2025年9月26日金曜日

了然の父葛山長爾は富士大宮司か、『再校江戸砂子』の記述を考える

 江戸時代のベストセラーに『江戸砂子』という地誌がある。長きに渡り断続的に出版され続けたため、多くの版本が残る。例えば文政8年(1825)の「書林永寿堂新刻目録」にも『江戸砂子』が見える(林屋正藏作・歌川國貞画『尾尾屋於蝶三世談』)。ちなみに永寿堂は「西村屋與八」である。


明和7年(1770)になると表題は近しいものの内容は異なる『再校江戸砂子』というものが刊行される。ここに気になる記述があるため引用したい。

了然禅尼菴室 (中略)駿州富士大宮司葛山何かしといふもの武田信玄の子を養て子とす、葛山十郎義久と云、其子を長次郎と云。(中略)その頃世に画見の長次と称。京都泉涌寺門前に閑居して茶をこのミ、又よく古画目利也。(中略)一女ありこれも能書にて学文をこのむ(明和9年(1772)板『再校江戸砂子名跡誌』巻一)。

尼僧「了然」の父が武田信玄の末裔にあたり、そしてその人物は「葛山何かし」であり、また「富士大宮司」であるとする。そして画見の「長次」とも称したという。

了然

(岡1994;p.23-25)によると、長次は武田家の血筋で、『寛政重修諸家譜』には信玄の息子「十郎義久」が葛山を称したとあるという(葛山信貞)。信玄の子が「十郎義久」で、その子が「久敬」であり、そしてその子が「長次」であるという。つまり長次は信玄の曾孫ということになる。そして系図を信じれば、長次は「葛山長爾」であるという。

(関口2017;p.84)には「了然」について以下のようにある。

同じく黄檗の尼僧了然元總(1646-1711)は武田信玄の曾孫富士大宮司葛山長爾の娘葛山總。御殿医の松田晩翠と離婚したのち東福門院の孫に仕え,27歳のとき二男三女を残して京都宝鏡寺理忠女王について出家した。のち江戸駒込の大休庵白翁道泰に入門を請うたがその美貌ゆえに断わられると,みずから火熨斗で面貌を焼いて決意を示し入門を果たしたという。

前半部分は『再校江戸砂子』に拠ったものと思われる。

また(岡1994;p.2)に「信仰ゆえに顔面を焼く、このセンセーショナルな行為は世評を集め、後世の名所記や評判記にも盛んに取り上げられた」とあるように、了然禅尼菴室は「了然禅尼菴室の地」として『江戸名所図会』においても紹介されている(岩淵2025;p.51)。

確かに葛山氏と富士大宮は関係がないわけではない。また「竹之下藍沢氏家伝」によると「藍沢九郎忠季」(後号葛山三郎)について「其後富士の大宮に住す」とある(『裾野市史』第二巻 資料編 古代・中世 別冊付録「中世系図集」)。村山は更に葛山氏と関係が深い。

しかし葛山長爾は富士大宮司であったのだろうか。(関口2017;p.84)によると、了然は正保3年(1646)生まれであるという。その父として該当し得る時期の歴代の大宮司を見る限り、葛山長爾なる人物が大宮司になったという形跡は認められない。

従って『再校江戸砂子』の誤認であると思われる。ここで少し大宮司について考えてみよう。『浅間神社の歴史』の大宮司「茂済」の項に「四代以前に男系の絶えた大宮司家は、是に於て全く他氏によりて冒かされたのである」とある(宮地・広野1929;p.605)。「四代以前に男系の絶えた」とは、大宮司「信章」の項にある説明のことを指す。

第三十七代信章は遠江浜松五社明神神主森民部少輔の弟で数馬という。正徳五年十月選ばれて信時の第三女に配し、大宮司の職を継いだ(宮地・広野1929;p.602)。

つまり他家の者が大宮司となったのである。しかし信時の三女により、辛うじて血筋は繋がっている。「是に於て全く他氏により…」は、大宮司「茂済」の項の以下の部分が該当する。

第四十代茂濟は大西氏、…(宮地・広野1929;p.605

また『浅間文書纂』には茂済について「妻者江戸土生三郎四郎女」とある。つまり、血筋すら絶えているわけである(大宮司としては)。最も、それまでの大宮司の継承が全く滞りの無いものであったという保証はない。ただそれでも、葛山長爾なる人物が大宮司となったという形跡は認められないのである。

  • 参考文献
  1. 宮地直一・広野三郎(1929)『浅間神社の歴史』、古今書院
  2. 岡佳子(1994)「唐物屋覚書-大平五兵衛と葛山長爾-」『日本美術工芸 672』、18-26
  3. 『裾野市史』第2巻 資料編 古代・中世 別冊付録「中世系図集」、1995
  4. 関口靜雄(2017)「かへらぬむかししらぬ行末 -羅切僧のこと-」『学苑 (917)』、83-85
  5. 岩淵令治(2025)「江戸名所における将軍権威の再生産」『学習院女子大学紀要 27』、学習院女子大学、33-54

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