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2026年5月28日木曜日

『富士の人穴草子』成立の背景を考える

『渓嵐拾葉集』巻三十七「弁財天縁起」江島縁起事(『大正新修大蔵経』七六)には「江島ノ縁起ハ相州大山寺ニ在之」とある。それに関連して(田中2021;p.110)には以下のようにある。


『渓嵐拾葉集』は比叡山の光宗によって南北朝期に作られた、天台宗の様々な教説・口伝を集めた百科事典といえる書物である。(中略)巻三十七「弁財天縁起」は二十四箇条からなり、天川・厳島・竹生島・江の島の縁起、また四箇所に箕面・脊振山を加えて六所弁才天とすること、その他弁才天に関する諸説を記す。「江島縁起事」は、大山寺にあるという「江島縁起」を略抄する。大山寺の「江島縁起」は現存せず、詳細はわかっていないが、記された縁起には、皇慶に代わって最澄の来島が語られることや、安然を法道和尚の子とすることなど、他本にはない内容が見られる


相州大山寺は、神奈川県伊勢原市の大山寺のことであろうか。大山寺所蔵「江島縁起」の成立時期は全く想像できるものではないが、言うまでもなく相当に古いものであり、『吾妻鏡』はこのようなものに取材したという可能性すらある。

『富士の人穴草子』は人穴の奥の世界を舞台としている。これは江島と人穴が繋がっているという伝承が起点となって、奥の世界に視点が移ったためではなかろうか。『人穴草子』の原点に、「江島縁起」があるという想定をしても良いのではないだろうか。

(田中2021;p.119)には以下のようにある。

道智の話の舞台が、F(註:『渓嵐拾葉集』のこと)のみ龍窟ではなく「新田四郎人穴」とされることについて、富士浅間信仰との関連を示唆する。(中略)その上で、Fを「江島縁起」の異本と位置付ける。

このようにあるが、富士浅間信仰との関連は一読した印象としてはあまり感じない。また相模国の寺院に伝わる縁起であることから、在地性が強いという点では変わらないだろう。

むしろこの「江島縁起」を基とした物語に富士山信仰が合流したものが『富士の人穴草子』ではないかという風にも思えてくる。『渓嵐拾葉集』と『富士の人穴草子』の共通点として、以下のようなものが見いだせる。

  • 洞穴が「人穴」であること
  • 新田四郎の名が見えること
  • 人穴に、女性の姿をした人ならざるものが居る
  • その者を通り過ぎること(または相対すること自体)が怒りに値することである
  • 相対した者は災いをもたらす存在という認識を持たれている(『渓嵐拾葉集』の場合「此島雖至于劫燒ノ時」とあり、災いをもたらす存在と見ている)

このように、無視できない一致点がある。『人穴草子』を見ると、両者(和田・新田)同じ洞窟に入っているというのに、化身の様相が異なっている。例えば『人穴草子』諸本のうち「常信筆絵詞之巻物」の場合は、和田胤長が人穴で化身に出会った際の表現として以下のように見える(田村2021;p.37)。

かたわらを見れは、年のよはひ十七八なる女ばう、十二ひとへをひきかさね、紅のはかまをふみしきたて

一方で新田忠常の場合は、以下のように記されているのである(田村2022;p.50-51)。

御姿を見れば、そのたけ十丈計なる(中略)大じやきこしめし…

このように和田の場合は「女」とあり、新田の場合は「大蛇」となっているのである。この差異は何故生まれたのであろうか。『人穴草子』を通しで読むと、なんだか2つの物語を合流させたような印象をうける。それ故に、化身の様相が異なるのではないだろうか。

『渓嵐拾葉集』の道智の話では本地が釈迦如来で、垂迹神は弁才天であった。そしてその化身が龍女と考えられるものであった。富士山信仰の場合、垂迹神は富士浅間大菩薩となる。

『人穴草子』において和田の場合は化身が「女」であったが、これが『江島縁起』由来のもので、新田の「富士浅間大菩薩」は富士山信仰の合流によるものとは考えられないだろうか。

(西野1971)では『人穴草子』は語り物として流布されたという想定がなされているが、仮に語り物であれば能「人穴」などはもっと歴史の中で演能されていて然るべきである。しかしあまり流行していたようには見えない。私は、語り物であったとは思えない。

諸本を検討する必要性はあるが、時間を要する作業となる上に環境も整っていないため、今回は1つの想定を示すに留まりたい。しかし人穴の歴史を考える上で『渓嵐拾葉集』の存在が等閑視されている感が拭えず、あまり実像に迫ることが出来ていないように思える点は危惧される。

  • 参考文献
  1. 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
  2. 田中亜美(2021)「「江島縁起」の諸本と研究史」『論叢アジアの文化と思想』、アジアの文化と思想の会、104-125
  3. 田村正彦(2021)「絵巻『冨士の人穴』(「常信筆絵詞之巻物」)について その一」『日本文学研究』60、大東文化大学日本文学会、31-43
  4. 田村正彦(2022)「絵巻『冨士の人穴』(「常信筆絵詞之巻物」)について その二」『日本文学研究』61、大東文化大学日本文学会、45-57

2026年5月20日水曜日

『渓嵐拾葉集』と『富士の人穴草子』との関係を考える

『渓嵐拾葉集』巻三十七「弁財天縁起」江島縁起事(『大正新修大蔵経』七六)には、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うといった内容が記されている。

葛飾北斎「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)

該当箇所は以下の部分である。


一。武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)。次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)。次道智法師彼島ニ籠テ奉誦法花經ヲ。其時ハ備飾饍。日本國女形テ薄衣ヲ著テ毎日ニ影向ス。道智龍女行方ヲ爲ニ知カ。藤ヲ衣ノスソニツク。遙尋行之程ニ。新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。此島雖至于劫燒ノ時藤ヲオホサント誓也(云云)。


諸本のうち反町本には「江島縁起事」「武烈天皇御宇」はない(藤原2011;p.14)。『渓嵐拾葉集』の作者である光宗は、『元応寺列祖帳』によると健治2年(1276)生まれで、観応元年(1350)没であるという(田中2003;p.7)。『渓嵐拾葉集』の執筆開始は延慶2年(1311)からである(田中2003;p.9)。

多くの諸本があり(田中2003;p.43-50)、転写本を原本として近世に編纂されたものも多い(田中2003;p,53)。しかしテキストとしては、光宗によるものと考えることが出来る。この年代の人穴の記録であることを考えると、十分に注意が払われる必要性があるが、これまであまり指摘されてはいない。

「武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)」の箇所に関しては、(田中2022;p.74)によると弁才天の本地が釈迦如来であることを示すという。

また「次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)」の箇所も、本地が釈迦如来であることを示すものという(田中2022;p.73)。

人穴に関する部分の意訳は、以下のようなものである。


道智法師が「かの島」に籠っていた際、法華経を読誦していた。その際は飾饍を備えていた。すると薄衣を着た女形の者が毎日姿を現すようになる。道智は龍女の行方を知るため、藤を衣の裾につけ追った。長い間にわたり龍女を追い、やがて新田四郎の人穴という所へと着いた。その時龍女は怒り、「この島が劫焼に襲われるようなことがあっても、藤で覆われる程までに戻すだろう」と誓いを述べるのであった。


道智法師が籠っていた「かの島」および龍女が言う「此島」とは、江島のことである。つまり江島が人穴に通じているという伝承は、14世紀前半にまで遡ることができるのであるそしてこの「龍女」は、弁才天と同一視できるものであろう。

そしてこの内容を見るに、『富士の人穴草子』との近似性は感じずには居られない。順序等は異なるとはいえ、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うという点で共通している。そして人穴に至った所で様相が一変していることから、人穴という場所に意味があるのである。

作者の光宗は「記家」とよばれる学僧であり、記家は中世の天台宗に生まれた独自の職掌であったという(田中2003;p.22)。そしてこの天台宗との関係を想定したものに(富士宮市2026;p.194)があり、以下のようにある。


加えて注目されるのが、室町時代初期の仏教説話集『三国伝記』最終話の「富士山事」との関わりである。『三国伝記』において、黒駒に乗って富士山に飛翔した聖徳太子が山頂の霊窟の穴に入り、大蛇と出会う光景は、新田が富士の人穴に入り浅間大菩薩の化身である大蛇と出会う場面と酷似し、『三国伝記』からの影響がうかがえる(小林2001)。これにより、近江を中心とした天台談義所のネットワークのなかで成立し、東国の伝承を広く取り込んだ『三国伝記』を原型として、『富士の人穴草子』が成立した道筋を想定できる


このようにあるが、そうだろうか。『三国伝記』を原型とするという想定であるが、『三国伝記』の成立は『渓嵐拾葉集』より時代を後にするものである。内容を見ても近似性は『渓嵐拾葉集』の方にある。したがって、『三国伝記』を原型とするとは思えない。

また、近江を中心とした天台談義所のネットワークのなかで成立したとも思えない。あくまでも『三国伝記』成立の背景としてに留まるものであろう。

「彼島」が江島を指すことから、人穴は早い段階で『江島縁起』の中にあったと言える。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。


卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

このような江島と人穴が繋がっているとの認識は相当に遡ると考えられ、『渓嵐拾葉集』はその影響を受けたものの1つと見て良いのではないだろうか。

  • 参考文献
  1. 田中貴子(2003)『『渓嵐拾葉集』の世界』、名古屋大学出版会
  2. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  3. 藤原重雄(2011)「反町茂雄氏所蔵『渓嵐拾葉集』弁才天部(翻刻・解題)」『神々のすがた・かたちをめぐる多面的研究』(島根県古代文化センター調査研究報告書)、14-17
  4. 田中亜美(2022)「文献と造像にみる弁才天と仏・菩薩・神との習合 -江島縁起を起点に-」『多元文化 11』、早稲田大学多元文化学会、67-93
  5. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市

2026年5月1日金曜日

源頼家の富士狩倉の絵画化例と仁田抜穴を考える

今回は源頼家の「富士の狩倉」の絵画化例を考えていきたい。本稿では頼家が敢行した巻狩りそれ自体を指して「富士狩倉」と記すこととする。

源頼家

『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月3日条に以下のようにある。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

