2012年9月24日月曜日

静岡県の富士山の神仏像

信仰という場合、「奉納」という形で篤い信仰心を表明する方法がありました。富士山の場合富士山中への神仏像の奉納や、浅間神社に対する奉納が繰り返されてきました。特に山頂というのは聖視されていたため、山頂への奉納は重要視されていたと思います。しかしそれら奉納物も廃仏毀釈により多くが取り壊されてしまいました。しかしながら少なからず下山仏も存在しています。以下ではそれら下山仏や浅間神社蔵の神仏像を取り上げています。像からでも、多くの歴史的事実は読み取れます。

  • 菩薩立像:享保4年(1719)


現在でいうところの久須志神社に存在していた仏像がこれである。現在は高砂酒造に保管されている。

老舗の「富士高砂酒造」
江戸神田の鋳物師が製作し、同所の人々が連名で山頂に奉納したものである。廃仏毀釈の動きの中、破壊されないよう運んだ下山仏である。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると以下のようにある。

岳薬師下山仏は今もなお、富士宮市内の酒屋に保管されている。村の共同作業によって仏は下ろされ、そのご苦労振る舞いに酒を飲んだが、その費用が捻出できず、飲代のかたに仏を酒屋に取られたという逸話が残っている

真偽は不明だが、村山の人たちの廃仏毀釈に抵抗しようとする姿勢は感じ取れる。


  • 大日如来像坐像:室町時代


大頂寺(富士宮市)蔵。頭部と両手は銅、体部は鉄の大日如来像である。頂上の初穂打場に存在していたとされる。廃仏毀釈の際に大頂寺に下ろされた下山仏である。


  • 大日如来坐像:正嘉3年(1259)


富士山における神仏像では古い部類のものであり(最古級)、非常に重要な大日如来像である。(近年他に木像が発見されたが、大日如来像としては変わらず最古級である)。大鏡坊(村山三坊)に伝来し、その後浅間神社の本殿に祀られたという。

銘は「敬白、奉造立倶金頭大日如来壱躰、正嘉三年未午正月廿八日、願心聖人・覚尊・□日・仏師□□」とある。またこの「覚尊」という人物であるが、『撰集抄』(鎌倉時代成立)に富士山の奥で庵を結んで生活していた僧として同じく「覚尊」という人物が挙げられており、同一人物ではないかという推察がなされている。

  • 大日如来像:文明10年(1478年)

村山浅間神社蔵。村山と大宮、双方による共同の造立・供用である。大宮は「富士氏」の富士忠時と富士親時親子による奉納である。村山は各坊からなる。銘などから分かる部分が多く、非常に重要な像である。木像からでも、15世紀の状況がよく分かる。「富士信仰の成立と村山修験」に銘がすべて掲載されている。


遠藤秀男氏は以下のように述べている。

文明10年に存在した坊は五坊で、後の元亀4年に修理を加えた時、左右の脇に四坊の名が加えられたようである。しかもそれらの盛衰を語る上うえで興味深いのは、村山三坊のうち辻之坊だけが後にでてきているということだ(続く)。

このように、銘から「三坊(というより当時の坊)のこと」「富士氏のこと」「富士山興法寺のこと」などが探求できる。例えば「大宮司前能登守忠時」とあるため、この時能登守ではなかったと考えることができる。「富士山興法寺」とあることから、このとき興法寺が存在していたことも証明できる。「大鏡坊成久」は富士忠時の兄と考えられている。また村山と大宮の関係を伺わせる重要なものである。

  • 参考文献
  1. 富士吉田市歴史民俗博物館,『図録 富士の神仏-吉田口登山道の彫像-』,2008年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978

2012年9月22日土曜日

絹本著色富士曼荼羅図を考える

「絹本著色富士曼荼羅図」(重要文化財指定)は富士曼荼羅図の代表である。参詣曼荼羅図において、特に絹本のもので現存するものはかなり限られており、絹本の富士曼荼羅図は3点しか現存しない(「参詣曼荼羅試論」による)。


