ池に身を投げる。その両方の煙が絶えぬ様子から「不死の煙」と呼ばれ、それが「富士山」「富士郡」の「富士」にかけられ、転じて「富士の煙」となったとする。そして赫屋姫と国司は富士浅間大菩薩として示現し、これは「男体・女体御す」としている。富士浅間大菩薩は「男体」でもあり「女体」でもあるとしているわけである。

この示現および「男体・女体」の箇所は『曽我物語』でも引用されているが、一方でその直前の説明で本地仏についても言及しており、これは『神道集』では確認されないものである。

しかし『曽我物語』の場合、この箇所は「されば…」と由緒に対する五郎の解釈として語られる部分であるため、由緒の説明・引用は既に終えているという解釈も出来る。どちらにせよ、『曽我物語』の独自性を示すことには変わりはない。おそらく真名本『曽我物語』ないしその原典となった史料の成立当時の価値観が反映されたことによる結果と見てよいだろう。また(大川1998;p.46)は

真名本『曽我物語』の中で富士浅間大菩薩の用例を調べていくと不思議なことに気付く。登場人物の神仏祈願等にしばしば名があがるものに、二所(箱根権現・伊豆山権現)・三島大明神・富士浅間の大菩薩・足柄明神が上げられる。『曽我物語』の基盤ともいうべき土地の範囲が自ずと浮かんでくる神仏の列挙である。本稿で注目していきたいのは、富士浅間の大菩薩である。東洋文庫では、次のような注を付けている。

富士山の周囲にある多くの浅間社。木花咲耶姫命と男神(小異あり)を祀っている。ここでは特定の浅間社をさしていうのではなく、所々に顕現した浅間社をさし、それを本地垂迹の考え方から「菩薩」とよんだもの。

特定の神社を指すのではないという見方は、富士浅間の大菩薩についてのみ見える見解である。他の権現・明神ではそのようなことはない。(中略)ところが、富士浅間の大菩薩については、巻七の富士野へ向かう途次に十郎と五郎によって語られている。つまり、どこの浅間社においてということではないのである。したがって東洋文庫の注でもどこの浅間社であるのかが特定できないということであろう。

としている。これは(福田2016;p.241)の「これもその祭祀の地を明らかにすることはない」にも繋がって来るのであるが、富士浅間大菩薩はだいぶ拡大解釈が可能な神という印象を持たざるを得ない。

仁田四郎忠常が人穴を探索する様子。「曽我物語図屏風」等を筆頭とし、富士宮市域を題材とした大和絵等の作例は極めて多い


『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月4日条には以下のようにある。

四日。庚子。陰。巳尅。仁田四郎忠常出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮。不能廻踵。不意進行。又暗兮。令痛心神。主従各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顔。不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流。失拠于欲渡。只迷惑之外無他。爰当火光河向見奇特之間。郎従四人忽死亡。而忠常依彼霊之訓。投入恩賜御剱於件河。全命帰參云云。古老云。是浅間大菩薩御在所。往昔以降。敢不得見其所云云。今次第尤可恐乎云云。

意訳を以下に記す。


4日になると仁田忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、(頼家様より)賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。


源頼家は「富士の狩倉」に出かけた際、同地に存在する「人穴」(静岡県富士宮市)を仁田忠常に探索させた。上の4日条は、その人穴の探索より帰ってきた忠常の報告である。

まず「是浅間大菩薩御在所」とあり、人穴は浅間大菩薩の御在所であるとしている。単に"富士山信仰の一端を示す"と解釈してもよいが、そもそも仮に富士浅間大菩薩の御在所を想定する場合、本来なら浅間社ないし富士山体でなければおかしいと思うのである。しかし『吾妻鏡』は「穴の中」としている。富士山信仰の受容の広さと片付けて良いかもしれないが、やや不思議な印象を持たざるをえない。

そこで『曽我物語』に再び目を向けた時、そもそも同物語で想定されているのは「浅間社」ですらない可能性があるのではないだろうか。富士浅間大菩薩の示現の幅の広さが『吾妻鏡』で示されている以上、全くおかしなことではない。

「かぐや姫説話」の引用は『神道集』から行い、五郎の解釈の部分は「これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなり」以外の部分は別の材料から付加されたものと考えたい。『曽我物語』成立の中で次第に付加されていったものであると思われる。そして『曽我物語』がいう「富士浅間大菩薩」は、浅間社に示現したものとは想定していない可能性も考えたい。

  • 参考文献
  1. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  2. 大川信子(1998)「真名本『曽我物語』における久能と富士浅間大菩薩-梶原氏との関わりを通して」(『平成8年国文学年次別論文集 中世2』所収 平成10年 朋文出版)
  3. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987
  4. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988
  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2022年2月23日水曜日

曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について

「富士野」は「曽我兄弟の仇討ち」を語る上での最重要ワードの1つである。何故なら何を隠そう、この事件は富士野における出来事だからである。論考類を読むと、「富士野」を「富士の裾野」と表現し直している例も多い。ややもすれば"何処で仇討ち事件は発生したのか"という点が非常に曖昧になってしまうのであるが、紛れもなく富士野である。

曽我兄弟の仇討ちを記す史料は主に『吾妻鏡』と『曽我物語』に限られる。しかしこの双方に共通して出現する地名はごくごく限られており、その1つが「富士野」なのである。以下では「富士野」という文言が出現する箇所に焦点を置いて取り上げていきたい。


  • 吾妻鏡

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」でも一部取り上げたが、源平合戦の際に「富士野」が登場する。


十三日壬辰(中略)また甲斐国の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く。今日暮れて、大石駅に止宿すと云々。戌の刻、駿河の目代、長田入道が計をもつて、富士野を廻りて襲ひ来るの由、その告あり。よつて途中に相逢ひて、合戦を遂ぐべきの旨群議す。

武田太郎信義・次郎忠頼・三郎兼頼・兵衛尉有義・安田三郎義定・逸見冠者光長・河内五郎義長・伊澤五郎信光等は、富士の北麓若彦路を越ゆ。ここに加藤太光員・同藤次景廉は、石橋合戦以後、甲斐国の方に逃れ去る。しかるに今この人々に相具して、駿州に到ると云々(治承4年(1180)10月13日条)

また以下に続く。

十四日癸巳午の尅、武田・安田の人々、神野ならびに春田の路を経て、鉢田の辺に到る。駿河の目代、多勢を率して甲州に赴くのところ、意ならずこの所に相逢ふ。

境は山峯に連なり、道は磐石を峙つるの間、前に進むことを得ず、後に退く事を得ず。しかれども信光主は景廉等を相具し、先登に進みて、兵法力を励まして攻め戦ふ。遠茂、暫時防禦の構へを廻らすといへども、つひに長田入道が子息二人を梟首し、遠茂を囚人となす。従軍寿を舍て、疵を被る者その員を知らず。後に列なるの輩は、矢を發つに能はず、ことごとくもつて逃亡す。酉の尅、かの頸を富士野の傍、伊堤の辺に梟すと云々。(治承4年(1180)10月14日条)


やや長くなってしまったが、引用した。この富士野が富士山麓であることはこの文で分かるのであるが、「富士野藍沢の夏狩を覧んがために、駿河国に赴かしめたまふ」(建久4年(1193)5月8日条)とあるように、この富士野が富士山麓でも駿河国側であることが分かる。

さて、この駿河国富士野がどの辺りを指すのかという点はやや難しい話となる。それを一覧化してみる。

『吾妻鏡』解釈
富士野の傍、伊堤の辺に梟すと云々(治承4年(1180)10月14日条)伊堤(いで)→静岡県富士宮市上井出
藍澤の御狩事終りて、富士野の御旅館に入御す(建久4年(1193)5月15日条)富士山麓の「藍沢」ではない箇所
富士野の神野の御旅館に推参致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)神野(曽我兄弟の仇討ちの場所として記される

つまり「井出」・「神野」は「富士野」に該当するのである。『信長公記』を見ると「本栖→神野・井出→人穴→(浮島ヶ原)→大宮」と記述されていること、『甲信紀行の歌』では本栖(甲斐国)を過ぎた地点として「神野」が記されることから、おそらく神野は上井出より更に上の地点(甲斐国方面)を指すものと思われる。したがってこの神野と井出は必然的に「現在の富士宮市上井出周辺」に比定される

曽我兄弟の仇討ちは富士野で発生したが、『吾妻鏡』は富士野の「神野」とし、『曽我物語』は富士野の「伊出の屋形」とし「=井出」であるとしている。どちらにせよ、現在の富士宮市上井出周辺である。なので論文や各媒体で仇討ちの地が「富士宮市上井出」と記されているのである。


展示資料リスト・ゆかりの地マップ(山梨県立博物館)


富士市HP


  • 鉢田の合戦の過程考

先の『吾妻鏡』に記される経緯を考えていきたい。

「甲斐国の源氏、ならびに北条殿父子、駿河国に赴く。今日暮れて、大石駅に止宿す」とあるように、甲斐源氏と北条時政・義時は10月13日に「大石駅」に到着した。

そして「駿河の目代、長田入道が計をもつて、富士野を廻りて襲ひ来るの由、その告あり」とあることから、同日には駿河目代の長田入道が富士野(駿河国)を廻って攻めてくるとの知らせが届いている。それを聞いた甲斐源氏は「富士の北麓若彦路を越ゆ」とあるように富士北麓(甲斐国)の若彦路を越えた。

14日になると甲斐源氏は「神野ならびに春田の路」を経て「鉢田」に到着する。そしてこの鉢田の地で長田入道の軍と交戦となる。そして平家方は敗北し、橘遠茂は捉えられ、長田入道親子は梟首された。梟首された地は「伊堤(いで)」であった。…という具合である。

この部分の解釈は諸家により多く考察がなされてきたが、詰まるところ「鉢田は何処なのか」という点が議論されてきた。解釈を複雑にしているのは①「大石」という地名が富士北麓(山梨県南都留郡富士河口湖町)にも南麓(静岡県富士宮市、大石ヶ原=上条)にも存在し決め手を欠くことと、②「若彦路とは何か」ということの他に③「神野ならびに春田の路」とは何か?という3点がある。

①については「富士野」がそもそも駿河国であるので、「廻りて襲ひ来る」という表現を見るに、このとき甲斐源氏は甲斐国に居たとしか考えられない。もし仮にこのとき甲斐源氏が既に駿河国に居たとした場合、既に自身らが富士野周辺(しかも大石ヶ原は上井出より下である)に居るのに「敵が富士野を廻って襲ってくる」と言っていることになってしまうので相当な矛盾である。なので甲斐国になるだろうし、(海老沼2011)が言うように"甲斐源氏が甲府盆地から駿河に発向したその日の宿所とするには、富士宮市上条では距離が遠すぎる"という点もある。

②について考えたい。13日条の下線を引いた箇所については「同じことを繰り返している」という解釈が諸家により出されているが、海老名氏はそれを否定している。この点について氏は若彦路の解釈を巡り齟齬があり、落ちどころとして発生した解釈であるというような見解を示している。個人的には若彦路は"甲府から河口湖西岸の「大石」を指す"という認識を支持しており、やはりこれは同じことを分けて書いていると考えたい。その後の「駿州に到ると云々」の部分を見ても、この部分はすべて駿州に行く過程の詳細を記していると考えられる。

③については、氏が指摘するように「神野と春田を結ぶひとつの街道」を指すと考えられる。そして神野は駿河国で、春田は甲斐国であると考えたい。つまり若彦路を越えたその先に「春田」の地があり、その春田を通る道は駿河国の「神野」に繋がっていると思われるのである。

「鉢田」については史料も乏しく断定しようがないのでここでは結論は控えたい。ただ長田入道らが"実際に富士野を廻って来た"場合、富士野は上井出辺りで国境付近に該当するので、そこを廻った(過ぎた)場合のその地点はもう甲斐国ではないかと思うのである。甲斐源氏は「神野と春田を結ぶひとつの街道」を進む中で神野までには至らないエリアで長田入道らの軍勢と交戦になったと考えたい。


  • 神野へ通じる道

歴史の中で次第に街道が整備されてゆき、歴史的に「〇〇道(路)」と呼称されたものがある。これらは、目的地を冠している例が多い。例えば富士宮市にも確認される「身延道」は、身延山久遠寺が目的地なのである。他に市内であれば「村山道」もそうである。村山道は富士宮市村山の、特に「村山浅間神社」を目的にする道である。現在の富士市域から富士宮市を目的地とする道というわけである。

そして山梨県で「神野路」と呼称された道がある。もちろん上述したように「神野」は富士宮市であるので、富士宮市の神野を目的地とする道ということになる。上の「神野ならびに春田の路」は、まさにこの「神野路」であると考えられる

ガイドマップ『富士参詣の道を往く』(鎌倉街道・神野路版(神野路面))

『信長公記』や『甲信紀行の歌』では「かみの」とあるので、一見すると「かみのじ」が正しいように思われるが、「こんのうじ」が誤りというわけではない。『甲斐国志』に中ノ金王路(なかのこんのうじ)とあるので、「こんのう」読みがされていた形跡がある。「かみの」が転じて「こんの(こんのう)」となったと考えられる。

これがさらに転じて山梨県南都留郡では「根野(こんの)」と命名・呼称されていた形跡も認められる(末木健「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐』第121号,山梨郷土研究会,2009を参照)。おそらく駿河国側では神野路という呼称は使われておらず、専ら甲斐国で用いられていたと考えられ、また「神野」を「こんの/こんのう」と呼んでいた可能性が高いと思われる。

