2026年5月10日日曜日

富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性

富士市は令和8年(2026年)11月1日に市制施行60周年を迎える。そこで富士市について考えてみた所、富士市に内在する"TRICK感"が頭をよぎった。この機会にこれをしっかりと言語化しておこうと思った次第である。そして最終的にはシティープロモーションの可能性にまで話を繋げたいと考えている。

皆さんは「TRICK」(※ビジュアルではKは左右反転)という作品をご存知だろうか。この作品の世界観は何とも独特で言語化し難いものがあるが、YouTubeなどで「予告編」などが未だに残されているので、空気感を把握して頂ければと思う。

さてこの作品と富士市がどう関係してくるのかということであるが、何となく富士市にTRICK感が有りはしないだろうか、という話しなのである。この作品は、物語の舞台の地に辿り着くと決まって現地住民が不思議なことを口走ったり、奇妙な行動を取るというようなくだりがある。

ネットを調べると、富士市でそれに近しい報告がいくつも見られる。ここでは、都市伝説とかそういう野暮ったいものは挙げず、「地域伝承」に係るものに限局してその実例を紹介してみたい。

まず「磔八幡」(正式名称は「八幡宮神社」、通称「青嶋八幡宮」とも)である。報告は「磔八幡訪問時の報告」を見て頂きたい。「磔八幡宮は、ちょっと事情があって表から行かないほうがいい」という現地住民の発言であるが、これは次に登場する看板の文言と関係するのではないだろうか。

報告によると、境内の告知板の文言として「我が家の伝承と異なる点も多々あり迷惑致します」とあったという。これはここでいう"我が家"が、先の現地住民が述べる「表側」に位置しているという可能性を想定させるものである。

では「我が家の伝承と異なる」とはどういうことだろうか。それを探るために、緊張しながらも現地に赴いてみた。残念ながら、上の告知板はもう存在していなかった。そしてその当時は存在していなかった石碑が確認された。


石碑の内容はこのように大変な美談となっているのであるが、磔八幡に関する初見を見るに、伝承はそんなに美しい面ばかりではないようである。そのような事実を鑑みるに、「我が家の伝承と異なる」というのは、以下の2パターンのどちらかであろう。


  1. 美談ばかりが誇張されているが、実際はそんなものではないという抵抗感
  2. 川口市郎兵衛の末裔による粗相話は、あまり表に出さないで欲しいという抵抗感


石碑の文言を読むと「合議がなされ」「氏子組織を整え」「中興」とある。このような否が応でもリセットを感じずには居られない表現と石碑は美談で整えられているという事実を見たときに、上の告知文は「1」のスタンスであったのではないか?というようにも思えてくる。詳しくは分からないが、なんらかの対立があったことは明らかであろう。

次に「三股淵の生贄伝承」である。報告は「生贄伝説を語る古老」を見て頂きたい。もうTRICKの世界そのものといった雰囲気であるが、血走った目で生贄伝承を語る古老の心境を考えるに、"この伝承話が地元民の記憶から無くなって欲しくない"というような心情もあったのかもしれない。

一方私はこれまで一体何人の富士市民と会話してきたのか分からないくらいには接してきているが、生贄のエピソードがその口から出てきたという経験はない。しかも歴史の話においてでも同様である。しかしこの伝承を、特に上の世代が全く知り得ていないとするのは難しいと思われるので、触れてはいけないものとして扱われている可能性もある。

仮にそうであるとすれば、上の「磔八幡」の例と近しいものがあると言える。


  1. 伝承をそのまま伝えていきたいと考える側
  2. むしろ伝承を伝えたくないと考える側

この2つがあり、磔八幡も「1」と「2」の対立があったのではないかとの推測が浮上する。三股淵の伝承を語る古老は「1」であり、「2」の風潮を快く思っていないのではないだろうか。

富士市の伝承・伝説を一通りみていくと、根底は同じ性質のものであるということに気づく。つまり"生贄"である。磔八幡も、見方を変えれば"川口市郎兵衛一人が犠牲となった物語"ではないのか。「お菊田の伝承」も、お菊が無理難題の犠牲になったのである。富士市は歩けば生贄にぶつかるわけであるが、これはやはり偶然では片付けられない。これは「生贄郷」と呼ばれた地の宿命と言うべきだろう。この多さを考えると、生贄が付加されてしまうという性質を持ち合わせていたとしか考えられない。

そして富士市には「1」と「2」をミックスさせた現象も認められる。それがどういうことなのかを見ていこう。人柱伝説で有名な「雁堤」についての説明板が、同地には設置されている(雁堤の人柱伝承)。


