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2020年1月8日水曜日

富士山本宮浅間大社が富士山八合目以上を所有する理由を歴史から考える

全国には数多の山があります。『日本山名総覧』の説明によると、国土地理院発行の2.5万分図に記載されている山は「16667山」あるといいます。この中には社寺が所有しているものも多く含まれます。つまり「山」を社寺が所有していることは、何ら珍しいことではないのです。実は富士山もその例に漏れず、富士山の場合は神社が一部土地を所有しています(八合目以上)。その神社が「富士山本宮浅間大社」なのです。



新聞記事(WEB版)にそれらに関する興味深い記事があったので、引用させて頂きます。

富士山頂、県境決めず一緒に守る 山梨と静岡(朝日新聞デジタル 2020年1月6日)
国を代表する山である富士山は、その圧倒的な存在感と知名度ゆえに山梨、静岡両県の争いの要因にもなってきた。その最たるものが境界問題だ。静岡県裾野市の市立富士山資料館には、1779年、江戸幕府が出した裁許状が展示されている。富士山頂の土地をめぐり富士山本宮浅間大社(同県富士宮市)や上吉田村(山梨県富士吉田市)の有力者らが起こした争いへの判決だ。「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた。第二次大戦後、全国の社寺に貸し付けられていた国有地が原則、無償譲与されることになり、大社は国に8合目以上の譲渡を求めた。しかし、国は一部しか認めず、大社は提訴。1974年に最高裁で勝訴し、2004年、ほとんどの土地が無償で譲渡された。(抜粋)

とあります。実はこの部分は、富士山を世界遺産に登録する際にユネスコに提出された『推薦書』にもはっきりと明記されているレベルの、識者にとっては周知の事実です。

世界遺産登録というのは、一筋縄にはいきません。ユネスコに『推薦書』を提出し、現地調査等を経て、その上で推薦書の内容が繰り返し吟味され認められた場合のみ登録がなされるのです。あまり知られてはいませんが、推薦書は「日本国」が提出する資料であり、富士山の世界遺産登録の根底をなすものです。

推薦書

『推薦書』には以下のように記されています。

①そのうち、八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)の区域については、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地であるとされてきた。それは、山頂に存在する噴火口(内院)の底部に浅間大神が鎮座するとの考え方に基づき、その底部とほぼ同じ標高に当たる八合目から山頂までの区域が最も神聖性の高い区域と考えられてきたからである。  
1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が八合目以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された。

とあります。これが推薦書に記されていることから、富士山本宮浅間大社の立場は国にもお墨付きを得ている形となっています。今回はこの部分について考えていきたいと思います。まず

1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた

の箇所についてですが、これは以下の箇所が該当します。

幕府裁許状(安永8年)
安永8年の幕府裁許状には富士山本宮浅間大社が「関ヶ原の戦い」の際に戦勝を祈願し、見事それが成就したことから、幕府が本殿や末社などを残らず再建したということが記されています。また、内院散銭(富士山頂に投げ入れられたお金のこと)を修理代として寄進したことも記されています。まずここから

徳川氏により"山頂における権限に対して"富士山本宮浅間大社が特別な庇護を得ていた

ということが分かります。但しこの史料だけでは「富士山頂の支配」とは言い難いと言えます。しかし他に土地の帰属等が分かる史料も存在しているので、見ていきましょう。


この古文書について青柳(2002)は以下のように説明している。

富士浅間本宮に対する優遇政策は徳川忠長にも引き継がれたようで、この時期「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」という文面の通達が、忠長の付家老である朝倉筑後守と鳥居土佐守から、地方奉行である村上三右衛門に宛てて出されている。つまり、ここにおいて富士山頂は、富士浅間本宮の「しはい(支配)」の土地と認められたのである

とある。「大宮司しはい」の大宮司は本宮の「富士大宮司」のことであり、みくりやは「御厨」で「すはしり」は「須走」のことである。このように少なくとも寛永年間に富士山本宮浅間大社が支配していたことを示す古文書がしっかりと残っているのである。