そもそもこれらが注目されるようになった背景として、富士山の世界文化遺産登録の際に「ユネスコ世界遺産委員会」による勧告が出されたことが挙げられる。勧告には

  • 神社・御師住宅及びそれらと上方の登山道との関係に関して、山麓の巡礼路の経路を描き出す(特 定)し、(それらの経路が)どのように認識、理解されるかを検討する
  • 来訪者施設(ビジターセンター)の整備及び個々の資産における説明の指針として、情報提供を行うために、構成資産のひとつひとつが資産全体の一部として、山の上方及び下方(山麓)における巡礼路全体の一部として、認知・理解され得るかについて知らせるための情報提供戦略を策定すること  

が含まれ、簡単に言えば「巡礼路の特定」が求められたのである。そして「神野路」はその巡礼路の1つとしても捉えられる。それが富士宮市に所在しているのである。つまり富士宮市は、富士宮市の地名を冠するこの「神野路」の、巡礼路としての性質を認知・理解し、そして情報提供戦略を練る義務があるということになる。とりあえずここでは「身延道」「村山道」のような性質の道(路)があったということを認識しておきたい。

  • 曽我物語

曽我物語では「富士野」はあまりにも頻出するため一覧化は難しい。しかし以下の一節が有名であろう。

東国には狩場多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし


この場面から兄弟の意識は一直線に「富士野」へと向かうのである。富士野は「兄弟の決意」の台詞に付随する形で現れることが多い。富士野へ行く道中で工藤祐経を討ち逃してしまい「富士野では必ず成功させなければ!」といったものや、「我々は何のために富士野へ来たのだろう、それは敵を討つためである!」というような旨の台詞の中で登場する。以下では、曽我物語でも「仮名本」を典拠とすると考えられている幸若舞曲の曽我物について考えていきたい。


  • 幸若舞の曽我物


幸若舞の曽我物は「一満箱王」「元服曽我」「和田酒盛」「小袖曽我」「剣讃嘆」「夜討曽我」「十番切」がある。仮名本曽我物語を典拠とし、ふんだんに物語的展開を織り込んだものとなっている。結果、原型とはかけ離れているものになっている。以下では富士野(井出の屋形)が登場する箇所を一部抜粋する。

<一満箱王>


此世をいでの屋形まで、三十八度ねらひ、ついに本望とげつつ、後名を家に残しけり(毛利家本)


兄弟の斬首命令を聞いた畠山重忠による助命嘆願が叶い、兄弟と母は無事再開を果たした。そして締め括りとして「最終的に兄弟は本懐を遂げた」という説明がその経緯をもって語られる。その部分において「井出の屋形」等が出てくる形である。

仮名本の「巻三」が主な典拠であるが、事の顛末を示しているという点において、仮名本全体を典拠としていると言うこともできるだろう。巻三の段階では富士野や井出の屋形は登場しない。そう考えると、幸若舞曲はそれぞれ単独での公演を前提としていると考えられるものである。「三十八度」の部分はよく分からない。

<小袖曽我>


富士野への暇乞いの其のために、母上に参らるる。(藤井一本より)


曽我兄弟が母の元を訪れ、仇討ちの許可を得ようという場面。仮名本の「巻七」および「巻八冒頭」が典拠である。冒頭より「富士野」が頻出し、哀愁を誘う内容となっている。小袖は真名本・仮名本共に重要な役割を担う。この真名本と仮名本の共通性は興味深い。ちなみに「能」にも「小袖曽我」があるが、小袖が全く登場しないという。この差異もまた興味深い。


<剣讃嘆>


富士野へ出でさせ給ふこそ、心許なき次第なれ。箱王殿は、7歳にて此寺へ上りつつ、16歳までは些かもおり上る事もなく、跡懐に育てを置き(大頭左兵衛本より)…


五郎が幼少の頃を過ごした箱根権現に赴き、回顧する場面である。ここから別当が兄弟に刀を伝授する。源氏伝来の太刀を授けられたことで、兄弟が"それを用いるのにふさわしい者"と認められたことを暗示する。仮名本の「巻八」が典拠である。


<夜討曽我>


たとひ千騎万騎味方に有りと申すとも、此の富士野のては思ひもよらす。(中略)いといと泪の多かるに、何と蛙のなきそひて、いての屋形を別るらん(毛利家本より)。


兄弟が遺書を認め、改めて決意を示す場面。仮名本の「巻八」および「巻九」が典拠である。「おうとうない」は「王藤内」で表記される。同曲には曽我物語には無い「(幕)紋尽くし」が取り入れられていることでも知られる。以下の「富士野 假屋の図」は、その場面を示したものである。「夜討曽我」の世界観を絵画化したものと言える。


富士野 假屋の図


福田晃は『幸若舞曲研究』第2巻(72頁)の中で


曽我物語においては、十郎の屋形めぐりのさまを「思ひ思ひの幕の紋、心々の屋形の次第、なかなかことばもおよばず」と述べるのみで、具体的にそれを叙することはない。勿論、それは後段で十郎が五郎に向って、屋形のそれぞれを語って聞かせることの重複をさけたことでもあろう。ところが幸若においては、屋形のさまというよりも、それぞれの家の紋をあげ立てる「紋づくし」の趣向を添え、観客を視覚のみならず視界の世界に誘ってみせるのである。ちなみに、この「紋づくし」の視覚的方法は、奈良絵本に受けつがれて、それぞれが家紋の絵画によって示される。


と説明している。この「紋づくし」は特別に興味の対象になったようであり、絵画化例が多い。


<幸若舞曲の曽我物全体として>


今回は「富士野」や「井出の屋形」の出現箇所に絞って考えてみた。「小袖曽我」「剣讃嘆」「夜討曽我」に見られた理由は、各曲がそれぞれ仮名本の巻7-9を典拠とし、これらが富士野へ向かう道中または富士野到着後を扱った箇所に該当するためである。このように、幸若舞曲の曽我物が仮名本に拠っているのは明らかである。

一方で福田が『幸若舞曲研究』第4巻(37頁)の中で指摘するように、幸若舞曲の曽我物は仮名本でも「巻二」「巻五」「巻十一」「巻十二」は素材にしていない。この点も重要である。

仮名本自体が真名本に比して劇的展開を志向したものとなっていると指摘される中、芸能の性質も加わってか更に物語化していると言える。特に「十番切」が異質である。これは他の曽我物とはまた異なる由来があるように思える。


  • 仮名本について


幸若舞曲の曽我物の典拠と言える仮名本は、最も流布された曽我物語であると言って良い。この点について少し考えてみたい。曽我物語を解説する上での「最善本」として真名本が取り上げられ、工藤祐経を討った後の"十人切りの描写"は今日当たり前に「十番切」と呼称される。しかし一旦立ち止まって考えると、実は真名本に「十番切」という言葉は無いことに気づく。「十番切」という言葉は仮名本が初出で、その言葉の定着度から、真名本における「十人切りの描写」も後天的に「十番切」と称されているのである。この現象ひとつとって見ても、仮名本の影響を示すに十分であろう。

坂井孝一氏(NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証を務める)の著作『曽我物語の史的研究』がおそらく目指したであろう"史実への追求"という意味では、真名本を見ていくことが重要であるし欠かせない。しかし後世への影響度という意味では、仮名本のそれはより大である。とりあえず事件の「史実性」に迫る上では、真名本に寄り添うべきであると思うが、上の点も一応の考慮が必要であるとも感じる。

  • 参考文献
  1. 海老沼真治(2011)「「富士北麓若彦路」再考ー『吾妻鏡』関係地名の検討を中心としてー」『山梨県立博物館研究紀要』第5集,山梨県立博物館
  2. 吾郷寅之進編(1981),『幸若舞曲研究』第2巻,三弥井書店
  3. 吾郷寅之進・福田晃編(1986)『幸若舞曲研究』第4巻,三弥井書店
  4. 末木健「富士山西麓「駿河往還」の成立」(2009)『甲斐』第121号,山梨郷土研究会
  5. 『日本随筆大成』<第1期>3(1975),149-197頁,吉川弘文館
  6. 山梨県富士山世界文化遺産保存活用推進協議会(2002),ガイドマップ『富士参詣の道を往く』
  7. 文化庁・環境省・林野庁・山梨県・静岡県他(2016),『世界文化遺産富士山包括的保存管理計画(本冊)』 

2022年1月1日土曜日

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考

「曽我兄弟の仇討」は、源頼朝による「富士の巻狩り」の最中、駿河国の富士野(便宜的に「富士の裾野」と記されることも多い)にて曽我兄弟が自身の父の敵にあたる「工藤祐経」を討った事件のことである。


『月次風俗図屏風』より

この事件を考える場合、まず曽我兄弟を取り巻く環境について考えなければなりません。しかし仇討事件は勿論のこと、兄弟の周辺状況を示す史料というのは主に『吾妻鏡』と『曽我物語』に限られます。なので冒頭ではまず『曽我物語』に沿った解説を行い、それから仇討事件について迫ろうと思います。「①解説編」(簡潔で口語的な形式にしています)と「②考察編」(やや難しい内容)に分けています。考察編は「富士地区(静岡県富士宮市・富士市)に関係する事柄」という視点になります。決して全体を捉えようというものではありません。しかしながらなんとか輪郭は把握できるよう構成するようにしました。

テキストは

  1. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987(文中"平(1)〇〇頁"で記す)
  2. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988(文中"平(2)〇〇頁"で記す)
  3. 村上美登志『太山寺本曽我物語』,和泉書院,1999(文中"太〇〇頁"で記す)

から引用しています。また真名本曾我物語・仮名本曾我物語は以下「真名本」「仮名本」と記します。特に断りのない場合、真名本は「妙本寺本」であり仮名本は「太山寺本」となります。太山寺本でない仮名本を示す場合、例として「仮名本(十行古活字本)」というように記します。


【①解説編】

  • 「曽我兄弟の仇討ち」の前置き(『曽我物語』による)

安元2年(1176)10月のこと、伊豆の奥野の狩庭で伊東祐親の嫡子河津祐通(祐泰)は工藤祐経の従者である「大見小藤太」「八幡三郎」にあえなく殺されてしまった。あとには5歳と6歳の幼い兄弟のみが残された。河津祐通の妻は一族の曽我祐信と再婚したので、その兄弟も曽我姓を名乗ります。工藤祐経は本来「伊東祐親」の暗殺を目論んでいましたが失敗し、従者は誤って河津祐通を暗殺してしまうのです。では「なぜ工藤祐経は祐親を暗殺しようとしたのか」という視点が重要になってきます。

富士市「富士市の歴史文化探訪 曽我伝説」より

それは久須実荘(楠見荘とも、大見・宇佐美・伊藤を併せた地名)の支配争いからであるとされています。元々久須実荘は工藤氏の有力者である工藤祐隆(出家後「寂心」)が一定規模を支配しており、祐隆は後継者に譲る気配を見せていました。しかし嫡子である祐家は早死してしまったため、なかなか定まりません。そこで後妻の連れ子との間にもうけた子である「伊東祐継」に久須実荘の「伊東」の地を譲ります。そして本妻との子にあたる「祐家」の子(祐隆から見れば嫡孫)には「河津」という地を与え河津祐親と名乗らせました。このとき河津祐親から見れば、本来なら「伊東」(こちらが主要な地)も自分が得るはずの地という感覚があったことは言うまでもありません。このとき祐親は、祐継の出生の秘密を知りません(「祐隆」と「後妻の連れ子」との間で出来た子供を養子とした形)。妙な感覚であったことでしょう。

一方、その久須実荘の中心地を得ていた伊東祐継が亡くなります(後述)。生前両者は和解していたともいい、祐親は祐継の子である金石(後の工藤祐経)の後見人となることを約束しています。また金石が成長した暁には祐親の娘である万劫御前を嫁がせ、15歳になったとき「伊東荘」「河津荘」両所を貰い受けるという約束をしました

しかし祐継が亡くなると祐親は河津から伊東に移った上で伊東姓を名乗るようになり(=伊東祐親)、自身の嫡子(祐通)には河津姓を名乗らせます(=河津祐通)。つまり「伊東」を自分の手中に収めたわけです。やがて祐経が元服すると娘である万劫御前を嫁がせますが、祐経には宇佐美姓を名乗らせるなど(=宇佐美祐経)、状況は遺言通りではありませんでした。

元服の翌年に祐親は祐経と共に上洛し、京にて暮らします。この間、祐通が伊東の地を支配します。しかしその後も祐経は帰ることが許されませんでした。勿論これは祐親が伊東の地を手放したくないがための企てでですが、祐経は京に居るためどうすることも出来ません。祐経は訴訟を起こして、なんとか所領の一部を取り戻します。しかし祐経はこれでは納得せず、帰国後に伊豆の奥野の狩庭で祐親の暗殺を企てます。しかし祐親暗殺は失敗、誤って隣に居た祐通を殺めてしまうのです。(支配領域の解釈・変化は煩雑であり(坂井2014;pp.179-180)に詳しいです)

しかしここで一旦ズームアウトして世の情勢について考えてみると、伊豆の狩場での暗殺から一定期間後、「以仁王の令旨」により源頼朝が挙兵しています。久須実荘は平家側の地であったため、伊藤祐親も平家側として参戦します。後に平家は滅び源氏が隆盛しますが、平家側として参戦し頼朝を窮地まで追い込んだこともあった伊藤祐親は捉えられ自害、子の祐長(祐通とは兄弟ということ)も最期は殺されてしまいます。

