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2020年1月8日水曜日

富士山本宮浅間大社が富士山八合目以上を所有する理由を歴史から考える

全国には数多の山があります。『日本山名総覧』の説明によると、国土地理院発行の2.5万分図に記載されている山は「16667山」あるといいます。この中には社寺が所有しているものも多く含まれます。つまり「山」を社寺が所有していることは、何ら珍しいことではないのです。実は富士山もその例に漏れず、富士山の場合は神社が一部土地を所有しています(八合目以上)。その神社が「富士山本宮浅間大社」なのです。



新聞記事(WEB版)にそれらに関する興味深い記事があったので、引用させて頂きます。

富士山頂、県境決めず一緒に守る 山梨と静岡(朝日新聞デジタル 2020年1月6日)
国を代表する山である富士山は、その圧倒的な存在感と知名度ゆえに山梨、静岡両県の争いの要因にもなってきた。その最たるものが境界問題だ。静岡県裾野市の市立富士山資料館には、1779年、江戸幕府が出した裁許状が展示されている。富士山頂の土地をめぐり富士山本宮浅間大社(同県富士宮市)や上吉田村(山梨県富士吉田市)の有力者らが起こした争いへの判決だ。「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた。第二次大戦後、全国の社寺に貸し付けられていた国有地が原則、無償譲与されることになり、大社は国に8合目以上の譲渡を求めた。しかし、国は一部しか認めず、大社は提訴。1974年に最高裁で勝訴し、2004年、ほとんどの土地が無償で譲渡された。(抜粋)

とあります。実はこの部分は、富士山を世界遺産に登録する際にユネスコに提出された『推薦書』にもはっきりと明記されているレベルの、識者にとっては周知の事実です。

世界遺産登録というのは、一筋縄にはいきません。ユネスコに『推薦書』を提出し、現地調査等を経て、その上で推薦書の内容が繰り返し吟味され認められた場合のみ登録がなされるのです。あまり知られてはいませんが、推薦書は「日本国」が提出する資料であり、富士山の世界遺産登録の根底をなすものです。

推薦書

『推薦書』には以下のように記されています。

①そのうち、八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)の区域については、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地であるとされてきた。それは、山頂に存在する噴火口(内院)の底部に浅間大神が鎮座するとの考え方に基づき、その底部とほぼ同じ標高に当たる八合目から山頂までの区域が最も神聖性の高い区域と考えられてきたからである。  
1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた。これを足がかりとして、富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。1877年頃には明治政府が八合目以上の土地をいったん国有地と定めたが、1974年の最高裁判所の判決に基づき、2004年には富士山本宮浅間大社に返還された。

とあります。これが推薦書に記されていることから、富士山本宮浅間大社の立場は国にもお墨付きを得ている形となっています。今回はこの部分について考えていきたいと思います。まず

1609年には徳川幕府により山頂部における富士山本宮浅間大社の散銭取得権が優先的に認められた

の箇所についてですが、これは以下の箇所が該当します。

幕府裁許状(安永8年)
安永8年の幕府裁許状には富士山本宮浅間大社が「関ヶ原の戦い」の際に戦勝を祈願し、見事それが成就したことから、幕府が本殿や末社などを残らず再建したということが記されています。また、内院散銭(富士山頂に投げ入れられたお金のこと)を修理代として寄進したことも記されています。まずここから

徳川氏により"山頂における権限に対して"富士山本宮浅間大社が特別な庇護を得ていた

ということが分かります。但しこの史料だけでは「富士山頂の支配」とは言い難いと言えます。しかし他に土地の帰属等が分かる史料も存在しているので、見ていきましょう。


この古文書について青柳(2002)は以下のように説明している。

富士浅間本宮に対する優遇政策は徳川忠長にも引き継がれたようで、この時期「みくりや・すはしりの者共嶽へ上り、大宮司しはいの所へ入籠み、むさと勧進仕るに付て、大宮司迷惑の由申され候」という文面の通達が、忠長の付家老である朝倉筑後守と鳥居土佐守から、地方奉行である村上三右衛門に宛てて出されている。つまり、ここにおいて富士山頂は、富士浅間本宮の「しはい(支配)」の土地と認められたのである

とある。「大宮司しはい」の大宮司は本宮の「富士大宮司」のことであり、みくりやは「御厨」で「すはしり」は「須走」のことである。このように少なくとも寛永年間に富士山本宮浅間大社が支配していたことを示す古文書がしっかりと残っているのである。

徳川忠長
また以下は貞享3年(1686)の古文書である。


青柳(2002)には以下のようにある。

富士山は八合目以上の大行合から山頂までは富士浅間本宮の4人の神職が支配している土地である、という認識を示しているのである。彼らに取って、そこは須走村でも小田原藩領でもない、寛永期に定められたままの「大宮しはい」の土地であった

としている。「行合より八葉」ということから、大行合(おおゆきあい、八合目)から八葉(はちよう、山頂)までを支配していたことになる。また「大宮町大宮司殿」・「宮内殿」・「民部殿」・「宝当院」(別当)はすべて富士山本宮浅間大社に関わる神職である。「大宮町大宮司殿」は富士大宮司であり、「宮内殿」・「民部殿」は公文・案主、「宝当院」は宝幢院であり別当である。

このような歴史を元に現在「富士山本宮浅間大社の土地」という扱いになっているのである。しかしこの長い歴史の中で、当然ながら土地帰属に関する衝突が皆無という訳にはいかなかった。実はその衝突から「より帰属を明確にする」必要性が出てきており、それらの成果物が現在のこの状況を作り出したと言っても良いのである。

青柳(2002)には以下のようにある。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、富士山頂の土地に対する須走村の認識は明らかに変化しているのであるが、そのさなかである元禄16(1703)年には、須走村は富士浅間本宮と富士山頂をめぐって衝突を起こしている

とある。「元禄の争論」と言われるものである。須走村は富士山本宮浅間大社を相手取り訴訟を起こした。相手は富士大宮司、公文・案主、宝幢院である。これらの争いは内済で済まされ(和解のようなもの)、須走村に利のある内容で決着した。実はこの訴訟では結果的に土地帰属は明確でないまま終えているのである。

青柳(2002)には以下のようにある。

ところで、この元禄争論は「富士山頂の薬師嶽から御馬乗石までは須走村分の土地である」という須走村の主張は是か非かという、富士浅間本宮と須走村の間での境界争論(境論)としての性格を持っていたにもかかわらず、内済ではその点は一切触れられていない。どのように富士山頂付近に境界を確定するか、という問題は棚上げにされたのである

とある。この古文書は『小山町史』等にも掲載されているが、確かにそのような形跡は見られない。またその後も認識の相違が度々生じていた。青柳(2002)には以下のようにある。

しかし18世紀以降になると富士山頂付近もまた山麓村々の土地の一部として認識されはじめるようになる。須走村の場合、貞享3年段階に至っても依然として同所は富士浅間本宮に帰属する土地であると認識していたが、その22年後の宝永5(1708)年になると、村鑑の中で「惣じて大行合より御馬乗石と申す所までは駿東郡須走村の地内にて御座候」と、大行合から山頂の「御馬乗石(駒ケ嶽)」までは自分の村の土地だ、と主張するようになっている。

とある。これを見て「根拠も無しに自分の土地と言うとは何事だ」と思われるかもしれませんが、このときそのような余裕は無かったのである。

この"宝永5(1708)年になると"の部分が極めて重要であり、実はこの前年に富士山の宝永大噴火があったのである。そのため須走村としてはこれまでの序列や土地帰属観を無視してまでも"価値のある"富士山頂周辺の土地を得たいという思惑があったのである。これは、人間の心理を考えれば当然とも言えるだろう。