また延慶2年(1311)から執筆されたとされる『渓嵐拾葉集』には、以下の一節がある。


新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。


前後の内容から考えるに、人穴は早い段階で「江島縁起」の中にあったと見るべきだろう。そして富士狩倉の絵画化例は、主に以下の2つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』等)
  2. 浮世絵/武者絵

まずこれらを体系的に検討した研究は無い。富士野の絵画化例(源頼朝敢行)の研究は限られつつも見られるが、こちらは更に少ない。

ただ明確な差異は注目されるべきところであり、富士狩倉に関しては屏風図化はなされていない。また源頼家が狩場に居る猫写などは管見の限り無いと思われる

これは「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」で記したような、武家政権の象徴的な意味合いが富士狩倉では薄まっていることが挙げられる。後世の武将らは、富士狩倉に象徴性は見いだせなかったのである。同じ巻狩でも、頼朝と頼家のそれはその後の扱い方を見るにあまりにも対照的である。以下では絵画化例を具体的に見ていきたい。

  • 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』)

奈良絵本は絵入り彩色写本が該当し、草双紙は絵入り小説本といえるものであるが、こと仁田忠常の人穴探索を題材にした群は『富士の人穴草子』として包括して扱われている節がある。その是非はともかくとして、とりあえず本稿では包括して扱う。

(中野1988;p.7)に「写本・版本ともに極めて多い」とあるように、多く現存する。しかし奈良絵本としては作例が限られるという(本井2003;p.471)。物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては諸本で差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていた。最古のものに室町時代後期写本(慶應義塾図書館蔵)が伝わっている。

(本井2003;p.478-480)に古活字版の挿絵を表化し説明したものがあったため、引用する。

場面
頼家の命を受ける平太(註:和田胤長のこと
和田義盛の宿所
平太の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴で多くの蛇に遭遇する平太たち
頼家に報告する平太
人穴探検に名乗りを上げる仁田四郎
仁田の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴の中で堂や御所を見る仁田
大蛇の出現
賽の河原を案内する大菩薩
三途の川の姥御前
罪人を釜で煮る獄卒
女房を来迎する天人、迦陵頻伽、阿弥陀三尊
火の車と業の秤
獄卒と罪人・十王の裁き
頼家に報告する仁田

やはり源頼家が狩場に居る猫写などはなく、武家政権の長としての権威を示す姿勢は感じられない。焦点は完全に人穴に向かっている。

物語の大筋の説明として「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

このように『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。


  • 『文武二道万石通』(天明8年(1788)刊)



『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ」で詳細を記したのでここでは省く。仁田忠常の人穴探索をオマージュした作品である。人穴の奥にそのまま進んでいくという点から言えば、『富士の人穴草子』の影響を受けていると見ても良い。

  • 各浮世絵/武者絵

以下に、確認できたもののみ挙げてみることとする。他にも作例は存在すると思われる(月岡芳年以降のものは取り上げない)。


歌川国芳「仁田四郎 冨士の人穴に入る」

作者年代作品名
歌川国芳天保12年(1841)頃「武勇見立十二支 仁田四郎」(『武勇見立十二支』)
歌川国芳江戸時代後期「仁田四郎 冨士の人穴に入る」
葛飾北斎嘉永3年(1850)「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)
歌川芳員嘉永6年(1853)「建仁三年源頼朝卿富士之御狩の時仁田ノ四郎忠常を依て人穴入ル図」
月岡芳年 「仁田四郎忠常」(『芳年武者无類』)
月岡芳年明治22(1889)から同25年にかけて制作「仁田忠常洞中に奇異を見る図」(『新形三十六怪撰』)

代表として葛飾北斎のものを解説していく。『絵本和漢誉』は序文に「嘉永ミとセ卯月日」とあり、嘉永3年(1850)刊行の武者絵集である。

うち「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」であるが、右側に人穴内で松明に火を灯した仁田忠常が描かれ、左側には大河があり、そちらから光が射し込む構図となっている。『吾妻鏡』の世界観を反映した図となっている。

これら浮世絵も"『富士の人穴草子』に影響を受け"といった文面で紹介されることがあるが、純粋に『吾妻鏡』の世界観を表現したに過ぎないという可能性は否定できない。


【人穴と江島/芝生浅間神社】

人穴は別の洞窟に繋がっていると流布されていた。これは『吾妻鏡』には見られない内容である。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

貞享2年(1685)『新編鎌倉志』巻之六には以下のようにある。

仁田四郎抜穴 
龍池の東にあり。穴二つあり。俗に二つやぐらとも云。仁田四郎忠常、富士の人穴より此へ抜出たりと云傳ふ。【東鑑】に、建仁三年六月三日、頼家将軍、仁田四郎忠常を、富士山人穴に遣し、其所を究め見せしめ給。一日一夜を経て帰るとあり。此所へ抜出たりとはなし。

この伝承を絵画化したものが認められ、それらは人穴を直接描いたとは言い難いが、以下で取り上げていく。またそれらを見てみると、繋がる先の洞窟がそれぞれ異なる場所を指しているものが存在していることが判明する。その差異についても言及する。


  • 『江島大艸紙』(宝暦9年(1759))

宝暦9年(1759)の沙門因静『江島大艸紙』には以下のようにある。

仁田抜穴 山二ツヨリ南ノ石壁二昔ハ穴ノ形チ有シトナリ、今ハナシ伝フ、仁田忠常富士ノ人穴ヨリ入テ此山ノ半腹ヘ抜ケ出タリト云。東鑑ニ建仁三年仁田忠常富士ノ人穴ヘ入シ事ヲ載タリ。然レモ此趣ト異ナリ。

そしてこの「仁田抜穴」は『江島大艸紙』中の「相州江島画図」内にて図示されている。これらについて(藤澤1932;p.165)は「仁田抜穴は人口に喧しいが、全くは、例の甲賀三郎怪異傳の生み出した徳川時代の捏造である」とする。しかし甲賀三郎譚と仁田抜穴は両者それほど近似性は無く、甲賀三郎譚から由来するとは言えないように思う。また徳川時代とも言えないだろう。

寛政9年(1797)刊行『東海道名所図会』には、仁田抜穴について以下のようにある(粕2001;p.173)。

仁田抜穴
竜窟の東という。今さだかならず。俗諺にいわく、仁田四郎忠常、富士の人穴より入って、この山の半腹へ抜け出でたりという。富士の人穴のこと前巻に見えたり。然れども江の島へぬけ出でたりということ、旧記に見えず。

『江島大艸紙』でいう「山二つより南の石壁」と『東海道名所図会』でいう「竜窟の東」が完全に一致するのかは分からない。


  • 落合芳幾『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』(万延元年(1860))

みゆネットふじさわ」に説明がある。同HPによると"神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間に位置する浅間神社にある「富士の人穴」と呼ばれる横穴は、富士山に繋がっていると考えられており、東海道中の名所となっていました。画中では人穴をのぞこうとした喜多さんが、地面に転がり落ちてしまいました。"とある。

この浅間神社とは何処を指すのだろうか。(神奈川県立歴史博物館2013;p.33)には以下のようにある。

富士の人穴
 宿場を超えた芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町)にあった横穴のこと。『江戸名所図会』(1-11)中の「浅間社」や「東海道五十三次之内 神奈川宿」(2-11)「見立役者五十三対ノ内 神奈川」(2-12)では、人々が浅間神社の鳥居をくぐり、しめ縄を張った穴に向かって登っていく様子が描かれている
 また、道中記には、「民家のかたわらに穴二つ有。冨士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也。」(『諸国道中袖鏡』1-20)とあり、これが『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月の項に見える、源頼家の富士の巻狩りの時に仁田四郎主従六人が入った人穴が芝生の横穴であるとして、一時認識されていたことがわかる。
 昭和56(1981)には、浅間神社下の崖面から古墳時代の横穴墓九基が発掘された。道中記や浮世絵では「穴は二つ」とされており、数は合わないものの、仮名垣魯文作、落合芳幾画の「東海道中栗毛彌次馬    神奈川」(2-13)では、北(喜多)八が穴の中を覗いているうちに「赤土」で滑って転ぶ情景が描かれ、人穴が横穴墓であったことを想起させる。

つまり『照高院興意様関東御下向略記』・『新編鎌倉志』・『江島大艸紙』は同場所を指していると考えられ、一方『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』『江戸名所図会』『東海道五十三次之内 神奈川宿』『見立役者五十三対ノ内 神奈川』は芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町1-19-10)を描いているものと考えられる。また同地が「浅間町」である点にも注意が払われる必要性がある。

『諸国道中袖鏡』に

民家のかたわらに穴二つ有。富士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入たる人穴なりと云ハあやまり也

とあるが、これは江島の方を"正"とする意図と取ってよいかもしれない。

  • おわりに

以下に万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳を記す。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していた。

江戸時代も『吾妻鏡』は多く読まれていたようであるから、必ずしもすべてが六道を表現したものではなく、純粋に『吾妻鏡』の世界観の域を出ないものもあると考える。しかしこの絵画化例の多さは人穴の知名度の高さを裏付けるものである。

源頼朝の巻狩りと頼家の富士狩倉を合わせただけでも、絵画化例は相当数になる。この事実は、富士宮市の歴史的立ち位置を自ずから示すものと言える。各画集などを見た時、「倶利伽羅峠の戦い」や「那須与一と扇の的」といったものは多く目にする。しかしながら同じ地で複数の題材で多数絵画化されてきた地域は、それほど多くはないのではないだろうか。特にその絶対量は圧巻と言える。

  • 参考文献
  1. 藤沢衛彦(1932)『日本伝説研究 第6巻』、六文館
  2. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  3. 中野幸一(1998)『奈良絵本絵巻集4 伊勢物語・富士の人穴』、早稲田大学出版部
  4. 粕谷宏紀監修(2001)『新訂 東海道名所図会 下』、ぺりかん社 
  5. 本井牧子(2003)「『富士草紙』解題」『京都大学蔵 むろまちものがたり1 しづか(三種)・緑弥生・富士草紙』、 臨川書店
  6. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  7. 奈川県立歴史博物館編(2013)『江戸時代かながわの旅 「道中記」の世界 : 特別展
  8. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

