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2025年9月26日金曜日

了然の父葛山長爾は富士大宮司か、『再校江戸砂子』の記述を考える

 江戸時代のベストセラーに『江戸砂子』という地誌がある。長きに渡り断続的に出版され続けたため、多くの版本が残る。例えば文政8年(1825)の「書林永寿堂新刻目録」にも『江戸砂子』が見える(林屋正藏作・歌川國貞画『尾尾屋於蝶三世談』)。ちなみに永寿堂は「西村屋與八」である。


明和7年(1770)になると表題は近しいものの内容は異なる『再校江戸砂子』というものが刊行される。ここに気になる記述があるため引用したい。

了然禅尼菴室 (中略)駿州富士大宮司葛山何かしといふもの武田信玄の子を養て子とす、葛山十郎義久と云、其子を長次郎と云。(中略)その頃世に画見の長次と称。京都泉涌寺門前に閑居して茶をこのミ、又よく古画目利也。(中略)一女ありこれも能書にて学文をこのむ(明和9年(1772)板『再校江戸砂子名跡誌』巻一)。

尼僧「了然」の父が武田信玄の末裔にあたり、そしてその人物は「葛山何かし」であり、また「富士大宮司」であるとする。そして画見の「長次」とも称したという。

了然

(岡1994;p.23-25)によると、長次は武田家の血筋で、『寛政重修諸家譜』には信玄の息子「十郎義久」が葛山を称したとあるという(葛山信貞)。信玄の子が「十郎義久」で、その子が「久敬」であり、そしてその子が「長次」であるという。つまり長次は信玄の曾孫ということになる。そして系図を信じれば、長次は「葛山長爾」であるという。

(関口2017;p.84)には「了然」について以下のようにある。

同じく黄檗の尼僧了然元總(1646-1711)は武田信玄の曾孫富士大宮司葛山長爾の娘葛山總。御殿医の松田晩翠と離婚したのち東福門院の孫に仕え,27歳のとき二男三女を残して京都宝鏡寺理忠女王について出家した。のち江戸駒込の大休庵白翁道泰に入門を請うたがその美貌ゆえに断わられると,みずから火熨斗で面貌を焼いて決意を示し入門を果たしたという。

前半部分は『再校江戸砂子』に拠ったものと思われる。

また(岡1994;p.2)に「信仰ゆえに顔面を焼く、このセンセーショナルな行為は世評を集め、後世の名所記や評判記にも盛んに取り上げられた」とあるように、了然禅尼菴室は「了然禅尼菴室の地」として『江戸名所図会』においても紹介されている(岩淵2025;p.51)。

確かに葛山氏と富士大宮は関係がないわけではない。また「竹之下藍沢氏家伝」によると「藍沢九郎忠季」(後号葛山三郎)について「其後富士の大宮に住す」とある(『裾野市史』第二巻 資料編 古代・中世 別冊付録「中世系図集」)。村山は更に葛山氏と関係が深い。

しかし葛山長爾は富士大宮司であったのだろうか。(関口2017;p.84)によると、了然は正保3年(1646)生まれであるという。その父として該当し得る時期の歴代の大宮司を見る限り、葛山長爾なる人物が大宮司になったという形跡は認められない。

従って『再校江戸砂子』の誤認であると思われる。ここで少し大宮司について考えてみよう。『浅間神社の歴史』の大宮司「茂済」の項に「四代以前に男系の絶えた大宮司家は、是に於て全く他氏によりて冒かされたのである」とある(宮地・広野1929;p.605)。「四代以前に男系の絶えた」とは、大宮司「信章」の項にある説明のことを指す。

第三十七代信章は遠江浜松五社明神神主森民部少輔の弟で数馬という。正徳五年十月選ばれて信時の第三女に配し、大宮司の職を継いだ(宮地・広野1929;p.602)。

つまり他家の者が大宮司となったのである。しかし信時の三女により、辛うじて血筋は繋がっている。「是に於て全く他氏により…」は、大宮司「茂済」の項の以下の部分が該当する。

第四十代茂濟は大西氏、…(宮地・広野1929;p.605

また『浅間文書纂』には茂済について「妻者江戸土生三郎四郎女」とある。つまり、血筋すら絶えているわけである(大宮司としては)。最も、それまでの大宮司の継承が全く滞りの無いものであったという保証はない。ただそれでも、葛山長爾なる人物が大宮司となったという形跡は認められないのである。

  • 参考文献
  1. 宮地直一・広野三郎(1929)『浅間神社の歴史』、古今書院
  2. 岡佳子(1994)「唐物屋覚書-大平五兵衛と葛山長爾-」『日本美術工芸 672』、18-26
  3. 『裾野市史』第2巻 資料編 古代・中世 別冊付録「中世系図集」、1995
  4. 関口靜雄(2017)「かへらぬむかししらぬ行末 -羅切僧のこと-」『学苑 (917)』、83-85
  5. 岩淵令治(2025)「江戸名所における将軍権威の再生産」『学習院女子大学紀要 27』、学習院女子大学、33-54

2023年3月19日日曜日

武田信玄の駿河侵攻開始から樽峠越えまでの過程考、富士郡勢の富士氏・井出氏・佐野氏の動向から見る

駿河侵攻は、永禄11年(1568)に開始された武田氏による駿河国への軍事侵攻である。この未曾有の危機から駿河国の富士郡勢もあますことなく行動を強いられ、それ故に古文書で多くの活動が確認される。


武田信玄

先で取り上げた「遠州忩劇」と「駿河侵攻」とを合わせると、富士郡の主だった面々は文書であらかた登場していると言って良い。それほどまでに、駿河侵攻の影響は大きかったのである。今回は駿河侵攻時の「富士氏」「井出氏」「佐野氏」の動向を見ていきたい。しかしその前に「駿河侵攻の区分と概要」について以下で記してみたい。


  • 駿河侵攻の区分と概要

武田信玄による駿河侵攻は、1度でなされたわけではない。甲斐から出兵し駿河に入りまた甲斐に戻りその後再出兵するといったように、繰り返された。それらは「第1・2・3期」に振り分けられることが多い。以下に、その概略を示す。

時期内容
第一期永禄11年(1568)12月から翌12年(1569)4月駿州往還より侵入。駿府一時占領後、甲斐撤退
第二期永禄12年5月から同年10月御殿場口より侵入、大宮城を落とし富士郡を手にする(その後甲斐に帰陣し、直ちに駿河に侵攻せず小田原侵攻を行う)
第三期永禄12年11月から元亀2年(1571)12月駿州往還より侵入。駿河山西地域を攻略後、駿河一国を手にする

(久保田ら2021;p.8)は「第3期」を「~元亀2年(1571)12月」としているが、私もこの解釈を支持するところである。

富士宮市『徳川家康と本門寺堀』には「永禄13年(1570)に駿河国は武田氏の支配下となる」とあるが、元亀元年(同年4月に永禄から改元)に入っても未だ武田氏と北条氏が駿河国で交戦し年内はその様相であるので、正しい記述のようには思われない。

例えば永禄12年(1569年)11月9日に武田信玄が諏訪大社へ戦勝祈願した際の願文には「今度向于駿州出陳、則蒲原落城、興国寺同前、駿州一円令静謐」とある。蒲原城と興国寺城を落城させ、「駿州一円」を支配下に置きたいという意である。その興国寺城は落とされていないわけであるので、武田氏の観点から考えてみても「永禄13年(1570)に武田氏の支配下となる」とは言えないのではないだろうか。また「大宮城(浅間大社大宮司富士氏居館)」ともあるが、大宮城が富士大宮司の居館であったかどうかは実際は分かっていない。

駿河侵攻の過程は、実はかなり煩雑である。それは単に「武田vs今川」という性質に留まらないからである。今川氏真は第1期の早々に駿府を追われており、そこに救援として北条氏が駆けつけることで戦況が膠着状態となる。

