2026年7月21日火曜日

富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論

「シリーズ富士市60周年」として、当ブログでは現在断続的に記事を投稿している。そのための材料集めは既に完了しているが、基本的には学術誌・論文 ・公式資料などが主たる物である。誰でも原典を参照できるということが、重要であると考える。

つまり世に出ている膨大な資料から富士市について言及するものを炙り出す作業が必要なわけであるが、特に富士市の場合はこれが難しい。私は「ボトムアップ」形式であるため、特に難儀する。

何故かと言うと、「富士」という用語が普遍的なものであるから、"炙り出す作業"の質をかなり高めないと漏れてしまう情報が発生するからだ。また逆に余計な情報も紛れ込みやすい。実はこれはそのままAIにも当てはまる。

AIの方も「富士」という意味の解釈に難義している。簡単に言えば「富士市」と入力すればそれなりの精度になるが、「富士」と入力すると精度がかなり落ちる。つまり、以下のように言える。


口語的な入力では、富士市に関するAIの回答はあまり期待できない(現時点では)


なので「富士地区の「富士」を巡る会話はなぜカオスなのかを考える」にて"その「富士」が富士市を指すのなら、はっきり富士市と言ってもらいたいものである"と記したのである。もちろんこれはAIに限った話ではない。

ではAIに対する質問に「富士市」と明確に入力すれば問題は解消されるのかと言われれば、そういうわけでもない。AIは情報の海から抽出しているのであるが、そちら側が「富士市」と明確に書いていなければAIの方も難義するだろう。

つまり情報元が、本来はその中で「富士市」と記していなければならないのである。しかしなされていないことも多い。もしその人に特別な拘りがあるのであれば、せめて"富士市(以下「富士」)"という箇所を設けてもらいたい。

勿論AIの質が更に高まれば、「富士」としか記されていなくとも、「富士市」についてのものだろうという理解は可能だろう。しかし当の富士地区の人間が会話していても理解が難しいものを、果たしてAIが理解出来る時は来るのだろうかという疑問もある。むしろAIも判断しかねるという状況の方が、正しいのではないだろうか。それが実世界に近いからだ。

  • 現時点のAIのレベル(一般向けAI)

例えば「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」でも取り上げた「天子ヶ岳の名称の由来」について、AIで調べてみる。


「天守閣説」であるが、鎌倉時代の日蓮の文書に既に「天子ヶ嶽」等と見えるから(「新尼御前御返事」「九郎太郎殿御返事」等)、天守閣が由来のはずがない。つまりAIは、互いの材料から選択肢の消去を行う能力を平均的に有する段階にまでは至っていない。つまり、まだまだである。

他に「富士市とオウム真理教、富士市におけるサリン散布実験について」でも取り上げた、富士市におけるサリン散布実験について聞いてみる。



こちらも全然駄目である。「公的な記録や事実」が確認されているのだから、話にならない。AIはこれから多くの情報を食べていく必要性がある。現段階では、第一義的に特定の情報を得る対象として、AIは選択肢に入ってこない。まだ圧倒的に質が足りないからである。

ちなみにこの「シリーズ富士市60周年」の記事群は、AIを一切用いていない。AIを用いると、誤った解釈になるからである。AIを用いていないという事実が、このシリーズを意味のあるものに引き上げるとすら考えている。


  • シリーズ富士市60周年の記事群のソース


例えば私は「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」にて"関英二(1958)「兼業と農家の機械化」"という論稿を引用した。この論稿は、以前はヒットしたが、現在はGoogleの完全一致検索でも引っかからない。正確に言えば、私の記事しか引っかからない。しかしこの論稿は存在する。ネットの海の中で、消えていったものも確かにあるのだ。

何故このようなものを認識しているかというと、AIに頼れない時代に既に情報収集していたからである。特にタイトルに「富士市」等と入っていないものは、抽出が極めて難しい。AIが無いからこそ、地道な作業で抽出作業をした結果、それが私の眼の前に現れたのである。この時間が極めて重要であった

言い換えれば、AIだけでは、質が高い認知には至らないのである。もっと言えば、当時、上記の論稿はダウンロード/印刷が可能であった。今はそもそも引っかからないから、不可能である。意外と思われるかのしれないが、そういう類のものが案外に多い。

AIに頼れないからこそ、物理的な検索攻勢をかけたために、面白い論稿が手に入っているのだ。私はこれからAIを主体とするかもしれない。しかし現時点で私は、そのAIの回答を精査できる立場にある。だからAIがファーストタッチの場合とは全く異なると考えている。ただ、今から物理的な検索攻勢をかけることが是とは言い難い。時間も貴重であるからだ。


  • AI世界に対応するために


私が「私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しないことにしました」「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」「私が富士宮市郷土史博物館構想に賛成する条件」等で、ネット上で歴史に関する専用ページを設けることを口を酸っぱくして述べていたのは、何を隠そうAI世界を見据えてのことである。勿論現代の慣習から考えてのことでもあるが。

簡単にいえば、スマートフォンといったデバイスで人類がAI検索し、それを基に行動/価値判断する現在において、そもそもネット上に情報が無ければ全く勝負にならないからである。

しかしもう遅い。遅すぎる。富士宮市はもう全くの時代遅れである。私はこの10年くらいは、本の中の世界に留まっていたものをネットの世界に解放するという作業を熱心に行ってきた。何故なら、将来AIが普及するのは目に見えていたからである。