2025年9月7日日曜日

『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ

以下に3年前のXの投稿を引用したい。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関するものである。


この「今回」とは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第25回(6月26日)「 天が望んだ男」放送回のことである。『文武二道万石通』とは、朋誠堂喜三二(平沢常富)作の滑稽本であり、知名度が高い作品である。右の采配を振るう人物が畠山重忠であり、左の洞穴は「人穴」(静岡県富士宮市)である。人穴は極めて知名度が高く、『文武二道万石通』だけでなく様々な作品に登場する。

さて重忠であるが、「梅鉢」の紋の直垂を着用していることが分かる。しかし重忠の紋は本来梅鉢ではない。実はこれは、本当は別の人物を示しているのである。つまり重忠という体にしてはいるが、別の人物であると喜三二は暗に伝えているのである。その人物とは、時の老中「松平定信」である。


朋誠堂 喜三二

この場面は人穴に鎌倉の御家人が入り、ふるいに掛けられる場面である。結果「文」「武」「ぬらくら」の3つに選別される。「文雅洞」から出てきた武士が「文」、「妖怪窟」から出てきた武士が「武」、「長生不老門」から出てきた武士は「ぬらくら」である。

勿論喜三二の意図は別にあり、実際は鎌倉の御家人ではない。「長生不老門」から出てきた武士らは田沼意次ないし意次派の武士を暗に示す形となっている。つまり『文武二道万石通』は、定信の「寛政の改革」を風刺した作品なのである。具体的なストーリーについては『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)を御参照頂きたい。



大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第36回(9月18日)「武士の鑑」放送回で重忠は死する。ここで述べたように、当時の人穴のイメージを考えることは重要であると考える。

この「武士の鑑」というタイトルであるが、重忠は歴史の中でそのような像で実際に語られている。『文武二道万石通』で重忠が題材となったのは、やはり近世において「武士の鑑」というイメージが流布されており、それが「ぬらくら武士」を見極める役として適当と喜三二が考えためではないだろうか。重忠がなぜ武士の鑑とされたのかについては本稿では触れないが、理由としてはまさにここにある。

そして本稿では"何故喜三二は人穴を題材としたのか"という点を考えていきたいが、背景としてまず『吾妻鏡』の存在を挙げなければならない。富士の洞穴「人穴」を探索するという内容の初見が『吾妻鏡』なのである。(五来1991;p.79)は"地獄破りの初見"であるとしている。ではその箇所を以下に引用する。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。


源頼家


頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

(西野1971;p.40)にあるように、人穴を浅間大菩薩の御在所とする信仰が当時すでに認められるという事実は重要であろう。(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである

大前提として、大元の題材はここにあるということは把握しておきたい。


『文武二道万石通』


さて『文武二道万石通』という作品自体に目を通すと、物語の舞台を鎌倉時代で統一できるところに、当時の文化人の知見の深さが現れているといえる。またぬらくら武士選別の舞台を「人穴」に設定するという斬新さも面白い。やはり作家として抜きん出たものがあると思う。

しかしこのアイディアは喜三二固有のものであったのだろうか。(小山2005;p.43)によると『文武二道万石通』と同年の山東京伝作『仁田四郎 富士之人穴見物』においても、表題にあるように人穴を題材としているし、また今度は仁田四郎が松平定信であるという。小山氏は仁田四郎=松平定信説を支持しているが、論稿内ではこれに意を唱える論の存在も示されているということを付け加えておく。


山東京伝

しかしここで考えていきたいのは、松平定信に対する揶揄のその舞台として、異なる作品であるのにも関わらず人穴が登場することである。であるから、ここには何か特別な背景があると考えられるのである。この点に関してはもう少し調べを進めてみないと分からない。もっとも小山氏もその点を疑問に思ったようである。

そして『文武二道万石通』と『仁田四郎 富士之人穴見物』両作品は、ある御伽草子の影響を受けているとも考えられている。それこそが、引用文で見えた『富士の人穴草子』(以下、『人穴草子』)である。『人穴草子』は小山氏の一連の報告に詳しいが、あまり読めていないので詳細は別で機会を設けたいと思う。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていたとされる。これは『吾妻鏡』の記述を下敷きにした作品である。多くの写本が残るが、物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては写本によって差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。

人穴を取り上げた別の史料を見ていこう。以下は万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳である。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していたのだろう。

また人穴は江ノ島の岩屋洞窟に繋がっていると流布されていた。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

既に近世初期には認められるため、中世には既に流布されていたのではないだろうか。この伝承の初見は調べていないが、検討の余地がある。ちなみに『吾妻鏡』には江島に出たという記述はない。

また人穴は能作品にもなっている(芳賀・佐佐木1915;p.201-203)。謡本もそれなりに流布されていたように思われ、(伊海・今泉2007)だけで見ても「伊達本番外謡(19)」「新謡曲百番(52)」「吉川本番外曲(56)」などに確認される。また延宝4年(1676)の芭蕉一座の連句作品には「人穴ふかきはや桶の底」とある(阿部1965;p.173)。

このように人穴は一通り様々な表現の中に組み込まれたと言ってよいだろう。ただ能〈人穴〉に関して言えば、歴史の中でそれほど演能されていたようには思えない。仮に『人穴草子』が語り物であったとした場合、もう少し能〈人穴〉の演能記録が伴っても良いように思えるが、どうだろうか。

また人穴探索を題材とした作品群を単純に"『人穴草子』を典拠として/影響を受け"としていいものだろうかという疑問もある。例えば『富士野往来』も『曽我物語』と一致する部分は限られ、独立した部分の方が圧倒的に多い。

このように人穴探索を題材とする作品の中に、『人穴草子』に全く影響を受けていないものも存在したのではないかという疑念はある。しかし人穴の知名度の高さの背景に『人穴草子』は関係するだろうし、『驢鞍橋』にあるように"穴の奥に試練があり"、"試される場"であったというイメージが広く流布されていたものと考えられる。そのイメージが、朋誠堂喜三二や山東京伝の筆を動かしたと言える。

  • まとめ

富士宮市の歴史が江戸文化の中に深く入り込んでいたことは疑いの余地がない。絵画化の題材にもなったため、富士宮市を描いた浮世絵も枚挙に暇がない。芸能も「曽我物」が良い例である。

これらが「富士の巻狩り」「富士の狩倉」から由来することは間違いないが、流布される過程をもう少し細かく考えていく必要性はあると思う。そして"一通り様々な表現の中に組み込まれた"それら一群を、詳細に分析していくことが求められるだろう。

  • 参考文献
  1. 芳賀矢一・佐佐木信綱(1915)『校註 謡曲叢書 第3巻』、博文堂
  2. 阿部正美(1965)『芭蕉連句抄』、明治書院
  3. 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
  4. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  5. 五来重(1991)『日本人の地獄と極楽』、人文書院
  6. 棚橋ら(1999)『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)、小学館
  7. 小山一成(2005)「彙報 平成17年度特別講演要旨 黄表紙 『仁田四郎 富士之人穴見物』をめぐって」『立正大学人文科学研究所年報 43』、立正大学人文科学研究所、42-44
  8. 伊海 孝充・今泉 隆裕(2007)「田中允文庫蔵書目録(上)(付解題)」『能楽研究所紀要 32』、法政大学能楽研究所、49-106
  9. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  10. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

2023年1月1日日曜日

徳川家康および徳川家臣団と富士宮市・富士市

今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公は、徳川家康である。




徳川家康は、現在の富士宮市域に何度も足を運んでいることが史料から知られる。そして、当地に関わる徳川家康文書も多く確認されている。

しかし今回は各徳川家康文書を見ていくのではなくて、大局的に①「武田征伐後」②「本能寺の変後」③「徳川家康の関東移封後」と大きく捉えていきたいと思う。これらはすべて天正期にあたる。その中で現在の富士宮市で起こった徳川家康およびその家臣団が関わる出来事について考えていきたい。

  • 武田征伐後

天正10年(1582)4月、甲斐の武田氏を滅亡させた織田信長はその帰路で中道往還を用いて富士大宮(富士宮市)へと到る。そして同盟者である家康もこのとき出向いている。その様子が『信長公記』に記されている。

織田信長

『信長公記』は天正10年4月12日の動向を

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ…

と記す。ここに見える行程を記すと

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

となる。ここで人穴の後に「浮島ヶ原」が出てくるのはおかしいので、地名を誤ったのであろう(※原本要確認)。少なくとも、中道往還を上から降ってきていることは明らかである。また三条西実枝『甲信紀行の歌』の記録と併せて考えると、神野は井出より北部に位置すると思われる。なので「本栖→神野→井出」としても良いように思われる。

大宮を発った後に浮島ヶ原に向かい、その後富士川を超え庵原郡の蒲原に入ったとすれば行程に違和感はないため、実際の行程は

本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原

というものであったのだろう。以下では『信長公記』の内容をもう少し見ていきたい。

滅亡へと追いやられた武田氏の領国である甲斐国を超え、信長一行は駿河国に入る。気の緩みからか、神野ヶ原・井出野での小姓たちの自由な行動が記される(ちなみにこの「神野」は『吾妻鏡』にて曽我兄弟の仇討ちが行われた地として記される。『曽我物語』の方は「井出」としている。両方の地名が確認できる点からも重要な記録と言える)。

一行は人穴を見物し、ここに休憩所を設ける。その後浅間大社の社人たちが信長の元を訪れている。また源頼朝が狩倉の屋形を立てた「かみ井出の丸山」があったとする。「白糸の滝名所あり」と記し、白糸の滝がこの時代も名所として知られていたことが読み取れる。(この後浮島ヶ原に行ったとある)

また後北条軍の当地でのこれまでの動向を記し、中道往還や駿州往還を進んで大宮の伽藍等を焼き払い、更に本栖方面まで放火したとある。後北条氏が織田方の甲州征伐に呼応して武田領へ進軍したことを示している。「身方地、大宮の諸伽藍を初めとして」とあるが、ここでの「大宮」は「富士大宮」全体を指していると考えられる。

その後の「大宮は要害然るべきにつきて」であるが、"富士大宮は要害の地であるため、その富士大宮に位置する浅間大社に御座所・御陣宿を設けた"という解釈ではないかと思う。浅間大社を要害といっているのではなく、富士大宮という地を要害と述べ、御座所・御陣宿を設けるにふさわしい地であるという解釈が自然であろう。