しかも武田氏の侵攻と同時に、既に口裏合わせをしていた徳川氏も遠江侵攻を開始しており、当然今川方は徳川方とも戦うこととなる。北条氏は今川氏を救援する立場なので、徳川とも遠江で対峙するのである。つまり、遠江情勢も含めれば以下のような構造が見えることになる。


今川・北条vs武田・徳川 ※懸川城開城前


武田と徳川の動きは連動しており、このあまりにも複雑な構造が理解を難しくさせている。しかもこれさえも駿河侵攻の中で構造は変化していくのであり、今川氏真が懸川城を開城した際は"今川・北条と徳川間の和睦"の元に手続きがなされるので、それ以後は


今川・北条vs武田 ※懸川城開城後


となるのである。無論武田氏は、この結果に不満を持つわけである。近年はその過程にも注目が集まることが多い。(小笠原2019)(丸島2022)(平山2022)は実はこの部分についても多く言及するものであって、駿河侵攻は近年特に注目されていると言って良い

この過程の中で北条氏が宿敵上杉氏と和与したり(永禄12年7月)、その1年後には手切(和与解消)となったりしている(元亀元年7月)。ここも複雑さの要因であるが、和与と手切が繰り返される要因は、北条氏や武田氏が自身の領国が攻撃される憂いを絶つため常に上杉と交渉しているためである。

この"自身の領国が攻撃される憂い"を更に巧妙に用いたのが武田氏で、第2期で「その後甲斐に帰陣し、直ちに駿河に侵攻せず小田原侵攻を行う」と記したように、信玄は小田原侵攻を行うことで、駿河の北条勢を相模に引き戻させている。北条氏からすれば、本領の相模が危うければ、戻らざるを得ない。

第3期では北条方の勢力は少なくなっていたため、武田氏は順当に侵攻を進めていくのである。この流れが理解できれば、駿河侵攻は概ね感覚を掴むことができると考える。

ところで、第1期の「駿府の一時占領」という結果は、信玄にとって満足のいくものであっただろうか。間違いなく、想定外であったであろう。この記事は、その「想定外」を紐解くものである。

※駿河侵攻および「武田氏の不満と徳川との不和」については(小笠原2019)が詳細に取り上げているが、同氏の博士論文が公開されており、誰でも閲覧可能である。また富士郡に関しても多く言及されている。従って「武田氏の不満と徳川との不和」と「富士郡に関する部分」を博士論文の頁数に沿って以下にまとめて示す(「戦国大名武田氏の外交と権力」)。特に「武田氏の不満と徳川との不和」と「富士氏と大宮城の戦い」を読んでいただければ当記事の理解が早まると思われる。

内容
善徳寺の会盟48-49
武田氏の不満と徳川との不和150-160
富士氏と大宮城の戦い177-179
柚野の篠原氏 296-313

ちなみに富士宮市HPは篠原氏を「武田氏の家臣」としているが、とてもそうは思われない(「寺院と地域の歴史をつなぐ特別コース」)。篠原氏については「遠江高天神小笠原信興の考察」(黒田2001所収)でも言及されている。

  • 武田氏による調略と1度目の大宮城攻撃


武田氏は第1期では「駿州往還」を用いて駿河に侵攻した。そこで「駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力は誰であろうか」と、信玄は考えるのである。そして「衝突がないようあらかじめ調略しておこう」とも考えるのである。


穴山信君

実は実際にそれがなされている。武田方は"駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力"である佐野一族らと予め話をつけている。(平山2022;p.143)には以下のようにある。


富士郡の佐野一族などは、国境を接する武田方の穴山氏の調略を受諾し、武田軍が動くと同時に従属することを誓約していた


佐野一族が富士宮市の一族であることは知られているように思うが、実は富士郡でも「上稲子」を本拠としており(小和田1996)、此処はまさに"駿河に侵攻した際にまず接触するであろう勢力"と言える。武田方は駿府に軍を進めるにあたって、なるべく障害がないことを望んだのである。



上稲子に隣接する甲斐の河内地方は穴山氏が領する所であるので、交渉は穴山信君が対応している。


惣左衛門尉は「佐野惣左衛門尉」のことで佐野一族の人物である。12月7日というと、駿河に入る直前にあたる。佐野氏はめぼしい軍事的能力を保有する勢力ではないため、この判断は致し方ないとしか言いようがない。抵抗していたら佐野一族は滅亡していたかもしれないし、現在富士宮市・富士市に佐野姓は見られなかったかもしれない。

しかし富士郡でも富士氏は、あくまで今川方として行動した。実は駿河侵攻で武田方がいち早く攻撃したのが、富士氏当主「富士信忠」が籠城する「大宮城(富士城)」であった。駿河侵攻の解説は「薩埵峠の戦い」から始まるきらいがあるが、本来は大宮城の戦いから話されるべきなのである。ここを通さず話をすると、後の「樽峠越え」の理由も見えてこない。

この富士氏の強い抵抗が信玄の大誤算となり、予定を大いに狂わせることになる。


  • 富士郡の主だった勢力

以下に、富士郡の主だった勢力について、その本拠と共に一覧化する。


本拠特徴
富士氏富士大宮当主富士信忠は富士城城主
井出氏井出・上野国衆に准ずる存在。上野にて警固を行い、また富士城に籠城する
吉野氏山本周辺葛山氏の家臣(=富士郡には葛山氏の支配領域が点在する
佐野氏上稲子在地の土豪
矢部氏吉原商人

ぞれぞれ立場は異なり、駿河侵攻時に軍役奉公が確認されるのは「富士氏」「井出氏」である。吉野氏は葛山氏の家臣であるが、遠州忩劇時の軍事行動は認められても(久保田2000;p.51-53)、駿河侵攻時の動向は管見の限り確認できなかった。

富士氏は国衆であるが、それ以外の面々は土豪層として括られることが多い。井出氏は「国衆に准ずる存在」としたが、限りなく国衆に近い位置にあると考える。

従って、この記事では「富士氏」「井出氏」「佐野氏」を考えていきたいと思う。


  • 駿河侵攻で浮かび上がる富士郡の特徴


見逃されてしまっている河東地域(富士川以東)の根本的な性質がある。それは"河東地域に国衆が少なかった"という点である。(鈴木2019;p.176)には以下のようにある。


彼らの本拠地を地図に落としてみると、今川氏の本国であった駿河では国衆が少ないのに対し、占有地にあたる遠江・三河に有力な国衆たちが多かったことが、よくわかるだろう。(中略)逆に、今川氏という強大な領域権力が以前から存在したために、富士川以西の駿河中西部には「国衆」が成立しなかったともいえる。


この指摘は重要であり、駿河国の国衆事情を簡便に書き記している。実は河東地域の主だった国衆は、葛山氏と富士氏くらいしか居ないのである。そして「遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍」で記したように、富士郡には葛山氏の支配領域も存在した。

また(松本2022;p.51)は「今川氏の大宮支配に関する文書発給も行われており、大宮司領は今川氏直轄(代官支配、代官は信忠か)の部分と、信忠の支配分が混在していた可能性があると考える」としている。

同論考は富士大宮という「町」の性格を"「富士大宮楽市令」の文言にのみに拠る"のではなく、更に広い視点で見たものであり、注目される。従来のその種の論考、特に(長澤2016)を見るに、楽市令後から時を経て非楽市化している部分に強い比重を置いてしまい、「市」そのものに対する評価の帰結を急ぎ過ぎている印象は拭えない。

富士大宮楽市令は「押買狼藉非分等有之旨申条」の文言から「それを申した主体が居る」という理解がなされ、「富士氏側の要請による」と学術的に理解される事が多い。この楽市令は、富士氏の歴史の中でこそ語られるべきなのである。

また今川氏が富士氏を引き留めることができた一要因に、このような国衆側の要求に応えていたという背景も関係するのではないだろうか。つまり氏真の試みは成功しているのである。

