2023年7月5日水曜日

織田信長の富士遊覧、中道往還の富士の巻狩の地を巡った信長と接待役の徳川家康

今回は織田信長の富士遊覧について解説していきたいと思います。この「富士遊覧」を調べてみると、『どうする家康』と『鎌倉殿の13人』をミックスさせたような感覚となる。それがどういうことかを含め、見て頂きたいと思います。 

【はじめに】

織田信長

"織田信長による富士遊覧"は、『信長公記』という史料に詳細に記されている。また詳細は記されないまでも『家忠日記』にも動向が確認される。織田信長は甲州征伐で武田氏を滅ぼした後、その帰路で中道往還を縦断する。中道往還を下(駿河国方面)に降る場合、富士山の全景が見える格好となる。以下は、『信長公記』の該当箇所の冒頭部分である。


富士の根方 神野ヶ原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ 高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり


信長は甲斐国の「本栖」を過ぎ駿河国の「神野ヶ原」「井出野」に入ると、富士遊覧を行っている。ここは現在の静岡県富士宮市である。安全圏の駿河国に入ったことで信長一行は完全に休憩モードとなっており、小姓らに至っては馬に乗りはしゃいでいる。※この「神野」と「井出」という地名を覚えておいて下さい。非常に重要な部分となります


静岡県富士宮市一帯(図1)※この時代「村山道」はありません

その一連の記述(『信長公記』天正10年4月12日)を以下に掲載する。


四月十二日、本栖を未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり

同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さる。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。

此の表くはしく御尋ねなされ、うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。

今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。

大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上。家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。

四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ、富士川乗りこさせられ、神原に、御茶屋構へ、一献進上候なり。


分かりやすくするために、ルートを書き出してみる。


本栖→(ここから駿河国)→神野・井出→人穴→浮島ヶ原(※)→大宮→浮島ヶ原→富士川渡河→蒲原


『家忠日記』の天正10年4月12日条を見ると「十二日庚子 上様大宮まで御成候」とある(上様:織田信長)。従って、『信長公記』と『家忠日記』の内容は一致していることになる。

以下では、これらについて詳細に解説をしていきたいと思う(※は誤記と思しき箇所)。

-------------------------------------------------


  • 織田信長の富士遊覧の地は「曽我兄弟の仇討ち」の地でもある


あまり知られていないようですが、実は

「織田信長の富士遊覧の地」=「曽我兄弟の仇討ちの地」


です。少し懐かしいですが、「鎌倉殿の13人」のHP資料を一部見ていきましょう。




NHKが「駿河」とすべきところを誤って「駿府」と書いてしまっていますが、曽我兄弟の仇討ちは「駿河国富士野」で起こったことです。


こちらは「駿河富士野」と正確に書いていますね。そしてこの「富士野」ですが『吾妻鏡』に

曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す(建久4年(1193)5月28日条)

とあります。…気づかれた方もいることでしょう。織田信長が富士遊覧を行った地として記される「神野ヶ原」の「神野」が出てきています。また『曽我物語』には

駿河の国富士野の裾、伊出の屋形(真名本『曽我物語』)

と「伊出」(井出)が登場します。もうお気づきのことでしょう、『信長公記』に出てくる「井出野」のことです

真名本『曽我物語』巻第七(妙本寺本)にみえる「伊出の屋形」


つまり織田信長の富士遊覧の地は、曽我兄弟の仇討ちの地と同じなのです。この地は『吾妻鏡』『信長公記』の他、『曽我物語』『富士野往来』といった多くの史料に登場します。


仮名本『曽我物語』(太山寺本巻第五)より

つまり大河ドラマ2作連続で同じ地域が、しかも大河ドラマ1話分に相当する規模で登場していることになります(「どうする家康」の方はどこまで出てくるかは分かりませんが)。もう上井出・神野は大河ドラマの常連地域のような勢いですが、これは偶然のようで偶然ではないように思います。富士の巻狩について(木村2018;p.19)は

では、なぜ、頼朝はわざわざ富士山麓の2箇所で巻狩りを行ったのだろうか。これは、近年、海老沼真治がそのルートを含めて詳細に検討しているように、藍沢と神野が甲斐国から駿河国・東海道へ出る2本の主要な交通路の出口であったからである。(中略)まさに甲斐源氏の甲斐国への封じ込めである。


としている。そして戦国時代も主要な交通路であることは変わりなく、だからこそ信長はこの街道を用いたのであり、そして駿河国を領することになった家康が対応しているわけです。なので2作連続で上井出・神野が登場したのは、偶然のようで偶然ではない。歴史の逸話がそもそも多い地域というわけです。徳川家臣団による「富士山木引」も、上井出の地ですね。


源頼朝(『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」より)

そして『信長公記』に「昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井出の丸山あり」とあるように、富士の巻狩の際に源頼朝が狩倉の屋形を立てた「上井出の丸山」があったとしています。

  • 信長一行が休んだ「人穴」とは


「人穴」は世界文化遺産富士山の構成資産である「人穴富士講遺跡」にある洞穴のこと(図1の23)。中道往還沿いに所在し、ここに御茶屋が立てられ、信長一行は休憩した。


仁田忠常を描いた武者絵、左は富士浅間大菩薩が示現した様子


人穴も『吾妻鏡』に登場しており、良く知られている。その箇所を記す。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)


「是浅間大菩薩御在所」の箇所は特によく知られているが、つまりは源頼家の富士の狩倉で登場する地である。

人穴(『文武ニ道万石通』より)


こう考えると織田信長は、意図的に「富士の巻狩り/狩倉」の史跡巡りをしているようにも思える。つまり織田信長の富士遊覧というのは、「富士の巻狩」(建久4年(1193)・源頼朝)「富士の狩倉」(建仁3年(1203)・源頼家)の史跡巡りが主軸であった可能性がある。

  • 富士山本宮浅間大社の社人の登場

信長が富士遊覧を行っているこの「富士上方」の地で最も有力な存在というのは、駿河国一宮の富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)であり(図1の2)、その上位神職を務める富士氏である。

この時点での富士氏当主は富士信通であるが、先代の富士信忠は大宮城(富士城)の城主であった。

富士山本宮浅間大社(『絹本著色富士曼荼羅図』)


「大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる」の部分は、富士浅間宮の社人が道を掃除するなどして受け入れの準備をし、そして信長一行を出迎えたことを示す。甲斐の武田氏も滅び、織田信長の台頭が確実視されたことで、富士浅間宮の社人らは迎合する姿勢を見せているわけである。

  • 名所「白糸の滝」



名瀑である「白糸の滝」。世界文化遺産富士山の構成資産でもある(図1の24)。この時代から名所として知られていたことが伺えます。ただ書き方からすると、実際は訪問していないように思う。

  • 頻出する「大宮」について

『信長公記』によると12日の日程として「うき島ヶ原にて御馬暫くめさられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ」とあり、浮島ヶ原から大宮へ移ったとしているが、これは疑わしい。

何故なら「四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山左に御覧じ」とあり、翌13日に大宮を発ち浮島ヶ原へ向かっているためである。これでは

