2018年10月15日月曜日

身延町の基本情報及び富士山との関係

このページは身延町の基本情報と地理上の富士山との関係についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

身延町

「身延町と富士山」という観点で語った場合にまず挙げられるのは、富士五湖のうち「本栖湖」が位置しているということである。


意外にもこれを知らない人が居るのであるが、本栖湖は「身延町」と「富士河口湖」に跨る湖であって、富士河口湖町だけではない。
当然ながら、イコモスへ提出された「推薦書」にもそれは示されている。


「どちらがどの程度保有しているか」については不明である。

また日本紙幣の千円札又は五千円札に富士山の逆さ富士が描かれているが、これは本栖湖西北岸の中ノ倉峠から撮った岡田紅陽の写真によるものである。つまり

身延町からの風景がお札の図柄となっている

と言えるのであり、これは特筆すべきことである。「富士山包括的保存管理計画」(本冊)には以下のようにある。

岡田紅陽(1895(明治 28)~1972(昭和 47))は、1935 年 (昭和 10 年)に本栖湖西北岸の中ノ倉峠から湖面に映える「逆さ富士」の写真を撮影した。それは『湖畔の春』と名付けられ、1984年(昭和 59 年)には五千円札、2004 年(平成 16 年)には千円札の図様として、 それぞれ採用された。

とある。よく勘違いされているが、紙幣の図柄の「逆さ富士」は本栖湖から撮ったものではない。身延町の中ノ倉峠から"本栖湖と富士山を被写体として"撮ったものである。

身延町と富士山との関わりについて、近年では特に「内八海巡り」(富士八海)が注目されている。本栖湖もそうであるが、隣接する市川三郷町の「四尾連湖」も富士八海の1つであり、身延町域を富士講信者が巡礼していたと推察されている。身延町域の、本栖湖から四尾連湖に向かう道中に現在も「御内八海道碑」が残る。

※富士八海
富士八海は時代により差異があるとされる。いわゆる「富士五湖」(当時はそのような呼称は無い)と市川三郷町の四尾連湖、富士吉田市の明見湖、そして須戸湖または泉瑞(津)湖である。「または」としたが、泉瑞湖(富士吉田市)を富士八海とするようになったのはより後世であるとされる。甲斐国の地誌である『甲斐国志』は「須戸湖」(沼津市・富士市)の方を示している。

以上が、「身延町と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2018年9月16日日曜日

富士河口湖町の基本情報及び富士山との関係

このページは富士河口湖町の基本情報と地理上の富士山との関係についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。


以下は富士河口湖町と「富士山域」の関係である。

富士山体
こうやって見ると、富士河口湖町は富士山体から離れている位置にあるということが分かる。しかしそれが展望という意味では良い塩梅となっており、環境省公開の「富士山がある風景100選」では最多の22箇所もの地点が選ばれている。


ただ山体から離れているが故に、例えば「富士箱根伊豆国立公園」の最重要地区である「特別保護地区」の面積は大変限られたものであった。


たったの6haであり、これが山体からの距離感に由来することは言うまでもない。しかし後に西八代郡上九一色村を編入したことにより、この状況は一変する。富士河口湖町は突如として広大な特別保護地区を手にするのである。つまり1,133haのうちの大部分或いはすべてが、今現在富士河口湖町に属しているのである。

富士河口湖町は富士五湖(富士山麓鉄道、後の富士急行の社長による造語)のうち「河口湖」「西湖」「精進湖」「本栖湖」を有する。「西湖」と「精進湖」は元は「剗の海」という1つの湖であったが、貞観大噴火による富士山の溶岩で分断され生じた。

富士河口湖町が位置するこの地は、古くは「川口」とも表記され富士登山道の「舟津口」(川口口)を有した地である。ただ研究が少なく、その実像が判明しているとは到底言い難い。多くでは、『勝山記』や『甲斐国志』が「舟津口」について殆ど触れていないことが指摘され、主要道で無かったという見方が多い。ただ古道でありその起源はかなり遡ることができると考えられる。

この地も吉田同様に御師が勢力を保持した地域である。この地の御師としては先ず「小佐野越後守」が挙げられる。小佐野越後守は御室浅間神社の別当を務める役職にあり、代々「越後守」を名乗ってきた。それ故にこの町は現在「小佐野姓」だらけなのである。

また御師の家柄として「渡辺家」も挙げられるだろう。「富士城開城後の富士と武田の動向」にて挙げた九一色衆の渡辺氏がまさにそれである。ちなみにこの地は「渡辺姓」もかなり多い。この町で10人に姓を尋ねれば、おそらくその半分は「小佐野」か「渡辺」であろう。それくらい多いのである。他川口には「中村氏」「田辺氏」といった御師の家系が存在していた。

以上が、「富士河口湖町と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2018年8月17日金曜日

観応の擾乱と富士氏

「観応の擾乱」時の富士氏の様相を示す史料として、まず観応2年(1351)1月18日「上杉憲将奉書」が挙げられる。


この史料について「中世南奥の地域権力と社会」では以下のように記している。

観応元年11月、京において直義が尊氏・高師直らと争っていたころ、関東にあっては直義派の執事上杉憲顕と尊氏派の高師冬らが争っていた。(中略)師冬は、甲斐に逃れて須沢城に拠ったが、翌年正月4日、上杉兵庫助(憲将)が数万騎の兵を率いて攻め、17日落城し師冬は自殺した。(中略)師冬が討たれたことで、上杉憲顕1人だけの執事であったので、基氏の判始めは憲顕の指揮によるもので、正月18日に基氏は憲将に命じて富士大宮司に甲斐の通路を警固させている。ここに関東も直義方の支配するところとなった。

まずここから、富士大宮司はこのとき足利直義方であったことがわかるのである。


また亀田俊和『観応の擾乱』でも

だが、直義がいかに消極的であろうとも、戦況は彼に有利に進行し続けた。(中略)同日夜(註:観応元年(1350)1月16日)、信濃守護小笠原政長も京都の自宅に放火して出京し、直義派に寝返った。つい6日ほど前まで、分国信濃で部下が直義党と激しく交戦していたのにである。(中略)一方、この日(註:17日)は甲斐国須沢城で関東執事高師冬が戦死した。関東地方は上杉氏を主力とする直義派がほぼ制圧した。 

と記される通り、このとき関東は直義派が支配する状況であった。また「中世南奥の地域権力と社会」に

11月12日に上杉能憲が常陸で兵を挙げ、12月26日、義房が師冬方から基氏を奪い返そうとしていたころ、駿河国府中で義房の家人等は尊氏方の景宗らと合戦を行っていた。景宗は、狩野孫左衛門尉、石塔氏家人らと散々の合戦を行い、軍忠に励んでいた。そして義房は、12月15日(註:石塔義房のことで観応元年)、伊豆国宅郡(田方郡)の地を三島社神社盛実代頼に還付することを守護代に命じ、翌2年2月22日、重ねて命じて光頼に交付し、なおも3月27日に共料所として宅郡の地を交付している。このことから、義房が伊豆国の守護であったことが知られる