また、浅間大社にて信長は家康に秘蔵の道具類を授けたことが記されている。その後は浮島ヶ原→蒲原へと向かっている。

『家忠日記』によると

天正10年4月11日条: 大宮まで帰陣候
翌12日条: 上様大宮まで御成候

とある。「帰陣」したのは松平家忠一行で、「上様」とは織田信長を指す。つまり『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していると言える。従って、この一連の記述はかなり信憑性が高いと言えるだろう。

  • 本能寺の変後

『家忠日記』天正10年(1582)7月8日条に「家康は大宮金宮迄着候」とある。家康は「本能寺の変」後に不安定となっていた織田領の信濃国へ向かう過程で大宮の「金宮」を通っている。

「金宮」は富士宮市淀師金之宮のことで、永禄12年(1569)12月17日「北条氏政判物」に

一所 よとし  金宮  とかみ

とあることでも知られる。「淀師」「金宮」「外神」が「一所」として記されていることから考えても、現在の富士宮市淀師金之宮を指すと考えてよいだろう。

またここで気になることがある。「上様大宮まで御成候」とあるように、家忠は織田信長のことは敬称で記しているが、一方で主君の家康のことは「家康は大宮金宮まで着候」と呼び捨てにしていることである。松平一族(出身)から見たとき、家康の存在はまだ敬称をつけるに相応しいとは考えられていなかったのだろう。しかしその後は敬称が認められるというので、立場の変化で周辺の受け止め方も変わっていったとみられる。

この年の家康の動きは大変なもので、本能寺の変後の天正10年(1582)6月から7月にかけて大坂→伊賀越→三河→遠江→駿河→甲斐→信濃を移動している。遠江・駿河・甲斐は浜松-掛川-江尻-大宮-精進-甲府と移動しているので、家康は東海道から中道往還に入っていることが分かる。

また『家忠日記』天正17年(1589)8月28日条に「殿様昨日大宮迄御成候」とある。以下で説明する「富士山木引」の最中に家康が富士大宮を通り、甲府へと向かっている。これも、中道往還が該当する。中道往還が重要な街道であったことが分かり、このイメージが重要ではないと思う。

  • 富士山木引

徳川家康家臣団の動きとして特筆すべきものに「富士山木引」がある。以下にその過程を記す。期間が極めて長いため、"木引き→川下し→吉原"の流れが把握できる箇所までを抜粋という形で記す。すべて『家忠日記』に見える内容である。


日時内容
天正17年(1589)7月9日家忠、富士山麓へ木引へ向かうよう指示を受ける
同19日家忠、普請の人夫を大宮まで向かわせる
同年8月3日賀島(現在の静岡県富士市)の舟手が来る家忠は上井出の小屋に到着(賀島の舟手は、おそらく富士川の渡河を意味すると思われる)
同4日家忠は酒井家次の普請組に入る(※前日の情報では井伊直政の普請組に入るとの情報であった)
同5日木引をしたが成果は乏しい
同6日雨のため道作りに留まる
同7日木引きで少し木を出す
同8日木引きを130人規模で行う
同9日木引きを進める
同10日木引きを進める。家忠、松平伊昌と朝比奈十左衛門をもてなす
同11日雨天中止
同12日木引きを進めるも雨降る
同13日雨天中止
同14日雨天中止
同15日木引きを進めるも雨降る
同16日木引きを進めるも雨で中止
同17日大木の調達が必要となったため、平岩親吉と酒井家次の組を動員することとなる。大木の木引きのための道作りを行う
同19日木引きを行う
同20日大木を引く。雨天
同21日木引きを行う。雨天
同22日材木調達。雨天
同23日木引きを進めるも雨で中止
同24日木引きを行う
同25日富士山に雪積もる。105人体制で木引き。
同26日富士山に雪積もる。木を上井出の小屋場に引き出す
同27日材木調達
同28日材木調達。家康が昨日大宮に到着、家忠は甲府へ向かう道筋まで出向いた
同29平岩親吉普請組の大木を平岩親吉と酒井家次の二組で沼久保まで引き出す手筈となり、その道まで引いた
同30日木引きを行う。大木を大き(註:青木に比定)まで引き出す
同年9月1日木引きを行う
同2日木引きを行う
同3日木引きを行う
同4日木引きを行う。沼久保の川へ木を運び入れる
同5日二十町分の材木を川下しした
同6日二十町分の材木を川下しした。夜より雨。
同7日洲に引っ掛かり川下しできず
同8日昼まで雨。雨による増水で木が流れる
同9日水深が浅く川下しできず。陸地を引いて運ぶ。野田衆と信州松尾衆間で喧嘩あり。
同10日木引きを行う
同11日木引きを行う
同12日木を吉原まで引き届けた。そこから舟に届ける。
同13日夜より雨。家忠、大宮へ帰る。
同19日木引きを行う。家忠は保科正直の小屋に陣替。


これらを見ると、駿河国富士郡の各地名が確認される。富士上方が「大宮」「上井出」「沼久保」「大き(青木)」であり、富士下方が「賀島」「吉原」である

松平家忠は9月2日時点では興津に居た。同3日に「賀島の舟手」とあるのは、富士川を渡河したことを示すと思われる。渡河後に北上し、富士上方の上井出に到着したわけである。

松平家忠

8月3日条に上井出の「小屋場」とあるが、同26日条でこの小屋場に木を引き出していることが分かるので、小屋場は木を集めておく場所であることが分かる。

そしてこの木引き事業には有力家臣が参加しており、松平家忠をはじめ酒井家次・井伊直政・本多忠勝・松平伊昌・平岩親吉・保科正直・奥平信昌・菅沼定盈・西郷家員・設楽貞通といった名だたる武将の名が見える。これらは全員富士上方一帯に居たと見てよいだろう。


井伊直政

また天正18年(1590)3月23日にも別件で「天神山」の材木を引いた記録が残るが、この天神山は上井出の山のことである。


天神山

天正18年の2月から3月にかけて富士郡・駿河郡は特筆すべき動向が認められるので、『家忠日記』より内容を引用する。


日時内容
天正18年(1590)2月10日徳川家康、賀島(静岡県富士市)まで到る
同13日松平家忠、吉原(静岡県富士市)の御茶屋の材料担当となる。材木の調達を進める
同14日家忠、吉原への陣替を命じられる
同15日家忠、吉原に陣替する
同16日家忠、御茶屋の材木調達を行う    
同年3月14日家忠の元に豊臣秀吉が吉原まで御成になるとの情報が入ったため、吉原に御陣屋の設営に向かう
同16日家忠、吉原の御陣屋の設営を行う
同18日家忠、材木調達を行う
同19日家忠、吉原の御陣屋を更に拡大させる
同20日家忠、吉原の普請に人員を向かわせる
同23日天神山(富士宮市上井出)にて材木を引く
同24日引き続き材木を引く
同26日豊臣秀吉、吉原に到る
同27日秀吉、沼津に到る
同29日山中城(三島市)を豊臣秀次が攻め落とす

 

ここで何故吉原に陣が敷かれたり御茶屋が設けられたりしたのかという点について、少し考えてみたい。

この天正18年2月というのはまさに「小田原征伐」が開始された時であり、そのために秀吉は東海道を用いて東国に遠征しているのである。そして吉原に御陣屋や御茶屋が設けられたということは、ここを「滞在場所」として想定していることになる。これは吉原周辺が安全地帯の東端に近いためであると思われる。

吉原や沼津が徳川方の領地であり、それより東に至ると後北条氏の手が及んでいるわけである。そのため吉原はその「境目」に位置すると言える。

そもそも吉原は、今川氏と後北条氏との争いの時点で既に「境目」としての位置づけがあったように思われる。例えば「駿甲相三国同盟」の際、武田信玄の長女である「黄梅院」が後北条氏側に引き渡されたのは「上野原」であり、これは武田領国と北条領国の境目である。また北条氏康長女である「早川殿」は、やはり今川領国と北条領国の境目である「三島」で引き渡されたのである。

沼津・三島が境目に該当し、そこに近接する吉原も同様の性質があったと思われるのである。吉原は今川領国と北条領国の境目の地に近接する緩衝地に近い役割があったと考えられる。

また「河東の乱」時の富士下方の動向が『快元僧都記』に見出だせる。北条氏綱は今川義元との対立にあたり吉原に着陣した。天文六年四月廿日条の記録によると、富士下方には「吉原之衆」がおり、これらは北条氏側に加担し今川氏と対立していたと見られる。このように着陣地になる所以は今川領国と北条領国の境目に近接するためと考えられる。「第二次河東の乱」時も北条氏は吉原に着陣しており、同様の現象が確認できる。(池上1991)に以下のようにある。

天文14年正月、宗牧が駿府から熱海に向かうに当たり、「吉原城主狩野の介・松田弥次郎方へ」飛脚を出していること、蒲原から吉原に向う舟の上から「吉原の城もま近く見え」ていたことなど(『東国紀行』)から、北条方は吉原城に拠って河東を軍事的に支配していたと考えられる。吉原城は、北条の「駿州半国」支配の最前線に位置したのである 

しかし天文14年(1545)8月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺(静岡県富士宮市)に着陣。今川軍と武田軍の合流を察した後北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後、後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。『勝山記』は天文14年の様子を以下のように記す。

此年八月ヨリ駿河ノ義元吉原ヘ取懸被食候、去程二相模屋形吉原二守リ被食候、武田晴信様御馬ヲ吉原ヘ出シ被食候、去程二相模屋形モ大義思食候、三島へツホミ被食候、諏訪ノ森ヲ全二御モチ候、武田殿アツカイニテ和談被成候…


とあり、吉原が最前線であったことが分かる。ここに、吉原固有の重要な性質を感じ取ることができる。この小田原征伐の場合、沼津や吉原が「境目」に該当すると言って良い

富士山木引の話に戻るが、この富士山木引で注目されるのは材木の運搬を富士川を用いて行っている点である。洲に引っかかったり水深が浅く運搬できない日もあったようであるが、富士川水運の早例と言えるであろう。記録から、以下のような手順であったことが分かる。

まず富士山で伐採された材木は上井出の小屋に集められる。


上井出


そして大き(青木)まで引き出す。


青木

そこから富士川流域の沼久保まで引き出し、川下しする。


沼久保


そして吉原まで届けられる。川下しでどこまで材木を運搬できたのかは必ずしも明瞭ではないものの、富士川を用いて運搬を行った事実は読み取れる。と同時に、まだ技術と経験不足を示す内容となっているとも言える。