徳川忠長
また以下は貞享3年(1686)の古文書である。


青柳(2002)には以下のようにある。

富士山は八合目以上の大行合から山頂までは富士浅間本宮の4人の神職が支配している土地である、という認識を示しているのである。彼らに取って、そこは須走村でも小田原藩領でもない、寛永期に定められたままの「大宮しはい」の土地であった

としている。「行合より八葉」ということから、大行合(おおゆきあい、八合目)から八葉(はちよう、山頂)までを支配していたことになる。また「大宮町大宮司殿」・「宮内殿」・「民部殿」・「宝当院」(別当)はすべて富士山本宮浅間大社に関わる神職である。「大宮町大宮司殿」は富士大宮司であり、「宮内殿」・「民部殿」は公文・案主、「宝当院」は宝幢院であり別当である。

このような歴史を元に現在「富士山本宮浅間大社の土地」という扱いになっているのである。しかしこの長い歴史の中で、当然ながら土地帰属に関する衝突が皆無という訳にはいかなかった。実はその衝突から「より帰属を明確にする」必要性が出てきており、それらの成果物が現在のこの状況を作り出したと言っても良いのである。

青柳(2002)には以下のようにある。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、富士山頂の土地に対する須走村の認識は明らかに変化しているのであるが、そのさなかである元禄16(1703)年には、須走村は富士浅間本宮と富士山頂をめぐって衝突を起こしている

とある。「元禄の争論」と言われるものである。須走村は富士山本宮浅間大社を相手取り訴訟を起こした。相手は富士大宮司、公文・案主、宝幢院である。これらの争いは内済で済まされ(和解のようなもの)、須走村に利のある内容で決着した。実はこの訴訟では結果的に土地帰属は明確でないまま終えているのである。

青柳(2002)には以下のようにある。

ところで、この元禄争論は「富士山頂の薬師嶽から御馬乗石までは須走村分の土地である」という須走村の主張は是か非かという、富士浅間本宮と須走村の間での境界争論(境論)としての性格を持っていたにもかかわらず、内済ではその点は一切触れられていない。どのように富士山頂付近に境界を確定するか、という問題は棚上げにされたのである

とある。この古文書は『小山町史』等にも掲載されているが、確かにそのような形跡は見られない。またその後も認識の相違が度々生じていた。青柳(2002)には以下のようにある。

しかし18世紀以降になると富士山頂付近もまた山麓村々の土地の一部として認識されはじめるようになる。須走村の場合、貞享3年段階に至っても依然として同所は富士浅間本宮に帰属する土地であると認識していたが、その22年後の宝永5(1708)年になると、村鑑の中で「惣じて大行合より御馬乗石と申す所までは駿東郡須走村の地内にて御座候」と、大行合から山頂の「御馬乗石(駒ケ嶽)」までは自分の村の土地だ、と主張するようになっている。

とある。これを見て「根拠も無しに自分の土地と言うとは何事だ」と思われるかもしれませんが、このときそのような余裕は無かったのである。

この"宝永5(1708)年になると"の部分が極めて重要であり、実はこの前年に富士山の宝永大噴火があったのである。そのため須走村としてはこれまでの序列や土地帰属観を無視してまでも"価値のある"富士山頂周辺の土地を得たいという思惑があったのである。これは、人間の心理を考えれば当然とも言えるだろう。

絹本著色富士曼荼羅図

これら須走村側の変化が生じていく中で、「明和・安永の争論」というものが起こった。これは大争論であり、ここで曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしようという動きが生じたのである。実はこの争論で出てくるのが、記事中に出ていた

「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた

の部分であり、『推薦書』にある

富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。

の部分なのである。ではその歴史の重大転換を見ていきたいと思う。

この争論は富士山頂にて亡くなった登山者が発見されたことから始まり、この登山者を"どこが請け負うか"ということが問題となった。青柳(2002)に

ある土地で死骸処理を実施することは、その土地を誰が所持しているのかという問題と密接に関係している

とあるように、まさに土地帰属の問題が出てきたのである。ここに吉田村(現在の山梨県富士吉田市)も関与してくることとなり、三者で争われることになったのである。青柳(2002)に

