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2019年7月12日金曜日

富士氏はいつ今川氏に従属するようになったのか

まず、甲斐側の記録である『勝山記』に

此年六月十一日、甲州乱ニ成リ始テ候也

と記す箇所がある。これは明応元年(1492)の武田氏の内訌を示しており、また同年9月9日には今川軍の甲斐侵攻すら許している状況であった(『年代記』)。つまりこの時代の武田家というのは甲斐統一すら成し遂げておらず、また他国からの介入を多く許す甲斐の一勢力でしかなかったのである。

この今川軍の侵攻は時の今川家当主「今川氏親」によるものであり、この際用いられた甲斐侵攻の経路については諸家で意見が示されている。小笠原春香『戦国大名武田氏の外交と戦争』には以下のようにある。

この点について秋山敬氏は、郡内(山梨県東部、富士五湖方面)のことを主として記録する『勝山記』に駿河勢の出張記事が見られないことから、今川軍は穴山氏の領域である河内路を利用したのではないかとしている 。黒田基樹氏は、信縄による河内攻めの報復として、信懸が今川氏に支援を要請し、今川氏もこれに応えたのではないかとしている。そして、信昌・信恵方が今川氏と結ぶことによって信縄に対抗したのではないかと述べている(中略)いずれにせよ、『年代記』に見られる今川氏による軍事介入は実際に行われたようで、その結果からか、明応二年(一四九三)になると信縄は敗戦を繰り返し、厳しい状況に追い込まれた。

「武田信縄」と「武田信懸・武田信昌(信縄父)・信恵父子」勢の対立により甲斐乱国を招き、また今川氏親は武田信懸側に付き甲斐へと侵攻しているのである。また黒田氏は「今川氏親の新研究」の中で以下のように述べている。

氏親はこの「甲州乱国」に、武田信昌・信恵父子、穴山武田信懸を支援したのであり、そこでの出兵が国外への最初の軍事行動であった。また、ここで甲斐に侵攻しているから、その経路にあった河東のうち富士郡北部も、すでに領国化していたとみなされ、それは同地域の国衆富士家を服属したものととらえられる。富士家も、もとは国人であったが、義忠の時には家臣化していた存在であり、範満討滅後に、従属を遂げたものとみなされる。ちなみに富士家については、明応5年に富士中務大輔が、葛山氏とともに幕府奉行衆として存在していたことが確認されるが(「室町家御内書案」戦今103)、その一方で氏親に従属していたとみられるであろう。そしてこれが奉行衆としての終見になっている。

この記述から考えると、黒田氏は今川氏親による甲斐侵攻の際は「中道往還」を経由したと考えていると見る他ない。富士宮市域には他に甲斐に繋がる街道として「駿州往還」(河内路)が位置するが、該当する箇所は旧庵原郡の「内房」であり、また河東(富士川の東)ですらない。なので黒田氏は中道往還を用いたと考えていると言えるのである。

また黒田氏は「同地域の国衆富士家を服属したものととらえられる」としている。当記事では「この時代の富士氏が今川氏に恭順していたか否か」という点について考えていきたい。実は「この時代の富士氏が今川氏に恭順していた」とするには、史料的説得が大分足りないのである。富士郡(富士上方)の領主が富士氏であったことは言うまでもないが、そう時期を違えていないこの頃、富士氏と室町幕府との関係に溝が生じていたことも考慮しなければならない。

黒田氏が言う「明応5年に富士中務大輔が、葛山氏とともに幕府奉行衆として存在していたことが確認される」としている文書は、以下のものである。



この「室町幕府奉行人奉書」の内容は、室町幕府の新将軍の就任における「御代始御礼」がなされていないと富士氏を非難する内容であり、場合によっては所領を没収するという強い姿勢を打ち出したものである。この新将軍とは「足利義澄」であり、就任は明応3年(1494)である。

もちろん富士氏は、今川氏が室町幕府と懇意であることは承知であったはずである。室町幕府に恭順しているとは言い難いこの史料を見ると「この時期氏親に従属していたのだろうか?」という疑念は出てくる。新将軍就任が明応3年(1494)であり、「御代始御礼」の無沙汰を非難するのが明応5年(1496)である。そして甲州乱国における氏親の甲斐侵入が明応元年(1492)であって、そう時期は違えていない。なので甲斐乱国時に氏親に恭順していたかどうかは疑わしいのである。

