2026年5月18日月曜日

曽我兄弟の仇討ちの地として記される神野の比定地考

「曽我兄弟の仇討ち」の地は、『吾妻鏡』によると富士野の神野とある。


 曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)


曽我十郎祐成(「伏木曽我」の場面)


ではこの「神野」について、富士宮市はどこを比定地としているのであろうか。新『市史』である(富士宮市2026;p.79)には、以下のようにある。


江戸時代の村には名前は見えないが、中世の史料にみえる地名もたくさんある。(中略)「神野」は内野の字上野一帯、


このように「神野」=「上野」という解釈が示されているのであるが、そうだろうか。各史料を見るに、とてもそうは思えないのである。例えば『信長公記』には以下のようにある。


四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり


天正10年(1582)4月12日、織田信長一行は本栖を出て「かみのが原」「井出野」に至った。中道往還を南下してきた形である。つまりこの両地は隣接しているのである。本栖を過ぎた地点として記されていることから、国境付近と考えたほうが良い。

また当該地の地理の見通しをより良くしてくれる史料として『甲信紀行の歌』がある。『甲信紀行の歌』は天文15年(1546)ないし同16年(1547)、三条西実枝が甲斐国を訪れた際の歌を、供をした相玉長伝が書き留めた史料である。うち該当箇所を見ていきたい(山梨県2002;p.878-881)。


同廿一日、本栖の御宿を御立の朝、各御短冊進上、返事共、(中略)

本栖を御立ありての道にて、撫子の花をおりて奉るとて、(中略)

かみの原にて御落馬有し時、(中略)

本栖御宿にて、紅葉の枝を顔にあてゝ奉るとて、別路を思ふ涙のしくれにや かおのもみちをちらす秋風(以下略)


三条西実枝は天文16年(1547)8月21日に本栖を発つ際に歌を読み、その返歌を受けている。そしてその道中(本栖を御立ありての道)でも実枝は返歌するなどしている。その返歌の次に「かみの原にて御落馬有し時」の歌が記されている。

これはかみの原、つまり「神野原」が本栖に隣接するからこそ、ここに見えていると考えるべきではないだろうか。ここで急に「上野」が登場するのは極めて妙であるし、あまりにも距離が離れすぎている。


富士宮市内野

むしろ「神野」は上井出より更に北部に位置すると考える方が自然ではないだろうか。つまり「神野」=「上野」ではないのである。


  • 参考文献

  1. 山梨県(2002)『山梨県史 資料編6 中世3下 県外記録』
  2. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市

2026年5月10日日曜日

富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性

富士市は令和8年(2026年)11月1日に市制施行60周年を迎える。そこで富士市について考えてみた所、富士市に内在する"TRICK感"が頭をよぎった。この機会にこれをしっかりと言語化しておこうと思った次第である。そして最終的にはシティープロモーションの可能性にまで話を繋げたいと考えている。

皆さんは「TRICK」(※ビジュアルではKは左右反転)という作品をご存知だろうか。この作品の世界観は何とも独特で言語化し難いものがあるが、YouTubeなどで「予告編」などが未だに残されているので、空気感を把握して頂ければと思う。

さてこの作品と富士市がどう関係してくるのかということであるが、何となく富士市にTRICK感が有りはしないだろうか、という話しなのである。この作品は、物語の舞台の地に辿り着くと決まって現地住民が不思議なことを口走ったり、奇妙な行動を取るというようなくだりがある。

ネットを調べると、富士市でそれに近しい報告がいくつも見られる。ここでは、都市伝説とかそういう野暮ったいものは挙げず、「地域伝承」に係るものに限局してその実例を紹介してみたい。

まず「磔八幡」(正式名称は「八幡宮神社」、通称「青嶋八幡宮」とも)である。報告は「磔八幡訪問時の報告」を見て頂きたい。「磔八幡宮は、ちょっと事情があって表から行かないほうがいい」という現地住民の発言であるが、これは次に登場する看板の文言と関係するのではないだろうか。

報告によると、境内の告知板の文言として「我が家の伝承と異なる点も多々あり迷惑致します」とあったという。これはここでいう"我が家"が、先の現地住民が述べる「表側」に位置しているという可能性を想定させるものである。

では「我が家の伝承と異なる」とはどういうことだろうか。それを探るために、緊張しながらも現地に赴いてみた。残念ながら、上の告知板はもう存在していなかった。そしてその当時は存在していなかった石碑が確認された。


石碑の内容はこのように大変な美談となっているのであるが、磔八幡に関する初見を見るに、伝承はそんなに美しい面ばかりではないようである。そのような事実を鑑みるに、「我が家の伝承と異なる」というのは、以下の2パターンのどちらかであろう。