明和・安永争論は富士浅間本宮・須走村・吉田村の三つ巴で争われることになった。そして互いが死骸処理を担当すべき地理的範囲はどこからどこまでかという争点を有していたため、今度は元禄争論と異なって、富士山八合目から山頂にかけての土地をめぐる境界の位置に争点の主眼が置かれるもである

とある。これをもっと分かりやすく言えば

富士山登山口を有する「大宮」(駿河)「須走」(駿河)「吉田」(甲斐)の三者の争いであり、駿河・甲斐双方の有力者が関与した山頂の土地帰属に関する最終的な争い

とうことなのである。ここで決まったことは歴史の積み重ねによる事実上の最終決定であり、これが現在にも引き継がれているのである。

この争論に際して須走村は郡奉行に史料を提出したが、この中には土地所持について保証を受けたことを示すものは無かった。しかしこれは富士本宮も同様であり、土地所持の保証を示すような検地帳や朱印状は提出されていなかった。吉田村は言わずもがなである。

そして最終的に幕府は以下のような裁許を与えた。青柳(2002)に

まず、山頂付近の土地については「冨士山八合目より上ハ大宮持たるへし」との判断が示された。富士浅間本宮の主張が認められるかたちとなったのである。(中略)ここでの「大宮持」とは、八合目より上では富士浅間本宮が諸経営活動および死骸処理について優越的な立場にあることを保証する、というくらいの意味であろう

とあるように、「富士山八合目より上は大宮持たるべし」と判断されたのである。しかし青柳氏が述べるように「=土地所持」というよりは「優位的立場にあることは明白である」という域を出ないようにも思える。「曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしよう」という流れであったはずであったが、やはり曖昧な状態は続いていたと言える。ここは解釈が大きく分かれる所であり、難しい。

大宮持たるべし

しかしながら徳川忠長支配時代の寛永年間(1624年-1645年)に「大宮司支配の所」という古文書が残り、また明和・安永の争論では1779年に「大宮持たるべし」という幕府の裁許を得た。これら長きに渡り富士本宮が優位的な位置に居続けたことは、指摘されてきた通りである。

山梨県知事と静岡県副知事が文化庁長官に推薦書を提出する様子

そしてそのまま現代に至り、現代の叡智を持って1974年に最高裁判所にて判決が出されたという流れなのである。実は驚くことに最高裁判所の判決でも江戸幕府の裁許が重視されている。これにより限りなく「完全かつ最終的に解決した」と言える状況となったのである。帰結としては妥当な着地点という印象を持つ人も多いだろう。

更に言えば、推薦書にこれらが明記されたことは「完全かつ最終的に解決した」状態を更に補完する結果となったと言える。何故なら、推薦書のその原案は静岡県と山梨県が共同で作成し文化庁へ提出した経緯があるためである。

  • 参考文献 
  1. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年
  2. 高埜利彦,『近世の朝廷と宗教』,吉川弘文館,2014年
  3. 『推薦書』(日本国)

2013年5月20日月曜日

富士山における庚申縁年

富士山には庚申縁年という考え方が存在する。「庚申」は以下の年度が該当し、その年は富士山にって特別な年となるわけである。次の庚申縁年は2040年である。

16世紀以降の庚申年一覧
年号西暦
明応9年1500年
永禄3年1560年
元和6年1620年
延宝8年1680年
元文5年1740年
寛政12年1800年
万延元年1860年
大正9年1920年
昭和55年1980年
---2040年


なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。

庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に

此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也

と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。

また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。

延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。

また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には

六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…

とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。

また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。

これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。

これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。

とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。

公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代西暦人数
元和元年161520
元和2年1616217
元和3年1617412
元和4年1618438
元和5年1619119
元和6年1620746
元和7年1621348
元和8年1622207
元和9年162352


明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。

大鏡坊文書
年代西暦人数
享保13年1728311
天文5年17401440
寛政5年1793400/500
寛政6年1794600
寛政7年1795500
寛政8年1796400/500
寛政10年1798400/500
寛政12年18002000
享和元年1801200