また富士氏のそれ以前の状況を見ても、今川氏に従属している様子は実は無いのである。今川氏が富士氏に発給した文書の初見は、「今川範氏判物」とされている。


この文書に対し大久保氏は『戦国期今川氏の領域と支配』の中で以下のように解説している。

大宮浅間神社と今川氏の関係が文書上で確認しえるのは、範氏の代、14世紀中期に遡る。以後、今川氏から多くの文書が発給されているが、氏親以前の文書は、社領や別当職の安堵などに関するものであり、それらは駿河守護としての権限を超えるものではなく、室町幕府の意向に沿ったものといえる。

としている。つまり「室町幕府の意向を今川氏を介して富士氏に伝えたのであって、今川氏との従属関係で富士氏に文書を発給しているわけではない」と言っているのである。氏親期に関しても同様のことが言える。また杉山一弥氏は『室町幕府の東国政策』の中で

事の本質は、将軍足利義澄が堀越公方足利政知の子息であるため、葛山氏が堀越公方府の地域的政治秩序に包摂されていただろうこととの関係を考慮しなければならないといえよう。明応年間の政治的動向をみると、明応2年(1493)、京都における明応の政変に加担して足利義澄の異母弟堀越公方足利茶々丸をねらい伊豆国に襲撃した伊勢宗瑞(北条早雲)は、なおも生き延びた足利茶々丸との抗争を明応7年まで繰り広げていたことが知られる。(中略)つまり室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給されたこの明応5年という年は、伊勢宗瑞らにとって軍事的緊張がもっとも高まった時期だったのである。そして伊勢宗瑞らの一連の行動は、異母弟足利茶々丸によって自身の実母円満院と同母弟潤童子を殺害された将軍足利義澄の支持を得ていた可能性が高い。それゆえ明応5年の将軍足利義澄による葛山氏への室町幕府奉書の発給は、伊勢宗瑞らとは若干の距離をおく葛山氏に対して将軍みずから政治的圧力を加えるとともに、言外に伊勢・今川両氏への協力を葛山氏に要請するものであった可能性が考えられるのである。

としている。ここで「室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給された」とある文書が「富士中務大輔」に向けても発給されている。ここで葛山氏を例として示されているように、葛山氏と同様に富士氏も「堀越公方府の地域的政治秩序に包摂されていた」存在であったのだろう。そしてそれが「御代始御礼に対する無沙汰」という形で現れたのではないだろうか?この文書が葛山氏と富士氏にそれぞれ発給されていることを考えると、葛山氏と富士氏は行動を同じくしていたのであろう。でなければこの現象は説明できない。ここでまず

富士氏は堀越公方に加担しようとしていたきらいがあり、堀越公方と対峙する伊勢宗瑞と懇意である今川氏親に恭順していたと言える状況には無い。また、それまでも恭順していたことを示す史料は無い

ということは確認しておきたい。

またその後の今川氏による甲斐侵攻の動向はどうであっただろうか。この甲州乱国の翌年の明応2年(1493)から伊勢宗瑞は伊豆侵攻を開始しており、今川氏親は甲斐乱国時における甲斐侵攻以後、武田家との抗争は生涯を通して行っている。一方甲斐国内では、武田信縄の子である信虎が武田氏当主となると、ようやく甲斐統一がなされることとなった。

武田信虎

この甲斐統一は永正7年(1510)に小山田氏を従属化し、永正17年(1520)に大井家を従属化し、大永元年(1521)に穴山氏を従属化できたことが大きい。特に穴山氏のそれは大きいものであった。穴山氏の従属化を知った氏親は、穴山氏の本拠である「河内」を攻撃した。ここで注目すべき記録が確認されるのである。同年の『勝山記』の記録に

河内へ八月廿八日惣勢立テヤリツキ其ノ日有之富士勢負玉フ也

とあり、大永元年8月に富士氏は今川方として戦に参戦しているのである。『勝山記』では福島正成らを「福島勢」と表記するなどしており、同記における「〇〇勢」という表記は人物を指すと考えられる。したがって「富士勢負玉フ」は「富士氏の勢力」と理解すべきである。この富士氏の出兵はどう理解するべきだろうか。