神野ヶ原・井出野→人穴→浮島ヶ原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

という、行ったり来たりの相当な無駄足になってしまう。足高山(愛鷹山)は浮島ヶ原から見える山であるから、13日に浮島ヶ原へ向かったのは肯定できる。従って、人穴の後は浮島ヶ原には移動していないであろう。この箇所は誤記であると考えられる。

もう少しこの誤記の背景について考えてみたいが、ここは浮島ヶ原ではなく「万野原」ではないだろうか。というのも羽倉簡堂『東游日歴』に

萬乃原、天正中、織田公甲南下令親兵試馬處

とあり、織田信長が富士遊覧の際に自身の兵に訓練を命じた場所として記されているためである(井上2017;p.69)。羽倉簡堂は書物等からこの知見を得ていたのではないだろうか。であるとすると、以下の道順となる。

神野ヶ原・井出野→人穴→万野原→大宮→浮島ヶ原→蒲原

この場合、何の違和感もない。

そしてここで、別のややこしい問題がある。「大宮」が何を指しているのか定かでない部分がある。大宮は、以下の2つの意味がある。

  1. 地名としての大宮(富士大宮)
  2. 富士浅間宮(富士山本宮浅間大社)

大宮が頻出するので、以下で一覧化した。

「大宮」の箇所
大宮の社人、杜僧罷り出で(①)
大宮に至りて御座を移され侯ひキ(②)
身方地、大宮の諸伽藍を初めとして(③)
大宮は要害然るべきにつきて(④)
四月十三日、大宮を払暁に立たせられ(⑤)

私は、これらすべてが「富士浅間宮」を指すとは思えない。『信長公記』は「本栖を未明に出でさせられ」「田中を未明に出でさせられ」といった書き方をしているが、⑤の「大宮を払暁に立たせられ」の場合も地名としての「大宮」を指しているように思われる。

④の「大宮は要害然るべきにつきて」も、「富士大宮の地は要害であるので」という意味で解釈したほうが自然であると考える。

  • 北条氏の動向

北条氏政

織田信長による甲州征伐に呼応した北条氏の動向も『信長公記』は記している。

今度、北条氏政御手合わせとして、出勢候て、高国寺かちやうめんに、北条馬を立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火候。

興国寺城・鐘突免(共に静岡県沼津市)に陣を張った後出陣し、中道往還や駿州往還を進んで味方地の富士大宮の伽藍等をはじめとして本栖まで火を放ったとある。

「中道」とあるのが、今回信長一行が通ってきた中道往還のことである。「駿河路」とあるのは、武田信玄の駿河侵攻時に武田軍が用いた「駿州往還」のことである。富士上方はこの2つの街道が通る。

  • 接待に奔走する徳川家康

家康が並々ならぬ姿勢で接待をしていたことが分かる箇所が、以下の部分である。

大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それぞれの御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず

家康は富士山本宮浅間大社の社内に「御座所」を設けたわけであるが、わずか一夜の滞在にも関わらず、装飾すらも怠らない念の入れようであった。

徳川家康


御座所には金銀をちりばめ、御陣宿も抜かりなく建て、その四方に小屋を懸けおき、食事も豪華なものを用意したわけである。家康渾身の接待であっただろう。信長による安土での饗応の「対」をなすものと言って良いかもしれない。

  • 信長による礼

家康による渾身の饗しに対し、信長は返礼品を与えた。

品物詳細
脇指作吉光
長刀作一文字
黒駮


「何れも御秘蔵の御道具なり」とあり、相当な名品であることは間違いないだろう。この品々が現存するかどうかは私の方ではよくわからないが、家康の饗応はとりあえず成功と言えそうである。

翌日の13日には信長一行は富士大宮を出立している。その後は浮島ヶ原に向かい愛鷹山を見た後(これが東端となった)、富士川を渡河して蒲原へと移動している。

  • 参考文献
  1. 『改訂 信長公記』(1965),新人物往来社
  2. 木村茂光(2018)「頼朝政権と甲斐源氏」,『武田氏研究』58号
  3. 海老沼真治(2015)「甲斐源氏の軍事行動と交通路」,『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,戎光祥出版
  4. 井上卓哉(2017)「登山記に見る近世の富士山大宮・村山口登山道」『富士山かぐや姫ミュージアム館報』32号,

2023年6月22日木曜日

私が富士宮市郷土史博物館構想に賛成する条件

「博物館シリーズ」の最後の投稿となります。


【はじめに】

近年の富士宮市の取り組みを見ていると、従来のそれとは一線を画していることが分かる。一例を出せば、以下のようなものもそうである。

武将の家紋 何が出る? 富士宮市公認ガチャ「100パターン」 /静岡(毎日新聞 2023/6/15 地方版)
 富士山の世界文化遺産登録10周年と今夏の開山を記念して、富士宮市は、地元ゆかりの戦国武将の家紋をあしらったマグネット入りのカプセル玩具の販売を始めた。イオンモール富士宮に期間限定で自動販売機を設置した。
 市の名前にちなみ、「宮ガチャ」と名づけた。1個200円で、自販機にお金を入れてレバーを回すと全7種のうちどれかが出てくる。マグネットには、徳川家康や織田信長の他、今川、武田、北条、富士各氏いずれかの家紋か富士山がデザインされている。(抜粋)


実際にイオンモール富士宮へ行ってみた。


記事に「富士」とあるように、ガチャには富士氏も含まれている。富士氏の人物はゲームなどには登場する一方で(『戦国大戦』/『戦国IXA』/『信長の野望』等)、何故か富士宮市側からはアピールする試みがあまり無かった。ゲームに先を越されている印象すらあった。これからもっとアピールされていくことを期待したい。

ちなみにガチャの中の説明文(ここでは富士氏)はかなり誤っている。「古代から大宮浅間神社の神職「大宮司」を勤め」とあるが、古代に「大宮司」という神職があったかどうかは不明で、系図ではむしろ南北朝時代まで遡るのがやっとという感じです。

「守護大名の今川氏に従っていた」とする説明もかなり問題で、まず聞かれない解釈です。今川氏に従ったのは16世紀頃と言え、守護大名の頃はそのような関係性にないという見解が一般的です。その頃の富士氏は、あくまでも室町幕府に忠誠を誓う立場なのです。この部分については(佐藤1967;p.106)の見解に従いたい。

また以下のチラシも、関心を寄せるところである。



「富士山の玄関口」と各地で標榜する例が散見される中、正真正銘「富士山の玄関口」である富士宮市は何故言わないのだろうか…という疑問はずっとあった。しかしここにきてやっと、当たり前のことを当たり前に標榜する動きが見えてきた。良くも悪くも、他はもっと泥臭くやっているのである。

富士宮市のシティープロモーションは新章に入った…そんな感じすら覚える

私は単に自治体としての「富士宮市」として見た時、そもそも通常業務が淡々となされていれば問題はないと考える立場である。勿論応用的な動向があれば尚良いのは間違いないが、それを強要しようとは思わない。多くの市民は、自助努力で何とかすべきものすらも、市役所に強いているように私には映る。それによって他の業務に支障が出ているとするならば、被害を受けているのは何を隠そう他の市民だろう。であれば私は、市役所ではなくそれを強いた市民の方を咎める他あるまい。