「参詣曼荼羅試論」に準ずる

この絵画は狩野元信の壺形朱印があり、また本宮の社殿が浅間造でないことから、多くで室町時代作と考えられている。

壺形朱印(当図の右下)
当時の富士信仰を探るにおいて非常に重要なものである。近藤喜博氏は『神道史学』にて以下のように述べている。

この画家は少なくとも現実に大宮の社地を一度は踏んだことがあり、富士山の縁起や地誌的事を耳にして、筆をとっていると考えている

このようにこの曼荼羅図はデフォルトされた部分とは別に、信仰面においてはリアルな描写がされている。白衣姿の道者が登拝を行う姿、湧玉池にて禊を行う道者、その湧玉池の神聖な湧水の流れ…当時の登山風俗をよく示している。この図の中心にある水辺は「湧玉池」であり、それほど禊を重視しているとも取れる。また道者が火を灯しながら登山をしているため、夜行登山であることも分かる。頂上にある三峰、阿弥陀如来、薬師如来の描写も重要な部分である。「参詣曼荼羅試論」で大高氏は「本図の作成が富士登山信仰を絵解くことに目的があった」としている。富士山は山頂に至るほど神聖とされていたが、本図もそのような意識があったと考えられる。1つ1つの空間を意識させる構成のように思える。

当図は全体で237人の人物が描かれている。子供を除くと男性が209人、女性が22人であるという。道者とそれ以外の居住者が描かれており、各人物が如何様な身分であったかについて「参詣曼荼羅試論」では詳しく説明がなされている。


  • 日輪・月輪


この「日輪・月輪」の組み合わせは、他の曼荼羅図でも確認できる。『太平記』では後醍醐天皇が笠置山で掲げた旗が「日輪・月輪」の意匠であったと記している。

  • 清見寺付近



清見寺と境内の三重塔が描かれている。門前の門については、ほとんどの文献で「清見寺関」であるとされる。「海の東海道」にはこの関所について以下のように説明している。

船に乗った道者の着いたのは「蒲原船関」であろうという指摘があるが(永禄11年、駿府浅間神社文書)、それよりも吉原湊であると考えた方が、より直接的である

つまりここで「清見寺関」「蒲原船関」「吉原湊」の説があると言えるが、やはり「清見寺関」と考えるのが素直なように思える。

他、「船(駿河湾で八隻)」「道者」「海水を汲む者」や「連歌師」などが描かれている。

茶を販売する様子
船にも道者が乗っていることから、地上にいる道者も船でやってきたことを示している。

潤井川で禊をする者(左)
これらの図示から参詣曼荼羅試論では「参詣ルートを意識して描いていることが指摘できる」としている。

  • 富士山本宮浅間大社付近



湧玉池で禊をする道者が描かれており、すべて男性である。

流鏑馬神事
この白馬であるが、参詣曼荼羅試論では「白馬の前方に腰から空穂をさげた二名の者がおり、彼らが弓を携帯していることから、この図像は本宮の流鏑馬神事を示していよう」としている。本宮と流鏑馬の関係を示すものは、文書では「武田勝頼判物」が初見であると思われる。

大宮道者坊
大宮道者坊は、本宮の社人が営む道者坊である。

神官
社人と思われる。

  • 富士山興法寺付近



富士山興法寺の各建造物を示し、拝殿では巫女が舞う姿が見られる。


その前に見える道者数名は女性である。僧とそれに同行する数人の者が居る。また下部の「竜頭滝」には注目である。この中で1名のみ、巫女の前に立つ道者と同様の格好をした人物(女性)が禊をしている。解釈としては「女性でも禊を行なっていた可能性がある」ということになる。


上の僧の格好をした人物とその一行について、「この一行は、村山に文明18年(1486)に来訪した聖護院道興の一行を想起させるものがある」としている。服装が異なり、身分の高い高僧を意図している可能性は高いと思われる。

3名の女性

またこの3名の女性が居る位置より上では女性が見当たらず、これが女性が登拝できる限界点を示している。つまり「女人禁制」である。


また上の図の左の4人は白装束であり、またそれより上はすべて白装束姿であることから参詣曼荼羅試論では「この場所で全ての富士参詣者が白装束に身を包むことが、形式化していたことがわかる」と述べている。

松明をうける道者
また「富士信仰の成立と村山修験」で遠藤秀男氏はこのように説明している。

湧玉池では数人の男が裸で池水につかり、垢離をとっている。その上方には村山浅間が描かれて、ここでも水垢離をとる道者が表現されている。登山者はここから俗界との縁を切り、森林中の踏みわけ通を登り始める