こちらも大変な美談となっているのであるが、この伝承は平たく言えばこういうものである。


難工事であった堤を完成させるため、神に人柱を捧げることとなった。しかしそれは現地の人間からは選ばれず、東海道の通行人から無作為に選ばれ、実際にそれが行使された。


つまり、普通の感性から言えば「守護神」という表現にはならない。「人柱」「人身御供」「生贄」などが正しいだろう。この文を作成した人は、守護神の意味が分かっていない(おそらく故意であろう)。また説明板を読む限り、もうここ(問答無用で人柱にされている)に対する違和感は全く感知しないと言わんばかりである。

富士市はこのような"美談化"が大好きで、これは「1」と「2」をミックスさせたものである。つまり「伝承を取り上げるが、美談化しておこう」というものが「3」である。

この「3」は三股淵の伝承でも例に漏れずであった。以下は六王子神社にある御札である。


この御札の文言に対する違和感は「富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える」にて記している。これもそもそも土民が生贄を行っていることには触れず、「埋めた」ということ1つをもって「聖」の部分を喧伝しようという意図が見える。また私は「3」が郷土史家によって推し進められていたという仮説を立てており、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にてそれを解説している。これは巧妙に、そして着実に進められた。

つまり、何となく感じるTRICK感の正体は、「3」から由来する歪みなのではないだろうか。なんだか訳ありで含みを持たせている告知文の存在や、血走った目で解説する古老の方を「異」として捉えてしまいそうであるが、実はそちらの側がいたって普通であったということは有りはしないだろうか。

富士市は民俗学的にはとても興味深い地域である。従来富士市では、煙突群(工場群)は忌避されていた。しかし最近ではこれを「工場夜景」としてシティープロモーション化する試みが進められている

この生贄伝承の一大群も、シティープロモーション化してみたらどうだろうか。つまり「3」のようなことはせず、ありのままで、普通にプロモーション化すれば良いのではないだろうか。雁堤の説明板も、普通に「人柱」「人身御供」と書けば良いではないか。このような行動は、むしろシティープロモーション化の潜在性を失うことになるだろう。

今現在も「雁堤」「磔八幡」「阿字神社」「六王子神社」「保寿寺」「お菊田」等は残っているので、皆様に是非訪れて頂きたいと思っている。

2026年5月3日日曜日

曽我物語図扇面考、古画類聚との関係と松屋棟梁集の解釈

本稿では「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」でも取り上げた「曽我物語図扇面」について考えていきたい。(井澤1999;p.431)には以下のようにある。


一対の曽我物語図の遺例を紹介する。

一、「曽我物語図扇面」

扇の一面に富士巻狩図が描かれ、画風から室町時代末期から桃山時代にかけての大和絵系の町絵師の制作と見られる。兄弟は落馬する前の祐経を追いかける姿であり、また人物の頭上には「すけつね」「すけ成」「より朝」「ときむね」「五郎丸」「志げただ」「よし盛」「うつの宮」「につ田ただつね」と名が記され多くの登場人物が特定されているが、基本的なモチーフや構成は「月次風俗図屏風」中の「富士巻狩図」と共通する。この扇面画には対になる図が存在していた。松平定信編纂の『古画類聚』(序文の年記、寛政七年〈一七九五〉)に一対の「扇面古画」の模写が収載されているが(図 4)、そのうちの一面がこの現存している「富士巻狩図扇面」の写しである。その裏面であったとおもわれるもう一面は、三七軒の屋形が連なる様を俯瞰でとらえた図様である。これは巻狩の際の仮屋で、兄の十郎が仇祐経の仮屋をさがして歩く「仮屋廻り」に取材して歩く「仮屋廻り」に取材している。屋形に巡らされた幕には巻狩に参加した武将の紋が描かれ、いくつかの屋形には墨書で武将の名も記されている。


この紙本著色の扇は(和泉市久保惣記念美術館1990;p.68)に白黒で掲載されている。完成度が高く、絵師が制作したことが伺われる。井澤氏が述べるように、本来は一対からなるものであり、もう一方の図柄が『古画類聚』に認められる(東京国立博物館1990a;p.16-17)。

井澤氏は「裏面であったとおもわれる」という言葉を用いているが、現存例の扇面が一面しかないため(サントリー美術館他2018;p.253)、順番としては「富士巻狩図」が頭であるという意味で述べていると解釈しておく。つまり一面ずつ一対の扇があり、一方のみが残ったと考えるべきである。