  • 北条氏の援軍と富士郡

ここまで富士郡の特性について述べてきた。つまり武田氏が河東地域を押さえたい場合、平たく言えば「葛山氏」と「富士氏」を調略してしまえば済む話なのである


北条氏政


実はこのうち葛山氏が駿河侵攻前に既に調略されていたため、武田氏は駿東郡・富士郡は順当に落とせると踏んでいたものと思われる。しかしそうはならなかった。その理由は


 北条氏が迅速に駿河入りを果たしたため


である。勿論大宮城の抵抗もそうであるが、北条氏の存在が極めて大きい。北条氏の動きは迅速であり、以下のような過程を経た。

日時内容
永禄11年(1568)12月12日北条氏当主「北条氏政」、伊豆国三島に着陣
同14日 北条軍が庵原郡に入る
同29日富士郡村山の「富士山興法寺」に禁制を発給
同月末北条氏信が蒲原城に入城

武田軍が12月6日に出立していることを考えると、この動きは「相当に速い」といって良いだろう。また早くも29日に富士上方の寺社に禁制を発給し、勢力下に置いている。また北条氏の当主自ら動いていることから、北条氏の相当な意気込みが見えてくる。(黒田2001;p.117)には以下のようにある。


河東地域には駿東郡の葛山氏元、富士郡の富士信忠という有力国衆が存在していた。富士氏は今川方の立場を取り、本拠大宮城に籠城して武田方に対抗したが、葛山氏は今川氏から離反して武田方に与した。氏元は武田氏の侵攻に際して瀬名谷に引き退いたというから、今川氏本陣のもとに参陣していた後、瀬名信輝・朝比奈信置らとともに武田氏に従属して戦線を離脱したととらえられる。(中略)北条氏が駿東郡に進軍すると、ほとんど抵抗をうけることなく葛山氏の支配領域がその軍事的勢力下に収められているとみられるのは、そのためだろう。


つまり北条氏は武田氏の駿河侵攻から大きな時を隔てず、駿東郡と富士郡を軍事的勢力下に収めているのである。また上記のように富士郡には葛山氏支配下の地域も点在しており、それらも北条氏の軍事的勢力下に収められたことになる。富士氏の躍進の背景に、郡下に武田方の勢力が居なかった点は挙げられるのではないだろうか。

それにしてもこの「葛山氏元」「瀬名信輝」「朝比奈信置」の謀反は、かなり衝撃的に受け止められたであろう。葛山氏は今川家の御一家衆である上、自前で朱印状を発給するような独立性の高い国衆であり、大きな権力を保持している。瀬名信輝は今川氏一族である。朝比奈信置も重臣である。これらが一度に、しかも進軍途中で謀反を起こすのは絶望的な状況である。氏真の撤退も止む無しだろう。

武田方は、佐野氏にしたのと同じように、国衆らにも調略の手を既に伸ばしていたわけである。しかし興津川以東の北条方と駿府・山西地域の今川方に挟まれ、武田氏は窮地に陥ることになる。


  • 信玄の駿河封じ込め


(清水市2002)を参考に作成、左端の河川は「興津川」

これは侵攻開始の永禄11年(1568)12月から翌12年(1569)3月の状況である。この図を見て明らかなように、興津川を挟んで東側を北条軍、西側に武田軍が布陣している。そして薩埵山・大宮城・蒲原城も北条方であることから、興津川以東は北条方が押さえている状況であった

しかし横山城に主力を置く武田方はどうだろうか(このとき武田氏は久能城を築城していた)。駿府は一揆衆が奪還し背後の山西地域には未だ今川方が健在であり、興津川以東は北条方が押さえているのだから、横山城・久能城の武田軍は取り囲まれていると言わざるをえない。薩埵山・蒲原城は東海道に位置するので、当然通過は出来ない。

武田軍の退路はこのとき駿州往還(現在の国道52号線)しか見当たらないが、駿州往還を進めば富士大宮の富士氏と薩埵峠・蒲原城の北条軍に挟撃されてしまうのである(矢印:橙)。無論、富士上方は完全に今川方(北条方)であるので「中道往還」も絶望的である。

実際に武田軍は、駿州往還を通す試みをした形跡が認められる。



しかし正月18日、遊野(富士宮市柚野)において鈴木助一が武田方の敵を討ち取っており、やはり駿州往還沿いの守りは固かったようである。そこで武田方は帰路を確保するために、2度目の大宮城攻めを敢行する。今回武田軍は特に力を入れ、穴山信君と葛山氏元の連合軍で攻勢を仕掛けた。両者共、相当の軍事力を持っている。


  • 二度目の大宮城攻めと中道往還の情勢

大宮城攻撃は3度行われているが、1度目と2度目共に第1期駿河侵攻の際に行われている。つまり武田軍は、侵攻開始から甲斐帰還の間に大宮城に2度の攻撃を加えていることになる。それほどまでに、大宮城を落とす必要性があったのである。

なぜこのような事が分かるのかと言うと、今川氏真が後に「富士信通」(富士蔵人)宛の感状を与えており、詳細が記されているためである。駿河侵攻後に直ぐに大宮城を攻撃したことが分かるのも、この書状による。この感状は他の同様の内容を示す感状と一括りにされ「暇状」とも通称され、極めて有名な書状である(前田2001)。

2度目の大宮城攻撃は「殊巳二月朔日、穴山・葛山方為始、大宮城江雖成動、手負・死人仕出 還而失勝利引退候」とあるように、2月1日の穴山信君と葛山氏元の連合軍によるものであった。つまり駿河侵攻で今川氏を裏切った葛山氏元が大宮城攻撃に参加していることになる。これには富士氏も思うところがあったであろう。


またこれらの戦いについて将亦以自分及二ヶ年、矢・鉄砲玉薬、篭城内者、人数等扶持出之候、忠信之至也」と記されている。この記録から、大宮城の戦いが鉄砲を用いるような極めて激しい攻防戦であったことが分かる。まさに大河ドラマで見るような鉄砲を用いた戦が、紛れもなく当地でも行われたのである。管見の限り富士郡下で鉄砲を用いたような戦が行われたのは、この大宮城の戦い以外にはないように思われる。

しかし2度目の攻撃にもかかわらず、大宮城は落とせなかった。

また驚愕すべき武田信玄書状が残っている。永禄12年(1569)2月24日の佐野惣左衛門尉宛の判物である。(小和田1996;p.129-130)には以下のようにある。


この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみえる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。富士兵部少輔というのは、いうまでもなく、富士大宮司で、しかも大宮城の城主であった。永禄12年2月24日の時点ではまだ富士兵部少輔信忠は大宮城に籠城して戦っていた。


つまりこれは「空手形」なのであり、武田氏の駿河侵攻がこの段階で全くもって上手くいっていなかったことを示す証左と言えるものである。実際はこのとき、富士郡・駿東郡に宛行うことが可能な土地など無かったのである。おそらく武田氏は大宮城を落とせると踏んでおり、文書の下書きを策定済みであったのだろう。実際は落とすことが出来ず、一方で佐野氏に文書を発給する必要性にも迫られていたと考えられる。

また2度目の大宮城攻撃の翌月の3月2日には井出氏が上野筋で敵を討ち捕っている。上野筋は中道往還にあたるので、つまり武田軍は帰路を意地でもこじ開けようとしていたのである。しかし以下の感状から分かるように、武田方の試みは成功していない。



上のものは北条氏政を発給者とする井出正次(井出甚助)宛の感状であり、上野筋での戦功を賞する内容である。



これは上に同じく「上野筋の戦い」における戦功を賞した北条氏政の感状であり、宛所は井出正直(井出藤九郎)である。このように富士郡は「富士氏」「井出氏」が守っていたのである。

北条氏政が井出正直の戦功を賞した日と同日の、武田信玄書状が注目される。信玄の心境をよく示すものであり、多くで取り上げられる。


兵糧も無限ではないし、北条氏は上杉氏との和与を画策し動いていたため、越後の上杉氏が甲斐へ侵攻する可能性もあった。武田軍は、街道を用いずに帰還する状況にまで追い込まれた。

この三条目に見える「信玄滅亡無疑候」、つまり「(信長に見捨てられたら)信玄が滅亡することは疑い無し」という危機感を形成した背景に、富士氏の存在も含まれることは言うまでもない。