絹本著色富士曼荼羅図

これら須走村側の変化が生じていく中で、「明和・安永の争論」というものが起こった。これは大争論であり、ここで曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしようという動きが生じたのである。実はこの争論で出てくるのが、記事中に出ていた

「8合目より上は大宮持たるべし」。この時、幕府は富士山本宮浅間大社にその所有権を認めた

の部分であり、『推薦書』にある

富士山本宮浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年には幕府の裁許に基づき八合目以上の支配権が認められた。

の部分なのである。ではその歴史の重大転換を見ていきたいと思う。

この争論は富士山頂にて亡くなった登山者が発見されたことから始まり、この登山者を"どこが請け負うか"ということが問題となった。青柳(2002)に

ある土地で死骸処理を実施することは、その土地を誰が所持しているのかという問題と密接に関係している

とあるように、まさに土地帰属の問題が出てきたのである。ここに吉田村(現在の山梨県富士吉田市)も関与してくることとなり、三者で争われることになったのである。青柳(2002)に

明和・安永争論は富士浅間本宮・須走村・吉田村の三つ巴で争われることになった。そして互いが死骸処理を担当すべき地理的範囲はどこからどこまでかという争点を有していたため、今度は元禄争論と異なって、富士山八合目から山頂にかけての土地をめぐる境界の位置に争点の主眼が置かれるもである

とある。これをもっと分かりやすく言えば

富士山登山口を有する「大宮」(駿河)「須走」(駿河)「吉田」(甲斐)の三者の争いであり、駿河・甲斐双方の有力者が関与した山頂の土地帰属に関する最終的な争い

とうことなのである。ここで決まったことは歴史の積み重ねによる事実上の最終決定であり、これが現在にも引き継がれているのである。

この争論に際して須走村は郡奉行に史料を提出したが、この中には土地所持について保証を受けたことを示すものは無かった。しかしこれは富士本宮も同様であり、土地所持の保証を示すような検地帳や朱印状は提出されていなかった。吉田村は言わずもがなである。

そして最終的に幕府は以下のような裁許を与えた。青柳(2002)に

まず、山頂付近の土地については「冨士山八合目より上ハ大宮持たるへし」との判断が示された。富士浅間本宮の主張が認められるかたちとなったのである。(中略)ここでの「大宮持」とは、八合目より上では富士浅間本宮が諸経営活動および死骸処理について優越的な立場にあることを保証する、というくらいの意味であろう

とあるように、「富士山八合目より上は大宮持たるべし」と判断されたのである。しかし青柳氏が述べるように「=土地所持」というよりは「優位的立場にあることは明白である」という域を出ないようにも思える。「曖昧な状態でなく土地帰属を明確にしよう」という流れであったはずであったが、やはり曖昧な状態は続いていたと言える。ここは解釈が大きく分かれる所であり、難しい。

大宮持たるべし

しかしながら徳川忠長支配時代の寛永年間(1624年-1645年)に「大宮司支配の所」という古文書が残り、また明和・安永の争論では1779年に「大宮持たるべし」という幕府の裁許を得た。これら長きに渡り富士本宮が優位的な位置に居続けたことは、指摘されてきた通りである。

山梨県知事と静岡県副知事が文化庁長官に推薦書を提出する様子

そしてそのまま現代に至り、現代の叡智を持って1974年に最高裁判所にて判決が出されたという流れなのである。実は驚くことに最高裁判所の判決でも江戸幕府の裁許が重視されている。これにより限りなく「完全かつ最終的に解決した」と言える状況となったのである。帰結としては妥当な着地点という印象を持つ人も多いだろう。

更に言えば、推薦書にこれらが明記されたことは「完全かつ最終的に解決した」状態を更に補完する結果となったと言える。何故なら、推薦書のその原案は静岡県と山梨県が共同で作成し文化庁へ提出した経緯があるためである。

  • 参考文献 
  1. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』, 角川書店,2002年
  2. 高埜利彦,『近世の朝廷と宗教』,吉川弘文館,2014年
  3. 『推薦書』(日本国)

2018年6月24日日曜日

富士吉田市の基本情報及び富士山との関係

このページは「富士吉田市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

富士吉田市は山梨県郡内地方の自治体である。標高は最低標高が652mで最高標高は3,776mである。


富士吉田市は、山梨県側の富士山麓各自治体をまとめる立場にあると言って良い。行政主導の多くの場面で、「(富士山麓の)山梨県側の代表」として行動している節がある。 例えば2005年(平成17年)に環富士山地域の防災対策連携を策定し設立された「環富士山火山防災連絡会」は、富士吉田市が提唱したものである。このときから「環富士山」という言葉が多く用いられるようになったのであり、このような事例が確認できるのである。

ちなみに静岡県側をまとめたのは富士宮市であるが、富士山関係の事柄は普通

山梨県:富士吉田市主導
静岡県:富士宮市主導

という構造になっている。富士山に関わる何らかの動向の際に富士宮市と富士吉田市が動いていれば、それはおそらく実を結ぶ可能性が高いと言えるのである。

富士吉田市という名称を考える上では、先ず地理的な理解が求められる。明治期の町村制施行で、現在の富士吉田市の市域には3つの村が成立した。「瑞穂村」「明見村」「福地村」である。この三村の中では「瑞穂村」が中心地であった。


上の図は富士山を山頂から見た図であり、財務省のHPにあるものに加筆したものである。ここでいう「福地村」(右上)が富士吉田市の山体側の市域となる。

そして中心地であった瑞穂村は町制施行で「下吉田町」と名乗り(1939年)、富士山体側の「福地村」は「富士上吉田町」と名乗った(1947年)。この両者と「明見町」とで合併がなされたが(1951年)、やはりそのまま「富士上吉田市」等ではおかしいので共通の固有地名である「吉田」と「富士」を合わせて「富士吉田市」と命名された。当地では今でも「上吉田」「下吉田」という呼称が用いられている

「福地村」の「福地」は「富士」に連なる用語であり、「福地≒富士」なのである。直接「富士」と名乗ってはいないものの(憚ったとも言える)、間違いなく「富士」の用例であり、自治体でそれを名乗っていた早い例とすることも出来るだろう。

また富士吉田市の特徴として「北口本宮冨士浅間神社とそれに付随する事柄」が挙げられるだろう。「吉田口登山道」「金鳥居」「御師住宅」等も北口本宮冨士浅間神社に付随すると言って良い。「金鳥居」については『富士山包括的保存管理計画本冊』に「登山鳥居」とあるそれがそうである。

西宮本殿の背後には登山鳥居(登山門)が建ち、この神社境内を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講信者は、御師住宅から懸念仏を唱えつつ北口本宮冨士浅間神社へと至り、神社の拝殿に昇って参拝した後、富士山頂を目指した。富士山の登拝を開始する「開山日」は古くから毎年7月1日と定められ、北口本宮冨士浅間神社では夏 山の安全を祈願する神事が行われてきた。今日では、開山日の前日に当たる6月30日に盛大な開山パレード及び登山鳥居(登山門)の注連縄を切り落とす儀式などが行われ、実質的な開山祭となっている。