とある。富士大宮司は駿河国富士郡の領主であり、また伊豆守護が直義方の石塔義房であったことを考えると、河東の地(富士川以東)は直義方が支配するところであったと見てよい。しかし府中には今川氏がおり伊達景宗が直義方と交戦していることを考えると、富士川以西はまだ尊氏方の勢力の方が大きかったと考えられる。そういう意味では、富士氏の本拠である富士上方は緊張状態にあったと言えるのかもしれない。

富士大宮司は富士氏の筆頭であるが、このとき「警固を命ぜられている」という事実は大変重要である。つまり「武力を保持していた」ということの証左であり、それは南北朝時代にまで遡ることが出来るのである

「甲斐国通路」は駿河国から甲斐国へ繋がる街道のことであるから、まず「中道往還」か「駿州往還」が考えられる(当時そのように呼称されていたというわけではなくそれに準ずるもの)。

武田勝頼書状

上のものは天正8年(1580年)に比定される文書で(「駿州往還と富士宮市内房の歴史」を参照)、南北朝期とは時代を著しく異にするものであるが、南北朝期も甲斐と駿河の境は「本栖」「河内」であった。本栖が「中道往還」であり、「河内」が「駿州往還」なのである。第一義的にはこれらが考えられる(個人的には中道往還の方であると考えている)。

また「相催庶子等」についても重要である。この部分について「戦国期今川氏の領域と支配」は

観応2年(1351)正月18日、観応の擾乱に際し、富士大宮司が上杉憲将から甲斐への交通路の警固が命じられており、その軍事力は「相催庶子等」と明示されている。この頃からすでに国人領主としての活動が開始されている。

と説明している。富士大宮司の直系以外の一族(庶子)も武力を保持していたわけであり、ここに重層的な武力構造が認められるのである。これが観応2年(1351)の段階で認められるという事実は、大変重要であると言えるだろう。

同年12月、富士上方に隣接する庵原郡内房・桜野の地で尊氏軍と直義軍は衝突し、尊氏方の勝利となる。その後の翌年2月、直義は没することとなる。この一連の合戦記録で富士大宮司が出陣している様子は無い

参考としてであるが、『太平記』の「笛吹峠軍事」に「棕櫚の葉」(旗)が出てきており、これが富士大宮司の馬印・旗印ではないかとされることもある。しかし桜野の戦いにおいて姿が見えないことから、軍勢を率いて交戦する程の武力はまだ保持していなかったと考えている。

  • 参考文献
  1. 渡部正俊,「石塔氏小考―義房と子息頼房・義基」『中世南奥の地域権力と社会』,岩田書院,2002 
  2. 亀田俊和,『観応の擾乱』,中央公論新社,2017
  3. 大久保俊昭,「今川氏と宗教」『戦国期今川氏の領域と支配』,岩田書院,2008
  4. 山田敏恭,「高一族と上杉一族、その存亡を分けた理由とは?」『初期室町幕府研究の最前線』,2018

2018年8月13日月曜日

観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理

まず駿河国庵原郡は…というより「桜野」(静岡県清水区、旧庵原郡)・「内房」(静岡県富士宮市、旧庵原郡)は、まさに「観応の擾乱」の主要舞台の地の1つと言えるであろう。観応2年(1351)12月に駿河国庵原郡で足利尊氏軍と足利直義軍が交戦し、この戦が大きな契機となって両者の命運は決定されたのである。

緑枠が旧庵原郡(町村制施行時のものであり、中世の郡を示したわけではない)

しかしこの部分についてはいくつかの留意点もあるので、それを先ず述べてからにしたい。

足利尊氏

まず小和田哲男『武将たちと駿河・遠江』は、この戦に関して以下のように説明している。

27・28日の両日、再度戦いがくりひろげられ、直義側は、由比・蒲原に陣をとる上杉能憲、内房(現、芝川町内房)に石塔義房・頼房父子が陣を構え、桜野から内房にかけての地域で激戦が展開した。ふつうこのときの戦いを薩埵山合戦の名でよんでいるが、『太平記』に記されたことからその名が一般的となったものであるが、実際の戦いの行われた場所からいえば、"桜野合戦"あるいは"桜野の陣"とでもよぶべきであろう

としている。この戦に関しては、古文書が伝わっていないわけではない。むしろしっかりと残っている。それ故に実際の合戦地も判明している。以下ではそれら「一次史料」をベースとして解説を進めていきたい。


  • 古文書等から

この合戦の状況を示す好例としてまず挙げられる史料が、京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達家文書』である。京都大学文学部編『京都大学文学部博物館の古文書第5輯 駿河伊達家文書』には以下のようにある。

時あたかも南北朝の動乱は、尊氏・直義の対立によって激烈の極みに達していた。いわゆる観応の擾乱である。(中略)この間、駿河伊達氏の当主景宗は、一貫して尊氏方として、直義方や南北朝の軍勢と戦い、文字通り東奔西走した。そのありさまをよく物語るのが、写2~9の文書である。(中略)尊氏は先にも述べたように11月4日に京都を発して東に向い、12月13日には駿河手越宿に到着した。尊氏から恩賞を与えられた景宗は、観応2年(正平6、1351)12月27日から28日にかけての桜野の戦い(『太平記』に言う薩埵山合戦)でも奮戦した

とある。実はこれとは別に同じく入江庄の駿河伊達氏に関する文書群である『伊達与兵衛家文書』が中央水産研究所に伝わっている。史料は16点であるが、その中の正平7年(1352)年閏二月十四日「包紙(「駿河国入江庄内下知状 前遠江守在判 伊達藤三景宗」とあり)が注目される。中央水産研究所の報告書『伊達与兵衛家文書(採訪時住所 静岡県清水市入江)』によると"「正平七(1352)年閏二月十四日」の日付に大方の人は衝撃を受けたであろう。しかし後に、これは江戸時代に書かれたものとの見解に落ち着いたのである"としている。しかし京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達家文書』のものは南北朝期を示すものが多数残されており、伝来の経緯は全く異にするものと考えられる。