  • 信玄の樽峠越え

駿州往還または中道往還での帰省を断念した信玄は、道なき道を行く他なかった。それこそがいわゆる「樽峠越え」である。

樽峠越えルート(推定)

上に大まかな推定ルートを記した。この部分は(清水市2002;p38-39、同部分は前田利久による)でも言及されている。(平山2022;p.185)には以下のようにある。

不利を悟った信玄は、秘かに甲斐への撤退準備を進めるよう、家臣に命じた。信玄は、北条氏と対陣中、秘かに興津川上流の中河内川、樽川沿いに新道を切り開いており、甲斐への撤退路の確保につとめていた。『軍鑑』によると、重臣原昌胤が、新道開削の陣頭指揮を執っていたという。(中略)このような準備を整えた信玄は、駿河在陣を諦め、4月24日早朝から退却を開始し、甲駿国境の樽峠を越えて、甲斐に撤退した。

『甲陽軍鑑』には「駿河いはらの山を打越、道もなき所を原隼人助工夫に任、甲府へ御馬をいれ給ふ」とあり、信玄にとって苦難の脱出となったのである。

  • 参考文献
  1. 前田利久(1992)「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号
  2. 小和田哲男(1996)「佐野氏古文書写」『地方史静岡』第24号
  3. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  4. 黒田基樹 (2001)『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院
  5. 前田利久(2001)「今川家旧臣の再仕官」『戦国期静岡の研究』、清文堂出版
  6. 清水市教育委員会(2002)『薩埵山陣場跡』
  7. 大久保俊昭(2008) 『戦国期今川氏の領域と支配』岩田書院
  8. 長澤伸樹(2016)「富士大宮楽市令の再検討」『中世史研究』第41号
  9. 富士宮市(2018)『徳川家康と本門寺堀』
  10. 小笠原春香 (2019)『戦国大名武田氏の外交と戦争』岩田書院
  11. 鈴木将典(2019)「国衆の統制」『今川義元とその時代』、戎光祥出版
  12. 久保田昌希・加藤哲(2021)「確認された王禅寺所蔵「北条氏照・氏規連署書状」について」『川崎市文化財調査集録』第55号
  13. 松本将太(2022)「戦国期における大宮の様相」『富士山学』第2号
  14. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』、KADOKAWA
  15. 丸島和洋(2022)「武田信玄の駿河侵攻と対織田・徳川氏外交」『武田氏研究』65号

2023年3月12日日曜日

遠州忩劇時の駿河国富士郡勢の動き、富士氏・吉野氏・森彦左衛門尉の活躍

「遠州忩劇」(「遠州錯乱)とは、永禄6年 (1563) に勃発した"遠江国国衆たちの今川氏に対する反乱"である。発端は遠江の引馬城主「飯尾連龍」の逆心であり、連龍死後の永禄9年(1566)まで続いた。そのため、今川氏の文書では「引馬一変」と呼称されることもある。

実はこの乱の鎮圧に富士郡勢もかなり関与しており、しかもそれは早期から確認できる。この辺りは富士郡の性質も良く見えてくるので、今回取り上げていきたい。


今川氏真

家康にとって「遠州忩劇」は救いであったと思われる。(久保田2000;p.50)が指摘するように、永禄6年は三河一揆が勃発しており、今川氏は家康に打撃を与える好機であった。しかし今川氏真はそれが出来なかった。その原因こそ遠州忩劇であり、今川氏は三河一揆に加勢できる状況ではなかったのである。


  • 飯田口合戦の富士又八郎


「飯田(口)合戦」は、遠州忩劇勃発以後の「反乱勢」と「今川方」との初めての合戦であると思われ、富士氏からは「富士又八郎」が参加している。

(平山2022;p.48)には以下のようにある。


飯尾方と今川方は、永禄6年12月20日以前に、引馬飯田口で激突した(飯田口合戦)。かなりの激戦であったらしく、氏真は朝比奈右兵衛大夫、富士郡の富士又八郎、馬伏塚の小笠原与左衛門尉らに感状を与えている。


富士郡は遠州から見て遠方であるものの参加しており、総動員に近い状況であったと推察される。富士郡の勢力を動員しなければならない程、今川氏にとって危機的状況であったのだろう。


  • 牛飼原の陣の吉野氏


遠州忩劇時に「吉野日向守」が今川方として牛飼原(遠江国豊田郡森町)に在陣していたことが知られる。これは永禄8年(1565)11月1日の葛山氏元の発給文書から知られ、「去年従三州牛飼原野陣江茂早速来之条」とある。この軍役奉公に対する判物であるが、この事実から明らかなように、吉野氏は葛山氏の家臣である。今川氏発給文書でない点から、葛山氏の独立性を感じるところである。

吉野氏が何時から葛山氏の家臣であったのかを考える際、年未詳の「吉野九郎左衛門尉」を宛所とする葛山氏広の発給文書が知られる。氏広の発給文書はこの感状を含めた2点に限られもう1点は神社宛のものであるといい、(有光2013p.125)は天文初期に比定している。

このように氏広の代には既に家臣であったことは明らかであるが、文書の残り方から見ても、吉野氏が葛山氏の重臣であったという推測は許される範囲であろう。この従属関係は次代の氏元期にも引き継がれ、「吉野郷三郎」が河東の乱時の軍役奉公に対する感状を受給している。一方で同内容の今川義元の感状も存在したようである(『駿河記』に認められるが真偽不明、書状自体は現存せず)。(有光2013pp.178-191)はこの時の葛山氏の立場を「今川氏方か北条氏方かはわからない」としているが、やはりここは今川方であったと考えてよいように思う。

特に注目されるのは、天文15年(1546)4月22日に氏元が吉野郷三郎に久日・山本・小泉の所領を安堵していることであり、しかも以前より吉野氏の所領であったことが確認できる点である。また永禄元年(1558)8月12日に吉野氏は富士高原の関の支配を認められている。



つまり葛山氏は富士郡各地を支配下に置いていたことが分かるのである。遠州忩劇後の永禄11年(1568)2月2日には、淀士(淀師)の新四郎名を市川権右衛門に給付することを葛山氏は命じている。

また富士上方の大宮司領の代官職は「葛山甚左衛門尉」のもとにあった。永禄4年(1561)7月20日に富士信忠が大宮城代に任ぜられたと同時に解任されてはいるが、従来任じられていた事実からも影響力を強く感じるところである。もっとも文書には「如前々相計之」とあり、(大石2020;p.193)が指摘するように以前より城主としての立場は信忠の元にあったと捉えられるものである。

また先の富士高原関の支配を認める文書に「於富士高原仁村上被取候定之事」とあるが、この「高原」という言葉は大字・小字でないのにも関わらず現在も用いられており、感慨深いものがある。専ら「上の山本」という意味で用いられる。関所の存在や「富士本道」としての位置づけが、「高原」という言葉を現代にまで残したのだろう。つまり交通の要衝であり、そこを葛山氏が押さえ、給人である吉野氏が所領としていたわけである。

そのような立場の中で吉野氏は、今川方として遠州忩劇時に対応に追われたのだった。


  • 森彦左衛門尉の河舟労功


森彦左衛門尉が遠州忩劇舞台の地である遠州で「河舟労功」という形で奉公していたことが知られる。森彦左衛門尉は富士川沿岸の地である内房郷橋上(富士宮市内房橋上)の船方衆を束ねる存在である。この彦左衛門尉は戦地で渡船を担っていたわけである。

このような渡船の奉公は義元の頃にも確認され、天文20年(1551)4月17日の今川義元判物に「先年乱中走廻云、殊昼夜河舟労功」とある。


また永禄13年に比定される橋上の船役所に宛てた葛山氏元朱印状が残り、瀬名氏の縁者が富士川を渡る際に必要となる手形を役所側が与えるよう命じた内容となっている。これが「森家文書」として伝わっている背景を考えるに、やはり中心として主導したのは森彦左衛門尉だろう。

