2022年6月12日日曜日

曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える

※やや難しい内容がありますので、下部の「曽我荘」の箇所まで飛ばして読まれても良いかも知れません。「曽我荘」の箇所は分かりやすいです。

「曽我兄弟の仇討ち」を考える際、「史実性」は大きな壁として立ちふさがる。



時代考証を担当する坂井氏が著書『曽我物語の史的研究』で


「真名本」のエピソードを鵜呑みにしてその歴史像を描くことには問題があるとしなければならない。とは言うものの、「真名本」の叙述がすべて唱導のための虚構、単なる説話であるとみなすこともまた危険である。何かしらの史実が反映されている可能性もあるからである。(坂井2014;pp.257-258)


と述べているように、古態を示すとされる真名本『曽我物語』(以下、真名本)であっても、その記述をそのまま「真」として受け入れることは出来ないのである。「五郎尋問」の場面については以下のように説明する。


「敵討ちの物語」のクライマックスを締めくくるにふさわしい見事な叙述である。とは言え、細部にはあえて感動を盛り上げるため、あるいは作品の構想を強調しようとする余りに生じた不自然さ・論理的矛盾を指摘することもできる。たとえば、九歳になる祐経の遺児犬房の登場である。(中略)わずか九歳の少年がこうした大事件の尋問の場に伺候を許されたとは考えにくい。(坂井2014;p.45)


そもそも、巻狩の場に9歳の少年が居ること自体が不自然かもしれない。9歳の少年にいったい何が出来るというのであろうか。また『曽我物語』には、兄弟以外に童は殆ど出て来ないのである。ましてや、巻狩の描写の中で童が出てくるのは犬房丸ただ1人である。おそらく、本当は犬房丸は居なかったのであろう。ただ真名本は、死罪の決定自体は犬房丸によるものとはせず、あくまでも梶原景時の諫言によるとしている。

城前寺境内にある曽我兄弟像

仮名本『曽我物語』(以下、仮名本)に至っては、犬房丸が懇願したことで死罪となったとするなど、物語性は更に増している。仮名本はあまりに劇的展開に拠っており、更に「真」とは言い難い。その仮名本を典拠とする「幸若舞」であれば尚更である。

一方で以下のように言及する場面も見られる。


無論、「真名本」は文学作品であり、その叙述には虚構や誇張などが含まれている。しかし、解釈の仕方によっては文書類・記録類が欠如した時期の歴史像を考察するための貴重な史料となり得ることを、本章によって示すことができたと考える。(坂井2014;p.224)

このような「史実性」の部分については、曽我兄弟の仇討ちの地である富士宮市や、曾我荘が位置した小田原市も承知しているところであり、例えば『小田原市史』は以下のような文言が見られる。


たとえば曽我谷津の宗我神社の八幡神が曽我祐信の勧請したものであるとか、谷津から六本松に至る「曽我往還」の大きな宝篋印塔が曽我祐信の墓であるというのは、曽我兄弟の養父として『曾我物語』に出てくる曽我祐信に仮託された中世遺跡である。(中略)このように大事件や著名な人物に仮託しながら大切に中世遺跡を保存してきた先人の知恵を、そのままストレートに解釈するのは、かえって伝承を取るに足らない虚構にしてしまう危険がある。(中略)曽我兄弟の墓や曽我の傘焼祭などで有名な城前寺は、曽我地区ではもっとも多く曽我兄弟に関する遺跡や遺品を有する寺として有名である。しかしそれらの多くは江戸時代以降の「曽我物」の流行によって形成されてきたものと思われ、かえって城前寺の本来の姿を分かりにくいものにしている。


このような小田原市史の毅然とした態度を見ると「富士の巻狩での源頼家の初鹿獲りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」で挙げたような事例が恥ずかしくも思えて来る。「曲学阿世」という言葉は、まさにこのような時に用いるのだろう。この姿勢から学ぶべき部分は多いように思う。

曽我祐信宝篋印塔

ただ、すべてが仮託され形成されたものというわけでもないと思うのである。例えば坂井氏は曽我荘について以下のように述べる。


実際、事件後の共通記事には客観的に見て事実だったであろうと判断できそうな内容のものが多い。たとえば、頼朝が曽我荘の年貢を免除したという記事である。(中略)とすれば、この記事の史実としての蓋然性は高いといえよう。(中略)要するに、事件後の共通記事は人々が実際に目にし耳にし得た出来事であり、その内容も事実と極端な相違があったとは考えにくいのである。(坂井2014;p.133)


私も「曽我荘」の部分は史実であると考えている。また小田原市に現在残る伝承も、事件後のものは信憑性が高いように感じる。小田原市は史実性を多分に感じることが出来る地域ではないかと、私は強く思うのである。それは小田原市が、「曽我荘」が位置した地であるからに他ならない。

瑞雲寺境内

曽我荘は「曽我祐信」の所領であり、その祐信の元に「曽我兄弟の母」が後妻として迎えられている。そこで兄弟と曽我荘の関係が始まるわけである。その曽我祐信についてであるが、坂井氏は以下のように説明する。


まず『吾妻鏡』であるが、曽我祐信の名が見える記事は全部で16例ある。(中略)その初出から終出に至る15年間にほぼ4,5年おきの間隔で均等に分布している。(中略)祐信についてはそうした作品よりも、むしろ合戦や儀式の際の「合戦記」「随兵記」といった『吾妻鏡』編纂者が通常用いる原史料をそのまま活用したことによるものと考えられる。(坂井2014;pp.243-244)

とする。富士宮市から見た場合、富士宮市で仇討ちが発生したこと自体に異論はない。しかし「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にあるような「曽我の隠れ岩」といったものは伝説と考えなければならない。舞台台本の中(幸若舞「十番切」)でしか確認されない「五郎が鷹ヶ岡で処刑される」といった展開も、同じような部類に入るだろう。無論、学術的方面で「岩に隠れて討った」とか「鷹岡で処刑された」とする例は見ないのである。

では「何を史実性があると判断するか」という部分についてであるが、実は坂井氏の先の著作は、多くの紙面・エネルギーをその部分に割いているのである。なのでこの記事ではその部分について考えていきたい。同氏の「曽我兄弟の仇討ち」に関する解釈・仮説は(坂井2014;pp.160-164)に集約されているため、そちらも一読を勧めたい。


  • 坂井氏の分析方法

例として、いわゆる「十番切」の場面を引き合いに出してみる。


吾妻鏡真名本『曽我物語』 
1平子野平右馬允大楽弥平馬允
2愛甲三郎愛敬三郎
3吉香小次郎岡部五郎
4加藤太原三郎
5海野小太郎御所黒矢五
6岡邉弥三郎海野小太郎行氏
7原三郎加藤太郎
8堀藤太橘河小次郎
9臼杵八郎宇田五郎
10宇田五郎臼杵八郎


このように、十番切の場面は『吾妻鏡』と真名本『曽我物語』とで類似することが多くで指摘される。(坂井2014;p.61)でも指摘しているように、海野行氏を例外として実名を記していない点も共通する。叙述方法も似通っているのである。また東国の御家人が主体であった「富士の巻狩」に、鎮西(九州)の人物と思しき「臼杵八郎」が十番切に確認される特異性も指摘される(坂井2014;pp.134-136)。

これを見ると『吾妻鏡』と『曽我物語』は全体的に近しいものがあるようにも思えてくる。しかし坂井氏によれば、類似するのは十番切の場面を含めあくまで一部でしかないとする(坂井2014;p.128-131)。描写の志向性は十番切から五郎捕縛の場面が類似しているとしているが(坂井2014;pp.123-125・136)、この種の一致はむしろ例外的という解釈なのである。

まず曽我兄弟の仇討ちを記す史料は『吾妻鏡』と『曽我物語』があり、これらはそれぞれ「原史料」の存在が想定される。『吾妻鏡』は『曽我物語』のように全容を示すものではないが、だからといって『曽我物語』を要約したものでもない。むしろ富士野の狩りまで両者共通する記事は殆ど無いとする(坂井2014;p.120)。しかし富士野の狩り以降は、十番切がそうであったように共通性が認められる(坂井2014;pp.127-128)。坂井氏はここに"史料の取捨選択"を見ているのである。

次に矢口祭を例に出してみる。実はこの部分の記述が不自然に長い。


とくに〈山神・矢口祭〉の記事が長い。敵討ち当日の記事よりも長く、詳細なのである。これが『吾妻鏡』独自の記事であることを考えると、このあたりに『吾妻鏡』の原史料の一面を解明する鍵が潜んでいるようにも思われる。(坂井2014;p.57)


富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念」でも引用しているが、曾我祐信の三の口に対する頼朝の言葉として記される「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」の「将軍」という用例に坂井氏は注目している。

氏によると『吾妻鏡』ではそもそも「将軍」の用例が極めて少なく(坂井2014;p.81)、またこれら儀式の記述は真名本『曽我物語』にも確認されないため、この箇所は独立した別の史料(「曽我記」と仮称している)から引用したものではないかと推測している(坂井2014;pp.83-85)。また同場面の頼朝は人間的な描写であり、『吾妻鏡』の所謂「工藤景光の怪異」の場面では恐れから狩りの中止を提言するなど、やはり人間的な描写が見られる。これらの箇所も「曽我記」と言えるものを元としているのではないかとする(坂井2014;pp.86-87)。そして「曽我記」が重視するのは、「狩猟者」の「山神」に対する感謝・畏敬の念にあるとしている(坂井2014;p.90)。なので人間的な描写となっていると言っているのである。

一方で例えば『吾妻鏡』と『曽我物語』に見える「五郎元服」の記事は双方で類似性が認められるため、これらは共通した史料(「原初的な「曽我」の物語」と仮称している)が元であるとしている(坂井2014;pp.75-76)。これと同じ理論で、『吾妻鏡』と『曽我物語』に確認される「曽我の雨」の箇所が双方で類似性が認められるため、この箇所も「原初的な「曽我」の物語」を元としているとしている(坂井2014;pp.72-73・145)。