市役所は万事屋では無い。そんな中で上で言うところの"応用的な動向"をしてくれるのは有り難い話であるし、評価されるべきであろう。視点を移して「博物館構想」を考えてみたいが、こうなると話は違ってくる。通常求められるものは当たり前に要求されるようになってくる。それなりのお金が動くことになるのだから、当然である。

しかし私がみるところ、現時点で歴史を巡る状況は全くもって疎かとしか言いようがない。従って、過去「博物館シリーズ」と言えるものを投稿したわけである。

「博物館シリーズ」の投稿においては、合計「883アクセス」を頂いた(6月12日現在)。


勿論、この数字は大きいものではない。そもそもこのブログは、メインブログ(過去運営していたブログで現在は削除)の1/10のアクセスも無いのである。


また個別記事のアクセス数でいっても、TOP3のものと比べると僅かである。これすらもメインブログ時代のTOP3と比べれば僅かなものと言えるのであるが、私は「富士山の短歌たち」という記事の3.25万よりこの883の方がずっと価値があると思っているし、実際数字の差以上に持つ意味があるだろう。

この構想について考える中で思うのは、博物館を作るにしてはそもそも歴史関連の課題が多すぎることである。にも関わらず、説明会の資料等を鑑みるに、ソフト面での問題が無いかのように振舞われているという違和感がある。

多くの問題の根幹にあるのは「土壌が出来ていない」という点にある。ダショー・ニシオカではないにせよ、圧倒的な時間的猶予の中でもっと土壌づくりをするべきだった。圧倒的な不足を感じる。そのような中で博物館構想を掲げているので、人に不安を抱かせている。

この記事では課題を以下の6つに分け、それぞれ考えていきたいと思う。


  1. 歴史コンテンツの非力さ
  2. 造語の整理
  3. 歴史コンテンツの改善
  4. 富士宮市の歴史を掘り起こす絶対量を増やす
  5. 知的財産権を守る
  6. 大衆に向けた取り組み

【解説】


  • 歴史コンテンツの非力さ


問題点として真っ先に挙げられるのが「歴史コンテンツの極端なまでの非力さ」である。富士宮市に関連する歴史キーワードを検索エンジンで検索しても、富士宮市のHPは一切出て来ないという、お馴染みの問題である。

殆どのキーワードでそのような状況であり、もう全く機能していないと言っても過言ではない(歴史分野で確認される現象です)。もしページが存在したとしても、それが上位でなければ、存在しないのと同じです。そもそも官公系のHPは優遇されていて、検索で上位に来るようになっており、出来レースくらいの相当なアドバンテージがあります。にも関わらず出てこないということは、相当深刻な致命的欠陥があるからに他ならない。

現在の大河ドラマは「どうする家康」であり主人公は徳川家康であるが、ここで家康に最も近接したと言える富士宮市の人物「井出正次」を例に検索してみましょう。



見て分かります通り、もちろん富士宮市HPが上位に出てくることはありません。むしろ三島市のHPが出てくるような状況です。正次は三島代官を務めていたので、三島市が取り上げてくれているんですよね。このように、しっかりページを用意していれば、確実に上位に表示されるようになっています。

その後は個人ブログなどが連なっており、「富士おさんぽ見聞録」さんといった富士地区の歴史を取り上げたブログも上位です。ちなみにこのブログは2014年より休止しています(とても良いブログですし、復活を期待しています)。その場合、通常は検索順位は相当落ちます。それでも上位ということは、アクセスが担保されているか、そのそも競合が少ないからでしょう。

有り体に言えば、本来「競合」となるべきはずの富士宮市HPが死に体なので、そもそも同じ土台に上がって来れないのでしょう。こういうものは、1つ1つのキーワードのレベルで考えなければなりません。つまり、富士宮市は井出正次を知ってもらおうという気が全く無いということになりますいくら御託を並べても、現代の人間は「検索」から入るので、この言い方が適切です

私はこれまで、富士宮市に関わる歴史キーワードを多く検索してきました。慣行になっているので、相当の時間を費やしたように思う。しかし富士宮市のHPが上位に出てきたという経験は、そうない。そして去年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。では「曽我兄弟の仇討ち」で検索してみましょう。



そもそも曽我兄弟の仇討ちは富士宮市で起こったことなのですが、舞台の地に隣接する富士市のHPが一番上位です。官公のHPは優遇されているので、トップに行きやすいです。その他、UIも優れている小田原市のHP等が出てきますが、富士宮市のHPは相当に下らないと出てきません(最低最悪のUIです)。これも単純に、富士宮市が悪いのです。他の地方自治体が出来ていることなので、言い訳は出来ません。私はこのような現象を「非力」と言っているわけです。すべての用語で、このような調子です。

富士宮市の人物・出来事であっても存在感を消している富士宮市。全く笑えない状況が、一向に改善されないまま野放しにされています。15年くらい感覚が遅れているような感じがしますね。


  • 造語の整理


富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」で記したように、富士宮市のHPや刊行物でしか見かけないような造語が多く、第三者による精査が必要ではないかと考える。調べてみると、想像以上に深刻な状況であると感じています。

例えば富士宮市HPでよく見かける「首標」という言葉ですが、結論から言えば、そんな言葉は存在しない。御神幸道の石碑に「自当社山宮御神幸道五十丁証碑也」とあることから作った滅茶苦茶な造語かと思われますが、あまりにも好き勝手な造語化は歴史学的にも推奨されるものではない。こういう部分も、おざなりなんですよね。

『浅間大社遺跡 山宮浅間神社遺跡』(2009)という、静岡県埋蔵文化財センターによる報告書がある。これも富士宮市教育委員会が執筆に関与したと思しき箇所に限って、かなり違和感のあるものとなっている。

報告書内に「浅間大社年表」というものがあるが、「富士大宮司氏」とか「富士大宮司内分裂」といった意味がよくわからない用語・文章がある。いつも思うのであるが、富士大宮司というのはその時ただ1人だけであって、しかも富士氏の当主が名乗る神職名であるので、「富士大宮司内分裂」とか「富士大宮司氏」などという概念は存在し得ない。このように、造語だけに留まらず概念までも新たに形成している。

その時1人しかいない富士大宮司を指して「富士大宮司氏」と言っているのであるが、富士大宮司は富士氏の一側面に過ぎないのである。つまり「富士氏=富士大宮司」ではないのに、富士宮市HPはそのような書き方になっており、かなり問題のある記述となっている。この種の記述を止めるに至らない環境そのものが大問題であろう。誰が見てもおかしな記述なのですから。これが2009年という時代に罷り通っていたことを考えると、本当に想像以上に深刻であると言えます。

『岳南朝日新聞』の2018年10月24日付の記事に「歴史を軽んじてはならない」と題した投書が掲載されていた。内容としては、『富士・富士宮の昭和』(2018年8月)という刊行本に対するもので、時代比定があまりにもおざなりであるという指摘である。

