2026年7月31日金曜日

『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化

本稿では、「富士市60周年シリーズ」でも度々言及している山中共古『吉居雑話』について取り上げていく。以下に、その内容と(山中1984)に応じた頁数を一覧化する。

また「吉原」だけでなく「大宮」についても多く取り上げられているので、冒頭に「大宮」が登場するページの頁数を示しておく。


「大宮」が登場するページ7,9,13,22-23,28-29,68,73,81-82,88,91-93,96-97,102,104,107,120,123,124


以下に、印象的な内容とその頁数を一覧化する。


内容
阿字神社5-6
富士塚12
天子ヶ嶽の瓔珞ツツジ13
花一匁のような遊び14
木之元神社21
浅間大社・村山口登山道・村山三坊22-24
イナゴ食27
大宮方言28-29
富士郡の旧暦文化29
見世物小屋29
石坂の石ノ穴33
かぐや姫49-50
天子ヶ嶽59-60
比奈の浅間社67-68
浅間大社68
鏡石68
米之宮と米72
磔八幡72-73
小泉久遠寺73
鈴木香峰77-78
犬食文化78-79
沼久保の狂人塚・サトリ塚・摩利支天塚81-82
悪王子神社(吉原)87
三股淵・田子の古道89
保寿寺(三股淵)89
富士川舟運90
大宮の羽掛松の古址91
大宮の蔵屋敷稲荷92
福石子育神社92
虎石93
北山の浅間神社96
かぐや姫(大宮・村山・比奈)97
吉原の方言101
浅間大社の湧玉池の石碑(山宮御神幸)102
飯森浅間神社103
玉渡神社・曽我祠・角田一家103-104
御菊田の伝承105-106
死人川106
比奈の名称106
葛山氏107
永明寺・龍ヶ淵107-108
富知六所浅間神社と富知神社114
一比奈、二香貫、三加嶋115
子袋神社と奇祭117-118
日野屋119
鈴木香峰121
曽我八幡宮124
富士の巻狩り由縁の地名124
カケスバタ124
妙法寺125-126
富士道者127,130

  • 『吉居雑話』の分析

同史料は、富士郡の民俗学を考える上で必須の史料と言える。吉原だけでなく大宮の民俗も多く記されている。これは、吉原という地が大宮と関係が深かったからに他ならない

山中共古の興味は、特に「コトバ」「風習・習俗」「石碑の刻文」にあったと見える。土民から聞いたことに加え、自らが確認したものも豊富に認められる。

ここから当時の地域性を掴むことができるわけであるが、吉原は必然的に「三股淵/生贄」関係の内容は多くなっている。そして富士郡全体として、「浅間神社」「曽我」「かぐや姫」に関する内容が多い。これも必然であろう。

そして、大宮と村山は互いにギクシャクしているような印象を受けなくもない。例えば97頁に、コノシロ(魚)に関連して「此話ヲ大宮ノ人ニ聞クニ村山ノ神官ハカクセリトノ事」とあったり、107頁に「富士浅間ハ村山ガ元ナリシヲ、後ニ大宮ヘトラレシトイフ」とある。

今でも村山の人間はこの調子なのであるが、それはこの時代からの延長線上と見ても良いかもしれない。村山の異様な排他性は不思議である。

そして現代と比較したとき、富士郡において明確に失われた精神性を認めることができる。浅間神社に関しては未だ精神的支柱であるかもしれないが、やはり三股淵の伝承は語り継がれなくなってきていると見える。また近世の道中記等で鷹岡の曽我関連のものは多く見いだせるわけであるが、『吉居雑話』も同様であった。これらも存在感が失われているように思える。

吉原の重要な歴史的性質として、中道往還による人々の往来を指摘できる。それは明治・大正にもそのまま引き継がれた(主要ルート)。しかしこの感覚は現代では大きく削がれているように見える。これこそが、富士郡における最も大きな変化ではないだろうか。それ故に、鷹岡の曽我関連史跡も着目されなくなったのかもしれない(吉原-大宮間に位置する)。