このように「俗界」とそれらとは異なる「聖地」の境界があったとしている。その接点となる場所に浅間神社が存在するのである。ですから浅間神社は「門」にあたると言える。登山道でいうところの起点である。だから浅間神社境内またはそれに隣接する形で必ず禊の場があるし、道者は水垢離を行なってから登山に入ったのである。その世界観を示したのが「富士曼荼羅図」である。また村山に関しては「今川義元判物」にて「村山室中」と表現され、同判物の中で村山を聖域とする旨が示されている。「村山室中」という聖域としての空間があり、そこは世俗とは一線を画す特別な空間であったのである。

童子が道者を案内する様子
「富士信仰と曼荼羅」では以下のようにある。

この仏の世界をわが目で見、自らの体で触れることができるということを説くために、このような「俗界」「神域」「聖地」という三区域に分けた図柄がつくられたのではないかと思われる

この曼荼羅図は富士山信仰を広める目的があり、富士信仰を絵画という形で説いたものとしている。

尚「富士宮市立中央図書館」2階には原寸大のレプリカが展示されているので、興味ある方はどうぞ。

  • 追加部分

この図のいくつかの場所で、後に「追加された部分がある」と指摘されている。そしてそれを「人物図像を追加することによって、駿河国以東、東国方面からの富士参詣者の誘致を意図したのではないか」と説明している。禊に女性の道者が含まれている部分(この部分は追加された部分としている)などは「後に限界点の延長を示した故」としている。

  • 参考文献
  1. 大高康正,「参詣曼荼羅試論」『参詣曼荼羅の研究』,岩田書院,2012年
  2. 遠藤秀男, 「富士信仰の成立と村山修験」『富士・御嶽と中部霊山』(山岳宗教史研究叢書9),1978年
  3. 近藤幸男,「戦国期における村山修験」『地方史静岡第13号』,静岡県立中央図書館,1960年
  4. 平野栄次,「富士信仰と曼荼羅」『聖地と他界観』(仏教民俗学大系3),名著出版,1987年
  5. 若林淳之,『海の東海道』P14-17,静岡新聞社,1998年
  6. 皇學館大学佐川記念神道博物館編,「神社名宝展 : 参り・祈り・奉る : 皇學館大学創立百三十周年・再興五十周年記念特別展」,2012年

2012年9月15日土曜日

富士山麓の道者関と小山田氏

戦国期吉田御師の実像」にあるように、永禄2年(1560)に小山田信有は吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。これら悪銭は売買に支障をきたしていたとされる。この伝令は小山田氏が甲斐国の法度に準じていたものであったが、一方永禄4年(1562)に小山田信有は独自に、吉田御師の「刑部隼人」に来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えている。「役所」とは「関所」のことであり、小山田氏にとって「関所」という存在は外して考えることのできない重要な存在であったのである。

「武田氏の領国形成と小山田氏」では、上記の記録などから「富士参詣の道者のもたらす銭貨は、直接間接に、生産力に乏しい郡内を領した小山田氏にとって、主要な財源となった」とし、また「小山田氏が設置した関所から、間接には御師に賦課される諸役として徴収された」としている。関所と道者の関係は重要である。

武田晴信は弘治3年(1557)に富士御室浅間神社に願文を掲げ、同時に船津の関を撤廃することを約束した。



そうすると困るのは小山田氏である。なぜなら、上述のように小山田氏は道者が関所を通過する際に徴収する関銭を財源としていたため、これを撤廃されるということは、財源を失うことになるからである。そこで小山田氏は武田氏に抵抗するも、信玄は書状にて激しく叫弾したという。

永禄11年(1568)以来の武田氏の駿河侵攻に伴う甲相関係の悪化により、道者が激減していた。そのため小山田氏は元亀3年(1672年)に、関銭半減という手段で道者を勧誘することとした。それほど、道者の関銭というものは小山田氏にとって重要であったのである。また、過所や伝場手形を御師を中心として発給するなどしている。