また真名本『曽我物語』に確認されず且つ実録的な記録(Aは〇〇をしたといった単調なもの)は、幕府に公式記録として残っていたものとしている(部類記と仮称している)。例えば『吾妻鏡』に見える、仇討ち後に十郎の検死を和田義盛と梶原景時が行ったと記す箇や(坂井2014;pp.60-63)、源頼家の初鹿狩りが該当するとしている(坂井2014;p.82)。

つまり坂井氏は下線で記した三種の史料の存在を想定しているのである。まとめると、以下のようになる。


  1. 幕府の実録的記録
  2. 真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」
  3. 「曽我記」(真名本にみられず、且つ幕府の実録的記録とも思われないもの)


坂井氏はこの三点が『吾妻鏡』編纂時に"存在"し、取捨選択して『吾妻鏡』の記事を作成したと言っているのである。『吾妻鏡』は「原初的な「曽我」の物語」を用いることに積極的ではなかったが(坂井2014;p.131)、仇討ち事件は意図的に隠されたために、真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」に拠らざるを得なかったのではないかとしている(坂井2014;pp.161-162)。この文章からも分かるように、坂井氏は「2」を史実性という意味では低く見積もっている。


しかし、史料としての価値、すなわち史実をどれほど正確に伝えているかという史料的価値については、あまり高い表かを与えることはできないということである。(中略)原初的な「曽我」の物語をもとに記されたと考えられる『吾妻鏡』の記事には、常に同様の疑いをもって接しなければならないということでもある(坂井2014;p.80)


このように、『吾妻鏡』編纂時における史料の取捨選択の中、"真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」"に拠ると想定される箇所は注意が必要であると述べている。一方で以
下のようにも述べる。

とすれば、そのような地頭御家人たちによって生み出され伝承されたと考えられる「曽我記」は、敵討ち事件の現場となった富士野の狩りについても、その本質的部分を思いのほか正確に伝えていると言えるのかも知れない。これこそ「曽我記」の史料的価値に他ならない。無論、そこに描かれたことが必ずしも史実であるとは限らない。創作・伝承の過程において、脚色や増補も行われたことであろう。しかし真名本の原史料となった「曽我」の物語に比べれば、武士社会の本質を伝えるものとして評価しべき点があるということである(坂井2014;pp.91-92) 

つまり「曽我記」にはある程度の史実性を見ているのである。

また「富士野の狩りまで両者共通する記事は殆ど無い」と上述したが、事件発生前は幕府の実録的記録や「曽我記」を用いたとしている。つまり富士野前は「原初的な「曽我」の物語」はあまり関与しないとしている(坂井2014;p.136)。そして事件当日は「原初的な「曽我」の物語」を用い、事件後の部分は事件発生前のように幕府の実録的記録や「曽我記」を用いたとしている。

坂井氏が想定する特徴を以下に表で記してみる。

特徴
幕府の実録的記録『吾妻鏡』編纂の基本史料
「原初的な「曽我」の物語」真名本『曽我物語』の原典となったと想定。頼朝を「鎌倉殿」と称する
「曽我記」真名本にみられず、且つ幕府の実録的記録とも思われないもの。頼朝を「将軍」と称する

『保暦間記』には曽我兄弟の敵討ちが記される。そこでは頼朝は「将軍」と称されている。そして『保暦間記』には「是ヲ曽我物語ト申ス」と記す箇所があるため、『保暦間記』が記された当時既に「曽我物語」が存在し、しかもそこから引用されているこということが分かるのである。これは大変重要な事実である。そして坂井氏は「将軍」とあることから「曽我記」(ないしそれを組み入れた『曽我物語』)との近似性を示唆している(坂井2014;pp.85-86)。

だとすれば、『保暦間記』に「井出の屋形」が登場することは見過ごせない事実である。真名本の「十番切」のシーンには「伊出の屋形」が登場し、これは"「原初的な「曽我」の物語」"に拠る箇所と坂井氏は推定している。

一方で「曽我記」と近似性があるとする記録にも「井出の屋形」が登場するということになる。この仮定の場合、「曽我記」にも「原初的な「曽我」の物語」にも「伊出(井出)の屋形」が登場するというということになる。敵討ちの現場である「井出」にある「屋形」ということで「井出の屋形」なわけであるが、言葉が自然に一致したとは考えにくい。(坂井2014;p.131)にあるように"結果的に近似した内容になった"可能性もあるが、このような言葉の一致は偶然とはいえないはずである。

なのでこの分析方法は果たして正しいのか、と思わなくもない。しかし坂井氏は「「曽我記」から「真名本」へと説話が増補・充実されていく(坂井2014;p.257)」といった表現も用いているので、論考を記す中で考えが変わっている部分もあるのかもしれない。

  • 曽我荘

曽我兄弟は、母が曾我祐信と再婚したため曽我荘に移り住む。真名本では巻四・五が該当する。曽我荘で過ごした幼少期の話として「雁を見て兄弟が嘆く描写」がよく知られる(坂井2014;pp.33-34)。そして兄弟の死後も曾我荘に言及される場面は多い。

どのような背景があったにせよ、一応の身分がある人物が死した際に、その人物は埋葬される。しかも今回は源頼朝により「菩提を弔う」よう命令されている(坂井2014;pp.127-128)。丁重に葬られたことは間違いないと考えられる。そのため、「曽我荘」が位置した小田原市の伝承は、他とは一線を画すと思われる。"墓所"や"史跡"が無い方がおかしいのである。また真名本巻十には


知行の処も広からねば、当時は分けて取らする事もなし


とある。(坂井2014;p.284)にあるように、知行が狭く、継子である曽我兄弟に所領を与えることが出来なかったという意味となる。しかもこれは「曽我兄弟の仇討ち」後の祐信の言葉である。坂井氏は「史実の本質的な一面」と捉えている。

兄弟が他に拠り所とする場所がなかったことから、仇討ち後に兄弟を弔う"施設"なり"供養の場"が新たに曾我荘に設けられたと考えるのが妥当であろう。そのようなものは曾我荘には無いのだろうか。いや、存在するのである。

曽我兄弟は曽我荘の地に眠るはずであり、その地はいくつか指摘される。それらの中でも「お花畑」が注目される。

お花畑


お花畑と城前寺


赤のピンは「城前寺」であり、黒のピンが「お花畑」であるが、その地から骨壷が発掘されている。『小田原市史』から引用する。


館址を挟んで城前寺の反対側に「お花畑」と呼ばれている場所がある。『曾我物語』に宇佐美禅師が兄弟の首級を曽我の地に持参し、兄弟が幼い頃に遊んだ「花園」にそれを埋葬したという話が書かれていることから、地元ではこの「花園」がその場所ではないかといわれている。この場所は昔から入ってはいけないといい伝えがある実際にこの場所から昭和の初めに骨壷が発掘され、曽我兄弟のものではないかと話題になり、現在では兄弟の墓に埋葬されているそうである。やたらに踏みれてはならないといういい伝えといい、骨壷の発見といい、かつてこの場所に何か宗教施設が存在したことを連想させる。

『小田原市史』は「かつてこの場所に宗教施設が存在したことを連想させる」とあるが、前身が曽我兄弟を祀る施設ないし墓所である可能性は高く、また骨も曽我兄弟のものである可能性は高いと考えられる。場所から考えても蓋然性は高いのではないだろうか。

城前寺に関しては、『小田原市史』は以下のように評価する。

ところで城前寺という「城」は、城址の南側に「城横」という地名が残っているように、明らかに曽我館を指し、その前方に建つ寺ということである。その由来は、寺のいい伝えによれば稲荷山祐信院と称し、その成立は、曽我祐信が館の後方に建立したもので、兄弟の死後に宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために、城前寺の境内に祐信院を引いて、庵を結んだというものである。この伝承は曽我祐信が館の後方に稲荷山祐信院を建立したことと、『曾我物語』のなかで宇佐美禅師が兄弟の首級を曽我の里に持参して手厚く葬ったという話にちなんでつくられた伝承であると思われる。

小田原市史が指す箇所は、以下の部分である。

ここに宇佐美禅師とて、駿河の国平沢の山寺にぞありける、本は久能法師なり。この人共のためには従父なり。急ぎ富士野に尋ね入り、二人の死屍を葬送しつつ、骨をば頸に懸けて、6月3日には曽我の里へ入る

確かに、そのまま宇佐美禅師が関わるとは思えない。しかし実際に「富士野」と「曽我荘」を行き来した人物は居たのではないだろうか。宗教関係者は想定されてもおかしくはないはずである。

また「首」に関しては、曽我荘に持ち込まれた可能性はより高いと思われる。真名本には以下のようにある。

鎌倉殿富士野を出で給ひて、伊豆の国の住人に尾河三郎を召して、「汝はこの者共に縁ありと聞し食す。これらが首どもをば汝に預くるぞ。足高に入れて曽我の里へ送て葬送せさせよ」と仰せされければ、

こちらに関しては「頼朝の命」とある。これも実際に尾河三郎なる人物が曽我荘に送り届けたかどうかは分からないが、首が曽我荘に届けられた可能性は極めて高いと思われる

他にも曽我荘に関する地名が真名本には登場する。巻六の「十郎と虎の別れ」の場面では、富士野で巻狩を行うことを知った十郎がいよいよ覚悟を決め、虎との別れを決意する。曽我荘にて虎と一夜を共にし、虎が最後まで見送ったその場所は山彦山(六本松峠)であった(坂井2014;p.37)。地名に詳しい真名本の性質を感じ取れる部分である。

※ちなみに「富士野」という地名であるが、『吾妻鏡』には「富士の巻狩」以外の箇所(治承4年(1180)10月13日・14日条)でも確認されるため、当時存在した地名である。

六本松跡


仇討ちの舞台の地となった「富士宮市」と曽我兄弟が眠る地である「小田原市」。両者の繋がりを考えるのは興味深いものがある。

  • 参考文献
  1. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  2. 小田原市(1998),『小田原市史』通史編 原始 古代 中世

