2016年12月26日月曜日

松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図について

比較的最近発見された「富士曼荼羅図」に「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」(以下、当図または当曼荼羅図)がある。参考文献として「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」を参考に、解説していきたいと思います。まず、以下がその図である。

「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」  (※両端少々切れています

まず著名な「絹本著色富士曼荼羅図」(重文)は「絹本著色富士曼荼羅図を考える」にあるように、”富士山信仰を広める目的があり、富士山信仰を絵画という形で説いたもの”であり、それは当曼荼羅図でも同様である。文献によると、この作品を伝来していた松栄寺(愛知県常滑市)の周辺で富士先達を勤めていた歴史があり、ここに伝来していたことには相関性がある。絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、当曼荼羅図では75人が描かれている。また以下のような説明がなされている。

白装束に身を包んだ富士山への参詣者である道者を画中に45人配置することで、道者が富士参詣する賑わった様子を表現している。またこの道者を導くかたちで頭襟を額に付けた山伏の人物図像が各所に配置されている点は、道者を案内する先達を意識した図像であっただろう。

とし、中世後期に作成された富士曼荼羅図の特徴を持つものであるとしている。


  • ルート

構成は絹本著色富士曼荼羅図と同様で清見ヶ関周辺が道者のスタート地点として設定されている。つまり当図は駿河国側を描いたものであり、もっと言えば「大宮-村山」(大宮:浅間大社のあるところ 村山:富士山興法寺等があるところ)を中心として描かれたものである。

清見ヶ関周辺(当図)

ルートは「富士本道」であり、「駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート」にある「岩本-高原/山本-黒田/田中-大宮」(黒字は確実)のルートである。例えば文政6年(1823)の紀行文に「東海道蒲原吉原の間、富士川東より左へ入、参詣道なり。大宮に凡二里斗、大宮に社人寺院も有」とあるのも、このルートである。

  • 時代背景
浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。絹本著色富士曼荼羅図では浅間造が確認できず、一方「紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)では描かれており、前者は中世作で後者は近世作であるというように推定がなされてきた。

浅間造(「紙本彩色富士曼荼羅図」、静岡県立美術館蔵)

浅間造でない(絹本著色富士曼荼羅図)


富士浅間曼荼羅図(県指定)、浅間造でない

当図は浅間造が確認できず、上の法則に従うと中世期のものと推察される。

富士山本宮浅間大社(当図)
  • 絵解き
絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、3名の女性が図示されている位置より上では女性が描かれず、女性が登拝できる限界点が示されていた。つまり「女人禁制」であるが、当図でも八幡堂前の3名より上では描かれず女人禁制が示されている。

3名の女性(絹本著色富士曼荼羅図)

3名の女性(当図)
当図上方に目を移すと柵の横で焚き火をしている様子が描かれ、その少し上でも小屋内にて火を燃やしている様子がある。絹本著色富士曼荼羅図では上方で松明に火を灯して登拝する様子が描かれており、夜間登山を示す構図となっている。

松明に火を灯し登拝する様子(絹本著色富士曼荼羅図)

焚き火や小屋の様子(当図)

また文献では復路として潤井川と凡夫川が合流する「龍巌淵」付近を描いているといい、龍巌淵での禊を描くために復路が描かれるに至ったと推察している。

また「富士山決」(『神道門前法則・三種紙祇之事』所収)という史料がある。ここには"山体から下山し凡夫川の水を浴びる事は神道灌頂の「長生不老初湯」である"とする記述が見えるという。六所家所蔵『富士山大縁起』でも類似性がある記述があり、大変注目される(大東敬明,「「富士山決」覚書」『「富士山−その景観と信仰・芸術−」特別展図録』,2014)。

富士山興法寺(当図)

村山から国へ戻る際、往路として通った浅間大社(大宮)ではなく直接この龍巌淵へ至ったとしている。

  • 参考文献
  1. 大高康正「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」『聚美18号 富士山 ─信仰と美の象徴』,2016

