2022年6月2日木曜日

富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時

「コトバンク」(オンライン事典)の「富士氏」の記事(出典:平凡社『世界大百科事典』第2版)は、以下のように説明している。 


古代より駿河国富士郡大領をつぐ土豪で,富士浅間神社の祠官。大宮司家に伝えられる系図によれば,和邇部臣(わにべのおみ)の後裔で8世紀末豊麻呂の代に初めて富士郡大領に任じたという。以後同郡郡司として在地に勢力を張り,浅間神社祠官の地位を得,京の公家にも接近して国司に任ぜられた。豊麻呂9代の孫道時は関白藤原道長の娘上東門院彰子の家の判官代(ほうがんだい)となっている。浅間神社大宮司・公文(くもん)・案主(あんず)などの地位を一族で占めるようになった富士氏は武士としても名をあげ,鎌倉御家人の地位を得て弓始(ゆみはじめ)の射手を務め,和田合戦(1213)では和田一族討手の一人として〈富士四郎〉が討死している。


これを見ると、大きく2つに分けられるように思う。


  1. 「古代より(中略)富士郡大領に任じたという(中略)以後同郡郡司として在地に勢力を張り(中略)浅判官代(ほうがんだい)となっている」
  2. 「浅間神社大宮司(中略)鎌倉御家人の地位を得て(中略)〈富士四郎〉が討死している」


この2つの内容について、それぞれ該当すると思われる出典についての検討と、それに対する私見を述べたいと思う。

<1>

古代より駿河国富士郡大領をつぐ土豪で,富士浅間神社の祠官。大宮司家に伝えられる系図によれば,和邇部臣(わにべのおみ)の後裔で8世紀末豊麻呂の代に初めて富士郡大領に任じたという。以後同郡郡司として在地に勢力を張り,浅間神社祠官の地位を得,京の公家にも接近して国司に任ぜられた。豊麻呂9代の孫道時は関白藤原道長の娘上東門院彰子の家の判官代(ほうがんだい)となっている。


富士氏の系図には大きく2つあり

  1. 【和邇氏系図】:『各家系譜』(中田憲信稿本、国立国会図書館蔵)所収。
  2. 【富士大宮司(和邇部臣)系図】

がある。まず、家祖とされる豊麻呂(豊麿)を中心として考えてみる。1の場合、宗人の子として「豊麻呂」が記される。宗人の細註に


神護景雲二年四月任駿河掾


等とあり、宗人は宿祢を賜っており、また駿河掾であったとする。一方2の場合、和邇部臣の「鳥」の後裔に「大石」がおり、更にその後裔として「豊麿」が記される。つまり宗人の子としては扱われてはいない。この「鳥」および兄弟として記される「忍勝」はそれぞれ『新撰姓氏録』に記される「和珥部臣鳥」「忍勝」と同一人物とされる(佐藤1996;p.27)。忍勝は近江国志賀郡真野村に居住していたと記されるが、後に「真野姓」を名乗ったという。

大石は1の系図にも名が見えるが、宗人の叔父に当たる人物として記され、また「君手」の子としている。大石が君手の子であることは『続日本紀』に記されるといい(佐藤1996;pp.27-31)、同記からの引用が指摘される(仁藤1998;p.38)
※ちなみに同論考(仁藤1998)で(田中1998)の引用が見られるが、田中氏が指摘したのは「富士大宮司(和邇部臣)系図」ではなく「和邇氏系図」の方であると思われる。

ではコトバンクの解説はどちらを基としているかと言われれば、「富士大宮司(和邇部臣)系図」(2)の方であろう。2は豊麿について「富士浅間大神祭祀」と細註を記すが、「浅間神社祠官の地位を得」はこの辺りを典拠としているように思われる。また「道時」については「郡司判官代」の細註がありこれを典拠としたと思われるが、"関白藤原道長の娘上東門院彰子の家"の部分は筆者の思い違いであろう。

ここからはもう少し広げて考えてみたい。まず1は孝昭天皇-天足彦国押人命と記した後に子として「押媛命」「和爾日子押人命」を記す。ここで「和爾」の名が見えることはまず注目される。(比護1988;p.105)によると、この「和爾日子押人命」は「和邇氏系図」にしか見られないという。また(田中1998;p.171)(佐伯1985;p.201)によると、更に後裔として記される「彦汝命」は他では『播磨国風土記』に確認されるという。また山背国愛宕郡の郡司を歴任していることも特徴として挙げられる。

また「大島臣」の系譜に「山上臣井代臣祖」「大倭国添県山辺郷」とあり、子である「健豆臣」の註に「山上朝臣祖」とあることから、山上氏の出自を示す史料として注目するものもある(佐伯1985;p.183)。これら独自性から1の系図の重要性が増していると言えるが、現在行方知らずである。記録として残された、偉大なる故・太田亮氏の功績は非常に大きいものがある。

