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2022年7月24日日曜日

梶原景時の変と駿河国在地武士、三澤氏と三澤寺

「梶原景時の変」の末に梶原一族は滅亡するが、実は梶原景時らが討たれたのは「曽我兄弟の仇討ち」の地である静岡県富士宮市のお隣、現在の静岡県静岡市であった。


梶原景時

『吾妻鏡』正治2年(1200)正月20日条には以下のようにある。


廿日 (中略)亥の刻、景時父子、駿河国清見関に到る。しかるにその近隣の甲乙人等、的を射んがために群集す。退散の期に及びて、景時途中に相逢ふ。かの輩これを怪しみて矢を射懸く。よって庵原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎これを追ふ。景時狐崎に返し合はせて相戦ふのところ、飯田四郎等二人討ち取られをはんぬ。(中略)また景時ならびに嫡子源太左衛門尉景季〈年丗九〉・同弟平次左衛門尉景高〈年丗六〉後の山に引きて相闘う。しかるに景時・景高・景則等、死骸を貽すといへども、その首を獲ずと云々。

非常に激しい戦闘であったことが見て取れる。またこの討伐には駿河国の在地武士が主体として参加しているため、駿河国の情勢を考える上でも参考となる。

梶原一族の討死を順番通り記すと、先ず梶原景茂が、その後兄弟四人(景国・景宗・景則・景連)が、そして景時景季景高が死している。景朝は生き残っている。このうち下線の人物は「富士の巻狩」にも参加した人物である。景時は所々で大役を努め、景季は矢口餅を陪膳した人物であり、景高は万寿(源頼家)の初鹿狩りを鎌倉へと伝えた人物である。

ほんの数年前まで幕府の実力者であったのにも関わらず、この立場の変化は驚くところである。『吾妻鏡』同21日条には以下のようにある。

廿一日 戊申 巳の刻、山中より景時ならびに子息二人の首を捜し出す。およそ伴類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

景時・景高・景則の頸が山中より探し出されたとある。景時は

「清見関」(清水区)→「狐崎」(清水区或いは駿河区)→「後の山」

と移動した後、討ち取られている。「後の山」は梶原山(静岡市葵区)に比定され、「梶原景時終焉の地」として現在も管理されている。

『吾妻鏡』同23日条には以下のようにある。

廿三日 庚戌 (中略)西の刻、駿河国の住人、ならびに発遣の軍士等参著す。おのおの合戦の記録を献ず、広元朝臣、御前においてこれを読み申す、その記に云はく、

正治二年正月廿日、駿河国において、景時父子、同家子郎等を追罰する事。

(中略)

一 廬原小次郎、最前にこれを追い責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る

一 飯田五郎が手に二人を討ち取る〈景茂が郎等〉

一 吉香小次郎、三郎兵衛尉景茂を討ち取る〈手討〉

一 渋河次郎が手に、梶原三平が家子四人を討ち取る

一 矢部平次が手に、源太左衛門尉・平二左衛門尉・狩野兵衛尉、巳上三人を討ち取る

一 矢部小次郎、平三を討ち取る

三澤小次郎、平三の武者を討ち取る

一 船越三郎、家子一人を討ち取る

一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る

一 工藤八が手に工藤六、梶原九郎を討ち取る

正月廿一日

(以下略)


とある。ここに梶原景時の武者を討ち取った人物として「三澤小次郎」が記される。この三澤氏と富士宮市との縁故を示す言い伝えがある。以下、(富士宮市;2019)より引用する。


三沢小次郎について、安永8年(1779)に編まれた日諦の『本化高祖年譜』には、「淡州ノ人移駿州 富士郡大鹿村富士十七騎之一、延慶二年五月十八日没、法号三沢院法性日弘、其居為精舎号弘法山三沢寺朗公為開祖」、つまり「淡路の出で富士郡大鹿村へ移り住み、延慶2年(1309)死去し、遁世して三沢院法性日弘を名乗り、日朗を開祖に住居を寺にした」と加筆している。延宝8年(1680)に三沢寺日相が書写した『三沢寺縁起』(『芝』)は、『吾妻鑑』に載る、奥州合戦等で軍功を挙げた三沢小次郎の孫昌弘が、日蓮から消息を受け取った人物としている(『芝』)。同内容は『駿河記』『駿河国新風土記』(文化13(1816)-天保5(1834))にも記述されるが、これらはいずれも後世の編纂物であり、三沢寺と三沢小次郎・昌弘を直接結び付ける同時代史料は今のところ確認できない。


三澤寺(富士宮市大鹿窪)が、その成立を三沢氏に求めているということが分かる。

ここで注目したいのは、三沢氏をはじめとする駿河国の武士の面々である。この一連の記述の中で、「庵原氏」「飯田氏」「吉川氏」「渋河氏」「矢部氏」「三沢氏」「船越氏」「大内氏」「工藤氏」の名が見えるのである。

中でも吉川友兼は実力者であり、曽我兄弟の仇討ちの際の「十番切」の人物でもある。『吾妻鏡』正治2年(1200)正月23日条には「駿河国内に吉香小次郎は第一の勇士なり」とあり、吉川友兼を強く称える構成となっている。

有力者の討伐ということもあり、通常では記されないであろう在地武士の名が記されたという意味で、この一連の記録は貴重である。戦国時代の史料には庵原氏や矢部氏の名が度々見られるが、『吾妻鏡』の「庵原」「矢部」といった面々はその祖先と考えて良いと思われる。ただ、戦国時代の吉原の商人「矢部氏」と『吾妻鏡』の「矢部平次」「矢部小次郎」らが同じ系譜であるのかは検討を要する。

また真名本『曽我物語』にはいわゆる「二十番の狩り」の場面で「洋津(興津)」「萱品」「神原(蒲原)」「高橋」らの名が見える。

また、以下の古文書が好例であるので示したい。




この古文書は年未詳で時代比定もやや分かれるところであるが、永享6年(1434年)辺りであるとされる。駿河国守護である今川家のお家騒動に関連して室町幕府により発給された文書である。今川家当主であった今川範政は、後継者に嫡子である「彦五郎」ではなくまだ幼い「千代秋丸」を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。駿河国の国衆間では、「彦五郎支持派」と「千代秋丸支持派」とで分かれた。

幕府は彦五郎(今川範忠)の擁立を決定し、反対勢力(千代秋丸派)を鎮圧した。その後今川貞秋が駿河国へ入国することとなったが、当文書は当時千代秋丸派に回った駿河国の国人ら(室町幕府に従わない勢力)に忠節を命じる文書である。

画像では各人の名が順に記されているが、実際は同文のものが各人にそれぞれ発給されている。「富士大宮司」と「富士右馬助」の両人にそれぞれ発給されているのは驚くべきことであり、室町幕府より別個の武力単位として把握されていたことを意味する。これは「富士家の家中関係考、富士大宮司とその子息および浅間大社社人」の大久保氏の仮説を支持する材料と言えるのかもしれない。

この文書には、上で挙げた「興津氏」「庵原氏」が記される。時代を越えて継承されていったと捉えて問題ないと考える。富士氏の場合『吾妻鏡』の「富士四郎」「富士員時」が当てはまるだろう(「富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時」)。

『吾妻鏡』や『曽我物語』に記されない一族も居たと思われるが、様々な「変」や「乱」で淘汰されていってしまったのだろう。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2019)「史跡大鹿窪遺跡保存整備基本計画」
  2. 杉山一弥(2014)『室町幕府の東国政策』178-179頁,思文閣出版
  3. 裾野市教育委員会(1995),『裾野市史 第二巻 資料編 古代中世』319-321頁

2022年4月4日月曜日

富士海苔の歴史

 「富士海苔」は、芝川流域(静岡県富士宮市の河川)に認められるカワノリの一種である。歴史史料でその名を目にする機会が比較的多いため、今回取り上げることとしたい。

この富士海苔は「絶滅危惧種カワノリを利用した環境教育に関する研究」(18K02969)として「科学研究費助成事業」(科研費)にも採用されているように、自然科学的な分野では介入が認められる。一方で「歴史学」の分野ではあまり日の目を見ることが無い状態であり、富士海苔の歴史的位置付けから考えると、このまま等閑視しておくのは望ましくないと考える。

まず「富士海苔」は「芝川海苔」とも呼称されるのであるが、当記事のタイトルで前者を採用したのは、富士海苔の方が古くよりの呼称であると思われるためである。


  • 初出

(川上・小川2006a;pp249-150)に以下のようにある。

川苔で今まで最も記録が多くかつ古い記録のあるのは富士のりである。それは静岡県の富士宮市の白糸の滝を少し登ったあたりにある小川がその産地になっている。富士川の支流の芝川の上流に当たるそうで、そこの川苔は富士苔、別名「芝川苔」とも呼ばれている。富士苔の産地は日蓮宗大石寺から距離にして五、六キロ前後のところにある関係からか、日蓮上人は身延山に在住時代、この川苔をもらわれて、その礼状が大石寺に保存されているという。

とある。言及された史料(1274年-1275年)については「河のり」「かわのり」としか記されないようであり(宮下1985;p.91)、残念ながら富士海苔と断定はできない。しかし地理的状況から考えると、富士海苔であるとするのは妥当であろう。また同文献は富士海苔に関する史料の残存状況を大きく見誤っており、少し注意が必要であると思う。

(遠藤1981;pp.207-209)にも同様の見解(礼状のカワノリ=富士海苔)が示されている。『静岡県史』資料編24民俗二にも類似した記述が確認される。

<中世>

多くの記録があるので、一部引用する。

番号内容
永享2年(1430)12月6日 室町幕府将軍足利義教、今川範政から富士苔等の贈答に対し礼を言う
永享6年(1434)4月25日管領細川持之、富士大宮司による富士海苔等の贈答を受け返礼品を贈る(年未詳)
永享6年(1434)10月9日足利義教、葛山駿河守による富士川苔等の贈答に対し礼を言う
永正8年(1511)5月20日三条西実隆の元に富士苔等届く(『実隆公記』)
大永4年(1524)12月三条西実隆、中御門宣胤から富士海苔を贈られ返歌(『再昌草』)
永禄4年(1531)4月20日近衛尚通、常庵竜崇より駿河紙・ノリを贈られる(『後法成寺関白記 』)
同日三条西実隆、常庵竜崇より富士海苔等を贈られる
天文4年(1535)3月18日三条西実隆、後奈良天皇に富士ノリを進上する
弘治2年(1556)11月26日山科言継、寿桂尼(今川氏親正室)より富士海苔を贈られる(『言継卿記』)
弘治3年(1557)2月29日 御黒木(山科言継養母)、言継に富士海苔を授ける(『言継卿記』)