2022年6月5日日曜日

富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念

富士の巻狩での源頼家の初鹿狩りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」にて初狩りに伴う儀式として登場した矢口祭。この矢(口)祭の契機となる「初狩」をした人物は、将軍または執権となるような"将来を担うと想定される人物"に限局されている。そして矢口餅(十字餅)は三口まであり、その三者も当日その場で選ばれるという点で共通している。

以下に、『吾妻鏡』に見える富士山麓にて催された狩りの事例を一覧化した。


場所主催者特記事項
建久4年(1193)5月藍沢・富士野源頼朝源頼家の初鹿狩り・曾我兄弟の仇討ち
建仁3年(1203)6月富士野(人穴)源頼家人穴の調査(記述はこれのみ)
嘉禎3年(1237)7月藍沢北条経時経時の初鹿狩り
仁治2年(1241)9月藍沢北条経時経時が熊を射取る


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子

上のうち、矢口祭は下線(①「建久4年(1193)5月」②「嘉禎3年(1237)7月」)のものと「③建久4年(1193)9月の北条泰時の初鹿狩り」の三例で認められるので、それらを考えていきたい。

  • (1)建久4年(1193)5月、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経・海野幸氏矢口餅を陪膳矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と「さて三の口はどのようにするのか」と述べ、曾我祐信を試すような物言いをする。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに対し頼朝は「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」と「"三の口は将軍が召し上がって下さい"と答えると思っていた」という旨を述べ「無念である」とまで言うのである(坂井2014;pp.82-84)。

実は曽我祐信が頼朝に認められるためには、2つのパターンが存在したと想定されるのである。それは

  1. 「三の口は将軍が召し上がって下さい」と源頼朝に矢口餅を勧める
  2. 祐信が独自の作法を取り入れる

の2点である。1は頼朝の発言から分かることであるが、2は「北条泰時の初狩りに伴う矢(口)祭」から分かるのである。そうすれば「無念」とは言われなかったのである。

  • (2)建久4年(1193)9月、北条泰時の初鹿狩りに伴う矢口祭

実は富士の巻狩の同年、北条義時も伊豆国で初狩りを経験している。『吾妻鏡』建久4年(1193)9月11日条には以下のようにある。

十一日 甲戌 江間殿の嫡男の童形、この間江間にありて、昨日参著す。去ぬる七日の卯の剋、伊豆国において、小鹿一頭を射獲たり。(中略)三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。小時あって、諏方の祝盛澄を召すに、殊に遅参す。(中略)およそ十字を含むの體、三口の禮に及びて、おのおの伝え用いるところ、皆差別あり。珍重の由、御感の仰せを蒙る。その後勸盃數献と云々。

以下に、儀式の流れを表化して示す。

儀式の手順人物内容
北条義時矢口餅を準備(このとき頼朝と足利義兼・山名義範以下数人が列した)
十字餅を供える
小山朝政十字餅の一の口。源頼朝の前で蹲踞して三度食べる。一口目は矢叫を発したが、二口三口目は発さず
三浦義連十字餅の二の口。三度食べる。毎度矢叫びを発する。
諏訪盛澄十字餅の三の口。この人選を頼朝は深く悩んだ上で召したが、盛澄は遅参した。三度食べ、矢叫びは行わず
数献盃を重ねる

十字餅は、「富士の巻狩」の場合と同様のものであろう。しかし今回も頼朝は④の三の口の時だけに限って何か思うところがあるような行動を取っているのである。富士の巻狩の際は「三口の事は何様たるべきやてへれば」と試し、北条泰時の初鹿狩りの際は「三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。」と三の口の人選のみ深く悩んでいる。

そして深慮した結果召した「諏訪盛澄」は遅参したというのに、最終的には「それぞれ作法が異なる」と感心しているのである。頼朝にとって遅参は大きな問題ではなかったのである。また盛澄は三の口を頼朝に勧めることもしていない。結果論ではあるが、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭で曽我祐信は他の二人と趣を変える必要性があったのである。頼朝が言う「おのおの伝え用いるところ」の部分に意味があるのだとは思うが、なぜ異なることが頼朝にとって良しとされるのかは定かではない。少なくとも、源頼家の初鹿狩りで覚えたような後味の悪さは、これら一連の記述からは感じられない。

ただ諏訪盛澄を召したのには、頼朝なりの理由があったように思うのである。というのも、源頼家の矢口祭と重なるものがあるからである。源頼家の矢口祭の三の口は「曾我祐信」であったが、祐信は当初頼朝に敵対し(石橋山の合戦で頼朝に敵対)、後に宥免された人物である。実は盛澄も似たような経緯を持つ人物なのである。

諏訪盛澄は長年在京していた人物であったという。しかし平家に属していたため、頼朝が挙兵する中でも関東への参向が遅れていたため、囚人となっていた。しかし彼を断罪することで「流鏑馬一流」が永久に廃されてしまうことを憂慮した頼朝が彼を召し出し、見事な射芸を披露したことで頼朝により「厚免」されたという背景がある(坂井2014;p.250)。

つまり矢口祭の「三の口」は、頼朝に一度は弓を引いた経歴を有する、または有事に自陣に参陣しなかった人物が選ばれていることになる。つまり「頼朝から試される立場の人間」ということになる。そして実際に試されているのであり、明らかに三の口の人選には理由があったと思われるのである。

  • (3)嘉禎3年(1237)7月、北条経時の初鹿狩り

鎌倉幕府の四代執権である北条経時も嘉禎3年(1237)7月に初鹿狩りを経験している。嘉禎3年(1237)7月25日条には以下のようにある。

廿五日 庚子 北条左親衛(註:北条経時)ひそかに藍沢に赴き、今日初めて鹿を獲たり。すなはち矢口餅を祭る。一口は三浦泰村、二口は小山長村、三口は下河辺行光と云々。

猟りの場所は藍沢である。そしてやはり「矢口祭」が記される。(五味ら2011:p.161)は「時頼」としているが、誤りであろう。

北条経時は仁治2年(1241)9月にも藍沢で狩りを行っている。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月14日条には以下のようにある。

十四日 己亥 北条左親衛(註:北条経時)が狩獲のために藍沢に行き向はる。若狹前司・小山五郎左衛門尉・駿河式部大夫・同五郎左衛門尉・下河辺左衛門尉・海野左衛門太郎等扈従す。また甲斐・信濃両国住人数輩、獲師等を相具し、渡御を待ちたてまつると云々。

そして22日に帰っているのである。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月22日条には以下のようにある。

廿二日 丁未 左親衛藍澤より帰らる。数日山野を踏み、熊・猪・鹿多くこれを獲たり。(以下略)


鎌倉時代、富士山麓では有力者により狩りが多く催されていたことが分かる

  • 参考文献
  1. 五味ら(2011)『現代語訳 吾妻鏡 10』,吉川弘文館
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2022年6月4日土曜日

富士の巻狩での源頼家の初鹿獲りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特

源頼家は、父「源頼朝」が行った「富士の巻狩」に参加している。 そして自身が二代将軍になった際も「富士の狩倉」に出かけており、再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである

それらは『吾妻鏡』に見えるので、具体的に記してみる。

  1. 建久4年(1193)5月8日 - 6月7日  源頼朝、「富士の巻狩」を行う(曽我兄弟の仇討ちが発生)
  2. 建仁3年(1203)6月3日 源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる。同4日に忠常は人穴から戻り、報告を行う。


以下では『吾妻鏡』の該当箇所を引用し、解説を附す。


【1】

八日癸酉 将軍家、為覧富士野藍澤夏狩、令赴駿河国給。

十五日 庚辰 藍澤御狩事終、入御富士野御旅舘。


このことから、5月8日に富士野・藍沢での夏狩を覧るため源頼朝は駿河国に入った。同15日には藍沢での狩りを終え、富士野の御旅館に入ったことが分かる。

ちなみに、静岡県御殿場市の広報等が誤って富士野藍沢の箇所を「富士山麓藍沢」と訳している例がある。

『広報ごてんば』No.1412


これは明確な誤りで、「富士野」「藍沢」はそれぞれ異なる富士山麓の地名になる。「藍沢御狩事終、入御富士野御旅館」とあることからも明らかで、『曽我物語』でも「富士野」と「藍沢」は明確に区別されている。例えば現代語訳等で「富士野・藍沢での…」ではなく「富士山麓藍沢での…」と訳すものも無いと思う。

「富士の巻狩」が行われたのは約1ヶ月間である(5月8日から6月7日)。しかし『吾妻鏡』によると、藍澤に居たのは5月15日までと短期であることが分かる。つまりそこから先は「藍沢」から舞台を移し「富士野」となる。御殿場市的にはこれが面白くない。なのでこんなに苦しい解釈を、編集者は(おそらく)理解しつつも意図的にしているわけである。しかしあくまでも広報であり、「文化課」等クレジットされているものではない。

実は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にあるように富士市が「弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました」とか「仇討ち後の鎌倉への護送中に討ち取る」としているのも、同じ性質のものである。図(「曽我兄弟をめぐる人間関係図」)は明らかに『曽我物語』に沿った解説であるが、ただ1つ「五郎の処刑」の部分に限っては曽我物語にそのような展開は一切無いわけである。実際は『曽我物語』だけでスマートに説明を完結できますが(処刑部分も『曽我物語』は記しています)、そうすると富士市は出て来ないことになってしまう。これがやはり富士市的には面白くないわけである。なのでここだけは『吾妻鏡』や『曽我物語』に拠らず、ひっそりと置き換えるわけです。読んでいる人はそんなことは分かりません。広報等は分かりやすいように感じられるものの、実際には理解を複雑にしているだけなのです。「富士の巻狩」に話を戻します。

十六日 辛巳 富士野御狩之間、 将軍家督若君始令射鹿給(中略)属晩於其所被祭山神矢口等。江間殿令献餅給、此餅三色也。(中略)将軍家并若公敷御行騰於篠上令座給(中略)。可然射手三人被召出之賜二矢口餅。所謂一口工藤庄司景光、二口愛甲三郎季隆、三口曽我太郎祐信等也(中略)。次召出祐信、仰云、 一・二口撰殊射手賜之。三口事可為何様哉者。 祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式。 於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟。就其礼有興之様、 可有御計之旨、依思食儲、被仰含之処、無左右令二自由之条、頗無念之由被仰云々。