「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。

そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。

またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。

  • 参考文献
  1. 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008

2013年3月25日月曜日

戦国期葛山氏の富士山関連の政策

戦国時代における葛山氏は「葛山氏堯-氏広-氏元」と続き、今川氏の家臣であったとされる。富士山東南の御厨地方周辺は、この葛山氏が支配するところであった。このことから、葛山氏における富士山関連の政策は注目されるところである。

  • 葛山氏尭の政策
葛山氏尭は15世紀から16世紀初頭にて活躍した人物である。氏尭は二岡神社保護の政策を行なっている。その保護の方法として、道者関などを活用する手法が確認できる。大永五年(1525)4月に御厨を通る道者が二岡神社を通るように命じている。これは道者が神社に立ち寄ることを促すことで、散銭などの資金的側面での補助と考えられる。治める上での1つの政策と考えられる。また大永7年(1527)7月には二岡神社に道者関を寄進している。これは、道者関での諸役分などを前面的に安堵するということでもあり、明確な神社保護の政策である。氏堯は北麓の小山田氏などと同様、道者関を活用する政策を打ち出していたのである。

ちなみに二岡浅間(と思われる、要確認)に繰り返し土地を寄進した氏族として大森氏がおり、応永21年(1421年)には大森憲頼が御殿場の二岡権現と小山町の二岡神社に土地を寄進しているという。15世紀中盤は、この土地は大森氏が支配していたと考えられている。また後述の「佐野郷」も大森氏が支配に関与していた(池上裕子,「公演 今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994)。大森氏がいつまで影響力を保持していたかは不明であるが、時代が下る例では『小田原衆所領役帳』にもみられる(「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」)。

  • 葛山氏元の政策
氏元は元は今川氏家臣であったが、今川氏衰退に伴い武田氏に帰属している。それは武田氏の駿河侵攻の際、大宮城(富士郡大宮)を穴山信君(武田氏家臣)と共に攻めていることで明確である(永禄12年2月)。その攻撃を富士信忠(大宮城城主、富士氏当主)は退いている。この事実から、葛山氏独自の政策がみられるのは駿河侵攻以前が主であるので、その時期の政策例を挙げたい。また氏元の代で葛山氏は滅亡していると伝わる。

またこの大宮城が位置する大宮で1つ確認しなければならないことがあり、以下の「今川氏真判物」により葛山一族の「葛山頼秀」が富士大宮司領の代官職を改易させられている事実がある(画像1)。改易されてはいるが、それまで代官職を受け持っていたという裏付けでもある。葛山氏はそれ以前にも、富士上方の 「山本 ・久日 ・小泉」を吉野氏に安堵するなどしている。つまり葛山氏の手は富士郡まで伸びていたということになる。



画像1

この改易の事実は、武田氏への帰属と関係していると考えるべきであろう。

文書1

葛山氏元は天文20年(1551)12月に、浅間神社(須山浅間神社か)の神主に禰宜分の懸銭を安堵する判物を出している。また天文21年(1552)正月に佐野郷(現・裾野市)の浅間神社修繕を目的とする勧進の許可を出している。

この「佐野郷の浅間社」についてであるが、『裾野市史第8巻通史編1』では裾野市域に2例の浅間社があったとし、その一方であるとしている。


所在地神社名初見典拠・参考事項、()の数字は『市史』の資料番号
大畑「あしたかの御まつり」社あるいはその前身か
茶畑か佐野郷浅間社(506)(551)神主柏宮内丞、禰宜助三郎
須山浅間社(411)
『裾野市史第8巻通史編1』P289より引用

文書2、後半掲載せず

天文21年12月には佐野郷の浅間神社の神領を安堵している。弘治3年(1557)8月には岡宮浅間神社の法度を定める判物を出している(同旨の判物が永禄4年にもあり)。永禄元年(1558)8月には佐野郷の浅間神社に修造のための勧進の許可を与えている。