これらの記録から、中世は「フジノリ」で統一されていたことが分かるこの時代は「芝川ノリ」という呼称そのものが無かったと考えられる。また(大長2002;p.20)には「近世に入ると富士海苔という呼称ではなくなった」という旨の記載が見られるが、実際は近世もフジノリと呼称されており、むしろそちらの方が多いように見受けられる。

富士海苔の歴史的位置づけとして注目されるのは「上流社会で重宝された」という事実であろう。(湯野上2013;p.139)に

戦国時代には戦乱の影響をうけて窮乏した多くの公家が地方の大名や土豪を頼って都を離れ、地域別の数は畿内を除けば北陸道がもっとも多く、東海道・中山道がそれに続いた。(中略)氏親から氏真にいたる時期に、史料に見えるだけでも三十名近くの公家や文人が駿河を訪れている 。(中略)公家らの直接の往来の他、僧侶や商人が使者となって京都から書状や、『伊勢物語』『源氏物語』『古今和歌集』を始めとする文物が東海道を下って駿河にもたらされ、一方駿河・遠江からは、黄金や浜名納豆・富士海苔・紬・茶などが進物として京都に届けられ、財政難に苦しむ公家らの暮らしを助けることになった

とある。駿河から京にもたらされた富士海苔は、更に天皇に献上されたり公家同士で行き来していた。上の記録を見ても、富士海苔は今川文化の一端を担ったと言えるのではないかと考える。富士海苔は京・朝廷にも名品として広く認知されていたと思われる。

寿桂尼


また(水井ら1980;p.2)や『世界大百科辞典』「カワノリ」の項に「芝川苔(富士川苔)」や「富士川苔」とあるが、おそらくこれは③の記録からそのように記したと考えられる。しかしこれは御内書が本来「富士苔」と記すべきところを誤って「富士川苔」と記したに過ぎないと考えられ、富士川苔と呼称されていたとは考えられないものである。

⑥は「ノリ」としか記されないが、⑦で同日に常庵竜崇が三条西実隆に富士海苔を贈答していることが知られるので、⑥のノリは「富士海苔」であると考えるのが自然である。

ただ(宮下1974;p.100)に「駿河国富士山麓の「富士苔」が武田信玄により朝廷に献上されたものがその例である」とあり、また同氏の(宮下1985;p.27)に「早くも鎌倉時代には、地名を冠した特産品として「芝川のり」が知られていた」「武田信玄により朝廷に贈られるなど」とあるが、私の方ではその記録は発見できなかった。

<近世>

  • 近世の記録、特に味・外見に言及されたもの

『食生活語彙五種便覧』にあるように、『料理物語』に富士海苔が記される。

のろのり ひや汁 あぶり肴 いりざけにすをおとし くりしやうが入 さかなによし
ふじのり ひや汁 あぶりざかな 色あをし
海鹿 に物 あへもの

前段の「のろのり」も海苔の一種であると思われるのであるが、よく分からない。肴に合うと評価されている点で富士海苔と一致している。

また『毛吹草』には

駿河 
安倍川紙子 久野蜜柑 三穂松露 富士苔〈山中谷川二有之〉

とある。駿河国13品目の特産物のうち富士苔にのみ注記が加えられているのであるが、これは海産物でなくカワノリであることを強調したかったがためと思われる。(水井ら1980;p.3)で指摘されるように、『毛吹草』は他のカワノリ(日光苔・菊池苔)の場合にも「川有之」と説明を附しているようである。編者の意図が感じられるのである。

貝原益軒

貝原益軒『大和本草』には以下のようにある。

川苔
川苔モ海苔二似タリ所々ニアリ富士山ノ麓柴川二柴川苔アリ富士ノリトモ云

省略したがここでも共に日光苔と菊池苔が紹介されており、どうもこの三種はカワノリの代表的存在であったように思えるのである


  • 近世の記録、進物・土産として

(斎藤1968;pp.15-16)に

「駿府奉行所雑記」の中の「差上物品品」という項にこの地方の差上物について、次のように定めている。すなわち、四月は筍、五月には白瓜、なす、六月は熟瓜と山椒、七月は雛うづら、十一月は芝川苔が江戸御台所にさしあげることになっており

とある。富士海苔の記録を見ていく中で共通するのは、富士海苔の旬が秋冬頃とされていることである。この原典にはあたっていないが、同様の記述は地誌にも確認される。例えば『駿国雑志』には「毎年十一・十二月の内發足、江戸に献す」「初冬より取上げ」とある。

正福寺(山梨県富士吉田市新倉)が浅野家(紀伊和歌山藩や安芸広島藩を治めた)に富士海苔を贈った記録(年未詳)があるといい(金子2021;p.17)、また『大坂代官竹垣直道日記』(1851年)にも「芝川苔贈ル」とある(西沢2016;p.113)。

ちなみに『毛吹草』の駿河国13品目の特産物の中に「善徳寺酢」というものが記されている。この酢は東泉寺(富士市今泉に所在していた寺院で廃寺となっている)で造られていたとされ、その東泉院が来訪者に贈った品物として「善徳寺酢」の他に「富士海苔」があった(菊池2012)。

また『和漢三才図会』巻六十九に「駿河国土産」として

富士苔(谷川に出づ)

とあり、同書の水草の項の「紫菜」の説明(巻九十七)にて

富士苔 
富士山の麓精進川村より之れを出し形状紫菜に似て青緑色味極めて美なり

とある。『和漢三才図会』の駿河国土産は『毛吹草』と多くで重複している。そのため同書にも「醋(善徳寺之れを作る)」とある。以下に『毛吹草』と『和漢三才図会』の対応表を示す。

『毛吹草』(順序通り、注記記す)『和漢三才図会』(順不同、注記省略)
安倍川紙子紙子
久野蜜柑蜜柑
三穗松露麦茸
富士苔〈山中谷川ニ有之〉富士苔 
黄芪黄茂木香
香爐灰香炉の灰
大井川萸萸子
瀬戸染飯染飯
宇都山十團子十団子
善徳寺酢
澳津鯛
同白砂干
神原鮎鮫
竹細工
藪(該当する字ナシ)
盆山石
甜瓜
松茸

『和漢三才図会』の方が時代が下るためか「茶」「竹細工」等が見える。やはり「富士海苔」の呼称は近世にも続いていたと言え、むしろ芝川海苔より明確に多いと言えるのではないかと考える。芝川ノリの呼称は近世でも比較的時代が下るものと推察された。

  • おわりに

富士宮市の固有名詞は勝手に用いられてしまうことが"極めて多い"のであるが、この富士海苔も例外ではない。


これで良いのだろうか?と考えるのは私だけだろうか。早く安定した生育を獲得し、将来的には「特定農林水産物等の名称の保護に関する法律」(地理的表示法)の指定を目指すべきであることは言うまでもない。

しかしこれは富士宮市側に問題があると考える。法人名や屋号を定める際、既存の名詞であるのかは一応の考慮がなされると思われる。がしかし、富士宮市が他が存在に気づく余地さえも提供できていないという言い方も出来るのではないだろうか。市のコンテンツの非力さは大変遺憾である。ある記事を以下に提示したい。

「富士山」商標権活用を 富士宮市、取得管理を支援(静岡新聞Web版2013/8/15)
ただ、富士山関連の商標は既に多くが登録されている。工業所有権情報・研修館(東京都)が提供する特許電子図書館の統計によると、「富士」「富士山」と銘打った商標は出願中を含めて160件に上る(7月18日現在)。市商工振興課の担当者は「富士山の地元でできるだけ商標を取り、活用するのが理想的。高まる需要に応えていきたい」と知財戦略のてこ入れを図る。(抜粋)

「富士山の地元でできるだけ商標を取り、活用するのが理想的。高まる需要に応えていきたい」とあるが、あまり行動しているようには思われない(ちなみに上の法人が指定されたのは、記事の翌々年の2015年である)。また商標を取るだけでなく、検索して存在を確認できるような体制を整えることも重要であると思われる。

"「富士」「富士山」と銘打った商標は出願中を含めて160件に上る"の最も標的になりやすいのが富士宮市であるということを認識しなければならないと考える。

  • 参考文献

  1. 大長康浩(2002)「駿河国における水産物の流通について(その二)ー前稿の成果と課題」『静岡県の歴史と文化』第2号,静岡県の歴史と文化研究会
  2. 遠藤秀男(1981)『富士川 : その風土と文化』,静岡新聞社
  3. 川上行蔵著・小出昌洋編(2006a),『日本料理事物起源』岩波書店
  4. 川上行蔵著・小出昌洋編(2006b),『食生活語彙五種便覧』岩波書店
  5. 『静岡県史』資料編24民俗二,467頁
  6. 宮下章(1974),『海藻』(ものと人間の文化史 11),法政大学出版局
  7. 宮下章(1985)『海苔の風俗史』
  8. 水井ら(1980)「日本の古書にみられる海藻類の食品学的研究 Ⅰ : カワノリ」『広島文化女子短期大学紀要』13巻
  9. 『日本庶民生活史料集成』第29巻,三一書房, 1980
  10. 斎藤幸男(1968)「林香寺山椒」『薬史学雑誌』vol.3No.2
  11. 菊池邦彦(2012)「富士山東泉院を訪れた人々」『六所家総合調査だより』第11号,富士市立博物館
  12. 湯之上隆(2013)「旅日記・紀行文と地方社会」,『人文論集』63号 
  13. 西沢淳男(2016),「関東代官竹垣直道日記」(6) , 『地域政策研究』巻19号,高崎経済大学地域政策学会
  14. 金子誠司(2021)「新倉三ヶ寺と富士山」『山梨県立富士山世界遺産センター研究紀要『世界遺産 富士山』』第5集
  15. 『世界大百科事典』,平凡社

