2026年5月28日木曜日

『富士の人穴草子』成立の背景を考える

『渓嵐拾葉集』巻三十七「弁財天縁起」江島縁起事(『大正新修大蔵経』七六)には「江島ノ縁起ハ相州大山寺ニ在之」とある。それに関連して(田中2021;p.110)には以下のようにある。


『渓嵐拾葉集』は比叡山の光宗によって南北朝期に作られた、天台宗の様々な教説・口伝を集めた百科事典といえる書物である。(中略)巻三十七「弁財天縁起」は二十四箇条からなり、天川・厳島・竹生島・江の島の縁起、また四箇所に箕面・脊振山を加えて六所弁才天とすること、その他弁才天に関する諸説を記す。「江島縁起事」は、大山寺にあるという「江島縁起」を略抄する。大山寺の「江島縁起」は現存せず、詳細はわかっていないが、記された縁起には、皇慶に代わって最澄の来島が語られることや、安然を法道和尚の子とすることなど、他本にはない内容が見られる


相州大山寺は、神奈川県伊勢原市の大山寺のことであろうか。大山寺所蔵「江島縁起」の成立時期は全く想像できるものではないが、言うまでもなく相当に古いものであり、『吾妻鏡』はこのようなものに取材したという可能性すらある。

『富士の人穴草子』は人穴の奥の世界を舞台としている。これは江島と人穴が繋がっているという伝承が起点となって、奥の世界に視点が移ったためではなかろうか。『人穴草子』の原点に、「江島縁起」があるという想定をしても良いのではないだろうか。

(田中2021;p.119)には以下のようにある。

道智の話の舞台が、F(註:『渓嵐拾葉集』のこと)のみ龍窟ではなく「新田四郎人穴」とされることについて、富士浅間信仰との関連を示唆する。(中略)その上で、Fを「江島縁起」の異本と位置付ける。

このようにあるが、富士浅間信仰との関連は一読した印象としてはあまり感じない。また相模国の寺院に伝わる縁起であることから、在地性が強いという点では変わらないだろう。

むしろこの「江島縁起」を基とした物語に富士山信仰が合流したものが『富士の人穴草子』ではないかという風にも思えてくる。『渓嵐拾葉集』と『富士の人穴草子』の共通点として、以下のようなものが見いだせる。

  • 洞穴が「人穴」であること
  • 新田四郎の名が見えること
  • 人穴に、女性の姿をした人ならざるものが居る
  • その者を通り過ぎること(または相対すること自体)が怒りに値することである
  • 相対した者は災いをもたらす存在という認識を持たれている(『渓嵐拾葉集』の場合「此島雖至于劫燒ノ時」とあり、災いをもたらす存在と見ている)

このように、無視できない一致点がある。『人穴草子』を見ると、両者(和田・新田)同じ洞窟に入っているというのに、化身の様相が異なっている。例えば『人穴草子』諸本のうち「常信筆絵詞之巻物」の場合は、和田胤長が人穴で化身に出会った際の表現として以下のように見える(田村2021;p.37)。

かたわらを見れは、年のよはひ十七八なる女ばう、十二ひとへをひきかさね、紅のはかまをふみしきたて

一方で新田忠常の場合は、以下のように記されているのである(田村2022;p.50-51)。

御姿を見れば、そのたけ十丈計なる(中略)大じやきこしめし…

このように和田の場合は「女」とあり、新田の場合は「大蛇」となっているのである。『渓嵐拾葉集』の道智の話では本地が釈迦如来で、垂迹神は弁才天であり、その化身が龍女であった。富士山信仰の場合は垂迹神は富士浅間大菩薩となる。

この差異が、和田の場合は化身が「女」で、新田の場合は「富士浅間大菩薩」そしてその化身である「大蛇」という形で『人穴草子』に現れたようにも思える。そして通しで読んでみると、なんだか物語を張り合わせたような印象を受けるのは私だけだろうか。そのために、和田と新田両者のやりとりが見いだせないのではないだろうか。

(西野1971)では『人穴草子』は語り物として流布されたという想定がなされているが、仮に語り物であれば能「人穴」などはもっと歴史の中で演能されていて然るべきである。しかしあまり流行していたようには見えない。私は、語り物であったとは思えない。

諸本を検討する必要性はあるが、時間を要する作業となる上に環境も整っていないため、今回は1つの想定を示すに留まりたい。しかし人穴の歴史を考える上で『渓嵐拾葉集』の存在が等閑視されている感が拭えず、あまり実像に迫ることが出来ていないように思える点は危惧される。

  • 参考文献
  1. 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
  2. 田中亜美(2021)「「江島縁起」の諸本と研究史」『論叢アジアの文化と思想』、アジアの文化と思想の会、104-125
  3. 田村正彦(2021)「絵巻『冨士の人穴』(「常信筆絵詞之巻物」)について その一」『日本文学研究』60、大東文化大学日本文学会、31-43
  4. 田村正彦(2022)「絵巻『冨士の人穴』(「常信筆絵詞之巻物」)について その二」『日本文学研究』61、大東文化大学日本文学会、45-57

2026年5月20日水曜日

『渓嵐拾葉集』と『富士の人穴草子』との関係を考える

『渓嵐拾葉集』巻三十七「弁財天縁起」江島縁起事(『大正新修大蔵経』七六)には、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うといった内容が記されている。

