2026年5月20日水曜日

『渓嵐拾葉集』と『富士の人穴草子』との関係を考える

『渓嵐拾葉集』巻三十七「弁財天縁起」には、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うといった内容が記されている。

葛飾北斎「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)

該当箇所は以下の部分である。


一。武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)。次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)。次道智法師彼島ニ籠テ奉誦法花經ヲ。其時ハ備飾饍。日本國女形テ薄衣ヲ著テ毎日ニ影向ス。道智龍女行方ヲ爲ニ知カ。藤ヲ衣ノスソニツク。遙尋行之程ニ。新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。此島雖至于劫燒ノ時藤ヲオホサント誓也(云云)。


『渓嵐拾葉集』の作者である光宗は、『元応寺列祖帳』によると健治2年(1276)生まれで、観応元年(1350)没であるという(田中2003;p.7)。『渓嵐拾葉集』の執筆開始は延慶2年(1311)からである(田中2003;p.9)。

多くの諸本があり(田中2003;p.43-50)、転写本を原本として近世に編纂されたものも多い(田中2003;p,53)。しかしテキストとしては、光宗によるものと考えることが出来る。この年代の人穴の記録であることを考えると、十分に注意が払われる必要性があるが、これまであまり指摘されてはいない。

「武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)」の箇所に関しては、(田中2022;p.74)によると弁才天の本地が釈迦如来であることを示すという。

また「次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)」の箇所も、本地が釈迦如来であることを示すものという(田中2022;p.73)。

人穴に関する部分の意訳は、以下のようなものである。


道智法師が「かの島」に籠っていた際、法華経を読誦していた。その際は飾饍を備えていた。すると薄衣を着た女形の者が毎日姿を現すようになる。道智は龍女の行方を知るため、藤を衣の裾につけ追った。長い間にわたり龍女を追い、やがて新田四郎の人穴という所へと着いた。その時龍女は怒り、「この島が劫焼に襲われるようなことがあっても、藤で覆われる程までに戻すだろう」と誓いを述べるのであった。


道智法師が籠っていた「かの島」および龍女が言う「此島」とは、江島のことである。つまり江島が人穴に通じているという伝承は、14世紀前半にまで遡ることができるのであるそしてこの「龍女」は、弁才天と同一視できるものであろう。

そしてこの内容を見るに、『富士の人穴草子』との近似性は感じずには居られない。順序等は異なるとはいえ、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うという点で共通している。また歴史的に「龍」や「大蛇」は弁才天の化身と見なされていたが、『渓嵐拾葉集』では龍で、『富士の人穴草子』では大蛇という化身像の共通性もある。そして人穴に至った所で様相が一変していることから、人穴という場所に意味があるのである。

作者の光宗は「記家」とよばれる学僧であり、記家は中世の天台宗に生まれた独自の職掌であったという(田中2003;p.22)。『富士の人穴草子』の成立に、天台宗の影響を想定しても良いだろう。天台宗との関係を想定したものに(富士宮市2026;p.194)があり、以下のようにある。


加えて注目されるのが、室町時代初期の仏教説話集『三国伝記』最終話の「富士山事」との関わりである。『三国伝記』において、黒駒に乗って富士山に飛翔した聖徳太子が山頂の霊窟の穴に入り、大蛇と出会う光景は、新田が富士の人穴に入り浅間大菩薩の化身である大蛇と出会う場面と酷似し、『三国伝記』からの影響がうかがえる(小林2001)。これにより、近江を中心とした天台談義所のネットワークのなかで成立し、東国の伝承を広く取り込んだ『三国伝記』を原型として、『富士の人穴草子』が成立した道筋を想定できる


このようにあるが、そうだろうか。『三国伝記』を原型とするという想定であるが、『三国伝記』の成立は『渓嵐拾葉集』より時代を後にするものである。内容を見ても近似性は『渓嵐拾葉集』の方にある。