2018年8月17日金曜日

観応の擾乱と富士氏

「観応の擾乱」時の富士氏の様相を示す史料として、まず観応2年(1351)1月18日「上杉憲将奉書」が挙げられる。


この史料について「中世南奥の地域権力と社会」では以下のように記している。

観応元年11月、京において直義が尊氏・高師直らと争っていたころ、関東にあっては直義派の執事上杉憲顕と尊氏派の高師冬らが争っていた。(中略)師冬は、甲斐に逃れて須沢城に拠ったが、翌年正月4日、上杉兵庫助(憲将)が数万騎の兵を率いて攻め、17日落城し師冬は自殺した。(中略)師冬が討たれたことで、上杉憲顕1人だけの執事であったので、基氏の判始めは憲顕の指揮によるもので、正月18日に基氏は憲将に命じて富士大宮司に甲斐の通路を警固させている。ここに関東も直義方の支配するところとなった。

まずここから、富士大宮司はこのとき足利直義方であったことがわかるのである。


また亀田俊和『観応の擾乱』でも

だが、直義がいかに消極的であろうとも、戦況は彼に有利に進行し続けた。(中略)同日夜(註:観応元年(1350)1月16日)、信濃守護小笠原政長も京都の自宅に放火して出京し、直義派に寝返った。つい6日ほど前まで、分国信濃で部下が直義党と激しく交戦していたのにである。(中略)一方、この日(註:17日)は甲斐国須沢城で関東執事高師冬が戦死した。関東地方は上杉氏を主力とする直義派がほぼ制圧した。 

と記される通り、このとき関東は直義派が支配する状況であった。また「中世南奥の地域権力と社会」に

11月12日に上杉能憲が常陸で兵を挙げ、12月26日、義房が師冬方から基氏を奪い返そうとしていたころ、駿河国府中で義房の家人等は尊氏方の景宗らと合戦を行っていた。景宗は、狩野孫左衛門尉、石塔氏家人らと散々の合戦を行い、軍忠に励んでいた。そして義房は、12月15日(註:石塔義房のことで観応元年)、伊豆国宅郡(田方郡)の地を三島社神社盛実代頼に還付することを守護代に命じ、翌2年2月22日、重ねて命じて光頼に交付し、なおも3月27日に共料所として宅郡の地を交付している。このことから、義房が伊豆国の守護であったことが知られる

とある。富士大宮司は駿河国富士郡の領主であり、また伊豆守護が直義方の石塔義房であったことを考えると、河東の地(富士川以東)は直義方が支配するところであったと見てよい。しかし府中には今川氏がおり伊達景宗が直義方と交戦していることを考えると、富士川以西はまだ尊氏方の勢力の方が大きかったと考えられる。そういう意味では、富士氏の本拠である富士上方は緊張状態にあったと言えるのかもしれない。

富士大宮司は富士氏の筆頭であるが、このとき「警固を命ぜられている」という事実は大変重要である。つまり「武力を保持していた」ということの証左であり、それは南北朝時代にまで遡ることが出来るのである

「甲斐国通路」は駿河国から甲斐国へ繋がる街道のことであるから、まず「中道往還」か「駿州往還」が考えられる(当時そのように呼称されていたというわけではなくそれに準ずるもの)。

武田勝頼書状

上のものは天正8年(1580年)に比定される文書で(「駿州往還と富士宮市内房の歴史」を参照)、南北朝期とは時代を著しく異にするものであるが、南北朝期も甲斐と駿河の境は「本栖」「河内」であった。本栖が「中道往還」であり、「河内」が「駿州往還」なのである。第一義的にはこれらが考えられる(個人的には中道往還の方であると考えている)。

また「相催庶子等」についても重要である。この部分について「戦国期今川氏の領域と支配」は

観応2年(1351)正月18日、観応の擾乱に際し、富士大宮司が上杉憲将から甲斐への交通路の警固が命じられており、その軍事力は「相催庶子等」と明示されている。この頃からすでに国人領主としての活動が開始されている。

と説明している。富士大宮司の直系以外の一族(庶子)も武力を保持していたわけであり、ここに重層的な武力構造が認められるのである。これが観応2年(1351)の段階で認められるという事実は、大変重要であると言えるだろう。

同年12月、富士上方に隣接する庵原郡内房・桜野の地で尊氏軍と直義軍は衝突し、尊氏方の勝利となる。その後の翌年2月、直義は没することとなる。この一連の合戦記録で富士大宮司が出陣している様子は無い

参考としてであるが、『太平記』の「笛吹峠軍事」に「棕櫚の葉」(旗)が出てきており、これが富士大宮司の馬印・旗印ではないかとされることもある。しかし桜野の戦いにおいて姿が見えないことから、軍勢を率いて交戦する程の武力はまだ保持していなかったと考えている。

  • 参考文献
  1. 渡部正俊,「石塔氏小考―義房と子息頼房・義基」『中世南奥の地域権力と社会』,岩田書院,2002 
  2. 亀田俊和,『観応の擾乱』,中央公論新社,2017
  3. 大久保俊昭,「今川氏と宗教」『戦国期今川氏の領域と支配』,岩田書院,2008
  4. 山田敏恭,「高一族と上杉一族、その存亡を分けた理由とは?」『初期室町幕府研究の最前線』,2018

2018年8月10日金曜日

駿州往還と富士宮市内房の歴史

まず富士宮市というのは、街道が複数以上通過する地域である。詳しくは「中道往還と浅間大社そして大宮口登山道」にて記しているが、今回はそのうちの「駿州往還(河内路)」について取り上げていきたいと思う。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月15日)に見える「うつぶさ

河内路は甲斐から駿河へ至る主要街道の1つであるが、その役割はとても大きいものがあった。現在の富士宮市でいうと内房(旧庵原郡)が河内路に属しており、重要な中継地点であった。「駿甲同盟」の際の嶺松院(今川義元娘)の輿入れの様子が好例であるので、挙げることとする。

「足利尊氏軍勢催促状」(正平6年12月17日)にみえる「駿河国内房山

まず今川義元の正室であった定恵院(武田信玄姉)が、天文19年(1550)6月に死去した。同盟関係上新たな関係構築が求められ、信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行い、天文21年(1552)11月に嶺松院は輿入れした。その様子が『甲陽日記』に記されている。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-甲府というルートで移動している。これは河内路である。

武田信玄

またこの輿入れは大変華やかであったとされ、『勝山記』には以下のようにある。

武田殿人数ニハ、サラニノシツケ八百五十腰シ、義元様ノ人数ニハ五十腰ノ御座候、コシハ十二丁、長持廿カカリ、女房衆ノ乗鞍馬百ヒキ御座候

武田側は850人、今川側は50人が随行し、輿は12、長持(衣類等を収納する箱)は20、女房衆の馬は100頭にも上ったという。特に武田側の850人は驚くところであり、その壮大さを感じるところである。もちろん内房の地も通過したのである。

しかし、「桶狭間の戦い」以後の今川家の凋落を好機とみた信玄は駿河侵攻を展開。現在の富士宮市域も武田氏が領するところとなった。


その過程で「内房口の戦い」も行われた。

穴山信君

そこで以下のような文書が残る。



(齋藤2010)には以下のようにある。

この史料は勝頼段階の天正8年の史料であるが、河内路の要衝を書き連ねている。(中略)河内路の谷間の重要地点は万沢・南部・下山・岩間であったことがわかる。

この史料については、(小和田2001;pp.365-366)や(柴辻2001;p.281)でも言及されている。また(齋藤2010)は以下の史料をあげ、次のような説明を加えている。


年未詳


「爰駿州境目本栖・河内用心等、不可由断之由、申遣候」と富士南麓に出陣した武田勝頼が甲斐府中で留守居を務める跡部勝忠に報じていることが確認できる。具体的な年次が確定できないが、本栖および河内が北条氏に対する甲斐国境の拠点に位置付けられ、勝頼の代に至っても軍事的に重要な地点であることは不変であった

ちなみに当書状について『戦国遺文』では永禄10年(1567)とし、(齋藤;2010)は天正8年(1580)としている。永禄10年というと駿河侵攻の頃であるが、このとき富士山南麓に信玄の出馬はあっても勝頼の出馬は無かったため、永禄10年の可能性は大変少ない。

そして本栖側の街道は「中道往還」なのである。

武田勝頼

現在の富士宮市というのは、この「本栖」と「河内」に隣接している。例えば本栖湖は富士宮市の目と鼻の先にある。富士郡の要衝であり大宮城が位置した「大宮」まで距離はあるものの、本栖や河内から武田軍が進行していた際は特に緊張した状態にあったことは言うまでもない。

  • 参考文献
  1. 齋藤慎一(2010)「武田信玄の境界認識」『中世東国の道と城館』,東京大学出版会
  2. 小和田哲男(2001)『武将たちと駿河・遠江』,清文堂出版
  3. 柴辻俊六(2001)『戦国期武田氏領の展開』 (中世史研究叢書),岩田書院

2018年8月6日月曜日

富士氏の系図から珠流河国と和邇部について考える

このブログは古代について取り上げることはまず無いが、「富士氏についての検討」ということでこの場合のみ取り上げることとした。しかし以下で挙げる諸論考のほとんどは、古代に関する知見の無さで実質的な理解はないままであるということは冒頭で述べておきたいと思う。まず「富士氏の系図」には2つ種類がある。



①【和邇氏系図】
『各家系譜』(中田憲信稿本、国立国会図書館蔵)に「大久保家家譜草稿」があり、その中に「和邇氏系図」が収められている。ちなみにこれは姓氏研究の大家であった太田亮氏が収録したものであるが、田中卓『壬申の乱とその後』に「私は原本を求めて、先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽くして探して下されたが、遂に見当たらなかった」と記されているように、今現在は所在不明である

②【富士大宮司(和邇部臣)系図】
もう1つは静岡県史所収のものであり、「富士大宮司(和邇部臣)系図)」がある。

仁藤敦史氏はこの2つの系図について以下のように説明している。

県史所収の系図と『各家系譜』所収の系図を比較するならば、後者が前者のオリジナルな記載を簡略化し、『日本書紀』や『続日本紀』により和邇部臣君手の記載を加えるなど、諸史料により整合させており、前者が史料としては先行し、重視すべきと考えられる。