『吾妻鏡』によると、16日に源頼家が初めて鹿を射止めたという。またこれは愛甲季隆の補助によるものであったともある。この後はひたすら神事について記しているので、以下の表にまめておこうと思う。(坂井2014;p.57)にあるように、この箇所の記述は異様に詳細である。この一見退屈とも思える記述に、隠された意図があると指摘されることは多い。

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経海野幸氏矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

流れはこのような感じである。まず一見した特徴として「曽我兄弟の仇討ち」に関係する者が多いということが挙げられる(黒字)。(坂井2014;p.83)で指摘されるように、真名本『曽我物語』の登場人物と重なっているという言い方も出来るだろう。坂井氏はここに、物語的・説話的な文献の存在を見出している。一見退屈にも思えるこの一連の記述には、暗に示すものがあると思うのである。

【曽我兄弟の仇討ちで死去・負傷した人物(『吾妻鏡』、同場面の登場順)】
  • 工藤祐経
  • 王藤内
  • 平子有長
  • 愛甲季隆
  • 吉川友兼
  • 加藤光員
  • 海野幸氏
  • 岡辺弥三郎
  • 原清益
  • 堀藤太
  • 臼杵八郎
  • 宇田五郎

しかも頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と述べる。つまり「さて三の口はどのようにするのか」と曽我祐信を試すような物言いをするのである。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに頼朝は"「三の口は将軍が召し上がって下さい」と答えると思っていたのにそのまま食べたことは残念である"という旨の言葉を述べた。何となく、後味が悪いのである。 

この儀式に参加した者は討ち取られたり負傷したりした人物が多い。しかも上記のように頼朝にとって不満が残る結果となった。源頼家の初猟りにおける「ハレ」としての神事であるのに、実は「いわくつき」であったのである

廿二日 丁亥 若公令獲鹿給事、将軍家御自愛余、被差進梶原平二左衛門尉景高於鎌倉、令賀申御台所御方給。景高馳参、以女房申入之処、敢不及御感。御使還失面目。為武将之嫡嗣、獲原野之鹿鳥、強不足為希有。楚忽専使、頗有其煩歟者、景高帰参富士野、今日申此趣云々。

源頼朝は頼家の初鹿獲りを、梶原景高を鎌倉へ差し向けて北条政子に知らせた。しかし政子は「敢不及御感」と特に思うところはなかったとある。また「武将の嫡嗣が獲物を狩ったことは特に珍しいことでもない。そのようなことで使いを出すのは煩わしいことである」と呆れた様子を示している(坂井2014;p.56)。

もちろん初狩りの意義が政子には分からなかったとか、武士と御台所としての感覚の違いは挙げられるだろう。しかしここでは、使いが「梶原景高」であったことに着目したい。兄の梶原景季は矢口餅の陪膳役を務め、初鹿狩りの伝令役は弟の景高であったということになる。また(坂井2014;p.122)にあるように、真名本では景季は兄弟を殺すように命じられている。しかしこの両者は「梶原景時の変」であえなく死するのである。しかもそれだけではない。このうち「工藤景光」は5月27日に発病しているのである。そしてその翌日に「曾我兄弟の仇討ち」が起こるのである

であれば、この「源頼家の初鹿獲り」に関与した人物はかなりの確率で不幸な目に遭っているということになる。これでは「(不幸にならず残った)泰時が将来鎌倉を統べるべきである」と言っているかのようである。


源頼家


【2】

話を源頼家の「富士の狩倉」に移したい。同じく『吾妻鏡』の記述を見ていきたい。


三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

『文武ニ道万石通』より


まず「是浅間大菩薩御在所」とある箇所が重要であり、富士山信仰の一端を示すものとなっている。これが「古老」により語られたという記述が『吾妻鏡』に認められるということは、信仰が民衆に広まっていたと解釈しても問題ないものと考えられる。もちろん郎党が急死したという記述は真としては受け入れられないものの、編纂時の意識として違和感なく迎えられるものであったのである。

またここで「人穴」が登場することから、冒頭で述べたように「再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである」と明確に言えるのである。この「富士の狩倉」では藍沢に向かったかどうかは不明である。

(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである。

また仁田忠常も和田胤長もあまり良い最期とは言い難い結果となっている。『富士の人穴草子』では両者が富士の人穴を調査する構成となっており、まず最初に向かった胤長は途中で引き返し、次に調査に向かった忠常は奥まで進む。その後は『吾妻鏡』と似たような展開となり、最終的に中の様子を口外したことで死する展開となる。富士浅間大菩薩との契約を破ったわけである。諸本により展開にやや異なりを見せ、忠常の命が助かるパターンもある。江戸時代の滑稽本『文武ニ道万石通』にも題材として用いられている。

これらをまとめて考えると【1】の時点で頼家は将来に不穏な要素を既に感じさせつつ【2】で決定的な過ちを犯してしまったと言うことが出来るのである。「北条泰時が鎌倉を統べるべきであり、実際そうなった」という流れを、『吾妻鏡』の中に入れ込んでいるわけである。


  • 参考文献
  1. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  3. 御殿場市,『広報ごてんば』No.1412(2022年3月5日号)
  4. 富士市(2017)『富士市の歴史文化探訪 曽我伝説』

2022年6月3日金曜日

曽我物語のかぐや姫説話と富士浅間大菩薩、曽我五郎時致の解釈について

『曽我物語』は「かぐや姫説話」が取り入れられていることでも知られる(富士山のかぐや姫説話については「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照下さい)。

『曽我物語』は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にて記したように「本地物」としての性格もあるが、そのうちの「富士」はかぐや姫説話を引くことで説かれているのである。以下で、やや長くなるが真名本の該当箇所を引用してみる。


曽我五郎時致

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五郎、申しけるは、「心細く思し召すも理なり。あれも恋路の煙なれば、御心に類ひてこそ見え候らめ。あの富士の嶽の煙を恋路の煙と申し候ふ由緒は、昔富士の郡に老人の夫婦ありけるが、一人の孝子もなくして老い行く末を歎きける程に、後苑の竹の中に七つ八つばかりと打見えたる女子一人出で来れり。老人は二人ながら立ち出でて、これを見て、『汝はいづくの里より来たれる少き者ぞ。父母はあるか、兄弟はあるか、姉妹・親類はいづくにあるか』と尋ね問ひければ、かの少き者、打泣きて、『我には父母もなし、親類もなし。ただ忽然として富士山より下りたるなり。先世の時各々のために宿縁を残せし故に、その余報未だ尽きず。一人の孝子なき事を歎き給ふ間、その報恩のために来れり。各々我に恐るる事なか
れ』とぞ語りける。

その時二人の老人たちこの少き者を賞きく程に、その形斜めならず、芙蓉の眸気高くて、宿殖徳本の形、衆人愛敬の躰は天下に双びなき程の美人なり。かの少き者 、名をば赫屋姫とぞ申しける。家主の翁をば管竹の翁と号して、その嫗をばかさうの嫗と申す。 これら三人の者共は夜も昼も額を合せて営み養ひて過ぎ行く程に、この赫屋姫成人して十五歳と申しける秋のころ、駿河の国の国司、見国のために下られたりける折節、この赫屋姫の事を聞て、翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。 これに依て娘の赫屋姫と国司と夫婦の契有て、国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

かくて年月を送る程に、翁夫婦は一期の程は不足の念ひなくして、最後めでたく隠れ候ひぬ。 その後、中五年有りて、赫屋姫国司に会ひて語りけるは、『今は暇申して、自らは富士の山の仙宮に帰らむ。我はこれもとより仙女なり。かの菅竹の翁夫婦に過去の宿縁あるが故に、その恩を報ぜむがために且く仙宮より来れり。また御辺のためにも先世の夫婦の情を残せし故に、今また来りて夫婦となるなり。翁夫婦も自が宿縁尽きて、早や空しく死して別れぬ。童と君と余業の契も今は早や過ぎぬれば、本の仙宮へ返るなり。自ら恋しく思し食されん時は、この筥を取りつつ常に聞て見給ふべし』とて、その夜の暁方には舁消すやうに失せにけり。夜明くれば、国司は空しき床にただ独り留り居て、泣き悲しむ事限りもなし。かの仙女約束の如く、件の筥の蓋を開て見ければ、移る形も、来る事は遅くして、返る形は早ければ、なかなか肝を迷はす怨となれり。

かくて月日空しく過ぎ行けども、悲歎の闇路は晴れ遣らず。その時かの国司泣く泣く、独り留り居て、起きて思ふも口惜しく、臥して悲しむも堪へ難し。かの返魂香の筥をば腋に挍みつつ、富士の禅定に至りて四方を見亘せば、山の頂きに大なる池あり。その池の中に太多の嶋あり。嶋の中に宮殿楼閣に似たる巌石ども太多あり。中より件の赫屋姫は顕れ出でたり。その形人間の類にはあらず。玉の冠、錦の袂、天人の影向に異ならず。これを見てかの国司は悲しみに堪へずして、終にかの返魂香の筥を腋の下に懐きながら、その池に身を投げて失せにけり。その筥の内なる返魂香の煙こそ絶えずして今の世までも候ふなれ。

されば、この山は仙人所住の明山なれば、その麓において命を捨つるものならば、などか我らも仙人の眷属と成て、修羅闘諍の苦患をば免れざらむ。多く余業この世に残りたりとも、仙人値遇の結縁に依て富士の郡の御霊神とならざらむ。また我らが本意なれば、もとより報恩の合戦、謝徳の闘諍なれば、山神もなどか納受なかるべき。中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救ひ給はざらん。これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなりされば注万葉の歌には、
 唐衣過ぎにし春を顕して光さやけき身こそなりけれ