その後は穴山信君の発給文書で名が見え、武田方として活動していたことが分かる。これらはすべて同一人物である。『駿河記』の内房「綱橋」の項に「里民彦右衛門森氏家に今川義元氏真又は葛山備中守等の文書を蔵す。共に富士川越舟の事を載すと云」とある。

渡船に携わる者が戦時に河舟労功として動員され、見返りとして諸役免除を認められていたことが分かる。戦国大名は武士だけでなく渡船の要員にまで神経を張り巡らせていたわけである。大名支配の重要な側面を示すものである。


  • 武田氏の動き

武田信玄

(久保田2000;p.58)にあるように、遠州忩劇勃発後に甲斐の武田晴信はこの事態を早くも察知していた。それは永禄6年閏12月6日の晴信の佐野主税助宛の文書から知られるが、その内容が興味深い(この文書に見える佐野氏は甲斐の佐野一族であって富士郡の佐野一族ではない)。


(平山2022;p.59-62)には以下のようにある。


この追伸に書かれている事実は、信玄の意思と動きを如実に知らせてくれる貴重な情報と言える。信玄は、今川氏真が遠江の反今川方に敗退するようならば、ただちに軍勢を率いて駿河に侵攻する意思を示したのだ。(中略)書状に見える「彼国之本意」については、「駿河の回復を目指す今川氏真の本意を支援するためにも」とも、「駿河を奪いとることは信玄の本意である」とも解釈する余地があるからである。私は、後者の解釈に魅力を感じている。


何れにせよ富士軍勢を含めた今川方の活躍もあって、遠州忩劇は一応の終息を見た。しかしながらこの遠州忩劇は、今川氏の衰退に一層拍車をかけたことは言うまでもない。


  • 参考文献

  1. 久保田昌希(2000)『遠州忩劇考−今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ−転換期を歩く−』、吉川弘文館
  2. 有光友學(2013)『戦国大名今川氏と葛山氏』、吉川弘文館
  3. 大石泰史(2020)『城の政治戦略』、KADOKAWA 
  4. 平山優 (2022)『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA

2017年12月31日日曜日

室町幕府と富士氏

「室町幕府と富士氏」というテーマで考えた際、「永享の乱」直前の動向は外せない。まず永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた、一連の戦乱を指す。

室町幕府と鎌倉公方の緊張の高まりは永享4年(1432年)の「富士遊覧」でも読み取れる。これは義教による牽制と今川範政の自己陣営への保持を意図したものであり、明らかに鎌倉公方を意識しての行動である。そこでこの時代の富士氏を考える上で重要な記録として先ず挙げられるのが、『満済准后日記』である。

足利義教

この時代の駿河国は大変に混乱した状況であった。以下、『満済准后日記』から駿河国の様子を見ていくこととする。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月14日条
狩野・富士大宮司両人ヘ、今度国次第、具被尋聞食、可有御成敗条、尤可然由申入也

富士大宮司に「駿河国の内情を知らせよ」という申し付けを幕府が行っている。このときの富士氏が既に幕府とつながりを保持していたことは、注目に値する。今川範政(今川氏当主)の次男である弥五郎が次期家督相続を狙って不穏な動きを見せており、これに満済は不信感を示し、また将軍は駿河国衆に内情を探らせているという流れである。今川範政は家督を三男の千代秋丸に譲る意向を示しているため、それに対抗する動きである。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)4月27日条

駿河国ヨリ富士大宮司注進状幷葛山状等一見了、国今度不慮物忿事申入了、随而富士進退等事可任上意旨、載罰状申入也

富士氏(および葛山氏)は幕府に注進状を出し、駿河国の混乱を幕府に報告している。

『満済准后日記』
この動向について「室町幕府の東国政策」では以下のように記している。

事態がひとまず小康状態に入った永享3年以後、なお緊迫した政情のなか葛山氏に求められた役割は、各種の情報を室町幕府にもたらすことであった。そしてそれは、懸案の鎌倉府に関する情報に限定されていた訳ではない。たとえば『満済』永享5年(1433)4月27日条には「駿河国ヨリ富士大宮司注進状幷葛山状等一見了、国今度不慮物忿事申入了」とある。これは葛山氏が、永享5年4月、駿河守護今川範政の後継家督問題によって駿河国内が混乱している様子を室町幕府に伝えたことを示している。(中略)しかし、この問題で葛山氏が『満済』に登場することは皆無である。つまり葛山氏は、駿河守護今川氏の家督問題について室町幕府の意向と異なる家督を擁立しようと積極的にうごいた形跡が全くないのである。

としている。対して富士氏は「室町幕府の意向と異なる家督を擁立しようと積極的に動く」側となっていくのである。そして今川家当主今川範政は、5月27日に死去した。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)5月30日条

国人狩野・富士・興津以下三人ハ、及両三度起請文、可被仰付彦五郎畏入之由申上了、

同日記の5月28日条に「今河遠江入道参洛」とあり、今川貞秋は上洛した。そして30日には京の諸大名に情勢を伝えた。今川貞秋は、狩野氏・富士氏・興津氏が起請文をもって彦五郎(後の範忠)の家督相続を了承したと報告した。

「駿河国中の中世史」には以下のようにある。

5月30日満済は幕府に赴き、去る4月28日駿河国から上洛した今川貞秋の家督相続についての上申書を閲すると共に、奉行らが管領細川持之・畠山満家・斯波義淳・山名時熙・赤松満祐の5人の大名から聴取した意見を聞いた。今川貞秋の上申書によれば駿河国では国人の狩野・富士・興津らおよび内者(家中)である矢部・朝比奈らも範忠の家督相続を概ね了承したといい、管領以下も弥五郎(注:今川範忠弟)に一旦は家督相続了承の御判が渡されたことは問題であるが、将軍の裁定であれば已むを得ないと範忠の相続を納得した。

とある。が、以下の動向を見て分かるようにその後狩野氏・富士氏・興津氏は反乱を起こしており、彦五郎の家督相続には同意していなかったようである。「駿河今川一族」では「その後の狩野・富士・興津氏らの動きをみると、この時、そのような誓書を提出したことは考えられず、むしろ、内紛を憂慮する一族の長老今川貞秋の苦肉の策ともみられるのである」と解釈している。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)6月23日条

此外就三浦・進藤等事、以管領奉書狩野介富士大宮司幷三浦進藤等二、於国私弓矢不可取出之由、固被仰附也

足利義教は狩野氏・富士氏・三浦氏・進藤氏に争いを禁じるよう命じている。しかしこれでも争いは収まる所を知らなかった。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)7月19日・20日条

自今河右衛門佐注進在之、民部大輔去十一日入国無為、就其三浦・進藤・狩野・興津・富士以下同心及合戦、雖然民部大輔手者打勝云々(19日)

今河民部大輔方注進到来、十一日入国儀先無為祝着云々、就三浦・進藤等、狩野・富士・興津令同心寄懸間、(20日)

彦五郎(範忠)の家督相続に納得しない駿河国衆が彦五郎の入国に伴い反乱を起こした。「今川一族の家系」では報告を行った今川右衛門佐について「貞秋の弟氏秋と推定する」としている(今川仲秋の嫡子が貞秋、その弟が氏秋)。「駿河国中の中世史」には以下のようにある。

7月19日の今川右衛門佐氏秋、および20日の範忠から幕府の注進によれば、入国したその日、三浦・進藤・狩野・富士らの国人たちが攻め寄せて来て、範忠方の岡部・朝比奈・矢部らと合戦になったが、これを打ち負かして退散させ、再び攻撃してきた狩野には氏秋が対処しこれも追い払った

とある。ここで岡部・朝比奈・矢部氏らが彦五郎派であったことが分かる。

  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)7月27日条

自将軍御書、如夜前伝賜了、仰題目、甲斐国跡部・伊豆狩野等・令合力富士大宮司ヲ、可発向守護在所聞在之

甲斐の跡部氏、伊豆の狩野氏、そして富士氏が力を合わせ府中に攻め入るのではないかという伝聞があることを記している。駿河国・伊豆国だけでなく甲斐国の勢力も加担する、大規模な反乱を予感させていた記録である。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)閏7月5日条