本多忠勝


このような富士川を用いた水運、すなわち「富士川水運」ないし「富士川舟運」と呼ばれるものは、近世が初例とされることも多い。しかしその解釈は誤りであると言ってよいだろう。公権力が組織的に富士川水運を行っている事例が『家忠日記』から確認できる。


  • 徳川家康関東移封後の富士宮市
天正18年(1590)8月に豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封する。従って、駿河国は豊臣領となった。そこで確認される特徴的な動向に「豊臣秀吉朱印状による寺社領の安堵」が挙げられる。しかも多くが同年12月28日に一斉に行われているという点でかなり特徴的である


豊臣秀吉


それを一覧化する(富士宮市内の寺社に限る、天正18年(1590)のもの)。

石高
富士大宮司・社人領412
富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)380
別当宝幢院122
富士氏公文領77
辻之坊75
北山本門寺50
富士段所与八郎45
富士氏案主領34
先照寺16
大悟庵9
安養寺7


ちなみに富士山本宮浅間大社に関しては、天正19年(1591)に駿府城主「中村一氏」による直判で1077石が安堵されている。一社でこの石高は相当なものである。

中村一氏

これは豊臣秀吉朱印状の380石を大きく逸脱しており、また富士大宮司・社人領の412石で考えても逸脱していると言えるのであるが(松本2020;p.6)、翌年にあえて中村一氏による直判文書が発給されていることから考えると、1077石が正しいのだろう(これらを合わせたものとも考えられる)。どちらにせよ、同社の権威の大きさを感じるものである。

また富士浅間宮の「富士大宮司」「公文」「案主」「社人」「宝幢院」といった神職は分かるが、「(富士)段所」の立場はよく分からないものがある。

これら一連の寺領安堵から、徳川家康の影響力が排除され、豊臣権力が確実に流入していることが分かる。天正期の目まぐるしい変移が感じられるものである。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希(2019),「井伊直虎・直政と戦国社会」『駒澤大学禅文化歴史博物館紀要 (3)』
  2. 松本和明(2020),「駿河国における朱印寺社領成立について」『人文論集』 71(1)
  3. 池上裕子(1991)「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題―相甲同盟成立まで―」 『小田原市郷土文化館研究報告』27号

2022年6月5日日曜日

富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念

富士の巻狩での源頼家の初鹿狩りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」にて初狩りに伴う儀式として登場した矢口祭。この矢(口)祭の契機となる「初狩」をした人物は、将軍または執権となるような"将来を担うと想定される人物"に限局されている。そして矢口餅(十字餅)は三口まであり、その三者も当日その場で選ばれるという点で共通している。

以下に、『吾妻鏡』に見える富士山麓にて催された狩りの事例を一覧化した。


場所主催者特記事項
建久4年(1193)5月藍沢・富士野源頼朝源頼家の初鹿狩り・曾我兄弟の仇討ち
建仁3年(1203)6月富士野(人穴)源頼家人穴の調査(記述はこれのみ)
嘉禎3年(1237)7月藍沢北条経時経時の初鹿狩り
仁治2年(1241)9月藍沢北条経時経時が熊を射取る


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子

上のうち、矢口祭は下線(①「建久4年(1193)5月」②「嘉禎3年(1237)7月」)のものと「③建久4年(1193)9月の北条泰時の初鹿狩り」の三例で認められるので、それらを考えていきたい。

  • (1)建久4年(1193)5月、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経・海野幸氏矢口餅を陪膳矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と「さて三の口はどのようにするのか」と述べ、曾我祐信を試すような物言いをする。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに対し頼朝は「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」と「"三の口は将軍が召し上がって下さい"と答えると思っていた」という旨を述べ「無念である」とまで言うのである(坂井2014;pp.82-84)。

実は曽我祐信が頼朝に認められるためには、2つのパターンが存在したと想定されるのである。それは

  1. 「三の口は将軍が召し上がって下さい」と源頼朝に矢口餅を勧める
  2. 祐信が独自の作法を取り入れる

の2点である。1は頼朝の発言から分かることであるが、2は「北条泰時の初狩りに伴う矢(口)祭」から分かるのである。そうすれば「無念」とは言われなかったのである。

  • (2)建久4年(1193)9月、北条泰時の初鹿狩りに伴う矢口祭

実は富士の巻狩の同年、北条泰時も伊豆国で初狩りを経験している。『吾妻鏡』建久4年(1193)9月11日条には以下のようにある。

十一日 甲戌 江間殿の嫡男の童形、この間江間にありて、昨日参著す。去ぬる七日の卯の剋、伊豆国において、小鹿一頭を射獲たり。(中略)三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。小時あって、諏方の祝盛澄を召すに、殊に遅参す。(中略)およそ十字を含むの體、三口の禮に及びて、おのおの伝え用いるところ、皆差別あり。珍重の由、御感の仰せを蒙る。その後勸盃數献と云々。

以下に、儀式の流れを表化して示す。

儀式の手順人物内容
北条義時矢口餅を準備(このとき頼朝と足利義兼・山名義範以下数人が列した)
十字餅を供える
小山朝政十字餅の一の口。源頼朝の前で蹲踞して三度食べる。一口目は矢叫を発したが、二口三口目は発さず
三浦義連十字餅の二の口。三度食べる。毎度矢叫びを発する。
諏訪盛澄十字餅の三の口。この人選を頼朝は深く悩んだ上で召したが、盛澄は遅参した。三度食べ、矢叫びは行わず
数献盃を重ねる

十字餅は、「富士の巻狩」の場合と同様のものであろう。しかし今回も頼朝は④の三の口の時だけに限って何か思うところがあるような行動を取っているのである。富士の巻狩の際は「三口の事は何様たるべきやてへれば」と試し、北条泰時の初鹿狩りの際は「三口の事、すこぶる思しめし煩ふの気あり。」と三の口の人選のみ深く悩んでいる。

そして深慮した結果召した「諏訪盛澄」は遅参したというのに、最終的には「それぞれ作法が異なる」と感心しているのである。頼朝にとって遅参は大きな問題ではなかったのである。また盛澄は三の口を頼朝に勧めることもしていない。結果論ではあるが、源頼家の初鹿狩りに伴う矢口祭で曽我祐信は他の二人と趣を変える必要性があったのである。頼朝が言う「おのおの伝え用いるところ」の部分に意味があるのだとは思うが、なぜ異なることが頼朝にとって良しとされるのかは定かではない。少なくとも、源頼家の初鹿狩りで覚えたような後味の悪さは、これら一連の記述からは感じられない。

ただ諏訪盛澄を召したのには、頼朝なりの理由があったように思うのである。というのも、源頼家の矢口祭と重なるものがあるからである。源頼家の矢口祭の三の口は「曾我祐信」であったが、祐信は当初頼朝に敵対し(石橋山の合戦で頼朝に敵対)、後に宥免された人物である。実は盛澄も似たような経緯を持つ人物なのである。

諏訪盛澄は長年在京していた人物であったという。しかし平家に属していたため、頼朝が挙兵する中でも関東への参向が遅れていたため、囚人となっていた。しかし彼を断罪することで「流鏑馬一流」が永久に廃されてしまうことを憂慮した頼朝が彼を召し出し、見事な射芸を披露したことで頼朝により「厚免」されたという背景がある(坂井2014;p.250)。

つまり矢口祭の「三の口」は、頼朝に一度は弓を引いた経歴を有する、または有事に自陣に参陣しなかった人物が選ばれていることになる。つまり「頼朝から試される立場の人間」ということになる。そして実際に試されているのであり、明らかに三の口の人選には理由があったと思われるのである。

  • (3)嘉禎3年(1237)7月、北条経時の初鹿狩り

鎌倉幕府の四代執権である北条経時も嘉禎3年(1237)7月に初鹿狩りを経験している。嘉禎3年(1237)7月25日条には以下のようにある。

廿五日 庚子 北条左親衛(註:北条経時)ひそかに藍沢に赴き、今日初めて鹿を獲たり。すなはち矢口餅を祭る。一口は三浦泰村、二口は小山長村、三口は下河辺行光と云々。

猟りの場所は藍沢である。そしてやはり「矢口祭」が記される。(五味ら2011:p.161)は「時頼」としているが、誤りであろう。

北条経時は仁治2年(1241)9月にも藍沢で狩りを行っている。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月14日条には以下のようにある。

十四日 己亥 北条左親衛(註:北条経時)が狩獲のために藍沢に行き向はる。若狹前司・小山五郎左衛門尉・駿河式部大夫・同五郎左衛門尉・下河辺左衛門尉・海野左衛門太郎等扈従す。また甲斐・信濃両国住人数輩、獲師等を相具し、渡御を待ちたてまつると云々。

そして22日に帰っているのである。『吾妻鏡』仁治2年(1241)9月22日条には以下のようにある。

廿二日 丁未 左親衛藍澤より帰らる。数日山野を踏み、熊・猪・鹿多くこれを獲たり。(以下略)


鎌倉時代、富士山麓では有力者により狩りが多く催されていたことが分かる

  • 参考文献
  1. 五味ら(2011)『現代語訳 吾妻鏡 10』,吉川弘文館
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2022年6月4日土曜日

富士の巻狩での源頼家の初鹿獲りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特

源頼家は、父「源頼朝」が行った「富士の巻狩」に参加している。 そして自身が二代将軍になった際も「富士の狩倉」に出かけており、再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである

それらは『吾妻鏡』に見えるので、具体的に記してみる。

  1. 建久4年(1193)5月8日 - 6月7日  源頼朝、「富士の巻狩」を行う(曽我兄弟の仇討ちが発生)
  2. 建仁3年(1203)6月3日 源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる。同4日に忠常は人穴から戻り、報告を行う。


