2012年2月27日月曜日

富士忠時

富士忠時(ふじただとき)は富士氏の富士大宮司である。以下は寛正3年(1462年)11月2日の「後花園天皇口宣案」である。受給者は「右馬助和邇部忠時」、つまり「富士忠時」である。




この文書が持つ意味は複雑である。まず、だれがどうしたものかを書いてみたい。この文書には足利義政、後花園天皇、富士忠時、藤原俊顕が関わる。そしてこういう流れである。

「足利義政」が富士忠時を「能登守」に推挙することを提案
「後花園天皇」が許可を与える
「藤原俊顕」がその意向を文書にて明示する
富士忠時が受給

当時の権力者である足利氏が天皇と関係を深くしていることは当たり前であるが、その足利氏の室町幕府将軍である義政が直々に忠時を推挙している点は面白い。少なくとも、それだけの地位がこのとき富士氏にあったということは想像に難くない。富士氏を語る上で、この事象は注目されるべき点であろう。若林淳之氏(歴史学者)が言うように、足利氏と関係が深い駿河今川氏の存在も背景にあると思う。


  • 和邇部姓

この文書にて和迩部(和邇部)忠時とあることも、注目されるべき点である。系図が残っており、和邇部氏からの流れであることは記されている。しかし、記されているからといって、実際そうであるとは限らないし、そう名乗っていたかもわからない。この場合、少なくとも当時実際に「和邇部姓」を用いていたことが確認できる。これは非常に大きなことである。


  • 富士大宮司と村山

村山の富士山興法寺の大日堂に、「大宮司前能登守忠時・同子親時」との銘がある仏像が発見されている。これは村山の衆徒や富士氏らが共同して製作した仏像である。「親時」とは富士親時のことで、忠時の嫡子である。このことから、富士氏らが村山との独自の関係を持っていたことを察することができる。富士氏(大宮)と村山との関係の理解は非常に難解である。少なくとも南北朝期に富士山信仰の双方の拠点とで、互いに奉納するに至るまでの何らかの結びつきはあったのだろう。例えば村山の「富士行」で知られる「頼尊」は、富士氏の系図にもその名が見える。忠時から六代さかのぼって二十一代富士直時の従兄弟にあたる。

この「後花園天皇口宣案」と奉納物から、当時の富士氏の権威がそれなりに見えてくる。

  • 参考文献
富士宮市教育委員会,『元富士大宮司館跡』P186-187,2000年

2012年2月24日金曜日

富士信通

富士信通(ふじのぶみち)は戦国武将である。父「富士信忠」と共に大宮城に籠城し、武田氏と戦を繰り返した。

今川氏真から信通宛の感状が良く知られている。


富士蔵人=富士信通である

さて、この感状の中身は「駿河大宮城」にて取り上げている。3度目の戦いは信玄の本隊の攻撃ということもあって開城したが、それでもかなり善戦したという評価が一般的である。


この判物は「背景が分かる」という意味で非常に重要であるが、例えばこの文書中に出てくる人物の名称を挙げるとこうなる。

  • 今川氏真
  • 穴山氏・葛山氏
  • 武田信玄
  • 北条氏政
  • 富士信忠
  • 富士信通

これらの人物が関わってくる立場が、このときの富士氏なのである。以下は元亀4年(1573)の信通宛の「武田勝頼判物」である。



竜泉寺の内地の知行を許すという内容である。

以下は天正5年(1577)の「武田勝頼判物」である。「信通を浅間神社(現・浅間大社)の大宮司に任命する」旨の内容である。



つまり、富士氏が慣例通り「大宮司」を務めることが可能となったわけである。富士氏はその後は大宮司として、つまり「社家」としての姿に重きをなすこととなる。武家としての富士氏はここで終えたと言って良い。しかしこれから5年後に武田氏は滅亡することとなる。ちなみに「戦国期武田信虎の領国支配機構」では

新たに「晴信」の偏諱の「信」を拝領した者もあり、とりわけ晴信の代になって制圧された地域領土で、武田氏に帰属後に「信」字に改名した者たちは、例えば(中略)富士信通(中略)などが上げられ、外様国衆を構成していく

としているが、信通の「信」は「晴信」からの偏諱ではなく、父「信忠」の名からも分かるように「通字」であるためと考えられる。


  • 参考文献

  1. 小川隆司,「武田氏の駿河・遠江支配について」,『武田氏研究』第22号,2000
  2. 柴辻俊六,「戦国期武田信虎の領国支配機構」, 『戦国織豊期の社会と儀礼』,吉川弘文館,2006