ここからが吉田口登山道の起点と考えられている。富士山は「特別名勝」でもあるが、以下はその特別名勝の範囲を示したものである。


黄色の箇所がそうであるが、やはり細く延びる箇所が特徴的と言って良い。そして富士吉田市側で細く延びているその起点は何を隠そう「金鳥居」(北口本宮冨士浅間神社境内)なのである。登山道は道者が登拝した道であり、それを特別名勝を構成する1つとしているのである。

また世界文化遺産富士山における「富士山域」もやはりここから細く延びる形になっているのである。

登山門=金鳥居のこと(登山鳥居とも)

御師住宅は北口本宮冨士浅間神社の後ろに位置している。


世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。


構成資産
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社
御師住宅(旧外川家住宅)
御師住宅(小佐野家住宅)
吉田胎内樹型

環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
010 新倉山浅間公園
011富士見バイパス
012金鳥居
013富士パインズパーク(諏訪の森自然公園)
014城山東農村公園
015道の駅富士吉田
016富士散策公園
017富士北麓公園
019杓子山
101小富士

以上が、「富士吉田市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2013年5月20日月曜日

富士山における庚申縁年

富士山には庚申縁年という考え方が存在する。「庚申」は以下の年度が該当し、その年は富士山にって特別な年となるわけである。次の庚申縁年は2040年である。

16世紀以降の庚申年一覧
年号西暦
明応9年1500年
永禄3年1560年
元和6年1620年
延宝8年1680年
元文5年1740年
寛政12年1800年
万延元年1860年
大正9年1920年
昭和55年1980年
---2040年


なぜ庚申が「縁年」と考えられているかについては、「六代考安天皇92年に富士山が出現した」または「考霊天皇5年に出現した」という伝承による。しかしそれは「庚申と富士山がどう関係するのか」という場合の話であって、背景には浅間神社の社人や御師などがその恩恵などを人々に示したためであろう。

庚申年は登山風俗上も大きな変化があり、例えば女人禁制が一時的に解除される。また縁年という有難味から、特に道者が多く訪れる。道者が多く訪れることから、奪い合いも激しさを増す。庚申縁年の状況を示すと思われる有名な史料は『妙法寺記』である。明応9年(1500)の条に

此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走ヘ皆導者付也

と記されている。これは関東の乱が影響して特に須走口に道者が集中したという、須走口の状況を示した記録である。「限りなし」は、明応9年の庚申の年ということもあって多くの道者が訪れたのだと解釈できる。

また歌川広重の浮世絵の詞書や、葛飾北斎の『富嶽百景』には「考霊天皇5年富士山出現」を示すとされる記載がみられる。

延年である延宝8年(1680)に作成された「富士山」と題する「庚申縁年縁起の木版」(正福寺蔵)がある。これは当時「庚申縁年」の認識があったことを明確に示している。また正福寺は吉田に位置し、富士山信仰と関わりがあったことが指摘されている。この当時富士講は未だ発生していなかったことを考えると、富士講発生以前にも吉田には庚申縁年の伝承は根付いていたと考えて良い。『妙法寺記』の記述では庚申との関係性は明確ではない。しかしこの木版から、いっそはっきりするのである。

また案主富士氏の記録である「富士本宮案主記録」の延宝8年(1680)の項には

六月富士山参詣之導者面口六千人程有、…

とあり、六千人もの道者が訪れたと記されている。このことから、駿河国でも同様に庚申縁年の影響があったことが分かる。

また影響は広く、茨城県坂東市の大谷口香取神社の延宝8年の庚申塔には「奉祭礼富士大権見、衆望亦足攸」「右意趣者庚申待教養、善巧而巳、別当常光院」とある。また同じく延宝8年の「御公用諸事之留」(甲斐国・甲府)には「当年は庚申の年であるので富士山への道者が多くやってくる」という内容の記録がみられる。

これらの記録から「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」では以下のように説明している。

これらのことから、延宝8年(近世前期)にはすでに庚申縁年の考え方が相当広範囲に広まっていた、と考えられる。この年に多くの道者が富士山を目指して各信仰登山道集落にやってくることは、事前に予測されていた。しかもこのことは延宝八年に初めておこったのではなく、それ以前にも庚申年に信仰登山道集落に多くの道者が押し寄せた経験があったからこそ、その再現が期待されていたものと思われる。

とし、これらの解釈は大きく傾聴すべきである。また表口の道者数についてはいくつか年度別の記録が残されており、参考となる。

公文富士氏「導者付帳」(慶長17年)による
年代西暦人数
元和元年161520
元和2年1616217
元和3年1617412
元和4年1618438
元和5年1619119
元和6年1620746
元和7年1621348
元和8年1622207
元和9年162352


明らかに庚申年である元和6年(1620 )に道者数が増加している。また以下は「大鏡坊文書」の記録である。

大鏡坊文書
年代西暦人数
享保13年1728311
天文5年17401440
寛政5年1793400/500
寛政6年1794600
寛政7年1795500
寛政8年1796400/500
寛政10年1798400/500
寛政12年18002000
享和元年1801200


「大宮」と「村山」の双方の道者についての記録であるが、双方とも明らかに庚申年で増加している。これは偶然ではない。やはり17世紀前半でも庚申縁年の考え方は広く伝播していたと考えるできであろう。

そしてやはり『妙法寺記』の明応9年(1500)の「富士導者参事無限」という記録も、庚申縁年による現象と考えるのが妥当と思える。これは「道者」の初見でもあり、大変重要な記録である。

またこのように、「庚申縁年=富士講」ではない。これを誤解している文献は多い。例えば今年刊行された富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議編,『富士山百画 100 Portraits of Fujisan』のP60に「この年は富士講にとって特別な60年に1度の庚申の御縁年にあたる」とあるが、この類の記述も誤りである。また先ほど引用した公文富士氏の「導者付帳」には「先達」という記述がみられ、これが先達の初見とされるが(『富士の信仰』(古今書院版)P4)、一部の文献では「先達=富士講」としてしまっているものもある。先達も富士講に限局するものではない。

  • 参考文献
  1. 菊池邦彦,「富士山信仰における庚申縁年の由緒について」『国立歴史民俗博物館研究報告第142集』,国立歴史民俗博物館,2008

2012年10月17日水曜日

吉田御師の北口本宮冨士浅間神社掌握の過程

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」にありますように、現在の北口本宮冨士浅間神社については、戦国期において初めて浅間社が建立されたと考えられている。一方江戸時代、とくに江戸中期以降は吉田御師との関係が綿密である。御師によって掌握されていると言って良い。戦国前期においては浅間社が存在していなかったばかりか、吉田御師と神社との関係も薄いものであったというのに、江戸時代中期にはこのような関係が生まれている。つまり、この短期間で非常に大きな変移があったと言える。

といっても、同じく郡内の富士御室浅間神社はまた性格が異なる。こちらは古来より浅間社として成立してきた神社であり、御師とも強く結びつきがあった。御師から神職が選ばれていたわけであり、表裏一体とも言える。そういう意味で、北口本宮冨士浅間神社とは性格が全く異なる。北口も戦国時代、御師が神務に関わっていた部分は認められるが、それは富士御室浅間神社と比較すればその要素は圧倒的に少ない。

北口本宮冨士浅間神社の変化を考えると、当神社が御師により支配されていったと考える方がすんなり理解がゆく。

元亀3年の「宜吉田屋敷割帳」に「大鳥居祢宜」や「下祢宜」と記されている。「吉田」と「大鳥居」ということから北口の祢宜(神職)の屋敷と解釈されるが、「浅間祢宜」と評されていない。これについて「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」ではこのように述べている。

