2026年11月9日月曜日

富士郡の人物で流罪に処された大鏡坊隠居、池西坊の御札・富士灰奉上との関係

『玉露叢』延宝3年(1675)2月15日条には以下のようにある。


同日参府の御礼の族、箱肴 御代官松平左衛門、一束一本 竹生島吉祥院、御札・富士灰 富士山池西坊、御札 同断駒谷右近、箱肴 御代官雨宮勘兵衛、右の通りを捧上。

村山三坊のうち「池西坊」が江戸に参府し「御札」「富士灰」を奉上し、また由縁者である駒谷右近も「御札」を奉上していることが分かる。

この「御札」は富士山信仰に関わるものと考えるのが妥当で、おそらく牛玉札に類するものであろう。「富士灰」は駿河国名物で、進物として多用されていた。

富士灰は富士上方の有力者が進物として用いている例が他にも確認できるが、「富士」を冠している点を考えると、富士灰の産地自体が富士郡(特に富士上方)である可能性が高い。そして「御札」はそれに並ぶ価値のあるものと考えられていたわけである。この事実は興味深い。

では池西坊および駒谷右近は何故参府したのだろうか。それは以下で取り上げる「山野争論」に関係すると考えるのが自然である。以下ではその争論と、池西坊参府との関係について考えてみたい。


  • 山野争論


実は富士上方(≒現在の静岡県富士宮市)において、江戸幕府により流罪の刑に処された人物が歴史上存在した。管見の限り富士上方の人間で流罪となったのは、その人ただ1人ではないかと思う。

その人物とは富奥院(大鏡坊隠居)である。つまり、村山三坊のうち大鏡坊の人間である。これは「山野争論/野論」と呼ばれる、江戸時代前期の大争論が発端である。この争論については(宮原2011)(近藤2023)に詳しいので御参照頂きたい。


山野争論は村山衰退の主要因と言え、歴史的な出来事である。この論争を時系列でまとめると、以下のようになる(※以下で登場する代官とは、論所直轄の代官である)。かなりの紆余曲折を経ているので、ゆっくり理解する必要性がある。


富士郡大宮町以下村々(現在の富士宮市・富士市)が、入会地への踏み入りを不当に制限されたとして、村山三坊大鏡坊を相手取り訴訟を起こす。 

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明暦2年(1656)6月には江戸評定所で吟味されるも、背景が明らかでないとして、勘定頭らは当地の代官に解決を委ねる。代官の井出正祇・一色直為の手代らがその検使を請け負う。同年寺社奉行らは手代に、手代(検使)立ち会いのもと町村側・大鏡坊双方が誓紙を認め、その上で絵図を共同で作成し江戸へ出頭すべしと伝令。

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一方吟味が進まず、大鏡坊・村山の者共らの横暴が絶えないとして、村々は翌3年(1657)6月に再度訴状を提出。

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同年10月に三奉行が井出正祇・一色直為に対し、横暴を繰り返す大鏡坊の出頭を命じる。また検使らの出府も命じる。このとき未だ大鏡坊側は誓紙を認めておらず、また絵図も作成されていなかった(つまり前年に命じたことが未達)。

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同年12月、一連の争論における内済に際して、大鏡坊が大宮町衆らに"論所のうち大鏡坊ら村山側が2/3、大宮町以下村々が残り1/3"とする書状を提出。立ち会いは一色内蔵助および間宮信政。これに訴訟側のうち大宮町は関与しているが、村々は関与していない(事象A)。

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前年に内済に至っているはずが、翌4年(1658)4月に改めて三奉行らの裁許状が下される。同裁許状は、江戸にて町村側と大鏡坊らが互いに誓紙を交わした上で裁許絵図を作成したことによるもの(事象B)。

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寛文9年(1669)に野論が再燃、村々が大鏡坊を訴える。この訴えを吟味する中で、事象Bの裁許絵図が町村側には無く大鏡坊にのみ渡っていたことが判明する。それに伴い同年に大鏡坊所持の裁許絵図を写し、三奉行連判の裁許絵図が町村側へも下される(事象C)。

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延宝元年(1673)、事象Bで確定した入会地でも村山三坊に踏み入りを制限され鎌取りなどの被害に遭ったとして、大宮町以下村々が三坊を訴えた。大宮町と村々とでかなりの数に及び、"村山三坊対それを除く駿河国富士郡各地域"と言えるような状況。

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延宝2年(1674)、吟味に際して近隣村々の覚書(取調べによる調書)が提出される。この覚書により、双方の齟齬の背景が明らかとなる。複数の村々の百姓らは裁許絵図は寛文9年に初めて井出の屋敷で確認したと証言、また他の村々の百姓はそもそも初見であると供述。このことから、事象Bの際には訴え出た村々が不在であったことが判明。また代官の手代の供も、門前で待機を命じられ評定所(裁許)の様子は一切不明であるとする。

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延宝3年(1675)6月に勘定頭主導で町村側の面々らが訴状を提出。上の事態を勘定頭が重く見たものと考えられる。