そのような中小山田氏の自領経営は停滞し、「戦国期河口御師の実態」にあるように武田氏が御師に対して結びつきを強めるようになっている。情勢が悪化する中で、小山田氏は御師の諸役を免除するという保護政策を打ち出している。その文書の中で「対信茂」などとあるが、このように御師との結びつきを強める意図があった。しかしこれ以後、小山田氏による浅間社に対する保護や統制に関する資料はないという。つまり、小山田氏が道者関や郡内の御師を支配する時代はここで終えたのである。武田氏が浅間社への崇敬を掲げる中で交通路を掌握していき、道者関までをも管理し、御師を取り込んでいく中で、小山田氏の影響力は消えていったと言える。

  • 参考文献
堀内亨,「武田氏の領国形成と小山田氏」『富士吉田市史研究』第3号,1988年

戦国期吉田御師の実像

甲斐国の吉田地区は、富士信仰の拠点の1つである。その現在の山梨県富士吉田市に存在していた御師が「吉田御師」である。吉田御師は江戸時代以降に発生した富士講により大繁栄し、権力を得る。それは商業的成功による潤沢な資金源からなり、それが北口本宮冨士浅間神社の支配につながっていく(支配といっても良い気がする、ここは検討が必要)。この事実を考えると、逆に富士講成立以前の吉田御師の検討が重要である

まず富士講は江戸時代より以前には存在しておらず、隆盛は少なくとも18世紀中盤以降と考えられる。つまりは、少なくとも「~17世紀」までの記録において、富士講関連やそれに影響を受けた記録は存在していないと考えても良い。では吉田御師に関わる部分を取り上げたいと思います。

  • 小山田氏と御師衆
弘治2年(1556)に領主である小山田信有が吉田御師の「堀端坊」に前々のごとく諸役を免除する印判状を出している。このことから、河口御師同様に諸役として領主により掌握されている形態が確認できる。

永禄2年(1560)に小山田信有は、吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。「甲州悪銭法度(中略)一切被停止之間」や「当国被破法度」とあり、小山田氏が甲斐国の法度に準じていた(規制されていた)とされる。永禄4年(1562)に小山田信有は吉田御師の「刑部隼人」に、来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えた。武田氏の設けた法に準ずる部分と自らが出す権利が混在した状態であると考えられる。また「役所」とは「関所」のことである(道者関については「富士山麓の道者関と小山田氏」を参照)。

『妙法寺記』の永禄2年(1559)の記録に、吉田御師と小林和泉守との対立が記されている。これは宮川の川除木材伐採をめぐる「吉田の御師衆」と河口船津(現在の富士河口湖町)の地頭「小林和泉守」との対立である。そしてその判決は小山田氏に委ねられ、最終的に御師衆の主張が通っている。

  • 武田氏と御師衆 
『妙法寺記』の弘治2年(1556)の記録に、河口の有力者「小林尾張守」と吉田御師との対立が記されている。

小山田弥三郎殿御被官探題御座候而、地下衆歎モアリ喜も御座候。殊更尾州吉田衆に非分多く候間、二十人ひきわかさり…

これは小林尾張守貞親が吉田衆に対して非文を成したので、二十人程が小山田氏のもとへ訴え出たけれど判決が出ず、今度は甲府へ行って武田晴信の判決で処理されたというものである。「非文」とは吉田衆からみた視点であり、小林尾張守が勝手な灌漑を行なったことを御師衆が非文としたということである。

これをみると、上記の『妙法寺記』永禄2年(1559)の吉田御師と小林和泉守との対立との比較は重要である。つまり郡内に位置する御師衆は基本的に小山田氏を頼りにするも、行動が示されない場合は武田氏を頼りにするのも普通になっていたのである。それは、郡内において武田氏の存在が既に強くあったことを示している。『妙法寺記』には「甲州晴信公」とあり、郡内においても存在が大きくなっていたと言える。またこれらの資料から、御師は川口地区の有力者と日常的に対立していたことが分かる。川口は現在の富士河口湖町で、吉田御師は現在の富士吉田市に位置する。

永禄5年(1562)、武田氏は河口御師と吉田御師衆に「本栖之定番」を命じている。その文書はそれぞれ河口と吉田に送られている。本栖は駿河に通ずる「中道往還」上に位置しているため、国境警備上重要な地域であった。直接的な警備としては「九一色衆」が有名であるが、この文書では九一色衆だけでなく御師衆にも軍役を望んでいたと考えることができる。

