2026年5月1日金曜日

源頼家の富士狩倉の絵画化例と仁田抜穴を考える

今回は源頼家の「富士の狩倉」の絵画化例を考えていきたい。本稿では頼家が敢行した巻狩りそれ自体を指して「富士狩倉」と記すこととする。

源頼家

『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月3日条に以下のようにある。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

また文保2年(1318)の自序を持つ『渓嵐拾葉集』には、以下の一節がある。


新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。


『渓嵐拾葉集』の成立を文保2年(1318)とした時、『吾妻鏡』との関係性は気になる所である。というのも『吾妻鏡』の成立も遠からずの頃とされるので(担当者が分かれていた)、やや年代が近すぎるように感じられるためである。従って、『渓嵐拾葉集』が必ずしも『吾妻鏡』から採ったとは限らない。この辺りは興味深い。もっと言えば、『渓嵐拾葉集』の前後の内容から考えるに人穴は早い段階で江島縁起と近いところにあったと見るべきだろう

そして富士狩倉の絵画化例は、主に以下の2つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』等)
  2. 浮世絵/武者絵

まずこれらを体系的に検討した研究は無い。富士野の絵画化例(源頼朝敢行)の研究は限られつつも見られるが、こちらは更に少ない。

ただ明確な差異は注目されるべきところであり、富士狩倉に関しては屏風図化はなされていない。また源頼家が狩場に居る猫写などは管見の限り無いと思われる

これは「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」で記したような、武家政権の象徴的な意味合いが富士狩倉では薄まっていることが挙げられる。後世の武将らは、富士狩倉に象徴性は見いだせなかったのである。同じ巻狩でも、頼朝と頼家のそれはその後の扱い方を見るにあまりにも対照的である。以下では絵画化例を具体的に見ていきたい。

  • 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』)

奈良絵本は絵入り彩色写本が該当し、草双紙は絵入り小説本といえるものであるが、こと仁田忠常の人穴探索を題材にした群は『富士の人穴草子』として包括して扱われている節がある。その是非はともかくとして、とりあえず本稿では包括して扱う。

(中野1988;p.7)に「写本・版本ともに極めて多い」とあるように、多く現存する。しかし奈良絵本としては作例が限られるという(本井2003;p.471)。物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては諸本で差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていた。最古のものに室町時代後期写本(慶應義塾図書館蔵)が伝わっている。

(本井2003;p.478-480)に古活字版の挿絵を表化し説明したものがあったため、引用する。

場面
頼家の命を受ける平太(註:和田胤長のこと
和田義盛の宿所
平太の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴で多くの蛇に遭遇する平太たち
頼家に報告する平太
人穴探検に名乗りを上げる仁田四郎
仁田の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴の中で堂や御所を見る仁田
大蛇の出現
賽の河原を案内する大菩薩
三途の川の姥御前
罪人を釜で煮る獄卒
女房を来迎する天人、迦陵頻伽、阿弥陀三尊
火の車と業の秤
獄卒と罪人・十王の裁き
頼家に報告する仁田

やはり源頼家が狩場に居る猫写などはなく、武家政権の長としての権威を示す姿勢は感じられない。焦点は完全に人穴に向かっている。

物語の大筋の説明として「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

このように『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。


  • 『文武二道万石通』(天明8年(1788)刊)



『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ」で詳細を記したのでここでは省く。仁田忠常の人穴探索をオマージュした作品である。人穴の奥にそのまま進んでいくという点から言えば、『富士の人穴草子』の影響を受けていると見ても良い。

  • 各浮世絵/武者絵

以下に、確認できたもののみ挙げてみることとする。他にも作例は存在すると思われる(月岡芳年以降のものは取り上げない)。


歌川国芳「仁田四郎 冨士の人穴に入る」

作者年代作品名
歌川国芳天保12年(1841)頃「武勇見立十二支 仁田四郎」(『武勇見立十二支』)
歌川国芳江戸時代後期「仁田四郎 冨士の人穴に入る」
葛飾北斎嘉永3年(1850)「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)
歌川芳員嘉永6年(1853)「建仁三年源頼朝卿富士之御狩の時仁田ノ四郎忠常を依て人穴入ル図」
月岡芳年 「仁田四郎忠常」(『芳年武者无類』)
月岡芳年明治22(1889)から同25年にかけて制作「仁田忠常洞中に奇異を見る図」(『新形三十六怪撰』)