なぜ浅間祢宜と言わなかったのであろう。これについては、次のように推定される。永禄四年に、武田信玄が社殿を造営する以前には恐らく、ここには社殿といえるほどの建造物はなく、大鳥居内は富士山遥拝の神域とされ、その中に小祠くらいはあったかもしれないが、注連張を設け、そこで富士に向かって祈願、祈祷が行われていたのではないであろうか

これは「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」で記した笹本正治氏の解釈とも繋がる。しかも戦国期の文書では「諏訪祢宜」と見えるのである。つまり、この時代(戦国時代)の北口社の中心人物は諏訪祢宜であったのである。というより、浅間祢宜が存在していなかったわけである。

資料1
明暦2年(1656年)に「御師職分についての訴状」がある。これは浅間社から御師に対して、境内の掃除や灯明番等において怠惰のなきようにと通達したものである。そしてその中で、宮の掃除や番は祢宜の職分であって、御師の職分ではない旨を訴えている。これは、浅間社の神職が御師に対して抵抗を示していたことを表している。時代が下るに伴い御師の介入が大きくなり、それに抵抗感を感じているわけである。御師による北口社支配の初期段階と言ってよいだろう。

宝永年間に北口社の祢宜「小佐野若挟」は、宮の支配権は神職に有りとして、御師の自由な祈祷を妨げようとした。それらに対する御師の訴状(宝永5年、1708年)に「祢宜の神社支配についての訴状」がある(資料1)。この中で、(御師の主観による)神職と御師の職分について記している。そしてその中で「神社の最も重要な祈願・祈祷は御師が努め、日常的な管理は祢宜が受け持つべき」とある。つまり御師たちは、神職より御師が祈願・祈祷を行うにふさわしいとしているのである。本来祈願・祈祷というのは神職が行うものであるので、御師の主張はかなり域を出たものと言えるだろう。

つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。

これらの流れを文献1が取り上げ帰結を記しているが、その解釈を要約すると「御師の解決法は、本殿以外の社殿の一部を御師の祈祷所として利用することを望む内容であるから、本殿の利用までは望んでいない以上御師が後退した形である」としている。しかしこれは神職の優位とは言い難い。そもそも北口は、御師が掌握していたものでは全くなかった。その中でここまで掌握されかけているのである。つまり、着実に御師の力が増しているのである。ただし文献の中で「神社に参拝する道者は、すべて御師を経由するわけであるから、御師との強調関係を簡単に失うことはできない」とある。たしかに道者は御師を経由して参拝しており、神社としては道者という最大の参拝者を失うわけにはいかない。その後ろにいる御師とは、協調関係は失うことはできなかったのである。

ここで御師はさらに神社との関係を深めるため、大きな動きに移るようになる。それは、「御師が神職になる」という選択である。これはどちらかというと、富士御室浅間神社のシステムである。しかしそこで「伝統的な体制に留まろうと考える人」と「御師」という2つに分かれることとなる。そこで争論が生じるようになる。

「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。

神位、神幣新規申請についての書状
この内容によると、御師たちは「浅間大菩薩」ではなく「浅間大神」という神号を使用したことなどを不快に思っているようである。しかし本当のところは、相談せずにこのようなことを実行したことに納得がいかなかったという話のようである。また御師たちは吉田家をよく思っていなかったので、吉田家を介して行なったことに不満があったのである。

そして訴訟された側はこのような主張をしている。

答書
つまり「橘屋中務」「鶴屋新助」といった御師は、「神位、神幣を受けて格式を上げることに専念すべし」という考え方であったようである。この争論は内済によって決められ、「浅間大菩薩とするも、浅間大神とするも、互いに妨げるべきではない」という結論となった。こういう過程を経て、御師が神職となるケースも増えていったようである。御師はその性格上浅間社を推したため、諏訪社は追いやられていき、浅間神社が優位となっていったのだろう。

そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。

論考の中で

御師は、お山の守護者として、神礼の授与社として尊敬を受けたが、富士講とは一線を画する神道家としての性格を持つ姿になったようである

とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。

「このようにみてくると、地元の者の習慣の中には、天地の堺を超えて五合目に登る形態はみられない。頂上まで行くのは夏山を踏む富士講道者のみである」「御師の行動範囲は、道者・構中を出迎える下吉田愛染と浅間神社の裏門との間に限られる

とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。

  • 参考文献
  1. 星野芳三,「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」,『甲斐路』77号,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年

2012年9月15日土曜日

戦国期吉田御師の実像

甲斐国の吉田地区は、富士信仰の拠点の1つである。その現在の山梨県富士吉田市に存在していた御師が「吉田御師」である。吉田御師は江戸時代以降に発生した富士講により大繁栄し、権力を得る。それは商業的成功による潤沢な資金源からなり、それが北口本宮冨士浅間神社の支配につながっていく(支配といっても良い気がする、ここは検討が必要)。この事実を考えると、逆に富士講成立以前の吉田御師の検討が重要である

まず富士講は江戸時代より以前には存在しておらず、隆盛は少なくとも18世紀中盤以降と考えられる。つまりは、少なくとも「~17世紀」までの記録において、富士講関連やそれに影響を受けた記録は存在していないと考えても良い。では吉田御師に関わる部分を取り上げたいと思います。

  • 小山田氏と御師衆
弘治2年(1556)に領主である小山田信有が吉田御師の「堀端坊」に前々のごとく諸役を免除する印判状を出している。このことから、河口御師同様に諸役として領主により掌握されている形態が確認できる。

永禄2年(1560)に小山田信有は、吉田御師の「小沢坊」に富士参詣の道者が悪銭を持ち込まないよう取り締まることを命じている。「甲州悪銭法度(中略)一切被停止之間」や「当国被破法度」とあり、小山田氏が甲斐国の法度に準じていた(規制されていた)とされる。永禄4年(1562)に小山田信有は吉田御師の「刑部隼人」に、来年富士参詣にくる道者200人の当郡役所中の通行許可を与えた。武田氏の設けた法に準ずる部分と自らが出す権利が混在した状態であると考えられる。また「役所」とは「関所」のことである(道者関については「富士山麓の道者関と小山田氏」を参照)。

『妙法寺記』の永禄2年(1559)の記録に、吉田御師と小林和泉守との対立が記されている。これは宮川の川除木材伐採をめぐる「吉田の御師衆」と河口船津(現在の富士河口湖町)の地頭「小林和泉守」との対立である。そしてその判決は小山田氏に委ねられ、最終的に御師衆の主張が通っている。

  • 武田氏と御師衆 
『妙法寺記』の弘治2年(1556)の記録に、河口の有力者「小林尾張守」と吉田御師との対立が記されている。

小山田弥三郎殿御被官探題御座候而、地下衆歎モアリ喜も御座候。殊更尾州吉田衆に非分多く候間、二十人ひきわかさり…

これは小林尾張守貞親が吉田衆に対して非文を成したので、二十人程が小山田氏のもとへ訴え出たけれど判決が出ず、今度は甲府へ行って武田晴信の判決で処理されたというものである。「非文」とは吉田衆からみた視点であり、小林尾張守が勝手な灌漑を行なったことを御師衆が非文としたということである。

これをみると、上記の『妙法寺記』永禄2年(1559)の吉田御師と小林和泉守との対立との比較は重要である。つまり郡内に位置する御師衆は基本的に小山田氏を頼りにするも、行動が示されない場合は武田氏を頼りにするのも普通になっていたのである。それは、郡内において武田氏の存在が既に強くあったことを示している。『妙法寺記』には「甲州晴信公」とあり、郡内においても存在が大きくなっていたと言える。またこれらの資料から、御師は川口地区の有力者と日常的に対立していたことが分かる。川口は現在の富士河口湖町で、吉田御師は現在の富士吉田市に位置する。