  • 御師町
元亀3年(1572)の記録とされるものに「吉田村新宿帳」がある。これは吉田宿が消失したため、新宿を造ったために作成されたとされる。その人名や屋号から御師と推測されており、まとまった人数の御師衆が存在していたことが確認できる。そして「御師町」という形態が確認できる

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  2. 柴辻俊六,『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』P317-338,名著出版,1981年
  3. 笹本正治,「武田氏と国境」『甲府盆地-その歴史と地域性』,雄山閣 ,1984年

2012年9月14日金曜日

山梨県或いは甲斐国にて呼称される甲州とは

山梨県において現在でも使用されていると思われる言葉に、「甲州」という言葉がある。そしてそれは「=山梨県」として理解されている。しかし本当に歴史的にみて「甲州=山梨県」であったか検討していきたい。

「遊行縁起」(遊行上人縁起絵)/甲斐国御坂・川口を描いているとされ、河口での別れの場面

『山梨県の歴史』にはこのようにある。
元文五(1740)年、古文書調査のため甲斐を訪れた青木昆陽は、『甲州略記』に「郡内(都留郡)の人は、甲州とは別の一国のように思って、三郡(国中の山梨・八代・巨摩の三郡)を指して甲州という
つまり外部からきた人間が客観的に見て、甲州は「=甲斐国」とは感じていないわけです。

また甲斐国の地誌である『甲斐国志』の記述も重要です。

博物館だよりMARUBI №24
この資料にあるように、『甲斐国志』では上記の三郡に行くことを「甲州へ行く」と称しています。そしてそれは、郡内の人たちがそう意識していたわけです。

では、もっと古い歴史的資料ではどうでしょうか。

『妙法寺記』の永正15年(1518年)の記録にこのようにあります。
此年ノ五月駿河ト甲州都留郡和睦也
これは今川氏と小山田氏との和睦を示しています。この時期駿河と甲斐国は争いを繰り広げており、それに関する和睦です。この資料では「甲州都留郡」とあり、都留郡を甲州の中のものと認識しています。ちなみにこの前年の永正14年(1517年)、『妙法寺記』に「吉田自也国一和二定也」とあります。「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」によると、これは甲斐と駿河との和平を示しているとある。ではなぜ、その次の年に同様の和睦の記録があるのだろうか。それは永正14年のものは「今川氏と武田氏間の和睦」であり、永正15年のものは「今川氏と小山田氏との和睦」であるからである。つまり今川氏にとって小山田氏と武田氏は同列で、独自の外交権をもつ領主として認識されていたわけである。

と長くなりましたが、現在の富士河口湖町で記されたと考えられる『妙法寺記』の記録にて「甲州都留郡」とある事実は、重要である。

ちなみに、「郡内」に対して「国中」という言葉がある。これも歴史的資料にて互いを用いている例が確認できる。『妙法寺記』の永正7年(1510年)の記録にはこのようにある。
此春中国中都留郡御和睦落付
今川氏と小山田氏との和睦があった永正15年から8年前の年代であるが、この時代は武田氏と小山田氏が争っていた。この記録は、武田氏と小山田氏とで交わされた和睦の記録である。「国中都留郡御和睦」の「国中」が武田氏領で「都留郡」が小山田氏領である。つまりここでは「国中」と「都留郡」という言葉で、互いの地域を記しているのである。ここで「国中」と「都留郡」は異なる地域であるということが明確に分かる。

戦国時代の小山田氏と武田氏が争うような時代では、「甲州」といった場合都留郡を除くという意識はそれほどなかったと考えられる。しかし下って江戸時代辺りでは「甲州」といったとき、「都留郡を除く」という意味合いが明確にみられる。これは「国中=武田氏」、「郡内=小山田氏」という大きく対比された状況の中、武田氏の勢力拡大に伴い「甲州=武田氏」という認識が強まっていったことに関係があるように思える。つまり「(国中とか郡内などの言葉はあるが)甲州と言った場合やはり国中」という認識が強くなり、自然と甲州といった場合国中地域を指すようになったのではないか(逆に郡内という強い意識が生んだ可能性あり)。また国中と郡内は文化が大きく異なり、地域住民による「異にする」という意識がこれらの区別を後押ししたのかもしれない。しかし『甲斐国志』に従えば、むしろ郡内地域の住民が「甲州とは違う」と意識していたように感じられる。郡内の人は自分たちのことを「甲州人」などと決して言わなかったのではないかと思う。