まず堀越公方の足利茶々丸は、伊勢宗瑞による伊豆侵攻後の明応7年(1498年)、追い詰められた末に自害している。この動向が今川氏従属に大きく動いた可能性が大きい。他に付く勢力がないのだから当然とも言える。しかし今川氏は武田氏と対峙しており、おそらく今川氏側から参戦を促される立場になっていたのだと思われる。

その後も今川氏と武田氏は諸戦を繰り返し、大永元年11月には上条河原にて信虎軍は大勝している。これらの背景があって、穴山氏の従属化は完全になされたのである。その後は今川勢を駿河まで追い出すことに成功している。

また大永2年(1522)に信虎は身延山久遠寺および富士山に参詣している。富士登山は『勝山記』に

武田殿富士参詣有之、八要メサルル也

とあるのがそれである。八要(=八葉)ということから、お鉢巡りを行ったのであろう。これは自らの甲斐統一を周辺に知らしめる意図があったとされ、大永2年(1522)およびその前年に甲斐統一をなしたと解釈されることが多い

とりあえず、富士氏の今川氏への従属化は堀越公方滅亡後の段階で初めてなされ、少なくとも大永元年時点で今川氏傘下として定着していたと考えたい。

  • 参考文献
  1. 小笠原春香,『戦国大名武田氏の外交と戦争』,岩田書院 ,2019
  2. 黒田基樹,「今川氏親の新研究」『今川氏親(シリーズ・中世関東武士の研究 第26巻 )』,戎光祥出版,2019
  3. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,思文閣出版,2014
  4. 大久保俊昭,『戦国期今川氏の領域と支配』,岩田書院、2008年
  5. 小林雄次郎,「武田信虎の富士登山 -大永二年の登頂をめぐって-」,『武田氏研究」第56号,2017

2019年6月10日月曜日

北条早雲と富士市

まず現在の富士市域というのは中世以降「富士下方」と呼ばれていた地域であり、古文書でも多く目にする。しかしこの富士下方の地というのは、統治者が明確でないことでも知られている。特に伊勢宗瑞(北条早雲)との関わりについての部分が不明瞭で、関係があるのか否かがはっきりしていない。このページでは「富士市域(富士下方)と伊勢宗瑞」というテーマで取り上げたいと思う。

北条早雲
まず伊勢宗瑞は今川氏と関係が蜜であったことが知られている。しかし史料的説得という意味では意外にも薄い。例えば黒田基樹氏は「今川氏親の新研究」の中で

家中は、後継をめぐって氏親を推す派と、義忠従兄弟の小鹿今川範満を推す派とに分裂し、内乱が展開されることになる。ただしその状況は軍記物によるにすぎない。(中略)氏親と範満の抗争の具体的状況は明確ではなく、わずかに「今川家譜」が、伊勢盛時が今川家臣を率いて、駿府館を攻撃し、範満とその甥小鹿孫五郎を討ち取ったことが記されているにすぎないといえる。

としている。しかしこの「今川家譜」に富士市域と伊勢盛時(後の伊勢宗瑞、北条早雲)との関係を記す記述が見える。以下も黒田氏文献による。

「今川家譜」などによれば、宗瑞は、範満討滅の功績によって、河東富士郡下方地域に所領を与えられたことがみえているが、これについても、同地域はいまだ今川家の領国に編成されておらず、その征服を示すものであったという想定も可能である。(中略)また盛時は、範満討滅の功績によって、河東下方地域で三〇〇貫文の所領を与えられたとされる。ここから氏親は、少なくとも下方地域までの領国化を果たしたことがうかがえる。

伊勢宗瑞の軍事行動により河東地域を制圧でき、宗瑞と関係の深い今川氏は晴れて河東地域を手にすることができたという旨の内容である。また今川氏親は長享元年(1487)に今川小鹿範満を討ち、今川家当主となった。その背景に宗瑞の活躍があったため、三〇〇貫文の所領を与えられたという内容である。この三〇〇貫の所領についての部分は「今川記」で記され、また類似する内容が他史料でも見出されている(「伊勢盛時と足利政知」)。

「今川記」(玉川図書館所蔵本、加越能文庫本とも):氏親大いに感し、高国寺に富士郡依田橋せこひんなと云所を三百貫新九郎に給わる
「今川記」:「下方庄」(具体的所領の記載なし)
「異本小田原本」:「下方庄依田橋柏原吉原