天子ヶ岳も、昔はもう少し意識されていた存在であったようだ(13頁、59-60頁)。実際他の史料でも天子ヶ岳関連の習俗は認められるため、大宮にとって天子ヶ岳は"ホームマウンテン"のような感覚があったと推察される。次第に水に困ることが少なくなったため、雨乞いの必要性がなくなり、人々の意識の中では希薄になっていったと思われる。

  • おわりに

『吉居雑話』から、吉原と大宮の関係性の深さを見ることができた。私は吉原の衰退の主要因は、近世を通して脇往還(つまり主要路)であった中道往還を軸とする富士郡の交通形態を、時代が進むに連れ無視していったことにあると考えている。

普通に考えれば、そのまま開発していけば良い話なのだ。言い方を変えれば、富士郡として経済圏を形成することを捨てたがために、迷走していったように見える。結果としてこれは大失敗であった。

東海道本線からより内陸部に鉄道が敷かれる際に吉原は手を挙げるべきであったし、また遅れて岳南鉄道を敷く際も沼津方面に繋げようとすること自体が誤りだったわけである

吉原宿の素晴らしさは中道往還の起点であることにあるわけであるが、これが完全に忘れ去られているところを見ると、旧来の感覚は完全に失われたと見て良い。これが、富士郡における最も大きな精神的変化であると考える。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

19:「『吉居雑話』から吉原の歴史・民俗を考える、富士市の精神的変化」

  • 参考文献
  1. 山中共古 (1984)「吉居雑話」『諸国叢書』(No.1)、成城大学民俗学研究所

2026年7月30日木曜日

富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは

以前「富士市のWikipediaを添削してみる、〼で表せる富士地区を見て思う」にて、富士市民が富士山を馴染みのあるものとは捉えていないことを示唆する事象について取り上げた。本稿ではこの点を深堀りしていきたい。

例えば西富士道路であるが、勿論富士市から見て西方面に走っている。流石に真北に向かっていると誤認する程の方向音痴さんは居ないと思われるので、"西方面に富士宮市がある"くらいのことは分かっていると思われる。それにも関わらず「富士宮市=北」と言う人が一定数居るということは、富士市と富士山が全くリンクしていないのだろう。そう理解する他ない。

この背景について考えてみた所、実際に富士市はそれほど接点が無いのではないか、という視点が浮上してくる。それ故にあまり印象に無いのではないだろうか。

以下は「世界文化遺産の範囲」「史跡富士山」「特別名勝」「国立公園の特別保護地区」といった項目において、どの自治体が関与しているのかということを示した表である。

富士宮市御殿場市裾野市小山町富士市沼津市三島市清水町長泉町静岡市富士吉田市身延町西桂町忍野村山中湖村鳴沢村富士河口湖町
富士山―信仰の対象と芸術の源泉(世界遺産
富士山(史跡
富士山(特別名勝
富士箱根伊豆国立公園「富士山地域」の「特別保護地区」(国立公園

まずこれら「4つ」が満たされている地域というのは、かなり関係が深いと言える。やはり「富士宮市」「小山町」「富士吉田市」「鳴沢村」「富士河口湖町」は別格という感じがする。

一見すると富士市も関係が深いと言えるのであるが、実は世界文化遺産富士山において、富士市は単独の構成資産を有していない。だから関係を持って語られることも少ない。

明らかに、環富士山地域の中において富士市は、富士山との接点がより限局されたものとなっている。これは誰の目からみても明らかであろう。

しかし私はここで、歴史の方から富士山との接点を見出すことをしていきたいと考える。富士市と富士山の接点を述べる上でまず引き合いに出されるべきものは「能〈生贄〉」(以下〈生贄〉)である。

〈生贄〉は、静岡県富士山世界遺産センターの展示にも含まれている。実は富士市の歴史も世界遺産センターにてしっかりと取り上げられているのだ


何故〈生贄〉が富士市と富士山との接点を示すものと言えるのだろうか。それはその詞章に富士山に関連するワードが散りばめられているからである。しかもその年代が重要で、室町時代以前であることが確実である。私は相当遡ることが出来ると考えている。(佐藤2021)には以下のようにある。

