2024年2月24日土曜日

関東の富士氏のルーツ、徳川家康朱印状の継承と旗本としての過程を見る

駿河国富士大宮(現在の静岡県富士宮市)を本拠とする富士氏は、戦国時代以降に系統が大きく2つに分かれているので、まずこれらを区別して捉えなければならない。つまりは


  1. 富士大宮を本拠とした「本流」の富士氏
  2. 関東に拠点を持った「庶流」の富士氏

という区別である。本稿はこのうち「2」について考えていくものである。しかしこの「2」についてであるが、『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)は富士家を二家に分けて記している。それは『寛政譜』の富士信久について"別に家を興し"とあることから分かるように、信久が分家を創設したためである。

そのため、本稿でも区別して説明していきたいと思う。そしてそれぞれ便宜上「関東本流」と「信久系」という呼称を用いることとする。

氏族系譜
富士(関東本流)信忠 — 信重 — 信成 — 信宗 — 信良 — 信久 — 信清 — 信成(信清子) — 
富士(信久系)信久(信重子) — 信尚 — 信貞 — 信 — 時則(断絶)

二家の当主がそれぞれ継承された家禄を得て活動していたことが端的に分かる史料がある。例えば(小川2006;pp.63-64)でも貴重な史料であると言及されている『御家人分限帳』である。この分限帳には富士家の人物が2名確認できる。

人物采地家禄役職
富士市十郎(富士信良)相模国・下総国・武蔵国300石(内、100表(俵)御蔵米)小十人組
富士市左衛門(富士時則)下総国250石(内、50表(俵)御蔵米)新番

この場合信良が関東本流で、時則は信久系である。(鈴木1984;p.62)ではこの富士市左衛門を「富士信貞」としているが、これは誤りで、富士時則であると考えられる。従って表および以下の記述では「時則」として扱った。分家創設後も両家の関係は続いており、例えば関東本流の「信宗」は信久の三男である。

しかし同時代にそれぞれ継承された家禄を有している事実と『寛政譜』の扱いから、やはり両家は分けて考えられるべきだろう。


【関東本流】

まず『寛政譜』の説明に、「富士」という姓氏の由来として「兵部信忠駿河国富士郡を領せしより稱號とすといふ」とある。「富士」という姓の始まりは「富士信忠」からであるとするものであるが、無論史実ではない

古文書に多く残るように「富士」の名乗りは圧倒的に遡れるのであって、冒頭いきなり惑わされる説明となっている。また信忠について「永禄年中死す」とあるが、古文書より元亀・天正も生存していたことが知られるので、これも誤りである。従って『寛政譜』に「年五十七」(享年)とあるのも、真とは受け入れられない。

『寛政譜』の信憑性に関わる部分でありその意図も考えなければならないところではあるが、本稿では取り上げない。その信忠の子として「信通」と「信重」を記し、信重以後の家譜を記しているのが『寛政譜』である。

『寛政譜』からも分かることであるが、信重以後の関東本流の富士氏は暫く苦難の時期を迎えたと言ってよいだろう。というのも、信重の子らに不祥事が重なり、家運を著しく毀損しているのである。以下ではまず、富士信重について解説したい。

<富士信重>

『寛政譜』には冒頭「天正十二年小牧御陣のとき大久保相模守忠隣本多佐渡守正信を奏者として東照宮に拝謁し、御供に列し、駿河国下方吉原の内にをいて采地を賜り大番をつとむ」とある。




徳川家康に拝することは、本来は簡単に出来ることではないだろう。これも、信重の父が大宮城主であったという所以もあると思われる。また番入りしていることが知られる(後に天守番となる)。

その後は「あらためて相模国鎌倉郡のうちにをいて采地百石を賜り」とある。「あらためて」とあることから、ここで一旦吉原の采地は解消され、正式な采地として鎌倉郡が充てがわれたのだろう。実はその朱印状が残っている(写)。



この古文書は国立公文書館内閣文庫に伝来するもので、旧幕府引継書の1つである。江戸幕府の要請に応じ、富士家に伝来していた文書を信重から五代後の富士信清が書上げたことによって残ったものである。つまり富士家の中で代々伝承されたものである。タイトルにある「徳川家康朱印状の継承」とは、このことである。

『記録御用所本 古文書』の解説には以下のようにある(神崎・下山2000;p,137)。

富士氏は駿河国の出身で、富士大宮神社の大宮司職を務めた。富士信通が今川義元・今川氏真に仕える。嫡男信重は天正12年(1584)に徳川家康に仕えて大番に列した。100石。関ヶ原の戦いののち200石。御天守番を務め正保3年(1646)1月に没、86歳。嫡男信友が跡を継ぐ。


ただ、この解説は妙である。確かに「嫡男」というのは必ずしも第一子ではなく、正式な後継となればその人物が嫡男となる。また一旦養子となることで嫡子認定され、家督継承がなされたりすることも多々ある。そうすればその人物は「嫡男」となるのである。

しかしこの場合、明らかに嫡男は第一子かつ富士大宮司を継承した信通であるのだから、"嫡男信重"ではないはずである。『寛政譜』にのみ拠った解釈をしてしまうと、そもそもの富士氏の歴史解釈がかなり逸脱したものとなってしまう恐れがある。

とりあえず、「富士」の名乗りは信忠からではなく、また嫡子は富士信通であるということは大前提として把握しておきたい。多くの刊行物においてこの説明で通ってしまっているのは、問題であると考える。


<信重の後裔たち>

信重の経歴から考えると、順当に活躍すれば家禄の増加も考えられたであろう。しかし孫子たちは暫くその道を辿ることはできなかった。それが何故なのかを、考えていきたい。

まず『寛政譜』から富士信友の内容を見ていこう。信友は信重の子である。

元和元年(中略)上総介忠輝朝臣の前を乗うちせしかば、其無禮を咎められ、彼家臣等に討る(抜粋)

つまり、松平忠輝(のち改易)の前を乗馬にて通過した咎で富士信友が処刑させられたということである。元和元年(1615)のことである。江戸時代の社会通念は現代からすれば異常であるが、この一件でやはり富士家は家運を毀損したと言えるだろう。

信友は十代にして400石を采地としており、これは信重の威光から由来するに他ならない。400石からのスタートはかなり恵まれている方であろう。このことから、本来家督相続が予定されていたのは信友であったと思われる。

予定されていなかった家督相続であることを伺わせるのが『寛永諸家系図伝』(以下『図伝』)である。富士信成の家督相続年は正保3年(1646)である。これは『図伝』の成立年以後のことであり、そのため『図伝』では信成の家督相続を反映していない。