せこは「勢子・瀬古」であり、ひんなは「比奈」である。依田橋は共通しているが、他は記録により差異が大きい。しかし共通して「富士下方」であり、やはり実際に伊勢宗瑞は富士下方に何らかの所領を得ていたと考えてもよいと思える。しかもこの一帯は富士下方でも比較的東部であることが共通している。富士下方から見て東側から赴いている宗瑞が東側に所領を得ていることは、何らおかしなことではない。

黒田氏はこの所領の偏移について、以下のような見解を示している。

河東富士下方地域に、依田橋・せこ・比奈(「加越能文庫本「今川記」)、あるいは依田郷・原・柏原・吉原郷などを所領としていたと伝えられる(「異本小田原本」)。しかし伊豆侵攻後において、それらの領有を示す史料はみられない。可能性としては、伊豆侵攻にともなって氏親に返上されたか、宗瑞の死去まで所領として存続したか、いずれも考えられる。(注:黒田氏の各文献で各々表記が異なることに注意)

としている。どちらかといえば、伊豆侵攻後は所領ではなかったという可能性を暗に示す形となっている。宗瑞は明応2年(1493)に堀越公方足利茶々丸に敵対する形で伊豆に侵攻し、明応7年(1498)には足利茶々丸を自害に追い込んでいる。その辺りでは富士下方は所領でなかったという可能性を提示している。


  • 参考文献

  1. 黒田基樹,「今川氏親の新研究」,『今川氏親 (中世関東武士の研究26)』,2019
  2. 黒田基樹,「伊勢盛時と足利政知」,『戦国史研究』第71号,2016

2011年2月7日月曜日

大石寺の歴史

大石寺は日蓮正宗の総本山であり、寺紋は『鶴丸』。元は「おおいしでら」とも呼ばれていた。



日蓮の「六老僧」の1人に、甲斐国の「日興」という人物が居た。日興は身延山での日向との対立から身延を出て、富士郡上野郷の地に土着します。日興は「南条時光」ら武士の援助を経て、1290年に大石寺を建立することとなります。これが創建に至るまでの歴史とされています。同門および宗派間で争論が生じることは多々あり、永仁元年(1293)に日蓮門弟の「日目」が浄土宗の十宗房と「問答」するなどしている。著名な事例では日蓮宗の日親が「中山門流」より破門されている例などもある。

鶴丸(西山本門寺)

南北朝期には既にこの周辺に北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺、下条妙蓮寺が位置していた(現在「富士五山」と呼称される)。『甲斐国志』には、これら寺院を指して「富士五箇寺」とある。歴史を鑑みると、どちからかといえば「甲斐国の影響・勢力が駿河国富士郡に波及したケース」と言える。現在のように「富士五山」と呼ばれるのは近年のことであり、昔は「五箇寺」というような表現であったと考えられる。芙蓉亭蟻乗『富士日記』には「此辺に大石寺、妙蓮寺、西山本門寺いづれも境内広く法華五ケ寺の大寺なり」とある。

大石寺が"特別な寺院であった"ということを窺い知れる事例として、「無縁所」であったという事実が挙げられる。「無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和」には以下のようにある。

今川氏の分国、駿河・遠江国には、「無縁所」が多い。駿河についてみれば、弘治2年(1556)に今川義元、永禄3年(1560)に氏真の判物を与えられ、諸役等の免除、不入を認められた富士郡の久遠寺、同じく永禄3年、氏真判物で同様の特権を保証された本門寺(北山)、天文3年(1534)の氏輝、天文5年の義元、永禄3年の氏真判物によって「門前之内棟別」等の諸役を免許された大石寺、天正11年(1583)、徳川家康朱印状により「寺内諸役免許」を保証された妙蓮寺等があり…(中略)こうした諸寺は今川氏当主の代々の判物を与えられていること、つまり今川氏との縁によって支えられていたのである

とある。大石寺が無縁所であったために、今川氏より棟別銭(税)を免除されている。


この文書について小和田哲男氏は「今川氏の研究 第一巻」で以下のように説明している。

…とあり、棟別役などが「新寄進」として大石寺に与えられたことを示している。つまり、本来棟別銭は今川氏の蔵や給人などに納入されるはずのものが、今川氏側ではこれを取らず、徴収を免除して大石寺に新しく寄進するといった意味である。

