2026年9月8日火曜日

身延線西回り化等が招いた公共交通分担率低下、後の大失策の前兆

今年は吉原市・旧富士市・鷹岡町の合併から60周年にあたる。うち旧富士市および鷹岡町を運行エリアとする鉄道に「身延線」がある。富士地区において身延線は、学生御用達の鉄道線というイメージが強いだろう。

  • 富士駅の最寄り学校:私立富士見高校
  • 竪堀駅の最寄り学校:県立富士高等学校
  • 源道寺駅の最寄り学校:県立富岳館高校、県立富士宮東高等学校

本稿ではこの身延線について考えていきたい。時を遡ること1960年代後半の富士市。この時代、富士市の公共交通機関に極めて大きな変化が生じたことを御存知だろうか?

それは"身延線の西回り化"である。

『広報ふじ』平成28年9月20日 1132号より

以下では、その西回り化事業とその後の身延線が辿った運命を取り上げていきたい。

  • 西回り化

元々身延線の富士市区間(現在の富士市域に該当する駅)は、以下の駅を有していた。

富士駅 本市場駅 竪堀 入山瀬 富士根 

この状況を変えたのが、西回り化である。この不可解な西回り化については、『富士市二十年史』に詳しい。(富士市1986;p.258)より引用する。


この身延線は一日の運転本数も多く、国道1号線と本市場で平面交差をしていたから、国道の交通量増加とともに、身延線の遮断器は交通渋滞の原因となった。また、単線運転であったから、通勤・通学の身延線利用や、加えて創価学会員の上野大石寺登山者の激増など、身延線の改良はこの地区住民の切望するところであった。


計画は以下のようなものであった。

  1. 本市場駅の廃止
  2. 柚木駅新設
  3. 竪堀駅を移転新設(旧竪堀駅は現在の「緑道公園」辺り)
  4. 富士駅を出て西へ向かい橋下で北にカーブ、松本地先で旧線と結ばれる
  5. 工事区間はほぼ全区間を高架化

つまり西回り化事業により、富士市区間は以下のようになった。


富士駅 柚木駅(新設) 竪堀(移転) 入山瀬 富士根


松本地先は竪堀駅の少し先に位置する。西回り化自体は昭和44年(1969)に完了した。その後昭和46年(1671)に富士宮駅-富士根駅間が複線化され、翌47年(1972)に入山瀬駅-富士根駅間も複線化された。


  • 公共交通機関の地位低下

上の計画を読むと分かるように、西回り化以降、明らかに人口が少ない地域を鉄道が走行する形となってしまっている。つまり駅の所在地も、人口が少ないエリアへと変更されたことになる。特に、本市場駅の廃止は悪手としか言いようがない。であるから、不可解な計画と言わざるを得ない。(富士市1986;p.260-261)には以下のようにある。


こうして待望の複線化、西廻りによる合理化は完成したのであったが、前にも触れたように鉄道の交通にしめる地位は、他の公共交通機関に比して相対的に揺ぎ始めるのであった。その一例として、身延線各駅の乗車人員の推移を、次の表によってみよう。

各年次とも1月から12月までの人数である。柚木駅では1日平均約304人から204人へ、竪堀駅は,887人から826人に、入山瀬駅は2,339人から1,190人へ、また富士根駅では、1,425人が722にというように減少しているのである。


つまり身延線の利用者が減少し始めているのである。以降、その流れに歯止めがかからなかったことは言わずもがなである。

勿論この現象がすべて西回り化に由来するとは言わない。(富士市1986;p.261-262)ではこの原因をモータリゼーションのみで説明しようとしている。しかしその説明に説得力は感じられない。その内容の一部を見てみよう。


なぜこのような鉄道ネットワークの敗北現象が現れたのか。それは自動車交通のもつ最大のメリットとして、出発地の戸口から目的地の戸口までを直結することが比較的容易であるのに対して、鉄道交通は駅というターミナルの存在が、移動(旅行者)の連続性の障害となり、移動の連続性を保証しなかった付け、あるいはそれについての努力を欠いた決算書として、利用者の徹底的減少ということにつながったと思われるのである。


何度読んでも意味がよく分からないのであるが、理由は本来以下のようなものが挙げられるべきであろう。


  1. 人口密集地に所在した駅を移転したこと
  2. 歴史的にみても、鉄道路線と鉄道路線の接続を成してこなかった

この2つがあまりにも大きすぎる。つまり上述したように、普通であれば人口密集地に所在する駅を移転する事自体が論外であるのに、それをしてしまったこと。また「吉原市の急転と衰退、富士市と鷹岡町により決定された新市名と吉原のプレゼンス」にあるように、岳南鉄道が富士地区間の周遊を念頭に置いて鉄道路線を敷かなかったことが大きな理由であろう。