以下では『吾妻鏡』の該当箇所を引用し、解説を附す。


【1】

八日癸酉 将軍家、為覧富士野藍澤夏狩、令赴駿河国給。

十五日 庚辰 藍澤御狩事終、入御富士野御旅舘。


このことから、5月8日に富士野・藍沢での夏狩を覧るため源頼朝は駿河国に入った。同15日には藍沢での狩りを終え、富士野の御旅館に入ったことが分かる。

ちなみに、静岡県御殿場市の広報等が誤って富士野藍沢の箇所を「富士山麓藍沢」と訳している例がある。

『広報ごてんば』No.1412


これは明確な誤りで、「富士野」「藍沢」はそれぞれ異なる富士山麓の地名となる。「藍沢御狩事終、入御富士野御旅館」とあることからも明らかで、『曽我物語』においても「富士野」と「藍沢」は明確に区別されている。例えば現代語訳等で「富士野・藍沢での…」ではなく「富士山麓藍沢での…」と訳すものも無いと思う。

「富士の巻狩」が行われたのは約1ヶ月間である(5月8日から6月7日)。しかし『吾妻鏡』によると、藍澤に居たのは5月15日までと短期であることが分かる。つまりそこから先は「藍沢」から舞台を移し「富士野」となる。御殿場市的にはこれが面白くない。なのでこんなに苦しい解釈を、編集者は(おそらく)理解しつつも意図的にしているわけである。しかしあくまでも広報であり、「文化課」等クレジットされているものではない。

実は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にあるように富士市が「弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました」とか「仇討ち後の鎌倉への護送中に討ち取る」としているのも、同じ性質のものである。図(「曽我兄弟をめぐる人間関係図」)は明らかに『曽我物語』に沿った解説であるが、ただ1つ「五郎の処刑」の部分に限っては曽我物語にそのような展開は一切無いわけである。

実際は『曽我物語』だけでスマートに説明を完結できますが(処刑部分も『曽我物語』は記しています)、そうすると富士市は出て来ないことになってしまう。これがやはり富士市的には面白くない。なのでここだけは『吾妻鏡』や『曽我物語』に拠らず、ひっそりと置き換えるわけです。そんなちっぽけな感情で、本来あるべき記述を変えてしまっているのが実情です。読んでいる人はそんなことは分かりません。広報等は分かりやすいように感じられるものの、実際には理解を複雑にしているだけなのです。「富士の巻狩」に話を戻します。

十六日 辛巳 富士野御狩之間、 将軍家督若君始令射鹿給(中略)属晩於其所被祭山神矢口等。江間殿令献餅給、此餅三色也。(中略)将軍家并若公敷御行騰於篠上令座給(中略)。可然射手三人被召出之賜二矢口餅。所謂一口工藤庄司景光、二口愛甲三郎季隆、三口曽我太郎祐信等也(中略)。次召出祐信、仰云、 一・二口撰殊射手賜之。三口事可為何様哉者。 祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式。 於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟。就其礼有興之様、 可有御計之旨、依思食儲、被仰含之処、無左右令二自由之条、頗無念之由被仰云々。

『吾妻鏡』によると、16日に源頼家が初めて鹿を射止めたという。またこれは愛甲季隆の補助によるものであったともある。この後はひたすら神事について記しているので、以下の表にまめておこうと思う。(坂井2014;p.57)にあるように、この箇所の記述は異様に詳細である。この一見退屈とも思える記述に、隠された意図があると指摘されることは多い。

儀式の手順人物内容
北条義時三色の餅(黒・赤・白)献上
狩野宗茂勢子餅を進める
梶原景季・工藤祐経海野幸氏矢口餅を陪膳(矢口餅を賜るのは工藤景光・愛甲季隆・曾我祐信で先に頼朝に呼ばれている)
工藤景光矢口餅の一の口。山神に供する儀式(餅を入れ替えた上で重ねる)をし、それを食し矢叫びを発する
愛甲季隆矢口餅の二の口。作法は景光と同様。餅は入れ替えず。
曾我祐信矢口餅の三の口。作法はまた同様。
工藤景光・愛甲季隆曾我祐信馬や直垂を賜る。返礼として三人は頼家に海・弓・野矢・行騰・沓を献上

流れはこのような感じである。まず一見した特徴として「曽我兄弟の仇討ち」に関係する者が多いということが挙げられる(黒字)。(坂井2014;p.83)で指摘されるように、真名本『曽我物語』の登場人物と重なっているという言い方も出来るだろう。坂井氏はここに、物語的・説話的な文献の存在を見出している。一見退屈にも思えるこの一連の記述には、暗に示すものがあると思うのである。

【曽我兄弟の仇討ちで死去・負傷した人物(『吾妻鏡』、同場面の登場順)】
  • 工藤祐経
  • 王藤内
  • 平子有長
  • 愛甲季隆
  • 吉川友兼
  • 加藤光員
  • 海野幸氏
  • 岡辺弥三郎
  • 原清益
  • 堀藤太
  • 臼杵八郎
  • 宇田五郎

しかも頼朝は④⑤と儀式が進む中、突如⑥で「三口事可為何様哉者」と述べる。つまり「さて三の口はどのようにするのか」と曽我祐信を試すような物言いをするのである。一方祐信は「祐信不能申是非、 則食三口。 其所作如以前式」と、何も申さずそのまま先の二名と同様の作法で食した。これに頼朝は"「三の口は将軍が召し上がって下さい」と答えると思っていたのにそのまま食べたことは残念である"という旨の言葉を述べた。何となく、後味が悪いのである。 

この儀式に参加した者は討ち取られたり負傷したりした人物が多い。しかも上記のように頼朝にとって不満が残る結果となった。源頼家の初猟りにおける「ハレ」としての神事であるのに、実は「いわくつき」であったのである

廿二日 丁亥 若公令獲鹿給事、将軍家御自愛余、被差進梶原平二左衛門尉景高於鎌倉、令賀申御台所御方給。景高馳参、以女房申入之処、敢不及御感。御使還失面目。為武将之嫡嗣、獲原野之鹿鳥、強不足為希有。楚忽専使、頗有其煩歟者、景高帰参富士野、今日申此趣云々。

源頼朝は頼家の初鹿獲りを、梶原景高を鎌倉へ差し向けて北条政子に知らせた。しかし政子は「敢不及御感」と特に思うところはなかったとある。また「武将の嫡嗣が獲物を狩ったことは特に珍しいことでもない。そのようなことで使いを出すのは煩わしいことである」と呆れた様子を示している(坂井2014;p.56)。

もちろん初狩りの意義が政子には分からなかったとか、武士と御台所としての感覚の違いは挙げられるだろう。しかしここでは、使いが「梶原景高」であったことに着目したい。兄の梶原景季は矢口餅の陪膳役を務め、初鹿狩りの伝令役は弟の景高であったということになる。また(坂井2014;p.122)にあるように、真名本では景季は兄弟を殺すように命じられている。しかしこの両者は「梶原景時の変」であえなく死するのである。しかもそれだけではない。このうち「工藤景光」は5月27日に発病しているのである。そしてその翌日に「曾我兄弟の仇討ち」が起こるのである

であれば、この「源頼家の初鹿獲り」に関与した人物はかなりの確率で不幸な目に遭っているということになる。これでは「(不幸にならず残った)泰時が将来鎌倉を統べるべきである」と言っているかのようである。


源頼家


【2】

話を源頼家の「富士の狩倉」に移したい。同じく『吾妻鏡』の記述を見ていきたい。


三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

『文武二道万石通』より


まず「是浅間大菩薩御在所」とある箇所が重要であり、富士山信仰の一端を示すものとなっている。これが「古老」により語られたという記述が『吾妻鏡』に認められるということは、信仰が民衆に広まっていたと解釈しても問題ないものと考えられる。もちろん郎党が急死したという記述は真としては受け入れられないものの、編纂時の意識として違和感なく迎えられるものであったのである。

またここで「人穴」が登場することから、冒頭で述べたように「再び同じ地(静岡県富士宮市)に降り立っているのである」と明確に言えるのである。この「富士の狩倉」では藍沢に向かったかどうかは不明である。

(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである。

また仁田忠常も和田胤長もあまり良い最期とは言い難い結果となっている。『富士の人穴草子』では両者が富士の人穴を調査する構成となっており、まず最初に向かった胤長は途中で引き返し、次に調査に向かった忠常は奥まで進む。その後は『吾妻鏡』と似たような展開となり、最終的に中の様子を口外したことで死する展開となる。富士浅間大菩薩との契約を破ったわけである。諸本により展開にやや異なりを見せ、忠常の命が助かるパターンもある。江戸時代の滑稽本『文武二道万石通』にも題材として用いられている。

これらをまとめて考えると【1】の時点で頼家は将来に不穏な要素を既に感じさせつつ【2】で決定的な過ちを犯してしまったと言うことが出来るのである。「北条泰時が鎌倉を統べるべきであり、実際そうなった」という流れを、『吾妻鏡』の中に入れ込んでいるわけである。


  • 参考文献
  1. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  2. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  3. 御殿場市,『広報ごてんば』No.1412(2022年3月5日号)
  4. 富士市(2017)『富士市の歴史文化探訪 曽我伝説』

2022年6月3日金曜日

曽我物語のかぐや姫説話と富士浅間大菩薩、曽我五郎時致の解釈について

『曽我物語』は「かぐや姫説話」が取り入れられていることでも知られる(富士山のかぐや姫説話については「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照下さい)。

『曽我物語』は「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にて記したように「本地物」としての性格もあるが、そのうちの「富士」はかぐや姫説話を引くことで説かれているのである。以下で、やや長くなるが真名本の該当箇所を引用してみる。


曽我五郎時致

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五郎、申しけるは、「心細く思し召すも理なり。あれも恋路の煙なれば、御心に類ひてこそ見え候らめ。あの富士の嶽の煙を恋路の煙と申し候ふ由緒は、昔富士の郡に老人の夫婦ありけるが、一人の孝子もなくして老い行く末を歎きける程に、後苑の竹の中に七つ八つばかりと打見えたる女子一人出で来れり。老人は二人ながら立ち出でて、これを見て、『汝はいづくの里より来たれる少き者ぞ。父母はあるか、兄弟はあるか、姉妹・親類はいづくにあるか』と尋ね問ひければ、かの少き者、打泣きて、『我には父母もなし、親類もなし。ただ忽然として富士山より下りたるなり。先世の時各々のために宿縁を残せし故に、その余報未だ尽きず。一人の孝子なき事を歎き給ふ間、その報恩のために来れり。各々我に恐るる事なか
れ』とぞ語りける。