また『伊達与兵衛家文書』に関する説明で、以下のようにもある。

一見してこれらの文書群は駿河国入江庄(現在の静岡県清水港の北西に広がる地域)を根拠地とした駿河伊達氏が残したものと推測できた。(中略)系図景宗の項に中世期におけるこの家の由緒(記事)が簡潔に書かれている。これによると、「足利尊氏に従い手越河原ノ合戦で高名感状を賜ったこと、観応二年十一月二十五日尊氏が関東御下向の時、駿河国佐田山合戦で高名、同年十二月二十七日、由比山桜野合戦で高名、駿河国入江庄を賜わり代々知行する。文和元年同国大津城、同鴾山城・神戸城にて高名、これにより正平六年十二月二十二日、右近将監に任ぜられる、その後、正平七年閏二月二十四日、駿河遠江の大将として今川上総介範氏御下向の間彼手に属し忠節いたすべく由、尊氏より御教書を賜る、その後今川家に属し戦功をたて感状数十通伝来する」とある。この由緒を裏付ける文書は多数現存し、今岡前書掲載の写真で確認できる。

とある。実際に裏付ける文書は多く存在し、『駿河伊達家文書』もその代表格である。まず「手越河原ノ合戦」「佐田山合戦」も史実である。「手越河原の戦い」は建武2年(1335年)のものも知られるが(足利直義 対 新田義貞)、この場合は観応2年9月27日の合戦を指す。また「佐田山合戦」(薩埵山合戦)は観応2年11月25日のものを指す。



上は「伊達景宗軍忠状」(『駿河伊達家文書』、軍忠状は自分の戦功を申告する文書のこと)の1つであるが、「同十一日車返宿有御合戦」とあり観応2年9月11日に景宗は駿東郡の車返宿にて合戦、「同廿七日於手越河原合戦之時抽忠節畢」とあり9月27日に手越河原合戦、「自小河打出小阪山打越之時」とあり11月16日には小坂山にて合戦している事がわかる。

また以下の「足利尊氏軍勢催促状」によると、9月11日は車返宿以外でも合戦があったようである。こちらには景宗は参戦していない。

A文書

B文書

内容を見てみると、同日発給で内容は類似していることが分かる。この部分については松本一夫「南北朝期における書状形式の軍勢催促状に関する一考察」に詳しい。

内容から見ていずれも正平6年(1351)12月15日付で尊氏が時の信濃守護小笠原政長に宛てて出した軍勢催促状である。すなわち尊氏は、同じ合戦について政長に対し、御判御教書と書状をそれぞれ発給していたことになる。何故こうしたことを行ったのであろうか。2点を見比べてみると、史料5(註:A、上のもの)の御判御教書の方も単なる形式的な軍勢催促ではなく、歩い程度詳しい戦況を報じて急ぎの参陣を要請はしている。しかし史料6(註:B、下のもの)の方は、傍線部分にあるように、由比・蒲原で味方が一応勝利したけれども、敵方はなお悔りがたい動きを示していることが正直に記されている。総じて史料6は、5に比べてより率直に味方の危機的状況を訴え、急ぎの出兵を求めたものになっている。この1例のみからの判断ではあるが、足利尊氏の場合、形式的内容であることが多い御判御教書による軍勢催促を補う形で、実情をより具体的かつ率直に伝える書状を自らが副えることがあったものと考えられよう。

としている。まずA文書に「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、尊氏は12月13日に由比山に陣を置いていることが分かる。由比山は浜石岳のことであるとされる。そして尊氏軍は11日の「蒲原河原の戦い」にて直義軍に勝利している。小笠原政長に対し、信州での活躍を称賛した上で自陣の状況を説明し、そして軍勢催促を行う流れである。それが端的に示されている。しかしB文書は「十一日の合戦に由比・蒲原にて討勝と言えども猶大勢由比越内房この道かかり候て、既に先途の合戦にて候…」とあり、より具体的且つ感情的である。また小松茂美『足利尊氏文書の研究』Ⅲ解説篇には以下のようにある。

これ(註:B文書)は、前掲(註:A文書)と同日の日付。宛所も同じ「小笠原遠江守殿」とある。前掲は奉行人がしたためた軍勢催促状であるが、これは尊氏みずからが自筆を染めた消息(原本)である。前掲の軍勢催促状を書かせ、みずからの花押を据えた直後に、尊氏はふと気を取りなおして、筆を執ると、一気にしたためたのが、この一通である。この消息には、そのような尊氏の心中の微妙な動きを感知させるものがある。

またB文書の本文と月日の間に異筆で「尊氏御自筆」とある。






以下は伊達景宗軍忠状の1つである。伊達景宗は今川氏の被官であったため、今川範氏の証判を得ているのである(この時の駿河守護は今川範国であったが、在京していたため範氏が対応し証判を与えている)。



ここに「十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時」とあるため、尊氏は12月13日に今川範氏・伊達景宗と合流し、そして桜野に移った事がわかる


この文書から「由比越(由比山)」と「桜野」は異なる場所であり、桜野がより内房寄りに位置することが推察される。上のA文書(小笠原政長宛て)にも「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、やはり由比越(由比山)に陣を布いていたのだろう。そして同日に桜野に移動し臨戦態勢に入るのである。こう考えると、そもそも尊氏は薩埵峠には陣を布いていないのである。由比越ですら合流のために一時居たのみで、直ぐに桜野に移動しているのである。


上は「別府幸実軍忠状」であるが、「駿河国由井山上御陣処」とあり、「由比山上」とある。これはやはり「由比山の上」と理解すべきであり、由比山より北上し桜野へ移ったことを物語ると考えられる。

では直義軍はどうであろうか。「足利尊氏軍勢催促状」には以下のようにある。


「御敵等取登駿河国内房山之間」とあり、直義軍は内房山の地に居た事が分かる。また先のB文書に「猶大勢由比越内房この道へかかり候て」とあることも、この場所に軍勢がいたことの証左となるだろう。



内房に直義軍が至った背景として先ず「内房が交通の要衝であったこと」が挙げられるだろう。「駿州往還と富士宮市内房の歴史」で記しているように、中世の駿州往還にて内房は重要な中継地点であった。ならばこの時代も街道が存在したと考えてもおかしなことではない。大軍の退路にもなり得るというわけである。


  • 太平記の検討

上述のものは古文書をベースとして整理した文章である。一次史料に該当する『駿河伊達家文書』等と軍記物である『太平記』は乖離が激しく、もっといえば『太平記』の誤りが甚だ激しい。また『太平記』に「薩埵山合戦ノ事」とあるのみで現在「薩埵山の戦い/薩埵山合戦」と称されているに過ぎないのである

『太平記』の内容を抜粋し、そこから検討してみよう。

十一月晦日駿河ノ薩多山二打上リ、東北二陣ヲ張給フ(中略)其勢僅二三千余騎ニハ不過ケリ(中略)一方ニハ上杉民部大輔憲顕ヲ大手ノ大将トシテ、二十萬余騎由井・蒲原ヘ被向。一方ニハ石堂入道・子息右馬頭頼房ヲ搦手大将トシテ、十萬余騎宇都部佐ヘ廻テ押寄スル。高倉禅門ハ寄手ノ惣大将ナレバ、宗トノ勢十萬余騎ヲ順ヘテ、未伊豆府ニゾ控ラレケル