代表として葛飾北斎のものを解説していく。『絵本和漢誉』は序文に「嘉永ミとセ卯月日」とあり、嘉永3年(1850)刊行の武者絵集である。

うち「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」であるが、右側に人穴内で松明に火を灯した仁田忠常が描かれ、左側には大河があり、そちらから光が射し込む構図となっている。『吾妻鏡』の世界観を反映した図となっている。

これら浮世絵も"『富士の人穴草子』に影響を受け"といった文面で紹介されることがあるが、純粋に『吾妻鏡』の世界観を表現したに過ぎないという可能性は否定できない。


【人穴と江島/芝生浅間神社】

人穴は別の洞窟に繋がっていると流布されていた。これは『吾妻鏡』には見られない内容である。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

既に近世初期には認められるため、中世には既に流布されていたと考えられる。どこまで遡れるのかは分からないが、一応これが初見と見ている。また貞享2年(1685)『新編鎌倉志』などにも確認される。

この伝承を絵画化したものが認められ、それらは人穴を直接描いたとは言い難いが、以下で取り上げていく。またそれらを見てみると、繋がる先の洞窟がそれぞれ異なる場所を指しているものが存在していることが判明する。その差異についても言及する。


  • 『江島大艸紙』(宝暦9年(1759))

宝暦9年(1759)の沙門因静『江島大艸紙』には以下のようにある。

仁田抜穴 山二ツヨリ南ノ石壁二昔ハ穴ノ形チ有シトナリ、今ハナシ伝フ、仁田忠常富士ノ人穴ヨリ入テ此山ノ半腹ヘ抜ケ出タリト云。東鑑ニ建仁三年仁田忠常富士ノ人穴ヘ入シ事ヲ載タリ。然レモ此趣ト異ナリ。

そしてこの「仁田抜穴」は『江島大艸紙』中の「相州江島画図」内にて図示されている。これらについて(藤澤1932;p.165)は「仁田抜穴は人口に喧しいが、全くは、例の甲賀三郎怪異傳の生み出した徳川時代の捏造である」とする。しかし甲賀三郎譚と仁田抜穴は両者それほど近似性は無く、甲賀三郎譚から由来するとは言えないように思う。また徳川時代とも言えないだろう。

寛政9年(1797)刊行『東海道名所図会』には、仁田抜穴について以下のようにある(粕2001;p.173)。

仁田抜穴
竜窟の東という。今さだかならず。俗諺にいわく、仁田四郎忠常、富士の人穴より入って、この山の半腹へ抜け出でたりという。富士の人穴のこと前巻に見えたり。然れども江の島へぬけ出でたりということ、旧記に見えず。

『江島大艸紙』でいう「山二つより南の石壁」と『東海道名所図会』でいう「竜窟の東」が完全に一致するのかは分からない。


  • 落合芳幾『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』(万延元年(1860))

みゆネットふじさわ」に説明がある。同HPによると"神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間に位置する浅間神社にある「富士の人穴」と呼ばれる横穴は、富士山に繋がっていると考えられており、東海道中の名所となっていました。画中では人穴をのぞこうとした喜多さんが、地面に転がり落ちてしまいました。"とある。

この浅間神社とは何処を指すのだろうか。(神奈川県立歴史博物館2013;p.33)には以下のようにある。

富士の人穴
 宿場を超えた芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町)にあった横穴のこと。『江戸名所図会』(1-11)中の「浅間社」や「東海道五十三次之内 神奈川宿」(2-11)「見立役者五十三対ノ内 神奈川」(2-12)では、人々が浅間神社の鳥居をくぐり、しめ縄を張った穴に向かって登っていく様子が描かれている
 また、道中記には、「民家のかたわらに穴二つ有。冨士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也。」(『諸国道中袖鏡』1-20)とあり、これが『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月の項に見える、源頼家の富士の巻狩りの時に仁田四郎主従六人が入った人穴が芝生の横穴であるとして、一時認識されていたことがわかる。
 昭和56(1981)には、浅間神社下の崖面から古墳時代の横穴墓九基が発掘された。道中記や浮世絵では「穴は二つ」とされており、数は合わないものの、仮名垣魯文作、落合芳幾画の「東海道中栗毛彌次馬    神奈川」(2-13)では、北(喜多)八が穴の中を覗いているうちに「赤土」で滑って転ぶ情景が描かれ、人穴が横穴墓であったことを想起させる。