駿河国々人狩野介・富士大宮司・興津、已上三人可召上旨可仰管領、此事等内々自駿河守護申子細在之、依之如此被仰出也

管領「細川持之」が狩野氏・富士氏・興津氏を京に召喚することを望み、今川範忠がそれを伝えている。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)閏7月28日・閏7月30条

狩野・富士以下三浦・進藤等罷出、国中所々放火、剰近日可指寄府中云々(閏28日)

狩野・富士・興津等、可被召上之由被仰出間(閏30日)

狩野氏・富士氏・進藤氏等が府中に迫ってきていることを記している。そして同三氏の京への召喚を検討している。「駿河国中の中世史」では以下のように記している。

そしてその後も狩野らの抵抗は続き、閏7月28日幕府に届いた駿河からの注進によれば、狩野・富士・三浦・進藤らが国中所々を放火し府中に攻め込んできそうな状況である。(中略)範忠の入国に狩野以下の国人たちが抵抗したのもその後ろで持氏が糸をひいていたからであろう。範政が跡継ぎとして申請した千代秋丸のちの新五郎範頼の母は扇谷上杉氏定の女であり、持氏は上杉氏との関係は良好であったためこれを支持していた。

富士氏は足利持氏側についていたのであり、このような反乱に出たと考えられる。


  • 『満済准后日記』 永享5年(1433)12月8日条

富士大宮司御免事、不可有子細由被仰出間…

足利義教が富士大宮司を赦免するという内容である。また狩野・興津氏両氏も罷免された。

管領「細川持之」
「駿河国中の中世史」では以下のようにある。

永享6年10月29日、満済は管領細川持之と駿河の狩野・興津両氏の赦免について談合している。それは範忠からの注進で持氏の野心が現わになったため、範忠に敵対した彼らを許して味方に付け関東に備えようということである

そしてなんとか駿河を平定することに成功した。これにより室町幕府は、足利持氏討伐に本腰を入れることが可能になったのである。そして「永享の乱」へと繋がっていくのである。


  • 参考文献
  1. 大塚勲,『駿河国中の中世史』,2013
  2. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,2014
  3. 家永遵嗣,『室町幕府将軍権力の研究』,東京大学大学院人文科学研究科国史学研究室,1995年
  4. 小和田哲男,『駿河今川一族』,1983
  5. 大塚勲,『今川一族の家系』,2017
  6. 大塚勲,『今川氏と遠江・駿河の中世』,2008

2017年6月22日木曜日

富士上方と葛山氏その支配領域と被官吉野氏

富士上方は「≒現在の富士宮市域」である。この領域の領主は富士氏が知られているが、葛山氏の支配領域も存在していた。

沼津から小山町にかけては歴史的には「駿河郡」と呼称される

まず挙げなければならないのは、以下の葛山氏元判物である。


孫九郎(吉野氏、後述)の所領である「久日」「山本」「小泉」を吉野郷三郎に安堵するという内容である。これらの土地が従来通り吉野氏のものであるという認識を示す文書である。つまりこれらの地を葛山氏が支配していたのであり、葛山氏の支配領域の広さを示す一端であると言える。


また飛んで淀士(現在の富士宮市淀師)にも支配領域があることは興味深い。この文書が発給された永禄11年(1568)という時代は、葛山氏元が今川方から離反し武田方に寝返る間近の時期(または離反していた時期)である。葛山氏元は「新四郎名」を市川権右衛門に給付することを命じており、これはやはり葛山氏が淀師の地を支配していたためなのである。

ただ富士上方地域だけで見れば、富士氏の方が影響力を保持していた。例えば富士氏が寺社に対し諸役免除を行う古文書も存在するが、葛山氏が同時代富士上方地域に同様の性質を持つ文書を発給している様子はないのである(「駿河国富士郡領主としての富士氏」を参照)。他にもこの地域での多様性は富士氏で認められるように思えるのである。


しかし葛山氏は自前で朱印を用い文書を発給するような独立性の高い国衆であり、その支配力については疑いの余地はない。「駿河国駿東郡と葛山氏」(有光)でも朱印状を使えていたのは武田陣営では武田氏・穴山氏・小山田氏等、今川陣営でも今川氏・朝比奈氏等と限られた国主・国人のみであったことが指摘されている。富士上方の地は、富士氏の勢力と葛山氏の勢力がせめぎ合っていた地域なのである。

  • 富士大宮における富士氏と葛山氏

富士大宮は富士氏の本拠であるが、そこにも葛山氏の影響が認められることには葛山氏の力量を感じざるを得ない。富士大宮は交通の要所であり、交通路掌握に長けていた葛山氏が狙わないはずがないのである。「戦国大名今川氏と葛山氏」には以下のようにある。

西隣の富士郡には、富士信仰の道者坊として著名な村山三坊の一つ辻坊の所職を継承する葛山氏や「富士大宮司代官職」を有した葛山氏など、葛山姓のものが史料上散見する

村山にも葛山一族の勢力があったことは分かっているが、研究が大変少なくよく分かっていない。今回はこの大宮の「富士大宮司分代官職」の方を考えてみたい。「楽市論―初期信長の流通政策」には以下のようにある。

駿東郡の国人領主葛山氏は、富士郡にまで勢力を伸ばし、富士大宮の南「山本・久日・小泉」を領する吉野氏を自己の配下に収めた。おそらくこのことと関連してだろう、葛山氏は大宮城の城代に任ぜられ、神田川以東は葛山氏の支配下に置かれた。つまり富士大宮は、「社人町」を含む西側が浅間神社の支配地域だったのに対して、東側の「雑色町」は葛山氏の支配下となったのである。(中略)永禄4年7月、大宮城代葛山甚左衛門頼秀は改易され、「大宮城」城主は葛山氏から国人領主富士氏に替えられた

史料上からは「神田川以西=富士氏、神田川以東=葛山氏」とあるわけではなくこれは推測に過ぎないが、富士大宮に境界は確かにあったのかもしれない。橋を境にその精神性・地理的性格が変わることは多々ある。真に問題となってくるのは「富士大宮司分代官職」についてである。ここの部分は、読み手により文書の解釈に大きな差異が認められる部分である。

永禄4年7月「今川氏真判物」


「改易」の部分が少なくとも「富士大宮司分代官職之事」にかかるとして、「城代」(≒城主)にもかかるのか、という問題である。


「富士大宮司分」は富士大宮司領のことを指し、領するのは富士大宮司(富士氏)であったが、その土地の代官職は葛山氏にあったのだろう。葛山氏はそれ(代官職)をまず改易されたのである。その上で大宮城代を富士氏としたと考えられる。つまり、葛山氏が大宮城代であったわけではないと思われるのである。この判物で氏真は、この土地における葛山氏の介入を完全に退く形としたかったのである。

「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」では『富士大宮神事帳』に祭礼役の負担者として記される「御代官」が「富士大宮司分代官」に相当すると仮説を立てており、興味深い。また『元富士大宮司館跡』には以下のようにある。

市立大宮小学校屋内運動場建設予定より、12世紀前半から16世紀前半まで連綿と営まれた居館跡が発見され、これが芙蓉館以前の元富士大宮司館跡であり終末期には史料に言う大宮城とも充分な関わりを持っていたことが判断されたのである。  ※執筆を一部担当している若林氏は「富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである」とも述べている

つまり市としては「大宮城の前身は富士大宮司館である」と言っているのである。そもそも「富士大宮司館」という文言は元弘3年(1333)と建武元年(1334)「後醍醐天皇綸旨」にしか見られない。

元弘3年(1333)「後醍醐天皇綸旨」

この2点の文書しかないという事実もそうであるが(その後「大宮司館」の文言は見当たらない)、個人的には14世紀中盤に「大宮司館」とあるだけで後の「大宮城」(15世紀後半から見られる)と同場所であるという論は普通成り立たないと考える。また発掘物を祭祀へ直接的に結びつけてよいものだろうか、とも思う。また「富士大宮司分代官職」が葛山氏にあったという事実も無視できない。振り出しに戻ってしまうが、「代官職」を保持している人間が「大宮城」と呼ばれる場所に関与していたと考えることはおかしなことではない。