実は私は、この本を10秒ほどめくったことがある。パラパラめくると、山部赤人の短歌が紹介されているページでとまった。そして直ぐさま、その和歌が誤りであることに気がついた。10秒でこれなのだから、しっかり見た人からすれば、相当な代物なのだろう。そしてその監修者は富士宮市文化財保護審議会委員であるという。




また「元富士大宮司館跡」という言葉も、笑止千万である。この場所は過去を辿ると「大宮城」であったわけであるので「富士大宮司館跡」では無い。ここに無理矢理「元」をつけたわけですが、あまりにも常識から外れた呼称である。

用語の一括整理をし、望ましくないものは修正すべきであると考える。


  • 歴史コンテンツの改善


富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」で記したように、「歩く博物館」の資料の酷さもさることながら、HPのUIは酷いを通り越して呆れるばかりである。一例として、富士宮市の代表的存在である富士山本宮浅間大社の紹介部分(「山本勘助ゆかりの地 -山本勘助とその時代-」より)を見ていきましょう。



このように、もう全く読ませる気がないのであって、その上で「関心を持ってもらいたい」みたいなことを述べても、説得力は皆無である。一例として、以下に小田原市HPを掲載してみます。



なんと美しいことでしょう。表化すべき箇所は表化され、文章は見やすく改行され、文字の大小も工夫され、文章もスマートであり、写真も綺麗である。富士宮市はこれらすべてが備わっていない。写真も多くは酷いものである。こういうものを改定しようとする動きも、全く認められない。とてつもなく、意識が低いのでしょう。

また近年の歴史コンテンツは別として、従来の歴史叙述は内容が問題であり、修正が必要であろう。「歩く博物館」の説明文も疑問を感じるものが多い。個人的主観があまりにも強すぎる。



この「当時の富士宮市は今川氏の勢力範囲内でしたが、そこには武田氏の勢力も寺院に御本尊を奉納するというように、この地域は今川氏・武田氏・北条氏の勢力が拮抗する所であったといえます」の部分には戦慄を覚えた記憶がある。

このような酷い記述が罷り通っているので、相当の箇所で修正が必要であることは間違いない。


  • 富士宮市の歴史を掘り起こす絶対量を増やす


私は様々な場面で「富士宮市は何故〇〇の歴史を取り上げないのだろうか」と疑問に感じることが多く、それは枚挙に暇がない程である。郷土資料館の展示会の傾向も、相当に偏っている(近年は異常な状況から少し是正されている)。それらについて、通常とは少し異なる角度から迫りたいと思う。

論文・論考を作成するにあたり第三者より意見・見解を伺ったりした場合、末尾等に「謝辞」という形で感謝を示した上で発表されることが多い。マナーとして行われるものである。

私は過去の記事で、富士信章と荷田春満による富士登山の際の記録に「室・石室」が頻出することを述べた。その中で、石室・山小屋についての研究報告を多く行っている奥矢・大場氏による論考類を参考文献として挙げた。と同時に、それなりの数に上る奥矢・大場氏による論考類に上のような事例が全く登場していないことに違和感を覚えた。これほど良質な材料であるのにも関わらずである。

(奥矢・大場 2019)によると、謝辞から「富士宮市埋蔵文化センター」が調査に協力したことが窺い知れ、普通の感覚であれば一応当人たちに伝えられるはずである。無論、あくまで建築学的見地から迫ろうとしている奥矢・大場氏が論考の中であえて記していないという可能性もある。それならば、何ら問題はないだろう。

しかし私はここで別の可能性を考える。それは富士宮市埋蔵文化センターから「そもそも伝えられていないのではないか」という可能性である。もっといえば「把握していない」という可能性もあるが、その場合はよく分からない。富士信章は富士氏で、富士宮市の歴史のど真ん中と言うべき部分であり、言ってみれば"富士宮市からすれば得意中の得意分野"である。その上で富士山も関係する事柄なので"把握していない"という状況自体が考えられない。

しかし普段のそれを見ている限り、それはあり得るかもしれない。その場合は単純に「富士宮市の歴史を掘り起こす絶対量を増やすべき」ではないかと思うのである。これまで幾度となく意見を伺いたいという依頼は埋文等にあったと思われるが、それらすべての質について疑義が生じる事態である。と同時に、富士宮市の媒体においても同じことが言える。


  • 知的財産権を守る


「富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える」で記したように、「富士海苔」等を例として富士宮市の知的財産権は侵されている(富士宮市に帰属すると思われるもの)。パフォーマンスだけでなく、実際の行動をして頂きたいと思うところである。

しっかりリストを作成するなどし、まずは把握するところから始めなければならない。まだ始まってすらいないという自覚を持たなければならない。

そもそも富士海苔が採れなくなったのは、水力発電所の建設が原因と各所で指摘されている。例えば(八木2012p.72-73)には以下のようにある。


ところが芝川の豊富な水量と落差を利用して、関東電力会社の水力発電所が13ヵ所も建設されて水量が減ってしまい、残念ながら芝川海苔の採取はできない状態にある。ただ、遠藤さんによると、芝川の支流半野川では今でも採れる場所があるらしい。


しかしどうだろう。現在の富士宮市の施策を見ると無制限に水力発電所を推進しているようにしか見えない。そもそもであるが、富士海苔を守ろうとしているようには思われないのである。

水力発電所建設が行政のお墨付きを得たことで「コモンズの悲劇」に近い状況を産んでおり、この点も考えなければならないだろう。


  • もっと大衆的であっていい


「歴史」という分野・コンテンツに招待したいとき、果たして展示会や刊行物だけでそれが成せるだろうか。否、だろう。以下に、富士宮市の公式Twitterのあるツイートを見ていきたい。


ここで驚くべきは、その反応の大きさである。これは巷のインフルエンサーですらなかなか達しないようなリツイート数で、世界的インフルエンサーでしかなし得ないレベルの反応である。イーロン・マスクとか、そのレベルである。

ここから富士宮市について知った人も多いであろうし、一部ではネットニュースにもなったようである。富士宮市も、こういうことが出来るのである。歴史の分野においても、もう少し大衆に向けた取り組みが必要ではないかと考える(SNSをやることを勧めているわけではありません)。

ちなみに「ふじのみや名将回顧録」「どうなる、富士宮?-戦国時代の富士宮探訪-」といった冊子の刊行・宣伝は大衆に向けた良い取り組みと言える。上でも近年の取り組みを挙げたが、以前より風通しが良くなったことは間違いない。詰まる所、従来があまりにも酷かったのである。