これは赫屋姫の、仙宮より来て翁夫婦の過去の厚恩を報ぜし事なり。

 紅の一本故を種として末摘花はあらはれにけり

これは国司の、仙女の契に依て神と顕れし事なり。かかるめでたき明山の麓において屍を曝しつつ、命をば富士浅間の大菩薩に奉り、名をば後代に留めて、和漢の両朝までも伝へん事こそ喜しけれ」と申しも了てざりければ涙の雑と浮べば、十郎これを見て、武き物封の心どもなれども、理を知れる折節は心細く覚えて、互ひに袖をぞ捶りける。十郎、

 我が身には悲しきことの絶えせねば今日を限りの袖ぞ露けき

五郎流るる涙を押へて、

 道すがら乾く間もなき袂かな今日を限りと思ふ涙に

と。

---

曽我十郎祐成(伏木曽我の場面)


(福田2016;pp.239-241)は以下のように説明する。

本書は右の『神道集』と深くかかわって成立したものであり、それは近似の文化圏に属した作品と推される。その先後を判ずることは容易ではないが、随処に『神道集』と通じる唱導的詞章が見られる。(中略)その詞章は、ほぼ同文に近く饒舌な傍線部分(註:上では引いていない)をはずすと、およそ『神道集』のそれになる。ただし国司が翁夫妻を召し寄せて「此の国の官吏」に任じ、「国務政道を管竹の翁が心に任せてけり」との叙述は、『神道集』には見えない。次の「富士山縁起」が問題となろう。最後の赫屋姫・国司の富士浅間大菩薩の応述示現の叙述は、『神道集』とほぼ一致しており、「男体・女体」を説くことも同じである。が、これもその祭祀の地を明らかにすることはない

『神道集』と対応する箇所が多いことは、従来から指摘される。福田は『神道集』に見えない箇所の存在も指摘する。それは

翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。(中略)国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

の箇所である。つまり国司は、翁を要職に就かせているのである。かぐや姫の云う「その報恩のために来れり」の「報恩」にあたると解釈できる。かぐや姫が来たことで翁の人生に変化が訪れたわけである。

このかぐや姫説話に対する五郎の解釈は独特である。五郎の論理では「仙人(天人、かぐや姫)がおわすような山の山麓で命を捨てればその後の苦難から逃れることができる」としているのである。これは兄弟が富士山麓の地で仇討ちをすることに対する理由の説明となっている。そして富士山麓で死することで「富士郡の御霊神となる」と高らかに述べているのである。

「報恩の合戦、謝徳の闘諍」であることを山神は受け入れてくれるとし、そしてその本地仏を「千手観音」としている。かぐや姫説話は「報恩譚」としての側面もあるため、報恩を説く『曽我物語』との相性は良かったのであろう。また唱導僧や浄土宗の僧侶の関与も指摘されるという(坂井2014;p.88)。

しかし富士の神、ここでは富士浅間大菩薩の本地仏を「千手観音」とする例は珍しい。やはり垂迹神は富士浅間大菩薩(または赫夜姫ないし木花開耶姫命)で本地仏は大日如来とするものが多いだろう。この点について(大川1998;p.44)は以下のように説明する。

『妙本寺本 曽我物語』の「真字本曽我物語・神道集同文一覧」によると「部分的には同文的な箇所も発見されるが、直接の伝承関係を思はせるものではない」とある。両者を比較して特に異なるのは、B(註:「されば、この山は仙人所住の明山なれば…」以後の部分)後半の富士浅間大菩薩の本地のくだりである。『神道集』では本地仏をいわない。本地仏を千手観音とする『曽我物語』の富士山に関する記述は、独自な面があるということになろう

『神道集』では国司が反魂箱を懐へ入れ、富士山頂の煙の立つ池に身を投げる。その両方の煙が絶えぬ様子から「不死の煙」と呼ばれ、それが「富士山」「富士郡」の「富士」にかけられ、転じて「富士の煙」となったとする。そして赫屋姫と国司は富士浅間大菩薩として示現し、これは「男体・女体御す」としている。富士浅間大菩薩は「男体」でもあり「女体」でもあるとしているわけである。

この示現および「男体・女体」の箇所は『曽我物語』でも引用されているが、一方でその直前の説明で本地仏についても言及しており、これは『神道集』では確認されないものである。

しかし『曽我物語』の場合、この箇所は「されば…」と由緒に対する五郎の解釈として語られる部分であるため、由緒の説明・引用は既に終えているという解釈も出来る。どちらにせよ、『曽我物語』の独自性を示すことには変わりはない。おそらく真名本『曽我物語』ないしその原典となった史料の成立当時の価値観が反映されたことによる結果と見てよいだろう。また(大川1998;p.46)は

真名本『曽我物語』の中で富士浅間大菩薩の用例を調べていくと不思議なことに気付く。登場人物の神仏祈願等にしばしば名があがるものに、二所(箱根権現・伊豆山権現)・三島大明神・富士浅間の大菩薩・足柄明神が上げられる。『曽我物語』の基盤ともいうべき土地の範囲が自ずと浮かんでくる神仏の列挙である。本稿で注目していきたいのは、富士浅間の大菩薩である。東洋文庫では、次のような注を付けている。

富士山の周囲にある多くの浅間社。木花咲耶姫命と男神(小異あり)を祀っている。ここでは特定の浅間社をさしていうのではなく、所々に顕現した浅間社をさし、それを本地垂迹の考え方から「菩薩」とよんだもの。

特定の神社を指すのではないという見方は、富士浅間の大菩薩についてのみ見える見解である。他の権現・明神ではそのようなことはない。(中略)ところが、富士浅間の大菩薩については、巻七の富士野へ向かう途次に十郎と五郎によって語られている。つまり、どこの浅間社においてということではないのである。したがって東洋文庫の注でもどこの浅間社であるのかが特定できないということであろう。

としている。これは(福田2016;p.241)の「これもその祭祀の地を明らかにすることはない」にも繋がって来るのであるが、富士浅間大菩薩はだいぶ拡大解釈が可能な神という印象を持たざるを得ない。

仁田四郎忠常が人穴を探索する様子。「曽我物語図屏風」等を筆頭とし、富士宮市域を題材とした大和絵等の作例は極めて多い


『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月4日条には以下のようにある。

四日。庚子。陰。巳尅。仁田四郎忠常出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮。不能廻踵。不意進行。又暗兮。令痛心神。主従各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顔。不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流。失拠于欲渡。只迷惑之外無他。爰当火光河向見奇特之間。郎従四人忽死亡。而忠常依彼霊之訓。投入恩賜御剱於件河。全命帰參云云。古老云。是浅間大菩薩御在所。往昔以降。敢不得見其所云云。今次第尤可恐乎云云。

意訳を以下に記す。


4日になると仁田忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、(頼家様より)賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。


源頼家は「富士の狩倉」に出かけた際、同地に存在する「人穴」(静岡県富士宮市)を仁田忠常に探索させた。上の4日条は、その人穴の探索より帰ってきた忠常の報告である。

まず「是浅間大菩薩御在所」とあり、人穴は浅間大菩薩の御在所であるとしている。単に"富士山信仰の一端を示す"と解釈してもよいが、そもそも仮に富士浅間大菩薩の御在所を想定する場合、本来なら浅間社ないし富士山体でなければおかしいと思うのである。しかし『吾妻鏡』は「穴の中」としている。富士山信仰の受容の広さと片付けて良いかもしれないが、やや不思議な印象を持たざるをえない。

そこで『曽我物語』に再び目を向けた時、そもそも同物語で想定されているのは「浅間社」ですらない可能性があるのではないだろうか。富士浅間大菩薩の示現の幅の広さが『吾妻鏡』で示されている以上、全くおかしなことではない。

「かぐや姫説話」の引用は『神道集』から行い、五郎の解釈の部分は「これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなり」以外の部分は別の材料から付加されたものと考えたい。『曽我物語』成立の中で次第に付加されていったものであると思われる。そして『曽我物語』がいう「富士浅間大菩薩」は、浅間社に示現したものとは想定していない可能性も考えたい。

  • 参考文献
  1. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  2. 大川信子(1998)「真名本『曽我物語』における久能と富士浅間大菩薩-梶原氏との関わりを通して」(『平成8年国文学年次別論文集 中世2』所収 平成10年 朋文出版)
  3. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987
  4. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988
  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2022年6月2日木曜日

富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時

「コトバンク」(オンライン事典)の「富士氏」の記事(出典:平凡社『世界大百科事典』第2版)は、以下のように説明している。 


古代より駿河国富士郡大領をつぐ土豪で,富士浅間神社の祠官。大宮司家に伝えられる系図によれば,和邇部臣(わにべのおみ)の後裔で8世紀末豊麻呂の代に初めて富士郡大領に任じたという。以後同郡郡司として在地に勢力を張り,浅間神社祠官の地位を得,京の公家にも接近して国司に任ぜられた。豊麻呂9代の孫道時は関白藤原道長の娘上東門院彰子の家の判官代(ほうがんだい)となっている。浅間神社大宮司・公文(くもん)・案主(あんず)などの地位を一族で占めるようになった富士氏は武士としても名をあげ,鎌倉御家人の地位を得て弓始(ゆみはじめ)の射手を務め,和田合戦(1213)では和田一族討手の一人として〈富士四郎〉が討死している。


これを見ると、大きく2つに分けられるように思う。


  1. 「古代より(中略)富士郡大領に任じたという(中略)以後同郡郡司として在地に勢力を張り(中略)浅判官代(ほうがんだい)となっている」
  2. 「浅間神社大宮司(中略)鎌倉御家人の地位を得て(中略)〈富士四郎〉が討死している」


この2つの内容について、それぞれ該当すると思われる出典についての検討と、それに対する私見を述べたいと思う。

<1>

古代より駿河国富士郡大領をつぐ土豪で,富士浅間神社の祠官。大宮司家に伝えられる系図によれば,和邇部臣(わにべのおみ)の後裔で8世紀末豊麻呂の代に初めて富士郡大領に任じたという。以後同郡郡司として在地に勢力を張り,浅間神社祠官の地位を得,京の公家にも接近して国司に任ぜられた。豊麻呂9代の孫道時は関白藤原道長の娘上東門院彰子の家の判官代(ほうがんだい)となっている。