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同年9月、勘定頭らが老中の内意を取り付け、論所へ検使を派遣することとなったことを代官へ通達。老中もこの事態を重く見たものと考えられる。延宝7年(1679)、検使派遣。

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吟味進行。村々は事象Aに関して、大宮町に対して異議を唱える。また立会人である間宮信政が大鏡坊と縁者であり変断したのだと述べる。一方大鏡坊は事象Aの内済は事象Bの際に破棄されたと主張。

また村々は、事象Bの際に本来呼ばれるべき村方が不在のまま裁許が行われたことを述べる。また絵図は書き換えられたものであると主張。その上で代官の手代が絵図を隠し、大宮町との内済だけ済ませ、裁許の件は伏せていたとも主張(主張A)。

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吟味進行。上の村方の主張に対し大鏡坊がむしろ村方が絵図を隠していると主張。村方は地図の不正を強く訴える。

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延宝7年(1679)10月、評定所の裁許が下される。これにより、主張Aはほぼ認定された。


  • 裁許(裁判の結果)

以下に、裁許の要点を示す(村山側: 大鏡坊・池西坊・辻之坊・大鏡坊隠居富奥院/町村側:大宮町他村々)


  1. 論所は入会地とする(村山社領とは認められない)
  2. 大鏡坊隠居富奥院流罪
  3. 大鏡坊・池西坊は江戸十里四方と駿河国からの追放
  4. 辻之坊は閉門


このように厳しい処分となった。相当に大きな事象であり、村山三坊の権威喪失だけでなく、村山自体の衰退をきたした一件として知られている。また(宮原2011;p.146)は、事象Aの間宮信政の妻が井出正員の娘という間柄であるため、井出家の謀があったという解釈を示している。

この点を少し考えていきたいが、事象Aを詳しく考えてみると、大宮と村山も緩やかに連携している節があることが分かる。(宮原2011)が論稿内で「村々」と表現しているため大変分かりづらくなっているが、氏の言う「村々」には「大宮町」も含まれている。しかし事象Aを見る限り、大宮町と"実際の村々"は、大分置かれた立場が違うように思える。この理由を考えた時、そもそも村山は大宮と懇意であったという背景が関係するように思う。

これら登場人物を見てみると、以下のように系譜をまとめることができる。


大鏡坊頼賀に後妻が居ない場合はこのような系譜となる


代官である井出正祗の祖母(母方)は富士信忠の娘である。富士信忠は大宮の頂点に居た人物であるから、大宮とも懇意と言えなくもない。信政の妻から見れば、叔母の親が富士信忠の娘である。

つまり事象Aの背景には、このような血縁関係が関係している可能性がある。実際は大宮町と村々は一枚岩であり続けていたわけではない。そして『玉露叢』に見える池西坊の参府は、江戸幕府から説明を求められ赴いた結果と考えられる。


  • おわりに


(宮原2011;p.134)に『富士宮市史』に引っ張られた形の表現として「富士野をめぐる争論」、(近藤2023;p.25)には「富士野をめぐる山野相論」「富士野と呼ばれた富士山西南麓一体の用益権をめぐって」等とある。しかし実際の資料をみると「富士野草苅」や「富士野論(やろん)」という用例であるため、富士野と呼ばれた地が論所となったわけではない。従って、「富士野相論」等と呼称するのは適切ではないと考える。

この両者の文言は『富士宮市史』がきたしたものと考えられるが、「富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」で記したように富士宮市においては名付けに問題があるものが多いため、再検討が必要であろう。

また『照高院興意様関東御下向略記』より、富士浅間宮(現在の浅間大社)の祢宜が興意法親王に面会する際に富士灰を進上していることが知られる。そして同地(富士上方)に根を張る池西坊も、参府の際に富士灰を進物としている。これは偶然ではなく、やはり富士灰が手に入りやすい環境にあったからではないだろうか。


  • 参考文献

  1. 宮原一郎(2011)「近世前期の富士村山修験と野論争論」『校史・学術資産研究 第3号』、131-173
  2. 近藤祐介(2023)「富士村山三坊における近世的体制の成立」『山岳修験 第70号』、日本山岳修験学会、19-32

2026年11月5日木曜日

近年確認される富士山の異変、富士山中の史跡から考える

まず、17世紀作の深草元政『身延道の記』(身延紀行)の内容を紹介したい。

萬澤より、ニ里ばかり来て、うつふさと云前にいなせ川ながれ、富士の雪をひたせり。淋しくおかしき所なり、うつふさにさのみは人のねらねばと、高祖の詠じ給ひしは、里の子もよく覚えてかたる。

うつふさに なられん物か かたしきの まくらの山は ふじの白雪

現在の富士宮市内房に関する記録である。ここでいう「高祖」とは「日蓮」のことである。

日蓮

そして同史料を、寛延2年(1749)『和歌駿河草』が引用している。引用部分を含む、内房について取り上げている箇所を以下に示す。

内房

(中略)日蓮聖人此あたり遊歴して古跡もありとなん。此所に宿りてよめる歌とて

うつぶさに さのみは人の ねられねば 月を身延に おき帰るらん

身延紀行に、萬澤より二里ばかり来て、うつぶさといふ。前には稲瀬川流れ、富士の雪をひせたり、さびしくおかしき所也。(中略)