つまり『照高院興意様関東御下向略記』・『新編鎌倉志』・『江島大艸紙』は同場所を指していると考えられ、一方『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』『江戸名所図会』『東海道五十三次之内 神奈川宿』『見立役者五十三対ノ内 神奈川』は芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町1-19-10)を描いているものと考えられる。また同地が「浅間町」である点にも注意が払われる必要性がある。

また『諸国道中袖鏡』に「是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也」とあるが、これは江島の方を"正"とする意図と取ってよいかもしれない。

  • おわりに

以下に万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳を記す。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していた。

江戸時代も『吾妻鏡』は多く読まれていたようであるから、必ずしもすべてが六道を表現したものではなく、純粋に『吾妻鏡』の世界観の域を出ないものもあると考える。しかしこの絵画化例の多さは人穴の知名度の高さを裏付けるものである。

源頼朝の巻狩りと頼家の富士狩倉を合わせただけでも、絵画化例は相当数になる。この事実は、富士宮市の歴史的立ち位置を自ずから示すものと言える。各画集などを見た時、「倶利伽羅峠の戦い」や「那須与一と扇の的」といったものは多く目にする。しかしながら同じ地で複数の題材で多数絵画化されてきた地域は、それほど多くはないのではないだろうか。特にその絶対量は圧巻と言える。

  • 参考文献
  1. 藤沢衛彦(1932)『日本伝説研究 第6巻』、六文館
  2. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  3. 中野幸一(1998)『奈良絵本絵巻集4 伊勢物語・富士の人穴』、早稲田大学出版部
  4. 粕谷宏紀監修(2001)『新訂 東海道名所図会 下』、ぺりかん社 
  5. 本井牧子(2003)「『富士草紙』解題」『京都大学蔵 むろまちものがたり1 しづか(三種)・緑弥生・富士草紙』、 臨川書店
  6. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  7. 奈川県立歴史博物館編(2013)『江戸時代かながわの旅 「道中記」の世界 : 特別展
  8. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

2026年4月6日月曜日

富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図

令和7年12月19日付で、文化審議会文化財分科会の答申を経て26の「文化財保存活用地域計画」が承認された。この中には富士宮市のもの含まれている。他「小田原市文化財保存活用地域計画」の資料には、富士宮市も関連する事柄が挙げられている。




文言としては、以下のようにある。

源頼朝が平家方に敗れた石橋山合戦や、富士野の巻狩りで決行された曽我兄弟の仇討ちは、浮世絵・浄瑠璃・歌舞伎などで広く知られ、市域にもゆかりの遺跡が残されており、鎌倉時代の出来事を今に伝えます。

〇曽我兄弟と曽我の里

曽我兄弟の仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」と並ぶ日本三大仇討ち事件として有名です 。鎌倉時代末期に成立した「曽我物語」は修験比丘尼などによって語り継がれ、江戸時代には浄瑠璃・歌舞伎などの演目として演じられました。曽我兄弟の父河津三郎祐泰が工藤祐経の従者に暗殺された後、兄弟の母である満江御前が曽我祐信に再嫁したことから曽我兄弟と呼ばれています。曽我兄弟が育った曽我の里には、曽我兄弟に関連する伝承地が数多くあり、曽我兄弟に関わる遺跡を現在に伝えます。

この点については過去「曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える」「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」等にて取り上げたことがある。また示されている「構成文化財リスト」のうち「2」「3」「4」「5」「6」「13」は実際現地に訪問している。これら訪問地における体験は忘れがたいものとなった。残りも是非訪問してみたいと思う。