つまり岳南鉄道が身延線と接続ないし近接していれば、もっと鉄道を介した移動が根付いていたわけである。公共交通機関は「駅 to 駅」が原則なのである。東海道本線の駅というのは沿岸部に所在するから、そこから南に人口密集地は成立しにくい。現在の様相がその証左と言えるのであるが、つまり下の□のエリアの周遊を生むことが肝要なのだ。それが全く出来ていない。


例えば岳南鉄道が吉原本町駅から青葉通りを横断して竪堀駅(旧線、現在の緑道公園辺り)に接続されていたとする(普通はこのようなルートを選択する)。その間に1駅は設けられるだろう。

そういう場合、青葉通り一帯の人々は吉原などに電車で買い物に行くことが容易になったであろうし、富士宮市の人々も富士宮→竪堀→吉原というアクセスが可能となるから心理的にも近くなっていたことだろう。人口密集地に住む人々が鉄道だけで様々な場所に移動できないから、鉄道が利用されないのである。なぜそれに気が付けないのか。

このような歴史からも分かるように、富士市の鉄道軽視傾向が感じられ、そのような風土が後の新富士駅と富士駅未接続という状況を生んだのではないだろうか。また公共交通分担率の低下を招いたと言うことも出来る。

結局公共交通機関の問題を直視してこなかった地域は、新幹線を誘致できたとしても、その先の未来は描けないのである。これは富士宮市の問題でもある。なぜ富士宮市は叱咤しなかったのか。自分たちの税収から約5億円も建設費を捻出しているというのに、危機感が足りないのである。しっかり尻を叩いてやる必要性があったのである。


  • これからの身延線

私はむしろこの10年くらいは、身延線を利用する機会が増えている。理由は、東京に行く際に在来線で三島駅まで行き、そこから新幹線に乗車しているからである。今は完全にその形態に移行している。

では平日のダイヤにて、新幹線三島駅乗車パターンを見てみよう。今回は富士市内の駅からより遠い富士宮駅を最寄り駅(スタート地点)に設定してみる。


富士宮駅発(9:02)

三島駅着(9:49、680円)

新幹線三島駅発、品川駅着(9:58発 10:35着、計4070円、ひかり乗車)


以下、同じく平日のダイヤで新幹線新富士駅乗車パターンを見てみよう。

車で新富士駅着

新幹線新富士駅発、三島駅着(9:41発 9:49着、ひかり乗車)

品川駅着(10:35着、計5170円)

新富士駅周辺は車が混雑するため、駐車場に停める時間も考慮すると30分前には出たい。場所にもよるが、富士市・富士宮市問わずそういう人も多いだろう。そうなると9:00過ぎには出ないといけない。つまり行きだけで考えれば在来線の例と大して変わらないのである。それでいて駐車料金(大体1,000円くらい)も不要であるから、あまり新富士駅に拘る必要性は無いのである。また急遽東京に残ることになった場合も、柔軟に対応できる。

将来的には、リニア山梨県駅を用いるパターンも想定される。リニア山梨県駅であるが、実は富士宮市からそこまで遠くはない。


富士宮市中心部からリニア山梨県駅まで約1時間。そこから大阪や東京に行くことも可能である。私は東京に行く場合は東海道新幹線、大阪に行く場合はリニア中央新幹線も選択肢に含めるという方向で考えている。

観光客の場合、リニア山梨県駅で降り、レンタカー等で富士五湖や朝霧高原を観光するといった遊び方がまず想定されるであろう

しかし身延線の利用者は減少の一途を辿っている。身延線は、このままでは将来的な廃線もやむ無しとすら思える。JR東海は、頑張って維持してくれているのである。岳南鉄道が廃線となったその時は、いよいよ将来的にあり得ると考えたほうが良い。こうなったのは、ひとえに選択の誤りによる。潜在的に有りえなかった需要を求めているのではない。その時その時に実際にあったその選択を尽く間違えた、ということなのである。

ちなみに『富士市二十年史』刊行の2年後に開業したのが、新富士駅である。市全体で20年を振り返る中で、将来への教訓は活かされなかった。いや、"同じ様な轍を踏まない"という空気自体が全く醸成されていなかったと言ったほうが良いだろうか。この警告は、リニア山梨県駅にもそのまま当てはまるわけであるが…。