としている。系図の概要は以下のようなものである。孝昭天皇の子孫を称し、延暦14年に豊麿が富士郡大領となって以降代々富士氏が大領を務めていたとする。11世紀頃には和迩部臣の「判官代」「公文所」といった国衛への転身を示すが(雑色人郡司と十世紀以降の郡司制度)、それでも大領で有り続けていたことを示す形である。

各関係が煩雑であるため、以下に整理してみた。

一般名『浅間文書纂』その他
和邇氏系図「大宮司富士氏系図」という名称で所収、大幅に省略されている(308-313頁)『各家系譜』所収
富士大宮司系図「別本大宮司富士氏系図」という名称で所収(313-316頁)『静岡県史』所収

系図の信憑性については論者により大いに左右されるところがあり、未だそれは変わらないだろう。まず、「和邇氏系図」に関する議論について述べていきたい。『和邇氏系図』については、概ね以下の点が前向きな材料として捉えられていた。

  1. 『薩摩国風土記』や『旧事紀』の記事が校訂できる
  2. 系図中に群制以前の「評」の表記が見える

これらの点が信憑性を支持する声の元となっているようである。系図中に見える「彦汝命」について田中卓氏は以下のように述べている

ここに見える「彦汝命」は播磨国風土記によってのみ知られる名前であり、しかも風土記には「比古汝弟」とあって用字を異にし、直接の母子関係は認められない。(中略)それのみではない。この系譜の末尾に見える「真侶古命」についても、之は容易に偽作出来る性質のものではない

とし、「真侶古命」の記述に関連して「一般に偽作者の到底なしえないところ」としている。つまり信憑性を高く評価しているのである。また佐伯有清氏は以下のように述べる。

これらの他に、『和邇氏系図』の価値を1つあげれば、春日・柿本・小野・櫟井の諸氏の祖として、米餅搗大臣命の子の人華臣をあげていることである。(中略)系図のこの記載は、『新撰姓氏録』とは別の古い初伝にもとづいているものであって、この系図の信憑性を高める一証となろう。さらに忍勝の尻付に、「大倭添県大宅郷住、負大宅臣姓」とみえ、また山栗臣のもとに、「居高市評久米里負久米臣姓」とあることなどは、『和邇氏系図』の独自な初伝であって、諸般の事情からみて、これらの記載は、はるか後世の捏造とは思われない。ことに「高市評」とあるような郡制以前の「評」の表記がみえるのは、この系図が古い史実を伝えているといえるのである。

とし、信憑性とその独自性を評価している。しかし比護隆界氏は1について「完全に校訂できるわけではない」とし、また「やはり造作されている可能性がある」として信憑性を否定している。

「押媛命」の弟として記される「和爾日子押人命」の名は他の文献には見えないといい、これらのような例がいくつか散見され、この系図の独自性を示す一端となっている。これらの検討の結果、比護隆界氏は和爾日子押人命について「実体の伴わない極めて観念的な名辞」としている。比護氏は大きく以下の問題点を挙げられている。


  1. 「和爾日子押人命」以外は全て記紀・姓氏録・旧事記等で復原できる
  2. 系譜の合理化の跡がある
  3. 和邇氏とは無縁の人物名や氏族名が含まれている
  4. 天足彦國押人命から彦国葺命まで五代四百年間、おおよそ一代八十年で統一されている


「合致点」と「一致しない点」が複雑に存在しており、総括としては「後代において形成された可能性が高い」としている。またこの系図の成立を「承和4年(837年)以降、とくに『先代旧事本紀』の成立以降」としている。

また佐藤雅明氏は「富士大宮司系図」について「系図に見える大石と豊麻呂との間には系譜に断絶があり大石以前の系譜は駿河国富士郡の在地豪族である大宮司家の系譜としては参考にならないと思う」としている。また「和邇氏系図」については「弟足以前の系譜と豊麻呂以後の系譜との間にが断絶がある」としている。和邇氏系図には「宗人」の名が見え、その細註に

神護景雲二年四月任駿河掾

とある。これは宗人の駿河掾の着任を示すものであるが、この記録により初めて豊麻呂以後の系譜とつながりが生まれているとしている。つまり豊麻呂より以前の部分は駿河国との関係がないとし、大宮司家の歴史としては考えづらいと暗に指摘している。要約すると「豊麻呂以後は信憑性が認められるが豊麻呂より前の部分については大変疑わしく、和邇部からの流れは考えづらい」としているのである。

これらの論考を見て仁藤敦史氏は

系図の史料批判は今後も継続すべきであるが、系図の後半部の骨格を信頼する限り、富士郡の郡領氏族としての和邇部臣氏を明瞭に否定する論拠は見いだせない。むしろ駿河郡や伊豆国田方郡におけるにおける春日部の分布や近接する伊豆国那賀郡にも「郡司擬少領」として「丸部大麻呂」が確認されることからすれば、蓋然性は高いと考える

としている。また「スルガ国造とスルガ国」では「富士大宮司系図」における豊麿の立ち位置に着目している。

注目されるのは豊麿の孫にあたる女性が、駿河郡大領であった金刺舎人道万呂の妻になっていることで、和邇部臣氏と金刺舎人氏との婚姻関係が確認される。

としている。中央(奈良に本拠を持つ)で一大勢力を推すワニ氏は後に春日氏に改姓するが、それは欽明朝のことであり、富士地区に存在している「ワニ」の一族と中央の「ワニ氏」との関係は欽明朝以前であろうとしている(改姓後に関係していたら「ワニ」は富士地区には存在しないはずということ)。もちろんこれらも系図を十分に信用した場合の話であるが、駿河郡に居た金刺氏と関係が見えてくることはおかしなことではない。

豊麿の大領就任とそれ以後の同族継承、そして延暦20年の富士山噴火を契機とした浅間神社祭祀への関わり。これらの点は各論者に違和感なく迎えられているように見受けられた。

  • 参考文献
  1. 仁藤敦史,「駿河郡周辺の古代氏族」『裾野市史研究』第10号,1998
  2. 田中卓,『壬申の乱とその前後』(田中卓著作集5),1998
  3. 佐伯有清,「山上憶良と栗田氏の同族」『日本古代氏族の研究 』,1985
  4. 比護隆界,「氏族系譜の形成とその信憑性 : 駿河浅間神社所蔵『和邇氏系図』について」『日本古代史論輯』,1988
  5. 森公章,「雑色人郡司と十世紀以降の郡司制度」『弘前大学國史研究 106』,1999
  6. 仁藤敦史,「スルガ国造とスルガ国」『裾野市史研究』第4号,1992
  7. 佐藤雅明, 「古代珠流河国の豪族と部民の分布について-その集成と若干の解説-」『地方史静岡』第24号,1996

2018年6月26日火曜日

沼津市の基本情報及び富士山との関係

このページは「沼津市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

沼津市
まず冒頭に言わなければならないことがあります。それは"Wikipedia等で掲載される「富士山の所在地」は誤りである"ということです。富士山の所在地というのは、文化庁の資料等で示されています。以下もその1つです。



文化庁の資料によると、富士山が所在する自治体は以下のようになっています。


富士山に所在する自治体
静岡県富士宮市 御殿場市 裾野市 小山町 富士市 沼津市 三島市 清水町 長泉町 静岡市
山梨県富士吉田市 身延町 西桂町 忍野村 山中湖村 鳴沢村 富士河口湖町
何故このような広範囲になっているのかというと、おそらく富士山の所在地の定義を「噴火物の届いた範囲」としているためでしょう。ただその「噴火物」も対象をより限局したものであると思われるし、この部分は詳細には提示し難い。しかし多くの人は、これら自治体すべてを「富士山麓」として捉えているということはないと思われる。そういう意味で、これは「広義的な富士山の所在地」とも言える。

確かに沼津市には世界文化遺産富士山の「構成資産」は無いし、「史跡富士山」にも関与しない。また「特別名勝」にも市域は含まれていない。だが、環富士山地域にも単独の構成資産及び史跡富士山に関与しない自治体はあるということは付け加えておこうと思う。


富士宮市御殿場市裾野市小山町富士市沼津市三島市清水町長泉町静岡市富士吉田市身延町西桂町忍野村山中湖村鳴沢村富士河口湖町
富士山―信仰の対象と芸術の源泉(世界遺産
富士山(史跡
富士山(特別名勝
富士箱根伊豆国立公園「富士山地域」の「特別保護地区」(国立公園

そこである文書に着目したい。


まずこの文書にある吉原(富士市)に所在した「道者問屋」「商人問屋」のうち、一般的に「道者問屋」については富士山への登山者を相手とした問屋と考えられている。「商人問屋」と「道者問屋」は区別されており、「道者」を相手とした問屋が一定数存在したのである。以下は大岡庄(沼津)に関する文書である。


沼津市にも道者問屋が存在したのであり、吉原の道者問屋が富士山の道者(導者)を対象としたものであるとするならば、やはり沼津の道者問屋も同じ性質のものと考えたほうが良いだろう。吉原より東から来る道者が利用したと考えるのが素直である。また沼津市にも浅間神社は多く存在しているし、一度「沼津市と富士山」という視点で考えても良さそうと思えるのである。


以下に環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
056千本浜公園
057大瀬崎
058発端丈山
059煌めきの丘
060金冠山
089古稀山

沼津市は選定地が多い自治体である。以上が、「沼津市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2014年11月15日土曜日

古記録に見る富士山北麓西麓南麓の文言

富士山を地域別で大まかに分ける際、「西麓」「南麓」「北麓」という表現で区別することが多い。しかしこの表現は、かなり昔まで遡ることができる。

  • 西麓
甲斐国の江戸時代の地誌『甲斐国志』に「富士山ノ西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」とある。これは「中ノ金王路」という甲斐国と駿河国を結ぶ道路の説明における文言である。中ノ金王路の詳細は不明であり、また記録上決して多くは確認されていない。

しかしながら興味深いのは「西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」という表現である。駿州上井出とは現在の静岡県富士宮市上井出のことであるが、中ノ金王路が甲斐国-駿河国のルートであることで間違いがない以上、この表現は甲斐国の部分も西麓と言っているということになる。