さて、小田原市が挙げている「富士野の巻狩り」であるが、今回はその絵画化例に着目していきたいと思う。「富士野」は富士宮市の歴史的地名である。歴史の中で数多描かれており、作例を数え上げるのは困難である。

つまり富士宮市は、歴史的に絵画化例が極めて多い地なのである。これも、富士宮市の特徴であろう。これほどまでに多い理由の1つとして、(小口2020)にあるように東国に政権を樹立した源頼朝と徳川将軍を重ね合わせる意図があったものと思われる。またそれは徳川政権だけでなく、頼朝以降のすべての武士が意識していたものと思われる。であるから、屏風図などが作成されてきたのだろう。この地に対する武士の眼差しは、頼朝像というフィルターを通しての極めて実直なものであっただろう。

富士野の絵画化例は、主に以下の6つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 曽我物語図屏風
  2. 挿絵入り本の『曽我物語』
  3. 奈良絵本(一例に『小袖曽我』があるが、富士野の場面は有していない。他の奈良絵本が有するのかは未調査)
  4. 絵巻類
  5. 浮世絵
  6. 単発の富士の巻狩図・夜討図


「1」は室町時代末期に成立、以降制作され続けてきた(井澤1999;p.431)(井澤2008;p.289)。「2」は(林2020)によると大きく3種に分けられるといい、元和寛永頃の古活字本が最初の挿絵入り本であるという(林2020;p.13)。

「3」の奈良絵本は詳細に解説するものを見ないが、(林2020;pp.23-24)にあるように「2」との共通性が指摘され、(井澤1999;p.442)は曽我物語図屏風の左隻は奈良絵本や絵巻の図柄を材料としたとする。つまり、奈良絵本が先行するとしている。「4」の絵巻は(大月2009)の紹介などがある。こちらも体系的に検討するものはない。

「5」は体系的に追った研究以前に基礎的な研究自体が皆無であるが、作例を調査し、その早例のみを一応推察してみた。本稿ではこの「5」および「6」を検討していきたいと考える。また今回は源頼家の「富士の狩倉」に関する絵画化例は取り上げない(仁田忠常の人穴探索のものなど)。


【解説】

  • 『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」
現存するものでは最古の富士巻狩図である(井澤1999;p.435)。従って、まず先んじて挙げられるべき絵図である。井澤氏が指摘されているように、後世の富士巻狩図にも描かれている伝統的図柄が既に認められる。

頼朝の猫写については、後述する"従者が傘を差す様子"や"尻鞘の太刀"などは確認されない。

  • 曽我物語図扇面
扇の一面に富士巻狩図が描かれる。(井澤1999;p.436)によると、室町時代末期から桃山時代にかけてのものであるという。

松平定信『古画類聚』に一対の扇絵が描かれているといい、そのうちの一面がこの曽我物語図扇面の写であるという。つまり一対のうちの一方が現存しているということになる(個人蔵)。

  • 曽我物語屏風(日本民藝館蔵)

「素朴絵」にカテゴライズされている日本民藝館蔵の屏風図。通常の曽我物語図屏風とは傾向が異なるため、特別にここに挙げた。(日本民藝館2013)によると、17世紀の作であるという。

この屏風図の図柄は興味深い。というのも、富士曼荼羅図の影響を見出すこともできるからである。(三井記念美術館他2019)に「巻狩りは山頂付近で展開し、頼朝を取り巻く一団はまるで空を飛んでいるようだ。館での仇討場面も富士の山容の中に溶け込んでいる」とある。指摘されている部分の猫写は、確かに富士の巻狩り・夜討に関するものであろう。

一方で左奥に描かれているのは「駿河湾」である。また寺社も描かれているが「清見寺」である可能性が高い。他に「桜」などが見える。しかしながら駿河湾との位置関係を考えると、清見寺以外である可能性も考えられる。更に奥は「清見ヶ関」のように見受けられる。