その時二人の老人たちこの少き者を賞きく程に、その形斜めならず、芙蓉の眸気高くて、宿殖徳本の形、衆人愛敬の躰は天下に双びなき程の美人なり。かの少き者 、名をば赫屋姫とぞ申しける。家主の翁をば管竹の翁と号して、その嫗をばかさうの嫗と申す。 これら三人の者共は夜も昼も額を合せて営み養ひて過ぎ行く程に、この赫屋姫成人して十五歳と申しける秋のころ、駿河の国の国司、見国のために下られたりける折節、この赫屋姫の事を聞て、翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。 これに依て娘の赫屋姫と国司と夫婦の契有て、国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

かくて年月を送る程に、翁夫婦は一期の程は不足の念ひなくして、最後めでたく隠れ候ひぬ。 その後、中五年有りて、赫屋姫国司に会ひて語りけるは、『今は暇申して、自らは富士の山の仙宮に帰らむ。我はこれもとより仙女なり。かの菅竹の翁夫婦に過去の宿縁あるが故に、その恩を報ぜむがために且く仙宮より来れり。また御辺のためにも先世の夫婦の情を残せし故に、今また来りて夫婦となるなり。翁夫婦も自が宿縁尽きて、早や空しく死して別れぬ。童と君と余業の契も今は早や過ぎぬれば、本の仙宮へ返るなり。自ら恋しく思し食されん時は、この筥を取りつつ常に聞て見給ふべし』とて、その夜の暁方には舁消すやうに失せにけり。夜明くれば、国司は空しき床にただ独り留り居て、泣き悲しむ事限りもなし。かの仙女約束の如く、件の筥の蓋を開て見ければ、移る形も、来る事は遅くして、返る形は早ければ、なかなか肝を迷はす怨となれり。

かくて月日空しく過ぎ行けども、悲歎の闇路は晴れ遣らず。その時かの国司泣く泣く、独り留り居て、起きて思ふも口惜しく、臥して悲しむも堪へ難し。かの返魂香の筥をば腋に挍みつつ、富士の禅定に至りて四方を見亘せば、山の頂きに大なる池あり。その池の中に太多の嶋あり。嶋の中に宮殿楼閣に似たる巌石ども太多あり。中より件の赫屋姫は顕れ出でたり。その形人間の類にはあらず。玉の冠、錦の袂、天人の影向に異ならず。これを見てかの国司は悲しみに堪へずして、終にかの返魂香の筥を腋の下に懐きながら、その池に身を投げて失せにけり。その筥の内なる返魂香の煙こそ絶えずして今の世までも候ふなれ。

されば、この山は仙人所住の明山なれば、その麓において命を捨つるものならば、などか我らも仙人の眷属と成て、修羅闘諍の苦患をば免れざらむ。多く余業この世に残りたりとも、仙人値遇の結縁に依て富士の郡の御霊神とならざらむ。また我らが本意なれば、もとより報恩の合戦、謝徳の闘諍なれば、山神もなどか納受なかるべき。中にも富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道を官り給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救ひ給はざらん。これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなりされば注万葉の歌には、
 唐衣過ぎにし春を顕して光さやけき身こそなりけれ

これは赫屋姫の、仙宮より来て翁夫婦の過去の厚恩を報ぜし事なり。

 紅の一本故を種として末摘花はあらはれにけり

これは国司の、仙女の契に依て神と顕れし事なり。かかるめでたき明山の麓において屍を曝しつつ、命をば富士浅間の大菩薩に奉り、名をば後代に留めて、和漢の両朝までも伝へん事こそ喜しけれ」と申しも了てざりければ涙の雑と浮べば、十郎これを見て、武き物封の心どもなれども、理を知れる折節は心細く覚えて、互ひに袖をぞ捶りける。十郎、

 我が身には悲しきことの絶えせねば今日を限りの袖ぞ露けき

五郎流るる涙を押へて、

 道すがら乾く間もなき袂かな今日を限りと思ふ涙に

と。

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曽我十郎祐成(伏木曽我の場面)


(福田2016;pp.239-241)は以下のように説明する。

本書は右の『神道集』と深くかかわって成立したものであり、それは近似の文化圏に属した作品と推される。その先後を判ずることは容易ではないが、随処に『神道集』と通じる唱導的詞章が見られる。(中略)その詞章は、ほぼ同文に近く饒舌な傍線部分(註:上では引いていない)をはずすと、およそ『神道集』のそれになる。ただし国司が翁夫妻を召し寄せて「此の国の官吏」に任じ、「国務政道を管竹の翁が心に任せてけり」との叙述は、『神道集』には見えない。次の「富士山縁起」が問題となろう。最後の赫屋姫・国司の富士浅間大菩薩の応述示現の叙述は、『神道集』とほぼ一致しており、「男体・女体」を説くことも同じである。が、これもその祭祀の地を明らかにすることはない

『神道集』と対応する箇所が多いことは、従来から指摘される。福田は『神道集』に見えない箇所の存在も指摘する。それは

翁婦夫共に呼び寄せて、『自今以後は父母と憑み奉るべし』とて、この国の官吏となされけり。(中略)国務政道を管竹の翁が心に任せてけり

の箇所である。つまり国司は、翁を要職に就かせているのである。かぐや姫の云う「その報恩のために来れり」の「報恩」にあたると解釈できる。かぐや姫が来たことで翁の人生に変化が訪れたわけである。

このかぐや姫説話に対する五郎の解釈は独特である。五郎の論理では「仙人(天人、かぐや姫)がおわすような山の山麓で命を捨てればその後の苦難から逃れることができる」としているのである。これは兄弟が富士山麓の地で仇討ちをすることに対する理由の説明となっている。そして富士山麓で死することで「富士郡の御霊神となる」と高らかに述べているのである。

「報恩の合戦、謝徳の闘諍」であることを山神は受け入れてくれるとし、そしてその本地仏を「千手観音」としている。かぐや姫説話は「報恩譚」としての側面もあるため、報恩を説く『曽我物語』との相性は良かったのであろう。また唱導僧や浄土宗の僧侶の関与も指摘されるという(坂井2014;p.88)。

しかし富士の神、ここでは富士浅間大菩薩の本地仏を「千手観音」とする例は珍しい。やはり垂迹神は富士浅間大菩薩(または赫夜姫ないし木花開耶姫命)で本地仏は大日如来とするものが多いだろう。この点について(大川1998;p.44)は以下のように説明する。

『妙本寺本 曽我物語』の「真字本曽我物語・神道集同文一覧」によると「部分的には同文的な箇所も発見されるが、直接の伝承関係を思はせるものではない」とある。両者を比較して特に異なるのは、B(註:「されば、この山は仙人所住の明山なれば…」以後の部分)後半の富士浅間大菩薩の本地のくだりである。『神道集』では本地仏をいわない。本地仏を千手観音とする『曽我物語』の富士山に関する記述は、独自な面があるということになろう

『神道集』では国司が反魂箱を懐へ入れ、富士山頂の煙の立つ池に身を投げる。その両方の煙が絶えぬ様子から「不死の煙」と呼ばれ、それが「富士山」「富士郡」の「富士」にかけられ、転じて「富士の煙」となったとする。そして赫屋姫と国司は富士浅間大菩薩として示現し、これは「男体・女体御す」としている。富士浅間大菩薩は「男体」でもあり「女体」でもあるとしているわけである。

この示現および「男体・女体」の箇所は『曽我物語』でも引用されているが、一方でその直前の説明で本地仏についても言及しており、これは『神道集』では確認されないものである。

しかし『曽我物語』の場合、この箇所は「されば…」と由緒に対する五郎の解釈として語られる部分であるため、由緒の説明・引用は既に終えているという解釈も出来る。どちらにせよ、『曽我物語』の独自性を示すことには変わりはない。おそらく真名本『曽我物語』ないしその原典となった史料の成立当時の価値観が反映されたことによる結果と見てよいだろう。また(大川1998;p.46)は

真名本『曽我物語』の中で富士浅間大菩薩の用例を調べていくと不思議なことに気付く。登場人物の神仏祈願等にしばしば名があがるものに、二所(箱根権現・伊豆山権現)・三島大明神・富士浅間の大菩薩・足柄明神が上げられる。『曽我物語』の基盤ともいうべき土地の範囲が自ずと浮かんでくる神仏の列挙である。本稿で注目していきたいのは、富士浅間の大菩薩である。東洋文庫では、次のような注を付けている。

富士山の周囲にある多くの浅間社。木花咲耶姫命と男神(小異あり)を祀っている。ここでは特定の浅間社をさしていうのではなく、所々に顕現した浅間社をさし、それを本地垂迹の考え方から「菩薩」とよんだもの。

特定の神社を指すのではないという見方は、富士浅間の大菩薩についてのみ見える見解である。他の権現・明神ではそのようなことはない。(中略)ところが、富士浅間の大菩薩については、巻七の富士野へ向かう途次に十郎と五郎によって語られている。つまり、どこの浅間社においてということではないのである。したがって東洋文庫の注でもどこの浅間社であるのかが特定できないということであろう。

としている。これは(福田2016;p.241)の「これもその祭祀の地を明らかにすることはない」にも繋がって来るのであるが、富士浅間大菩薩はだいぶ拡大解釈が可能な神という印象を持たざるを得ない。

仁田四郎忠常が人穴を探索する様子。「曽我物語図屏風」等を筆頭とし、富士宮市域を題材とした大和絵等の作例は極めて多い


『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月4日条には以下のようにある。

四日。庚子。陰。巳尅。仁田四郎忠常出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮。不能廻踵。不意進行。又暗兮。令痛心神。主従各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顔。不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流。失拠于欲渡。只迷惑之外無他。爰当火光河向見奇特之間。郎従四人忽死亡。而忠常依彼霊之訓。投入恩賜御剱於件河。全命帰參云云。古老云。是浅間大菩薩御在所。往昔以降。敢不得見其所云云。今次第尤可恐乎云云。

意訳を以下に記す。


4日になると仁田忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、(頼家様より)賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。