「富士山西麓「駿河往還」の成立」によると、「『鳴沢村誌』にある絵図によると長尾山・片蓋山辺りを通るのではないか」としており、そうであるとすると鳴沢村辺りを西麓としているということになる。だとすると、山梨県側=北麓、静岡県側=南麓とするのは、現代の考え方であって歴史的にはそうでない可能性が高い。

  • 北麓
同じく『甲斐国志』に、「弘安五年壬午九月某日 日蓮往クトキ武州池上ニ富士ノ北麓ヲ過ギ 号鎌倉海道  川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とある。これは日蓮が弘安5年(1282)9月に身延山を下り、武蔵国池上に至ったことを示す内容である。日蓮は同年10月に没している。『甲斐国志』の記録なので江戸時代に記されたものであるが、当記述は「川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とあり蓮華寺(現・富士河口湖町)に関する記述の中での文言であるため、川口村周辺は北麓と考えられていたと言える。鎌倉街道については、単に鎌倉方面に至る道を「鎌倉街道」と称していたことも多いといい、具体的なルートは不明である。

  • まとめ
細かく探せば「富士山南麓」という表現も多く見出せるはずである(という意味で題名に南麓を含んだ)。「どこまでを富士山南麓・北麓・西麓としているか」という点は興味深い。現代では「富士山麓」といったときに広範囲を指しすぎているように感じる。古来のように移動が容易ではない時代、もっと限局した地域を指していたのではないだろうか。中世の使用例を探す必要性がある。

  • 参考文献
  1. 末木健,「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐第121号』,山梨郷土研究会,2009
  2. 山梨県埋蔵文化財センター編『山梨県山岳信仰遺跡群詳細分布調査報告書』 ,山梨県教育委員会,2012

2014年6月25日水曜日

永享の乱時の富士氏

永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた一連の戦乱を指す。

まずこの時の駿河国は、大変に混乱した状況にあった。というのも、駿河国守護である今川家のお家騒動があったためである。当時の今川家当主である今川範政は、後継者に嫡子である彦五郎ではなくまだ幼い千代秋丸を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。そこで駿河国の国人間では、彦五郎支持派と千代秋丸支持派とで分かれることとなった。

室町幕府としては、幕府側の戦力であり鎌倉公方と交戦すると想定される今川氏のお家騒動は、当然望ましくない状況であった。また千代秋丸の母が扇谷上杉氏出身(鎌倉公方と関係が深い)であることから、千代秋丸の家督継承は望ましいものではなかった。そのため室町幕府は彦五郎の家督継承を望み、その関係から千代秋丸支持派の討伐が必要な状況であった。

そこで駿河国の国人である富士氏を当てはめて考えると、富士氏は千代秋丸支持派であった。つまり室町幕府からみれば、討伐対象であったのである。そしてその後室町幕府の支援を受けた彦五郎勢は、千代秋丸支持派を鎮圧した。こうして「彦五郎=今川範忠」は今川氏五代目当主となった。

しかし室町幕府としては、これら千代秋丸支持派を排他的に扱う程の余裕はなかった。むしろこれら一連の動向を罷免し、鎌倉公方への交戦戦力として期待する方針の方がずっと効率的であったのである。その過程で発給されたものが、以下の文書である。


これは今川貞秋の駿河国への入国を、当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人らに伝える文書であり、忠節を求める文書である。内容から永享6年(1434年)に比定されている。室町幕府管領である細川持之の奉書であるため、室町幕府の意向として出されたものである。以下からは、当文書について考えていきたい。
参考1

「細川持之書状写」には「富士大宮司」「富士右馬助」の名が見える。これは各々にそれぞれ同内容のものが発給されたものであり、1つの文書にすべての人物名が書いてあるわけではない。
双方とも富士氏の一族であるが、一方が富士大宮司であるため「富士右馬助」は当然富士大宮司ではない。富士大宮司と成りうる一族のみが「富士姓」を名乗っていたわけではないということは知られているが、まずそれを理解できる文書である。また「富士大宮司」と「富士右馬助」双方が戦力と考えられていることから、当時富士大宮司のみが武力を有していたわけではないと理解できる。また富士大宮司だけでなく「富士右馬助」にも発給されたことは、富士大宮司に並ぶような権威を富士右馬助が保持していたと言える。なので当地の政治を語る時、富士大宮司だけに焦点を当てるのはおかしいのである。領主「富士氏」として考えなければならない。

次に「富士大宮司」と「富士右馬助」とは誰なのか、という疑問が出てくる。まず富士右馬助についてであるが、やや時代が下って「享徳の乱」の頃の複数の文書にて確認できる。

この双方の富士右馬助について、「十五世紀後半の大宮司富士家」では以下のように説明している。

道朝書状写の宛名に見える右馬助が、持之書状の右馬助と合致するかは不明ながらも、同人もしくは彼の先代とも考えられる。すると持之書状の宛名に大宮司の名も見えることから、右馬助系の富士氏は嫡流ではないが、富士氏の嫡流に比肩するほどの有力一族であったと推測することができる。

とし、「参考2」より道朝書状写の右馬助を富士忠時であるとしている。これは文書の内容からほぼ確実であると言える富士忠時は文明10年(1478)の仏像に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるように富士大宮司となっているため、「富士右馬助」系の富士氏も富士大宮司に成りうるということになる。
参考2

富士忠時と能登守の経歴は以下のようにまとめられる。


年号内容
寛正3年(1462)「後花園天皇口宣案」(戦今川・2665)より、富士忠時の能登守への昇官が打診される
天正元年(1466)「足利義政御内書写」(戦今川・28)より富士忠時が能登守となっていることが確認できる
※1462-1466年の間に富士忠時が能登守となっているということが確認できる
文明10年(1478)の時点木造大日如来坐像(戦今川・2668)に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるため、このとき能登守を辞している可能性高い
※「戦今川」とは戦国遺文今川氏編を指す

富士大宮司については、系図から単純に考えれば富士直氏または富士政時と考えられるが、検討が必要である。

つまり永享の乱時の富士氏は、「駿河国内での今川氏家督相続問題」と「東国西国間を舞台にした戦乱」という2つの状況に挟まれる状況にあった。またある意味富士氏にとって、富士家の進退に直接影響する時期であったのかもしれない。このときの富士氏は、今川氏の家臣としての性格は全く伺えない(勝てば官軍なのでそう言い切れないが)。一方これらの文書類から、15世紀時点で既に武家的側面を有することは確実である。領主富士氏の内部構造と性格は、内部構造的には「富士大宮司」と「富士右馬助」の二頭構造にあった。そして富士忠時や富士親時は仏像の造立に関わることから、富士氏の性格として、社家としての側面も間違いなく有していた。ただこの棲み分けは不明である。印象的には、富士大宮司・公文・案主としての三頭体制はやや時代が下るようにも感じる。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2013年12月31日火曜日

富士直時

「富士直時」は富士氏の富士大宮司とされる人物である。康永4年(1345)3月10日の「富士直時譲状写」が知られる。


子である「弥一丸」に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲るという内容である。譲渡される規模や権限から言って、富士直時は富士大宮司であろう(系図上もそれを示している)。その子息なので、「弥一丸」は嫡流(大宮司家の後継)であると予測される。

この文書は、以下の事実を示している。
  • 14世紀前半まで富士氏の存在は確実に遡ることができる("大宮司"という職でなく実名がみえる点で重要)
  • 富士氏は少なくとも14世紀前半には現在の富士宮市を領する立場にあった
  • 「神職」としての側面が確認できる

この文書が出された時代は南北朝時代である。少なくとも南北朝時代より現在の富士宮市という地で富士を称する氏族が領してきたという事実は間違いないと言える。しかし一方で、これ以前の富士氏について探るのは至難である。これ以前の文書としては「富士大宮司館」や「大宮司館」宛てのものが数例あるのみであり(共に『後醍醐天皇論旨』)、またそれらは性格を伺えるものではない。富士氏が領主であり、現在の富士山本宮浅間大社と富士大宮司が表裏一体であったということをただ示唆するのみである。それ以外は系図のみが示唆する状況である。

今回はこの文書にのみ限局して考えてみたい。まず「富士郡上方…」と始まる地域についてである。「富士郡上方」は「≒富士上方」の用例であり、「≒富士宮市」とも言える。文書に見える「天万郷」=「天間」は現在富士市なのであるが、それ以外は現在の富士宮市である。そして富士氏が領していたのは専ら富士上方であり、2世紀下ってもこれは同様であった。その理由は明確であり、富士氏が大宮郷に位置する富士浅間宮の大宮司家であり、大宮を拠点とする氏族であるためである。逆に言えば社家という性質故に、それ以上は広がらなかったとも言える。「富士上方」は14世紀初頭には使用例が確認されている名称であり、富士氏は平たく言えば富士上方の領主である。

次は「弥一丸」についてである。系図に従えば「富士資時」と考えるのが妥当である。妥当であるが、推測にしか過ぎない。他に「弥一丸」が見える史料は無く、特に富士家を揺るがす事象がなければ富士大宮司となる人物であろう…としか言えない状況である。富士直時の次代の富士大宮司である「富士資時」と一致するかどうかも不明であるが、そもそも富士資時自体が史料として見えてこないので、これ以後の富士氏の様相は不明である。それ以後の富士氏の様相を知るには、15世紀中盤あたりまで待つことになる。


  • 参考文献
  1. 大高康正,「東泉院旧蔵「冨士山縁起」諸本の翻刻と解題」

2013年10月24日木曜日

駿河国富士郡領主としての富士氏

富士氏は浅間神社の神職であるが、その枠を超えて領主でもあった。むしろそちらの面の方が古典的であったのかもしれない。富士氏は富士郡大領を務めていた氏族とされているためである。領主というのは普通、ほぼ例外なく諸役(税)を徴収している事実がある。それを感じ取れる史料が以下のものである。