永禄5年(1562)、武田氏は河口御師と吉田御師衆に「本栖之定番」を命じている。その文書はそれぞれ河口と吉田に送られている。本栖は駿河に通ずる「中道往還」上に位置しているため、国境警備上重要な地域であった。直接的な警備としては「九一色衆」が有名であるが、この文書では九一色衆だけでなく御師衆にも軍役を望んでいたと考えることができる。

  • 御師町
元亀3年(1572)の記録とされるものに「吉田村新宿帳」がある。これは吉田宿が消失したため、新宿を造ったために作成されたとされる。その人名や屋号から御師と推測されており、まとまった人数の御師衆が存在していたことが確認できる。そして「御師町」という形態が確認できる

  • 参考文献
  1. 笹本正治,「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」『富士吉田市史研究』第4号,1989年
  2. 柴辻俊六,『戦国大名領の研究-甲斐大名武田氏領の展開-』P317-338,名著出版,1981年
  3. 笹本正治,「武田氏と国境」『甲府盆地-その歴史と地域性』,雄山閣 ,1984年

2012年6月17日日曜日

戦国期甲斐国側の浅間神社と領主武田氏と小山田氏

富士信仰において、浅間神社は中心にあたります。その浅間神社に対する領主の関わり方は、注目されるポイントです。そのため、発給文書を中心として出来事を羅列してみました。現在の「一宮浅間神社」と「富士御室浅間神社」と「北口本宮富士浅間神社」についてです。

※すべてを載せているわけではありません
※年代は間違いの可能性があります。

  • 一宮浅間神社

内容
天文16年(1547)武田信玄が一宮浅間神社に信州の平定を祈る。
天文19年(1550)信玄、信府(長野県松本)の掌握を祈願。
天文20年(1551)信玄、上記の事が成就したため一宮郷荒間の一部を寄進。
弘治2年 (1556)信玄、信州筑摩群の一部を寄進。
元亀3年 (1572)駿河国富士郡押出村の一部を寄進。

  • 富士御室浅間神社

内容
弘治2年(1556)小山田信有、御室浅間神社の別当小佐野越後守に一部免除を与える
弘治3年 (1557)信玄、北条氏政のもとに嫁いだ娘の安産を祈る
永録元年 (1558)信有から小佐野越後守宛。勝山にて非法を行う者がいた場合申し出るよう命ずる
永録2年 (1559)信有、富士浅間大菩薩にあて軍功があげられるよう祈願
永録4年 (1561)信有、出陣に際し、武運の祈願
永録5年 (1562)信有、病気の平癒を祈る
永録7年 (1564)信玄、神主に奉納物を受け取った際、祈念するよう命ずる
信有、神馬を献じる
永録8年 (1565)信玄、娘の病気平癒を祈願
小山田信茂、小佐野越後守に礼状
永録9年 (1566)信玄、北条氏政のもとに嫁いだ娘の安産を祈る
永録10年 (1567)信茂、神社の御師「小河原土佐守」に関所免許を約束
元亀2年 (1571)信玄、小佐野越後守に須走の社務を任せる旨

  • 北口本宮冨士浅間神社

内容
天文17年(1548)小山田信有、諏訪の禰宜に富士山の神事の際新宮を建てる場合は報告するよう命じる
永録4年 (1561)信玄、諏訪森の木の伐採を禁ずる。

これら3つの浅間神社を比較すると、いろいろ見えてくるものがあります。

  • 参考文献
笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年

2011年8月21日日曜日

富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論

富士山を巡るの争いは「環富士山地域」で行われていたが、その歴史の中でも大論争だったのは「大宮」と「須走」間の争いだと言える。「富士山を巡る争い」と言ったら普通はこれを指すくらいの有名な論争である。それは「元禄の争論」と「安永の争論」である。

まずその前に用語について確認する必要性があります。


  • 富士本宮…現在の浅間大社
  • 大宮…現在の静岡県富士宮市大宮
  • 村山…現在の静岡県富士宮市村山
  • 須走…現在の静岡県駿東郡小山町
  • 吉田…現在の山梨県富士吉田市
  • 内院散銭…内院は火口を意味する。その火口に道者がお金を投げ入れることを言う。山頂が神聖な場所とされたので、儀式的な意味合いがあったと思われる
  • 薬師堂…現在の山頂久須志神社
  • 1番拾い…内院散銭のお金をまずはじめに得る権利のこと
  • 2番拾い…1番拾いにて残ったお金を得る権利


富士山頂の様子(『富士山道しるべ』より)

【元禄の争論】

元禄16年(1703年)に散銭や山小屋の経営などを巡り須走村が富士本宮を訴えた論争が「元禄の論争」である。

  • 須走の訴え
  1. 「富士本宮が新たに吉田村(甲斐国)の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたが、そのような権利はない」
  2. 「薬師富嶽の薬師堂を富士本宮が造営したが、本尊の薬師仏の入仏は須走が入仏拝していたにも関わらず、富士本宮が入仏を進めると裏書したのは既得権を侵害している」
  3. 「内院の散銭取得において、従来の慣例を無視し、富士本宮が2番拾いの散銭まで取得したのはおかしい」というもの。

  • 争論の結果
  1. 「小屋掛けは他の者にはさせないこと」
  2. 「薬師堂入仏は須走が勤めることとする」
  3. 「内院散銭の1番拾いの分を大宮と須走で6:4とする。また2番拾いはこれまでと同様に須走のものとする」

と決まった。

つまり須走の全面的な勝訴と言える。特に3はかなり大きな権利を得たことを意味する。というのは、大宮は1番拾いの権利を得ていたが須走は2番拾いの権利に留まっていた。つまりほぼ大宮の独占だったのである。しかしこの争論により1番拾いの権利を一部得たばかりか、2番拾いの権利はそのまま継続されたので大きな躍進だったわけである

【安永の争論】

安永元年(1772年)に須走村は富士山の8合目以上は同村の支配にあるとして徳川幕府に訴えた。またこのとき「支配境界の論争」が大宮と吉田間でもあった。このことにより富士本宮の当時の富士大宮司である「富士民済」も幕府に訴える動きに出たため、三奉行が関わる争論となった。そして安永8年(1779年)まで裁判は持ち越されることとなった。

『浅間神社の歴史 宮地直一著』に
安永元年7月駿東郡須走村、甲斐都留郡吉田村を相手として富士山頂の地境を論じ、同八年終に三奉行より富士山八合目以上は大宮の支配たるべき旨裁許を蒙った
とある。このように三奉行により8合目以上は富士本宮の管理地であることが決定されました。

このように1779年に富士山の8合目以上は浅間大社の支配となることとなった(今般衆議之上定趣者富士山八合目より上者大宮持たるべし)。つまり大宮の全面的な勝訴と言える。これが現在に至っている。しかし内院散銭については1880年の内務省の通達により廃止されることとなった。

大宮と吉田間の「支配境界の論争」を「8合目を巡る争い」と勘違いしてしまうケースがあるように見受けられます。歴史的には、駿河と甲斐間で実質的に山頂部を争ったということはありませんでした。逆に駿河の地域間ではありました。そしてやはり「富士山を巡る争い」という意味では「大宮と須走」を指すのが良識と言えます。