まず「十一月晦日駿河ノ薩多山二打上リ」とあり、尊氏は11月31日に薩埵山に到着したことになっている。正平6年11月26日の結城朝常宛の足利尊氏書状に「すてに今日廿六日かけかハへつき候へく候」とあり、11月26日の段階では掛川に居た。つまり尊氏は東海道を用いて東に下ってきたのである。そして軍勢催促状に「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、12月13日に由比山(浜石岳)に布陣したという理解が正しい。まず冒頭から『太平記』の記述は誤りであり、日時および場所が異なっていると言える。

また特に尊氏軍と直義軍の兵力差は誇張以外の何者でもない。尊氏軍は「三千余騎に過ぎざりけり」と「三千に過ぎない」とあるのに対し、直義軍は「大手の大将である上杉憲顕は20万騎(由比・蒲原)」「搦手の大将として石塔義房・石塔頼房親子が10万騎(内房)」「総大将の直義直轄軍は10万騎(伊豆国府に在陣)」とある。つまり

尊氏軍:計3,000
直義軍:計300,000(直義直轄軍除く)

としているのである。また「太平記」のその後の記述として「取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎、而モ馬疲レ粮乏シカレバ」とあり、直義軍は50万騎で尊氏軍は3,000騎であったとしている。「取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎」という記述からも分かるように、尊氏側の立場から見た記述である(太平記はすべてそうであるが)。

しかし全くの想像ではないので人物も実際参加した武将であるだろうし、地名もそうである。なのでここで「宇都部佐」と「=内房」がでてくるのは順当であろうしかし冷静に見れば、ここに「内房」と「薩埵山」の2地点が本戦直前の「布陣地」として出てくること自体がおかしいのである

赤枠:富士宮市内房

というのも、地図を見ればわかるように「内房-薩埵山間」はとんでもなく離れているためである。しかし軍忠状には「今月十三日於由比山取陣畢」とあるため、明らかに陣地は内房に隣接する側にあるのである。場所は浜石岳より更に北になるのである。

また一部で「薩埵山体制」なる言葉も存在する。「豊島氏とその時代」には以下のようにある(講演録)。

そのような初期鎌倉府の段階のなかで、観応の擾乱が起こってきます。尊氏と直義が血みどろになって、何度も何度もいろいろな戦いを繰り返し、最終的にはどこで決着がついたかというと、駿河国の薩埵山(東海道の一峠)で両軍が相まみえて、そこで尊氏方が勝利する、これが薩埵山合戦です。その薩埵山合戦の勝利によって、最終的に勝った尊氏が、その翌年に武蔵野合戦と言う形で、反対派の上杉憲顕・新田義宗連合軍を撃破して関東の政治的・軍事的支配権を確立する。この時点で、勝利するために尊氏方に結集した勢力の三本柱が、畠山国清と河越直重と宇都宮氏綱です。この三本柱を中軸に尊氏が組織した政治体制を「薩埵山体制」と名づけました。(中略)観応2年(1351)の観応の擾乱、上杉氏の没落、薩埵山体制の確立という一線でもって、きれいに変化し、越後の守護は上杉から宇都宮、上野の守護も同様、そして武蔵の守護も、上杉憲顕から仁木頼章を経てその後畠山国清へと、相模の守護が河越氏、そして伊豆の守護が畠山国清にと変更される。1351年から1362年のほぼ10年余の間その体制でいくわけです

とある。今考えると妙な言葉と言えるが、これら武将は概ね「薩埵山合戦ノ事」に見えるのである。また「鎌倉府「薩埵山体制」と宇都宮氏綱」には以下のようにある。

東国支配のため関東に留まる尊氏の子基氏のもとで、畠山国清は基氏を補佐する関東管領と武蔵・伊豆守護、河越直重は相模守護、宇都宮氏綱は越後・上野守護にそれぞれ任じられた。このような支配体制が成立する発緒となったのが薩埵山合戦であったところから、この体制は「薩埵山体制」ともよばれる

とある。引き続き『太平記』を検討する。「薩埵山合戦ノ事」には以下のようにある。

相順フ兵ニハ、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人

尊氏に相したがう兵として「仁木頼章」「畠山国清」等が見え、両者は観応の擾乱後に躍進した。また

去程二将軍已薩埵山二陣ヲ取テ、宇都宮ガ馳参ルヲ待給フ由聞ヘケレバ

とあり、尊氏はすでに薩埵峠に陣を布いており、そこへ宇都宮氏綱が参じるところであるとしている。またそれを見た直義は上野国に一万余騎を差し向けたとある。またその後の記述で「十二月十五日宇都宮ヲ立テ薩埵山ヘゾ急ケル」とあり、氏綱は12月15日に急いで薩埵山に向かったとある。また「其勢千五百騎、十六日午剋二、下野国天命宿二打出タリ」とあり、16日には上野国天命宿に着いたとある。

しかし自軍の三戸七郎(高師親)が錯乱し自害してしまい門出が悪いということで「始宇都宮ニテ一味同心セシ勢許二成ケレバ、僅二七百騎ニモ不足ケリ」という状況となり、急にその千五百騎は七百騎へと激減したとある。その勢は「十九日ノ午剋二、戸禰河ヲ打渡テ、那和庄二著ニケリ」とあり、氏綱は19日には那和庄に着いた。

すると「桃井播磨守・長尾左衛門、一萬余騎ニテ迹二著テ押寄タリ」とあり、氏綱に桃井直常・長尾景忠が襲い、その後桃井・長尾連合軍は敗走したとある。またその後「宇都宮二付勢三萬余騎二成リニケリ」とあり、この動向は直義軍に届いていたといい、「薩埵山ノ寄手ノ方ヘ聞ヘケレバ、諸軍勢皆一同二、「アハレ後攻ノ近付ヌ前二薩埵山ヲ被責落候ベシ」ト云」とある。

足利直義(歌川国芳筆)

このように直義軍の諸軍は宇都宮勢が後詰めの勢力となる前に攻めるべきであると主張したが、石塔義房・上杉憲顕は聞き入れなかったとある。但し、この一連の記述は特に疑わしい。直義軍の石塔親子に関しては序盤部分に

一方ニハ石堂入道・子息右馬頭頼房ヲ搦手ノ大将トシテ、十萬余騎宇都部佐へ廻テ押寄スル

とあり、内房(宇都部佐)に布陣したとある。この石塔義房は伊豆国守護であったが、観応の擾乱後はその地位を失った。上記にある「直義軍の諸軍が、宇都宮勢が後詰めの勢力となる前に攻めるべきであると主張した」という流れの後に太平記は

石堂・上杉、曾不許容ケレバ、余リニ身ヲ揉デ、児玉党三千余騎、極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル

と記している。「極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル」とあり、痺れを切らした直義軍のうち児玉党三千余騎が薩埵山に攻めかかったことになっている。ここは重要な箇所であろう。つまり太平記は尊氏は薩埵山に陣を布いており、そこへ直義軍が攻めかかる構図をあくまでも崩さないのである。しかし文書等から尊氏はこのとき薩埵山に本陣は布いていないことが判明しているので、この記述は明確に誤りである。しかも内房から薩埵山に攻めかかる構図であり、その距離感は不可解としか言いようがない。しかし太平記でも「桜野」が出てくるのは極めて重要であって、伊達景宗軍忠状に「十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時」とあることから

桜野→尊氏軍の本陣
内房→直義軍の本陣

という理解が成り立つのである。駿河国の地名としてはここまで「薩埵山」「桜野」「内房」等しか出てきておらず、その中で整合性を求めるならばこの理解以外は難しい。また太平記はこう続く。

児玉党十七人一所ニシテ被討ケリ。「此陣ノ合戦ハ加様也トモ、五十萬騎二余リタル陣々ノ寄手共、同時二皆責上ラバ、薩埵山ヲバ一時二責落スベカリシヲ

つまり諸軍のいうことを聞き石塔義房・上杉憲顕も同時に攻めていたら薩埵山は落とせていたかもしれないが、それをしなかったので児玉党は討ち取られてしまったとしているのである。しかし正平7年正月の伊達景宗軍忠状には

十二月十三日、将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時御共仕、同廿七日御敵石塔入道殿・同厩幷子玉党以下凶徒等寄来之処

とある。実際は石塔父子と児玉党は12月27日に尊氏軍を襲っていることが分かるのである。この記述からは石塔父子と児玉党はやはり行動を共にしていることが分かるのであり、太平記が記すようなことは無かった。

その後太平記は「廿七日、後攻ノ勢三萬余騎、足柄山ノ敵ヲ追散シテ」とあり、宇都宮勢は足柄山まで到達したとする。また以下のように続く。

焚續ケタル篝火ノ数、震ク見ヘケル間、大手搦手五十万騎ノ寄手共、暫モ不忍十方へ落テ行。仁木越後守義長勝二乗テ、三百余騎ニテ逃ル勢ヲ追立テ、伊豆府へ押寄ケル間、高倉禅門一支モ不支シテ、北条ヘゾ落行給ヒケル

直義軍は篝火の数の多さから恐れをなし、50万騎は十方へ落ち延びていったとある。また仁木義長は直義の居る伊豆国府に押し寄せ、直義はそれを支えられないと見て北条へと落ち延びていったとある。上杉・長尾左衛門に関しては、信濃国に落ち延びたとある。その後直義の元に和睦の提案があったため、それを受け入れ鎌倉へと帰ったという流れで「薩埵山合戦ノ事」は締めている。

そもそも何故直義は直接尊氏と対峙しなかったのであろうか。亀田俊和『観応の擾乱』には以下のようにある。

また薩埵山包囲戦の最中、直義は伊豆国府から一歩も動かなかった。(中略)直義の消極性と言えば、軍勢催促状にもそれが現れている。擾乱第一幕においては、直義は武士に動員を命じる際、師直・師泰の誅伐を大義名分に掲げていた。しかし第二幕では、その師直・師泰はもういない。この時期においては、直義は尊氏軍を単に「嗷訴の輩」などと称するのみであった。最後まで尊氏を名指ししなかったのである

とある。また同氏は高師直との抗争が勃発して以降精神的・肉体的重圧が相当強くのしかかっており、望まない戦争と実子の陣中での死等が理由で健康状態を悪化させていたのではないかと指摘している。直義は正平7年(1352)2月26日に死亡している。この日は高師直が死亡した日と同じである。毒殺説がよく指摘されている直義であるが、単純に健康状態の悪化が原因ではないかと指摘している。

結果論ではあるが、この戦の後まもなくして死去しているのだから、大契機であったことは間違いない。それにも関わらず直義は駆けつけていないのである。直義は憔悴していたのだろうか。本気で討ち取る気があったのか、という疑問さえ出てくる。

  • まとめ

まず「文書」および「太平記」との親和性を考慮すると、以下のようになる。




文書内容
伊達景宗軍忠状十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時
足利尊氏軍勢催促状(小笠原政長宛)大勢由比越内房この道かかり候て(12月15日発給)
御敵等取登駿河国内房山之間(12月17日発給)
『太平記』 宇都部佐ヘ廻テ押寄スル
極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル

これらの史料より本戦時に「薩埵山」が本陣の所在地である可能性は否定でき、文書および「太平記」双方で登場する「桜野」「内房」はそれぞれ尊氏軍と直義軍の陣が位置していた地と考えられる。石塔父子は他街道を経たのち駿州往還を用いて内房に着陣し、足利尊氏は東海道を用いて由比に至りその後北上して桜野に着陣した。そして両者交戦したのである。結果尊氏軍が勝利し、そして直義軍は敗走した。これがこの合戦の過程と結果であると考えられる。石塔父子の敗走ルートは東海道とはとても思えないので、やはり駿州往還を経てのものであっただろう。

従来の説は太平記にあまりにも寄りすぎているように思う。「薩埵山体制」なる言葉も、それを色濃く反映していると言えるだろう。「桜野・内房合戦」と言ったほうが正確であると考えている。

  • 参考文献
  1. 亀田俊和,『観応の擾乱』,中央公論新社,2017
  2. 小和田哲男,「南北朝の内乱」『武将たちと駿河・遠江』,2001
  3. 日本古典文学大系36『太平記三』,岩波書店
  4. 大塚勲,「南北朝・室町時代」『駿河国中の中世史』,2013
  5. 峰岸純夫,「南北朝内乱と東国武士-「薩埵山体制」の成立と崩壊を中心に-」『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』,新人物往来社,1998
  6. 江田郁夫,『室町幕府東国支配の研究』,高志書院,2008
  7. 鈴木江津子,「駿河伊達氏の末裔「津山松平家臣伊達家」文書の考察」『歴史と民俗29』平凡社,2013
  8. 松本一夫,「南北朝期における書状形式の軍勢催促状に関する一考察」『中世史研究』第39,2014
  9. 小松茂美『足利尊氏文書の研究』Ⅲ解説篇,1997
  10. 呉座勇一,「初期室町幕府には、確固たる軍事制度があったか?」『初期室町幕府研究の最前線』,2018
  11. 『静岡県史』資料編6 中世二
  12. 静岡県地域史研究会,『静岡県地域史研究会報第6号』,1982年

2018年8月10日金曜日

駿州往還と富士宮市内房の歴史

まず富士宮市というのは、街道が複数以上通過する地域である。詳しくは「中道往還と浅間大社そして大宮口登山道」にて記しているが、今回はそのうちの「駿州往還(河内路)」について取り上げていきたいと思う。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月15日)に見える「うつぶさ