「富士九郎次郎」が小泉久遠寺の諸役を免除するという内容(三百文は以前のように徴収するとしている)であり、領主としての側面が垣間見れる。駿河国の富士上方の社寺に宛てられたものであり、富士氏とみて間違いない。その後は今川義元が判物にてそれらを改めて確認している(天文15年9月29日)。富士氏と駿河国守護である今川氏双方の認識からなるものである。

さてこれら文書が発給された背景には、久遠寺の日我上人が再興の働きかけをしたことに始まる。文書には「及十ケ年大破候」とあり、小泉久遠寺は10年もの間大破した状態であったのである。そして日我から駿河国国人である朝比奈氏を通して、今川義元が再興の意に同意したものである。その同意が「諸役免除」という形であった。それを在地勢力の富士氏が了承し、上の文書を発給するに至ったのである。

さて「富士氏が諸役を免除する」とし、また「三百文は従来の通り収めるように」としていることから、領主として富士氏が存在していたのは間違いない。富士氏は多様性があり、例えば根原(現・富士宮市)の関所は富士氏の「富士長永」が管理・支配していた。つまり富士上方の諸権利に広く関係していたのである。

一方「富士九郎次郎」という人物については分かっていない。この時期の富士家当主は富士信忠と推測されるが、「=富士九郎次郎」ではないということははっきりとしている。天文6年3月6日の今川義元が戦功を評した富士氏宛ての文書は、宛て名が「富士宮若」である。またこの頃「富士又八郎」なる人物の文書も見つかっており(天文22年3月24日・永禄6年12月20日)、この頃活躍していた富士氏の人物が複数人居たと推察される。

しかし「富士九郎次郎」はこれ以外には見あたらず、逆に「富士宮若」は複数以上が確認されている。時代が下ると「富士兵部少輔」(富士信忠のこと)として多くの文書がみられる。「富士宮若」は富士信忠の幼名と解釈され、当主に成りうる人物故に「宮若」としての複数文書類が存在するのだと筋が通るのだが、そうすると「富士又八郎」や「富士九郎次郎」の立場はいっそ不明となるのである。

文書が追加で発見されない限り、この双方の人物は不明のままであろう。

2013年3月25日月曜日

戦国期葛山氏の富士山関連の政策

戦国時代における葛山氏は「葛山氏堯-氏広-氏元」と続き、今川氏の家臣であったとされる。富士山東南の御厨地方周辺は、この葛山氏が支配するところであった。このことから、葛山氏における富士山関連の政策は注目されるところである。

  • 葛山氏尭の政策
葛山氏尭は15世紀から16世紀初頭にて活躍した人物である。氏尭は二岡神社保護の政策を行なっている。その保護の方法として、道者関などを活用する手法が確認できる。大永五年(1525)4月に御厨を通る道者が二岡神社を通るように命じている。これは道者が神社に立ち寄ることを促すことで、散銭などの資金的側面での補助と考えられる。治める上での1つの政策と考えられる。また大永7年(1527)7月には二岡神社に道者関を寄進している。これは、道者関での諸役分などを前面的に安堵するということでもあり、明確な神社保護の政策である。氏堯は北麓の小山田氏などと同様、道者関を活用する政策を打ち出していたのである。

ちなみに二岡浅間(と思われる、要確認)に繰り返し土地を寄進した氏族として大森氏がおり、応永21年(1421年)には大森憲頼が御殿場の二岡権現と小山町の二岡神社に土地を寄進しているという。15世紀中盤は、この土地は大森氏が支配していたと考えられている。また後述の「佐野郷」も大森氏が支配に関与していた(池上裕子,「公演 今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994)。大森氏がいつまで影響力を保持していたかは不明であるが、時代が下る例では『小田原衆所領役帳』にもみられる(「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」)。

  • 葛山氏元の政策
氏元は元は今川氏家臣であったが、今川氏衰退に伴い武田氏に帰属している。それは武田氏の駿河侵攻の際、大宮城(富士郡大宮)を穴山信君(武田氏家臣)と共に攻めていることで明確である(永禄12年2月)。その攻撃を富士信忠(大宮城城主、富士氏当主)は退いている。この事実から、葛山氏独自の政策がみられるのは駿河侵攻以前が主であるので、その時期の政策例を挙げたい。また氏元の代で葛山氏は滅亡していると伝わる。

またこの大宮城が位置する大宮で1つ確認しなければならないことがあり、以下の「今川氏真判物」により葛山一族の「葛山頼秀」が富士大宮司領の代官職を改易させられている事実がある(画像1)。改易されてはいるが、それまで代官職を受け持っていたという裏付けでもある。葛山氏はそれ以前にも、富士上方の 「山本 ・久日 ・小泉」を吉野氏に安堵するなどしている。つまり葛山氏の手は富士郡まで伸びていたということになる。



画像1

この改易の事実は、武田氏への帰属と関係していると考えるべきであろう。

文書1

葛山氏元は天文20年(1551)12月に、浅間神社(須山浅間神社か)の神主に禰宜分の懸銭を安堵する判物を出している。また天文21年(1552)正月に佐野郷(現・裾野市)の浅間神社修繕を目的とする勧進の許可を出している。

この「佐野郷の浅間社」についてであるが、『裾野市史第8巻通史編1』では裾野市域に2例の浅間社があったとし、その一方であるとしている。


所在地神社名初見典拠・参考事項、()の数字は『市史』の資料番号
大畑「あしたかの御まつり」社あるいはその前身か
茶畑か佐野郷浅間社(506)(551)神主柏宮内丞、禰宜助三郎
須山浅間社(411)
『裾野市史第8巻通史編1』P289より引用

文書2、後半掲載せず

天文21年12月には佐野郷の浅間神社の神領を安堵している。弘治3年(1557)8月には岡宮浅間神社の法度を定める判物を出している(同旨の判物が永禄4年にもあり)。永禄元年(1558)8月には佐野郷の浅間神社に修造のための勧進の許可を与えている。

文書3

永禄6年(1563)3月には須走口の過所に関する朱印状を出し(文書1)、永禄7年(1564)5月には須走の道者関にて毎度のように滞りなく処理するよう命じている(文書2)。永禄8年(1565)4月にも須走の道者関にて納めさせるよう命じている(文書3)。同年5月には、富士山を警固するために遣わした者の兵糧について命じている(文書4)。

文書4

須走口を多角的に管理している点で、特筆すべき動向であろう。

  • まとめ

これら判物などをみていくと、葛山氏が浅間神社を厚く保護していたことに間違いはない。特に須走口・道者関関連の施策の部分には注目である。葛山氏は道者関を管理し、道者の取締りを行い、須走口の管理を行なっていた。これは富士山麓の須走口の登拝関連のほとんどを全体として取り締まっていたと考えて良い。ここに葛山氏の統治性を感じ取ることができる。村山口は単独の氏族なりが取り仕切る形態はなかったため今川氏管理の下であったと考えられるが、須走口は葛山氏管理の下で継続されてきたと言える。後に武田氏により須走浅間神社に内院散銭の寄進が行われたのは(1577年)、ここが葛山氏管理の地であったために、葛山氏帰属後速やかに保護的政策が施すことができたためでであろう。

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  2. 『裾野市史第8巻通史編1』P289-290

2012年11月21日水曜日

享徳の乱と富士氏

文書1
まず最初に文書を掲載したい(文書1)。

享徳四年(1455)閏四月十五日、上杉持朝(扇谷上杉家当主)は「富士右馬助」宛てに、所々の戦功を賞する内容の文書を発給している。そして恩賞については上杉房顕(山内上杉家当主)と相談するように、という内容である。「享徳の乱」の際富士氏は、幕府より上杉氏への支援を命じられており、こういう文書が残されている。

「右馬助」は官途名であり、そういうものは一族で継承されることも多い。寛正3年(1462年)11月2日の「後花園天皇口宣案」の受給者は「右馬助和邇部忠時」、つまり富士忠時である。そして今回の文書は1455年とさほど時期を隔てていないため、ここでいう「富士右馬助」も富士忠時と考えることができる。

次に「醍醐寺文書」を掲載する。

これは上杉持朝との約束が反故にされているため、富士忠時が西南院に宛て、細川勝元(室町幕府管領)を通じ、持朝だけでなく上杉房顕への下知も依頼した文書である。享徳四年(1455)の文書とつなげて考えることができるため、忠時が恩賞を受けていないことの不満から発給されたと考えられる。

富士忠時の時代、富士家は武力を保持していた。そのため幕府からの依頼が来ることも多く、その結果古河公方勢力と戦をしていたことが分かる。そして数々の戦功を上げていたということも分かる。それらから、反古河公方勢力の中心である扇谷上杉家や山内上杉家などと関係が深かったのである。

しかし恩賞の約束が果たされておらず、当時の室町幕府の権力者管領「細川勝元」(後、応仁の乱を引き起こす人物)を通すことで、恩賞が支払われることを望んだのであろう。享徳の乱の時の富士氏は、こういう情勢であった。


「醍醐寺文書」

  • 参考文献
  1. 黒田基樹,『扇谷上杉氏と太田道灌』P120-123,岩田書院,2004年
  2. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2012年11月16日金曜日

富士家のお家騒動と足利将軍

まず、以下の文書を紹介したい。

「足利義政御内書(写)」、『戦国遺文今川氏編』二十八号文書
これは文正元年(1466年)の「足利義政御内書(写)」であり、「足利正知」宛である。内容は、富士忠時が右馬助から能登守への昇官することを承諾した上で、大宮司職を又次郎親時(忠時の子)に譲るという内容である。つまり、大宮司職が富士忠時から親時に移行することを意味する内容である。

富士忠時」にありますように、富士忠時は富士氏の大宮司職であり、当初官途名は「右馬助」であった。「静岡県の富士山の神仏像」に村山浅間神社蔵の大日如来像を掲載しているが、その仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とある。富士忠時が右馬助から能登守に昇官していることの裏付けである。

今回はこの「大宮司職を又次郎親時に譲る」という部分に関連する事柄について着目したい。系図上大宮司職は、富士忠時の次代が富士親時となっている。


つまり、「足利義政御内書」と辻褄があう。この富士忠時であるが、父「兵部少輔入道祐本」と人事を巡り確執があったとされている。つまり家督相続を巡るお家騒動である。このお家騒動があったことは、様々な資料で確認できる。『臥雲日件録』には以下のようにある。