  • おわりに

現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

22:「身延線西回り化等が招いた公共交通分担率低下、後の大失策の前兆」

  • 参考文献

  1. 富士市(1986)『富士市二十年史』

2026年8月24日月曜日

吉原市と鷹岡町により選定された富士市役所の位置、当時の青葉通りの様子

まず、新富士市の市庁舎の位置選定の経緯は(富士市1967;52)に記されており、以下のようにある。


新市の事務所の位置
 新市の事務所の位置については総務委員会において審議することとなっており、委員会としては選定資料として航空写真をとることとなった。その後委員会、協議会において慎重審議がなされたが、ただ意見交換のみに終止した。委員会としては各市町毎に希望する候補地及び選定の理由を持ち寄って検討し、又、或る程度煮詰めた上で現地踏査等も行なうことに決定され、各市町において独自に選定した候補地の提示が図面によりなされ、選定理由の説明がなされた。各市町の提示した候補地は

吉原市 吉原市津田地先国道1号線沿、現吉原市営球場敷地
富士市 吉原市永田県道御殿場-富士線沿、潤井川左岸、岳南総合運動場計画予定地附近
鷹岡町 吉原市片宿、鷹岡町との境界2級国道139号線(大月-吉原線)沿、東名高速道路北側

であるが、この提案理由の説明に対する質疑があり、引き続き審議に入ったが結論は出ず、再び各市町において各々提示した候補地に対して更に十分なる検討を加えることとなった。

ここで注目されるのは、三自治体すべてが吉原市域を選定していることである。やはり町の中心は吉原市であるという共通認識があったらではないだろうか。「旧富士市・旧吉原市・旧鷹岡町の合併直前の人口と令和7年国勢調査の結果」にもあるように、吉原市の方が人口は多かった。

 その後開かれた委員会においても具体的な歩みよりが見られず、最終的には各市町の首長及び副議長等の首脳会議により検討することとされた。この首脳会議において事務所の位置は吉原市伝法地内約40万坪の円内に求めることに意見の一致をみた。更にこの40万坪をいかにして集約を計るかについて討議されたが、その結果約20万坪に集約すべきだとの極めて積極的な意見の一致をみるとともに尚慎重審議を要するとして継続審議に付されることとなった。更にこの20万坪をいかにして選定するかについては円内の弥生線以南においてなるべく地価の安いところを出来るだけ広く求められるよ様な場所ということに決定された。尚この20万坪の圧縮、用地取得の方法として庁舎用特別委員会の設置についての意見の一致をみ、41年7月17日開催された第13回促進協議会において正式に承認され、具体的審議に入ることになった。

この種の話でいつも思うのであるが、正直、都市開発の知見の無いおじさん達で選定するというリスク自体は当事者たちは感じないのだろうか。

デベロッパーであれば、開発失敗で場合生じた不利益はそのまま自分たちに降りかかる。こういう緊張感が全く発生し得ない状態で選定すること自体がリクスと思うのであるが、如何であろうか。また以下のように続く。

 この特別委員会において集約の方法として各市町で適当と考えられる地点を2案ずつ提出し、その第1案を中心に市名の問題も含めて協議することとなったが、協議の過程において吉原市、富士市の意見の一致が見られない為鷹岡町が調停役になり、調整が図られたが結論が得られず結局しばらく冷却期間をおくこととなった。その後鷹岡町より

①庁舎の位置については図面に示す範囲において吉原市と鷹岡町が意見の一致する位置を尊重する
②名称については富士市と鷹岡町の意見の一致する名称を尊重する。

という超提案が出されたが調整が得られず、結局各市町とも同一歩調で全員協議会に諮ったうえ、継続審議に付すこととなった。その結果、新市の事務所の位置は吉原市側と話し合い、意見の一致をみた吉原市提案の第1案即ち吉原市大字永田地先と決定されるとともに総務委員会に諮り、更に41年9月8日開催された第14回促進協議会において正式に承認され決定された。

この文献における文章は時系列等が示されず分かりづらいのであるが、つまり吉原市と鷹岡町とで市庁舎の位置が検討され、新市名の決定と同時に正式決定に至ったということであろう。

そして建設中および完成当時の市庁舎の写真が残っているので掲載する。




このように緑地がふんだんに残る地に市庁舎は建てられた。写真の左手下に現在の青葉通りがみえる。実は青葉通り一帯は、富士市の中でも田舎の場所で、建物1つないような場所だったのである。とはいっても、当時の富士市はかなりの面積が緑地であったわけであるが。

この青葉通り沿いの「青葉町」が、現在富士市において地価最高点となっている。この事実そのものが大問題で、富士市の問題点を如実に表すものとなっているわけであるが、この部分については余裕があれば記事化したく思う。

  • おわりに
現在、富士市の市制施行60周年を記念し、シリーズとして記事の投稿を進めている。30記事くらいを予定していたが、他の記事群と比較してアクセス数が限られているため、アクセス数に応じて投稿を進める形式で進めようと考えている。

21:「吉原市と鷹岡町により選定された富士市役所の位置、当時の青葉通りの様子」

  • 参考文献
  1. 富士市市長公室企画課(1967)『岳南2市1町合併の記録』