河内路は甲斐から駿河へ至る主要街道の1つであるが、その役割はとても大きいものがあった。現在の富士宮市でいうと内房(旧庵原郡)が河内路に属しており、重要な中継地点であった。「駿甲同盟」の際の嶺松院(今川義元娘)の輿入れの様子が好例であるので、挙げることとする。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)にみえる「駿河国内房山

まず今川義元の正室であった定恵院(武田信玄姉)が、天文19年(1550)6月に死去した。同盟関係上新たな関係構築が求められ、信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行い、天文21年(1552)11月に嶺松院は輿入れした。その様子が『甲陽日記』に記されている。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。

武田信玄

またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。

武田殿人数ニハ、サラニノシツケ八百五十腰シ、義元様ノ人数ニハ五十腰ノ御座候、コシハ十二丁、長持廿カカリ、女房衆ノ乗鞍馬百ヒキ御座候

武田側は850人、今川側は50人が随行し、輿は12、長持(衣類等を収納する箱)は20、女房衆の馬は100頭にも上ったという。特に武田側の850人は驚くところであり、その壮大さを感じるところである。もちろん内房の地も通過したのである。

しかし、「桶狭間の戦い」以後の今川家の凋落を好機とみた信玄は駿河侵攻を展開。現在の富士宮市域も武田氏が領するところとなった。


その過程で「内房口の戦い」も行われた。

穴山信君

そこで以下のような文書が残る。



(齋藤2010)には以下のようにある。

この史料は勝頼段階の天正8年の史料であるが、河内路の要衝を書き連ねている。(中略)河内路の谷間の重要地点は万沢・南部・下山・岩間であったことがわかる。

この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。


年未詳


「爰駿州境目本栖・河内用心等、不可由断之由、申遣候」と富士南麓に出陣した武田勝頼が甲斐府中で留守居を務める跡部勝忠に報じていることが確認できる。具体的な年次が確定できないが、本栖および河内が北条氏に対する甲斐国境の拠点に位置付けられ、勝頼の代に至っても軍事的に重要な地点であることは不変であった

ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。

そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。

武田勝頼

現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。

  • 参考文献
  1. 齋藤慎一(2010)「武田信玄の境界認識」『中世東国の道と城館』,東京大学出版会
  2. 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
  3. 柴辻俊六(2001)『戦国期武田氏領の展開』 (中世史研究叢書),岩田書院

2018年8月6日月曜日

富士氏の系図から珠流河国と和邇部について考える

このブログは古代について取り上げることはまず無いが、「富士氏についての検討」ということでこの場合のみ取り上げることとした。しかし以下で挙げる諸論考のほとんどは、古代に関する知見の無さで実質的な理解はないままであるということは冒頭で述べておきたいと思う。まず「富士氏の系図」には2つ種類がある。



①【和邇氏系図】
『各家系譜』(中田憲信稿本、国立国会図書館蔵)に「大久保家家譜草稿」があり、その中に「和邇氏系図」が収められている。ちなみにこれは姓氏研究の大家であった太田亮氏が収録したものであるが、田中卓『壬申の乱とその後』に「私は原本を求めて、先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽くして探して下されたが、遂に見当たらなかった」と記されているように、今現在は所在不明である

②【富士大宮司(和邇部臣)系図】
もう1つは静岡県史所収のものであり、「富士大宮司(和邇部臣)系図)」がある。

仁藤敦史氏はこの2つの系図について以下のように説明している。

県史所収の系図と『各家系譜』所収の系図を比較するならば、後者が前者のオリジナルな記載を簡略化し、『日本書紀』や『続日本紀』により和邇部臣君手の記載を加えるなど、諸史料により整合させており、前者が史料としては先行し、重視すべきと考えられる。

としている。系図の概要は以下のようなものである。孝昭天皇の子孫を称し、延暦14年に豊麿が富士郡大領となって以降代々富士氏が大領を務めていたとする。11世紀頃には和迩部臣の「判官代」「公文所」といった国衛への転身を示すが(雑色人郡司と十世紀以降の郡司制度)、それでも大領で有り続けていたことを示す形である。

系図の信憑性については論者により大いに左右されるところがあり、未だそれは変わらないだろう。まず、「和邇氏系図」に関する議論について述べていきたい。和邇氏系図については、概ね以下の点が前向きな材料として捉えられていた。

  1. 『薩摩国風土記』や『旧事紀』の記事が校訂できる
  2. 系図中に群制以前の「評」の表記が見える

これらの点が信憑性を支持する声の元となっているようである。系図中に見える「彦汝命」について田中卓氏は以下のように述べている

ここに見える「彦汝命」は播磨国風土記によってのみ知られる名前であり、しかも風土記には「比古汝弟」とあって用字を異にし、直接の母子関係は認められない。(中略)それのみではない。この系譜の末尾に見える「真侶古命」についても、之は容易に偽作出来る性質のものではない

とし、「真侶古命」の記述に関連して「一般に偽作者の到底なしえないところ」としている。つまり信憑性を高く評価しているのである。また佐伯有清氏は以下のように述べる。

これらの他に、『和邇氏系図』の価値を1つあげれば、春日・柿本・小野・櫟井の諸氏の祖として、米餅搗大臣命の子の人華臣をあげていることである。(中略)系図のこの記載は、『新撰姓氏録』とは別の古い初伝にもとづいているものであって、この系図の信憑性を高める一証となろう。さらに忍勝の尻付に、「大倭添県大宅郷住、負大宅臣姓」とみえ、また山栗臣のもとに、「居高市評久米里負久米臣姓」とあることなどは、『和邇氏系図』の独自な初伝であって、諸般の事情からみて、これらの記載は、はるか後世の捏造とは思われない。ことに「高市評」とあるような郡制以前の「評」の表記がみえるのは、この系図が古い史実を伝えているといえるのである。

とし、信憑性とその独自性を評価している。しかし比護隆界氏は1について「完全に校訂できるわけではない」とし、また「やはり造作されている可能性がある」として信憑性を否定している。

「押媛命」の弟として記される「和爾日子押人命」の名は他の文献には見えないといい、これらのような例がいくつか散見され、この系図の独自性を示す一端となっている。これらの検討の結果、比護隆界氏は和爾日子押人命について「実体の伴わない極めて観念的な名辞」としている。比護氏は大きく以下の問題点を挙げられている。


  1. 「和爾日子押人命」以外は全て記紀・姓氏録・旧事記等で復原できる
  2. 系譜の合理化の跡がある
  3. 和邇氏とは無縁の人物名や氏族名が含まれている
  4. 天足彦國押人命から彦国葺命まで五代四百年間、おおよそ一代八十年で統一されている


「合致点」と「一致しない点」が複雑に存在しており、総括としては「後代において形成された可能性が高い」としている。またこの系図の成立を「承和4年(837年)以降、とくに『先代旧事本紀』の成立以降」としている。