寛政六年六月十八日、本寺長老來、茶話之次、問駿州国人富士父子闘争之事

とある。寛正六年(1465年)の記録であるが、つまりこの富士家のお家騒動の事は世に知れ渡っていたのである。「富士父子」は富士忠時(子)と兵部少輔入道祐本(父)のことである。また『親元日記』にもお家騒動の事が記されている。『親元日記』の寛政6年(1465年)7月の記録には以下のようにある。

就富士兵部大輔入道親子確執之儀父子確執事候間

とある。また同年12月17日条には以下のようにある。

富士兵部大輔入道祐本方江御状、孫宮若丸就二安堵之儀二千疋、同為御判頂戴御禮千疋…

とある。これは祐本が孫宮若丸における「安堵之儀」及び「御判頂戴御礼」として計3000疋を京都に送ったという内容である。ここで一回整理しますが、富士兵部大輔入道祐本からみて息子が「忠時」であり、孫(つまり忠時の子)が宮若丸と親時である。「安堵之儀」などの文面から、祐本は忠時から宮若丸へ家督を譲ることを推していたわけである。

『戦国遺文今川氏編』第十四号文書、「伊勢貞親書状写」

そうすると矛盾がでてくる。なぜなら、足利義政御内書では「親時に譲る」とあるからである。宮若丸は富士忠時の子であるが、嫡子はあくまでも親時である。おそらく、当時の富士大宮司であった富士忠時は、家督相続は嫡子である親時が筋であると考えていた(普通は嫡子に優先的に家督相続させるものである)。しかし忠時の父祐本は嫡子ではない宮若丸への家督相続を望んだため、ここで祐本と忠時との間で深い亀裂が生まれたのである。そのようなお家騒動の中、「足利義政御内書」にて分かるように、将軍(権力者)からは「親時を大宮司とせよ」という帰結が望まれていたわけである。つまり足利義政の方針は、祐本にとっては意中にそぐわないものであった。

「十五世紀後半の大宮司富士家」によると以下のようにある。

義政の御内書写には、祐本に使節を遣わして「相宥」めたところ、祐本は納得せず、館を出て社頭を放火したという。つまり、祐本による宮若丸への家督譲渡に納得しない将軍義政に対し、祐本は反発して社頭の放火を行った、さらにこの事態に憤慨した義政が、御内書で親時への大宮司職の移動を伝えた、という経緯を知ることができよう。

とあり、祐本が権力者である足利将軍の意向に反発する動きが見られるのである。ただこの前文に「祐本の孫宮若丸は、忠時の子息と考えられるが、祐本は子息の忠時ではなく、孫宮若丸への家督譲渡を考えていたのである」ともある。この部分の記述は、「祐本の孫宮若丸は忠時の嫡子ではないが、祐本は嫡子の親時ではなく宮若丸への家督相続を考えていた」と理解している。仏像の銘に「大宮司前能登守忠時」とあることから、富士忠時が大宮司であることは間違いないし、このお家騒動の時は忠時が大宮司であったということで良いと思う。

『親元日記』三

『親元日記』三

そして親時が大宮司となることとなり、実際に明応六年(1497)に富士親時が「富士浅間宮物忌令」を発しているのである。

『戦国遺文今川氏編』一〇六号文書 ※≈の部分は省略箇所
つまりこのお家騒動は、父であり先代の大宮司と考えられる祐本が家督相続に介入したために起こった騒動と言えそうである。ちなみに「兵部少輔入道祐本」は富士直氏とされている。

『浅間神社の歴史』によると以下のようにある。

現存富士氏系図には祐本の名は無い。されど当時入道しているのを見れば、寛正3年に能登守に任ぜられた右馬介忠時は、その子と想像せられるから、二十五代直氏の入道名であり、また宮若丸は二十八代親時であろう。

とある。実際「兵部少輔入道祐本」が富士直氏かどうかは、正確には分かっていない。しかし、家督相続に異を唱えることができたのは父くらいであろうから、忠時の父と言って良いと思う。尚『元富士大宮司館跡』では「富士祐本が孫宮若丸への家督相続安堵を得て決着したようである」と記しているが、足利義政御内書を見る限りそうではなく、やはり「祐本の意図とは異なり、親時を家督相続することで決着したようである」とした方がよさそうである。ただここまではあくまでも「大宮司職を務めた流れが嫡流である」という前提で書いている。例外があるとすると、理解はもっと複雑になるかもしれない。「富士氏」という考え方と「富士大宮司」という考え方を整理する必要はある。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年
  2. 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P8・P167,名著出版,1974年
  3. 宮地直一,『浅間神社の歴史』(名著出版 1973年)P573-575
  4. 富士宮市教育委員会、『元富士大宮司館跡』、2000年
  5. 久保田 昌希 ・ 大石 泰史編,『戰國遺文 今川氏編第1巻』,東京堂出版,2010年

2012年11月8日木曜日

高橋虫麿の不尽山を詠める歌

高橋虫麿の「不尽山を詠める歌」は以下のようなものである。

なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり とぶ鳥も とびも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊しくも います神かも せの海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも

原文は「万葉仮名」である。もちろん、「田子の浦に うち出でてみれば…」の歌も原文は万葉仮名ですね。意味は以下のようになる。

甲斐国と駿河国の真ん中に立っている富士山は、雲をも行く手を阻まれ、鳥も飛ぶのをはばかる。燃える火を雪が消し、降る雪を火が消している。言い表すのが難しい、名をつけることもできない程の霊験あらたかな山である。せの海と名付けられるのも、富士山に包まれているためである。人が渡るその富士川も、富士山から流れい出でている。日本の国を鎮める神とも宝とも言える山である。駿河の国の富士山はいつまで見ていても飽きないことだ。

「せの海」については「富士五湖とは」を参照。以下反歌。

(1)富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ゆればその夜降りけり
(2)富士の嶺を高みかしこみ天雲もい行きはばかりたなびくものを

の二首である。その後に「右の一首は高橋虫麿の歌の中に出づ。類を以ちてここに載す」の注釈がある。もしこれがただ純粋に「右」だとしたなら、(2)の短歌を指すことになるので、他のものは虫麿作とは言えない。しかし「類を以ちて」がこれら3つを指しているのだとして、この「不尽山を詠める歌」は虫麿作という風に一般には考えられている。

「なまよみ」の意味について諸説あるが、「半分、黄泉」という意味であり、「死者の国と、この世の堺の国」という意味である。「死」や「未開の国」というニュアンスである。この「なまよみ」は甲斐国の枕詞とされているが、このようなおどろおどろしい意味が枕詞であるということに懐疑的な見方もあり、齋藤芳弘氏が「枕詞ではなかった」と指摘している。

「黄泉」自体は「イザナギ・イザナミ」の神話などに出てくるが、当時の識者はこれら神話も知っていたのであろう。「古事記」が撰上されたのは711年とされ、高橋虫麿が富士山を詠める歌を作成したのが「719年-742年」辺りとされる。だから黄泉の説話を知っていてもおかしくはない。つまり「黄泉」が「死」に直結する意味を持つことを知っていたため、「よみ」という言葉を用いたことは想像できる。「なまよみ」が用いられている古代・中世の歌は、『万葉集』『夫木和歌抄』に限られるという。そして双方とも高橋虫麿作と推定されている。つまりこの時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない。そうすると、たしかに枕詞とは断定できないかもしれない。

不尽河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ」の部分は注目である。ここでは「人が渡るその富士川も、富士山から流れい出るのだ」としている。「人の渡るも」というのは、道の途中で富士川が通っているため人が富士川を渡っていく様を表しているのであり、その山というのは富士山を指している。そしてその後「駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも」としていることから、駿河国の富士川付近から甲斐の国を見て歌ったものであるとされる。しかし当然ながら富士川は富士山から発生しているわけではない。つまりイメージで言っていることになる

この事実から、「たった一例しかなかった…(参考文献)」「富士川と五湖への虫麿の誤解…(参考文献)」などで「この人物は甲斐国にいったことは無かった」としている。これだけで甲斐国に行ったことがないとは断定できないかもしれない(実際せの海などを知ってはいるので)。ただ知見があまりないということは言えるし、だとしたら「未開の国」というニュアンスを含めたことも頷ける。この人物は東国・西国を行き来していた人物であり、それでも知見がないとなると、やはり甲斐の国は(他の国と比較して)未開の国として見られていたのかもしれない。その印象を先ず冒頭にもってきたのだろうか。

『古今和歌集』に小野貞樹の歌があるので、挙げてみる。

宮こ人いかにと問はば山高みはれぬ雲いにわぶと答へよ

この歌の詞書に「甲斐の守に侍りける時、京へまかりのぼりける人に遣はしける」とある。つまり、まとめるとこうなる。小野貞樹は甲斐守の任期を終え京へ戻る下僚に対しこう伝えた。もし都で「小野貞樹は甲斐でどのように暮らしているか」と聞かれたら、そのときは「山が高く、雲が多く陰鬱な国で心も晴れずに日々を送っている」と答えて欲しい、と。つまり「なまよみ」と歌われてもおかしくないような印象は、他の人物でも同様と言えるのである。

そしてこの「イメージで言っている」という事実は重要である。この歌は、ある事実からもよく知られている。それは「国のみ中ゆ出で立てる」ということから、例外的に「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」と詠っている点である。他の歌では、まずこのように表現するものは見当たらない。つまり他の歌と比較して、かなり例外的なのである。他の歌では一貫して「駿河の国の富士山」としているのであり、この例外を普遍的であると考えてしまうと、富士山を巡る歴史の理解が進まない。先程のように印象で語っている部分が見られることを考えると、やはり「富士山は駿河国と甲斐国に跨る」という部分も、印象や根拠のない雑感から歌ったものであろう。ちなみに「せの海と名づけてあるもその山の包める海ぞ」という部分から「せの海」を「富士山に囲まれている」としている。しかしそれも誤りである。だから、例外的認識が出現した原因もこの事例で説明できてしまうのである。

さて、枕詞となった背景としては「国学者が用いたため」としている。先程「この時点では、単独の人物にのみによって用いられたとしか言えない」と書きましたが、大きな時期を隔て、かなり後世になって甲斐国の枕詞として用いられているのである。酒折宮にある、本居宣長撰文平田篤胤筆の石碑「酒折宮寿詞」には以下のようにある。