2016年12月12日月曜日

元亀天正期の富士郡情勢を富士氏と小笠原信興から考える

元亀-天正期(1570年-)の駿河国富士郡は、武田氏の手中にあった時代であった。富士郡最大の要害である大宮城(富士城)は開城し、富士氏の軍事力の行使は不可能となっていた。著名な文書に、以下のものがある(※原隼人佑→原昌胤)。



というように、元亀期に富士氏当主富士信忠は武田氏に帰順している。若林氏は以下のように説明している。
氏真とて往年の勢威を保っているならば、富士氏をその陣営にひきとめる手段もあったであろうが、後北条氏の保護の下に生きる身であって見ればひきとめることも出来ず、「無相違出上旨」と富士氏に暇を与えざるを得なかったのである。(中略)大宮司家富士兵部小輔、彼は蔵人の父であろうが、その兵部小輔が甲州に参上しているのを見れば、武田氏への傾斜を深め、やがてその被官となっていたのであった
としている。

  • 小笠原信興
『寛政重修諸家譜』巻一二四一に以下のようにある。

勝頼味方に属せば加恩すべきのむねをいひ贈る、氏助これに同心し志を変じて降参す、勝頼すなわち駿河国富士郡鸚鵡栖にをいて一万貫の地をあたふ

つまり氏助(=小笠原信興)に対し、武田氏当主である勝頼が「武田に味方すれば恩給を与える」と言い、氏助がこれに従ったことにより富士郡の鸚鵡栖(=重須、現在の富士宮市)の地を得たとある。

また以下のような文書がある。



これによると、富士郡下方庄(=富士市)にて一万貫分が充てがわれることを約束されているとある。双方共に疑わしい記録であるが、どちらにせよ富士郡の地が武田氏の支配下に置かれているために成せるものであり、小笠原信興の転封を示すものである。他に『甲斐国志』(巻之九十八人物部第七)に〔小笠原与八郎長忠〕「与八郎於富士郡重須授壱万貫ト云」とあり、こちらでも同様の記述が確認できる。

以下の文書は、信興の知行先として富士郡由野郷が充てがわれていることを示す文書である。


信興による朱印状なので、このとき富士郡由野郷が信興のものであったことは間違いない(「由野之内」とある)。信興の移転と共に家臣も移動するわけであるが、由野(=柚野、富士宮市)へと移った家臣の諸役免除を伝える内容となっている。

「高天神」とは遠江の高天神城のことで、信興は元々高天神城主であった。そこを相返(=城主返上)したわけである。よく勝頼の武功を引きたてるときに「勝頼は確かに武田家を滅亡させたが、父信玄でも落とせなかった高天神城を落としている」と説明される、その城である。つまり信興は高天神城主を退いた後、富士郡周辺へ拠点を移しているのである。

入ってくる者がいれば出ていく者もいる。その過程が文書で確認できる。



宛は「篠原尾張守」であり、「小笠原殿衆屋敷」が篠原氏所有の土地に置かれるので代替地を用地するという内容である。篠原氏は元来より富士郡由野郷の在地勢力であり、今でも柚野の地には篠原姓が多く居る。この2つの文書は互いに小笠原信興の富士郡周辺への転封を裏付ける形となっている。つまり小笠原衆が富士郡へ転封したことにより、由野の在地勢力である篠原氏が工面を強いられる形となったわけである。

元亀から天正にかけての富士郡は、武田氏による領国運営が進められた時期であった。富士信忠も小笠原信興も元城主であるが、その双方共に武田氏に帰順しており、武田氏は対徳川に備えるための時期であったと言える。


  • 参考文献
  1. 小笠原春香「武田氏の戦争と境目国衆-高天神城小笠原氏を中心に-」『戦国大名武田氏と地域社会』,2014
  2. 若林淳之「武田氏の領国形成-富士山麓地方を中心に見た-」『戦国大名論集10 武田氏の研究』,吉川弘文館,1984