不思議であるのは、『図伝』が信久の流れで記していることである。これはまだ信久が分家を創設していなかったことを示すことになるのではないだろうか。信友の死にあたり、信重の第二子である信久の流れを『図伝』はとりあえず記すことになったと思われる。

仮にこのとき分家が創設されていたとすると、分家が創設されているのに本家の家督継承が未定ということになってしまう。そんなことはないだろう。『図伝』成立時は信久はまだ分家を創設しておらず、信久による関東本家の継承が視野に入れられていた時期が存在するか、信成の家督継承の方針は定まっていたがそれが遅れたという可能性の2つが考えられる。

次は『徳川実紀』から富士信吉(信重の子)の子息に関する問題の箇所を抜粋してみる。

御実記日時内容
厳有院殿御実紀(徳川家綱)寛文5年(1665)8月9日小十人富士又左衛門某(註:富士信光)切腹せしめられ
常憲院殿御実紀(徳川綱吉)天和2年(1682)3月21日けふ大番跡部九郎右衛門某。小普請富士勘右衛門某(註:富士信政)争論し、相互に討果すといふ

富士信政は内容からして果し合いであるが、当時の社会通念から考えると異例のことでは無かったのかもしれない。しかし家運を考えれば望まれないことである。

問題は富士信光の方である。この切腹に至る過程を『寛政譜』から見ると、他の武士と野遊していたところ争論となり、結果討ち果たし、そして逐電したとある。つまり信重の孫子のうち「信友」「信光」「信政」の三人が望まれない事態を引き起こしており、家運を著しく毀損しているのである。

時系列を以下の表でまとめてみる。

出来事
元和元年(1615)富士信友死す(咎)
正保3年(1646)信重死去に伴い、信成家督相続
寛文5年(1665)8月9日富士信光死す(咎)
天和元年(1681)正月21日富士信吉死す
天和2年(1682)3月21日富士信政死す(果し合い)

信友の死から家督相続が決定しておらず、また信久の分家創設の時期も定かではない。この辺りの解釈は、広く考えを見てみたいと思う次第である。


<富士信良>

富士家に漂った負の流れを断ち切ったのが、この信良である。信良の功績は何と言っても

家格が御目見以上となった

ここにあると言って相違ない。御目見以上ということは「旗本」へ昇格したということである。富士家が御目見以上になったということは、『寛政譜』から分かる。しかも「一代御目見」(一代旗本)ではない。

しかし信良も連なるこの関東本流の富士家はそもそも旗本扱いであった可能性が高い。何故なら信重も信吉も信光も将軍へ拝謁しており、役職も旗本に該当するためである。例えば(小川2006;p.39)では信重の役職であった「天守番」について"『寛永系図』に御目見以上の扱いもあり、寛政字にも天守番士・宝蔵番士は「半御目見」と遇されている"とし、また信重は「大番」にも列している。信吉も同じく番入りしており、これは旗本身分故であると思われる。

つまり上の不祥事により一旦旗本としての扱いが解消され、信良の代になって再び旗本となったという可能性がある。この部分も、広く考えを聞いてみたいと思う次第である。

また『新編武蔵風土記稿』に「寛文六・七年の頃遠山忠兵衛が知行にたまへり、富士市十郎に賜ひしもその頃なりや伝えず」とあり、この富士市十郎は富士信良のことを指していると思われるが、これは信良の生まれがその頃ということが「=知行」と誤って伝えられたものだろうか。よく分からない。

(鈴木1984;p.204)から信良は、300石(相模国・下総国・武蔵国、内100御蔵米)を知行地としていたことが分かる。知行地は一国内である場合の方が多いので、三国であることは特徴であると思われる。

しかし注記として「内、百表御蔵米」とある。この「百表」は「=百俵」であると思われるが、同史料では意図的に分けて表記しているように見受けられ、この差異の意味はよく分からない。また「内」とあるため、百俵を石単位に換算し、そこに含めているものと思われる。

しかしここまでの持ち直しは信良の器量を感じさせるものである。信良の祖父は分家を創立した信久であり、信久も富士家のお家安泰に貢献したと言える。

<富士信清>

信良の代で旗本となり(または復帰)、それが順当に信清の代でも継続され、信清は徳川家斉に拝謁している。幕末期は市十郎の諱が史料上多く確認されるため、信清の後の家督は子の信成(富士市十郎)が継いでいると考えられる。

信清は少なくとも文政6年(1823)には家督を子の信成に譲っていたと考えられる。そして隠居して「峯雪亭 隠翁」を名乗っていたとも考えられる。というのも、信清の歌および印・署名が残っており、手がかりになっているためである。

時は文政5年(1822)のこと、池田定常の娘「松平露」(露姫)が天然痘により亡くなった。生前露姫は死は避けられないものと悟り、父母や周りの者に対する遺書を認めていた。露姫の死後、それを発見した定常は悲しみ、その遺書を広く世間に公表した。幼女の幼気な遺書を見て心を打たれた多くの諸氏から追悼句や画等が集まった。信清も、それを送った1人である。

信清の作品には「印」が多用されておりそれらも検証の必要性を感じるが、名がいくつか記されており、それが「雅号」ないし「法号」なのか、はたまたそれらを両方記したものであるのかはよく分からない。この部分も、広く考えを聞いてみたいと思う次第である。

ただ横に見える「信乾」の短歌を(玉露童女追悼集刊行会1991;p.120)は「大津源兵衛」としているが、これは信清の子である「信乾」のことである(『寛政譜』)。同書は白黒ではあるものの、写真を見る限りでは信清の紙と明らかに同質のものを用いていると見受けられる。その上で「信清」「信乾」とあれば、疑う余地はないだろう。

一応『寛政譜』と『図伝』の大津家を確認してみたが「信乾」を名乗る人物は確認できなかった。

【信久系】

富士信久を祖とする富士家を便宜上「信久系」と呼称することとする。『寛政譜』より古い家譜集である『図伝』にも富士氏の系図が認められるが、『図伝』の系図は実は信久の流れを示したものである

『寛政譜』と同様富士信忠から始まるが、『図伝』では信忠の子は信重のみが記される。また『図伝』は信重の子として「信久」「信吉」「信成」のみを記し、第一子である信友の名が見られない。『断家譜』は4人全員を載せる(信友・信久・信成・信吉)。

『図伝』は寛永20年(1643)に成立したものであるから、時代的にはまだ信成が家督相続はしていない。信吉の子息らの名がないのは『図伝』の簡素的性格によるものであろうが、信重の子である信友の名が無いのは明らかに作為的なものがある。咎で没した人物を系図に含めていないということである。

