2022年6月5日日曜日

富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念

富士の巻狩での源頼家の初鹿狩りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」にて初狩りに伴う儀式として登場した矢口祭。この矢(口)祭の契機となる「初狩」をした人物は、将軍または執権となるような"将来を担うと想定される人物"に限局されている。そして矢口餅(十字餅)は三口まであり、その三者も当日その場で選ばれるという点で共通している。

以下に、『吾妻鏡』に見える富士山麓にて催された狩りの事例を一覧化した。


場所主催者特記事項
建久4年(1193)5月藍沢・富士野源頼朝源頼家の初鹿狩り・曾我兄弟の仇討ち
建仁3年(1203)6月富士野(人穴)源頼家人穴の調査(記述はこれのみ)
嘉禎3年(1237)7月藍沢北条経時経時の初鹿狩り
仁治2年(1241)9月藍沢北条経時経時が熊を射取る


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子

上のうち、矢口祭は下線(①「建久4年(1193)5月」②「嘉禎3年(1237)7月」)のものと「③建久4年(1193)9月の北条泰時の初鹿狩り」の三例で認められるので、それらを考えていきたい。

  • (1)建久4年(1193)5月、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経・海野幸氏矢口餅を陪膳矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と「さて三の口はどのようにするのか」と述べ、曾我祐信を試すような物言いをする。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに対し頼朝は「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」と「"三の口は将軍が召し上がって下さい"と答えると思っていた」という旨を述べ「無念である」とまで言うのである(坂井2014;pp.82-84)。

実は曽我祐信が頼朝に認められるためには、2つのパターンが存在したと想定されるのである。それは

  1. 「三の口は将軍が召し上がって下さい」と源頼朝に矢口餅を勧める
  2. 祐信が独自の作法を取り入れる

の2点である。1は頼朝の発言から分かることであるが、2は「北条泰時の初狩りに伴う矢(口)祭」から分かるのである。そうすれば「無念」とは言われなかったのである。

  • (2)建久4年(1193)9月、北条泰時の初鹿狩りに伴う矢口祭

実は富士の巻狩の同年、北条義時も伊豆国で初狩りを経験している。『吾妻鏡』建久4年(1193)9月11日条には以下のようにある。

十一日 甲戌 江間殿の嫡男の童形、この間江間にありて、昨日参著す。去ぬる七日の卯の剋、伊豆国において、小鹿一頭を射獲たり。(中略)三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。小時あって、諏方の祝盛澄を召すに、殊に遅参す。(中略)およそ十字を含むの體、三口の禮に及びて、おのおの伝え用いるところ、皆差別あり。珍重の由、御感の仰せを蒙る。その後勸盃數献と云々。

以下に、儀式の流れを表化して示す。

儀式の手順人物内容
北条義時矢口餅を準備(このとき頼朝と足利義兼・山名義範以下数人が列した)
十字餅を供える
小山朝政十字餅の一の口。源頼朝の前で蹲踞して三度食べる。一口目は矢叫を発したが、二口三口目は発さず
三浦義連十字餅の二の口。三度食べる。毎度矢叫びを発する。
諏訪盛澄十字餅の三の口。この人選を頼朝は深く悩んだ上で召したが、盛澄は遅参した。三度食べ、矢叫びは行わず
数献盃を重ねる

十字餅は、「富士の巻狩」の場合と同様のものであろう。しかし今回も頼朝は④の三の口の時だけに限って何か思うところがあるような行動を取っているのである。富士の巻狩の際は「三口の事は何様たるべきやてへれば」と試し、北条泰時の初鹿狩りの際は「三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。」と三の口の人選のみ深く悩んでいる。

そして深慮した結果召した「諏訪盛澄」は遅参したというのに、最終的には「それぞれ作法が異なる」と感心しているのである。頼朝にとって遅参は大きな問題ではなかったのである。また盛澄は三の口を頼朝に勧めることもしていない。結果論ではあるが、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭で曽我祐信は他の二人と趣を変える必要性があったのである。頼朝が言う「おのおの伝え用いるところ」の部分に意味があるのだとは思うが、なぜ異なることが頼朝にとって良しとされるのかは定かではない。少なくとも、源頼家の初鹿狩りで覚えたような後味の悪さは、これら一連の記述からは感じられない。

ただ諏訪盛澄を召したのには、頼朝なりの理由があったように思うのである。というのも、源頼家の矢口祭と重なるものがあるからである。源頼家の矢口祭の三の口は「曾我祐信」であったが、祐信は当初頼朝に敵対し(石橋山の合戦で頼朝に敵対)、後に宥免された人物である。実は盛澄も似たような経緯を持つ人物なのである。

諏訪盛澄は長年在京していた人物であったという。しかし平家に属していたため、頼朝が挙兵する中でも関東への参向が遅れていたため、囚人となっていた。しかし彼を断罪することで「流鏑馬一流」が永久に廃されてしまうことを憂慮した頼朝が彼を召し出し、見事な射芸を披露したことで頼朝により「厚免」されたという背景がある(坂井2014;p.250)。

つまり矢口祭の「三の口」は、頼朝に一度は弓を引いた経歴を有する、または有事に自陣に参陣しなかった人物が選ばれていることになる。つまり「頼朝から試される立場の人間」ということになる。そして実際に試されているのであり、明らかに三の口の人選には理由があったと思われるのである。

  • (3)嘉禎3年(1237)7月、北条経時の初鹿狩り

鎌倉幕府の四代執権である北条経時も嘉禎3年(1237)7月に初鹿狩りを経験している。嘉禎3年(1237)7月25日条には以下のようにある。

廿五日 庚子 北条左親衛(註:北条経時)ひそかに藍沢に赴き、今日初めて鹿を獲たり。すなはち矢口餅を祭る。一口は三浦泰村、二口は小山長村、三口は下河辺行光と云々。

猟りの場所は藍沢である。そしてやはり「矢口祭」が記される。(五味ら2011:p.161)は「時頼」としているが、誤りであろう。

北条経時は仁治2年(1241)9月にも藍沢で狩りを行っている。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月14日条には以下のようにある。

十四日 己亥 北条左親衛(註:北条経時)が狩獲のために藍沢に行き向はる。若狹前司・小山五郎左衛門尉・駿河式部大夫・同五郎左衛門尉・下河辺左衛門尉・海野左衛門太郎等扈従す。また甲斐・信濃両国住人数輩、獲師等を相具し、渡御を待ちたてまつると云々。

そして22日に帰っているのである。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月22日条には以下のようにある。

廿二日 丁未 左親衛藍澤より帰らる。数日山野を踏み、熊・猪・鹿多くこれを獲たり。(以下略)


鎌倉時代、富士山麓では有力者により狩りが多く催されていたことが分かる

  • 参考文献
  1. 五味ら(2011)『現代語訳 吾妻鏡 10』,吉川弘文館
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

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