  • 参考文献
  1. 『山梨県の歴史』,山川出版社,1999年
  2. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  3. 富士吉田市民俗歴史博物館,『博物館だよりMARUBI №24』,2005年

2012年9月4日火曜日

戦国期河口御師の実態

資料1
甲斐国の郡内に位置する河口地区は、富士信仰の拠点の1つである。そしてそのベースは、御師という存在を中心としている。富士山周辺における御師は比較的古くから存在しており、河口御師の検討は非常に重要である。

戦国期甲斐国側の浅間神社と領主武田氏と小山田氏」にあるように、当時の領主は御師を取り入れる工夫をしていたし、重視していた部分はあった。御師は宿坊の経営から資金を得ており、特に登山期は道者の急激な増加によりそれなりの資金を得ていたと思われる。つまり御師というのは、その地域において先頭に立てる位置づけにいたのである。なので領主からすれば、権力基盤として考えることもできたはずである(「戦国期吉田御師の実像」の「小山田氏と御師衆」を参照)。

天文13年(1544年)、小山田信有が河口御師の小河原土佐守と小河原助次郎に対し諸役を免除している記録が残る。つまり、諸役として領主により掌握されている形態が確認できる

<資料1>は、小山田信茂から川口御師の「中村与十郎」に与えられた印判状である。
このことから『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』では「屋敷」・「宿坊」・「名田」の3つが経営の基本であったとしている。

小山田信有が御室浅間神社の別当「小佐野越後守」に、構えのうち棟別五軒分を免除する印判状が<資料2>である。弘治2年(1556年)のものであるが、この記録などから『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』では「一人で数個の棟を構え、それを旦那所屋敷、つまり宿坊として世襲していた」としている。

御師と言えばよいか、御室浅間神社の別当の名称として記録上で「小佐野越後守」という名称を非常によく見かける。これらの記録はそれぞれ時期を異にするため、当然同じ人物ではない。つまりこれらは、世襲であると考えて良い気がする。ちなみに現在も郡内地域では小佐野姓はよくいる。

資料2




河口御師における小山田氏の記録の典型が上のものだとして、武田家によるものでは武田信玄の天文11年の記録が重視される。天文11年(1542年)3月7日に武田晴信は、河口御師の渋江右近丞に「河口道者坊」を「如前々」として安堵している。こちらも、諸役として領主により掌握されている形態が確認できる。この記録は、信玄と浅間神社との関係を示す最古とされる。また、河口道者坊についての古い記録でもある。天正8年の記録によると、武田氏は河口御師の高橋氏へ知行を宛行うなどしているという。つまり「天正期」になると武田氏の郡内への影響力が強まっていたと言える。西念寺の造営に関しても、道者から勧請を受けることを認めるなどしている。

天文15年(1546年)に武田晴信は河口御師の「御師駒屋」に対し、武田家の分国内での関所通過を認める印判状を出している。御師による広範囲の布教活動への助力としたと考えられる。また御師の中でも武田氏との直接の被官関係を結んだも者もいたとされ、「渡辺越前守」などが該当するとされる。

「武田家朱印状」,戦国遺文武田氏編一三一号文書

つまり御師は富士信仰を要とし、「屋敷」や「宿坊」を経営する中で資金を得ており、それを領主が権力基盤と考えていた。そういう中で小山田氏と武田氏とのせめぎ合いもあった。これら御師の中から神社の別当「小佐野越後守」が世襲され、「神社と御師」という連携を継続的に維持してきたと考えられる。

  • 参考文献
  1. 柴辻俊六,「戦国期社家衆の存在形態」『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』P317-338,名著出版,1981年
  2. 堀内亨,「武田氏の領国形成と小山田氏」『富士吉田市史研究』第3号,1988年
  3. 柴辻俊六・黒田基樹編,『戦国遺文 武田氏編1』,東京堂出版,2002年