このように祐隆-祐家-河津祐親-河津祐通・祐長兄弟という流れの血筋のうち祐家は若くして死に、祐通は暗殺され、河津祐親・河津祐長は源氏側によって死に至しめられるという悲劇を経験します。一方後妻-女(連れ子)-伊東祐継-工藤祐経の血筋側は頼朝側に付いていたので生き残ります。暗殺された側の血筋において残されていた有力者は居ないといっても過言ではない状況となっていました。しかし暗殺された河津祐通には子がいました。祐成と時致兄弟です(→これで再び上から読むと関係が分かってきます、この兄弟が仇討ちを成功させるのです)。

  • 仇討ちの理由(曽我物語による)

少し仇討ち当日について記してみましょう。曽我物語、ここでは真名本(以下で説明します)にて説明しますが、兄弟は仇討直前に「伊出の屋形」にて母に手紙を書きます(阿部(2003)に詳しいです)。そこに時宗は「建久4年癸丑5月廿八日には駿河の富士の山の麓、伊出の屋形において、慈父報恩のため命を失ひ畢んなり(巻九、平(2)183頁)」と記します。そしてその後「ころは5月28日の夜半の事なれば、雨は居に居て雨る、暗さは暗し…(巻九、平(2)197頁)」とあるため、実際に建久4年(1193)5月28日に伊出の屋形にて仇討ちを決行します。「曽我の雨」・「虎が雨」という言葉は、この仇討ち決行時の雨から由来するとされます(坂井2014;p.72)。

このように兄弟は仇討ちの理由を「慈父報恩のため」と言っています。また頼朝を討とうとした理由については「祖父の伊藤入道は君より御勘当を蒙て、既に誅せられ進せ候ひぬ。敵の助経はまた御気色吉き大名に成て召し仕はれ候ひしには…(巻九、平(2)209-210頁)」とあります。つまり兄弟の祖父である「伊東祐親」が頼朝により亡き者となり、また一方では兄弟の敵にあたる工藤祐経が特別に取り立てられている事が不服であったとしています。

また「現にと千万人の侍共を討て候はむよりは、君一人を汚し進せつつ後代に名をば留め候はむと存じ候ひしかば平(2)210頁)」とあり、多くの侍を討つのではなく頼朝1人を討つことで後世に名を残したいという意図もあったようです。しかし五郎はこの直前に「敵と列れて参り候ひぬ」と述べ"敵についていった先に頼朝が居た"としていたので、矛盾点もあります。この点は(坂井2014;pp.46,126)でも言及されています。

これに対し頼朝は「哀れ男子の手本や これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず」と称賛します。この、曽我物語の中では極めて有名な一節は、頼朝の心情の変化を良く表していると言えます。

伊東祐親は大河ドラマでも登場します。これが兄弟が「工藤祐経」と「源頼朝」を狙った理由です。「伊出の屋形」については論考編で説明します。

  • 『曽我物語』の系統
まず「曽我物語」は、2種に大別されます。

真名本系統の「本門寺本」

1つは「真名本」(漢字(擬漢文)のみで表記)であり、これが現存するものでは古態とされています。もう1つは漢字仮名交じりで表記される「仮名本」であり、成立は真名本より下ります(諸本の解説は(村上2003)に詳しいです)。端的に言えば、真名本→仮名本という変移が想定されています。

※下部に「真名本」と「仮名本」の画像があります

分類諸本
真名本「妙法寺本」「本門寺本」
仮名本「太山寺本」「武田本甲・乙本」「彰考館本」「南葵文庫本」「万法寺本」「穂久邇文庫本」「十行古活字本」「十一行古活字本」「十二行古活字版」

真名本は「妙法寺本」と「本門寺本」(重須本)がありますが、「本門寺本」は「妙法寺本」を書写したものであるとされることが多いです(しかし一部は異なります)。真名本は成立が鎌倉時代末期まで遡ることができるとされますが、この妙法寺本も書写されたものであり、奥書は天文15年(1546)の書写を示しています。「太山寺本」は天文8年(1539)書写になります。

真名本を一見した時の特徴に、それぞれの巻頭に「并序 本朝報恩合戦 謝徳闘諍集」と必ず副題が付けられている点が挙げられます。この意味は、上で説明したように「兄弟が仇討ちする理由」を説明した言葉なのです。

北山本門寺

「大石寺本」は"真名本"を読み下した訓読本であり、そのため同系統に入れられることが多いです。ここでいう"真名本"とは「本門寺本」のことであり、つまり大石寺本は本門寺本の訓読本なのです。

「本門寺本」や「大石寺本」の存在を考えると、やはり富士山麓の地域は同事件を特別視していたことが感じ取れると思います。

  • 『曽我物語』の背景
鎌倉時代の代表的歴史書である『吾妻鑑』は見た目は日記体ですが、やはりこれも後世に編纂されたものです。鎌倉幕府二代将軍である「源頼家」は、北条氏に幽閉された末に元久元年(1204)に暗殺されています。これだけの大事件ですから詳細にあってもよさそうなのですが、吾妻鑑は北条氏関係者による編纂なのであまり詳しくは書きません。『吾妻鑑』にはちょうど頼家が幽閉・暗殺された年に不吉な事が起きたという旨の記述が見られます。「鶴岡八幡宮の巫女が大変事を予言し将軍の身を案じた」「鶴岡八幡宮の鳩が死んだ」といったようなものです。つまり伏線を張っているわけであり、頼家の死に合理性を求めるような構成になっています。「こんな奇異な事があったよ」と言って、後に将軍が死んでいるという流れを作っているわけです。これだけ見ても、後から編纂したことは確実といえます。

工藤祐経の墓(静岡県富士宮市)

これと同じように「曽我物語」の方でも仇討ち前に工藤祐経に奇異な事が起きたという前置きがあります。『吾妻鏡』も『曽我物語』も、帳尻合わせがあるということは理解しておく必要があると思います。

  • 陰謀説
先程

このように祐隆-祐家-河津祐親-河津祐通・祐長兄弟という流れの血筋のうち祐家は若くして死に、河津祐通は暗殺され、河津祐親・河津祐長は源氏側によって死に至しめられるという悲劇を経験します。(中略)しかし暗殺された河津祐通には子がいました。祐成と時致兄弟です

と書きました。しかし同じ血筋なのにこの中で「祐」の通字のない人物が1人だけ居るのにお気づきでしょうか?そうです、兄弟のうちの「時致」です。「祐」ではなく「」なのです。『吾妻鑑』によると「北条時政邸にて元服し時致と名乗る」とあります。つまり北条時政より偏諱を賜っている(今川義→松平康といったように一字を賜うもの)と言っているのです。その時政が時致をそそのかしたのではないか、という陰謀説があります。偏諱のくだりもありますが、『保暦間記』といった他の史料等も吟味すると無視できない説と言われています。また富士の巻狩当時、駿河国守護は北条時政その人であり、吾妻鑑によると狩場の準備も時政が行ったとあります。つまり仇討ちの場を設けようと思えばできなくもない人物であったのです。これが「北条時政黒幕説」です。

前述の通り、仇討事件を示す史料というのは主に『吾妻鏡』と『曽我物語』に限られます。『吾妻鏡』の方は"本郷・五味編『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』,吉川弘文館,2009"をご参照下さい。以下でも度々出てまいります。


【②考察編】(以下、やや難しい内容になります

  • 鎌倉殿という呼称

源頼朝は様々な呼称がある。ここでは大河ドラマのタイトルにも含まれる「鎌倉殿」という呼称を曽我物語から考えてみたい。頼朝は真名本の場合、巻第一にて相撲で俣野と河津が争う描写の中で

流人兵衛佐殿は伊豆の国の住人に南条・深堀という2人の侍を御友として御在しけるが、「哀れなる世の習ひかな。奴原が心のままに彶ふこそ安からね。(平(1)38頁)…

と、流人「兵衛佐殿」の名で登場する。(大川1997;p.77)に「発言力のない郊外者として争いを傍観している」とあるが、このように数多くの中の1人でしかない。これが巻第四になると

兵衛佐殿は北条四郎時政以下の兵共を以て山木を亡ぼして後は日本国を討順へつつ今鎌倉殿とて日本将軍の宣旨に預かり給へり(平(1)201頁)

とあるように「将軍鎌倉殿」として扱われるようになる。巻第一の「哀れなる世の習ひかな」は有名な一節であるが、このときは流人なのであり、立場に大きな変化がある。鎌倉殿となったタイミングは八幡大菩薩を鎌倉鶴岳に勧請した後であり、大川は「真名本曽我において八幡大菩薩と頼朝とのかかわりの強さがみて取れる。八幡大菩薩の擁護により頼朝の本意が遂げられたということが、頼朝物語の末尾において再確認できるのである」としている。また「本地物語性質」をここに見ている。重要な視点である。

(阿部2007)は「真名本『曽我物語』は『吾妻鏡』にも記録された曽我兄弟の仇討ちを「日本国大将軍」としての頼朝の誕生と、曽我御霊神の祭祀の始まりとして語る」とし、それを宗教的に支えたのは、伊豆・箱根権現、そして富士山を中心とする東国の重要な霊地であったとする。またやはり本地物語の性質を伊豆・箱根権現の描写から見出している。またこのような流人時代の動向を記す史料は、『吾妻鏡』には無い。『平家物語』や『曽我物語』に限られるという(坂井2014;p.214)。

真名本曽我物語は回想も度々挿入され時間軸も特殊であり、未来を先取りして「鎌倉殿」の呼称が出現する場合もある(この点も(大川1997)を参照、また(小井土2001)等を参照)。このような性質から、(坂井2014;pp.29-33)にあるように真名本曽我物語は「非年代記」である。また(小井土2001;pp.99-101)は頼朝と政子に関する記事は真名本で豊富であり、仮名本では削がれていることを指摘している。このように真名本と仮名本の志向に違いは多くで指摘される。

  • 「巻狩」という言葉と「狩場」の位置づけ

「巻狩」の意味は実は曽我物語内で説明がなされており、真名本『曽我物語』(巻八)に

そもそも巻狩と申すは、勢子の者共を太多山に入れて、上の嶽より鹿を追い下して麓の野辺に巻き籠めつつ、思ひ思ひに射て取るを云ふなり(平(2)132頁)

とある。つまり真名本曽我物語における巻狩は、このような価値観を前提としているのである。曽我物語に従えば、巻狩には少なくとも「勢子」「山」「動物」「射手」が必要なのである。真名本における狩の場面の初出は、(水谷1992;pp.11-12)が指摘するように

伊藤武者助継生年四十三と申す夏のころ、狩場より帰る道にて重病を受けて日数を経るままに、九つになる金石を近付けて、手に手を取り組みつつ(中略)終に七月十三日の寅の時には四十三にて失せにけり(平(1)16-18頁)

とある部分で、狩りの帰りに伊藤助継が重病で没する箇所にあたる。「金石」は後の伊藤助経である。なので助継は早々に物語の舞台から姿を消すのである。水谷が指摘するように、曽我物語全体を通して「狩場」を強く意識したものとなっている。

また(坂井2014;p.38)は「兄弟は「狩庭」の敵を「狩庭」で討った」わけであり、「真名本が狩庭の物語として構想されたものを示すものである」としている。

  • 憎しみの連鎖

上の内容から、曽我兄弟が仇討ちに至るまでの道筋が見えてくる。それは以下の通りである。

伊藤祐継が死亡
祐継の子である金石(後の祐経)の領地を、助継と対立していた伊藤助親が得る(横領)
恨みを抱いた祐経が祐親の暗殺を指示するも失敗、誤って河津祐通を討つ
祐通の子である曽我兄弟が将来「仇討ち」を行う

という流れである。祐経が暗殺実行を命じたのは「大見小藤太」「八幡三郎」である。

  • 敵討ちの場所と頼朝の意図

敵討ちの場所は多くで指摘されるように、静岡県富士宮市である。ここが諸家で意見が割れることは無いように思う。『吾妻鏡』と『曽我物語』では仇討ちの場所を両者共に「富士野」と記し、吾妻鏡では「富士野の神野の御旅館」と記されていることから多くで検討されてきた。特に「神野が何処であるのか」という点は注目されてきた。

そのような中で諸家による『信長公記』を引用した指摘は、この議論をかなりスマートにさせたと言って良い。『信長公記』には「4月12日 本栖を未明に出でさせられ…」とあり、天正10年(1582)4月に甲斐国本栖を織田信長一行が出発しその後駿河国に入ったことが分かる。その後、以下のように続く。

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ…

ここで小姓たちが馬に乗って大騒ぎした場所として「神野が原・井出野」が見え、井出野は「≒上井出」であるから、仇討ちの現場(神野)が駿河国富士上方の上井出またはその周辺であるということが分かるのである(後述する「「富士野」考」もご参照下さい)。

『舞の本』の「夜討曽我」の挿絵、富士野の狩りの場面。林(2020;p.21)にあるように、版本の挿絵に共通してみられる図柄である

「富士野」≒「富士山麓一帯」のように解説する論考もあるが、慎重になるべきである。というのも、そもそも吾妻鏡に「富士野藍澤の夏狩を覧んがために」とあり、同じ駿河国の富士山麓の藍沢と区別されているのだから富士山麓一帯とは言えないはずである。おおまかに言えば”東の藍沢、西の富士野”である。富士野は限局したエリアを指すと思われるのである。