また佐藤雅明氏は「富士大宮司系図」について「系図に見える大石と豊麻呂との間には系譜に断絶があり大石以前の系譜は駿河国富士郡の在地豪族である大宮司家の系譜としては参考にならないと思う」としている。また「和邇氏系図」については「弟足以前の系譜と豊麻呂以後の系譜との間にが断絶がある」としている。和邇氏系図には「宗人」の名が見え、その細註に

神護景雲二年四月任駿河掾

とある。これは宗人の駿河掾の着任を示すものであるが、この記録により初めて豊麻呂以後の系譜とつながりが生まれているとしている。つまり豊麻呂より以前の部分は駿河国との関係がないとし、大宮司家の歴史としては考えづらいと暗に指摘している。要約すると「豊麻呂以後は信憑性が認められるが豊麻呂より前の部分については大変疑わしく、和邇部からの流れは考えづらい」としているのである。

これらの論考を見て仁藤敦史氏は

系図の史料批判は今後も継続すべきであるが、系図の後半部の骨格を信頼する限り、富士郡の郡領氏族としての和邇部臣氏を明瞭に否定する論拠は見いだせない。むしろ駿河郡や伊豆国田方郡におけるにおける春日部の分布や近接する伊豆国那賀郡にも「郡司擬少領」として「丸部大麻呂」が確認されることからすれば、蓋然性は高いと考える

としている。また「スルガ国造とスルガ国」では「富士大宮司系図」における豊麿の立ち位置に着目している。

注目されるのは豊麿の孫にあたる女性が、駿河郡大領であった金刺舎人道万呂の妻になっていることで、和邇部臣氏と金刺舎人氏との婚姻関係が確認される。

としている。中央(奈良に本拠を持つ)で一大勢力を推すワニ氏は後に春日氏に改姓するが、それは欽明朝のことであり、富士地区に存在している「ワニ」の一族と中央の「ワニ氏」との関係は欽明朝以前であろうとしている(改姓後に関係していたら「ワニ」は富士地区には存在しないはずということ)。もちろんこれらも系図を十分に信用した場合の話であるが、駿河郡に居た金刺氏と関係が見えてくることはおかしなことではない。

豊麿の大領就任とそれ以後の同族継承、そして延暦20年の富士山噴火を契機とした浅間神社祭祀への関わり。これらの点は各論者に違和感なく迎えられているように見受けられた。

  • 参考文献
  1. 仁藤敦史,「駿河郡周辺の古代氏族」『裾野市史研究』第10号,1998
  2. 田中卓,『壬申の乱とその前後』(田中卓著作集5),1998
  3. 佐伯有清,「山上憶良と栗田氏の同族」『日本古代氏族の研究 』,1985
  4. 比護隆界,「氏族系譜の形成とその信憑性 : 駿河浅間神社所蔵『和邇氏系図』について」『日本古代史論輯』,1988
  5. 森公章,「雑色人郡司と十世紀以降の郡司制度」『弘前大学國史研究 106』,1999
  6. 仁藤敦史,「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』第4号,1992
  7. 佐藤雅明, 「古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-」『地方史静岡』第24号,1996

2018年8月3日金曜日

今川氏輝による富士宮若の馬廻登用について

今川氏輝は第10代今川氏当主である。次代は今川義元であるが、今川氏輝の政策として「馬廻衆の形成」は良く知られるところである。

小和田哲男『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』には以下のようにある。

氏親・寿桂尼段階に見られず、氏輝が実質的に政治を執るようになってはじめてあらわれた施策のもう1つが馬廻衆の編成である。(中略)この馬廻衆にあたる直属軍は氏親のときにはなかった、それが、天文元年11月27日付の氏輝判物にみえる。(中略)というように、富士宮若に、星山代官職を安堵する代わりに馬廻としての奉行を求めている。宛名の富士宮若というのは、正しくは富士宮若丸のことで、国人領主富士氏当主の子。すなわち、氏輝は、有力武将の子ども世代の若者を親衛隊に組織しようとしていたことが分かる。それは、天文3年7月13日付の興津藤兵衛尉正信宛の氏輝判物に、知行分の安堵をした上で「将又子彌四郎馬廻に相定むる上は、彌奉行を抽んずべき所、仍って件の如し」と記していることからも明らかである

以下が、その判物である。

※「富士宮若殿」の部分は切れています

天文元年(1532年)のことである(「宮若(丸)」は幼名である)。この時の富士氏はどのような状況であったのだろうか。「富士氏の上洛と富士と今川」にあるように、15世紀末の段階で富士氏は今川氏と距離を置いているように見受けられるし、あまり接点はない。それ以前の時代に至ってはむしろ今川氏と対立している。しかし『勝山記』の大永元年(1521年)の記録に「富士勢負玉フ」とあり、武田信虎との戦で富士氏が出陣している事が分かるのであり、このとき今川陣営であったのである。この今川陣営としての行動が一時的なものであったかどうかは、史料数が少なく分からない。しかしこの判物からは今川氏への家臣化が感じ取れるのであり、『勝山記』と合わせて考えると、16世紀前半に富士氏は今川氏と近接するようになったと言える。これは今川氏の領国経営の盤石化に伴う富士氏の方向転換とも捉えられるし、ついに今川氏は富士氏を取り込むことに成功したわけである。

またこの時期の富士上方はどうであっただろうか。天文初期の今川氏は武田氏と対立しており、天文4年には鳥並(富士宮市)の地が武田軍によって焼き払われている。



このような緊張を想定し、軍事的な体制を盤石にしたいという意図もあったであろうか。


大石泰史「今川氏家中の実態―「奉行衆」「側近衆」「年寄中」の検討から」には、以下のようにある。

本史料は、今川氏輝が大宮城(富士宮市)の大宮司富士家の嫡流と思しき宮若に、馬廻の奉行を星山の代官職を、従来通り勤めるよう述べたものである。(中略)今川氏の場合は不明ながらも、北条氏と類似していた可能性はあろう。たった2点の史料しか存在しないので不分明だが、大宮城主の富士氏および横山城主の興津氏の当主に近い人物が任命されているので、城主クラスの近親者に限られているようにも見受けられる。ただ、大名権力が在地側と妥協しながら様々な状況を打開していったことを考慮すると、すべてそうした階層であったとは考えにくい。また富士氏も興津氏も、永享期に第6代将軍足利義教が駿河今川氏の後継者と認めた今川範忠の駿河入国を承認しなかった駿東地域の「国人」で、完全なる今川氏の「譜代」被官というわけではなかった。そのような彼らを内部に取り込み、併せて当主に近任させることで、当主の目が届くところに置かせる=証人=人質としていたと判断される。