富士氏の系図には大きく2つあり

  1. 【和邇氏系図】:『各家系譜』(中田憲信稿本、国立国会図書館蔵)所収。
  2. 【富士大宮司(和邇部臣)系図】

がある。まず、家祖とされる豊麻呂(豊麿)を中心として考えてみる。1の場合、宗人の子として「豊麻呂」が記される。宗人の細註に


神護景雲二年四月任駿河掾


等とあり、宗人は宿祢を賜っており、また駿河掾であったとする。一方2の場合、和邇部臣の「鳥」の後裔に「大石」がおり、更にその後裔として「豊麿」が記される。つまり宗人の子としては扱われてはいない。この「鳥」および兄弟として記される「忍勝」はそれぞれ『新撰姓氏録』に記される「和珥部臣鳥」「忍勝」と同一人物とされる(佐藤1996;p.27)。忍勝は近江国志賀郡真野村に居住していたと記されるが、後に「真野姓」を名乗ったという。

大石は1の系図にも名が見えるが、宗人の叔父に当たる人物として記され、また「君手」の子としている。大石が君手の子であることは『続日本紀』に記されるといい(佐藤1996;pp.27-31)、同記からの引用が指摘される(仁藤1998;p.38)
※ちなみに同論考(仁藤1998)で(田中1998)の引用が見られるが、田中氏が指摘したのは「富士大宮司(和邇部臣)系図」ではなく「和邇氏系図」の方であると思われる。

ではコトバンクの解説はどちらを基としているかと言われれば、「富士大宮司(和邇部臣)系図」(2)の方であろう。2は豊麿について「富士浅間大神祭祀」と細註を記すが、「浅間神社祠官の地位を得」はこの辺りを典拠としているように思われる。また「道時」については「郡司判官代」の細註がありこれを典拠としたと思われるが、"関白藤原道長の娘上東門院彰子の家"の部分は筆者の思い違いであろう。

ここからはもう少し広げて考えてみたい。まず1は孝昭天皇-天足彦国押人命と記した後に子として「押媛命」「和爾日子押人命」を記す。ここで「和爾」の名が見えることはまず注目される。(比護1988;p.105)によると、この「和爾日子押人命」は「和邇氏系図」にしか見られないという。また(田中1998;p.171)(佐伯1985;p.201)によると、更に後裔として記される「彦汝命」は他では『播磨国風土記』に確認されるという。また山背国愛宕郡の郡司を歴任していることも特徴として挙げられる。

また「大島臣」の系譜に「山上臣井代臣祖」「大倭国添県山辺郷」とあり、子である「健豆臣」の註に「山上朝臣祖」とあることから、山上氏の出自を示す史料として注目するものもある(佐伯1985;p.183)。これら独自性から1の系図の重要性が増していると言えるが、現在行方知らずである。記録として残された、偉大なる故・太田亮氏の功績は非常に大きいものがある。

2の系図で豊麿の孫である女子の細註に「駿河郡大領舎利(註:金刺)舎入道万呂妻」とあり、金刺舎入道万呂の妻となっていることが知られる。これは金刺氏と和邇部臣との婚約関係を示すことになるため注目するものもある(仁藤1992;p.34)(仁藤1998;pp.43-45)。とりあえず、和邇氏系図の出現を強く望みたい。

<2>

浅間神社大宮司・公文(くもん)・案主(あんず)などの地位を一族で占めるようになった富士氏は武士としても名をあげ,鎌倉御家人の地位を得て弓始(ゆみはじめ)の射手を務め,和田合戦(1213)では和田一族討手の一人として〈富士四郎〉が討死している。


この部分に関しては、『吾妻鏡』が典拠である。建暦3年(1213)5月6日条に


建暦三年五月二日・三日の合戦に討たれし人々の日記。

和田左衛門尉(中略)以上十三人

(中略)

一 御方の討たれし人々

(中略)富士四郎

(中略)以上五十人 


とある。これが「和田合戦(1213)では和田一族討手の一人として」の部分の典拠である。ここに御方(みかた、つまり北条氏側)として戦い討死した人物として「富士四郎」が記される。この富士四郎は他の史料に一切出て来ないので不詳である。

また「鎌倉御家人の地位を得て弓始(ゆみはじめ)の射手を務め」は弘長3年(1263)正月が典拠と思われる。弘長3年(1263)正月8日条に


前濱において御的の射手を撰ばる。左典厩所労によつて出仕せられず。十八人、十五度射をはりて退散すと云々

(中略)

三番 伊東與一 富士三郎五郎

四番 松岡左衛門四郎 平嶋彌五郎


とあり、射手の三番を務めている。また同12日条に


御弓始あり。射手十二人〈二十五度これを射る〉

(中略)

五番 松岡左衛門四郎時家  富士三郎五郎員時


とあり、富士三郎五郎の実名が「員時」であることが分かるのである。富士員時は正月8日の前濱の射手では伊東與一と共に三番を務め、12日の御弓始では松岡時家と共に五番を務めている。松岡時家は正月8日の前濱の射手では四番を務め、伊東與一は12日の御弓始では三番を務めている。

つまり面々は変わらず、組み合わせと順番が変えられていることになる。この意図は別箇調べる必要がある。『曽我物語』の「二十番の巻狩」でも二名ずつ射手が組まれている。


<『吾妻鏡』にみえる富士姓の人物>

人物
建暦3年(1213)5月6日条富士四郎
弘長3年(1263)正月8日条富士三郎五郎
同12日条富士三郎五郎員時


しかしこれら「富士」を姓とする人物が、富士大宮の富士氏に連なる存在と言えるのかは分からない。例えばこれら人物が駿河国と明記されているわけでもない。しかし「富士」を姓とする氏族は他に想定されないのも事実であり、また富士氏の系図を見るに「時」は通字であったことが分かるのである

コトバンクの記事にもある「道時」もそうであるし、以降度々「時」の名が確認される。また「道-信淸-信-棟-直世-直信」と世襲される中で「直信」の註に「鎌倉殿御代御自筆帯之」とある。この辺りの時代に、一族の中に「員時」が居たと考えることもできなくはない。

戦国時代にかけて通字は「信」に固定化されていくが(これも時代で変化していく)、古くは「時」であった。特に富士大宮司が「則-直-資-成-氏-直氏-政-忠-親」と世襲されている時代は明確である。この辺りともなると史料が充実してくる。

直時の註に「康永四年三月十日卒」とある。実際康永4年(1345)の譲状が残り、子である弥一丸に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲る約束をしている。直時の死去により、予定通り子である「弥一丸」に富士郡各地の所領が譲与されたのであろう。順当に継承がなされていたとすれば、弥一丸は「資時」であると考えられる。ただ史料が少ないので、推測でしかないのも事実である。

系図には「富士四郎」や「員時」は見えないが、今の所富士大宮の富士一族の人物であった可能性を考えるしかないように思う。(五味・本郷2009;p.325)で富士四郎を「駿河の武士」としているのも、そのためだろう。『富士の歴史』では、富士大宮の富士氏に連なる存在とは見ていないようである(井野邉1928;p.369)。


  • 参考文献

  1. 『浅間文書纂』
  2. 佐伯有清(1985)「山上憶良と栗田氏の同族」『日本古代氏族の研究 』,吉川弘文館
  3. 仁藤敦史(1998)「駿河郡周辺の古代氏族」『裾野市史研究』第10号
  4. 田中卓(1998),『壬申の乱とその前後』(田中卓著作集5),国書刊行会
  5. 比護隆界(1988),「氏族系譜の形成とその信憑性 : 駿河浅間神社所蔵『和邇氏系図』について」『日本古代史論輯』,おうふう
  6. 仁藤敦史(1992),「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』第4号
  7. 佐藤雅明(1996), 「古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-」『地方史静岡』第24号
  8. 五味文彦・本郷和人(2009),『現代語訳吾妻鏡』7巻,吉川弘文館 
  9. 井野邉茂雄(1928)『富士の歴史』,古今書院

2022年6月1日水曜日

静岡県富士宮市の市制施行80周年記念、富士郡大宮町時代から振り返る

静岡県富士宮市は、令和4年6月1日に市制施行80周年を迎えました。1942年(昭和17年)の市制施行から数えて80周年にあたります。



それを記念し、富士宮市の概観について記していきたいと思います。直感的で分かりやすい内容となっておりますので、是非御覧下さい。先ずは「80年前」に遡って考えてみましょう。

  • 市制施行当時の状況

富士宮市は、富士郡「大宮町(おおみやまち)」と富士郡「富丘村」が合併し市制を施行したことで誕生した市です。以下はその際の官報です。

『官報』


時代が古すぎて、未だ旧字体ですね。ここで重要なことは、富士郡で初の市制施行であったということです。つまり富士郡下では富士宮市は一抜けだったのです。例えば富士宮市誕生時、今泉はまだ「今泉村」でした。まだこの時代、村だらけだったわけです。富士宮市はその後市を編入しておりませんから、"市との合併を経験していない市"とも言えると思います。この辺りが、隣接する富士市と大きく異るところです。

大宮町は大きな街であり、当初より町政を施行している町は富士郡下では他に「吉原町」のみでした(「当初から町制を施行している町」(Wikipedia))。通常であれば、このような大きな規模の町がゆくゆくは市名となりそうなところですが、「吉原」は現在市名としては残らず、大宮町も結果「富士宮市」となりました(後述します)。こう考えてみると、当初より町であった名称は市名としては継続されなかった珍しい地域なんです、富士地区は。

(追記)富士宮市誕生時は未だ戦時中であり、3年後の1945年6月には「建物疎開」が行われているような時代です(同年8月14日が終戦日)。(齋藤2023;p.2049)によると、富士宮市は198戸が建物疎開の対象となったようです。(追記終わり)