実際富士の巻狩の一連の記述の中で、『吾妻鏡』の建久4年(1193年)5月15日条を最後に「藍澤」の地名は出てこない。「藍澤」を出て「富士野」に入ったので、「藍澤」という地名が後半登場しないという単純な話なのである。であれば、「藍澤」と「富士野」は別地である。この辺りはしっかり区別して考えることに意味があると思うのである。何故「藍沢」と「富士野」なのかという点に関しては、海老沼・木村両者の指摘を傾聴すべきだと思う。(木村2018;p.19)に

では、なぜ、頼朝はわざわざ富士山麓の2箇所で巻狩りを行ったのだろうか。これは、近年、海老沼真治がそのルートを含めて詳細に検討しているように、藍沢と神野が甲斐国から駿河国・東海道へ出る2本の主要な交通路の出口であったからである。(中略)まさに甲斐源氏の甲斐国への封じ込めである。

とある。この指摘は傾聴すべきと思う。また巻狩り後、甲斐源氏に悲劇が襲っていることはよく知られる通りである。ここにこそ頼朝の意図が見え隠れするのであり、タイトルに対する答えとなってくる。そもそも、富士の巻狩は異常な程に規模が大きい。これほどの規模であると、資金もかなり必要になってくる。頼朝にはそれでもやらねばならない理由があるのである。

  • 五郎(弟)が処刑された場所

吾妻鏡によると、五郎は尋問の後に梟首されている。吾妻鏡5月29日条に「五郎を亘さる。鎮西中太と号するの男をもつてすなはち梟首せしむと云々」とあり、普通に解釈すれば犬房丸の指示で富士野にて梟首されたと解釈できる一文である

また真名本『曽我物語』巻九では「筑紫の仲太とて御家人のありけるが、左衛門尉に付て本領を訴訟しけるが、申し乞て切てけり。態と吉き太刀をば捨て、鈍刀を以て舁首にぞしたりける(平(2)218頁)」とあり、筑紫の仲太なる人物が五郎を処刑している。そしてその後巻十で「鎌倉殿は富士野を出で御在して(平(2)245頁)」とあるので、処刑時点では富士野に居たことが明らかなのである。

また仮名本『曽我物語』(太山寺本)巻九では「雑色を呼びてきらせけり(中略)掻き首にぞしたりけるは、上代にも末代にも、かかる弓取りはあらじと、惜しみ感ぜぬ人はなかにけり(太286頁)」とあり、富士野で処刑されている。

つまり吾妻鏡や真名本・仮名本曽我物語も五郎は富士野で処刑されたとしている

一方幸若舞曲「十番切」や「曾我吾郎首洗い井戸」・「厚原曾我八幡宮」の言い伝えでは鷹ケ岡(=鷹岡)にて五郎は処刑されたことになっており、『吾妻鏡』『曽我物語』と異にする内容である。

また(富士市2017;p.3)で「仇討ち後の鎌倉への護送中に討ち取る」とあるが、あえて『吾妻鏡』『曽我物語』とは明確に異なる見解を示しているということになるので、注意が必要な記述である。通常はこういう見解はしないと思うし、通常のそれとは異なる奇文と言える。

富士市HP

また上の画像は富士市HP中の「曽我物語」を解説したページであるが

工藤祐経を討ち取った後、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました。この鷹ヶ岡が、現在の富士市鷹岡の地であるといわれ、兄弟にまつわる史跡がこの地に数多く残されています。

と説明している。普通の人は曽我物語にこのような記述があるのだろうと思うだろうし、そういう書き方である。しかし驚くことに、曽我物語にはそのような記述は一切ない(「兄十郎はその場で討ち取られ」以外の箇所)。信じ難い誤認であるので注意されたい。

しかし、同地との関係性も見ていきたいところである。幸若舞曲「十番切」を読むと「鷹が岡にも付しかば、九品の松の下に敷革しかせ、(中略)…と申こふてぞきられける(毛利家本)」とあり、五郎が処刑を請うて鷹が岡の「九品の松」にて処刑されたという設定を持つ。(泉2006;p.5)は渡辺美術館蔵「曽我物語図屏風」第6扇上方の、九本の松が周囲をとりまくように並んでいる部分を指摘し、これが「九品の松」を絵画化したものであるとしている。実際に確認してみると、端の部分にあたる松は全体こそ見えないがしっかり幹は確認できるのであり、明らかに意図しているのが分かる。貴重な指摘である。「九品の松」は曽我物語には出てこないように思うので、この場面は曽我物語に沿っていないと考えられるのである。幸若舞曲の独自性を感じる部分である。

(井戸2015)は曽我物語図屏風が右隻が源頼朝による「富士巻狩」で左隻が「夜討」である一双形式であるとし、幸若舞曲のテクストが大いに影響して物語の筋書きが逐語的に絵画化されていると指摘する。そしてその幸若舞曲を「夜討曽我」と「十番切」としている。つまり九本の松を描いたその場所は「鷹が岡」を想定したものと言えるのである((井戸2015;p.84)では「図7」がそれにあたる)。

左隻はその中で時間の経過があり、様々な場面を取り入れている。そのため曽我兄弟が左隻の中に何度も登場しているのである。場面の順番も行き来が激しいため、これが左隻の複雑さの要因となっている。"場面の境界"は屋形の部屋を区切りとしたり、庭に1つの場面を配置することで形成しており、部屋はちょうど「すやり霞」のような役割を果たしている(曽我物語図屏風の中には根津美術館本のように「金雲」で境界を形成しているものもある)。

仇討ち現場が富士野であることは揺るがないとして、復路にて鷹岡を通過した可能性は十分にある。頼朝一行は富士野を過ぎて南下し(中道往還)、鷹岡を経由し鎌倉へ帰った可能性は否定できない。鷹岡にて何らかの事象はあったのだろう。そう考えると富士山本宮浅間大社で流鏑馬を奉納したという言い伝えもあながち間違っていないのかもしれない。以下では往路について考えていきたい。

中道往還

  • ルート(往路)について

まず頼朝・曽我兄弟一行の往路を史料から見ていきたい。吾妻鏡によると

頼朝:鎌倉→藍沢→富士野

とあり、具体性を欠く。真名本によると

頼朝:合沢→浮島ヶ原→小林の里→伊出(富士野)
兄弟:曽我荘→箱根→三島→小林の里(ここで頼朝に追いつく)→伊出(富士野)

と移動している。一方仮名本によると

兄弟:箱根→三島→浮島ヶ原→いのこま林→相沢→富士野

と移動している。この「いのこま林」に関しては(福田2016;pp.323-325)は

この「いのこま林」が不明で、それは浮島原につながる愛鷹山西南麓に求めねばなるまい。しかもこの後の叙述に矛盾がある。その日、御寮は、この方面にはおられず、富士東麓の相沢(藍沢)におられたという。後にあげる諸本がいずれもこれに従っており、史実に引かれた物語の不手際と言わねばならぬ

と指摘している。全くその通りである。仮名本では頼朝が浮島ヶ原におり兄弟は急いで追いつく(太225頁)。その夜に仇討ちを仕掛けるも失敗する。次の日は「いのこま林」におり、やはり仇討ちを仕掛けるが失敗する。そして日も暮れてしまったが、なんと頼朝は既に相沢に居るのである。

だとすれば頼朝は日が暮れる前に工藤祐経より先に出立していることになり、まだ祐経たちは「浮島ヶ原と相沢の間」に居ることになる。しかもこれでは兄弟は頼朝を狙うこともできないのである。いのこま林は必然的に「浮島ヶ原と相沢の間」に求めることになる。ルートの整合性は難しい。


真名本の場合はどうだろうか。経由地は「小林の里日逼の狩倉」とあるのだから(平(2)104頁)、狩りが出来るほどの緑地でなければならない。これは「浮島ヶ原と富士野の間の緑地」と考える方が自然ではないだろうか。具体的に言えば、浮島ヶ原から十里木道を経て富士野へ至るケースが考えられる。その場合、十里木道沿いに富士の巻狩に関する伝承が残る背景とも合致する。

例えば伝承が残る曽比奈は越前岳(愛鷹連峰の1つ)の西南麓にあたる。また勢子を多く出したという伝承の残る「勢子辻」(富士市)もこの付近であり、ここで合流したとも考えられる。ちなみにこの富士市「勢子辻」は集落が形成されており、また冬季は積雪することで知られる。

富士ニュース

富士ニュース


しかし通過したのは5月(旧暦)であり、少なくともこの時に積雪はしていなかったと考えられる。北部は富士宮市と富士市とでは富士市で特に標高が高く、積雪が過大である(詳しくは「富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地」を参照)。イメージしやすいように、以下に「勢子辻と富士山こどもの国エリアの地図」と「富士山こどもの国・森林墓園を含めた広域地図」を示す。


←富士宮市 →富士市

如何に愛鷹連峰を通ることが不可能であるかが分かるように思う(富士市・裾野市の越前岳は標高が1,504mである)。つまり愛鷹山麓の西麓・東麓を通過する形となるが、東麓だと遠のくので西麓が現実的かと思う。そして、浮島ヶ原付近で北上する街道としては、十里木道が最も近い。浮島ヶ原→小林の里(十里木道沿い)→伊出(井出、富士野)が想定されてくる。

中道往還と十里木道

  • 「小林の里」=「小林郷」か?

しかし「小林の里」に関しては解釈が大きく分かれるのも事実である。例えば(平(2)127頁)では「前には合沢から富士の南の浮島が原に着いたとしながら、ここでは小林の里に、また次には容易に井出に移ったように記しているのは、これら土地の位置関係について作者の認識が不十分であったものか」と困惑している。

(二本松2009;pp.226-229)は「駿河国小林郷は巻七においても見られる。(中略)真名本『曽我物語』では、小林郷は浮島ヶ原を過ぎて翌日には伊出の屋形に到着する位置にあった」としている。このように無意識下か「小林の里」(平(2)104頁)=「小林郷」(平(2)280頁)という前提で話が進んでいるのであるが、これは少し冷静にならなければならないと思う。真名本が同地を指す時にあえて表現を変える必要性が特段無いためである。

また小林郷の場面にて「富士の郡六十六郷の内の御霊神とならせ給ひて候ふ間」とあるので、やはり小林郷は富士郡の「郷」であるのであって、「小林の里」と同義ではないように思う。これでは仇討ちが未遂に終わった狩倉の地(=小林の里)に御霊神がおわすことになりはしないか。物語の破綻とも言える解釈であり、同じ地を指すと断定するのは危険な印象を持つ。「六十六郷」に関しては全く別の箇所でも認められる表現であり((平(2)8頁))、巻第六で宇都宮の女房の活躍が描かれ常陸国伊澤郡の 「六十六郷」が贈与されている場面でも登場する(田川1994;pp.13-15)。しかしながら常陸国に「伊沢郡」はないという((平(2)46頁))。であれば、「六十六郷」の説明に付随する「郷」の名が本当に意味をなすのか考えなければならない。

真名本にて頼朝は他にも多くの人物に過大な領地を与えている。田川は「権力者頼朝の、これら派手で気前のいい大盤振舞いを描くことに並行し、その陰に在る兄弟の姿を同時に点描するのが、『曽我物語』の常套的な手段である」としている。富士郡に実際は六十六郷も無いので、演出の要素が大きい。

またそもそも(二本松2009;pp.232-239)にある街道の認識も適当であるようには思われない。「吉原宿が中世を通じて東海道の流通拠点として繁栄した」とあるがとてもそうは思われないし(後述)、中道往還を現代の道に比定する場合「139号線」ではなく「414号線」が該当するように思う。また日蓮の例も、それこそ「車返(沼津市)→大宮(富士宮市)」のルートは示されていないのである。もちろん東海道→中道往還→駿州往還というルートが妥当であるが、補足材料にはなっていないと言える(「日蓮の身延入山と富士宮市・富士市」もご参照下さい)。

また氏は「甲駿街道(註:中道往還を指す言葉として用いている)を一歩踏み出したところが、本章の推定する小林郷である」としている。しかし「里」とも記される箇所をあえて街道沿いに比定することに違和感を禁じえない。むしろ街道沿いでない場所であるので「小林の里」ではないだろうか、と思うのである。また「小林の里」とすることで"小林郷と同一ではない"ということが分かる真名本の工夫とさえ捉えられる。仮名本にも「林」とあり共通性を強く感じるところである。そもそも「小林」は地名であるかどうかも分からない。「小林からなる里の狭い場所」とも十分解釈できるものである。

今の所、ルートの部分については定説を見ていない。吾妻鏡の記載が具体性を欠くがためにこのような状況となっていると言っても良い。少し富士市の伝承に寄りすぎた立場となっているが、個人的には

往路:藍沢(合沢)→浮島ヶ原→小林の里(十里木道沿い)→伊出(井出、富士野)
復路:富士野→中道往還に沿って南下→鷹岡経由→鎌倉

と考えている。吾妻鏡は下線の部分のみを記していると考えたい。

  • 曽我兄弟の亡骸
兄弟の屍・首の行方は曽我物語に明記されている。真名本曽我物語巻第十に

ここに宇佐美禅師とて、駿河の国平沢の山寺にぞありける、本は久能法師なり。この人共のためには従父なり。急ぎ富士野に尋ね入り、二人の死屍を葬送しつつ、骨をば頸に懸けて、6月3日には曽我の里へ入る(平(2)246頁)

とある。兄弟の頸は千種華苑の山で火葬され、屍は富士野にて火葬されたのである。そしてその御骨は法師が身につけるという形で曽我の里へ持ち帰られているのである。つまり頸や胴体が仇討ち現場で埋葬されたということは示されていない。吾妻鏡には「祐成兄弟が夢後を訪ふべきの由、仰せ下さる」(「夢後を訪ふべきの由」は菩提を弔い成仏できるように、というような意味)とはあるが頸や胴体の行方は記されていないので、真名本の記述がいよいよ重要となってくる。

没した地兄弟の首兄弟の胴体
吾妻鏡富士野(富士宮市)不詳不詳
真名本富士野曽我の里の千種華苑の山で火葬(小田原市)富士野にて火葬、骨を携え曽我の里に届けられる(小田原市)
仮名本富士野不詳不詳

(新村2016;p.34)は「そして、兄弟の百箇日の法要を箱根で行うと聞いた虎が曽我の里を訪れた時に十郎の住まいに案内されて見たのも、庭の「千種の華」であった」と説明し、千草の華と十郎との密接な連繋を指摘しており、重要な点であると言える。

また福田は(平(2)342頁)にて「虎御前回国譚が、大磯で終らず曾我大御堂で虎を往生させることによって結ばれているところに疑念をもつ」としているが、骨が眠る地で往生することはそれほどおかしい展開のようには思われない。むしろこの虎御前回国譚自体に疑念を持つ意見もある(坂井2014;p.132)。


  • 伊出の屋形=井出館(井出氏の館)か?