<富士信久(初代)>

信久は最終的に采地四百石を手にしている。そしてその6年後には死去し、信久系は信尚が継いでいる。信重の跡を信成が継ぐことは、一応事前に決定していたようである。

出来事
慶長8年(1603)信重采地200石とす
元和元年(1615)采地400石の信友、咎により死す
寛永10年(1633)信久采地400石とす
寛永16年(1639)信久死去、信尚が継ぐ
正保3年(1646)信重死去。それに伴い富士信成家督相続

これを見ても信久の分家創設年はよくわからないが、信重の考えもあったであろうか。富士信尚(二代)・富士信貞(三代)・富士信定(四代)の三者は、すべて富士信久の子である。

<富士信尚(二代)>

信尚は初め「信直」であったが、改称している。『寛政譜』には「寛永19年はじめて大猷院殿に拝謁し」とある。

『江戸幕府日記』寛永13年12月6日に「初て御目見右何も惣領子也」の人物として「藤右衛門」の名が見えるが、これが=「富士右衛門」=「信尚」であるとすると、『寛政譜』とは一致しない(藤井2003;p.459)。同一人物であるかどうかは不明である。

<富士信定(四代)>

(四谷區史1934;p.250-252)から引用する。

大番町武家地

御府内場末沿革図書に據れば(中略)南部表大番町通東側に北から瀬名十右衛門屋鋪、富士弥右衛門屋鋪、以上二屋鋪の東隣に小林七郎兵衛屋鋪、富士氏小林氏両屋鋪の南に秩父彦兵衛屋鋪が在り

『御府内場末往還其外沿革図書』に見えるこの富士弥右衛門とは、富士信定のことである。


<富士時則(五代)>

時則は富士信定の養嗣子となり、信久系を継いだ人物である。『寛政譜』には父について「某氏が男」とあり、実父が誰かすら不明である。実は関東本家と信久系の家督相続者のうち、富士家の血脈を受け継いでいない人物はこの「時則」ただ一人である

つまり『寛政譜』で確認できる家督相続者11人のうち(信重以降、関東本流および信久系合わせて)、時則のみが他家から来たことになる。そして『寛政譜』に「市左衛門時則がとき、罪ありて家たゆ」とあるように、時則の代で絶家となっている。これで関東の富士家は、本稿でいうところの関東本流のみとなったのである。

『断家譜』に「享保二年丁酉十月二十二日大坂金奉行」とあるように、富士時則は大阪城の金奉行であった。しかし続いて「同年戊戌正月十五日御暇、同十六年辛亥十二月二十七日追放」とあるように、暇の後に追放されている。

これは(橋本2004;p.135)にあるように、大阪城内の官金である「金」が紛失した責任から、金奉行であった富士時則らが処罰されたことによる。『徳川実紀』には「かの奉行富士市左衛門某。蜂屋多宮某追放たる」とある。

再び『御府内場末往還其外沿革図書』を考えていきたい。(国立科学博物館2021;p.45)の報告から富士時則屋敷の変遷が分かる。同報告には以下のようにある。

1710年(宝永7年)松平讃岐守が小石川の屋敷地を相対替により獲得したいとの願いを出し、下屋敷続きの東の抱屋敷の南端の一部と西側の抱屋敷の南西部の一部(元上大崎村分)を下屋敷のうちとを振替えた。 下屋敷の内、振替えて抱屋敷になった場所は不詳である。さらに同年、下屋敷のうち東側の一画を富士市左衛門へ切坪相対替でわたした。

つまり小石川に富士時則の屋敷があったが、相対替で松平讃岐守の下屋敷東側の一画へと移ったのだろう。そして次が注目である(国立科学博物館2021;p.47)。

1740年(元文5年) 東の富士市左衛門屋敷が上地となり、西丸御書院与力同心大縄地となる。

上地、つまり幕府により接収されたことを意味するのであって、これは富士時則の処分による結果と考えられるものである。享保16年(1731)に富士時則は追放処分となっているので、それから数年後に時則屋敷分は上地となっていることになる。

また『寛政譜』には時則の子に男子が記されてはいないが、『断家譜』には「弥四郎」が記される。やはり『断家譜』は『寛政譜』を補う史料として有効であろう。

  • まとめ

富士大宮の地から離れた信重の系譜が確かに続き、関東の地で脈々と受け継がれていたのは感慨深いものがある。そしてしっかり系図を見てみると信忠以来の血脈が確実に受け継がれていることが分かるのである。これは富士大宮の本家でも、なし得ていないことである。

「信重  信成  信宗(信成養子)  信良  信久  信清  信成」と家督相続がなされていることが分かるが、信宗は養子とは言っても信重の子である富士信久の三男であるのだから、これは紛れもなく血脈が維持されていることになる。それ以後男子を養子に取っている例は見られない。

つまり分家を興した信久自身の家は金紛失事件の末に絶家という憂き目に遭うこととなったのだが、何を隠そうその信久の血が関東の本家で受け継がれていたのである。

私は縁あってか神奈川県の墓地に伺う機会があるが、実は富士姓は多い。そのルーツは富士信重その人にあるのである。そしてその末裔らが現在の東京都・神奈川県に采地を得ていたためである。その転機は「徳川家康朱印状」であり、すべてはそこから始まったのである。

  • 参考文献
  1. 四谷區役所(1934)『四谷區史』,臨川書店
  2. 『新編武蔵風土記稿』第3巻(1963),雄山閣
  3. 続群書類従完成会(1968)『断家譜2』,八木書店
  4. 鈴木寿(1984)『御家人分限帳』,近藤出版社
  5. 玉露童女追悼集刊行会編(1991)『玉露童女追悼集 2』,吉川弘文館
  6. 神崎彰利 ・下山治久編(2000)『記録御用所本 上巻』 ,東京堂出版
  7. 藤井譲治(2003)『江戸幕府日記 姫路酒井家本第5巻』,ゆまに書房
  8. 橋本久(2004)「大阪城代の履歴 中」,『大阪経済法科大学 法学論集』60
  9. 小川恭一(2006)『徳川幕府の昇進制度-寛政十年末 旗本昇進表-』,岩田書院
  10. 国立科学博物館(2021)「国立科学博物館附属自然教育園飛び地にかかる 調査報告書【資料編】」

2024年1月1日月曜日

庵原郡の田子の浦解説、近世の警鐘と誤認万葉歌碑、山部赤人の短歌から考える

まず大前提として「往古の田子の浦の場所は現在の静岡県富士市田子の浦港と同一視できるものではない」ということは広く知られている通りであり、敢えて言うまでも無いだろう。


『東海道五十三對』「興津 田子の浦風景」


上の絵は『東海道五十三對』のうち「興津 田子の浦の風景」という作品である。また歌川広重『十三次名所圖會』の「江尻 田子の浦 三保の松原」といった作品名からも分かるように、近世「田子の浦」は「興津」や「江尻」といった地域とセットで描かれてきた。