  • 参考文献
  1. 宮地直一,『浅間神社の歴史』,名著出版
  2. 『小山町史』第7巻近世通史編,P469-488
  3. 小山真人,『富士を知る』,集英社,P94-100
  4. 『富士山推薦書原案』
など。

2011年7月29日金曜日

勝山記・妙法寺記にみる富士山

『勝山記』・『妙法寺記』は河口湖周辺の年代記である。『勝山記』においては、より古い型をもつとされる「冨士御室浅間神社」所蔵のものが代表である。『妙法寺記』は妙法寺に伝わる異写本である。お互い共通の原本が存在していたとされるが、所在は不明である。

ここから重要な部分を抜き出す(『妙法寺記』)。

1480年:「冨士山吉田取井(鳥居)立」

吉田に鳥居が建立。

1495年:「吉田村諏方大明神 鐘武州より鋳テ上ル」

吉田諏訪神社に鐘楼ができる。

1496年:「北条ノ君(中略)冨士へ御井テ」

北条早雲の富士登山。

1500年:「吉田トリイ卯月廿日タツ」「此年六月富士導者参事無限、関東乱ニヨリ須走へ皆導者付也」 

吉田に鳥居建立。後者はよく取り上げられる記述で、これは関東の乱のために須走口から道者が多く登ったことを意味する。当時の戦況などにより登山ルートの変更を強いられることもあったということである。

1522年:「武田殿冨士参詣有之」

武田家当主の武田信虎の富士登山。

1553年:「六月導者富士へ参詣多コト不及言説」

登山期の登山者の増加を示している。

  • 『妙法寺記』の実際
『勝山記』・『妙法寺記』は河口湖周辺の年代記といわれるが、読んでみて意外にも郡内の記述が突出しているわけではない。

地域
回数
甲州・当国など                   
65
郡内・当所
4
小山田・中津森など
39
信州・信濃
34
伊豆
4
国中
11
河内
3
郡内の豪族
30
駿州・駿河
25
越後
3
都留郡・当郡など
10
御屋形・武田殿など
64
穴山
2
相州・相模
14
武田氏と国境」より

「武田氏と国境」では、「まず甲斐、ついで都留郡の順に意識されており、郡内の領主小山田氏以上に武田氏の動向に注意を払っている」としている。富士山関連の検証としては、意外に活用できない。

  • 原本
これらは写本とされているが、「どちらが原本に最も近いのか」という議論は多い。またそもそも『勝山記』・『妙法寺記』のどちらかが原本であるという考え方もある。これらは研究者により分かれているが、笹本正治氏は「小山田氏と武田氏-外交を中心として-」の中でこれら問題に触れている。『勝山記』と『妙法寺記』では『勝山記』の方が振り仮名や送り仮名が多く、総合的な字数が多い。振り仮名などの関係で『勝山記』の方がより読みやすく、違いが確認できる。これらから笹本正治氏は、『妙法寺記』を読みながら写字したため、その関係で振り仮名などが付加されたという可能性を指摘している。つまり『妙法寺記』が原本により近いと主張している。

  • 参考文献 
  1. 笹本正治,「武田氏と国境」「小山田氏と武田氏―外交を中心として―」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣出版,1993年
  2. 『浅間神社史料』P13,浅間神社社務所,1934年

2011年7月28日木曜日

隔掻録にみる富士山

『隔掻録』は「甲斐国志にみる富士山」でも述べているように『甲斐国志』がベースである。そのため記述は非常に類似しているが、甲斐国志にみられない部分もあるため、富士山の歴史を考える上で同じく参考となると言える。
隔掻録
隔掻録は以下から構成されている。
  • 富士山上略記
  • 山中ノ話
  • 富士八海
  • 富士山産物
  • 御身貫並偽字
  • 淺間ヲ仙元ト書事
  • 賓永四年山焼ノ事
  • 庚申ヲ縁年トスル事参詣人数ノ事
  • 農鳥ノ事
  • 富士行者小傳
ここから重要な部分を抜き出す。

<富士山上略記>
  • 駿州ノ大宮司モ例祭ニハ北口ヲ登ルヲ例トス
富士大宮司(浅間大社)が村山を避け北口から登ったという慣例を指している。

  • 行者ハ南ニ登リテ北ニ降リ北ニ登リテ南ニ降ルヲ御山ヲ裂クト称シ
表口から登り北口から降りる、またはその逆などは「山を裂く」といい、良しとされなかったようである。

  • 渾テ此ヨリ上ハ一切駿河ノ持分ニテ吉田ハ関スルコトナシ。
(8合目)より上は駿河国のものであるため、吉田は関わることはできない。

  • 村上ノ拝所アリ、駒ヶ嶽ヲ向へ下レバ大日堂アリ(是より表大日ト云ヒ、薬師ケ嶽ノ薬師ヲ裏薬師ト云フナリ、村山口・大宮口ヨリ登ル者此所二出ヅ)別当村山ノ山伏三人ナリ「大鏡坊・辻坊・地西坊コレヲ三坊ト云フ」
大日堂(表口)を表大日、薬師堂(北口)を裏薬師と呼ばれていたということが分かる。その後、村山三坊のことを記述している。

<庚申ヲ縁年トスル事参詣人数ノ事>
  • 今モ年々ノ詣人平均スルニ吉田ロヨリ登ル者八千人ソノ他ハ駿州ノ三ロヲ合シテ是ニ相伯仲スト云ヘリ
吉田口より登る人は8000人で、これは駿河側の3登山道の登山者を合計した程の規模であったということ。吉田口の利用者が多かったことが伺える重要な記述である。

2011年7月27日水曜日

甲斐国志にみる富士山

『甲斐国志』(かいこくし)は江戸時代に編さんされた山梨県の地誌である。

その甲斐国志の巻之三五は「都留郡」の部分であり、富士山に関する記述で埋められている。したがって、富士山の歴史を知る上で参考になる部分は非常に多いと言える。

ここで1回『隔掻録』(かくそうろく)という別の地誌についても考えてみたい。隔掻録は文化13年(1816年)に書かれたとされる。「月所錄」とあり「月所」なる人物により書かれたとされるが、この人物についてはあまりよく分かっていない。また序に「森嶋弥十郎(子与)の友人」という旨のことが記されている。子与という人物は実は「松平定能の命により甲斐国志の都留郡の部分を担当した人物」である。そしてこの甲斐国志の記述に、自分が地元の住民や登山者などに尋ねた内容を追加し書き入れて完成したものが『隔掻録』である。だから甲斐国志と隔掻録の内容は、特に後半の多くで一致する部分が見られる。ですから甲斐国志の巻三五を読めば隔掻録の概ねは網羅したことになる。

甲斐国志巻之三五から、重要な部分を抜き出す。

  • 郡の西南二当リ南面は駿河二属シ、北面は本州に属ス
富士山の南は駿河国、北は甲斐国である。

  • 八合目ヨリ頂上二至テハ両国の堺ナシ 
8合目より上は両国の堺はない。

  • 登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口、村山口大宮口ノ四道也(中略)南面を表トシ北面ヲ裏トスレドモ古より諸国登山ノ旅人ハ北面ヨリ登ル者多シ
登山道は北は吉田口、南は須走口、村山・大宮口の四道がある。南面が表で北面が裏であるけれども、登山者は北面より登る者が多い。

  • 径弐尺御釜ト称ス此辺ヨ上女人参詣ヲ禁ス永録7(甲子)年6月小山田信有ガ文書に女姓禅定之追立トアル
女人禁制に関すること。

  • 堂アリ表大日ト云 
(七合目に)堂があり「表大日」という。これは大日堂を表大日と読んだということであり、薬師堂は表と比較して「裏薬師」と呼んだようである(隔掻録)。