葛飾北斎「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)

該当箇所は以下の部分である。


一。武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)。次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)。次道智法師彼島ニ籠テ奉誦法花經ヲ。其時ハ備飾饍。日本國女形テ薄衣ヲ著テ毎日ニ影向ス。道智龍女行方ヲ爲ニ知カ。藤ヲ衣ノスソニツク。遙尋行之程ニ。新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。此島雖至于劫燒ノ時藤ヲオホサント誓也(云云)。


諸本のうち反町本には「江島縁起事」「武烈天皇御宇」はない(藤原2011;p.14)。『渓嵐拾葉集』の作者である光宗は、『元応寺列祖帳』によると健治2年(1276)生まれで、観応元年(1350)没であるという(田中2003;p.7)。『渓嵐拾葉集』の執筆開始は延慶2年(1311)からである(田中2003;p.9)。

多くの諸本があり(田中2003;p.43-50)、転写本を原本として近世に編纂されたものも多い(田中2003;p,53)。しかしテキストとしては、光宗によるものと考えることが出来る。この年代の人穴の記録であることを考えると、十分に注意が払われる必要性があるが、これまであまり指摘されてはいない。

「武烈天皇御宇ニ泰澄大師彼島ニ籠テ行ル之。二臂天女ニテ二天具シテ我常ニ寂光土ニアリト(云云)」の箇所に関しては、(田中2022;p.74)によると弁才天の本地が釈迦如来であることを示すという。

また「次役行者伊豆大島ニ流サレテ御座時ニ。彼島上ニ五色ノ雲靉靆ス。具二童子籠テ被行之。六臂ノ天女乘龜具童子。我常ニ靈山ニ有也(云云)」の箇所も、本地が釈迦如来であることを示すものという(田中2022;p.73)。

人穴に関する部分の意訳は、以下のようなものである。


道智法師が「かの島」に籠っていた際、法華経を読誦していた。その際は飾饍を備えていた。すると薄衣を着た女形の者が毎日姿を現すようになる。道智は龍女の行方を知るため、藤を衣の裾につけ追った。長い間にわたり龍女を追い、やがて新田四郎の人穴という所へと着いた。その時龍女は怒り、「この島が劫焼に襲われるようなことがあっても、藤で覆われる程までに戻すだろう」と誓いを述べるのであった。


道智法師が籠っていた「かの島」および龍女が言う「此島」とは、江島のことである。つまり江島が人穴に通じているという伝承は、14世紀前半にまで遡ることができるのであるそしてこの「龍女」は、弁才天と同一視できるものであろう。

そしてこの内容を見るに、『富士の人穴草子』との近似性は感じずには居られない。順序等は異なるとはいえ、人穴にて人ならざるものと対峙し、また最終的には怒りを買うという点で共通している。そして人穴に至った所で様相が一変していることから、人穴という場所に意味があるのである。

作者の光宗は「記家」とよばれる学僧であり、記家は中世の天台宗に生まれた独自の職掌であったという(田中2003;p.22)。そしてこの天台宗との関係を想定したものに(富士宮市2026;p.194)があり、以下のようにある。


加えて注目されるのが、室町時代初期の仏教説話集『三国伝記』最終話の「富士山事」との関わりである。『三国伝記』において、黒駒に乗って富士山に飛翔した聖徳太子が山頂の霊窟の穴に入り、大蛇と出会う光景は、新田が富士の人穴に入り浅間大菩薩の化身である大蛇と出会う場面と酷似し、『三国伝記』からの影響がうかがえる(小林2001)。これにより、近江を中心とした天台談義所のネットワークのなかで成立し、東国の伝承を広く取り込んだ『三国伝記』を原型として、『富士の人穴草子』が成立した道筋を想定できる


このようにあるが、そうだろうか。『三国伝記』を原型とするという想定であるが、『三国伝記』の成立は『渓嵐拾葉集』より時代を後にするものである。内容を見ても近似性は『渓嵐拾葉集』の方にある。したがって、『三国伝記』を原型とするとは思えない。

また、近江を中心とした天台談義所のネットワークのなかで成立したとも思えない。あくまでも『三国伝記』成立の背景としてに留まるものであろう。

「彼島」が江島を指すことから、人穴は早い段階で『江島縁起』の中にあったと言える。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。


卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

このような江島と人穴が繋がっているとの認識は相当に遡ると考えられ、『渓嵐拾葉集』はその影響を受けたものの1つと見て良いのではないだろうか。

  • 参考文献
  1. 田中貴子(2003)『『渓嵐拾葉集』の世界』、名古屋大学出版会
  2. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  3. 藤原重雄(2011)「反町茂雄氏所蔵『渓嵐拾葉集』弁才天部(翻刻・解題)」『神々のすがた・かたちをめぐる多面的研究』(島根県古代文化センター調査研究報告書)、14-17
  4. 田中亜美(2022)「文献と造像にみる弁才天と仏・菩薩・神との習合 -江島縁起を起点に-」『多元文化 11』、早稲田大学多元文化学会、67-93
  5. 市史編さん委員会(2026)『富士宮の歴史 通史編Ⅰ』、富士宮市