文書3

永禄6年(1563)3月には須走口の過所に関する朱印状を出し(文書1)、永禄7年(1564)5月には須走の道者関にて毎度のように滞りなく処理するよう命じている(文書2)。永禄8年(1565)4月にも須走の道者関にて納めさせるよう命じている(文書3)。同年5月には、富士山を警固するために遣わした者の兵糧について命じている(文書4)。

文書4

須走口を多角的に管理している点で、特筆すべき動向であろう。

  • まとめ

これら判物などをみていくと、葛山氏が浅間神社を厚く保護していたことに間違いはない。特に須走口・道者関関連の施策の部分には注目である。葛山氏は道者関を管理し、道者の取締りを行い、須走口の管理を行なっていた。これは富士山麓の須走口の登拝関連のほとんどを全体として取り締まっていたと考えて良い。ここに葛山氏の統治性を感じ取ることができる。村山口は単独の氏族なりが取り仕切る形態はなかったため今川氏管理の下であったと考えられるが、須走口は葛山氏管理の下で継続されてきたと言える。後に武田氏により須走浅間神社に内院散銭の寄進が行われたのは(1577年)、ここが葛山氏管理の地であったために、葛山氏帰属後速やかに保護的政策が施すことができたためでであろう。

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  2. 『裾野市史第8巻通史編1』P289-290

2011年11月21日月曜日

富士山と内院散銭

内院散銭は、富士山の噴火口である「内院」にお金を投げ入れる行為をいいます。道者が行う風習でありました。それを環富士山地域の有力者が得る権利を持っていました

実は「内院散銭を制する(得る権利を保持する)者は、富士山を制する」ようなものなのです。これは誇張した表現でもなく、まさにそうなのです。先ほど「環富士山地域の有力者が得る権利」といいましたが、だれかが山頂に行って自由に得られるわけではありません。しっかりと大名などに権利が与えられることで、得ることができるのです。

ここらへんの戦国大名はどのようなものがいたでしょうか?今川氏や武田氏や北条氏などですよね。そして時代は下り、戦後時代を終わらせた徳川家康です。戦国時代初期は今川氏が最も勢力があった時代ですが、例えば富士山の村山修験、すなわちそれらの主である村山三坊は今川氏の庇護を得ることで栄華を誇っていました。

この内院散銭の権利も時の権力者が与えているため、それはその権力者に庇護されるということであり、大きな権威を保持することになります。そして内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます。ですから、内院散銭の権利を与えられるということは非常に大きなことなのです。そもそも内院散銭自体が莫大なお金になりますからね。大名がお金を保証するようなものなのです。

よく「登山者が一番多かったので、この地域が一番強かった」というような表現をする例がみられます。たしかにそのように言える部分はあります。しかし「富士山における権利」と「登山者の多さ」は全く直結していません。たしかに道者が多い分、宿などは財政的に恵まれる面がありますが、それと「富士山における権利」は全く別物なのです。なぜなら権威というものは「権力者に与えられる物」であるからです。

内院散銭自体は室町時代に風習があったことが分かっています。今川氏輝の富士山興法寺村山三坊辻之坊への判物に見られます。判物には「内院諸末社参銭等之事」とあります。



これについては「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に」にて以下のように説明されている。

「中宮・御室・内院・諸末社参銭之事」は、村山以降富士山頂までの道程に存在した中宮八幡堂、御室大日堂、内院(山頂噴火口)や諸末社で、道者が投下する参銭を徴収する権限を辻坊が握っていたものと思われ、これは「山中参銭所」とも記されている。

内院は各登山道の頂点であり、各参銭所の中でも特に多くの参銭を有していたと思われる。それを取得するという権利は軽視できない。

「富士講の信者が内院散銭を行っていた」と書くものが多いですが、間違えてはいませんが、非常に語弊のある言い方であると思います。「富士講信者も行っていたことから、この風習が続いていた」というべきです。大体、富士講信者以外も行っていました。なぜか富士講と絡ませて話すと、なんでも「富士講特有の現象」のように説明してしまうんですね。私もその先入観を取り払う作業に苦労しました。