また発掘調査時に「元富士大宮司館跡」として刊行したことには違和感を覚える。それ以前に「大宮司館」が浅間大社そのもの、または境内を指している可能性も充分にある。例えば『絹本著色富士曼荼羅図』には浅間大社境内の館に神官が居る様子が描かれている。
『絹本著色富士曼荼羅図』より

このようなものを指して「富士大宮司館」と呼称していた可能性も十分あるのである。その特異的な用例から2点、もっと言えばごく短い期間のみしか確認できないと考えた方が良さそうである。そもそも土地の寄進であるのに宛を「居館」とするのは何故だろうか。大変違和感を感じる部分である。「大宮司館」はごく短期間しか確認されていない用例であるが、「大宮城」はもっと長きに渡り用いられていたのであり、それが最後の姿である。なので通常であれば「大宮城跡」と名付く形で刊行されるべきであっただろう(遺跡地名表では「大宮城跡」に包括)。

ただここでは、富士大宮にて葛山氏の影響力があったという事実は示しておきたい。

  • 吉野氏
まず吉野氏は葛山氏の被官である。富士宮市山本に勢力を持ち、同地には吉野屋敷が存在していた。ただ「中世城郭史の研究」によるとその規模は30mから40mといい、小規模である。吉野氏と葛山氏との関係は、葛山氏広の時には確認できる。「戦国大名今川氏と葛山氏」にて「氏広については、発給文書は天文初年時期の二通しか存在しない」とあるうちの一通である。つまりかなり早期から関係性が確認できるのである。


年欠であるが、天文4年(1535)に比定されている。このように、葛山氏広は「吉野郷九郎左衛門尉」に下遠島での戦功を賞して感状を与えた。そして以下は、氏広の次代の葛山氏元による天文14年(1545)の感状である。



この感状から、吉野氏が長久保城の戦いに参加していたことが分かる。これは「河東の乱」の一幕である。「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」にて

天文14年(1545)八月に今川義元が河東に入り、その後援軍要請を受けた武田信玄も駿河に入り大石寺に着陣。今川軍と武田軍の合流が明確であることが分かると、北条軍は吉原城を放棄し三島へと後退した。その後北条氏は和睦を提案し、武田氏が両者を仲介した。

と説明した。このとき北条方が今川方に明け渡した城こそが長久保城である。ただ問題はこのとき吉野氏が「今川・北条どちら方として戦っていたのか」ということである。また「777号・778号」であるが、文面・日時が同様であるのにも関わらず発給者が異なるのは違和感がある。「戦国大名今川氏と葛山氏」では上の感状(777号)だけでは今川・北条方のどちらかは分からないとしている。また脚注内にて「『駿河記』には、この氏元感状とほぼ同文の今川義元発給の感状が載せられている。

これに対して『静岡県史料』の下註にて「(現品なし)今採らず」と記されている。本章でも、この『県史料』の判断に従っている」としている。氏は他史料を考察の上で「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」としている(ここは諸説あり)。『駿河記』の記述は検討を要する。

そして以下の天文15年(1546)の文書は特に知られている。


上述のように、葛山氏が富士上方地域を一定規模以上支配していたことが分かるのである。弘治3年(1557)の文書に「吉野采女」なる人物の名が見える。


「富士郡山本村吉野采女殿」とあるのでやはり山本の吉野氏なのであるが、この人物についてははっきりしていない。「本文書は検討の余地がある」とあるのは、この文書のみ唐突に後北条氏との接点が見出だせるためである。この文書の存在を考えると、上の「氏元は北条氏方の一員として、その後の長久保城攻防戦に参戦したというのが歴史的経緯であろう」という解釈は是であるかもしれない。


また同文書も大変重要な示唆をしており、永禄元年(1558)葛山氏元が吉野郷三郎に「高原関」の管理と関銭の上納を命じているものである。つまり吉野氏は関所を管理していたのであり、また葛山氏は富士郡の交通を一部掌握していたのである。まず現在の富士宮市では「高原」という住所自体は存在しないものの、山本でも高台にあたる一帯は現在でも「高原」と呼称され、根強く呼称が残っている。高原は岩本に隣接する地で、富士下方地域と大宮を繋ぐ主要路の1つであった(「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」を参照)。関所があるのもその理由からなる。



遠州忩劇時に吉野氏は今川軍として参加しており、葛山氏元の指示を受けている。


「戦国大名今川氏と領国支配」では以下のように説明している。

また月日は不明ながら駿河富士郡より東三河に出陣していた吉野日向守は、葛山氏元の指示により遠江牛飼原(豊田郡森町)に転戦し、周智郡西楽寺(袋井市)には群生乱入があった。

永禄8年(1566)11月のことである。その後永禄9年(1567)に吉野日向守の名が見える。葛山氏元が富士浅間社の正月三ヶ日の祭礼に必要な負担分を吉野日向守領から受け取るよう命じたものである。


ここでいう富士浅間社は、駿河郡における浅間社(佐野郷か)を指すと考えられる。そして葛山氏元は後に謀反を起こすのであるが、やはり吉野氏は葛山氏に同調したであろう。その後の吉野氏の動向は少ないものの確認できる部分があるが、葛山氏と吉野氏の関係は不明である。葛山氏元は武田氏に帰順後の永禄12年(1569)、富士氏が守る大宮城(富士城)を攻撃している。この時、吉野氏も同様に大宮城を攻撃していた可能性が高い。


永禄13年(1570)、氏元が駿河国内房橋上・船役所に宛てた文書が残る。内容は橋上の船役所に対して「瀬名信輝」およびその同朋を通すよう伝達した文書である。瀬名信輝も葛山氏元と共に武田氏に帰順した人物である(「戦国時代の富士川流域の役割と船方衆」を参照)。天正元年(1573)に葛山氏元は武田氏より謀反の疑いをかけられ、処刑されている。その後吉野氏がどのような過程を経たのかはよく分かっていない。

  • 参考文献
  1. 久保田昌希,『戦国大名今川氏と領国支配』,吉川弘文館,2005
  2. 『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』
  3. 『裾野市史 第八巻 通史編Ⅰ』
  4. 有光友學,「駿河国駿東郡と葛山氏」『武田氏研究 第22』,2000
  5. 有光友學,『戦国大名今川氏と葛山氏』,吉川弘文館,2013
  6. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
  7. 小和田哲男,『中世城郭史の研究』,清文堂出版,2002
  8. 大石泰史,「今川領国の宿と流通 : 宿と流通を語る「上」と「下」」『馬の博物館研究紀要 第18号』,2012
  9. 池上裕子,講演「今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994
  10.  合田尚樹,「戦国期における富士大宮浅間神社の地域的ネットワーク-「富士大宮神事帳」の史料的分析から-」『武田氏研究 第30号』,2004
  11. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡』,2000
  12. 富士宮市教育委員会編,『元富士大宮司館跡2』,2014

2017年5月8日月曜日

戦国時代の富士川流域の役割と船方衆

駿河国には日本三大急流である「富士川」が通っており、富士川を基とする歴史も多い。以前「富士川の歴史民俗編」にて富士川の歴史を投稿したことがあり、富士宮市に所在する「問屋跡」などを取り上げました。
問屋跡(富士宮市沼久保)
しかしこれはどちらかと言えば近世の歴史であり、もう少し遡って中世における富士川との関わりを模索する必要性も感じていました。今回は中世における富士川の歴史を、駿河国に焦点を当てて進めていきたいと思います。まず富士川とはいっても流域は広大なので、場所を限定していくこととする。富士川の歴史を現在の富士地区(富士宮市・富士市)にて考えた際注目されるのは、「橋上(はしかみ)」の地である。まず橋上の地は駿河国内房にある。



