2013年12月31日火曜日

富士直時

「富士直時」は富士氏の富士大宮司とされる人物である。康永4年(1345)3月10日の「富士直時譲状写」が知られる。


子である「弥一丸」に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲るという内容である。譲渡される規模や権限から言って、富士直時は富士大宮司であろう(系図上もそれを示している)。その子息なので、「弥一丸」は嫡流(大宮司家の後継)であると予測される。

この文書は、以下の事実を示している。
  • 14世紀前半まで富士氏の存在は確実に遡ることができる("大宮司"という職でなく実名がみえる点で重要)
  • 富士氏は少なくとも14世紀前半には現在の富士宮市を領する立場にあった
  • 「神職」としての側面が確認できる

この文書が出された時代は南北朝時代である。少なくとも南北朝時代より現在の富士宮市という地で富士を称する氏族が領してきたという事実は間違いないと言える。しかし一方で、これ以前の富士氏について探るのは至難である。これ以前の文書としては「富士大宮司館」や「大宮司館」宛てのものが数例あるのみであり(共に『後醍醐天皇論旨』)、またそれらは性格を伺えるものではない。富士氏が領主であり、現在の富士山本宮浅間大社と富士大宮司が表裏一体であったということをただ示唆するのみである。それ以外は系図のみが示唆する状況である。

今回はこの文書にのみ限局して考えてみたい。まず「富士郡上方…」と始まる地域についてである。「富士郡上方」は「≒富士上方」の用例であり、「≒富士宮市」とも言える。文書に見える「天万郷」=「天間」は現在富士市なのであるが、それ以外は現在の富士宮市である。そして富士氏が領していたのは専ら富士上方であり、2世紀下ってもこれは同様であった。その理由は明確であり、富士氏が大宮郷に位置する富士浅間宮の大宮司家であり、大宮を拠点とする氏族であるためである。逆に言えば社家という性質故に、それ以上は広がらなかったとも言える。「富士上方」は14世紀初頭には使用例が確認されている名称であり、富士氏は平たく言えば富士上方の領主である。

次は「弥一丸」についてである。系図に従えば「富士資時」と考えるのが妥当である。妥当であるが、推測にしか過ぎない。他に「弥一丸」が見える史料は無く、特に富士家を揺るがす事象がなければ富士大宮司となる人物であろう…としか言えない状況である。富士直時の次代の富士大宮司である「富士資時」と一致するかどうかも不明であるが、そもそも富士資時自体が史料として見えてこないので、これ以後の富士氏の様相は不明である。それ以後の富士氏の様相を知るには、15世紀中盤あたりまで待つことになる。


  • 参考文献
  1. 大高康正,「東泉院旧蔵「冨士山縁起」諸本の翻刻と解題」

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