しかしどうでしょう。栄華を誇っていた今川氏ですが、当主である今川義元が桶狭間で没し、次の当主の今川氏真もその状況を好転できずに、駿河は武田氏の手に堕ちてしまいました。戦国大名としての名門今川氏は滅びてしまったわけです。つまり今川氏に庇護されていた村山は後ろ盾を失ったわけです。そして武田氏は「須走」に内院散銭を与えています。1577年の事です。「富士山内院之参銭、六月中に一日之分所務」とあります。



内院散銭を制する者は、富士山を制する」…、須走はどんどん勢力を拡大していきました(決して内院散銭だけによるものではないが)。須走という地域は、実は登山道が開かれたのは比較的遅いと言われています。しかしながら、勢力の拡大は目を見張るものがあります。

しかしどうでしょう。武田氏も1582年に滅びてしまいます。武田氏当主の武田勝頼は「長篠の戦い」にて大敗し、逃走する中でなんとか好機を探ろうとします。そして家臣の小山田氏を頼みとすることとし(小山田信茂の強い勧めによる)、小山田氏の領地を目指して逃走を続けます。しかし、その中でなんとその小山田氏に裏切られ、ついに天目山にて死することとなります(自害とも、野党に襲われたともいう)。そしてそれと同時に支配したのは「徳川家康」ですね。つまり「内院散銭」を与えるというようなことができるのも、このときは家康であったのです。徳川家康は元は今川氏に属し、名を「松平元康」といいました。この名前の「元」は「義元」の元からもらったものなのです。しかし今川義元が討たれると独立に動きます。そして名を「家康」とします。改名したのは、決別を明確に示したことを意味します。

そして内院散銭だけでみれば、家康は1609年に浅間大社に内院散銭の取得権利を与えています。

ここで疑問が出てきます。「今川氏や武田氏は滅びているけど、権利はどうなっていたのか」ということです。ここは非常に難しい部分です。遠藤秀男氏は『富士山の謎と奇談』の中で「与えられた権利は後世にも続き、散銭を得ていた(大宮と須走で分けていた)」というように説明しています(本が手元にないためニュアンスだけ、いつかしっかり書きます)。
つまり、(村山)・大宮・須走は「それぞれ内院散銭を得ることができる立場」という複雑な状況であったわけです。しかし、やはり争いは起こります。それが「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」にあるようなことなのです。

「国指定文化財データベース」より引用(国指定文化財等データベース>富士山>富士山(史跡)>詳細解説で全文が見れます)
噴火口は内院(ないいん)と呼ばれ、散銭が行われ、火口壁のいくつかのピークは曼荼羅における仏の世界に擬せられ、「お鉢めぐり」と呼ばれる巡拝が行われた。山頂部の八合目以上については、安永8年(1779)、幕府の裁定により富士山本宮浅間大社の支配権が認められた。
これは国指定文化財データベースによるものなのです。言ってみれば、学術的視点による教科書のような、見本となる歴史解説なのですが、やはり内院散銭は重要な位置づけにあります。そして安永8年の幕府の裁定(安永の争論の決着)は富士山史において「大き過ぎる」と言っていいほどの出来事でしょう。

安永8年(1779)の幕府の裁定の一部
この安永8年の幕府の裁定により、富士山における権利や支配などは明確なものになりました。だれがどのような権利をもつのかがはっきりとしたのです。先ほど「内院散銭は富士山自体の、そして山頂におけるものであるため、「山頂における支配」的な要素が生まれます…」と書きましたが、例えば吉田などが山頂にて何か独自で行う場合などは、大宮の許可が必要でした。この関係は安永8年の幕府の裁定以前もそうでしたが、裁定後はより明確でした。例えば大宮が吉田に新たに許可を与えたところ、須走が反論している例などもあり、それが元禄の争論の争点の1つだったりします。

内院散銭という側面からみると、戦国時代をよく感じとれますね。そして富士山における権利構造というものがよく分かります。

  • 参考文献 
  1. 『小山町史第1巻 原始古代中世資料編』P514 
  2. 『浅間文書纂』P120
  3. 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 4』, 2003