なまよみのこの甲斐の国のこの酒折の宮はもよ(書き出し部分の読み下し)

このように、枕詞として「なまよみ」を用いている。そして同じく国学者で本居宣長の弟子の「萩原元克」は、以下のような歌をうたっている。

なまよみの甲斐の国みすずかる信濃の国の二国の国のみ中にいや高く(読み下し)

その後も多く用例が見られ、二葉亭四迷の『浮雲』には「殊にはなまよみの甲斐なき婦人」などとあるという。この時代、かなり定着していることが伺える。甲斐の国の古典的表現が、江戸時代になって再び用いられたことが大きいと指摘されている。

  • 参考文献
  1. 斎藤芳弘,『たった一例しかなかった「なまよみの」-甲斐の枕詞を考証する』,甲斐路No.93,1999年
  2. 斎藤芳弘,『富士川と五湖への虫麿の誤解 枕詞でなかった「なまよみ」-万葉集「富士讃歌」解剖-』,甲斐No.122,2010年

2012年11月1日木曜日

富士川の歴史民俗編

富士川は長野県-山梨県-静岡県-駿河湾と続く河川である。富士川の歴史については多面的に考えてみたいが、ここでは主に民俗的な視点で追求したいと思います。

「一遍聖絵」第6巻(一遍上人絵伝)に見える富士山と富士川
  • 文明の基点という考え方

網野善彦「甲斐の歴史をよみ直す」では、以下のように記している。

山梨については、これまで「孤立した山国」という固定したイメージ、理解の仕方がかなり広く行き渡っていたのではなかろうか。(中略)山は周囲から人を隔てるという性格を一面に持っている。しかし、山には山なりの道があった。と同時に甲斐を縦横に流れる河川は山や盆地を海とつなぐ、海に向かって開かれた道だったのである。(中略)このなかで田代氏は、直径五十センチメートルを超える大型の渥美焼が河川に沿って分布している状況を確定しながら、不安定な馬の背に限る陸路よりも、船によって海から富士川をさかのぼって甲斐にもたらされた可能性が高いことを指摘している

これが真実であるとすると、甲斐の国というのは富士川などの河川を基点として文明が開いたといっても過言ではない。このように、富士川から歴史を考える必要性もあるかもしれない。

笹本正治「早川流域地方と穴山氏」には以下のようにある。

河内領という名称について文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、「河内カワウチ訓ズ。河落ノ転ナルベシ。三郡諸河一道二会集スル処」と伝えているが、この地はまさに富士川を中心として開けているといっても過言ではなく、人家は富士川の沿岸と富士川に流れ込む小河川のまわりを中心として点在している

上は交通手段としての河川の役割についてであるが、この場合は在地の民衆が水の恵みを頼りとし、沿岸に住み着いていた事が感じ取れる。

  • 富士川水運

富士川を語る際、外せないのは「富士川水運」であろう。「『富士川流域河川調査書』にみる物資物流」より引用。

富士川舟運は、(中略)山梨県ばかりでなく長野県、特に、その中信地域の物資物流の大動脈であった。しかし、明治三十六年(一九〇三)には中央線が甲府まで開通し、さらに、富士川に沿って北上してきた富士身延鉄道の昭和2年の完成によって富士川舟運は近世初頭以来のその役割を終える。 

とある。そしてこのような認識で正しい。しかしそれまでは非常に重視された物流手法・ルートであった。その地域における位置づけも大きく、外せないものであっただろう。しかし後に完全に衰え、過去富士川水運で栄えた地域は今は衰退している(例:鰍沢町(現・富士川町)、南部町など)。田山花袋の『赤い桃』には以下のようにあるという。

鰍沢は十年前とはまるで変ったやうなさびしい町になってゐた。(中略)依然として川舟の出る河港はあった。しかしそのさびれてゐることよ。その衰へてゐることよ。その茶店のさびしく田舎的になってゐることよ。

つまり水運という糧を失って、町自体が寂れてしまったのである。鰍沢は舟運の町と言ってもよく、鰍沢の人口増加は水運の発達によるところが大きい(明治二十年代は最盛期だという)。「富士川運輪会社」なるものも、鰍沢に設立されている。これは明治八年のことであるが、中央線が甲府まで開通した明治三十六年から数年後の明治四十四年には、富士川運輪会社は総会を開き会社存廃の件を議題にしている。この事実からも、中央線開通の影響力の大きさが感じ取れるだろう。その後は悲惨な状況であったという。

『富士川流域河川調査書』には「鰍沢、青柳、黒沢、三河岸、市部、切石、南部、下稲子、沼久保、星山、松野、岩本、松岡、堀川、岩淵」のデータが記されているという。そしてこの地域は共通して富士川沿いであり、河岸・船着場などがあった地域と想定される。広域であり各地域について取り上げることは不可能であるため、ここでは富士宮市を例に説明していきたい。

富士宮市で富士川水運で栄えた場所は概ね「稲子」「沼久保」かと思う。沼久保は現在も問屋跡が残る地域である。問屋は物資などを保存・管理する場所である。以下の建物がそれである。

問屋(富士宮市沼久保)
「富士川-富士川水運-問屋」のイメージは重要である。




実は私は敷地内に入れてもらい、詳しく話を伺っています(ありがとうございます!)。なので、内部からも撮影できています。やはり私は、重要な歴史遺産だと思いますね。

  • 角倉了以
角倉了以は、富士川水運の環境を整えるため開削を行った人物である。角倉了以は本性は吉田氏といい、宇多源氏の流れという。近江佐々木氏の一流で、近江の吉田の地を根拠地とし吉田氏を称したという。その後(吉田)徳春が京にて室町幕府に仕え、その子宗臨が土倉を営んだため「角倉」と称されるようになったという。

「近世の富士川水運」によると、以下のようにある。

慶長十二年角倉了以が幕府の命を受け開鑿浚渫を行い通船が可能となった。(中略)しかしこの大事業が慶長十二年に完成したとは考えられない。市川大門村(町)円立寺の鎮守天神祀の天神画像の裏書に「慶長十七年(中略)京都角倉勝左衛門富士川通船始之砌祈願之天神」とあり、おそらく慶長十七年に富士川通船が創始されたと考えるのが妥当であろう

としている。また同論考によると貢米(年貢米)は「-岩渕-蒲原(陸送)-清水港-江戸」と運ばれたようである。そしてこれを扱う問屋は独占的特権であったという。これらの地域は重要な輸送ルートであっただろう。

  • 難所
「富士川水運の民俗」によると、以下のようにある。

鰍沢から岩淵まで富士川十八里を船頭たちは『カワタケ』とよんでおり、『カワタケ』とは川が滝をなして流れることからよぶので、『カワタキ』というのだともいわれており、『カワタケ十八里』のうち支流早川の合流するところから上流を『クニガワ』といい、富士川とは早川の合流する下山以南を指してそうよんだのだといい、船頭らは船がクニガワに入つて来るとホッとしたという。

この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。

富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、(中略)かくて富士橋の下、釜が淵といふところは、まことに目をあきてみられず、恐ろしき難所なり、そこを過ぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり
このように、非常にスリリングなものでした。「富士川水運の悪場(難所)」によると、「天神ヶ滝、屏風岩、銚子ノ口(釜口=旧芝川町)」の三箇所は「富士川水運三大難所」と呼ばれていたという。ある種、賭けのような場所であったのだろう。川の合流点が「釜」で、水深があるところを「淵」というといい、そういう地名が多い。

しかしここまで犠牲を払ってまで水運に頼るのは、やはり生産の拡大や流通の必要性があったからである。水運は効率的であり、選択肢としては外せなかったのだろう。上で年貢米の例を出しているが、幕府の天領であった甲州は直轄の支配を受けていた。甲府の支配域の年貢分は鰍沢河岸から、市川の年貢分は青柳河岸から、石和の年貢分は黒沢河岸からと各河岸から積み出されることが決まっていたという。その関係で、これら地域には大規模な蔵があったであろう。特に鰍沢は諏訪領の米も積みだしていたといい、鰍沢に位置する諏訪問屋の裏の出入り口が由来となって『裏門』という地名があるという。

また『甲斐国志』にも「アクバ」が記され、やはり「銚子の口」などは記されている。古くから懸念の案件であったのだろう。鰍沢には「八幡神社」があるが、これは舟運安全祈願の社であったという(「研究材料七、建築」)。

  • 水運と客船

東海道線が開けてからも、水運は尚生活に必要なものであったという。例えば、電車の発着時間に合わせ水運の時間も調整していたようである。それ故に「時間船」「普通船」といったようなものがあったという。実は私もこの話は聞いたことがある。不特定多数の山梨在住の高齢者に話を聞いたことがあるが、水運で下って静岡の鉄道線に乗った方が圧倒的に効率的に移動できたらしい(私が静岡なのでこの話題を出したのだろう)。これはかなり強調されていたので、習慣的な方法であったのだと思う。「郵便船」というものもあったといい、『甲府局誌』によると「明治四年甲府柳町二十二番地に郵便取扱所を設置、東海道吉原より甲府へ郵便枝道を開いた」とあるという。

以上、富士川の歴史でした。

  • 参考文献 
  1. 青山靖,「富士川水運の民俗」『甲斐路』No1,1961年 
  2. 齋藤康彦,『富士川流域河川調査書』にみる物資流通,『甲斐路』No.88,1996年 
  3. 望月武実,「角倉了以と富士川の開削」,『甲斐路』No.88,1996年 
  4. 清水小太郎,「近世の富士川舟運」,『甲斐路』No.88,1996年 
  5. 石川博,「富士川下りを描いた文学」,『甲斐路』No.88,1996年 
  6. 立川實造,「富士川水運の悪場(難所)」,『甲斐路』No.88,1996年 
  7. 羽中田壮雄,「建築」,『甲斐路』No.88,1996年 
  8. 網野善彦,『甲斐の歴史をよみ直す―開かれた山国』P11-14,山梨日日新聞社,2008年改版 
  9. 笹本正治,「早川流域地方と穴山氏」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年