また、確かに天台宗の影響を汲むものとの想定は可能であるが、それが近江を中心とした天台談義所のネットワークとは思えない。あくまでも『三国伝記』成立の背景としてに留まるものであろう。

更に考えていきたいのは、『吾妻鏡』との交渉の有無である。『吾妻鏡』は例えば建仁3年(1203)6月4日条に「新田四郎忠常、出人穴帰参(中略)今次第尤可恐乎云々」とあるように、源頼家のその後を予見する記述になっている。つまり年代記とは言い難く、編集されたものである。また、編纂に用いた史料群が存在したとも言われている。

(田中2003;p.152)によると、『渓嵐拾葉集』は『沙石集』・『徒然草』とほぼ同時期の成立であるが、直接の交渉はないという。だからというわけではないが、私は今のところ『渓嵐拾葉集』は『吾妻鏡』に見える人穴探索譚の影響を受けたものではないと考えている。

「彼島」が江島を指すことから、人穴は早い段階で『江島縁起』の中にあったと言える。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。


卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

このような江島と人穴が繋がっているとの認識は相当に遡ると考えられ、『渓嵐拾葉集』はその影響を受けたものの1つと見て良いのではないだろうか。

  • 参考文献
  1. 田中貴子(2003)『『渓嵐拾葉集』の世界』、名古屋大学出版会
  2. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  3. 田中亜美(2022)「文献と造像にみる弁才天と仏・菩薩・神との習合 -江島縁起を起点に-」、『多元文化 11』、早稲田大学多元文化学会、67-93
  4. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市

2026年5月18日月曜日

曽我兄弟の仇討ちの地として記される神野の比定地考

「曽我兄弟の仇討ち」の地は、『吾妻鏡』によると富士野の神野とある。


 曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)


曽我十郎祐成(「伏木曽我」の場面)


ではこの「神野」について、富士宮市はどこを比定地としているのであろうか。新『市史』である(富士宮市2026;p.79)には、以下のようにある。


江戸時代の村には名前は見えないが、中世の史料にみえる地名もたくさんある。(中略)「神野」は内野の字上野一帯、


このように「神野」=「上野」という解釈が示されているのであるが、そうだろうか。各史料を見るに、とてもそうは思えないのである。例えば『信長公記』には以下のようにある。


四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり


天正10年(1582)4月12日、織田信長一行は本栖を出て「かみのが原」「井出野」に至った。中道往還を南下してきた形である。つまりこの両地は隣接しているのである。本栖を過ぎた地点として記されていることから、国境付近と考えたほうが良い。

また当該地の地理の見通しをより良くしてくれる史料として『甲信紀行の歌』がある。『甲信紀行の歌』は天文15年(1546)ないし同16年(1547)、三条西実枝が甲斐国を訪れた際の歌を、供をした相玉長伝が書き留めた史料である。うち該当箇所を見ていきたい(山梨県2002;p.878-881)。


同廿一日、本栖の御宿を御立の朝、各御短冊進上、返事共、(中略)

本栖を御立ありての道にて、撫子の花をおりて奉るとて、(中略)

かみの原にて御落馬有し時、(中略)

本栖御宿にて、紅葉の枝を顔にあてゝ奉るとて、別路を思ふ涙のしくれにや かおのもみちをちらす秋風(以下略)


三条西実枝は天文16年(1547)8月21日に本栖を発つ際に歌を読み、その返歌を受けている。そしてその道中(本栖を御立ありての道)でも実枝は返歌するなどしている。その返歌の次に「かみの原にて御落馬有し時」の歌が記されている。

これはかみの原、つまり「神野原」が本栖に隣接するからこそ、ここに見えていると考えるべきではないだろうか。ここで急に「上野」が登場するのは極めて妙であるし、あまりにも距離が離れすぎている。


富士宮市内野

むしろ「神野」は上井出より更に北部に位置すると考える方が自然ではないだろうか。つまり「神野」=「上野」ではないのである。


  • 参考文献

  1. 山梨県(2002)『山梨県史 資料編6 中世3下 県外記録』
  2. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市