「興津」と「江尻」同士は隣接地であるが、両地域共田子の浦港からはかなり距離を隔てる形となる。上で言う「往古の田子の浦の場所は現在の富士市田子の浦港と同一視できるものではない」ということが、直感的にも感じ取れるだろう。

静岡県民はこれらの地名は良く知っており、それら地域と一緒に描かれていることから、現在の富士市田子の浦港周辺とは地域を異にするということは県民であれば感覚として皆分かっていることである(とはいっても一定の知見を有する人であるが)。従って歴史的地名の「田子の浦」と「田子の浦港」は分けて用いられる必要性があるが、口語的には徹底されていないのが現状であり、会話に齟齬が生まれやすいという問題がある。これは、我々静岡県民が反省すべき点であろう。「ワシントン州」と「ワシントンDC」の区別がつかない人が居るように、難しい部分であろうか。

では実際、歴史的には何処なのかといえば、大きく以下の2つが指摘されてきた。


  1. 西端を薩埵峠とし東端を由比・蒲原まで
  2. 西端を薩埵峠以西まで含め東端を由比・蒲原まで(つまり「興津」や「江尻」も含む)


つまり薩埵峠より西側を含めるか含めないかで、基本的には分かれるのである。また「由比のみ」「蒲原のみ」という考え方もあるので、概ね以下のように分けられる。

<田子の浦所在地の主要な説>

  1. 西端を薩埵峠とし東端を由比・蒲原まで(=現在の清水区
  2. 西端を薩埵峠以西(「興津」や「江尻」も含むということ)とし東端を由比・蒲原まで(=現在の清水区
  3. 由比のみ(=現在の清水区
  4. 蒲原のみ(=現在の清水区
  5. 庵原郡全域(=現在の清水区*2

無論更に細分化しようと思えば幾らでもできるのであるが、結局のところ同じエリアの話をしていることに変わりはないのである。つまり


現在の静岡県清水区の海岸線のうち何処から何処で切るかという話をしている


単純に、こういうことである。また異説も多くあるため、以下に異説を一覧化してみる。

<田子の浦所在地の異説>

  1. 静岡県富士市説
  2. 海上説
  3. 千葉県鋸南町説(『千葉県立東部図書館だより』2016年11月第57号等を参照)
  4. 伊豆説


異説筆頭が「富士市説」という感じである。そして以下の記事を引用する形で「伊豆説」と「海上説」も説明したいと思う。

熱視線=田子の船上から詠む? 万葉集・山部赤人の和歌(2018年9月6日 伊豆新聞)
 (冒頭略)実は西伊豆の田子から見た富士山を船上で詠んだ―との新説を唱える人がいる。富士市側からでは富士山が近すぎ、伊豆西海岸から海越しに見た景色だとし、平城京(奈良時代の都)跡で見つかっている堅魚[かつお](鰹節[かつおぶし]の原形、かたうおともいう)を納めた田子の木簡も、後押しする材料の一つ―と主張する。(中略)田子の浦ゆ…の歌が伊豆西海岸の田子で詠まれたーと提唱するのは愛媛大名誉教授の細川隆雄(68)さん=兵庫県川西市=。(中略)
 「赤人は通説の陸路ではなく、船で移動していたのであろう。『田子の浦ゆ打ち出でてみれば』の『打ち』は、閉ざされたところを打ち破るーとの意で、『田子』の『浦』(岩が入り組んだ港)から展望の開けた見晴らしの良い海上に出たと解釈できる…」(中略) 
富士市文化振興課文化財担当の井上卓哉さん(41)は「西伊豆で詠んだとは考えられない。荒堅魚[あらがつお]の木簡は富士や沼津のものも平城京で見つかっている」と疑問を呈す。ただ地名は読み(音)が重要で、知っている漢字を充てるケースが多々見られたという。(中略) 
 富士山と和歌を研究する富士宮市の県富士山世界遺産センター学芸課の田代一葉准教授(39)は「国文学研究の成果では薩埵峠を越える際に詠んだーというのが一般的見方」と指摘した。(以下略)

この記事は、新説を述べる氏自身とそれを支持する元町職員らの情報量・知識量の欠如と記者の理解量の少なさ故、説得力の無いものとなっている。そもそも通説が何かを全く理解せずに話を進めており、最低限に到達していない。

しかし氏が指摘する「船で移動した」という説であるが、本人すらも理解していないようであるが、同様の説を述べる学者はそれなりに居たりする(伊豆西海岸とはされないまでも)。「船」とか「海上」といった点で言えば、実は新説でも何でも無いのである。



鹿持雅澄は『万葉集古義』の中で以下のように述べている。

田兒之浦従は、田兒の浦より、沖の方へといふ意なり(中略)打出而見者は、打は、いひおこす詞にて、上に云り、田兒の浦より、海の沖の方へ船漕出て、不盡山を見れば、といふ意なり

そしてこの解釈を支持するものも、一定数存在する。なので伊豆ではないにせよ、この点は一考の余地があるように思わなくもない。

また新説を支持する元町職員(文化財審議会会長)は『続日本紀』の「多胡浦」と和歌の「田兒」が合致しないとしているが、これは記事で井上氏が述べているように読みに則して漢字を充てているためである。それを言うならば、「田子」と「田兒」(万葉仮名)は違うということにもなりかねない。そもそも文化財審議会会長たる人物の発言としては、驚くべき部類である。

ちなみに井上氏は、富士市立博物館(現・富士山かぐや姫ミュージアム)の資料内(「富士山へと至る道. ~登山絵図にみる信仰空間のいま・むかし~」)にて塩作りについて解説する際「田子の浦(興津~蒲原)」としているように、田子の浦が庵原郡にかかるという認識を有している。また同氏の報告は参考となるものが多く、(井上2017)により蒲原に山部赤人を祀る「赤人祠」があったことが知られる。これは羽倉簡堂の登山記から知られるもので、簡堂も「古より蒲原より東が田子の浦である」としている。

そして記事内で田代氏が述べるように、"薩埵峠を越える際に詠んだ"という解釈が一般的である。帰結としては、やはり庵原郡(現在の静岡県清水区)で詠まれたということになるだろう。これらの材料からも、学術的には庵原郡説が一般的な説として迎え入れられているということが、おわかり頂けると思う。

以下では先学をおさらいしながら、話を進めていきたい。

 ※以下では現在の富士市田子の浦港の場合「港」を附す形とし(=田子の浦港)、歴史的地名のそれは単に「田子の浦」と表記する。

【田子の浦の初見】

何かについて調べるとき、まず「初見」(この場合で言えば「田子浦」という言葉が史料上現れる最初のもの)にあたるということが重要であろう。「田子の浦」の初見は、『万葉集』の田口益人の歌である。