ちなみにですが、ペラペラ見た感じでは内容は誤った箇所も多いです。

「富士の巻狩」(建久4年(1193)・源頼朝) →曽我兄弟の仇討ちが発生 「富士の狩倉」(建仁3年(1203)・源頼家) →人穴探索

もう少し、吟味してから作成した方が良さそうです。また「名称」についても留意すべきである。

「富士山」商標権活用を 富士宮市、取得管理を支援(静岡新聞Web版2013/8/15)
ただ、富士山関連の商標は既に多くが登録されている。工業所有権情報・研修館(東京都)が提供する特許電子図書館の統計によると、「富士」「富士山」と銘打った商標は出願中を含めて160件に上る(7月18日現在)。市商工振興課の担当者は「富士山の地元でできるだけ商標を取り、活用するのが理想的。高まる需要に応えていきたい」と知財戦略のてこ入れを図る。(抜粋)


「富士」という言葉にネームバリューがあるのであれば、名称は「富士博物館」でも全く問題ないと考える。そもそも富士宮市の歴史を取り扱う博物館であれば、以下は押さえたいところである。


  • 富士金山(「麓金山」と呼び習わされることも)
  • 富士氏(富士上方の領主)
  • 富士城(大宮城の別名)
  • 富士野(曽我兄弟の仇討ち舞台の地)
  • 富士海苔(芝川海苔とも)
  • 富士川(富士宮市も流域とする河川)
  • 富士山(山梨県・静岡県に跨る山)

富士宮市の歴史は、基本的には上に属するものであると考える。富士の巻狩は「富士野」であるし、富士大宮楽市令は「富士氏」であるし、「大宮・村山口登山道」は「富士山」である。

なので「条件」として、博物館の名称は「富士博物館」や「〇〇富士博物館」とすべきと考える。「富士宮市立郷土史博物館」などという名称は、論外である。

  • おわりに


今現在携わっている方々だけで構成されたら、失敗する蓋然性は高い。「歴史」と銘打った大プロジェクトで「失敗」したら、以降はチャンスを与えられないかもしれない。であれば、今回の動向次第ではむしろ後世の可能性をも大きく狭めてしまうかもしれないのである。

"あれがあったから、もうこれ系のプロジェクトは出来ないんだよ"…という事例は全国で数多聞く。「人」が評価するのだから「人」が来なければ意味がないのに、「人」が集まりそうな取り組みが期待できない。これではどうしようも無い。私は、後世の可能性をも狭める潜在性に対し危惧する一個人である。

タイトルに対する答えは以下の7つであり、具体策を添えてみた。

項目具体的な取り組み
歴史コンテンツ上位表示化あまりにも状況が酷いため多くは望まないが、せめて代表的用語は少なくとも1ページ目に表示されるようにする
受容されると問題があると言える歴史叙述の改善すべての歴史コンテンツの文章を再読し、検分・検証する
不合理で荒唐な造語の廃止「首標」等の文言を廃止
読む側の努力が強いられることのない普通レベル以上のUI化設計を見直し、一般社会で許される範囲に落とし込む
知的財産権を守る代表格として「富士海苔」から始め、順次他に着手
大衆に向けた取り組み富士宮市の役所慣行から少し抜けた取り組み
名称問題を等閑視しない「富士」を入れる

この少ない要求すべてが確認されたとき、支持したいと考える。博物館構想に対して中立を保っている方々も、これらが概ね確認されたときは賛成に相応しい状況であると思われるので、是非スタンスを変えて頂きたいと思う。逆にそうでなければ、反対で良いと思います。

  • 参考文献
  1. 奥矢・大場 (2019)「近世富士山における山小屋建築の諸相と山岳景観」『日本建築学会計画系論文集』84巻
  2. 佐藤進一(1967)『室町幕府守護制度の研究 上』, 東京大学出版会
  3. 八木洋光(2012)「湧水の恵み」『湧水 : 富士山に消える24億トンの水の行方』(しずおかの文化新書),静岡県文化財団

2023年5月7日日曜日

富士宮市郷土史博物館構想に賛成・反対か、本当の問題点を考える

この記事にて「富士宮市郷土史博物館構想」に対する、私のスタンスを述べておこうと思います。私はそもそも構想を把握した当初より、以下のように考えていました。

例えば富士宮市による新富士駅建設費負担(約5億円)のような例とは異なり「①富士宮市に所在する」「②市の文化財を保護することができる」という面は担保されているので、強く反対する立場を積極的に取る必要はない。

あえて「構想を把握した当初より」を太字にさせて頂きましたが、この時期そのものも人によって大きく差異があると思います。そして遅かった側の人々が"私は遅かった!"と述べる例が散見されます。それに対しては、以下のように思います。

それは遅かった側にも間違いなく問題がある

「私は遅かったんだ!」と胸を張って言うことは、褒められたことではありません。平たくいえば「情報を得る能力が人より非力」というだけの話なのですから。2022年6月から7月にかけて地域説明会が数多くの会場で行われており、少なくともそれを把握していた人々より数段ないし数十段認識が遅いことになります。その遅れに対し、胸を張ってもしょうがないわけです。

その地域説明会の質問も、レベルの低さに驚きを禁じえないところであり、賛成・反対以前に異なる性質の危惧が芽生えた程です。以下は、そのほんの一例です。




こんな感じがデフォルトです。こんなもの「廃校が決定していると勘違いしていました、すみません」で済む話なのですが、素直に言えないだけでなく、更に恥の上塗りをしている。みっともない事この上ない。




会話が成り立ちません。




まず人として身につけなければならないものがあると感じます。




ちなみに富士山世界遺産センターも「公園をつぶして整備」したものですが、私は見事な計画であったと思っています。




「あなたはそうかもしれませんが…」としか言いようがないですよね。




上の方もそうなのですが、何故そんなに廃校させたいのかが分からない。この説明会には廃校活動家みたいな人たちが沢山来ています。こんな偏屈な意見が偶然に重なるのは妙であるので、廃校活動家の集まりが存在し、この説明会の場に一堂に会しているのでしょう。

そもそも「賛成」であろうが「反対」であろうが自由なのですが、質問レベルが低いのはまた違った問題となってきます。このように正直"(情報を)把握していようがいまいが、どちらにせよ生産性はない"と感じさせられています。このくらいレベルが酷いと、意見を集約させるにしても、デルファイ法くらいでないと意味がない。

なかなか難しい議題であるので、私の方からは以下の4つの観点からこの構造を紐解いていきたいと思います。

  1. 市民の気質面の問題点
  2. 富士宮市の歴史知見の問題
  3. 「歴史」をめぐる環境の問題点
  4. 行政側の問題点

その上で皆様と、この構想について考えていきたいというのが、私の提案です。

  • 市民の気質面の問題点

まず挙げられるのが「市民の問題点」です。間違いなく、これが1番上に来ると思います。富士宮市民は他の自治体の市民と比べると"客観的に物事を見る能力が劣る"部分があると思います。これは定量化するのが難しいですが、そう言える材料もあります。



平成21年5月11日に発足した「富士山ネットワーク会議」により、加盟する4市1町(富士宮市、富士市、御殿場市、裾野市、小山町)の住民を対象に2011年に"同様の"アンケートが取られました。概要は、以下の通りです。




すべて同項目のアンケートであり、配布数も人口に応じていることから、各住民の性質を知るのに極めて有用であると言うことができます。偏りのない、平等なアンケートというわけです。