としている。まず「今川範忠に対する入国拒否」については「室町幕府と富士氏」にて記している。


この文書は永享6年(1434年)に比定されている文書で、今川貞秋の駿河国への入国を「当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人ら」(または明確に今川範忠支持を示さない者)に伝える文書であり、範忠体制への忠節を求める内容である。「当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人ら」≒「今川範忠の駿河国入国を拒否した者」と言って良いのであるが、確かに興津氏もそうであった。氏輝当主のこの時代に、これら過去の動向がどの程度影響をもったかは分からない。ただやはり氏輝は、完全には今川氏に恭順の意を示さない富士氏のような領主層を取り込みたかったのだと考えられる。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,『今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く』,ミネルヴァ書房,2004
  2. 大石泰史,「今川氏家中の実態―「奉行衆」「側近衆」「年寄中」の検討から」『戦国期政治史論集 東国編』,2017
  3. 長谷川弘道,「戦国大名今川氏の使僧東泉院について」『戦国史研究』第25号,1993

2018年7月3日火曜日

富士宮市の基本情報及び富士山との関係

このページは「富士宮市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。ただこのページは「歴史」についても少し触れようと思います。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

富士宮市からの富士山
キーワード:
世界文化遺産、構成資産、富士山本宮浅間大社、富士上方、富士大宮司、富士氏、大宮城(富士城)、富士川舟運、中道往還、大宮(富士宮市の中心部の従来の地名、登山口)、村山(登山口、富士山修験道の中心地)

最低標高:35m  最高標高3,776m、標高差日本一

富士宮市は静岡県東部の市。富士山を主体として考えた際の静岡県側の中心自治体である。「富士宮」(=富士ノ宮)という富士山本宮浅間大社を指す古来の言葉が市名の由来である。中世より「富士上方」と称され、その範囲は現在の富士宮市域と概ね一致している。富士宮口新五合目が位置する、富士山への玄関口である。

歴史的に見てこの地で何が大きな事象とされていたかといえば、それは「富士大宮司の動向」であった。「富士大宮司」は富士氏の筆頭が名乗る神職名である。つまり以下の構造が見えてくるのである。

  • 富士氏:富士宮市を根拠地とした氏族
  • 富士大宮司:上の氏族の当主が名乗る「神社の神職名」
  • 富士山本宮浅間大社:上の神社のこと

これは先ず押さえておく必要があるだろう。富士氏は戦国時代には大宮城(富士城)の城主でもあった。

紫の箇所は護摩堂跡とされ、また周辺には三重塔もあった。大宮城は大社の東側に位置した

ここからは市域の下→上に移動しながら説明しておこうと思う。市域の下には富士川が流れており、この地域の人々は富士川舟運を糧としていた。「森家」や「沼久保の問屋跡」が知られる。

現在は両者は1つの市である

森家は市域でも「旧芝川町域」を根拠地としていたが、この芝川には「佐野氏」や「篠原氏」もおり、特に佐野姓は現在多く存在している。

また中道往還の存在がこの地域の文明を支えていたとも言え、中道往還沿いに富士山本宮浅間大社は位置している。


その一帯は古来より「大宮」と言い、登山道の起点である。大宮は戦国時代楽市が行われたことでも知られている。


以下はその朱印状である。

発給者:今川氏真 宛:富士信忠

また大宮より東北に「村山」という地があり、ここも登山口である。それをまとめた呼称が「大宮・村山口登山道」であり、以下のような地理的関係にある。


つまり「大宮」「村山」という富士山関係の主要な歴史地区が複数含まれているのが富士宮市なのである。そのため「富士宮市と富士山」という枠組みで歴史を説明するのは、あまりに大きすぎると言える。村山には富士山興法寺があり(以下の各施設群を総称した呼称であるが、主に中世の呼称)、それを管理する村山三坊が知られる。


大鏡坊・辻之坊・地西坊を合わせて「村山三坊」という。



世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。


構成資産
大宮・村山口登山道
富士山本宮浅間大社
山宮浅間神社
村山浅間神社
人穴富士講遺跡
白糸ノ滝

富士上方でもより上方に至ると富士五山の各寺が見えてくるし、構成資産のうち「人穴富士講遺跡」や「白糸ノ滝」も姿を見せてくる。

様々な「講」による建立物が現在も残る
人穴富士講遺跡には富士講信者による多くの建立物が残り、また白糸ノ滝にも関連する石碑がある。環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
61道の駅朝霧高原
62朝霧さわやかパーキング
63朝霧自然公園(朝霧アリーナ)
64田貫湖
65長者ヶ岳
66白糸の滝付近
67白糸自然公園
68狩宿下馬桜
69西臼塚駐車場
70天母山自然公園
71山宮浅間神社
72柚野の里
73興徳寺
74潤井川桜並木
75神田川御手洗橋
76富士山本宮浅間大社
77稲瀬川

また富士宮市は「特別天然記念物」を複数保持する市でもあり、1つは「湧玉池」ともう1つは「狩宿の下馬桜」である。狩宿の下馬桜は日本五大桜にも数えられる著名な一本桜である。市の最北部に行くと毛無山が位置するが、毛無山は鉱山でもあり、それは富士金山と呼ばれた。このように自然関係の文化財に恵まれた市と言えるだろう。


千居遺跡
以上が、「富士宮市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

  • 富士宮市における「富士〇〇」

富士宮市には「富士」を冠する歴史的名称が多い。これは周辺の静岡県の地域と比較しても圧倒的である。概ね、以下のようなものが該当する。

  1. 富士山
  2. 富士川
  3. 富士野(富士の巻狩の地)
  4. 富士氏
  5. 富士城(大宮城)
  6. 富士海苔
  7. 富士金山
  8. 富士五山(ここは含めたり含めなかったり。比較的最近の名称です)

実は「富士山の歴史」というのは、このうちの1つに過ぎないのである。このうち「3」と「6」と「8」は当ブログではまだ未着手である。

何より恐ろしいのは、富士宮市の刊行物を見ると「3」と「6」は出てきているのかさえ疑わしいことである。例えば、『富士野往来』も言及しているケースが殆ど無いように思われる。多くの時代に関して、同じようなことが言える。

「富士川と富士宮市」というテーマで論じるものも思いの外少ない。富士市が同テーマで企画展を、しかも複数回行っている点から考えても不可解である。「森家」や「富士山木引」といったことも、富士宮市の刊行物で見かけたことがない。そもそも「富士氏」自体も"取り上げている"とはとても言えない状態なのである。「等閑視の常態化」が垣間見えるのである。

実はこれらには共通項があり、「中世期」というワードが挙げられる。例えば富士宮市教育委員会による歴代の「調査報告書」を見ても、中世期を取り上げたものは殆どないのである。対して「古代」は多く見いだせる。このような両極端な状況は深く危惧するところであり、改善を求めたいところである。かなり可能性を狭める行為であると言わざるを得ない。