「曽我物語図扇面」と『古画類聚』を見比べたところ、図柄はぴったりと一致しており、『古画類聚』が実物の扇を模写したものであることが分かる。そして井澤氏の論稿の脚注には以下のようにもある。


註2の鈴木廣之氏の論文中で、高田与清『松屋棟梁集』(文化13年〈1816〉頃執筆)にも本扇面画二面が収載されていることが紹介されている。それぞれに「古き扇の画に畫たる鎌倉の頼朝大将軍富士野狩の圖」「其二富士野假屋の圖幸若舞の草子夜討曽我の段を考合すべし」と添え書きがある。

私は以前より『松屋棟梁集』は知り得ており、その中の絵図は既知のものであった(日本随筆大成編輯部編1975;p.178-181)。しかしうち一方が現存することも知らず、また『古画類聚』に書写したものが収められていることは知り得ていなかった。

富士野假屋の圖(『松屋棟梁集』


そこで『松屋棟梁集』のものと見比べてみた所、やはり図柄は一致している。ただ『松屋棟梁集』のものは所々略式化している。というより、『古画類聚』が異様に綺麗に模写できていると言った方が良いだろうか。この様々行き来していたと思しき扇について、もう少し深く考えてみようと思う。

まず時代背景を考える。『古画類聚』の成立は諸説あるが、文化13年 (1816)『松屋棟梁集』と同じ頃とも言われ、どちらが先行するのかは定かではない。『古画類聚』の方には扇絵の横に説明書きとして墨書で「扇面古画」とあるのみで(東京国立博物館1990b;p.102)、他に文字はない。

『松屋棟梁集』には一方の扇絵の傍に「古き扇の画に畫たる。鎌倉の頼朝大将軍富士野狩の圖。」と、もう一方には「其二 富士野假屋の圖。幸若舞の草子夜討曽我の段を考合すべし。」とあるが、これは『松屋棟梁集』にて新たに説明として加えられたものである。扇という形態から考えても、これらの文字は元々存在したものではない。つまり『松屋棟梁集』にて扇絵に対して名付けされたわけである。

ここで注目したいのは、その図柄の意味が違わず理解できているということである。巻狩りの地が「富士野」であること、建物群が仮屋を指し、それらは幸若舞の幕紋づくしから由来するであろうことが推察されている。これはかなり高度な理解である。源頼朝の巻狩り=富士野で催されたものという理解が通っており、『曽我物語』を理解し、その上で幸若舞を知り得ていないと成立しない。

曽我物語図扇面を見てみると、各所指摘されているように「月次風俗図屏風」第7扇「富士巻狩図」と場面がよく似ている。しかし明確な差異もある。例えば「月次風俗図屏風」では頼朝の従者が傘を指す猫写などはないが、本扇絵ではそれが認められる。

(林2020;p.21)は挿絵入り『曽我物語』の図柄を指す形で「頼朝が多くの勢子を連れて狩りを催している様子が描かれる。ここでは、傘を差し、馬に乗った烏帽子姿の頼朝が確認できる。この姿は組合せ絵本から共通する姿であり、後に続く富士の巻狩り図の挿絵とも通ずる」と説明する。本扇絵は室町時代後期と推定されているため(和泉市久保惣記念美術館1990;p.161)、その早例とも言えるものであり、注目される

(林2020;p.31)で同じく挿絵入り『曽我物語』における頼朝の図柄の特徴が説明され、"どの版においても挿絵の中の頼朝は、尻鞘の太刀を持つように描かれていることが多い"とし、また各曽我物語図屏風について"挿絵と同様の狩場における頼朝の姿が確認され、描かれる位置も画面の右上となる"とする。本扇絵も右上に頼朝が位置するが、頼朝の装いなどについては、刊行物の写真では限界がありはっきりとは分からなかった。

  • 参考文献
  1. 日本随筆大成編輯部編(1975)『日本随筆大成 第1期 3』、吉川弘文館
  2. 和泉市久保惣記念美術館編(1990)『扇絵 : 日本・中国・朝鮮半島』、和泉市久保惣記念美術館
  3. 東京国立博物館(1990a)『松平定信 古画類聚 図版篇』、毎日新聞社
  4. 東京国立博物館(1990b)『松平定信 古画類聚 本文篇』、毎日新聞社
  5. 井澤英理子(1999) 「曽我物語図考 -双屏風の成立について-」『日本美術襍稿 佐々木剛三先生古希記念論文集』、明徳出版社
  6. サントリー美術館・山口県立美術館編(2018)『扇の国、日本』、サントリー美術館
  7. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」、『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会