例えば、富士宮市と富士市は生活圏が一致していると言われていますが、アンケート上でもそれが如実に現れています。




富士宮市が「富士市」で30.5%、富士市が「富士宮市」で25.7%ですから、正にそのように言えるでしょう(このグラフ、色が間違っています。また富士宮市で「山中湖村」が多い点も疑義がある)。

このように、実情が現れてくるアンケートなのです。そこから富士宮市民の気質に迫っていきたいと思います。では、それらを見ていきましょう。




富士宮市の「知っている」の割合は2番目に多いです。そして次が注目です。




「大いに関心」と「少し関心」が多いため、"富士宮市民は関心のある人が多い"ということが分かります。そして次も注目です。




明らかに富士宮市が突出しています。そして以下に、富士宮市民の気質が現れているような気がします。





「市町が連携する必要はない」が突出して多く、また「あまり広いエリアでの連携ではなく…」も多いため、まとめると


「期待する」とする富士宮市民が多い一方で、そうではない人は「他の市町と連携したくない」という意思が他市より根強い


このように思っていることがわかります。必ずしも悪いことではありませんが、なんとなく「生産性の無さ」が、うっすら垣間見える気がします。もっと平たくいえば「少数派の意見のアクが強い」という感じでしょうか。つまり、少数派の反グローバリズムの濃度が濃いと言えます。




このグラフで特徴的なのは「(近隣市町と生活上において)ほとんど関わりがない」の数値が低いことです(→関わりがあると思っている人が多い)。「病院や介護施設に通っている」の項目が多いことから、住民サービスやインフラが%に反映されていることが分かります。

一番上のアンケートから考察するに、富士市の病院や介護施設等に通っていると推察されます。また以下も富士宮市民の独特さを表していると言えます。




全国的に見ても特段財政が悪くない富士宮市ですが、何故か財政不安を感じていることが分かります。これは「新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」でも記しているので、是非ご参照下さい(※下部で財政について追記しました)。





これも「大いに関心がある」「関心がある」とする割合が多いです。例に漏れず、富士宮市民の変わりっぷりを表しているように思います。




恐らく、地域アイデンティティーがないのでしょうね。勿論全く違った観点からも語ることはできると思いますが、要はそういうことだと思います。





「富士宮市民だけアンケート結果、違うよね」ということが如実にあらわれています。ここまで来ると、本当に不思議です。




これは相当独特ですね。またこの結果から、以下からの質問は基本的に富士市を念頭に答えているということになります。





「財政状況が良いから」の%が大きいです。そもそも富士市は、裾野市等と比較すると、特段財政状況が良いわけではありません。もし財政状況で考えるなら、合併相手の市町は「裾野市」が選択肢になってくるのです。しかし裾野市の割合が少なかったということは、かなりの割合の富士宮市民が勘違いしているということになります(問19)。つまりここから分かるのは

富士宮市民の知識不足さ、イメージ先行型である

これが見えてくるわけです。また「親近感がある」・「イメージが良い」・「歴史や文化でつながりが深い」が有意に低いことが分かります。ここから、以下のようにも言えると思います。


生活圏は一致しているが、歴史・文化は同一ではないという意識。また親近感があるわけでもない


これって、なかなか凄いことだと思いませんか?まとめると、以下のように言えてしまいます。

親近感や良いイメージがあるというわけではないけれども財政状況に重きを置きたい気持ちが強いため距離を縮めたいが、どうやらそれすらも見当違いである

こういうことになりはしませんか?なんだか寂しい気持ちになるのは、私だけでしょうか。どう転がっても、良い結末にはならない。



これも知識不足から来るような感じがしますよね。基本的には「富士宮市」と「小山町」がちょっと特殊な傾向はあります。それでも「問18」を見てわかるように、特に一致しないのは「富士宮市」ですね。まぁ一致すれば良いというものでもありませんが。

また横の説明も少しおかしいです。"富士宮市で「市長の名前が」…(中略)が他の市町より高い"とありますが、御殿場市のほうが17.3%で高いので、一体何処を見ているのやら…と思います。



でも富士山には親近感がありそうなんですよね。富士山ネットワーク会議のアンケートから導き出された富士宮市民の気質は、以下のようにまとめられます。

  1. 富士山に関わる物事・事象へのアンテナはある
  2. 「連携を必要とする物事」に賛同しない層の意見のアクが強め(少数派の反グローバリズム的志向が強い)
  3. 地域アイデンティティーが無い(と推察される)
  4. 知識不足・イメージ先行型
  5. 「生活圏の一致」と「文化・歴史」の棲み分けがはっきりしていることから、意識の境界線が明確である(サバサバしている?)
  6. 文化人類学な意味での「文化」の軽視傾向
  7. 財政状況がとてつもなく悪いと思っている

これを博物館構想と結びつけた時、"かなり相性が悪そうだ"と言うことは許される範囲でしょう。ただこれは市民の知識不足が主要因であると思われるため、当然是正すべきは市民の方でしょう。富士宮市民は「ネガティブな方に勘違いする天才」と言えそうです。

富士宮市が本当に博物館を作りたいのであれば、実はこちらの方面からアプローチをする方がよっぽど早い。博物館の必要性を語るのではなくて(それも必要であるが)、市民個人の立ち位置を気づかせてあげる必要性がある。

つまり「①財政状況は特段悪くない」「②(あなたの)地域史の知識はかなり限られたものである」ということを直接的ないし暗に伝える必要性がある。10年、20年、30年、40年、50年、60年住んでいようが、自分から物事を調べない人は全く知見が深化していかない。増えるのは"驕り"だけである。なのでそもそも廃校予定かどうかも調べず廃校予定前提で質問するのであり、有り難い情報を得ても驕りから素直に受け入れられないのである。

  • 富士宮市民の歴史知見の問題

まず、昨年催された「全国高校生歴史フォーラム」の応募タイトル一覧を見てみましょう。



ここに「富士氏による富士宮地域の支配とその性質の変化~富士山本宮浅間大社大宮司・富士氏の盛衰に着目して~」という研究があります。これは静岡県立富岳館高等学校によるものです。富士宮市で「歴史」と言えば、やはり富士氏が想起されると思います。

ここで一旦立ち止まって考えてみましょう。もしあなたが、高校生の研究の対象にもなった「富士氏」を知らなかったとします。その場合、あなたはお世辞にも"地域のことを分かっている"と言える位置づけにはありません

勿論、歴史に対する知見がなければ博物館構想に対する意見を述べてはいけないというわけではありません。むしろ、全く問題ないでしょう。しかし仮に相応の年数住んできて富士氏という存在自体を知らないとなると、何か抜けているといいますか、物事や知見を吸収する中で多様性は無さそうだと言っても過言ではないと思うのです。であればそのような層からの意見は如何ほどのものであろうか、と思わざるを得ないわけです。むしろそのような人々こそ、博物館等から知見を吸収する意義があるとさえ思えます。