うつぶさに ねられんものか 片しきの 枕の山は 富士のしら雪

この『和歌駿河草』は極めて重要な史料で、例えば「大宮・村山口登山道」についても記している。この『和歌駿河草』の内容は明らかに実際登山した上でのものであり、該当箇所だけを見れば立派な登山記である。一方で、あまり注目されてはいない。以下に一部引用する。

登山するに、駿河口、大宮。相州道須走。甲州口、吉田。と三所あり。大宮より一里程をのぼりて、村山といふあり。それより二里ばかりのぼりて、八幡、中宮、龍か馬場、砂振、といへるには、砂石ばかりにて、草木もなし。風烈しければ砂石を飛ばし登り得る事なし。

そして地誌の一種である文政3年(1820)『駿河記』にも『身延道の記』が引用されている。

長遠山本成寺

(中略)此寺は深草元政舎りし寺也。詠歌の本紙于今伝ふ。又祖師の詠草及び日遠上人の詠草とも所蔵なり。

                                日蓮上人
うつぶさに さのみは人の ねられねば 月をみのぶに 起帰るかな

                                日遠上人
谷河に うつるこよひの 月かげを うつぶさにねて ながめぬるかな

深草元政身延行記に曰

萬澤より…(以下略)


この「日蓮」「日遠」「日政」(深草元政)の三首を「内房三詠」と言う。そして面白いことに、この三首を刻文とした石碑が東京都杉並区の蓮光寺に所在する。日蓮霊場と認識されているがために、このようなものが遠い地に存在するのである。

富士宮市には「日蓮霊場」と言えるような寺院として本成寺の他に「本光寺」(富士宮市黒田)がある。「乳信仰」を有する銀杏が所在することで知られる(児島2018;p.82)。

そして日蓮には弟子として「六老僧」が居た。その内の1人「日興」に由縁がある寺院として「大泉寺」(富士宮市野中)がある。(西岡2010;p.26)にあるように、富士山と関係が深く、「富士山住日興」という署名を用いるほどの人物であった。

この大泉寺であるが、富士山御中道に位置する石碑を今現在も管理している。「今現在」と記したが、古くから管理してきた歴史がある。そもそも建立自体が大泉寺によるものである。つまり日蓮宗の遺跡というわけである。

富士山信仰と日蓮宗の結びつきは、あまり語られることがない。しかしその一面は等閑視できるものでもなく、(西岡2006)(青柳2006)(西岡2010)(清雲2016)などで取り上げられている。つまり富士山信仰と日蓮宗は決して無縁ではなく、それを具現化したものの1つが上の御中道の石碑と言えるわけである。

この事実を理解した上で話を進めていきたいのであるが、近年富士山に異変が生じていることを皆さん御存知だろうか?再び『和歌駿河草』の内容を引用する。

登山するに、駿河口、大宮。相州道須走。甲州口、吉田。と三所あり。大宮より一里程をのぼりて、村山といふあり。それより二里ばかりのぼりて、八幡、中宮、龍か馬場、砂振、といへるには、砂石ばかりにて、草木もなし。風烈しければ砂石を飛ばし登り得る事なし。

ここに確認される「村山」「中宮(八幡堂)」といった箇所に行くと、梵字の護摩札が据え置かれている事象が確認される。それはもう、あらゆる所に確認できる。例えば「大宮」は浅間大社の鎮座地であるが、その大宮司・社人等が神事を行っていた富士塚(富士市鈴川)にもやはり護摩札が確認される。そして上の大泉寺が管理する石碑にも、それは確認される。そうなのだ。

富士山南麓の各史跡に、手当たり次第護摩札が据え置かれている事象が確認される

これが近年の富士山の異変なのであるが、日蓮宗に梵字はそぐわないから、明らかに場違いなことをしているのは明白である。これは本当に大泉寺に許可を得てのことだろうか?

富士山麓に住む人々だからこそ、これらの是非について考えていくべきであるのかもしれない。登山マナーが指摘される昨今であるが、この領域の無秩序化も間違いなく進んでいるのである。

  • 参考文献
  1. 鷲尾順敬編(1925)『国文東方仏教叢書 紀行部』、国文東方仏教叢書刊行会
  2. 西岡芳文(2006)「歴史における物語と情報 富士山をめぐる知識と言説―中世情報史の視点から」『立教大学日本学研究所年報 No.5』、31-39
  3. 青柳周一(2006)「人の移動と地域社会―富士山の「日蓮宗の名所」化をめぐって」『地域史の視点』、吉川弘文館
  4. 西岡芳文(2010)「富士山をめぐる中世の信仰」『興風』22号、1-42
  5. 清雲俊元(2016)「身延山大学公開講演会講演録 富士山の世界文化遺産登録」『身延論叢 No.21』、3-14
  6. 児島恭子 (2018) 「イチョウ巨樹の乳信仰ー歴史研究の資料に関する課題ー」『札幌学院大学人文学会紀要』第103号、73-85