2026年7月1日水曜日

富士市内の素晴らしき資産、本当の魅力を考える

まず富士市は、「愛鷹連峰」に属する地域である。例えば愛鷹山は「都道府県自然環境保全地域」に登録されているが、その関係市町として「沼津市・富士市・裾野市・駿東郡長泉町」が記されている。

むしろ富士市は愛鷹連峰を語るにおいては重要な存在と言え、例えば連峰の中の最高峰である「越前岳」は、富士市・裾野市に位置している。同山は環境省選定「富士山がある風景100選」に地点名「越前岳富士見台」として選ばれているが、当然ながら「裾野市・富士市」が所在地として記される。一方、ネットではもはや越前岳は富士市に属さないことにされている始末である。

しかしあまりにも、それはもうあまりにも、この一帯に対する志向が富士市民の中で少ないように思える。これは妙な話ではないだろうか。例えば最近の富士市のニュースとして、以下のようなものがあった。


朝鮮半島でも珍しい 静岡県富士市の古墳で出土、百済ルーツの帯金具(朝日新聞WEB版 2026年5月7日 10時13分)
 静岡県富士市の須津(すど)千人塚古墳で、古代東アジアの交流を考えるうえで貴重な金銅製の帯金具が出土した。朝鮮三国時代の古代国家・百済の後期に、官人の身分を表すために使われた●(「金」へんに「誇」のつくり)帯(かたい、帯の飾り金具)の一種とみられ、日本国内での出土は初めて。富士市が7日に発表した。
 須津千人塚古墳は直径21メートルの円墳。駿河湾の奥、愛鷹山(あしたかやま)の山麓(さんろく)に広がる須津古墳群(総数約200基)のうちの有力古墳だ。発掘調査は2024年度に行われ、その後、出土遺物の保存処理を実施したところ、文様などが判明した。(以下略)

この大発見も、愛鷹山の山麓のものである。であるから、この一帯は文明的な地域であったはずであり、富士市の歴史を語る上でも重要な地域であるはずなのである。

富士市の素晴らしさは、どちらかと言えば自然の中にあるように思う。また外部から来る人も、当地にアーバンな要素など何一つ求めていないはずである。富士市で自慢できるものは、自然の中にこそあると見たほうが良いし、これが普通の思考だろう。以下に富士市における素晴らしい要素・資産等を3つ挙げたいと思う。


  • 越前岳

環境省選定「富士山がある風景100選」にも選ばれている。人気の山であるが、富士市にも属することは殆ど知られていない。

初心者向けではあるが、一応の装備をもって挑むべき山である。


  • 銀杏地蔵

富士市富士岡所在。乳信仰」を有する銀杏であり、(児島2018;p.82)にも記されている。通称「銀杏地蔵」。とても美しいものがある。


  • 笹垢離(ささごり)
「大宮・村山口登山道」の中継地点の1つ。地蔵三体および不動明王像一体が位置する。ちなみに(富士山世界遺産センター2021;p.88)は刻文「角田屋/施主大宮 儀右衛門…」の地蔵を「頭部欠損」とするが、現地で刻文を確認した限り、頭部欠損の地蔵の刻文は「大宮角田屋佐野与一…」とあるため、これは誤りと思われる。

笹垢離の地蔵(頭部欠損)の刻文


神聖なエリアで、高鉢駐車場(富士宮市)からアスセスすればそれほど難易度は高くない。

  • おわりに
本稿では富士市の三ヵ所を挙げてみたが、素晴らしい場所は他にも存在する。越前岳は厳冬期以外、銀杏地蔵は秋頃、笹垢離は夏季がオススメである。

10:「富士市内の素晴らしき資産、本当の魅力を伝えたい」

  • 参考文献
  1. 児島恭子 (2018) 「イチョウ巨樹の乳信仰ー歴史研究の資料に関する課題ー」『札幌学院大学人文学会紀要』第103号、73-85
  2. 静岡県富士山世界遺産センター(2021)『富士山巡礼路調査報告書 大宮・村山口登山道』

2026年6月29日月曜日

富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換

本稿では富士市、正確に言えば「富士町」が「えんとつ町」になるまでの一側面を見ていきたいと思う。

旧富士町が"製紙のまち"となる過程について論じた論稿は様々存在しているが、農業の視点から見たものについては(関1958)に詳しい。以下、主に同文献を引用する形で話を進めていきたいと思う。まず、冒頭には以下のようにある(関1958;p.17-18)。


調査部落Mは国鉄富士駅より徒歩20分の北方に位置する。富士市には本州製紙・大昭和製紙・大興製紙の各工場はじめ大きな工場があって、(中略)駿河湾にそそぐ富士川、潤井川による沖積土からなる富士市一帯は古くは加島五千石の中心をなしていたところである。 
明治42年東海道線富士駅の開通、これに先だつ富士製紙工場(現本州製紙富士工場)の誘致成功などが商工都市へのスタートになるまでは平凡な農村であった。(中略) 
調査部落Mは幕藩時代から明治初期にかけてはこの辺の中心であったものが、富士駅を中心にした部分が市街地として発展してしまったので、いまでは町のはずれのような具合となっている