『万葉集』には「田子の浦」を含む歌が数首認められる(巻3-297,巻3-318,巻12-320)
。決して、山部赤人の歌だけではない。従って、古来の田子の浦を考える際、単純にその数首にまずあたるべきなのである。そうすれば、同時期の田子の浦の姿が見えてくることになる。ここでは初見の「巻3-297」に着目したい。


田口益人大夫、上野の国司に任けらゆる時に、駿河の浄見﨑に到りて作れる歌二首 
廬原の 清見の崎の 三保の浦の ゆたけき見つつ 物思ひもなし(『万葉集』3-296)

昼見れど 飽かぬ田子の浦 大君の 命畏み 夜見つるかも(『万葉集』3-297)


まず題詞から、上野国の国司に任じられ同地へ赴いた際に駿河国で作った歌であることが分かる。この時点で、田子の浦が駿河国に位置することは確実である。これだけのことが初見からでもわかるのだから、「千葉県鋸南町説」といったものは単純に調べが圧倒的に足りないとしか言いようがない*1

ここでは田口益人の歌から①駿河国に田子浦が所在する②少なくとも庵原郡に田子の浦はかかる、の2点が分かるということが押さえられれば問題はない。


【『万葉集』の山部赤人の歌と改変歌の登場】


山部宿祢赤人望不盡山歌一首 并短歌

天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎
天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利
時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不尽能高嶺者

田兒之浦従 打出而見者真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留

上は万葉仮名であり、それを書き下したものが以下である。


山部宿祢赤人 富士の山を望る歌一首 并せて短歌 

天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 不尽の高嶺を 
天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は(長歌)

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける(反歌)


このうち「反歌」のみ取り上げられることも多いが、この「長歌」と「反歌」はセットであるため、本来は並べて考えられるべきである。しかし今回はあくまでも田子の浦の地理を考える試みであるので、反歌のみを見ていきたい。


賀茂真淵

この歌に対する造詣が深い人物として、賀茂真淵は挙げられるだろう。真淵は各著作で和歌評を述べているが、その中でも真淵の和歌考が凝縮された『宇比麻奈備(ういまなび)』の記述が知られる。特に以下の箇所はよく知られている。


さて此田子のうらより打出て見れば不盡の高ねの雪の真白に天に秀たるを、こはいかでとまで見おどろきたるさま也、何事もいはで有のままにいひたるに、其時其地その情おのづからそなはりて、よにも妙なる歌也、赤人は短歌に神妙なる事此一首にてもしらる、田兒之浦従 の従は、古へ由とよみて、卽与利といふことなれば、此歌もたごのうらゆとよむべし、かくて過こし議もここも同じ田兒の浦ながら、かの山陰を打出て望し故に、田兒の浦打ち出てみればといへる也


『碧い風』2021春号vol.12の対談の中でも同箇所に触れられていたので、以下に掲げる。

例えば『宇比麻奈備(ういまなび)』には、赤人や実朝の歌を讃えて眼の前に開けた景色を「ありのままに」言い、「その時、その地、その情」をおのずから詠んだと評しています。技巧を凝らし、我が才知を主張している歌を避け、「吾(われ)といふ事のかろきをみよ」と。これは今の世の風潮とは正反対の考えです。

山陰を通り眼前に現れた富士に対する驚きを素直に詠んだ、と評しているわけである。富士そのものに対する文言をつらつらと重ねるのではなく、展開と驚きの方に比重を置いたという解釈である。

またこの歌は後世に改変され、それが『新古今和歌集』に収録されている。またそれを『百人一首』が採用している。

田子の浦に うち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

これが「改変歌」である。唐突ではあるものの、ここでクイズをしてみたいと思う。以下の文章のうち、適切ではないものはどれでしょうか。


  1. 「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」の歌を、山部赤人の言葉として紹介
  2. "『新古今和歌集』の山部赤人の歌"という言い方
  3. "『百人一首』の山部赤人の歌"という言い方


実はこれ、すべて"(本来は)適切ではない"表現となります。原則、改変歌は山部赤人の言葉ではない。そして実際はこの点に配慮されることがないので、多くの人は困惑しやすいという背景がある。親切な場合、「…雪は降りつつ/山部赤人(改)」等と表記すべきなのである

しかし不親切であることが殆どで、人々が赤人の言葉であると誤解してしまっている。これは現代の人間の叡智で、もう少し工夫すべき部分であろう。古文書学では古文書が写しであれば「写」と加えられるのに、国文学の分野ではそういう工夫がない。不思議である。

しかしこの改変の事実そのものが、そもそも大きなヒントではないかと思う。つまり「何故改変する必要性があったのだろうか」ということなのである。

上の記事でも登場した田代氏が(田代2017)で以下のように分かりやすく説明している。


平安時代に仮名な成立する以前は、漢字・漢文を用いて日本独自の言葉を書き記しました。時代を経るに従い、それらは読めなくなり、文法も変わってしまったことから、『万葉集』を理解することは難しくなってしまいました。それを後世に歌人たちが研究し、解釈したのが2の形(註:『新古今和歌集』の改変歌のこと)なのです。


多くの万葉学者が指摘しているように、後世の人々が読めなくなってしまい、その時代の読みを充てたという解釈で良いだろう。


【何故田子の浦の比定地が多様なのか】

山部赤人の歌は広く流布され、『新古今和歌集』に収録され、そして『百人一首』にも採用された。この幅広い流布が、田子の浦の比定地の多様化を生むこととなる。

(澤瀉1941;p.214)は以下のように説明する。


抑も田兒の浦と富士とを結びつけたものが、赤人の作であり、従ってこの歌に對する尊敬の念から最も富士のよく見える所として岩淵驛附近を田兒の浦に擬しようとする事は、當然古人もまた試みたところと想像せられる」としているように、中世の人々が当歌に対する尊敬の念を抱く中、富士山の眺望が良い地点を比定したのだろう


中世の人々は万葉仮名が理解できないまでも、仮定として富士山が眺望できる地域を比定したのだろうという意味であるが、私もそのように思う。

(土屋1959;p.391)には以下のようにある。


又富士川左岸の所謂田子の浦村の松原つづきも目の下である。私もかつては彼の海岸に出かけて太刀魚釣の仕掛をする老人及びその子息と12時間話して遊んだことがあった。けれど其の田子の浦の名は富士山が見えるがために赤人の歌によって命ぜられたものであることは最早疑う餘地はあるまい