上記で真名本のルートを「小林の里→伊出(富士野)」と記したが、具体的に書くと真名本には「伊出の屋形に着かせ給ふ(巻第七、平(2)104頁)」と記される。この伊出の屋形と「井出館(井出氏の館)」が同一であるかどうか、という点も議論される。江戸時代の駿河国の地誌にこの両者が関係をもって語られる例が見られ、(渡井2018;pp.2-3)に詳しい。

同氏が指摘するように吾妻鏡に井出家や井出郷の名は記されていない。実は吾妻鏡と曽我物語の大きな違いとして「伊出の屋形の有無」が挙げられるのである。曽我物語の方では伊出の屋形が登場するのである。

頼朝の屋形の跡だとした場合、井出氏はこのとき曽我物語に名が登場するくらいでないとおかしいと思うのである。富士野の神野の地は井出野(上井出)の辺りであるが、頼朝の屋形の跡とするのは後世に権威付けされた結果であると思われる。

『信長公記』も「頼朝の屋形が立てられた上井出の丸山がある」とはしているが、井出氏と関係付けている訳ではない。吾妻鏡や曽我物語がどうかというよりは、井出氏の台頭を示す史料はもう少し時代が下ってくるので、鎌倉時代の伊出の屋形と直接的に結びつけるのは困難であるという印象を持つ。

  • 曽我物語に富士郡の人物は登場するのか?

曽我物語では富士郡の在地勢力が意外にも出てこない。巻狩は富士野で行われているのだから、普通に考えれば有力な在地勢力が居れば参加していそうなものである。そこで巻第八の「同国の住人に南条小太郎と深堀弥次郎ぞ出にける(平(2)136頁)」という部分が注目される(坂井2014;p.21)。これはいわゆる「二十番の巻狩」の部分であるが、この「同国」は文脈上伊豆国を指していると考えられ、また富士上方の上野郷には南条氏がおり関係性も考えられるところである。

(梶川2010)によると南条氏は伊豆国田方郡南条が発祥であるといい、また(梶川2008)ではこの南条小太郎が実在の人物とするかは検討が必要であるとしている。(梶川2011)には上野郷が得宗領であったことを示す史料等が示されるが、これら関係性を示す史料の時代は下るのであり、また(梶川2010)にあるように南条氏は南条時員が北条泰時の被官となることで有力御内人となったという背景がある。上野の南条時光とこの時員は同族にあたる。

この南条小太郎が実在するか否かは別として、少なくとも富士郡の人物ではないように思われる。また「二十番の巻狩」には伊豆国だけではなく駿河国からも出ている。「洋津」「萱品」「神原」「高橋」らがそうであるが、やはり富士郡の人物ではないように思える。曽我物語には必ずしも御家人だけが記されるのではない。仮に有力者が居れば名は出てきてもよいように思うが、管見の限り確認できないように思える。

また仮名本の巻第六に「古郡左衛門」の名が見え(太171頁)、仮名本(十行古活字本、『日本古典文学大系』の曽我物語はこれにあたる)に「古郡左衛門種氏」、また幸若舞曲「和田宴」(毛利家本)に「呑程ならば朝夷かふるこふりか」と「古郡」が登場する。古郡は現在富士市域に見られる名字である。(富士市1998;p.2)によると古郡家は中里村の小土豪で重年の代に現在の松岡村に移転したという。

しかし古郡は甲斐国の地名であり同氏の発祥の地とされる上、古郡保忠も「和田合戦」に破れ甲斐国で自刃しているというので、曾我物語や幸若舞曲に見えるこの「古郡」はあくまでも甲斐国の者であると思われる。(近藤1989;p.421)には「特異な例として都留郡古郡庄から古郡氏が出た。武蔵七党横山党の一族で、横山隆兼の子、時重・忠重らがいずれも古郡を号した」とある。富士郡に古郡氏が土着するのは、かなり時代が下るものと推察される。

結論、曽我物語には富士郡の人物が登場していないように思う。

  • 吾妻鏡・曽我物語から見る富士地区の様相、特に宿場について

吾妻鏡には以下のようにある。

ここに祐経・王藤内等交會せしむるのところの遊女、手越の少将・黄瀬川の亀鶴等叫喚し、この上祐成兄弟父の敵を討つの由、高聲を發つ

つまり仇討ち時には工藤祐経・王藤内の側には「手越宿」(静岡市)と「黄瀬川宿」(沼津市)の遊女が居た。両者は目の前でこの惨劇を見たのである。また両者は吾妻鏡だけではなく『曽我物語』にも登場する。

しかし両者は富士郡の遊女ではない。富士野で催されるのであるから、近隣に遊女が居れば必然的にそこから召されているはずである。しかしそうではなく、わざわざ遠方の遊女が召されているのである。私はこれら事実を見た時「富士郡には遊女が居るような大きな宿が無かった」と言って良いのではないかと考える。

曽我物語には東国の霊地や宿場が殊の外多く記されることが知られている。ここで少し「東国」の扱いについて考えたいのであるが、真名本巻第六に「東国には狩庭多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし(平(2)11頁)」という有名な一節があり、富士野を東国として見ていると解釈してよいと思われる。曽我物語には「東国」という言葉が度々出現する。

(稲葉1997;p.101)は真名本巻五の後半から巻六に見える地名を書き出し以下のように説明している。

以下にその地名を書き出して示すと、関戸宿、入間河宿、大倉宿、児玉宿、山名・板鼻・松井田宿、沓懸宿、三原野、赤城山、宇都宮宿、那須野、青竹落、法泉宿、品河宿となる。夙に知られているように、真名本曽我物語が伝えるこの間の行程は、地理的関係において極めて正確であり、また詳細である。

またこのような地名に子細な様は、十郎の遊女との出会いの過程にも見て取れる。その過程は(村上2006;pp53-66)に詳しい。兄弟は仇討ちの計画を異父の兄にあたる「京の小次郎(小二郎)」=「原小次郎」に打ち明ける。しかし小次郎は仇討ちのような時勢ではないとし否定的に見る。これをみた五郎は計画が露呈することを恐れ殺害を進言するが、十郎は身内であるとしてこれを止め小次郎に口止めをする。しかし小次郎は母にこの計画を伝えてしまう。それを聞いた母は仇討ちをやめるよう促し、また結婚もせず独り身であるからこのような考えを持つのだとして妻帯を進める。しかし五郎は女は無用であるとし、兄には仇討ち後も咎を負うことがないであろう妾を持つよう提案する。そこで十郎は遊女を探し

小田原→酒匂→国府→二宮→小磯→大磯→平塚→三浦→鎌倉(真名本巻第五)

と移動する。そして「大磯の宿」の遊女である「虎」と出会うのである(平(2)272頁)。この部分の地名も相当詳しい。真名本は東国で成立したとされるが、その根拠の1つとして挙げられているのが「東国の地名の列挙」であり、良く指摘される。(新村2016;pp.30-32)は頼朝が鎌倉を本拠として新たな政権を樹立したこの時期は交通や流通面においても変化が見られるようになったと指摘する。そして「こうした時代背景に影響を受けてか、真名本は宿駅の1つ1つを細かく記す」「この時期において存在感をました交通路や宿駅に対する細やかな視点が真名本に反映されている」としている。

しかしそのような中でも富士郡の宿場は記されていないのである。他に近場で記される地名が「箱根-黄瀬川-手越」であるところを見ると、むしろ富士郡は「綺麗な空白地点」と言っても良い。この点は往路の検証の材料にもなると思われる。

ここでは東国との関係を記しているが、真名本には西国のイデオロギーも組み入れられていることが示唆され、東国のエッセンスのみで構成されているという意味ではない。(会田2008;p.90)が指摘するように巻二に頼朝が伊豆流人時代に発した言葉に「我必ず東国に住して東夷を平らげん」とあり、西国的人間として叙述する向きがある。また会田は梶原景時の鷹狩に関する論争の中で西国の価値観を意識しているという指摘もしている。しかしこの点に関して(二本松2011;p.355)は「鷹狩は東国武士たちに根生いイデオロギーではない」としている。と同時に仮庭めぐりの叙述を引いて「真名本『曾我物語』は東国の狩猟信仰に精通している」ともしている。やはり全体的には東国の地理に詳しいという指摘がなされることが多い。

以下では駿河国にあたる「手越」と「富士郡の宿」について考えていきたい。

黄瀬川

手越宿は駿河国有度郡(現静岡市駿河区手越)の宿駅である。安倍川の西岸で鎌倉街道に沿うという(中川2019;p.10)。同地は「手越河原の戦い」でも有名であり、建武2年(1335)のもの(足利直義 対 新田義貞)や観応2年(1351)9月27日のもの(足利直義軍 対 伊達景宗)が知られる(「観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理」を参照)。黄瀬川宿は静岡県沼津市大岡辺りにあったとされる。

安倍川

次に富士郡の宿場について考えてみたい。実はこの作業は大変難儀である。やや横道に逸れるので飛ばしていただいても問題はない。古くは『日本三代実録』貞観6年(864)12月10日条に「廃柏原駅。富士郡蒲原駅遷立於富士川東野」とあり、駿河郡の柏原駅を廃し代わりに富士郡の駅が富士川の東野に移されたとある。この富士郡の駅の名は「蒲原駅」であったという。9世紀後半は富士川の東(富士市域)に蒲原駅があったと目される。

また見附の存在が指摘される。(菊池2012;p1)に「初めは吉原湊に面した海沿いの砂山に見附が設けられたが、やがて現在も富士塚の残る今井地区へ移り」とある。この「見附の宿」に関しては『駿河志料』『田子乃古道』といった史料に見られるのみで、且つ後世の記録のみしか残らない。実際のところ存在したのかは定かではないが、最大公約数的な言い方をすれば「富士川東野の駅・見附→今井→吉原宿(元祖)」となる。上の「図2」の吉原宿は「新吉原宿」であり、「元祖吉原宿」→「中吉原宿」(寛永年中に高潮被害により移転し成立)→「新吉原宿」(延宝8年(1680)の水害により天和2年(1682)に移転したもの)という変移によるものである。


『駿河志料』の「駅はもと今井村の地にありて、権輿は審ならず、元弘年中今井見附と唱へ」という記録等に鑑みるに、仇討ち事件の頃は今井に宿場があった可能性がある。しかし吾妻鏡には「今井宿」とか「見附」といった文言は見られない。(中川2019)にあるような和歌に登場する例も無い。このように富士郡の宿場に関する記録はそもそも少ないが、はやり大きな宿場は無く、手越宿と黄瀬川宿から遊女を召す必要性があったのであろう。

  • 虎御前と富士郡  

真名本曽我物語において、曾我祐成の妾である虎御前が仇討ちの現場である「伊出の屋形」を弔問しているシーンがある。真名本では「伊出の屋形にもつきたれば、心も心ならぬ野原なれば、心の澄むことは限りなし(平(2)270頁)」と心情が述べられている。後に虎御前は、1度弔問したにも関わらず再度伊出の屋形に向かうことを決意し旅立つ。ここに、残された者の寂しさ・侘しさ・悲しさを強く感じるのであるが、その過程の駿河国小林郷で心の転機が訪れる。

小林郷に鳥居が建てられていたためこの社について訪ねると、曽我兄弟が御霊神となったことを奉ったものであると知る。そこで虎御前は不断念仏をし、曽我の里へ引き返す。心情に大きな変化をもたらしたのである(平(2)280-281頁)。