この調査部落Mとは、明らかに「本市場(もといちば)」のことである。そして論稿にあるように、時代が下るにつれ純然たる「農家」ではなく「兼業農家」へと移行する例が増えている。そしてそれを更に促進させる存在として「製紙工場」があった。

製紙会社と農家がどう関係するのかということであるが、"製紙会社による農地の買収→その持ち主の製紙工場への就職"ということが頻繁に行われていた事実がある。これについては、以下のようにある(関1958;p.10-19)。


そこでまず戦後はこの本州製紙工場にはかぎらないが本州製紙に容易に就職できないという事実である。この辺の農家で男の子を本州製紙に入れられるのは、本州製紙が拡張のため農地を買収するさいの交換条件として受け入れられることぐらいしか機会がないのである。そして事実この6・8・10番農家はそれぞれ四反七畝、四反、三反五畝とこの4・5年の間に耕地を買収されているのである。

ちなみに「4反」は1,200坪というから、かなりの面積である。当時、製紙会社への就職は「間違いのないルート」であった。つまり製紙工場の存在は、農業地帯からの転換を一気に推し進めた存在であった。そもそも工場の敷地の多くは旧農地であると思われるし(工場は誘致した)、その周辺もそうであると考えられる。

"この4・5年の間に耕地を買収されている"とあるが、この論稿は1958年ものなので、丁度富士市および旭化成による「1戸1人制度」の頃と重なる(「富士市が企業の食い物にされてきた歴史、ウシジマくん案件について」)。

人々の交流を有し、商店などを中心として成り立ってきた大宮町(富士宮市)や吉原町(旧吉原市)とは異なり、富士町(=旧加島村)は農地からのよりダイレクトな用地転換があったと考えられる。

※ちなみに「本州製紙富士工場」は「大王製紙」→「王子板紙」→「王子マテリア富士第一工場」→「現・王子マテリア富士工場」のことである。

それと共に、農業を取り巻く状況は大きく変わっていった。(笠井1964;p.60-61)には以下のようにある。


かつての富士市は「加島五千石」と言う名からもうかがわれるように往時から広大な沖積層と、豊富かつ良質な水を利用した農業と、田子浦海岸一帯の沿岸漁業を産業の主体としていた。とくに「富士梨」(明治25年頃から)の本場として有名なところで、かつては三百五十町歩に達する栽培がおこなわれたこともある。また最近まで近郊蔬菜としての富士早生カンランも相当の生産量をあげてきた地帯である。だが、明治39年を契機として、新しい発展、製紙工業の中心の時代を迎えた。(中略)この数年来の富士市は、全耕地千三百八十町歩(一戸当たり約六反歩)のうち、年々五十~六十町歩の農地が、工業用地や、宅地に転用されている

当論稿は1964年のものであるが、当時かなりの農地が転用されたことが分かる。また富士早生カンランは「キャベツ」のことである。(関1958;p.17)には以下のようにある。

旧富士町(昭和29年市制施行)が加島村と呼ばれていた当時(昭和4年町制施行)から、この地は富士梨の産地として全国にきこえていた。大正7~8年頃がもっとも盛んな時で、当時調査部落Mでも、耕地の3割くらいが梨畑で占められる盛況であった。

ところが、昭和7年頃に大虫害が発生して、当時の技術水準をもってしては、将来の見通しが立たないほどの大打撃を受けてしまった。そこで、目先の利いた連中は、蔬菜同志会というのを結成して、梨にかわるべき適当な商品作物を物色することをはじめた。

そしていろいろ試みて結局甘らんの導入に成功し、梨にかわって甘らんの生産に重点が移っていって今日にいたった

つまり大虫害に晒された富士梨に代わる農作物を模索し、キャベツの生産に辿り着いたというわけである。それが「富士早生カンラン」である。加島五千石があったからこそ、ブランド化できたのである。

  • おわりに

富士市が「えんとつ町」となる軌跡としては、「富士市の公共交通の歴史考、近代的製紙業の礎と吉原の衰退を考える」にあるように製紙会社の進出もあるが、農地の積極的買収も挙げられる。それらの土地は工場用地として利用された。ここに、その広大な農地を称して呼称された「加島五千石」は終焉を迎えたと言える。

9:「富士市がえんとつ町となるまでの軌跡、加島五千石からの大転換」

  • 参考文献
  1. 関英二(1958)「兼業と農家の機械化」『農林統計調査』1958年4月号、農林統計協会、10-19
  2. 笠井文保(1964)「新産業都市の建設と近郊農村の変貌 -東駿河湾地区・富士市の事例-」『農村研究 第19号』、東京農業大学農業経済学会、57-70