土屋文明は赤人の詠地を蒲原を出て岩淵との中間辺り(=庵原郡に該当)としているのであるが、一方で「田子の浦村」(富士郡)という名称は富士山が見える地であるがために赤人の歌になぞらえて形成されたものとしている。つまり赤人の詠地は庵原郡で、田子の浦村の場所ではないとしている。

1942年6月1日の静岡県。蒲原町に隣接する田子の浦村


これは私も同意するところである。富士郡には「田子」という地名は認められていたが、この「田子の浦村」という自治体名は赤人の歌になぞらえて形成されたものでしかないと考える。このあたりの背景も、比定地拡大に繋がっていったと考えられる。

このような先人の指摘は傾聴すべき部分が過分にあり、それを総合すると以下の経緯が考えられる。


山部赤人により田子の浦を題材とした歌が詠まれる

時代を経て中世になると万葉の時代の言葉が分からず、単純に富士山が見える地帯を当てはめる

実際の田子の浦より遥かに広い地域を指す考えが誕生する


こうして「田子の浦」の誤解が広まっていったと考えられる。我々は"改変の事実"と"歌の知名度"にもう少し向き合う必要があるのかもしれない。

我々は中世の人々とは異なり万葉仮名を解することが可能な環境にあるので、山部赤人の意図を汲み取れる状況下にある。それを等閑視しないことが肝要であろう。

【田子の浦の本当の初見?】

「駿河国風土記逸文」の「てこの呼坂」に「田子のうら」が確認され、『古事類苑』にも引用されている。この記録はあまり注目されることが無いが、極めて重要である。

『風土記』は713年に元明天皇の詔をうけ諸国が作成した地誌である。しかし諸国で成立時期が異なる上に、「駿河国」の風土記、即ち『駿河国風土記』は現存していない。しかしその逸文(断片的に伝わった文章)が僅かに残り、その1つが「てこの呼坂」であり、下河辺長流の『続歌林良材集』に収録されている。

風土記の逸文ということで内容は8世紀まで遡ることができる潜在性があり、それ故にこの記録が重要となってくる。つまり「てこの呼坂」の内容は『万葉集』を先んじる可能性をも否定できない。

(鈴木2010;p.17)は、逸文の「三保松原」の内容を引用する形で『駿河国風土記』の成立時期について若干の検討を加えている。同論考によると、奈良時代に「三保」という地名が確認されておらず、また「風土記の案ずる」という文言から逸文自体は古代の風土記の記事を倣ったものと考えられ、「古風土記」と同時期でないと考えられるという。

しかし同論考でも指摘されるように相当古い記録であることは変わりないと言え、検討を加えていくことが重要であろう。さて、下河辺長流の『続歌林良材集』には以下のようにある。


  て子のよひ坂の事

一 東路のてこのよびさかこえかねて山にかねむもやとりはなしに

  あつまちのてこのよひ坂越ていなはあれは戀んな後は相ぬとも

右するがの國の風土記に云、廬原郡不來見の濱に、妻をおきてかよふ神有。其神つねに岩木の山より越て來るに、かの山にあらふる神の道さまたくる神有て、さえきりて不通。件の神あらさる間をうかがひてかよふ。かるがゆへに來ることかたし。女神は男神を待とて、岩木の山の此方にいたりて夜々待に、待得ることなけれは、男神の名よひてさけふ。よりてそこを名付て、てこの呼坂とすと云々。てことは東俗の詞に、女をてこといふ。田子のうらも手子の浦なり。上の二首はかの男神の歌といへり。女神の歌に云。

 岩木山ただ越きませいほさきのこぬみの濱に我たちまたん

此うたも萬葉集に入られ侍り。いほ崎はいほ原の崎なり。こぬみの濱は男神の來ぬよりおへると云々。

意訳は「Wikipedia」に記されているが(該当箇所すべてを意訳したものではない)、つまりは廬原郡の話である。「風土記の案ずる」と「するがの國の風土記に云」は同じ意味であり(風土記を参照したと解釈できる)、「田子のうらも手子の浦なり」の箇所も風土記の記録を受けて後世に付加されたものであろう。従って古風土記より時代は下ると思われるが、それ相応の古い時期に既に認められた箇所と見るべきである。

ここで重要なのは「女神が岩木山の向こうで男神を待ち、男神の名を呼んでいた。よってその場所が「てこの呼坂」と呼ばれるようになった」という話を終えたところで「てこ」は「女」を指す東の言葉であるとし、そして田子の浦の地名が登場することである。

「田子の浦」の地が「てこの呼坂」の地と何の縁もなければ、田子の浦が引き合いに出されることはないだろうし、田子の浦が庵原郡に所在するからこその流れと言える。従って「駿河国風土記逸文」のこの記録は、古い時代に田子の浦が庵原郡に所在したことを示す史料と言っても過言ではない。


【『続日本紀』から見る古代の田子の浦を指すもの】

上の伊豆新聞の記事にあるように、「タゴノウラ」は様々な表記がある。これは読みに則して漢字を充てるためであるが、実は「田子の浦」という表記より「多胡浦」の方が古く確認されている。そして『続日本紀』に多胡浦が登場し、極めて重要なことを示唆している。


『続日本紀』天平勝宝2年3月10日条
駿河守従五位下楢原造東人等,於部内廬原郡多胡浦浜,獲黄金献之 練金一分,沙金一分,於是東人等賜勤臣姓


つまり多胡浦浜が廬原郡に所在していることが知られるのである。『六国史』に記されることであるから、誤記ではないだろう。「多胡浦」というと、延慶本『平家物語』もこの表記である。


昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為ニ、宇治民部卿忠文奥州へ下リケル時、此関ニ留リテ、唐歌ヲ詠ケルトコロニコソト、哀レニオボヘテ、多胡浦ニテ富士ノ高根ヲ見給ヘリ

延慶本は古態を示すとされ、やはり古い部類となるだろう。ここでいう多胡浦も庵原郡を差すものと思われる。

天平勝宝2年というのは750年であるから、これら古い時代の記録は総じて庵原郡であることを示す形となっている。むしろ、田子の浦を庵原郡としない理由が見当たらない


【中世の田子の浦の比定地】

上述したように、山部赤人の歌の流布もあってか、田子の浦の比定地はかなりの多様性を認めている。現在の東田子の浦駅辺りも「田子の浦」に含めるものもあり、ひいては更に沼津市辺りも指すとする史料も存在する。それらを一覧化してみる(成立年を推定し、時代順に並べた)。