「歴史」という言葉を聞いて、堅く構える必要性は全くないでしょう。あなたの日常生活や地域の何気ない文化から考えても良いのです。


例えばこれは富士市のHPから取得したものですが、本文にあるように落花生をゆでて食べるのは本当に富士市だけでしょうか?あなたの家庭や親戚の食文化を考えてみましょう。

何気ないことですが、もうあなたは「文化に対する考察」をしたことになりはしませんでしょうか?実際なっていると思いますし、本当に小さいところから考えてもよいと思うのです。

  • 「歴史」をめぐる環境の問題点

郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」で詳細を記したように、過去に山梨県側の学芸員により富士宮市の歴史が不当に低く評価される風潮がありました。無論こんなことは、一般市民が知るところではないでしょう。しかしここで重要なことは、"人員・研究の有無は人々が思う以上に多くの影響をもたらす"ということです。

単純に媒体等で研究報告をするためには、「材料および人員」が必要となります。その「材料」と「人員」は、勝手に湧き出てくるものではありません。これを成立させるためには、少なくとも以下の環境が必要となります。

  1. 材料:歴史史料の保存・収集・活用の体制
  2. 人員:学芸員の雇用
  3. 場所:研究するための物理的な場所

これらが富士宮市は整っていないため研究がかなり遅れていたという事実があり、県外の博物館の企画展等の報告や外部の研究者の研究報告等でなんとか賄われてきたというのが実際のところです。富士宮市の内側からの成果は、特に富士山に関しては、限られたものであったと評価するしか無いと思います。なので「好き勝手言われる状況を許していた」とも言えるわけです。

富士山が世界文化遺産に登録されてから10年が経過しようというところですが、波及効果として構成資産に多くの観光客が来訪しています。この構成資産の選定ですが、以下のように言うことができます。


構成資産は、確実に研究の有無に左右されている


これは間違いないと思われ、また正常なメカニズムとも言えると思うのですが、その証左として


富士市には単独の構成資産がない


という事実が挙げられます。そもそも富士市は、構成資産になり得る資産自体があまりありません。そして、富士山に関わる研究も進んでいませんでした。それを富士市も重々承知していて、世界文化遺産登録運動の最中に研究を加速させましたが、構成資産選定には漕ぎ着けませんでした。私には"これ以上は難しいだろう"というレベルで研究を加速させているように見えましたが、やはりそれでも手が届かない。そういう世界なのです。

ですから、富士宮市は危なかったのです。外部の研究がなければ、構成資産もかなり制限されていたことは言うまでもありません。例えば「白糸の滝」も、実際のところは"指定されて当たり前"ではないのです。この辺りを市民は全く誤解していると思います。

白糸の滝には、富士講碑が存在しています。そしてそれを描いた近世の絵図も残っており、それを指摘したのは外部の博物館です。その企画展の図録を拝見したとき、私は感動した。こういう蓄積があって歴史的な価値が認められていくのであり、それが世界文化遺産富士山の構成資産たる故であると言えるのです。白糸の滝に富士講碑がなく、また巡礼地としての側面も見出だせていなかったら、構成資産ではなかったでしょう。

逆にいえば、研究が豊富であれば、構成資産は更に指定されていた公算が大きい

そして構成資産指定の有無は観光客数にも雲泥の差が出てくるので、こういった地道な研究は最終的に「富士宮市の経済」にも貢献したと言うことができる訳です。しかもこの傾向は永年続くため、とてつもない貢献をしたことになります。そればかりか、TV等のマスメディアへの露出にも大きく影響しており、これは研究の賜物といって相違無い。富士宮市民は、この部分に対する意識・評価が相当に低い。正しく評価されていないと思います。

また以下は国土交通省HPにある資料ですが(富士山観光交流ビューロー作成)、富士宮市の構成資産の存在によって、富士市も恩恵を受けていると言えると思います。



一部抜粋します。


"その新富士駅も我々は約5億円も負担しているんですけどね…"と言いたい所ではありますが、富士市の「富士山観光交流ビューロー」としてはこういう考え方のようです。

博物館の存在は、研究体制の確立も意味します。間違いなく、促進させることになると思います。勿論すべての人が歴史を嗜む必要性はないですが、関心が無いとはいえ、これらの可能性すらも率先して断つ必要性は特段無いと考えます。もっと分かりやすく換言すれば


経済・観光への貢献、アイデンティティー形成の芽を潰さないでほしい


という言い方も出来ると思います。そもそも富士宮市の優位点を見出そうとする活動に対し、富士宮市民側が否応無しに制限しようとするのは、寂しいものがあります。単純に寂しい話だと思いますし、寂しい人だと思います。研究は、一般に思われるより多くの分野に影響・波及するのです。

  • 行政側の問題点

行政側の問題点も見過ごすことは出来ないでしょう。行政側の問題点は


アイデンティティーを形成する試みの無さ、歴史コンテンツの非力さ


まさに此処にあると、私は考えます。富士宮市教育委員会の方針を見れば、自ずからその姿勢も見えてくるというものです。大宮城も、表立ってアピールする試みはないです。富士宮市のこれまでの歴史の中で、行政側から「大宮城」というワードが出された絶対量が圧倒的に少ない。本当に近年になってからです。そりゃ、市民も殆どの人が知らないわけですよね。

他に一例を挙げれば、富士宮市の歴史的特産物である「富士海苔」もそうです。




辞典にも掲載される我が市に関する固有名詞が勝手に法人名にされてしまっていることに、行政や市民は何も感じないのであろうか?または手を打たないのか?

行政側にそもそも市の財産を守ろうという姿勢が見えないし、それではアイデンティティーを生む体制があるようにも思われない。これでは、市民(私)も協力しようという気持ちにはなれない。過去にこんな記事がありました。

「富士山」商標権活用を 富士宮市、取得管理を支援(静岡新聞Web版2013/8/15)
ただ、富士山関連の商標は既に多くが登録されている。工業所有権情報・研修館(東京都)が提供する特許電子図書館の統計によると、「富士」「富士山」と銘打った商標は出願中を含めて160件に上る(7月18日現在)。市商工振興課の担当者は「富士山の地元でできるだけ商標を取り、活用するのが理想的。高まる需要に応えていきたい」と知財戦略のてこ入れを図る。(抜粋)


…結論から言えば、全く動けていない。また「富士海苔の歴史」で記したように、民間が法人名や屋号を定める際に既存の固有名詞であるのかは一応の考慮がなされると思われるが、富士宮市が他が存在に気づく余地さえも提供できていないという問題がある。

そもそも富士海苔と検索しても、行政側のそれは一切出て来ません。他のあらゆる歴史キーワードにおいても、殆どそんな感じです。「富士氏」とか「富士金山」と検索しても、富士宮市のHPが出てくるということはまず無いです。コンテンツの「質」と「量」が酷すぎます(近年のものは除く)。

UIも見るに堪えない程で、全く見せる気がありません。内容に関しても、近年以外のものは基本的に眉唾ものです。また富士宮市のHPや刊行物でしか見かけないような用語も多く、かなり精査が必要であると感じています。例えば「首標」という言葉が用いられていますが、これも不思議な言葉のように思う。「元富士大宮司館跡」等もそうです。そういうところも抜本的見直しが必要であると感じています。