これら文書から、橋上の名主が「森彦左衛門尉」なる人物であったことが推測される。上の文書は居屋敷の竹木を勝手に切り捨てることを禁じ、その場合指示を出すことを伝達した文書であり、これらは各々でよく見られる内容である。下の文書は示唆するところが多い。「先年乱中走廻云、殊昼夜河舟労功之条、為新給恩免除訖」とあり先年、つまり河東の乱において今川氏側として働いていたことが分かる。「殊昼夜河舟労功之条」とあり、おそらく今川氏の兵を川向こうへ運送したりする形で奉行を働いたのであろう。ここに、戦時に兵の運送という形で舟運を行い、それに対して国主により諸役免除が行われるという動態が確認できる。川向うへ移動するために舟運が必須であり、兵の数が戦の戦況を変える事態においては重要であったのだろう。

この橋上の地は現在の「富士宮市内房橋上」であり、地名として残る。



一見して分かるように富士川流域であり、これを今川氏が押さえていたのである。これは富士川の歴史の重要な一幕であろう。ただここから急展開を見せる。今川義元が桶狭間の戦いにて横死し、勢力図が変わってきたのである。そこで以下の文書はその変化を明確に見せている。


まずこの文書の発給時期は永禄13年(1570)であり、氏元が永禄12年に今川方の大宮城(城主:富士信忠)を攻撃していることを考えても、氏元は既に今川氏を離反していた時期である。その人物がこの時期に橋上の船役所に指示を出すということは、おそらく橋上の森氏ないし船役所は武田氏側に就いたのであろう。ただそれ以前に葛山氏と関係が深かった可能性も考えられ、それは他文書との比較が必要である(※森家文書は10通が確認されているといい、現在確認中である)。内容は橋上の船役所に対して「瀬名信輝」およびその同朋を通すよう伝達した文書である。瀬名信輝も葛山氏元と共に武田氏に帰順した人物であるため、このような内容となっている。

以下は更に武田氏側であることが明確に分かる文書である。穴山信君が橋上の森彦左衛門および船方衆に対して筏役(いかだやく)を勤めている見返りとして他の百姓にかかる税を免除するという内容である。

このことから、この時少なくともこの辺りの富士川流域は穴山氏が掌握していたことが分かる。穴山氏は河内の領主であり、この橋上の地は特に近接するため早い時期に掌握されたと考えられる。

穴山信君
宛として唯一個人で載る「森彦左衛門」は、やはり名主の地位を維持していたと考えられる。

  • 参考文献
  1. 山梨県立博物館,「武田二十四将―信玄を支えた家臣たちの姿」展示図録,2016
  2. 有光友学,「戦国大名今川氏発給文書の研究」『横浜国立大学人文紀要 24』, 1978 
  3. 『静岡県の地名』 (日本歴史地名大系) ,平凡社,2000 
  4. 平成18年度山梨県立博物館年報

2013年3月25日月曜日

戦国期葛山氏の富士山関連の政策

戦国時代における葛山氏は「葛山氏堯-氏広-氏元」と続き、今川氏の家臣であったとされる。富士山東南の御厨地方周辺は、この葛山氏が支配するところであった。このことから、葛山氏における富士山関連の政策は注目されるところである。

  • 葛山氏尭の政策
葛山氏尭は15世紀から16世紀初頭にて活躍した人物である。氏尭は二岡神社保護の政策を行なっている。その保護の方法として、道者関などを活用する手法が確認できる。大永五年(1525)4月に御厨を通る道者が二岡神社を通るように命じている。これは道者が神社に立ち寄ることを促すことで、散銭などの資金的側面での補助と考えられる。治める上での1つの政策と考えられる。また大永7年(1527)7月には二岡神社に道者関を寄進している。これは、道者関での諸役分などを前面的に安堵するということでもあり、明確な神社保護の政策である。氏堯は北麓の小山田氏などと同様、道者関を活用する政策を打ち出していたのである。

ちなみに二岡浅間(と思われる、要確認)に繰り返し土地を寄進した氏族として大森氏がおり、応永21年(1421年)には大森憲頼が御殿場の二岡権現と小山町の二岡神社に土地を寄進しているという。15世紀中盤は、この土地は大森氏が支配していたと考えられている。また後述の「佐野郷」も大森氏が支配に関与していた(池上裕子,「公演 今川・武田・北条氏と駿東」『小山町の歴史 第8号』,1994)。大森氏がいつまで影響力を保持していたかは不明であるが、時代が下る例では『小田原衆所領役帳』にもみられる(「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」)。

  • 葛山氏元の政策
氏元は元は今川氏家臣であったが、今川氏衰退に伴い武田氏に帰属している。それは武田氏の駿河侵攻の際、大宮城(富士郡大宮)を穴山信君(武田氏家臣)と共に攻めていることで明確である(永禄12年2月)。その攻撃を富士信忠(大宮城城主、富士氏当主)は退いている。この事実から、葛山氏独自の政策がみられるのは駿河侵攻以前が主であるので、その時期の政策例を挙げたい。また氏元の代で葛山氏は滅亡していると伝わる。

またこの大宮城が位置する大宮で1つ確認しなければならないことがあり、以下の「今川氏真判物」により葛山一族の「葛山頼秀」が富士大宮司領の代官職を改易させられている事実がある(画像1)。改易されてはいるが、それまで代官職を受け持っていたという裏付けでもある。葛山氏はそれ以前にも、富士上方の 「山本 ・久日 ・小泉」を吉野氏に安堵するなどしている。つまり葛山氏の手は富士郡まで伸びていたということになる。



画像1

この改易の事実は、武田氏への帰属と関係していると考えるべきであろう。

文書1

葛山氏元は天文20年(1551)12月に、浅間神社(須山浅間神社か)の神主に禰宜分の懸銭を安堵する判物を出している。また天文21年(1552)正月に佐野郷(現・裾野市)の浅間神社修繕を目的とする勧進の許可を出している。

この「佐野郷の浅間社」についてであるが、『裾野市史第8巻通史編1』では裾野市域に2例の浅間社があったとし、その一方であるとしている。


所在地神社名初見典拠・参考事項、()の数字は『市史』の資料番号
大畑「あしたかの御まつり」社あるいはその前身か
茶畑か佐野郷浅間社(506)(551)神主柏宮内丞、禰宜助三郎
須山浅間社(411)
『裾野市史第8巻通史編1』P289より引用

文書2、後半掲載せず

天文21年12月には佐野郷の浅間神社の神領を安堵している。弘治3年(1557)8月には岡宮浅間神社の法度を定める判物を出している(同旨の判物が永禄4年にもあり)。永禄元年(1558)8月には佐野郷の浅間神社に修造のための勧進の許可を与えている。

文書3

永禄6年(1563)3月には須走口の過所に関する朱印状を出し(文書1)、永禄7年(1564)5月には須走の道者関にて毎度のように滞りなく処理するよう命じている(文書2)。永禄8年(1565)4月にも須走の道者関にて納めさせるよう命じている(文書3)。同年5月には、富士山を警固するために遣わした者の兵糧について命じている(文書4)。

文書4

須走口を多角的に管理している点で、特筆すべき動向であろう。

  • まとめ

これら判物などをみていくと、葛山氏が浅間神社を厚く保護していたことに間違いはない。特に須走口・道者関関連の施策の部分には注目である。葛山氏は道者関を管理し、道者の取締りを行い、須走口の管理を行なっていた。これは富士山麓の須走口の登拝関連のほとんどを全体として取り締まっていたと考えて良い。ここに葛山氏の統治性を感じ取ることができる。村山口は単独の氏族なりが取り仕切る形態はなかったため今川氏管理の下であったと考えられるが、須走口は葛山氏管理の下で継続されてきたと言える。後に武田氏により須走浅間神社に内院散銭の寄進が行われたのは(1577年)、ここが葛山氏管理の地であったために、葛山氏帰属後速やかに保護的政策が施すことができたためでであろう。

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  2. 『裾野市史第8巻通史編1』P289-290