(一)室町時代後期観世流謡本 観世元頼章句本(元頼本)と観世元忠(宗節)章句本の書誌情報の集成・分類を行った。詞章の筆跡についての分類作業を行う中で、元頼本全体の題簽および『生贄』詞章本文の筆者が戦国期聖護院門跡の道増(1508~1571)であることを明らかにした。道増は足利義輝(1536~1565)の近臣としても知られており、義輝周辺で元頼本が成立した可能性を示唆するものと考える。

先行研究によると、現存する謡本のうち「観世元頼本」は、「道増」による筆であることが明らかとなっている。これは書写であるから、更に遡ることが出来る。詞章の中で富士山に関わる用語としては、以下のようなものがある。

  • 富士権現
  • 日の御子の神
  • 内院
  • 富士の嶽

であるから、富士市にとって〈生贄〉は特別なものである。私は富士山に関わる神事が下敷きとしてあり、それが能となったものではないかとも考えている。

(諏訪1988;p.121)は、〈生贄〉のあらすじを説明している。

「生贄」は4・5番目物の夢幻能で作者未詳とされているが、『自家伝抄』には宮増作とある。『言継卿記』によると、天文14年(1545)3月7日に観世座が上演した記録があるので、これ以前の成立であることは確実である。

都から東へ下る旅人(シテ)と妻(ツレ)、娘(子方)の三人が、駿河の吉原までやってきて宿をかり、富士の生贄の神事に行きあたった。宿の主人(ツレ)はひそかに逃がそうとしたが、神主(ワキ)と従者(トモ)に止められ、数百人の候補者たちの中から旅人の娘がくじに当った。娘は富士の御池の大蛇へ生贄にそなえられることになった。

しかし、娘を乗せた小船が沖へ出て行こうとしたとき、富士権現の御使の火の御子(後シテ)が現われ、富士権現の神徳によって大蛇が退治されたことを告げ、今後、生贄は廃止になるとの神託を伝えて娘の命を助けた。

詞章には、以下のような箇所もある。


招けば招く風情はさながら。松浦佐用姫かくやらんと。汀にひれ臥し泣き居たり


このように「松浦さよ姫」の言及があることで、その方面から言及している論稿もある。柳田國男の論稿「人柱と松浦佐用姫」には以下のようにある。

例えば謡の「生贄」という一曲には、父と娘と二人の旅人、東海道を旅して駿州の吉原に泊った日に、富士の御池の贄に娘を取られて、父ひとり歎き悲しむことを叙してある。其文句の中に殆と何のつきも無しに、
姫も互ひに名残を惜み、
招けば招く風情はさながら、
松浦佐用姫かくやらんと、
汀にひれ臥し泣き居たり。
とあるなどは、単に上代の肥前の女が、つま恋いの船の影を見送るというだけの、連想でなかったことを意味するかと思われる。

またこの辺りは(近藤2010;p.103-104)に詳しい。

〈生贄〉はその広がりも着目されるべきであり、アーサー・ウェイリーによる翻訳およびそれを収めた書物の刊行(1921年)は知られている。他にヴィルヘルム・グンデルトの研究でも取り上げられるなどしている(兼岡2022;p.39)。

結論、富士市が富士山との関わりを示す上で強く引き合いに出されるべきものが〈生贄〉なのである。これ以上の素材は無いと考える。それ故に、全く着目されないことが不思議に思われるのである。

  • おわりに
18:「富士市と富士山との接点を見出してみる、富士市の特筆すべき歴史材料とは」

  • 参考文献
  1. 諏訪春雄(1988)『聖と俗のドラマツルギー―御霊・供犠・異界』、学芸書林
  2. 近藤直也(2010)『松浦さよ姫伝説の基礎的研究【古代・中世・近世編】』、岩田書院
  3. 佐藤嘉惟(2021)『2019年度実績報告書(能の詞章の文字化に伴う作品・作者概念の成立の研究―世阿弥自筆能本の文字表記から)』、KAKEN
  4. 兼岡理恵(2022)「W.グンデルトの日本学―キリスト教から神道、そして日本学―」『比較日本学教育研究部門研究年報 18』、38-44