  • おわりに

何らかの争論があるとき、AIの情報だけで勝負するのは未だ勝ち目がないと思う。論理武装した相手にはまだまだ分が悪い。正直、理論武装した相手からすれば、AIだけで勝負してきた人など容易いのだ。本稿はそういう警告でもあるが、有効活用すること自体は否定しない。

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

16:「富士市とAIの相性は最悪である、情報収集論」

2026年7月20日月曜日

富士市による民俗学展開への期待と課題、新『富士宮市史』の成果

今年刊行されたばかりの新『富士宮市史』に、富士市も関係する興味深い記述が確認される(富士宮市2026;p.191)。


今回の市史編さん事業の調査で、新出の富士山縁起を確認した。表5−2に「浅間大社(公文富士家)」系統としているものである。本書では、『富士山大縁起本社末社之次第』について紹介したい(表5−2③、写真5− 19)。

奥書の部分に「維時天正廿 年壬辰二月十七日戊申日前永平保寿現住之源凛乎写之」とあるが、以前に曹洞宗本山の永平寺におり、当時は保寿寺(富士市伝法)僧であった之源凛乎が書写したものと記されている

保寿寺は文亀3年(1503)8月に曹洞宗に改宗し、天正14年(1586)に之源(芝源)凛乎が第二世住職になったとされる(駿河郷土史研究会 1989)。奥書には、さらにこの縁起のほか一一巻があり、天正9年(1581)全てを之源が書写し、大宮寺の士雲に渡したとある。大宮寺とは浅間大社の別当宝幢院のことであろうか。

「之源」なる住持は実在したのだろうけれど、何となく伝説感も否めないという状況が、この史料によって一気に空気感が変わったという感覚である。

さて之源凛乎といえば、三股淵の大蛇の調伏伝説であろう。しかしこの辺りの伝承は、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にあるように郷土史家によって荒れに荒らされたため、本来のものと逸脱した解釈が世に溢れてしまっている。



問題の1つである『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号「いけにえ淵」から、郷土史家オリジナル脚本の部分を抽出してみよう。


  • 保寿寺伝承と阿字の伝承の融合
  • 三島宿の登場
  • 毘沙門天の登場
  • 吉原宿東木戸の登場
  • 茶屋のおかみさんの登場
  • 問屋場の登場
  • 沼津宿・根方街道の登場(これは物語の解像度を良くするための範疇とも言えるが、仮にそうであっても原宿が妥当)
  • 宿場役人の登場と同人によるクジの強制
  • 七曲がりの登場


この辺りはすべてオリジナル脚本である。もう完全に、別物といって良い。特に太字の部分が悪質である。しかし「阿字の伝承」と「保寿寺の伝承」は本来切り離されていたものである。例えば『田子の古道』には以下のようにある。


(阿字の伝承を記述)…「えきろの鈴」には説を乗せたり。(中略)この寺所替して伝法村の地へ上る。(『田子の古道』「野口脇本陣本」)

(阿字の伝承を記述)…「是駅路の鈴といふ書物に祝のを乗りたり(中略)蛇の鱗ハ厚原村保寿寺の什物となりて…」(『田子の古道』「森家蔵本」)


このように、明らかに阿字の伝承と保寿寺のものは切り離されている。「野口脇本陣本」は唐突に「この寺」とあるが、これは書写の中で保寿寺の箇所が抜け落ちたためである。従って「この寺」とは保寿寺のことである(「野口脇本陣本」は後に発見されたもので『広報ふじ』連載当時は認識されていない)。

また他の地誌においても明確に棲み分けされている。端的に言えば、もうこの郷土史家による著書類は参考にしないほうが良い。

こういう過去の産物の検分も必要であるが、富士市には既に材料があるため、それらを活用するのも良いことだろう。(辻本2026;p.37)は柳田國男の旅路に関連して、以下のように記している。


そして、最後は富士市の吉原で先ほどの山中共古さん、すなわち文通をしていた人に会っています。ということで、即東京に帰らずに沼津に戻ってきたのは、おそらく文通で情報交換をしていた山中さんに会うためだったということです。

柳田國男と山中共古は直接会っていたわけであるが、この山中共古の『吉居雑話』が大変面白い。この辺りを富士市はもっと掘り起こす必要性があると思う。

  • 新『富士宮市史』の現時点での評価

新『富士宮市史』はこれから刊行されていく分もあるので、評価は難しい。ただ以下の項目は、今後の刊行分に求められる。

  1. 富士宮市を舞台とする芸能(詞章等を分析)
  2. 『曽我物語』特論(『小田原市史』がそうであったように)
  3. 富士宮市を題材とした大和絵の分析
  4. 人穴について(伝承の変移、題材とした大和絵)

個人的には、『曽我物語』『富士野往来』「曽我物」といった「曽我群」だけで一冊でも良いとすら思っている。「曽我群」+「大和絵」で一冊でも全くおかしくはない

また「井出氏」に関する記述がないのも不思議な感じがする。「富士氏」に関しては、十分言及されたと考える。最大の懸念点と富士宮市の従来よりの課題は、解消されたとも言える。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定しているため、是非ご覧いただきたく思う。

15:「富士市による民俗学展開への期待と課題、新『富士宮市史』の成果」

  • 参考文献
  1. 富士市(1967)『広報ふじ』昭和42年(1967)5月15日号
  2. 辻本侑生(2026)「現代民俗学から考える静岡県東部の日常と文化」『静岡の言語と民俗~県東部にスポットをあてて考える~』(静岡大学公開講座ブックレット16) 、静岡大学地域創造教育センター、27-53
  3. 富士宮市(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』