史料場所
『更級日記』清見が関より西側
『東関紀行』蒲原と浮島原の間
『春の深山路』浮島ヶ原‐原の間 
『十六夜日記』富士川渡河後‐三島の間
延慶本『平家物語』 清見関-浮島原の間
『都のつと』清見が関-浮島ヶ原の間
『東国紀行』調査中    
『紹巴富士見道記』清水-伊豆・三島(様々な解釈が可能)
『名所方角抄』 三保の入江-浮島ヶ原の範囲

まず『更級日記』を見ていきたい。

きよみかせきはかたつかたは海なるに(中略)きよみかせきの浪もたかくなりぬへしおもしろきことかきりなしたこの浦は浪たかくて舟にてこきめくる


この箇所は帰京の途の記述なので、清見が関より西側に田子の浦があることを示す。「田子の浦は浪たかくて舟にてこきめくる」とあるのをみると、田子の浦自体が海を指すと読めなくもない。これは先の「海上説」を支持し得る材料となるだろう。

次に「中世三大紀行文」を考えていきたいが、『海道記』には田子の浦は登場しない。しかし『東関紀行』と『十六夜日記』には登場する。

『東関紀行』には以下のようにある。

蒲原といふ宿の前をうち通るほどに、後れたる者待ちつけんとて、ある家に立ち入りたるに(中略)田子の浦にうち出でて…

(青木1955;p.127)には「息津に於いて田子の浦といっているが」とあるが、実際読むと蒲原の後に「田子の浦にうち出でて」とあるので、息津(奥津)ではないだろう。『東関紀行』は、蒲原と浮島原の間を田子の浦としている。

そして『十六夜日記』を見ていきたい。


廿七日、明けはなれて後、富士川渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる(中略)今日は、日いとうららかにて、田子の浦にうち出づ。(中略)伊豆の国府といふところにとどまる。


『十六夜日記』は、富士川を渡河した先に田子の浦があるとしている。しかし田子の浦の次には三島が記されており、この間は相当な距離を隔てていることになるため、実際は何処を指して田子の浦としているのかは全く分からない。

次に『春の深山路』を見ていきたい。


浮島が原はただ砂路に芝のみぞ生ひたる。北は富士、裾は広き沼なり(中略)田子の浦波まことにひまなく立ち騒ぐさま、いと面白し。沼のいと広きに群居る鳥の羽音、小舟に棹さして通ふ賤の有り様、絵にかかまほし。


富士川を渡河した後も田子の浦について言及していない一方で、浮島原に至った箇所で田子の浦について言及している。

『都のつと』には以下のようにある。


清見が関にとまりて。まだ夜ふかく出侍るとて。おもひつづけ侍りし。

清見かた波のとさしもあけて行月をはいかによはの関守

たたぬ日もありとききし田子の浦なみにも。たびの衣手はいつとなくしほたれがちなり。(中略)それよりうき嶋が原を過。


清見が関以後で浮島ヶ原より手前を指している。

『東国紀行』には以下のようにある。


田子の浦とはこの辺にやなどと尋ねたれば、清見が関のこなた六里ばかりのほど、みな田子の浦となむ


六里であれば浮島ヶ原は含まれないであろう。『紹巴富士見道記』 に関しては、断定しずらい書き方である。

『名所方角抄』 には以下のようにある。


田子浦 富士ハ河より少東也岩もとへ五十町斗也かんはらよりハ東也 三保の入江より浮島かはら傳の浦おしなへて田子の浦と惣名に云なり清り清見奥津なと其内の小名也


とある。三保松原すらも田子の浦であるとする。ここでは、史料によって指す場所が全く異なり統一されていないということが分かれば問題はない。


【古文書から考える】

古文書、ここでは今川氏・武田氏・後北条氏の発給文書等を確認してみる。すると意外なことが分かったので、記しておこうと思う。番号は『戦国遺文』のものである。

まず「タゴノウラ・タゴ」の使用例である。

表記場所
今川氏なし
武田氏多子浦(3111号)不詳
後北条氏田子(1567号)賀茂郡
田古浦(4144号) 賀茂郡 
多古(4736号)賀茂郡

武田氏の一例は「武田勝頼」の願文であり発給文書ではなく、また漢文調による古典からの引用と呼べるものであり、場所も定かではない。むしろ「タゴノウラ/タゴ」といった時、賀茂郡の地名がよく見られるという状況であり、本稿で取り上げた「田子の浦」は地名としては用いられてないと言って良い。

次に吉原湊について考えていきたい。現在の田子の浦港は「吉原湊」ないし「雄度港」(井上2017;p.64)と呼ばれていた。つまり本来「吉原港」とされるべきものが「田子の浦港」と呼びを変えられたことになる。

調べてみた所、吉原湊の用例は他に「吉原津」があった。「吉原川」は現在の和田川のこととされるが、参考として一覧化する。


表記場所
今川氏吉原湊(2154号)富士市
武田氏吉原津(1539号)富士市
後北条氏吉原川(1146号・4740号)富士市


現代の「田子の浦港」の呼称は、誤解をかなり蔓延させたと言ってよいだろう。


【近世の田子の浦の解釈】

我々が田子の浦の解釈において困惑しているのと同じく、古の人々もそうであった。例えば深草元政は『身延道の記』(身延紀行)の中で、以下のように述べている。


ある人のいはく、多胡の浦は、奥津の事なるべしと。されどいざよひの記に、富士河をわたりて、たごのうらにうちいで、伊豆のこふにいたるとかけり。すべて此わたりを田子の浦とも、田子の入海とも云となり。


大意としては、元政の周りのある人は田子の浦は「興津」であると言っていたが、『十六夜日記』は富士川を東に渡河した先から伊豆にかけてであるとしており、はっきりしないというものである。

富士川を東に渡河したその場所は富士郡であるので、興津が位置する庵原郡ではなくなってしまう。そのため元政は困惑しているのである。

この記録を見るに、『身延道の記』が著された17世紀当時、庵原郡とする考えは一般的であったように思う。「ある人」はその当時の人の考えであるのだから、そうだろう。

実は近世の記録を通してみてみると、圧倒的に多いのは「庵原郡(=現在の静岡県清水区)」とするものである

従って普通に「歴史的地名の田子の浦は何処か」と言われれば、第一義的には「庵原郡です」という答えにはなってくる。その上で、田子の浦について考察しているいくつかの史料を紹介していきたい。賀茂真淵の『百人一首古説』には以下のようにある。


これらを参考して、清見・おきつ・田子同所にて、清見の東につつきて田子のうら有事を知へし(中略)今のさつた坂の山陰の磯傳ひ、<清見か波の関守といへる、此ところ也>來て其さつた山の東に出れは、不盡ハ向ふ見ならる、<此所、南より東に廻りたる入海の様、かの洞庭湖めきたるに、其東の入江こしに、ふじハ見えたり>これ則田子の浦也