2012年2月23日木曜日

富士信仰と末代上人

末代上人(まつだいしょうにん)は、富士信仰を語るにおいて外せない人物である。ある意味、民衆による富士信仰の起源的な部分にあたる重要な人物である

『本朝世紀』に「末代上人が山頂に大日堂を建立した」とあり、信仰施設を富士山に建てたことで知られる人物である。その部分が以下の箇所である。


これにより、以下のことが分かっている(書かれている)。

  • 修行僧である
  • 富士山に数百回も登っている
  • 鳥羽法皇にすすめ『大般若経』を書写するよう図り、富士山に埋経しようとした
  • 一切経を写した

このことから、律令国家が浅間神社を建立することとは異なる富士信仰の形態が認められることとなる。古来、経典などを奉納なり埋経する風習があった。有名な『平家納経』などもそうである。清盛は他に海に経典を沈めたりしていた。富士山中でもこれらの類が見つかっている。『本朝世紀』以外で代表的なものに『地蔵菩薩霊験記』の記録がある。

  • 『地蔵菩薩霊験記』(平安時代~鎌倉初期)
「中古不測の仙ありき。末代上人とぞ言ける。彼の仙、駿河富士の御岳を拝し玉ふに、三国無双の御山峯は、…」このように続く。ここの後も非常に重要な部分がある。

「その身は猶も彼の岳に執心して、麓の里村山と白す所に地をしめ、伽藍を営、肉身斯に納て、大棟梁と号して、当山の守護神と現れ玉ふ。」

ここの部分では「末代上人が村山に寺を建立して、そこで肉身仏となり、山の守護神となった」とある。この部分でいう「村山」は現在の富士宮市村山と一致しているのであるが、ここで村山修験の起源と結びつけることができるのである。またその後に、伊豆日金山の地蔵信仰と関連することが記されている。

これらが代表的な記録であるが、他はこのようなものがある。


  • 『実相寺衆徒愁状』(富士宮市北山本門寺蔵、文永5年)

第一最初院主上人(中略)鳥羽仙院之御帰依僧、末代上人之行学師匠也
岩本(静岡県富士市)の実相寺を開いた「智印」の行学弟子であったという内容である(末代が実相寺に属していたわけではない)。鳥羽院は熊野詣を繰り返した人物であり、(浄土)信仰に篤かったとされる。この記録には智印は「阿弥陀仏上人と称されいた」ともあり、そういう意味で通じやすい部分があったのかしれない。しかし末代と智印は、方向性が大きく異なるようである。事実、末代は実相寺を継いでいない。

ちなみにこの『実相寺衆徒愁状』は女人禁制文書の1種でもあり、これは富士山信仰を考える上で関わりがあるかもしれない(参考:牛山佳幸,『平安時代の 「女人禁制文書」 について』,2001)。

  • 『駿河国新風土記』

此人はじめ伊豆山に住し、今に伊豆日金山にその旧跡あり。地蔵霊現記に見えたる、この山の神の本地大日目覚王と云ること、ふるく云へることにや。

末代は伊豆の日金山に住んでいたという。実相寺の弟子であったことと絡ませても、「駿河出身」というのは信憑性が高いと思われる。

またこのようにもあるという。

大棟梁と号し此山の守護神となるといへる社、今に村山浅間の傍に大棟梁権現の社あり。村山の三坊の山伏辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現と分て別当なり。

これは村山に残る社伝などからと思われる。他、このようにある。

富士山大縁起に、興法寺は末代上人の営むとことろいひ「興法寺縁起、有別状。村山之上、経野移山、木立堺也」とみえたる是なり。頂上東の方に経ヶ岳といふ所あり。一切経を納し所なりと云は、此末代が関東の民庶に勧進し、仙洞に調進せし一切経を納し所なり。

これも村山関係である。


  • 富士山頂の「経筒」と「経巻」

実際に富士山頂に埋経された経巻類から「末代聖人」と記されたものが見つかっている。

私たちから見れば、『地蔵菩薩霊験記』も『駿河国新風土記』も共に古い記録ですよね。しかし『駿河国新風土記』を著した当時からみれば、『地蔵菩薩霊験記』が遠い古い時代の記録だったんです。『地蔵菩薩霊験記』の項にて「またその後に、伊豆日金山の地蔵信仰と関連することが記されている」と書きましたが、その記録をみた当時の人は編纂中の『駿河国新風土記』の中で"今に伊豆日金山にその旧跡あり。地蔵霊現記に見えたる"と書いているのです。歴史は繋がっているのです。

  • まとめ

信憑性が高い『本朝世紀』の記録や、富士山頂の経巻類に「末代聖人」とあることで、末代の存在は確実である。数百回登ったかは分からないが、それでも信仰に関わる重要な人物であることは間違いない。また末代と「村山(富士宮市村山)」を結びつけることができる点も非常に大きな事であろう。村山の浅間社などに伝わる社伝とかではなく、史料上からその関係を見いだせることがあまりにも大きい。

『本朝世紀』に記されたその時代、民衆による富士信仰(の始まり)は認められ、その中心が村山と一致するとみて良いだろう。この時既に、「修験」としての性格が認められ始めるということである。この時代の富士信仰の2大要素は「律令国家により浅間社の祭祀という意味での富士信仰」と「民衆が中心となる富士信仰」であると考えて良い気がする。

  • 参考文献
平野栄次,『富士浅間信仰』P25-48, 雄山閣出版,1987年