地図にあるように大宮町は「おおみやまち」と言った

富士郡で明治時代以前より「富士」の名を冠していた自治体は「富士根村」のみで、近隣には他に庵原郡の「富士川町」、駿東郡に「富士岡村」がありました。ですから富士根村は、富士を冠した自治体としては"先輩"にあたります。時代の変化により比較的自由に地名をつける風潮が増え、大正を経て昭和に入ると、「富士」を冠する自治体が富士郡下で1つ増えます。

それは「加島村」が町制施行したことで成立した「富士町」です。つまり富士町というのは、「当初より町政を施行している町」ではないのです。旧富士市は「富士町」の系譜であるので、現在の「富士市」という名のルーツは、昭和4年(1929)の加島村の町制施行にあるんですね(加島村→富士町→富士市)

現在の富士市は基本的に「旧吉原市」と「旧富士市」が合併したことによります。実は合併当時、吉原市の方が富士市より人口は遥かに多かったです。合併の前年にちょうど国勢調査がありましたので、合併直前の人口はデータとして残っています。

自治体合併直前(1965年)の人口(『国勢調査』より)
吉原市90,224
富士市53,247人
鷹岡町16,101人

それでも、10万人を超える都市はまだ存在していませんでした。




1942年6月当時の静岡県の様子(黄色は「市」)


富士郡から一抜けした富士宮市ですが、次は吉原市でした。このとき吉原(市)も富士(町)も、まだ海と接していません。後の編入により面するようになったというわけです。ですから当時の吉原や富士の人に、「この地域の特徴は?」と聞いて「海」と答える人は居ないというわけですね。

  • 富士宮市旗・町章



皆さんもこの「富士宮市旗」を見たことがあると思います。この真ん中のマークは富士宮市のシンボルである市章です。市旗として使用する場合は"紺色の地に白色の市紋章を配する"(平成11年12月28日「富士宮市旗について」)と定められています。ここで市章のみ抜き出してみます。


そしてこの市章はよく見れば分かりますが、「富士山」(周り)と「宮」(真ん中)を模ったものになります。形は富士山を桜形にかたどっています。

この「宮」についてですが、「富士宮」の「宮」だと考えがちです。しかし実はそうではないのです。これは「大宮」の「宮」なのです

「市勢要覧2012」より

以下のように説明がなされています。

市紋章は、大宮町が昭和9年4月1日町章に制定したものを、昭和17年12月23日に市紋章として富士宮市が制定しました。中央は「宮」の字、周囲は富士山を桜形にかたどったものです。

つまり、大宮町章からの引き継ぎです。「宮」という文字が、この地では昔から大切にされてきたわけです。「宮」は神社を意味する言葉です。これが富士宮市のアイデンティティというわけですね。



これは、往古の大宮町の大社前の写真です。左手の建物に町章が確認できるのが分かると思います。同じく左手に橋が見えますが、その手前が、現在富士山本宮浅間大社前に位置する交番にあたります。

  • 周辺地域





合併当時の富士宮市を取り囲む自治体は、このような感じでした(富士郡以外の場合は郡名を附けています)。

  • 富士根村
  • 北山村
  • 上野村
  • 柚野村
  • 芝富村
  • 庵原郡松野村
  • 庵原郡富士川町
  • 岩松村
  • 鷹岡町

名称を聞けば、位置もなんとなく分かりますよね。上の黄色の自治体は「市」を指します。平たくいえば、この当時の「大きな街」です。「富士宮」の他には「静岡」「浜松」「沼津」「清水」「三島」「熱海」が該当します。終戦前に既に「市」であったのは、これら7市のみです。サッカーで言うところの「オリジナル10」みたいなものです。

公的資料や各種場面を見ると、富士宮市と富士市とでは富士宮市の名が先に記されることが圧倒的に多いと思います。例えばインターネットの手続き等で市町村を選択する場面でも、富士宮市が上であることが殆どです。それは「市になった順番」に拠るためです。もっと正確に言うと、市になった順番が早い方で、割り当てられている「全国地方公共団体コード」の数字がより若いです。その順番で記されるのです。なので、以下のようになります。


ちなみに「県」のコードは北(北海道)から若い番号が割り当てられているため、山梨県が先に記されます。

では「静岡県」「富士宮市」「富士市」ではどうでしょう。例えば合同防災訓練の際の正式名称は「静岡県・富士宮市・富士市総合防災訓練」でした。


ただ官公的な性質を持たない場合は、その限りではありません。また官公的な場合であっても、中の人がよく分かっていない例が散見されます。以下は、国土交通省の資料です。

国土交通省資料(富士山ナンバー交付対象予定地域

これは、正しい表記かとおもいます。以下は富士市のHPです。



普通は、こういう表記の仕方はしません。

以下は、富士宮市市制施行当時の吉原町を取り囲む自治体です。

  • 富士町
  • 田子浦村
  • 元吉原村
  • 今泉村
  • 大淵村
  • 鷹岡町
  • 岩松村

視野を広げていって「どの辺りから分からなくなるのか」というのも、人によって全く異なると思います。



富士宮市と富士市の両者を1つの方角で表した場合、富士宮市が「西」で富士市が「東」という関係です。たまに「富士市の北に位置するのが富士宮市」と言う方もいらっしゃいますが、どう考えても違うと思います。もし仮にそうであるとしたら、富士市は富士山と全く接していないということになってしまいます。両者の中心地の位置関係を見てもおかしいです。

また積雪しやすいのは明らかに富士市です。西の富士宮市と東の富士市で、「富士山」と「愛鷹山塊」の両者の影響を受ける富士市が、より下で積雪しやすい条件を満たしています(「富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地」を御参照下さい)。

富士市の市街地近郊の平均傾斜が高いことが分かる。(土2010)より

地図を見ると、簡単な話ですよね。



またこの画像は、大合併前の「旧吉原市」「旧富士市」「旧鷹岡町」が独立して存在した時代の地図です。地図を見れば分かるように、「富士山側にあるのが吉原市で富士山が無いのが富士市」です。ですから、富士地区(富士宮市・富士市一帯)の変移を最も簡単に説明すると、以下のような説明となります。

富士地区では最も早く市制施行した西の富士宮市と対する東の富士市があり、富士市は平たく言えば2つの大きな市が合併してできた街で、富士山側にあって人口が多かった「吉原市」と富士山側でない「富士市」とで成り立ちました。

様々な資料をこれまで見てきましたが、これが最も簡便な説明であると自負しています。

  • 市名の由来

富士宮市の市制施行当時は古い時代であったため、なんとあの「内務省」が存在していた時代だったのです。市制施行は「内務省告示」を経てなされました。以下は、内務省に提出された資料の内容です。



「富士宮市」という名称が、富士山本宮浅間大社の旧称から由来することは知られていると思います。それが明確に示された文書と言えます。


また富士宮市は、環富士山(富士山の周り)に位置する各"「富士」を冠する自治体"の中で、唯一既存の名称(固有名詞)からなる例です


〈各自治体の名称の背景〉
富士+河口湖=富士河口湖
富士+吉田=富士吉田市(旧南都留郡福知村→富士上吉田町→富士吉田市)
富士+[なし]=富士市
富士宮=富士宮市

富士宮市以外は、古来よりの地名に「富士」を附けたものが多いです。富士宮市は固有名詞を市名に充てています。平たくいえば、「フジノミヤ」という言葉自体はそれ以前より存在しており、その固有名詞を市名に充てたということです。新しく固有名詞を作ったと誤解している方も多いですが、そうではありません。古史料にも見られるコトバです。

市制施行当時はリアルタイムであったため、市名の由来などは知られていたことでしょう。しかしこういうものは、時代が進むと共に忘れられがちです。この市制施行80周年の機会に、是非振り返りたいものですね。

何故「大宮市」にできなかったのかといいますと、これには明確な理由があり、国の法律で「市名は既存の名称を指定することができない」という決まりがあります。富士宮市より一足早く、埼玉県の「大宮町」が市制施行していました。そのためこの条件に引っ掛かり、大宮市にはできなかったのです。しかし自治体名でも「町名」は別であり、そのような定めはありません。例えば「南部町」ですが、現在南部町は全国に4つ存在しています。山梨県・青森県・和歌山県・鳥取県それぞれにあります。山梨県の南部町は富士宮市に接していますよね。

そもそも「大宮」というのは「大きな神社がある」ということから由来しています。ですから、日本全国の、特に神社が位置する地域に同様のケースが多々確認できます。そうなんです、大字・小字を含め全国に「大宮町」は沢山あるのです(「都道府県市区町村」の「「○宮」コレクション」より「大宮町」)。その中でもいち早く市制施行を果たした埼玉の「大宮町」が「大宮市」になっていたため、2番手の静岡の「大宮町」は「大宮市」にできなかったんですね。

  • 富士宮市の位置づけと人口

富士宮市は、富士郡下では間違いなく「影響を及ぼしてきた側」であると思います。一例を挙げれば、「富士宮やきそば」がそうでしょう。

「カンブリア宮殿」放送回より

富士宮やきそばは「富士郡大宮町」で成立したとされています。この独自の食文化が土着し、ひいては周辺の村々へも伝播し、結果として現在「富士宮市域」のみならず「富士市域」にもこの食文化が定着しているわけです。

市制施行当時の様子を伺うに、『懐かしの富士宮』(羽衣出版)という本は参考になると思うのでオススメです。市制施行当時は、まだ吉原市も富士市も存在しておりません(多くで勘違いされているところです)。そういう時代にしか残っていなかったものもあるでしょう。それが何かを振り返る、いいきっかけかもしれません。

今現在でも行われている大規模な調査に「国勢調査」があります。そしてその初回は大正9年(1929)10月に行われています。国勢調査はあらゆる資料において根本的な出典として用いられる、大変重要な調査です。

その第1回国勢調査の記録が"日本国勢調査記念出版協会『日本国勢調査記念録 静岡県』"に残されています。今回はそれらを基に、当時の富士郡の人口について追求していきたいと思います。