解釈は『宇比麻奈備』と同様であり、田子の浦が庵原郡に所在し、山部赤人の歌は薩埵峠の山陰を過ぎて姿を現した富士山を詠んだものであるとする。私も賀茂真淵の解釈を強く支持するものである。


【近世の諸家による警鐘】

駿河国の地誌に『駿河志料』がある。この見解は、駿河国における最大公約数的な理解を示すものと言えるだろう。

『駿河志料』は『東国紀行』『都のつと』『富士見の記』(紹巴富士見道記)『駿河国新風土記』『名所方角抄』『十六夜日記』『萬葉集』について触れている。見識の広さに只々驚かされるところである。これらは既に言及しているので、ここでは言及しない。

『駿河志料』には以下のようにある。


田子

此地は、古郡氏地検の時<延宝年中>村名を然号せり、此地の橋を、古へより田子橋と称しけるに因れるなりと云へり、田子浦は、蒲原郷海辺の名なり


このように「田子浦」と「田子村」を区別するよう指摘している。これと同様の性質を持つ記述は他史料にも確認され、これらは近世の面々による警鐘とも取れるものである。

賀茂郡がそうであったように、「田子」とされた地域は各地存在したであろう。しかし富士郡下の村名としては、時代が相当に下ると言わざるを得ない。私も近世の諸家に続きたいと思う次第である。

また『駿河志料』には、以下のようにもある。


西倉澤より、東は蒲原に至る迄の浦を云ふ、後にはおし並て吉原の辺、加嶋の海岸までをも云ふめり(中略)いつしか富士郡に属せしならんかし


元々は庵原郡域を指す言葉であるが、後に富士郡を含めるようになったという見解であり、本稿もそれを支持するものである。というより、その背景を追求したのが本稿なのである。


【誤認万葉歌碑問題】

富士市には山部赤人の歌の万葉歌碑がある。





(富士市1986;p.843)によると、以下のようにある。

この、田子の浦で詠んだ富士山の歌を石に刻み、多くの人に愛誦されて、後世に伝えたいという声があり、それら市民の願いを結集して、昭和59年8月、歌碑建立の陳情書が市民団体から市当局に提出された。(中略)文化財審議会は「郷土の貴重な歴史文化遺産を理解させ、広く市民に文化を顕彰、普及させるもの」との答申を提出した。そこで昭和60年度当初予算に計上されたのである。


とある。本来ならこのとき、詠地ではないとされることを伝え、留保しなければならないのである。しかしながら富士市は極端に人材に恵まれず、また文化財審議会も機能しておらず、建立への運びとなってしまった。当時も一般に詠地は庵原郡とされていたし、不思議としか言いようがない。

これは最悪な動向であり、誤解を不特定多数に伝染させる要因となったと言えるだろう。


  • まとめ

要約すると、以下のような過程が考えられる。


「田子の浦=庵原郡(廬原郡)」であり、和歌の詠地にもなる(万葉の時代等)

中世になると上の時代の和歌の解釈が出来ず、「富士川以東」を比定地とする考えも生まれる。また武家の発給文書にも確認されず、既に日常的に用いられる地名では無くなっていた

近世になると富士郡に「田子村」が生まれ混同されやすい状況となり、諸家が警鐘を鳴らす

田子村が「田子の浦村」となる。1961年の開港時に、かつて「吉原湊」と称された湊地が「田子の浦港」と命名される(≒本来は吉原港となるはずの場所が田子の浦港と名付けられる)

富士市が石碑を建立するなどし、更に誤解が蔓延(誤認万葉歌碑問題)

近世の諸家による警鐘が現実となる


つまり中世の時点で"田子の浦はここである"という共通認識は既に無かったものと考えられる。実際に史料の状況がそれを示しているので、否定できるものではない

一方で「山部赤人の和歌の詠地は何処か」という問いに対する答えとしては「現在の清水区(旧庵原郡)」ということに何ら変わりはない。特に地理的な知見を有する静岡県民からすれば、この帰結は素直に迎え入れられるものとなっていると言えよう。

富士市の石碑は、清水区に寄贈されてもおかしくはないような代物なのである。石碑建立を断行するといった非文化的行いについては、先人に申し訳ない思いである。しかしこの和歌を愛でてはいけないというわけでもないので、先人たちの警鐘を胸に留めた上で石碑を眺めていけば良いと考える。


  • 脚注

*1: ただ「清見崎と田子の浦は場所が一致しないのではないだろうか」という感覚も有している。その上で「清見崎から田子の浦を見る必要性」についても疑問を感じるところである。この点については(伊藤1996;p.119)の意見を傾聴すべきと思う。伊藤は3-296歌(廬原の… )によって題詞が付されたと指摘しているが、これは私も同調するところであり、伊藤が指摘するように3-297歌は題詞とうちあわないと考える。両歌は確かに上野国の国司に任じられ同地へ赴いた際に駿河国で作った歌であろうが、3-297歌の詠地は浄見﨑ではないと考える。ここは様々な解釈が可能かと思うが、結局のところ庵原郡を指すということは変わらない。

*2: 5の庵原郡全域であるが、旧庵原郡の地域は分散して合併などを繰り返しており、現在の自治体でいえば「静岡市清水区」「富士宮市」「富士市」が該当する。しかしこれらのうち海に接するのは清水区のみであるので"庵原郡全域(=現在の清水区)"という表現が正しくなる(田子の浦は海岸沿いを指すため)。

  • 参考文献

  1. 澤瀉久孝(1941)『萬葉古径』,弘文堂書房
  2. 土屋文明(1959)「萬葉紀行―田兒の浦」『現代紀行文学全集 第2巻 (東日本篇)』,修道社
  3. 富士市(1986),『富士市二十年史』
  4. 伊藤博(1996)『萬葉集釈注二』,集英社
  5. 鈴木紗都美(2010)「羽衣説話考:日中朝に伝承される説話の比較」『日本文学ノート』(45),宮城学院女子大学日本文学会
  6. 井上卓哉(2015)「富士山へと至る道. ~登山絵図にみる信仰空間のいま・むかし~」
  7. 『千葉県立東部図書館だより』,2016年11月第57号
  8. 井上卓哉(2017)、「登山記に見る近世の富士山大宮・村山口登山道」『富士山かぐや姫ミュージアム館報』第32号
  9. 田代一葉(2017)「山部赤人の富士山の歌」『世界遺産ニュースレター NEWS Letter vol.33』,静岡県世界遺産センター整備課
  10. 静岡文化芸術大学広報誌『碧い風』,2021春号vol.12
  11. 『戦国遺文』今川氏編各巻
  12. 『戦国遺文』武田氏編各巻
  13. 『戦国遺文』後北条氏編各巻