2011年8月21日日曜日

富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論

富士山を巡るの争いは「環富士山地域」で行われていたが、その歴史の中でも大論争だったのは「大宮」と「須走」間の争いだと言える。「富士山を巡る争い」と言ったら普通はこれを指すくらいの有名な論争である。それは「元禄の争論」と「安永の争論」である。

まずその前に用語について確認する必要性があります。


  • 富士本宮…現在の浅間大社
  • 大宮…現在の静岡県富士宮市大宮
  • 村山…現在の静岡県富士宮市村山
  • 須走…現在の静岡県駿東郡小山町
  • 吉田…現在の山梨県富士吉田市
  • 内院散銭…内院は火口を意味する。その火口に道者がお金を投げ入れることを言う。山頂が神聖な場所とされたので、儀式的な意味合いがあったと思われる
  • 薬師堂…現在の山頂久須志神社
  • 1番拾い…内院散銭のお金をまずはじめに得る権利のこと
  • 2番拾い…1番拾いにて残ったお金を得る権利


富士山頂の様子(『富士山道しるべ』より)

【元禄の争論】

元禄16年(1703年)に散銭や山小屋の経営などを巡り須走村が富士本宮を訴えた論争が「元禄の論争」である。

  • 須走の訴え
  1. 「富士本宮が新たに吉田村(甲斐国)の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたが、そのような権利はない」
  2. 「薬師富嶽の薬師堂を富士本宮が造営したが、本尊の薬師仏の入仏は須走が入仏拝していたにも関わらず、富士本宮が入仏を進めると裏書したのは既得権を侵害している」
  3. 「内院の散銭取得において、従来の慣例を無視し、富士本宮が2番拾いの散銭まで取得したのはおかしい」というもの。

  • 争論の結果
  1. 「小屋掛けは他の者にはさせないこと」
  2. 「薬師堂入仏は須走が勤めることとする」
  3. 「内院散銭の1番拾いの分を大宮と須走で6:4とする。また2番拾いはこれまでと同様に須走のものとする」

と決まった。

つまり須走の全面的な勝訴と言える。特に3はかなり大きな権利を得たことを意味する。というのは、大宮は1番拾いの権利を得ていたが須走は2番拾いの権利に留まっていた。つまりほぼ大宮の独占だったのである。しかしこの争論により1番拾いの権利を一部得たばかりか、2番拾いの権利はそのまま継続されたので大きな躍進だったわけである

【安永の争論】

安永元年(1772年)に須走村は富士山の8合目以上は同村の支配にあるとして徳川幕府に訴えた。またこのとき「支配境界の論争」が大宮と吉田間でもあった。このことにより富士本宮の当時の富士大宮司である「富士民済」も幕府に訴える動きに出たため、三奉行が関わる争論となった。そして安永8年(1779年)まで裁判は持ち越されることとなった。

『浅間神社の歴史 宮地直一著』に
安永元年7月駿東郡須走村、甲斐都留郡吉田村を相手として富士山頂の地境を論じ、同八年終に三奉行より富士山八合目以上は大宮の支配たるべき旨裁許を蒙った
とある。このように三奉行により8合目以上は富士本宮の管理地であることが決定されました。

このように1779年に富士山の8合目以上は浅間大社の支配となることとなった(今般衆議之上定趣者富士山八合目より上者大宮持たるべし)。つまり大宮の全面的な勝訴と言える。これが現在に至っている。しかし内院散銭については1880年の内務省の通達により廃止されることとなった。

大宮と吉田間の「支配境界の論争」を「8合目を巡る争い」と勘違いしてしまうケースがあるように見受けられます。歴史的には、駿河と甲斐間で実質的に山頂部を争ったということはありませんでした。逆に駿河の地域間ではありました。そしてやはり「富士山を巡る争い」という意味では「大宮と須走」を指すのが良識と言えます。

  • 参考文献
  1. 宮地直一,『浅間神社の歴史』,名著出版
  2. 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
  3. 小山真人,『富士を知る』,集英社,P94-100
  4. 『富士山推薦書原案』
など。