構図としては破綻しているが、これらの構成要素は富士曼荼羅図にこそ認められるものであり、「曽我物語図屏風」と「富士参詣曼荼羅図」の双方を参考にして仕立て上げられた素朴絵である可能性を指摘したい。(井澤1999;p.430)は「曽我物語図のおおらかな受容を見せる一例となっている」とする。

  • 射水市指定文化財「奉納絵馬額」

富山県射水市の十社大神蔵の「奉納絵馬額」は富士巻狩図である。(塩1989;p.71)によると、「奉掛諸願成就之所 天和三年十一月吉日」とあるという。つまり1683年に奉納されたものということになる。

図柄に関しては全体を示した刊行物が皆無で不詳であるが、「真ん中に富士山を描き、その裾野の右側に大勢の従者を従え、赤傘を差して見物するのは頼朝であろう(塩1989;p.71)」とある。

ここで、頼朝の図柄が他と共通しているのかを見ていこう。例えば(林2020;p.31)は頼朝の図柄を詳細に説明しているが、"どの版においても挿絵の中の頼朝は、尻鞘の太刀を持つように描かれていることが多い"とし、また各曽我物語図屏風について"挿絵と同様の狩場における頼朝の姿が確認され、描かれる位置も画面の右上となる"とする。

「奉納絵馬額」の頼朝を見てみると、確かに右側に描かれているが、尻鞘の太刀のようには見受けられない。

  • 浮世絵

絵画の一大ジャンルに「浮世絵」があるが、うち富士野の絵画化例の早例に鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』がある。この作品の成立は寛政(1789~1801)後期とされている。頼朝は右下に描かれ、尻鞘の太刀を所持する格好である。

管見の限り浮世絵としては早例のように思えるが、深く調べたというわけでもない。全く研究が無いので、その深化を待ちたいところである。

  • おわりに

(林2020;p.21)に「頼朝が多くの勢子を連れて狩りを催している様子が描かれる。ここでは、傘を差し、馬に乗った烏帽子姿の頼朝が確認できる。この姿は組合せ絵本から共通する姿であり、後に続く富士の巻狩り図の挿絵とも通ずる」とある。(小井土2020)は底本が正保3年(1646)の『曽我物語』を掲載しているが、(小井土2020;p.172)と(小井土2020;p.301)の挿絵が該当する。

付き添いの者が傘を差す猫写は脈々と受け継がれているわけであるが、これはいつまで遡ることができるだろうか。上述した奈良絵本の『小袖曽我』には富士野の場面は含まれないが、他の奈良絵本はどうだろうか。また富士野を描いた浮世絵の初見は鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』で良いだろうか。

19世紀になると、歌川派の作例が極めて多く見られるようになるが、その傾向はどのように言語化できるだろうか。また(小林1993;p.124)にあるような江戸時代の細工物や見立などは何から発想を得て形にしていたのか、それは絵図から由来するものだろうか。

研究が少なく様々な疑問が尽きないが、現時点ではこの膨大な作例を積み上げていくことに専念したい。


  • 参考文献
  1. 塩照夫(1989)『富山の絵馬 : その世界と系譜』、北日本新聞社出版部
  2. 小林幸夫(1993)「馬の頭の風流 : 祭礼と見世物と」『紀要』28 号、東海学園大学
  3. 井澤英理子(1999) 「曽我物語図考 -双屏風の成立について-」『日本美術襍稿 佐々木剛三先生古希記念論文集』、明徳出版社
  4. 井澤英理子(2008)「又兵衛風の曽我物語図屏風の量産について」『日本美術史の杜』、竹林舎
  5. 大月千冬(2009)「明星大学所蔵『十番切』絵巻の図様について」『物語絵画における武士』
  6. 日本民藝館(2013)『つきしまかるかや : 素朴表現の絵巻と説話画』
  7. 三井記念美術館・龍谷大学龍谷ミュージアム・NHKプロモーション編(2019)『日本の素朴絵 ゆるい、かわいい、たのしい美術』
  8. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」、『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会
  9. 小口康仁(2020)「「曾我物語図屏風」の展開-富士巻狩・夜討図から富士巻狩図へ-」『國華』 第1496号、朝日新聞出版
  10. 小井土守敏(2020)『曽我物語 流布本』、武蔵野書院