そもそも富士山ネットワーク会議のアンケートより、市民の中に富士山に対するアンテナが確かにあることが知られるのだから、行政側のアプローチが不足していると言える。

富士宮市議会議員もただ反対するのではなく、これらに類することを是正するなり、何か生産性のある提案でもしてみたらどうだろうか。

これらを総括して有り体に言えば「歴史に興味を持ってもらうための工夫が認められない」と言えます。近年はかなり変わってきていますが、従来のそれがあまりにも酷すぎました。ちなみに「工夫が認められない」の対象には、市議会議員も含まれます。

歴史に興味を持ってもらうための工夫こそ限られたものではありましたが、文化課もしっかり動いてはいます。例えば1993年時点で既に村山口登山道の調査報告書を出しています(このような報告書は定期的に刊行されています)。私も手に取って読みました。



TV等で「近年村山の登山道が発見された!」との言い回しで伝えられることがありますが、全くの事実無根です。文化課は確かに動いていて、当時より村山口登山道がしっかり認識されていたという事実は、全く揺らぐものではないと思います

この事実は富士宮市の歴史年表に「50周年記念事業として村山口登山道の調査を行った」として明記されるべきだと思います。こういう所からもどんどん歴史は改変され得るのです。「歴史」はあらゆる角度から常に脅かされています。上で挙げた「ゆで落花生」もそうです。であれば、それを是正する存在として博物館は有効であることは間違いないと思います。


---追記---

以下では財政分析を記していこうと思います。「富士山ネットワーク会議」に加盟する4市1町の、アンケート年度(H23年度)を含む5年分の各指標について記します。「財政力指数」「実質収支比率」「経常収支比率」「財政健全化比率(実質赤字比率・ 連結実質赤字比率・実質公債費比率・ 将来負担比率」を記します。

<財政健全化比率>

これらの項目は財政規模の余裕を表すものではなく、健全性を示すものとなります。

自治体(実質赤字比率)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市12.2612.2612.0812.0512.04
富士市11.2511.2511.2511.2611.26
御殿場市12.5712.5412.5712.6312.62
裾野市12.7512.7212.8813.1913.22
小山町14.6114.7314.8514.8014.83

財政再生基準は20.00です。小山町の数値は少し悪いですが、基準から考えれば全く問題ありません。他は類似していると言えます。

H19年に夕張市が財政破綻した際の実質赤字比率は「730.71」(H19)でした。

自治体(連結実質赤字比率)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市17.26 17.2617.0817.0517.04
富士市16.2516.2516.2516.2616.26
御殿場市17.5717.5417.5717.6317.62
裾野市17.7517.7217.8818.1918.22
小山町19.6119.7319.8519.8019.83

財政再生基準は30.00です。小山町の数値は少し悪いですが、基準から考えれば全く問題ありません。他は類似していると言えます。

H19年に夕張市が財政破綻した際の連結実質赤字比率は「739.45」(H19)でした。

自治体(実質公債費比率)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市15.915.313.512.211.0
富士市9.78.67.97.46.5
御殿場市10.810.410.210.611.7
裾野市8.37.77.99.19.8
小山町14.214.414.614.513.9

早期健全化基準は25.0です。H19年に夕張市が財政破綻した際の実質公債費比率は「39.6」(H19)でした。

自治体(将来負担比率)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市128.7100.192.166.754.9
富士市46.849.652.451.950.8
御殿場市107.993.387.894.3100.3
裾野市15.79.2負または01.912.8
小山町94.894.6105.0110.5113.7

早期健全化基準は350.0です。H19年に夕張市が財政破綻した際の将来負担比率は「1237.6」(H19)でした。裾野市の数値がとてつもなく良好であると言えます。

これらの結果から、総合的に裾野市が極めて優秀であると言えます。財政健全化比率でみた場合、裾野市に軍配が上がると思います。

この結果から富士宮市の財政は健全であることが分かり、「財政がとてつもなく悪い」と思っている人はそもそも誤認であるということが分かります

<財政比較分析表等>

以下の項目らは財政の"体力"や"柔軟性"を示す指標となってきます。

自治体(財政力指数)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市0.960.980.950.930.91
富士市1.171.151.151.091.05
御殿場市1.141.161.151.091.02
裾野市1.541.601.531.331.13
小山町1.111.121.081.020.97

この「財政力指数」こそ、一般で言うところの"財政が良い"の指標となります。一見して分かるように、裾野市が抜きん出ています。私が調べたところによりますと、富士宮市はH2年度、H4年度、H5年度に1.0を超えています(1.0を超えると地方交付税不交付団体=財政優良団体です)。

小山町は少なくとも1975年度(S50年)から2005年度(H17年度)にかけて不交付団体になったことが1度も無いのですが、上の表では超えてきているため、財政は改善傾向にあると言えると思います。各数値は3ヵ年の平均値が決定値であるため、本当にこの辺りで財政が改善してきているのでしょう。

自治体(実質収支比率)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市6.07.510.88.66.9
富士市5.45.35.25.85.6
御殿場市7.48.55.44.43.7
裾野市5.910.611.98.38.7
小山町3.82.12.41.61.4

小山町の実質収支の割合は低いということになり、場合によっては少し危惧されます。他は振り幅としては認められる範囲でしょう。

自治体(経常収支比率)H19年度H20年度H21年度H22年度H23年度
富士宮市89.488.788.085.284.4
富士市75.777.477.178.677.1
御殿場市77.777.679.881.782.8
裾野市67.568.579.088.690.7
小山町78.681.583.379.879.2

比較的差異がないという印象です。

これらを調べてみると、一体どの部分をもって「財政が悪い」としているのかが全く分かりません。むしろ、全国的に見れば各自治体ともに優良団体であるとさえ言えると思います。そもそも富士市と富士宮市でそれほど差異があるようにも思われない。全国の多くの自治体が、この数値を羨むでしょう。

また総合的に見れば"裾野市の財政状況が良い"と言えるわけであるので、やはり富士宮市民は勘違いしているということになります。もはや、同じ空間を同じ時間軸で生きているようには思われない。「何と戦っているのか…」と、不思議にすら思うものです。

---追記終わり

  • おわりに

このように富士宮市の「歴史」は、あらゆる角度で何らかの"望ましくない事態"に晒されてきました。現在進行系でもそうです。これが現実です。

私としては「この状態をなんとしても是正しない」という活動や考えは生産性が無いと感じていますし、図らずともこの状態を支持するような状況の人が居たら、それはそれで不幸だとも思います。むしろエネルギーを「望ましい状態」に寄与する方向に使ったら、何かしらの成果物は出てくるでしょう。博物館構想は、その一手ないし起爆剤にはなると思います。

そして私の現在の立場としては「条件次第で賛成」です。このブログを始めたきっかけでもありますが、富士宮市民が歴史に興味を持ってくれるようになれば、これ程嬉しいことはないです。富士宮市が持つ他市にない強みは「歴史(の逸話の多さ)」です。これは間違いないです。それを忘れないで下さい。