  • 四五月ノ山上ノ雪消ル時遠望スレバ牛ノ形二消ノコリ或ハ鳥ノ形二残ル是ヲ農牛、農鳥ト云
富士山の雪が消える時に遠望して、鳥の形消え残っていることを「農鳥」といい、牛の形に残っていれば「農牛」という。

  • 富士八海-山中海、明見(あすみ)海、川ロ海、西(せの)海、精進海、本栖海、志比礼(しびれ)海、須戸(すと)海  
富士講信者が「八海巡リ」というものを行っていたが、その八海がこれである。須戸海は駿河国富士郡にあるので、八海巡り=甲斐国というわけではない。

  • 左の如文字尋常ノ者二通ゼズ皆異字ヲ用フ相伝人穴ノ行中仙元明神教へ給フ文字ナリト云 
角行が唱えた御神語があり、特殊なものである。またこれら特殊な文字郡は富士講みもみられるという。

2011年7月19日火曜日

北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神

吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講」の続編みたいなものです。北口本宮冨士浅間神社ですが、中世以前の当神社について述べたものは、意外に少ない。そこで創建からおおまかに振り返りたいと思います。

  • 創建
『甲斐国社記・寺記』に

延暦7年甲斐守紀豊庭朝臣造営、延暦8年甲斐守紀豊庭朝臣大塚丘浅間明神現地へ移す、仁和元年甲斐守藤原当興朝臣造営、貞応2年北条右京大夫平義時建立

とある。延暦7年(788年)に紀豊庭が造営し、延暦8年(789年)には大塚丘に祀られていた浅間明神をその場所に移したとある。そして仁和元年(855年)には藤原当興が造営し、貞応2年に平義時が建立したとある。甲斐守や右京大夫は「職」みたいなものです。「大塚丘」にはヤマトタケルが遥拝したという伝承がある。

つまり浅間神社はその場所に移されたわけであり、起源の時点であったわけではないことが伺える。また『甲斐国志』にはこのようにあります。

往古ヨリ此社中ヲ諏方ノ森ト稱スルハ浅間明神勧請セザル以前ヨリ諏方明神鎮座アル故ナリト云古文書二諏方ノ森浅間明神トアル是ナリ

「浅間明神は諏訪森に勧請されたのだが、それ以前にその地には諏訪明神が鎮座していた」ということを示している。つまり平たく言うと、諏訪神社の境内に浅間神社が勧請という形で祀られることとなったと考えていい。そしてこの勧請という形で祀られることとなった浅間神社が富士講により立場が大きくなり、今現在「浅間神社」という扱いとなっているという感じだと思われる。

戦国期甲斐国側の浅間神社と領主武田氏と小山田氏」にて小山田信有の諏訪禰宜に対する判物の内容を掲載したが(天文17年)、これらの記録について「武田信玄と富士信仰」では以下のように述べている。

このことからして、当時はまだ吉田の北口浅間神社はできておらず、この場所には諏訪社のみが鎮座していたものといえよう

まずこれは現在の北口本宮冨士浅間神社に対する判物であるが、それが諏訪禰宜に宛てられている事実がある。また「新宮を立てる場合」という記述からも、諏訪社のみが鎮座していたことを伺わせる内容である。

また上記の「大塚丘」について、「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」では以下のように説明している。

この塚は、浅間神社の勧請によってそれまでの遥拝所がつぶされたので、永禄以後に新たに設けられた遥拝所と考えられる。

このように、諏訪神社という信仰空間に勧請という形で浅間神社が祭祀されるようになったと考えられている。

諏訪大明神富士浅間宮火防御祭礼之図
  • 吉田諏訪大明神
『妙法寺記』には明応3年(1494年)と明応4年にそれぞれ「吉田村諏方大明神 鐘武州より鋳テ上ル」「吉田鐘楼堂此年卯月棟上ス」とある。このときは吉田諏訪大明神という認識の上での建立であったようである。当時、まだ富士講は存在していませんでしたからね。

  • 八葉九尊図

a:浅間神社 b:仁王門 c:すわ大明神(諏訪神社) d:よし田ノ町
下の木が多くある部分は諏訪森と考えていいと思う。これは『八葉九尊図』(1680年)で、八葉(仏教的用語)を中心とする曼荼羅図のようなものである。当時の様子がよく伺える重要な図である。

  • 参考文献
  1. 山梨県立図書館,『甲斐国社記・寺記 第1巻』P871-874・940-947,1967年
  2. 『甲斐国志』神社部第十七
  3. 『妙法寺記』・『勝山記』
  4. 富士吉田市歴史民俗博物館,『博物館だよりMARUBI №29』
  5. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
  6. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年

2011年6月2日木曜日

富士講

今回は江戸時代に繁栄した富士講についてです。

  • 富士講とは何なのか
富士講を一言で表すことは、実は非常に難しい。定義が無いと言えるし、何を富士講とするかということ自体が難しい。一般に「富士講の開祖は角行である」と言われるが、角行自身は富士講を組織しているわけではない。よって富士講の起源が角行にあるわけではない。このことから、近年は「角行によって創設された」と説明されることはあまりなくなってきている。

また「富士講により富士塚が築かれた」とは言えないということは、多くで指摘されてきている。19世紀の記録である『新編常陸国誌』には「富士塚 中世以後関東の風俗にて、塚を築き富士権現を勧請するもの所々にあり」とあるという。また蜷川家の年代記(天正年間に成立)に「文明13年辛丑、諸郷に富士塚を置」とあるという。これが事実だとすると、文明13年(1481年)には富士塚を築くという文化が成立していたということになる。また記録自体が天正期なので、少なくとも中世には富士塚は存在していたことになる。そのときに果たして「講」という形態が成立していただろうか。

  • 角行
富士講の起源に関わる人物が角行を崇めていたとすると、「角行に対する崇拝」と「富士講の出現」がつながることとなり、ある意味「由来」として角行の名がでてくるということなのである。しかし「角行が富士講を作ったわけではない」というのは変わらないのである。

人穴で修行する角行
  • 富士講考
このようによく分からない富士講であるが、富士講を知る上で懐疑的にならなければならないポイントはいくつかある。その例を示すために坂本徳一氏の「富士山ご縁年(庚申)の推移」という論考を引用する。この論考の主は『山梨日日新聞』連載の「富士山信仰」の筆者である。私はこの連載の記事をいくつか拝見したが、かなり多くで懐疑的な内容であると感じた。昭和という時代背景を考慮したとしても、これはあまりお勧めできたものではない。以下、「富士山ご縁年(庚申)の推移」より引用。

富士山信仰のこ縁年として六十一年目にめぐってくる庚申の年に登拝すれば在来、来世も必ず善い事にめぐり合えるという言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って、富士山信仰が民間に流布してからである。

この文は、懐疑的にならなければならない典型例のように思える。この短い文章の中でも、以下のことは言える。

  • そもそも富士講は江戸時代に隆盛したものなので、「言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って」という表現はおかしい
  • 庚申の年の伝承は江戸時代以前から存在しているので、「江戸期に入って」というのはおかしい
  • 富士山信仰は昔から流布されていたので、「富士山信仰が民間に流布してからである」というのはおかしい