  1. 美談ばかりが誇張されているが、実際はそんなものではないという抵抗感
  2. 川口市郎兵衛の末裔による粗相話は、あまり表に出さないで欲しいという抵抗感


石碑の文言を読むと「合議がなされ」「氏子組織を整え」「中興」とある。このような否が応でもリセットを感じずには居られない表現と石碑は美談で整えられているという事実を見たときに、上の告知文は「1」のスタンスであったのではないか?というようにも思えてくる。詳しくは分からないが、なんらかの対立があったことは明らかであろう。

次に「三股淵の生贄伝承」である。報告は「生贄伝説を語る古老」を見て頂きたい。もうTRICKの世界そのものといった雰囲気であるが、血走った目で生贄伝承を語る古老の心境を考えるに、"この伝承話が地元民の記憶から無くなって欲しくない"というような心情もあったのかもしれない。

一方私はこれまで一体何人の富士市民と会話してきたのか分からないくらいには接してきているが、生贄のエピソードがその口から出てきたという経験はない。しかも歴史の話においてでも同様である。しかしこの伝承を、特に上の世代が全く知り得ていないとするのは難しいと思われるので、触れてはいけないものとして扱われている可能性もある。

仮にそうであるとすれば、上の「磔八幡」の例と近しいものがあると言える。


  1. 伝承をそのまま伝えていきたいと考える側
  2. むしろ伝承を伝えたくないと考える側

この2つがあり、磔八幡も「1」と「2」の対立があったのではないかとの推測が浮上する。三股淵の伝承を語る古老は「1」であり、「2」の風潮を快く思っていないのではないだろうか。

富士市の伝承・伝説を一通りみていくと、根底は同じ性質のものであるということに気づく。つまり"生贄"である。磔八幡も、見方を変えれば"川口市郎兵衛一人が犠牲となった物語"ではないのか。「お菊田の伝承」も、お菊が無理難題の犠牲になったのである。富士市は歩けば生贄にぶつかるわけであるが、これはやはり偶然では片付けられない。これは「生贄郷」と呼ばれた地の宿命と言うべきだろう。この多さを考えると、生贄が付加されてしまうという性質を持ち合わせていたとしか考えられない。

そして富士市には「1」と「2」をミックスさせた現象も認められる。それがどういうことなのかを見ていこう。人柱伝説で有名な「雁堤」についての説明板が、同地には設置されている(雁堤の人柱伝承)。


こちらも大変な美談となっているのであるが、この伝承は平たく言えばこういうものである。


難工事であった堤を完成させるため、神に人柱を捧げることとなった。しかしそれは現地の人間からは選ばれず、東海道の通行人から無作為に選ばれ、実際にそれが行使された。


つまり、普通の感性から言えば「守護神」という表現にはならない。「人柱」「人身御供」「生贄」などが正しいだろう。この文を作成した人は、守護神の意味が分かっていない(おそらく故意であろう)。また説明板を読む限り、もうここ(問答無用で人柱にされている)に対する違和感は全く感知しないと言わんばかりである。

富士市はこのような"美談化"が大好きで、これは「1」と「2」をミックスさせたものである。つまり「伝承を取り上げるが、美談化しておこう」というものが「3」である。

この「3」は三股淵の伝承でも例に漏れずであった。以下は六王子神社にある御札である。


この御札の文言に対する違和感は「富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える」にて記している。これもそもそも土民が生贄を行っていることには触れず、「埋めた」ということ1つをもって「聖」の部分を喧伝しようという意図が見える。また私は「3」が郷土史家によって推し進められていたという仮説を立てており、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にてそれを解説している。これは巧妙に、そして着実に進められた。

つまり、何となく感じるTRICK感の正体は、「3」から由来する歪みなのではないだろうか。なんだか訳ありで含みを持たせている告知文の存在や、血走った目で解説する古老の方を「異」として捉えてしまいそうであるが、実はそちらの側がいたって普通であったということは有りはしないだろうか。

以前"比定地とされていないのに山部赤人の万葉歌碑が建立されたのはおかしいし、異を唱える人が居なかったわけがない"ということを述べたことがある。さすがにそこまで人材が居ないということもないだろうし、そういう人は実際に居ただろう。しかし富士市のプロトコル的にはそれは異分子として処理されるだろう。

富士市は民俗学的にはとても興味深い地域である。従来富士市では、煙突群(工場群)は忌避されていた。しかし最近ではこれを「工場夜景」としてシティープロモーション化する試みが進められている

この生贄伝承の一大群も、シティープロモーション化してみたらどうだろうか。つまり「3」のようなことはせず、ありのままで、普通にプロモーション化すれば良いのではないだろうか。雁堤の説明板も、普通に「人柱」「人身御供」と書けば良いではないか。このような行動は、むしろシティープロモーション化の潜在性を失うことになるだろう。

今現在も「雁堤」「磔八幡」「阿字神社」「六王子神社」「保寿寺」「お菊田」等は残っているので、皆様に是非訪れて頂きたいと思っている。