源頼家は「富士の狩倉」に出かけた際、同地に存在する「人穴」(静岡県富士宮市)を仁田忠常に探索させた。上の4日条は、その人穴の探索より帰ってきた忠常の報告である。

まず「是浅間大菩薩御在所」とあり、人穴は浅間大菩薩の御在所であるとしている。単に"富士山信仰の一端を示す"と解釈してもよいが、そもそも仮に富士浅間大菩薩の御在所を想定する場合、本来なら浅間社ないし富士山体でなければおかしいと思うのである。しかし『吾妻鏡』は「穴の中」としている。富士山信仰の受容の広さと片付けて良いかもしれないが、やや不思議な印象を持たざるをえない。

そこで『曽我物語』に再び目を向けた時、そもそも同物語で想定されているのは「浅間社」ですらない可能性があるのではないだろうか。富士浅間大菩薩の示現の幅の広さが『吾妻鏡』で示されている以上、全くおかしなことではない。

「かぐや姫説話」の引用は『神道集』から行い、五郎の解釈の部分は「これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなり」以外の部分は別の材料から付加されたものと考えたい。『曽我物語』成立の中で次第に付加されていったものであると思われる。そして『曽我物語』がいう「富士浅間大菩薩」は、浅間社に示現したものとは想定していない可能性も考えたい。

  • 参考文献
  1. 福田晃(2016)『放鷹文化と社寺縁起-白鳥・鷹・鍛冶-』,三弥井書店
  2. 大川信子(1998)「真名本『曽我物語』における久能と富士浅間大菩薩-梶原氏との関わりを通して」(『平成8年国文学年次別論文集 中世2』所収 平成10年 朋文出版)
  3. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987
  4. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988
  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館

2022年5月1日日曜日

吾妻鏡から駿河国富士郡、特に曽我兄弟の仇討ちの地である富士宮市域を考える

鎌倉時代の駿河国富士郡(現在の静岡県富士宮市・富士市)でどのような出来事があったのかということを、『吾妻鏡』は教えてくれる。以下では、『吾妻鏡』にて富士郡の事象として確認できる事柄を一覧化した(※富士郡かどうか定かではないものは一部除く。富士郡とある箇所はすべてを掲載した)。

  • 『吾妻鏡』に見える富士郡の事象

西暦出来事
治承4年(1180)10月14日鉢田の戦い(場所諸説あり)
同20日富士川の戦い(場所諸説あり)
文治2年(1186)6月9日富士領の年貢を早く納めるよう、朝廷より催促される
同7月19日源頼朝、福地社に神田を寄進
文治3年(1187)12月10日富士郡の田所職を橘為茂(橘遠茂の子)が賜る
※橘遠茂については「曽我兄弟の仇討ち舞台の地である富士宮市の富士野について」を参照
文治4年(1188)6月4日朝廷、富士領の扱いについて子細を調べた上で沙汰するよう命じる
文治5年(1189)7月5日源頼朝、富士御領の帝尺院に田地を寄附する
同11月8日富士郡の年貢である綿が朝廷に献上される
建久4年(1193)5月15日-同30日源頼朝、富士野にて巻狩りを行う(曽我兄弟の仇討ち)
※「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」を参照
建久6年(1195)12月2日富士郡の年貢である綿が京都へ送られる
建仁3年(1203)6月3日源頼家、富士の狩倉に出かける。仁田忠常に人穴を検分させる
同4日忠常、人穴から戻り報告を行う
建暦2年(1212)5月7日 北条朝時、富士郡に下向
建保4年(1216)12月20日富士御領の年貢が未だ皆済されていないと報告される
建保7年(1219)3月26日北条泰時、富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)に参拝する
貞応2年(1223)6月20日 富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)の遷宮儀式が執り行われる
寛喜元年(1229)11月26日幕府より材木の杣入(材木調達)が富士郡に命じられる
寛元2年(1244)2月3日富士姫(北条泰時の娘)、富士郡へ下向

  • 富士御領について

以下では上の事象の中でも「富士御領の扱い」について考えていきたい。(五味;pp.47-48)には以下のようにある。


つぎに仇討の舞台となった富士野はどうであろうか。『吾妻鏡』の文治2年(1186)6月9日条は富士領が関東御領であると記し、同4年6月4日条はここがかつて平家の所領だったと記し、その領主として北条義時の名をあげている。さらに富士郡については、済物は後白河院に進上されているものの、田所職の給与を北条時政が行なっているのをみれば、時政の所領であったとわかる(文治5年11月8日、3年12月10日条)。どうみても富士野一帯は北条氏の所領だったわけである


富士郡は年貢を朝廷に納める義務があったが、土地関係の沙汰は北条氏が行っている。ちなみに当然「富士野」は富士領に含まれるが、「富士野=富士領全体」ではないので注意されたい。また『小田原市史』には以下のようにある。


まず事件そのものの政治性について見るが、敵討の場が富士野であり、そこが北条氏の所領であった点に注目したい。『吾妻鏡』文治3年(1187)12月10日条によれば、この日に富士郡の田所職が時政の計によって橘遠茂の子為茂に与えられており、このことから富士郡は時政が管轄していたことが分かる。その富士郡の富士野での巻狩りであれば、当然、接待役は時政ということになり、事実、当日に「駄餉」を献じている。またその記事では、時政の庇護した為茂の父遠茂は、平氏に属して頼朝に敵対していたとあるので、曽我兄弟と同様に、時政は頼朝に敵対して没落した武士などを広く庇護していたことも知られる。


敵方の将であった「橘遠茂」の子息にあたる「橘為茂」を保護するという時政の方針には、独自性を感じるものがある。「寛大」と取ることもできるかもしれない。また(小田原市;p.257)には「そして何よりも敵討の場である富士野の地が名越氏の所領として伝えられていたのである。それは次の『吾妻鏡』建暦2年(1212)5月7日条から知られる」とあるが、これは北条氏一族にあたる「名越流」の朝時の不祥事を指す。

北条朝時は不祥事後に富士郡に下向しており、下向しているからにはこの地が北条氏関係の所領であったと考えることができるためである。

では、実際に『吾妻鏡』の記述を確認していきたい。

後白河法皇


一、富士領の事

件の年貢、早く進済すべし。御領たるべきの由、先々仰せられをはんぬ。定めて存知すらんか。…(文治2年(1186)6月9日条)


源頼朝に対し年貢の進済を促す内容である。


甲午 駿河国富士領上政所福地社に神田を寄せたてまつる。江間四郎これを沙汰す(文治2年(1186)7月19日条)


この「福地社」は現在の富知神社(静岡県富士宮市朝日町)のように思われる。『延喜式』の富士郡三座の一角「富知神社」も、この社であると思われる。


北条殿の計ひとして、富士郡田所職を賜はる(文治3年(1187)12月10日条)


ここでいう「北条殿」は北条時政のことであり、五味が指摘するように時政の所領であったのであろう。


八条院領

 同国富士神領(文治4年(1188)6月4日条)


「神領」とあるからには「富士山本宮浅間大社の所領」ということで良いと思う。


癸亥 駿河国富士の御領帝釈院に田地を寄附せらる。これ奥州征伐の祈祷なり。江間小四郎これを沙汰す(文治5年(1189)7月5日条)


富士郡の「帝釈院」への寄進を示す。


また綿千両を仙洞に奉らる。これ駿河国富士郡の済物なり(文治5年(1189)11月8日条)


後白河法皇に、富士郡の年貢である「綿」を献上したことを示す。綿は富士郡の特産品であったと考えられる。


駿河国富士郡の済物綿千両、京都に進ぜらる。(建久6年(1195)12月2日条)


これも同様の内容である。


廿日 戊辰 富士御領の済物京進の錦、皆済の儀なきの旨と云々。甘苔の夫は必ず今明中に進發せしむべきの由と云々(建保4年(1216)12月20日条)


富士御領の済物である綿の未納分があり、それを納めるよう促す内容である。これをみると年貢は相当の負担であったことが分かる。このような当たり前に負担を強いる体制を見ると、朝廷の衰退は成るべくしてなったように思える。

またこの「甘苔」とは「富士海苔」のことではないかと思われる。富士海苔は芝川流域で採れるカワノリのことであり、富士郡の特産品である。カワノリは歴史的にも「海苔」と記さず「苔」と記す例が認められるので、これがカワノリである可能性は高いように思われる。であるとすれば、富士海苔とするのが妥当であろう。


  • まとめ


『吾妻鏡』を見ると、比較的富士郡は頻出するように思える。これは五味氏が指摘するように、富士郡が北条氏の所領であったことが関係すると思われる。北条氏関係者の富士郡への下向例が多いのもその証左である。


源頼家

まとめると、以下ようなことが分かる。


  1. 北条氏の所領があり、同関係者が度々下向する地でもあった
  2. 富士郡の上方(富士宮市)は巻狩・狩倉として用いられていた(源頼朝・源頼家)
  3. 年貢が綿であった
  4. 有力な社があり、重要な位置を占めていた

具体的に富士郡の何処へ下向したのか、綿はどこで栽培されていたのか、材木はどこから調達したのかといった問題はあるものの、実際これらは現在の富士宮市に関わるものが多いように思う。例えば材木を運ぶには道を経由する必要があると思うが、それが可能であるのはどちらかと言えば富士宮市域ではないかと思う。

富士宮市には駿河国一宮である富士山本宮浅間大社が位置する。『吾妻鏡』建保7年(1219)3月26日条に

辛酉 駿州かの国に下著したまふ。これ富士浅間宮以下の神拝のためなり。去ぬる正月廿二日、守に任じたまふといへども、國郡忩劇連続するの間、今に延引すと云々。

とある。つまり「駿河守」に任じられたのなら富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)に参拝するのは当然の習わしなのである。富士山本宮浅間大社は極めて社格が高く、様々な顔がある。駿河国一宮であり、浅間神社の総本宮であり、『延喜式』の富士郡三座のうちの一つでもある。

しかしこれらの中で「駿河国一宮」という立場は極めて重要な位置を占めるのではないかと思うのである。北条泰時は浅間神社の総本宮であるから浅間大社に参拝したのではなく、駿河国一宮であるので駿河守として参拝したのである。そのような求心力となり得るものが富士宮市には点在していた。「富士の御領帝釈院」(文治5年(1189)7月5日条)も富士宮市であろう。『吾妻鏡』から富士宮市が重要地であったことは明らかなのである。

  • 参考文献
  1. 五味文彦(2018),『増補 吾妻鏡の方法』,吉川弘文館 
  2. 小田原市(1998),『小田原市史』通史編 原始 古代 中世