本質的には棟別銭の免除と同様ですが、今川氏側の使い分けがあったとされている。

次に大石寺の特徴として、その門前に「市」の機能があったことが挙げられる。まず今川氏の歴代当主による発布文書を見ていきたい(寿桂尼によるものを含む)。


これは寿桂尼による、「かなふみ文」による発給文書である。その後それを踏襲した文書が今川氏輝により発給された。



「今川氏親後室寿桂尼発給の文書について」にあるように、寿桂尼と氏輝の発給時期は基本的には重ならない。氏輝が若年・または病床にあったために寿桂尼が代わって発給していると考えられ、それ故に後世にまた同じ内容の文書を氏輝が発給していると考えられる。

この文書には「先年喬山免許の判形を…」とあり、今川氏親により諸役・棟別役の免除がなされていたことが分かる。しかしその文書自体は残っていない。これについて同論文では

「他所にあつけしつきやくと云々」とあるところから考えて、大石寺は判物を失ったのだろう。ところが、長池九郎左衛門尉親能なる者の書状にあきらかであった為同寺へ再び安堵状が交付されたのである。棟別・加籠譜請・材木等の人足・点(天)役等、今川領国における諸役の内容が記載されている点で注意したい

としている。この文書から氏輝の先代今川氏親より諸役・棟別役の免除がなされていたことは確実で、今川氏による保護は氏親期にまで遡ることができる。氏輝の次代の今川義元は8箇条からなる文書を発布した。


またその次代の今川氏真は11箇条からなる文書を発布した。


この文書ついて、「今川氏の制札の研究」では以下のように説明している。

この文書は、11箇条と制札としては非常に多い。大石寺には天文11年(1542)にも義元により制札が出されているが、これは8箇条であり、氏真時代には後の3箇条が追加された。これらは「門前商売」や「市」など商業的条目であり、この時代に必要性が増していたと思われる

この追加の3箇条は大変重要な意味を持っており、大石寺の門前の様相を捉える上で重要な意味を持つ。大石寺門前の市については「富士大宮楽市令の再検討」にて軽く触れられており、

大石寺(富士郡)に宛てた次の今川義元朱印状がある。それによると、同寺門前では在家住人と思しき「商買之者」による商業が行われ、逆に常設ではない「前々市無之」の市立ては禁じられた。ここでは大石寺の要求に即して、「前々」に則った商売のみが認められているが、一方で、今川氏自身が新たな市立てを認めた文書は僅か一通で…

とあり、古くから市が存在していたことが分かる。以上に、大石寺の特徴としてよく知られる①無縁所であったこと②門前に「市」機能があったこと、の2点の説明をしました。この2つはまず押さえておく必要性があると思います。また今川氏からの庇護も得、今川氏親-(寿桂尼)-氏輝-義元-氏真と長きに渡り例外なく保護を受けていた事実も重要であると思います。他にも興津氏との関係等ありますが、後に追加していこうと思います。

ただ当時の戦国大名は「宗派間での争いを危惧し禁止していた」という事実も見逃せないと思います。それは「法論(宗派間での議論)の禁止」であり、今川氏親は『今川仮名目録』にて「諸宗之論」を禁止し、その影響を受けたという『甲州法度次第』では

一、浄土宗与日蓮党法論之事、於于分国不可致之…(二十六箇条本)
一、浄土宗日蓮党、於分国不可有法論…(五十七箇条本)

とあり、浄土宗と日蓮党間での法論を禁止している。「浄土宗与日蓮党法論之事」とあるので、やはり恒常的に法論があったのである。つまり寺院の保護を行いつつも、それらすべての活動を許容していたわけではない。分国法にて楔をしっかりと打っているわけです。『甲州法度次第』では「浄土宗」に対し「日蓮党」という言葉を用いています。『甲州法度次第』は武田信玄が制定した分国法ですが、この言葉の使い分けは興味深いです。「徳川氏の宗教政策」では

ところで、この条文で留意することがある。それは日蓮党との表現が行われていることである。このことは当時、日蓮宗においては日蓮滅後、着々とその教線は拡張されたが、それは各門流の独自性に基づいていた。従って日蓮宗においては各門の独立意義、言いかえるならば、各門流の正統意識が強いために各門流は日蓮宗教団という単位で組織されておらず、各門流が一個の教団単位であって、正統・異端をめぐって互に反発しあっていた。よって、先の家法にみるような表現形式となったと思われる。