見にくいため、以下で表にしてみました(※はその後の変移を大まかに記したもの)。
 

自治体世帯人口
大宮町3,54917,713
加島村1,3977,884
富士根村1,3217,002
鷹岡村1,3666,898
今泉村1,1866,542
田子浦村1,0996,478
北山村9545,005
富丘村9154,816
吉永村8404,745
岩松村7914,554
須津村7354,289
大淵村8004,225
芝富村9034,215
伝法村7784,135
元吉原村6853,987
柚野村7523,908
上野村7723,895
吉原町7333,784
上井出村6252,915
原田村8902,652
白糸村4301,947
島田村2641,419
※大宮町・富丘村→市制施行で富士宮市に
※芝富村→富士郡として最後まで残った芝川町の元来の中心地
※加島村→町制施行で富士町→市制施行で富士市に
※吉原町→市制施行で吉原市に

元は大宮町で人口が最大であったことは、案外知られていないように思います。そしてその後も人口は堅調に増加していたことが、内務省への提出文書からも読み取れます。

昭和16年(1941年)の調査(内務省への提出文書)では、大宮町の人口が「26,286人」、富丘村の人口が「5,497人」とあります。合計「31,783人」ですが、市制施行時(1942年)の人口は34,010人です。もうこの短期間でも増えているんですよね。

「市制要覧2012」より


このように市制施行を迎える頃の大宮町の人口密度を計算してみますと、1000人/km²を超えていることが分かります。では、その後の富士宮市の人口と他自治体はどのような関係だったのでしょうか。

富士市の推移(市HPより)

上で述べましたように、富士宮市誕生時(1942年)の人口は34,010人です。そして吉原市誕生時(1948年)の人口を見てみますと31,153人です。富士市の怒涛の合併劇と人口爆発でやがてこの関係は逆転していきます。そのタイミングは少し測るのが難しいです。合併で住所表記が頻繁に変わった人も居ると思います。例えば大淵村に居住している人は、1955年4月には「吉原市」と名乗り、1966年11月には「富士市」と名乗っているわけです。


富士宮市は大宮町という「町」と富丘村という「村」で成立した自治体です。それ以後「芝川町」を除けば「村」のみしか吸収合併していないので、それにしては人口が多いように感じます

上の国勢調査に記される自治体の人口密度で言えば、「吉原町」が抜きん出ていると思います。富士郡役所が置かれるのも納得です。富士郡役所が編纂・発行した「静岡県富士郡々治一覧表」(1893年)と「静岡県富士郡会沿革誌」(1923年)は、当時の富士郡を知る好例です。

富士郡役所

でもこの事実を踏まえて「交通」を考えてみますと、ちょっとおかしな現象が生じていることが分かるんですよね。以下で「富士宮市と交通」に入っていきましょう。

  • 富士宮市と交通

以下の表は"現在の富士市の主要駅を旧自治体と対応させたもの"になります。

施設旧自治体(町村制施行時)との対応
新富士駅田子の浦村
富士駅加島村
吉原駅元吉原村

あれれ…当初より町政を施行している町である「吉原町」の名が見えません。例えば富士宮市ですと「富士宮駅→大宮町」となりますよね。なので「〇〇駅→吉原町」となっていなければおかしいのです。他の市町もそのような関係に必然的になってくると思いますが、そうではない富士市は実は相当に特殊です。実はこの現象により、富士宮市にも大きな変化が出てきているのです。



遡って富士郡の交通について考えてみましょう。

出来事
明治22年(1889)富士馬車鉄道発足
大宮新道建設
明治23年(1890)富士馬車鉄道、鈴川-大宮間の営業開始
明治43年(1910)馬車鉄道、富士 - 長沢間の開業
明治45年(1912)富士身延鉄道発足
大正2年(1913)富士身延鉄道、富士-大宮間の開業

古い時代に目を向けてみますと、大宮町というところは吉原町との結びつきが強いことが分かります。もちろん吉原からみれば、大宮との結びつきが強かったということになります。その象徴が「中道往還」でしょう。

吉原町は「吉原宿」が位置した地です。しかし東海道の宿はかなり多く存在するので、それだけでは確実に埋もれてしまいます。しかし吉原宿は"中道往還の起点"でもあるはずです。東海道の宿は数多くあっても、(それ相応の)街道の起点としても位置づけられる宿となると限られてくると思います。吉原宿の凄さは「街道の起点である」ことにあると言えるわけですが、昔の人であれば当たり前に認識されていたであろうこの事実も、今では全く認識されていないように思います。少し寂しい話です。

明治時代に目を向けましても、富士郡において「大宮-吉原ルート」が中心であったことは疑いようのない事実だと思います。以下、「調査研究ノート№16(博物館だより№41より)20世紀写真のなかの富士Ⅲ─近代産業と交通─展」(富士山かぐや姫ミュージアムHP)より抜粋します。

明治22年2月、鈴川停車場(現JR吉原駅)が開設され、7月に東海道鉄道(今の東海道本線)新橋-神戸間が全通しました。 当地では入山瀬への富士製紙会社の建設に伴い、鈴川停車場から吉原を経て、入山瀬、大宮へ至る新しい交通ルート(大宮新道)と、それを軌道とする富士馬車鉄道が、明治23年開通しました。馬車鉄道とは物資の輸送はいうまでもなく、人々の交通手段としても大いに活用されました。

つまり明治期の富士郡の状況としては、大宮と吉原間は交通の要衝であり、普通この二地域間が主要流通網であったということが言えるのです。以下は、明治26年(1893)の富士郡役所の資料です。


富士郡役所「静岡県富士郡々治一覧表」より

「官衛」は現代でいう「行政施設・公共施設」ですが、そのような類は殆ど吉原と大宮にしかありませんでした。また富士地区における近代的製紙業発祥の地は間違くなく鷹岡の地だと思いますが、やはりこれも大宮-吉原ラインに該当します。

時代が下り、昭和初頭に目を向けてみます。内務省告示第516号(昭和11年)の「府縣道及地方費道ヲ指定スル件」の静岡県をみてみましょう。

八號 山梨縣南郡留郡瑞穂村ヨリ鈴川停車場二達スル道路
經過地
富士郡上井出村山梨縣界、北山村、大宮町、鷹岡町、吉原町、國道一號線  

県道の整備に関する内務省告示です。昭和11年(1936)のことですから、この当時町だったのは富士郡では「大宮」「鷹岡」「吉原」「富士」のみです。しかし「府縣道及地方費道ヲ指定スル件」に「富士町」は出てこないです。まだまだ大宮-吉原ラインが中心です。

この6年後に大宮町と富丘村が合併し、富士宮市が誕生します。この時代も「大宮-吉原」は移動の中心であったと言えると思います。

…しかしどうでしょう。実は明治時代の終わり頃から、既に変化の予兆が見えてきていたと言えませんでしょうか?



実は明治時代の終わり頃、大きな変化がありました。後の富士駅である「加島停車場」(以後富士駅とす)の開業です。明治42年(1909)に開業しています。明治43年(1910)には馬車鉄道が乗り入れ、大正時代には富士身延鉄道(後の身延線)が大宮町駅まで接続されました。

明治村50周年で「SL9号」復活へ 修理へ搬出(中日新聞Web版 2014年2月24日)
名古屋鉄道は博物館明治村(愛知県犬山市)で保管している蒸気機関車「SL9号」を復活させるため、24日、大阪市の修理工場に搬出した。明治村開村50周年の記念事業で、修理を経て来年3月に村内を走らせる。SL9号は1912(明治45)年に米ボールドウィン社が製造し、13年から富士身延鉄道(現JR身延線)の富士~大宮町(現富士宮)の間で運行された

記事にあるように、SLが走っていたのです。

大正時代の時刻表

これにより既存の形態が大きく変わってきています。『富士市景観形成基本計画』より引用します。

電動機の利用が普及すると、大型製紙工場は交通条件が良い東海道線沿いの平地に立地するようになりました。富士川扇状地の旧加島村に製紙工場(富士製紙第八工場)が立地し、それに合せて東海道線富士駅が開業、やがて駅前に市街地が整備され、この地域の中心地を築いてきました。

つまりこれは「旧加島村域」の大発展を述べているのですが、結果「大宮」と「加島」の地が鉄道にて結ばれることになりました。「吉原」ではなかったのです。つまりこの動向で、富士宮市の交通にも大きな変化が生じたと言えるわけです。

中世ないし近世より大宮と吉原は交通の要衝でありましたが(中道往還)、近代の過程でそれが崩れたわけです。有り体に言えば、大宮-吉原間に鉄道が敷かれなかったのは、歴史的背景から考えると意外であったと言えると思います。

長くなりましたが、富士郡大宮町時代から「宮・富士地区」の概観を見てみました。この記事が、皆様が宮・富士地区の経緯を知る一助になれば幸いと思います。

  • 参考文献
  1. 富士宮市史編纂委員会,『富士宮市史』下巻(1986年)
  2. 富士郡役所,「静岡県富士郡々治一覧表」(1893年)
  3. 富士郡役所,「静岡県富士郡会沿革誌」(1923年)
  4. 荒木磯吉編,『静岡県下市町村一覧』(1913年)
  5. 『官報』第4606号(1942年)
  6. 『官報』第6535号(1905年04月17日)
  7. 日本国勢調査記念出版協会,『日本国勢調査記念録 静岡県』(1922年)
  8. 「静岡県市町村便覧(昭和7年7月現在)」,静岡新報社(1932年)
  9. 小杉潔,『静岡県大正風土記』,国民新聞社静岡支局(1913年)
  10. 田中吉助,「駿東郡富士郡全圖」,田中文洋堂(1915年)
  11. 西田繁造, 『日本名勝旧蹟産業写真集. 奥羽・中部地方之部』(1918年)
  12. 富士宮市,『市勢要覧2012』(2013年)
  13. 富士市,『富士市景観形成基本計画』
  14. 土隆一,『静岡県 地学のガイド』,コロナ社(2010年)
  15. 齋藤駿介,「戦時期日本における建物疎開の展開に関する制度史的研究(その1):事業対象都市の変遷と事業施行の実態」『日本建築学会計画系論文集』88 巻808号(2023年)