真名本のラストにあたる巻第十では「庭の桜の本立斜めに小枝が下りたるを十郎が躰と見なして走り寄り取り付かむとすれども(平(2)285頁)」とあり、虎は桜の木に小枝が垂れ下がる姿を十郎とみなして木に抱きつくのである(ここの解釈は(新村2016;pp.34-35)や(木澤2019;p.26-30)の指摘が示唆に富む)。有名な一節であるが、やはり残された者の悲しさがそこにはある。曽我物語は女語りによる口承という指摘が多くでなされるが、これらの部分を見ると妙に納得するものである。

作中では虎の諸国参詣の最中で往藤内(仇討ち時に工藤祐経と居合わせ討たれた人物)の妻と出会い悲しみを分かち合っており(往藤内は兄弟に討たれたので、一見すると妙であるとも言えるが)、やはり「女性」が重要な位置づけにあるのである。この部分は(会田2004;pp162-176)に詳しい。これは曽我物語の大きな要素だと言える。

「女性視点」という意味では幸若舞曲は女性視点があまり確認されない。例えば『十番切』の志向も、あくまでも十番切の場面そのものを描くことにあった。また幸若舞は虎視点の内容が認めらない。

そして「その時より病付て、少病少悩にして、生年六十四歳と申すに大往生をぞ遂げにける(平(2)285頁)」とあり、虎は一応の安定を以て安らかに眠ることになる。真名本のラストにあたる部分である。この部分の解釈について(木澤2019;p.30)は

物語は、死者と完全に断絶してしまっている兄弟のありようからはじまり、敵討を経て、死者との幸福な再会を幻視しながら安らかに往生する虎のありようで閉じられる。だとすれば『曽我物語』の到達点は、死きずな者とのつながり、時間的空間的に完全に隔たっていても結ばれ続ける絆という意味でのつながりを獲得するという点にあったのではないかと考えることができる。

としている。この記述は極めて納得のいく説明である。また上記の「小林郷」を富士市久沢・鷹岡に比定する論者も居る。実は曽我兄弟の仇討ち"後"と富士市は関係が深いと思うのである。

  • 絵図に見られる富士山

個人的に興味深いと思うのは、富士の巻狩を描く図や曽我兄弟の仇討ちを描く図において、富士山の描き方が二極化している点である。まず『月次風俗図屏風』の「富士巻狩」は三峰の富士山であり、富士山の他の絵画にも見られる普遍的な描写である。しかし渡辺美術館蔵「曽我物語図屏風」や歌川芳虎「曽我兄弟十番切之図」は薄暗い富士山を描いており、しかも秀麗なものとは言い難い。前者については(泉2006;p.3)に

本図では、第4扇と第5扇の画面上端に、灰色の巨大な山塊の一部を表すにとどめるという、例のない描き方がされる。富士山麓の狩りの場面で、富士の全容が美しく見える描き方よりも、はるかに「現実的」な描き方として注目したい

とある。渡辺美術館蔵「曽我物語図屏風」について(相澤2008;p.479)は天正の頃の作例としている。絵入りの「舞の本」もこのような一部のみを描く手法が見られる。

真名本には「ころは5月28日の夜半の事なれば、雨は居に居て雨る、暗さは暗し…(巻九、平(2)197頁)」とあるため、仇討ち自体は夜に決行されている。なので夜討図における富士山が暗い場合は問題はない。しかし「巻狩」自体は日中に行われているはずであり、それを表した「富士巻狩図」にて富士山が灰色である点は、確かに特徴的と言えるかもしれない。逆にこのような画題を採用しなかったのが曽我物語図屏風のうち「丸近本」(狩野永納作)や「栃木県文化財指定本」である。

また時代が下ると「夜討」を排した曽我物語図屏風の作例が多くなっている点を(小口2020;p.p.59-60)は指摘する。氏は赤穂事件といった仇討事件の増加を幕府が問題視し、それを想起させる曽我兄弟の仇討事件は忌避されたためとしている。

しかし一方で富士の巻狩は曽我物語図屏風の作例として残っている。この点については、徳川吉宗が当時大規模な鹿狩を行いこれが富士の巻狩に見立てられ、好意的に受け止められたためとする。そして富士の巻狩りは権威表象であり、徳川将軍家のテーマとして用いられたとしている。

曽我物語における刀の位置づけは、まさしく「資格継承」にある。幸若舞曲は「由来譚」に重きを置いている。(新村2015;pp.126-127)に

五郎が箱根別当行実から授かったのは兵庫鎖の太刀であり、屋代本『平家物語』剣巻などにも、この太刀ゆえに敵討を遂げることができたとの認識があったことが知られる。霊威ある剣を義経から継承する者としての資格が、一時的にせよ五郎に与えられたと受け止めるべきであろう

としている点や(村上1999;p.279)で

十郎が所持していたのは、いわば平家を代表する新中納言知盛の太刀・奥州丸であったが、これは鐔元より真二つに折れた。そして今、源家重代の宝刀友切が無事、頼朝の手に帰すというところに宝剣の持つ意味が自ずと語られている。

と説明されている。つまり源氏を引き立てる構成であり、源氏の宝剣を所持する者の正当性が語られているのである。

『舞の本』の「剣讃嘆」挿絵。、曽我兄弟が「黒鞘巻の刀」「兵庫鎖の太刀」を授かる場面。十郎(左)の装束の絵はやや雑であるが千鳥模様であると思われる。

  • 富士宮市・富士市の伝承地

これは吾妻鏡や曽我物語を読んで驚いたことであるが、富士宮市や富士市に多く伝わる伝承地がこれら史料に全く出てこないのである。派生作品も含めればこれだけ多岐に渡るのにも関わらず、認められない。先の「曾我吾郎首洗い井戸」等もそうである。「曽我兄弟の隠れ岩」「音止めの滝」「陣場の滝」「太鼓石」「撫川」「お鬢水」「猫石」「櫃石」等も全く出てこない。御殿場市の「カンコラ淵」、裾野市の「頼朝の井戸の森」・「鮎壺の滝」、沼津市の「徳源寺」や「日枝神社の大釜」も出てこない。ある意味口承的に伝わったとも考えられるが、とりあえず曽我物語や吾妻鏡に登場しないことは留意すべきであると思う

猫石

この点に関しては、富士地区(富士宮市・富士市)をゆかりとする中で勝手な思い込みが形成されていたのかもしれない。逆に言えば富士郡に関わるもので『吾妻鏡』や『曽我物語』に登場する「神野」「富士野」「井出の屋形」といった地名に関してはしっかりと考えていかなければならないと思うのである。

貝原益軒

そのような中、吾妻鏡や曽我物語には登場しないものの、福泉寺(曾我寺)の存在は際立ってくるように思う。というのも、紀行文等に登場するためである。『東海道中膝栗毛』には以下のようにある。

それより久沢の善福寺(註:福泉寺)といへるに、曽我兄弟の石牌あるをおがみて北八

 今曽我に機縁を結ぶわれわれは外に一家も壱もんもなし

また貝原益軒の紀行文『壬申紀行』に「曾我の社」が詳細に紹介されており好例であるので、以下に挙げる。


大みやをいでて吉原のかたへゆく(曽我の社)(中略)厚原と云所、道の左のかたはらにはやしあり。其内に曾我祐成、時宗がほこらあり。一所に兄弟の両社、近くならべり。今も親の敵をうたんと志あるものは、此社にいのると云。其前に又小き草堂あり。曾我兄弟が位牌所となりと云。吉原より是まで一里あり。曾我の社より三町ばかり吉原の方に行ば、これも左の方に小なるほこら有。是、祐成が妾、虎が社なり。

とある。ここで「①祠(林の中)」「②曽我の社」「③草堂(位牌所)」「④虎の祠」が記されることに注目したいのである。「今も親の敵をうたんと志あるものは、此社にいのると云」とあり、近世もよく知られた社であったと考えられる。このような武士の志を形成する要素に、『富士野往来』といった教科書の存在もあるかもしれない。

また中井竹山『西上記』(往路は『東征稿』)にも福泉寺は登場し、面白いエピソードが記される。『西上記』は明和9年(1772)の旅を記したものである(湯城2011;p.1)。以下で説明していきたいと思う(※『紀行日本漢詩』を参考とした。途中誤記と思しき箇所あり)。

中井竹山


『西上記』に「芳原(吉原)に及ぶ則ち報有り云ふ、富士河溢る」とあり、吉原に到着すると「富士川が溢れている」という報告があった。「富士市の島地名と水害そして浅間神社」にあるように吉原の地は水害が跡を絶たない地域である(この明和9年は全国的にも酷く「迷惑年」とも呼ばれた)。富士川を渡れないと一行は西に行けず帰京出来ない。奇しくもこの足止めが、吉原の様相を後世に伝える好例となるのである。

同記には「東泉蘭若(東泉院)を過り路帰る」とあり、風害狼藉で見るものがないとして東泉院を通り過ぎている。翌日「近地の幽尋すべき者を索む、福泉寺に得たり。蘇我昆季塋在を。又た二蘇祠有り、相ひ遠からず」と福泉寺と蘇我昆季(曽我兄弟)の墓と祠が登場する。祠は「蘇氏碑の碑二基」とあり、苔花が封合しているとある。また「後ろに大柿樹有り」と、祠の後ろに大柿の木があり伝承では虎が植えたものであると記す。

また竹山は「東北行数百歩」し祠に赴きその由来を記し、また祠の前にある老杉一株についても記す。また祝氏の家で休み、「源頼朝が五郎の義勇を惜しんで特別に宥免を指示したが犬坊丸の懇願により刑に処された」という仇討ちの経緯を記した後で「其の教蔵め、祝氏に在り。出め(?)之を示す(※之出示すヵ)」とあり、頼朝が宥免を指示した書を祝氏の者が保持しており、見せてもらったとある。祝氏は神職または福泉寺に関係する者と思われるが、この書が現存するかは定かではない。しかしもし仮にこれが現存する場合、極めて重要な史料になると思うのである。竹山は真偽の判断はつけられないとしているが、それ程可能性があるとも言えるのである。福泉寺は富士宮市の杉田安養寺の末寺でもあったので、安養寺の方にあるかもしれない。とりあえず一度調査すべきであると考える(もしかして富士市の刊行物等に記されているのかもしれないが、見つけられなかった)。

※この点の詳細は以下の「福泉寺の喧伝か、はたまた正式な伝来か?」の項にて記す

また「祠畔の竹箭中に廃池有」とあり、「小蘇の元を滌ふ」という伝承があることが記されている。つまり「曾我吾郎首洗い井戸」の言い伝えは、少なくともこの時まで遡ることができるのである。

ちなみに往路を記した『東征稿』によると、富士川を渡った後に「雨中芳原(吉原)を発す」とあり、やはり天候が安定していなかったようである。また品川駅辺りの曽我兄弟の墓(蘇我昆弟とある)に立ち寄るなどしている。

つまり1度の旅行記に限ってみても、曽我兄弟に関する事柄が複数以上確認できるのである。この事実そのものだけを見ても、同事件が人々に与えた影響の大きさが分かるのである。時代を問わず世に知られていたのであり、逆に現代の認知度が妙に感じてくるのである(GHQの影響が指摘される)。曽我兄弟の墓は全国に分布しており、極めて特質である。

以下では『壬申紀行』と『西上記』の場所を比較検討してみたい。紀行では「①社」がありその境内に「②兄弟の祠」があり、その前に「③草堂(位牌所)」があるとしている。そして離れた所に「④虎の祠」があるとしている。

西上記は「①福泉寺」の境内に「②蘇我昆季塋」があり、その近くに「③二蘇祠」があるとし、その後ろに「④大柿樹」があるとする。そして東北に向かうと「⑤蘇氏碑の碑二基」があり、その前に「⑥老杉一株」が、横には「⑦廃池」があるとする。

これを見ると実は両者異なる場所を記しているということが分かる。貝原益軒は中道往還沿いに大宮(富士宮市)から吉原(富士市)に向かっており、①-③と④では前者が大宮側で後者が吉原側なのである。そう考えると、④は現在でいうところの「玉渡神社」が濃厚となってくる。

『西上記』は①-④までは同じ箇所であり、そこから「東北」(数百歩)に向かった箇所に⑤-⑦があるのである。①は福泉寺なのだから、東北に向かって「廃池」があるとする記述は、現在の立地を見ても合致している。とりあえずここでは、竹山は現在の玉渡神社周辺は記していないと考えたい。逆に言えば、鷹岡の地は曽我兄弟に関する伝承地が極めて広範囲に分布していると言えそうである。

伝承は時代と共に「付加」させられ、貝原益軒の時代は無かったもの・伝承が創作された可能性もある。例えば柳田(1981;p.516)は

尚富士郡厚原にある曽我の社などは、以前は單に虎御前様と言つて居つたに、何時の世にか曽我兄弟の祠とし浩々歌客の父君角田虎雄氏が近年撰文を書いて遂に本物の兄弟の祠にしてしまうたが、古く遡れば随分疑はしい

としている。浩々歌客は「角田浩々歌客」のことで、角田虎雄は「虎男」と思われる。しかし「曽我の社」については、曽我兄弟の祠とされていたことは肯定できる。

(静岡近代文学研究会2004;p.41)によると、柳田は吉原に住んでいた山中共古と書簡のやりとりをしていたようであり、富士郡の神社や塚の情報を多く得ていたようである。

他にも同地を経由した紀行文は多く存在するし、それらを総合して比定作業するのも有用と思われる。

  • 福泉寺周辺の喧伝か、はたまた正式な伝来か?