2の系図で豊麿の孫である女子の細註に「駿河郡大領舎利(註:金刺)舎入道万呂妻」とあり、金刺舎入道万呂の妻となっていることが知られる。これは金刺氏と和邇部臣との婚約関係を示すことになるため注目するものもある(仁藤1992;p.34)(仁藤1998;pp.43-45)。とりあえず、和邇氏系図の出現を強く望みたい。

<2>

浅間神社大宮司・公文(くもん)・案主(あんず)などの地位を一族で占めるようになった富士氏は武士としても名をあげ,鎌倉御家人の地位を得て弓始(ゆみはじめ)の射手を務め,和田合戦(1213)では和田一族討手の一人として〈富士四郎〉が討死している。


この部分に関しては、『吾妻鏡』が典拠である。建暦3年(1213)5月6日条に


建暦三年五月二日・三日の合戦に討たれし人々の日記。

和田左衛門尉(中略)以上十三人

(中略)

一 御方の討たれし人々

(中略)富士四郎

(中略)以上五十人 


とある。これが「和田合戦(1213)では和田一族討手の一人として」の部分の典拠である。ここに御方(みかた、つまり北条氏側)として戦い討死した人物として「富士四郎」が記される。この富士四郎は他の史料に一切出て来ないので不詳である。

また「鎌倉御家人の地位を得て弓始(ゆみはじめ)の射手を務め」は弘長3年(1263)正月が典拠と思われる。弘長3年(1263)正月8日条に


前濱において御的の射手を撰ばる。左典厩所労によつて出仕せられず。十八人、十五度射をはりて退散すと云々

(中略)

三番 伊東與一 富士三郎五郎

四番 松岡左衛門四郎 平嶋彌五郎


とあり、射手の三番を務めている。また同12日条に


御弓始あり。射手十二人〈二十五度これを射る〉

(中略)

五番 松岡左衛門四郎時家  富士三郎五郎員時


とあり、富士三郎五郎の実名が「員時」であることが分かるのである。富士員時は正月8日の前濱の射手では伊東與一と共に三番を務め、12日の御弓始では松岡時家と共に五番を務めている。松岡時家は正月8日の前濱の射手では四番を務め、伊東與一は12日の御弓始では三番を務めている。

つまり面々は変わらず、組み合わせと順番が変えられていることになる。この意図は別箇調べる必要がある。『曽我物語』の「二十番の巻狩」でも二名ずつ射手が組まれている。


<『吾妻鏡』にみえる富士姓の人物>

人物
建暦3年(1213)5月6日条富士四郎
弘長3年(1263)正月8日条富士三郎五郎
同12日条富士三郎五郎員時


しかしこれら「富士」を姓とする人物が、富士大宮の富士氏に連なる存在と言えるのかは分からない。例えばこれら人物が駿河国と明記されているわけでもない。しかし「富士」を姓とする氏族は他に想定されないのも事実であり、また富士氏の系図を見るに「時」は通字であったことが分かるのである

コトバンクの記事にもある「道時」もそうであるし、以降度々「時」の名が確認される。また「道-信淸-信-棟-直世-直信」と世襲される中で「直信」の註に「鎌倉殿御代御自筆帯之」とある。この辺りの時代に、一族の中に「員時」が居たと考えることもできなくはない。

戦国時代にかけて通字は「信」に固定化されていくが(これも時代で変化していく)、古くは「時」であった。特に富士大宮司が「則-直-資-成-氏-直氏-政-忠-親」と世襲されている時代は明確である。この辺りともなると史料が充実してくる。

直時の註に「康永四年三月十日卒」とある。実際康永4年(1345)の譲状が残り、子である弥一丸に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲る約束をしている。直時の死去により、予定通り子である「弥一丸」に富士郡各地の所領が譲与されたのであろう。順当に継承がなされていたとすれば、弥一丸は「資時」であると考えられる。ただ史料が少ないので、推測でしかないのも事実である。

系図には「富士四郎」や「員時」は見えないが、今の所富士大宮の富士一族の人物であった可能性を考えるしかないように思う。(五味・本郷2009;p.325)で富士四郎を「駿河の武士」としているのも、そのためだろう。『富士の歴史』では、富士大宮の富士氏に連なる存在とは見ていないようである(井野邉1928;p.369)。


  • 参考文献

  1. 『浅間文書纂』
  2. 佐伯有清(1985)「山上憶良と栗田氏の同族」『日本古代氏族の研究 』,吉川弘文館
  3. 仁藤敦史(1998)「駿河郡周辺の古代氏族」『裾野市史研究』第10号
  4. 田中卓(1998),『壬申の乱とその前後』(田中卓著作集5),国書刊行会
  5. 比護隆界(1988),「氏族系譜の形成とその信憑性 : 駿河浅間神社所蔵『和邇氏系図』について」『日本古代史論輯』,おうふう
  6. 仁藤敦史(1992),「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』第4号
  7. 佐藤雅明(1996), 「古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-」『地方史静岡』第24号
  8. 五味文彦・本郷和人(2009),『現代語訳吾妻鏡』7巻,吉川弘文館 
  9. 井野邉茂雄(1928)『富士の歴史』,古今書院

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