としている。今多くの人は「日蓮宗」という1つのイメージで固着している(と思われる)が、当時もやはり各門流が多くあり、それらを甲斐国の分国法では「日蓮党」と総称していたと考えられる。大石寺は富士門流に属しています。

 『大日本沿海輿地全図』(伊能忠敬)より
ここからは各五山の比較をしていきたいと思います。富士五山の比較は紀行文が良いかもしれません。他地方の人物が客観的にどのように見ていたのか、そこから説明を広げていきたいと思います。元禄5年(1692)の貝原益軒『壬申紀行』には以下のようにある。

西山に本門寺とて大なる寺あり。日蓮宗也。日代上人墓あり。(省略)凡、富士のすそ野に日蓮宗の五ヶ寺あり。北山の重巣本門寺、西山本門寺、上野の妙蓮寺、大石寺、大宮の久遠寺あり。其中につゐて、西山本門寺最大なり。僧舎16坊あり。西山より上野の妙蓮寺に一里半あり。寺、大ならず。妙蓮寺より大石寺に五丁あり。是又、上野村にあり。大石寺も大なる寺なり。寺領60石あり。上野より北山本門寺へ24丁あり。重巣といふ所にあり。…

紀行文なので、位置関係なども詳細に記されています。大石寺より「西山本門寺を大きい」とする記述も興味深い。ここの序列は気になるところである。

西山本門寺
当時の坊の数がどのようであったのか、寺領はどうであったのか等比較すると見えてくる部分もあるかと思います。

大石寺の山中の不二(『富嶽百景』)

また「河東の乱」の際、武田信玄は大石寺に着陣している。『高白斎記』に

天文十四乙巳年(中略)十二日本須御着陣所、板垣・栗原ハ大石寺迄、夜大雨
十四日甲戌従北条氏康御状来ル、十五日大石寺二御着陣、十六日丙子辰刻吉原自落

とある。

  • 富士門流からの独立
これは大変大きな動きである。富士門流という派閥から独立したことにより、独立性を明確にしている。そして「日蓮宗富士派」を名乗る。これは、当時の官報(1900年)に掲載されている。「本門宗内」とは富士門流のことである。

その後日蓮正宗とした。

  • 文化財類
「太刀 銘吉用」(重要文化財)

日蓮自筆遺文

宝物に関する議論があるようなので、五山の宝物について追加していく。

  • 天正10年(1582年)に本多重次が西山本門寺春日上人に対して日蓮直筆の寄進を行う(本多隆成「初期徳川氏の奉行人」『戦国期静岡の研究』)。
上記の『壬申紀行』の他、多くの記述から分かるように当時五山が日蓮宗と異にするものとは認識されていなかったことが分かる。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,『今川氏の研究』 (小和田哲男著作集第一巻) ,清文堂出版,2000
  2. 富澤一弘・佐藤雄太,「今川氏の制札の研究」『高崎経済大学論集 53』,2011
  3. 久保田昌希,「今川氏親後室寿桂尼発給の文書について」『駒澤史学 24』,1976
  4. 坂本勝成,「徳川氏の宗教政策」,立正大学文学部,1969
  5. 大塚紀弘,「中世仏教における融和と排除の論理 : 「宗」と宗論をめぐって」,武蔵野大学仏教文化研究所紀要 (29), 2013
  6. 長澤伸樹,「富士大宮楽市令の再検討」『年報中世史研究 (41)』,2016
  7. 『角川日本地名大辞典』(22 静岡県),角川書店,1982年
  8. 磯貝正義,「善徳寺の会盟」,『甲斐路 山梨郷土研究会創立三十周年記念論文集』,1969
  9. 網野善彦,『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』(増補版),平凡社, 1996
  10. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P416,名著出版(1974年版)
  11. 板坂耀子,『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) P36-39,1991年
  12. 静岡県教育委員会文化課山梨県教育庁学術文化財課編,『富士をめぐる』,2006年
  13. 官報(明治三十三年九月十九日付)
  14. 『大日本沿海輿地全図』
  15. 『富獄百景』,芸艸堂出版部,1948年