上記から一部引用する。

また祝氏の家で休み、「源頼朝が五郎の義勇を惜しんで特別に宥免を指示したが犬坊丸の懇願により刑に処された」という仇討ちの経緯を記した後で「其の教蔵め、祝氏に在り。出め(?)之を示す(※之出示すヵ)」とあり、頼朝が宥免を指示した書を祝氏の者が保持しており、見せてもらったとある。祝氏は神職または福泉寺に関係する者と思われるが、この書が現存するかは定かではない。しかしもし仮にこれが現存する場合、極めて重要な史料になると思うのである。竹山は真偽の判断はつけられないとしているが、それ程可能性があるとも言えるのであり、もし現存すれば曽我兄弟の仇討ちに関する一級史料になり得る

この点は少し興味深いのでもう少し考えていきたいところである。まずここで言い伝えられている内容は、幸若舞曲「十番切」にそのまま見られる展開である。またその関係で幸若舞曲を読み物化した『舞の本』にもみられる。むしろ「この両者にくらいしか確かめられない例外的解釈」と言ったほうが良い。

幸若舞曲「十番切」には「鷹ガ岡にての事(中略)頼朝も内々助け度おぼしめさるる処に、人々の訴訟を嬉しくおぼしめされ、自身安堵の御状をあそばし(毛利家本)」とある。五郎が処刑場に連れられた後に頼朝が「安堵の書状」を出すという展開である。しかし「犬坊丸の懇願により刑に処された」という展開は舞曲「十番切」には無く吾妻鏡の展開であるので(舞曲では五郎が所望し処刑される)、いつくか織り交ぜて伝えられているようである。また能「春栄」等に似たような演出があり、この種のものに影響を受けた可能性もある。

しかしやはり「頼朝が安堵を認めた御教書が、今にも処刑されそうな五郎の元へ届けられる」という展開は幸若舞曲独自のものであり、それがこの地で紛れもなく伝えられていたということは驚嘆に値する。しかしながら幸若舞曲に限定される内容であり大衆的とは言い難く、この妙な現象は一言では説明し難い。

まず重要な視点に「御教書の真偽」と「どちらが先行するか」ということがある。御教書の真偽であるが、史実としてはそのようなことは無かったであろう。御教書は紛れもなく福泉寺サイド(か近しい者)が作成したものである。このような書が存在したということは、それに類するものは他にもあったと考えるほうが自然である。それらが「幸若舞曲の題材」として舞曲作成サイドに直接持ち込まれた可能性もある。また「何時作成されたのか」という点は別問題である。これは「いつから喧伝活動が行われていたのか」を考えるということでもあり、現物やその他の材料もない今、とても推定できるものではない。

「どちらが先行するか」というのは、「①幸若舞曲「十番切」の成立→鷹岡」と「②鷹岡→幸若舞曲の題材化」という意味となってくる。もちろん複雑に絡み合い、また並行していた可能性もある。まず鷹岡の在地勢力、例えば福泉寺のような寺院が、幸若舞曲に挿入される契機を作れる程大きな寺院であったとは思われない。しかしそれを可能にするエネルギーを一応考えてみたい。

この幸若舞曲の終盤は「(最終的には処されたが)頼朝は宥免を提案したのである」という寛大さの強調であり、「王権の保証」である(「王権保証」は(福田2004;pp522-545)が参考となる)。その過程の処刑の地として物語的に採用されたのが「鷹岡」なのであるが、「宗教」から考えていく必要性はありそうである。

『幸若舞曲研究別巻』(2004)によると、吾妻鏡・曽我物語との相違点として「特殊な仏教用語の使用」が挙げられている。そして「特に後半、五郎が鷹が岡へ引き立てられ切られる場面での会話や他の文における表現に特殊な仏教的文言が見られる(pp.238-239)」とある。鷹岡といえば「熱原法難」で知られる「厚原」が位置する地である。あまりに唐突な「鷹岡」の登場(他の史料には無い)と「特殊な仏教用語の使用」から考えた時、鷹岡の宗教勢力が関与している可能性は否定できない。そうであれば②となる。

堂々巡りになってしまうが、やはり鷹岡の在地勢力が幸若舞曲に挿入される契機を作れるとは思われない。若しくは在地勢力でないのかも分からないが、富士の巻狩の復路で鷹岡を経由し、何らかの事象があったと考えるのは許される範囲だろう。

しかし「何故鷹岡にこれほどまでに伝承地があるのか」という疑問に対する答えは出てきたように思う。「福泉寺またはその周辺による積極的な喧伝」と考えると辻褄が合う。あえて作成されたと思しき「書(御教書)」は、その一端を示すものである。そういう意味でもこの西上記の記録は興味深い。喧伝の過程で伝承地が増えていったと考えるのが自然である。

  • 成立・写本・伝来

吾妻鏡・曽我物語・富士野往来等で共通して登場する地名から系統や伝来を考えてみたいと思う。ここでは、仇討ちの場面で出てくる「イデ」から考えてみようと思う。


真名本曽我物語巻第七(妙本寺本)にみえる「伊出の屋形」

以下はその一部である。

イデ
『吾妻鏡』伊堤(富士の巻狩の場面で「イデ」は登場せず)
真名本『曽我物語』(妙本寺本)伊出
仮名本『曽我物語』(太山寺本でない)井出
仮名本『曽我物語』(流布本、12巻本)井手
『富士野往来』藺手
『保暦間記』井出
『運歩色葉集』藺手
『北条九代記』なし
幸若舞曲の曽我物基本的に仮名
能「伏木曽我」井手

一見して分かるように「伊出・井出・藺手・居出・井手と多くの表記が存在し、とてもではないが伝来の経緯は単純なものではない。富士宮市の地名でここまで多くの史料に出てくるものも珍しいと思う。

太山寺本(巻第五)

ただ注意したいのは、例えば太山寺本の「いでのやかた」
を「井出」として取り扱う論考が多いものの、実際に太山寺本を見ると「いで」の部分はすべての箇所(巻五・八・十)で仮名であった。「いで」の表記で考察を試みている例もあり、注意が必要である。

成立背景も複雑である。「源頼家の鹿狩り」とそれに付随する北条政子のエピソードは曽我物語には無く吾妻鏡独自のものであるが、例えば『北条九代記』はこれらを載せ、また真名本のような「往藤内」表記ではなく「王藤内」となっている。また「イデの屋形」は登場しない。こういうものは分かりやすく「吾妻鏡の要約版」と言えるのであるが、他はそのように単純に割り切れるものではない。このような吾妻鏡の「独自の記事」の存在を考えると、成立背景はやはり単純ではない。

(村上1990;p.372)は『吾妻鏡』建久4年5月29日条の記録を引き合いに出した上で

『吾妻鏡』の記事には、幕府の公式記録としては必ずしも採択される必然性のない記事が含まれており、そこに当時の語り物の類が流れ込んでいるのではないかと推測されている。(中略、ここで5月29日条について言及)この記事からは『吾妻鏡』に採録された曾我関係の一連の記事が既に現在の曾我物語の基本構想を備えていたことが推測される

としている。この指摘は極めて重要に思えるのであり、吾妻鏡に対して抱かざるを得ない違和感を説明する、核心を突いた指摘である。確かに、幕府の公式記録という性格を考えると虎御前が登場すること自体が不思議なのである。しかしそれは確かに記されるのである。吾妻鏡が成立した時点で「曾我兄弟の事跡を記す書」のようなものが存在し、それを吾妻鏡編纂の過程で導入していると考えるのが自然と考える。虎の登場こそ、記事冒頭でいう「帳尻合わせ」なのである。また村上は

したがって『吾妻鏡』に採録された曾我の物語は真名本に近い内容だったことが判明する。ただし『吾妻鏡』には6月1日条に虎が喚問され尋問を受けたが無罪釈放されたとの記事があり、これは現存の曽我物語のいずれの本にもない。『吾妻鏡』採録の曾我の物語は現存の真名本とは多少の相違があったことになる

としている。この点も極めて重要である。村上は吾妻鏡の限られた記述から真名本の近似性を見出し、また一方で異にする内容があることを述べている。吾妻鏡と真名本の相違を考えると、「①吾妻鏡が参考にした記録」と「②(今我々が目にしている)曽我物語の原典にあたる記録」は個別で存在していると考えられるのである。この辺りは諸家で「原曽我物語」とか「曽我記」「原初的物語」「曽我語り」(福田2004;p.327)といった表現がなされている。(坂井2014;p.54)では「福田の主張した〈…記〉のようなものを想定する立場をとりたい」としている。また(村上2003;p.34)では「仮名本はおそらく現在の真名本が多量の唱導文を含んで構成される以前の段階の原曾我物語というべき本文から発展したものと思われる」としているが、この点は論者によってかなり分かれるところであると思われる。

また(坂井2014;pp.48-49)の指摘も重要である。真名本に

されば平家に曽我を副えて渡したりけるに(平(1)157頁)

とある。平(1)の註にも「平家」(『平家物語』)「曾我」(『曾我物語』)とあるが、この記述から「ここから、現存「真名本」が成立した時点で「曽我」と呼ばれる書物が存在してたことが裏付けられる」としている。

「曽我語り」の事例として『七十一番職人歌合』・謡曲『望月』・『醍醐寺雑記』・『自戒集』はよく挙げられる。このうち『七十一番職人歌合』と謡曲『望月』は曽我物語に対応しない部分がある。これらは独立して存在していたのである。『望月』に関して(二本松2019;p.156)は「七つ五つになりしかば…」の箇所が曾我物語にて兄弟が雁を眺める場面(平(2)205-206頁)を想起させるとしているが、一方で持仏堂の場面は曾我物語に相当する場面がないとしている。

『七十一番職人歌合』より

『醍醐寺雑記』に関しては(村上1990;pp.369-372)は仮名本との近似性を指摘しており、また冒頭の前置きでも説明した「楠見荘」の構成が雑記と仮名本とで類似している点も指摘される(二本松2019;pp.154-155)。また二本松は一休宗純『自戒集』に見える「絵解き」の記述に関しても、仮名本に相当する場面を見出している。(三戸2020;p.30)も同様の指摘をしている。この辺りは大変興味深い。

つまり今我々が目にしている曽我物語のその成立と①「曽我語り」②「曽我記」③「原初的物語」との関係をどう考えるか、という問題なのである。福田は『吾妻鏡』には「曾我語り」が投影されているとした上で(平(2)328頁)、真名本のように広い展開を見せるものではないため客観的に事件を記した「曾我記」ともいうべきものを参照したのではないかとしている。

(坂井2014)は、吾妻鏡は①「曽我記」と②「真名本の原典となった原初的物語」の双方を取り入れているとしている。例えば『吾妻鏡』と真名本とで類似した文章表現・表現法があることに着目し、「真名本と同じ原史料をもとにしたということを示唆するものであろう(坂井2014p.62)」としている。また『吾妻鏡』に唐突に出てくる「将軍」という表現の違和感から「「曽我記」は頼朝のことを「将軍」と称しており、〈山神・矢口祭〉に「将軍という表現が出てくるのも、『吾妻鏡』がこれを原史料として用いたためと考えることができる(坂井2014;p.84)」としている。

また曽我物の成立に関しても、「曽我物語の成立後」とするか否かで大きく分かれている。少なくとも幸若舞曲は曽我物語成立以後という見解で一致している。能に関しては仮名本に先行する可能性も指摘され注目されるところではあるが(佐藤2009)、大胆な推察とも言える段階にあり、慎重論も聞かれるところである(伊海2015;pp.109-111)。

<伊出>
これは真名本特有であり、また真名本は「往藤内」表記であることも特徴である。

井出
仮名本に多い。仮名本系統は多く流布されたので、最もよく見る表記である。

<藺手>
『富士野往来』や『運歩色葉集』"のみ"にしか見えないといって良いように思える。

<井手>
「井手」については能「伏木曽我」と「流布本(12巻本)」に見られる表記である。(井畔1972)は伏木曽我の原拠を流布本(仮名本のうち12巻本は「流布本」とも呼称されその一群)の巻十二「井手の屋形の跡見し事」に求めている。伏木曽我は現在能ではなく夢幻能であり、曽我物では珍しいとされる。

堤>
後述する。

  • 「富士野」考
吾妻鏡の「伊堤」(いで)は、上記のように富士の巻狩の部分に見えるわけではない。この点を論ずると一見脱線してしまうようにも思えるが、実は極めて重要ではないかと思うのである。この「イデ」は

梟彼頸於富士野伊堤(いで)之辺云々(治承4年(1180)10月14日条

と見える部分に確認される。つまり「イデ」は「富士野」の地名なのである。また前日の13日条にも富士野は確認され、

十三日壬辰(中略)甲斐国源氏幷北条殿父子、赴駿河国。今日暮兮止宿大石駅云々。戌尅、駿河目代以長田入道之計、廻富士野襲来之由有其告。

とある。13日に甲斐源氏と北条時政・義時が「大石駅」に到着したが、平家方の駿河目代「橘遠茂」の軍勢が富士野を廻って攻めてくるとの知らせが届いていたことを示している。この襲来で生じた戦いが「鉢田の戦い」であり、諸家により場所が議論されている。

実は従来、この合戦は「朝霧高原」辺りで行われたと解釈されることが多かった(杉橋1988)等。しかし近年は甲斐国とする風潮が強い(海老沼2015)。しかし意外にも「富士野」の方から考えているものが少ないので、そこから考えていきたいと思う。

まず「大石駅」であるが、この場所も議論の的であった。富士山麓に「大石」の地名が甲斐国側にも駿河国側にも存在するためである。しかし13日に甲斐源氏らは大石駅に到着しているわけであり、ここを駿河国の大石(大石ヶ原=富士宮市上条)としてしまうと、「富士野を廻って」という説明は成り立たないのである。何故なら、既に自身らが富士野周辺(しかも大石ヶ原は上井出より下である)に居るのに「敵が富士野を廻って襲ってくる」と言っていることになってしまうためである。なのでここでいう大石駅が「大石ヶ原=富士宮市上条」ではないことは明らかなのである。

また『信長公記』に「富士のねかた かみのが原 井出野」とあり神野が井出野に隣接することが明らかなのであるが、上井出は駿河国の国境に近いので、上井出を過ぎると甲斐国に至る。まさしく「県境を跨いだ移動」である。吾妻鏡の「廻富士野」は「≒富士野を通って」と解釈できるものであるが、仮に知らせ通りに富士野を廻って襲来してきた場合、その場所は甲斐国である可能性が高いと思われるのである。

したがって「廻富士野」の部分こそ重視すべきではないかと思える。

「富士野」が『吾妻鏡』における「富士の巻狩」ではない箇所でも記述が認められるという事実そのものが重要であり、『信長公記』等の記述と『吾妻鏡』の記述を合わせて考えても齟齬がないと言える。富士野は上井出から朝霧高原一帯を指すと考えられる

このページでは主に富士郡と関係する部分について取り上げたが、同事件を調べるにあたりとても奇妙な現象に気づいたので記しておこうと思う。同事件は吾妻鏡や曽我物語から分かるように「富士野」で起こったことであるが、ネットで検索してもあまり出てこない。多くの史料・資料に地名としての「富士野」の名は見え、それこそ"勝計すべからず"という状況であるのに、これは大変不思議であると言わざるを得ない。曽我物語中にて頻出する地名を挙げる場合、間違いなく富士野は上位であると思われる。江戸時代には「富士野往来」が教科書として用いられ、多くの「曽我物」でも登場する事実からも分かるように"富士野"の名は歴史の中で生き続けた。「富士野」というキーワードが消えていくのはとても由々しき事態だと思われるのである。そのために同事件が何処で発生したものなのかという極めて初歩的な部分が全く認識されていないように思われるのである。

  • おわりに
本来はもう少し取り上げたい事項もあったが、時間の関係もあり除外した。地名からの観点に関しては、ある程度言及できたのではないかと考えている。

地名と言えば、「鷹岡」については深慮が必要である。特に上のHPのような書き方が望ましいのかという点は、最低限考えなければならないと思うのである。また幸若舞曲にあるその点「(ほぼ)ひとつだけ」を取って定説であるかのようにして良いのだろうかという点も考えなければならない。わずかな例外同士を貼り付けて説明するのは、極めて危険である。

少し考えてみる。「曽我記」や「原初的物語」があって、二次的に吾妻鏡の記述に影響を与え、また曽我物語が成立したとする。能は別としてもやはり幸若舞曲はこれより時代が下ると考えられる。また更にこの幸若舞曲を題材として絵図が作成されるようになる。この間の隔たりは相当なものであることは言うまでもない。でもこれら材料のうち大胆な作為的取捨選択をし、あちらこちらを捻じ曲げて文章を拵えると、不思議なことに上のような産物が生まれるのである。しかしそれで良いのだろうかという疑念は拭えない。有り体に言えば、市HPの曽我物語の解説は事実誤認であり、また事件の解釈上五郎を「鷹が岡で処刑された」とする論者も1人も居ないと思うので、とても参考になるようなものではないと言える。

実は曽我物語には「かぐや姫説話」が挿入されている(平(2)99-103頁)。時間の関係上解説は省いたが、この部分は「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照頂きたいと思う。とにかく今年は鎌倉時代に注目が集まる年になりそうです。

※急ぎ書き上げた故、中途半端となっている点はご了承下さい
※1月9日にもう1つ記事を投稿しますが、休みの方針は基本的には変わりません。内容は「大河ドラマの主人公で富士宮市に来た人物」といったものを予定しています。

  • 曽我兄弟の敵討ちを調べるにあたって(追記)

以下に「参考文献一覧」を掲載する。あくまでも当記事に関わる文献を掲載したものとなっており、参照した文献は他にも多数ある。その過程で生まれた所見を、備忘録として少しばかり書いてみようと思う。

曽我物語に対する距離感を縮めるという意味で最も好例なものは「14」(うち「曾我物語の世界」)であり、次いで「2」「3」「5」「6」「11」「28」あたりが入りやすい。「14」でも難しく感じた場合、同氏の講演会を文字起こしした「曾我物語の歴史的背景」(『静岡県史研究』第7号,1995年に所収)が良い。そしてもう少し対象を広げて“手にとるべき文献とした場合は前掲のものを含めて「1」「2」「4」「5」「6」「7」「11」辺りが該当すると思う。そしてお供として「8」「9」「10」があることが望ましい。購入するのであればこの3冊であろう。汎用性が極めて高い。

これらの中で「真名本を理解する」「仮名本を理解する」という意味でそれぞれ1つずつ選ぶとする。その場合個人的には前者は福田晃(2004)『曽我物語の成立』で後者は村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代』となってくる。これらは現在も通じる良書である。「1」はもちろん参照すべき文献ではあるものの、諸本の分類に多くを割いており、読破にはかなりの時間を要すると容易に推察される。むしろ同書で参考とすべきは末尾の方にある「付篇・付章」(1207-1299頁)であり、分類に関しては同氏の「3」でも十分かと思う。分類は勿論重要であるが、曽我物語の一側面でしかないことも事実である。

曽我物語は本地物としての性格もあるが、それに従い「①鎌倉近郊」「②伊豆・箱根・三島」③「富士」と分けたとする。そうした場合、以下の参考文献を振り分けると①は「24」「25」「30」②は「22」「23」③は「6」「7」「44」が該当する。一般書とされるものでもこのうち①-③を網羅しているものは少ない。例えば「5」は③に関して殆ど言及されていない(比較的対象が限局している)。全頁読んでみたが、氏は専ら「史実か史実でないか」に関心があったようである。なので、どれか一冊読めば良いという性質のものではないと思われる。これを補完するためにジャーナル類等を参照する必要性が生じてくる。個人的には新村(20152016)がとても参考になった。同氏の博士学位論文はWeb上でも公開されている。

富士の巻狩を理解する場合、「14」と"木村茂光『初期鎌倉政権の政治史』,2011年(第六章 富士巻狩りの政治史)"がとても参考になる。あとは「おわりに」で言及した点に留意して頂くことが重要かと思う。注意しないと、一向に理解が進まなくなってしまう。

この追記が皆さんが曽我物語を調べる上での一助になれば幸いである。特に「おわりに」の部分は救われる人も出てくるかもしれない。曾我物語の諸本が数多くある中、存在しない記述を探し続けるのは苦痛でしかない。仇討ち事件を検索する人が増えている昨今、折角調べる所まで漕ぎ着けたのに裏切られ、これら一切を辞めてしまうようなことが無ければと思っています。


  • 参考文献
  1. 村上學(1984)『曽我物語の基礎的研究-本文研究を中心として-』,風間書房
  2. 村上學(1990)「語り物の諸相-『曾我物語』『義経記』と幸若舞曲など」,『日本文学新史〈中世〉』,至文堂
  3. 村上學(2003)「曽我物語の諸本」,『曽我物語の作品宇宙』,至文堂
  4. 福田晃(2004)『曽我物語の成立』,三弥井書店
  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  6. 二本松康宏(2009)『曽我物語の基層と風土』,三弥井書店
  7. 会田実(2004)『『曽我物語』-その表象と再生-』,笠間書院
  8. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987(平(1)〇〇頁で記す)
  9. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988(平(2)〇〇頁で記す)
  10. 村上美登志(1999)『太山寺本曽我物語』,和泉書院(太〇〇頁で記す)
  11. 村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』,和泉書院
  12. 福田編(2004)『幸若舞曲研究別巻』,三弥井書店
  13. 麻原美子・佐竹昭広(1994)『舞の本』(新日本古典文学大系 59),岩波書店
  14. 石井進(1974)『中世武士団』(1974年,小学館「日本の歴史」12巻)
  15. 山岸・中田編(1974)『真名本曽我物語』,勉誠社
  16. 濱口博幸(1998)『太山寺本曽我物語』,汲古書院
  17. 木村茂光(2018)「頼朝政権と甲斐源氏」,『武田氏研究』58号
  18. 海老沼真治(2015)「甲斐源氏の軍事行動と交通路」,『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,戎光祥出版
  19. 富士川・佐野編(1992)『紀行日本漢詩(第3巻)』,汲古書院
  20. 板坂耀子(1991)『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) ,国書刊行会
  21. 湯城吉信(2011)「『東征稿』に見る中井竹山の江戸行」,『大阪府立大学工業高等専門学校研究紀要』 45巻 
  22. 阿部美香(2007)「霊山に参る女人 二所の縁起と真名本『曽我物語』の世界から」,『昭和女子大学文化史研究』第11号,昭和女子大学文化史学会
  23. 阿部美香(2003)「曽我兄弟の母」,『曽我物語の作品宇宙』,至文堂
  24. 新村衣里子(2016)「曽我と虎御前 ─人物移動と場の特性を手がかりに─」,『成蹊國文』 第49号
  25. 新村衣里子(2015)「「トラ・寅・虎」の多様性 -『曽我物語』の虎御前に関する一考察」,『成蹊国文』48号
  26. 柳田國男(1981)「曽我兄弟の墳墓」,『定本柳田国男集』第5巻,筑摩書房
  27. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」,『語文論叢35号』
  28. 木澤景(2019)「『曽我物語』の敵討 : 〈死者との関係の回復〉の物語」,『国士館哲学』 23号
  29. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  30. 大川信子(1997)「『曽我物語』の文芸世界-頼朝譚とのかかわり-」,『曽我・義経記の世界』,汲古書院
  31. 二本松康宏(2011)「『曾我物語』と鷹狩─畠山重忠の鷹談義をめぐって─」,『中世の軍記物語と歴史叙述』
  32. 二本松康宏(2019)「『曾我物語』はどのように語られたか」,『古典文学の常識を疑うⅡ―縦・横・斜めから書きかえる文学史―』,勉誠出版
  33. 稲葉二柄(1997)「『曽我物語』の文芸世界-仇討物語としての構造-」,『曽我・義経記の世界』,汲古書院
  34. 泉万里(2006)「曽我物語、源平合戦屏風絵等について」,『渡辺美術館所蔵品調査報告書』
  35. 小井土守敏(2001)「『曾我物語』における源頼朝について-真名本と仮名本の相違・その主題-」,『文芸言語研究 文芸篇』39号
  36. 相澤正彦(2008)「土佐光吉と大画面絵画」,『美術研究』394号
  37. 井戸美里(2015)「幸若舞曲の絵画化と受容空間に関する一考察 : 「曽我物語図屏風」を例として」,『美学』66号
  38. 三澤裕子(1989)「幸若舞曲の構造と人物」『中世文学』34巻
  39. 近藤安太郎(1989)『系図研究の基礎知識 第1巻 序章・古代・中世1』,近藤出版社
  40. 三戸信惠(2020)「曾我物語図屛風に関する一考察―新出本と渡辺美術館本を中心に―」,『國華 第1496号 第125編 第11冊』
  41. 水谷亘(1992)「真名本『曾我物語』の狩場についての一考察」,『同志社国文学』36号
  42. 田川邦子(1994)「真名本 『曽我物語』 の頼朝像」,『文藝論叢』 30号
  43. 伊海孝充(2015)「「曾我虎」から曾我物・曾我伝承の展開を考える」,『能と狂言』13号
  44. 佐藤和道(2009)「曽我伝承に基づく能--『曽我物語』との関係を中心に」,『軍記と語り物』45
  45. 渡井一信(2018)「富士山西南麓における曽我八幡宮と縁起」,『富士学研究』15号
  46. 富士市(2017)『富士市の歴史文化探訪 曽我伝説』
  47. 梶川貴子(2008)「得宗被官南条氏の基礎的研究-歴史学的見地からの系図復元の試み-」,『創価大学大学院紀要』30巻
  48. 梶川貴子(2010)「南条氏所領の再検討」,『東洋哲学研究所紀要』26号
  49. 梶川貴子(2011)「南条氏所領における相論」,『東洋哲学研究所紀要』27号
  50. 菊池邦彦(2012)「富士山東泉院を訪れた人々」,『六所家総合調査だより 第11号』
  51. 井畔武明(1972)「謡曲伏木曽我の作者について」『防衛大学校紀要. 人文・社会科学編』24号
  52. 西川広平(2015)「世界遺産富士山「巡礼路の特定」に関する作業報告,『山梨県立博物館研究紀要』9号
  53. 杉橋隆夫(1988)「富士川合戦の前提--甲駿路「鉢田」合戦考」,『立命館文學』509号
  54. 中川博夫(2019)「『中書王御詠』注釈稿(4)」,『鶴見大学紀要』第1部(56)
  55. 富士市立博物館(1988)『加島 米と水 ~富士川下流の米づくり~』
  56. 静岡近代文学研究会(2004)『静岡近代文学』 19号