これは富士講関連の文献を読んでいて、いつも思うことである。なぜか「江戸時代から富士山信仰が民衆に広まった」としてしまうのである。もっと酷いと「富士講から富士山信仰が広まった」としてしまっている。例えば最後であるが、たしかに民間に最も流布されたのは江戸期であるが、まるで江戸期より前は流布されていないかのような書き方である(実際そう考えている)。この考え方は、私は根本的におかしいと思っている。富士山信仰はそんな歴史の浅いものではない。なので資料は選ばなければならない。その慎重さが富士講を追求する上では特に求められるように思える。

そもそも、江戸期以前に民衆による富士山信仰は明確に認められるというのに、それらをなぜ省いて考えるのだろうか。その延長線上に富士講はあるはずなのである。そういう意味で、先の論考は懐疑的と思える典型的な論考である。だから「江戸時代に富士山信仰が民衆に広まった」「富士講により富士山信仰が成立した」という説明には、特に注意しなければならない。そういう姿勢で富士講の歴史にあたらないと、混同してしまうのである。

  • 富士講の起源について
富士山信仰の総合的な学術研究は『富士の研究』シリーズより始まる。富士山研究の金字塔であり、ここから始まったようなものである。いわば、スタート地点である。そのシリーズにおける井野辺茂雄氏の『富士の信仰』では、富士講について以下のように指摘している(P306、古今書院版)。

按ずるに富士講の盛んになったのは、身禄・光清などといへる著名の行者の出でたる以後の事にかゝる

つまりこの時代の研究で既に、富士講の発祥がかなり後退する可能性を示唆している。しかしながら、その指摘を後の研究の中では汲み取れず、富士講の理解が忠実から離れた部分へと行ってしまったように思えてならない。根本的な部分から、再検討する必要性がある。

  • 禁制

江戸幕府により禁制が出されていることも、富士講の特徴である。つまりそれほど隆盛を極めていたわけであり、その集団性が幕府にとって必ずしも良いものではなかったのである。寛保(1742年)から嘉永(1850年)の間で10回も出されているといい、繰り返し出されていることから、禁制でも制限することができなかったことが推察される。

  • 角行の弟子と伝わる人物
「富士講の起源」というと「富士講とは何なのか」で述べたような感じになってしまうので「富士講を組織したのは誰か」という視点が重要である。富士講を組織したのは「食行身禄を支持する一派」とされる。しかし身禄に事実上の弟子は存在していなかったとされる(ここも非常に分かれる)。したがって富士講は、「食行身禄を支持した(信仰する)者たちが集団化し、構という形態を媒介として拡大したその広まり」とも考えられる。

食行身禄とは
食行身禄(1671〜1733)は月行系の信仰を踏襲する人物で、63歳の時に富士山中で宗教的自殺を遂げたとされる

ですから富士講の歴史は18世紀中盤からである。早くても17世紀後半以後であろう。

  • 富士講の隆盛
「食行身禄を支持・信仰する集団」は食行身禄の死後から「富士門弟」「富士御同行」を名乗る。これが形をかえたものが「富士講」である。この集団の中に「田辺十郎右衛門」という人物がいる。この田辺十郎右衛門は吉田(現在の富士吉田市)で信仰を広めようとするが村上光清などと対立することとなる。しかし田辺十郎右衛門は「吉田の御師」との関係を強くし、影響力強くする。やがて御師と共に先達(富士講の中の格の高い行者)に対し行名を与える行為などを行うようになる。

  • 富士講の行事や形式

江戸まで広まった富士講は枝講が別講をたてながら増加していく。講はそれぞれ「笠印」とよばれるマークを持って講の中の数名が代参に出かけたとされる。修行の基本は富士登山であるが「御中道巡り」や水行である「八湖修行」などがあった。八湖修行は角行が水行をしたといわれる湖で修行することを言い、富士五湖を中心とした「内八湖」、琵琶湖・諏訪湖など広範囲にわたる「外八湖」があった。 こうした先達の修行はすべて師匠からの口伝からなり、「お伝え」という「浅間様への拝み方を記す経典」を伝書として与えられた。ほかに海水に入る潮垢離や断食行などさまざまな形態があった。

  • 先達の服装
富士講の先達は山伏の姿に似ている。 腹掛けの上に白い行衣を着て、白の手甲・脚半をつけ、金剛杖を持つ。杖につけた小旗を「マネキ」といい、これは講中の目印である。頭に巻いたさらしの布は「宝冠」とよばれる。腰に鈴をつけ、大きな玉がついた数珠をかけて、御三幅の入った札箱を背負う。数珠は、富士山に行くたびに少しずつ玉を買い足して大きくしていく。また小物入れとして「下箱げばこ」を肩からかける。富士講の法会で本尊にする御三幅は、登拝の時にも祭壇代わりにするので、富士山に持参する。このため御三幅には頂上の印や小御嶽様の印が登頂した数だけ押されているという。よくこのような白い服装を見て「富士講だ」というような見方をされる事があるが、決してそうではないし、むしろ「村山修験の修験者と共通するものがある」という見方が正しいであろう。先達の持物は独特である。オフセギとよぶ「参」の字がぎっしり書かれた紙切れや呪文が並ぶ「虫歯守」、家相や相性を占う本などである。

  • 商業的成功
先ほど「御師と共に先達に対し行名を与える行為などを行うようになる」と述べましたが、このような行為は商業的成功を収めるようになる。その他にも宗教的行為としてさまざまなサービスを行い収入源とした。富士講は「信者たちのグループ」となっていき江戸までに流行が広まった。江戸までに流行が広まるとさらに拡大に拡大を続ける。諏訪神社(現在の北口本宮富士浅間神社)の境内社である浅間神社の影響力が強くなり「諏訪大明神富士浅間宮」などと言われるようになる(最終的には社号が浅間神社となる)。

  • 富士講の聖地
富士講は「食行身禄を支持する集団が自ら弟子を名乗り、身禄の信仰を独自の解釈で成立させ広まったものとその集団」であるが、食行身禄は月行系である。月行系は「旺心」の弟子から派生したものである。この大元の「旺心」は角行からみて三代目の富士行者である。このような頂に位置する「角行」は富士講信者にとっては「行の開祖」として拝められる存在であった。その角行は人穴で修行されたとされるので、人穴は富士講信者からみて聖地であった。そのため富士講信者が中道往還を利用し人穴を訪れたりしていた。碑塔などが建てられ、現在約230基確認されており「人穴富士講遺跡」として知られている。

しかしこれらすべてが富士講信者によるものかと言えばそうではない。現に建立年代が判明している碑塔の中で1664年(寛文4年)のものが確認されており、おそらく「(我々は)講の1つである」という認識すらなかった時代と言える。実は角行からの分かれは他にもあり、「角行の流れを汲む富士信仰の一派」とも言える。「村上光清」などもそれらである。また人穴に「法家」と名乗る一派がいたと言い、赤池家(人穴草子の版行などで知られる)との関連付けがされている。

当ブログは「〜中世までの富士山信仰」を中心としています。富士講を取り上げる上では「中世までの富士山信仰と比較する形」で関われればいいなと思っています。そうすることである事象が富士講由来なのかそうでないのかが見えてきますし、そこを明確とすることで富士講も見えてくるはずです。

  • 参考文献
  1. 坂本徳一,「富士山ご縁年(庚申)の推移」,『甲斐路』76,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 堀内真,「富士参詣の道者道と富士道」,『甲斐路』76号,1993年

2011年5月26日木曜日

吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講

今回は山梨県の「北口本宮冨士浅間神社」についてです。テーマは「富士講による神社の変移」です。江戸時代に「富士講」という富士信仰の1種が流行しました。富士講信者は主に吉田口を利用したため、その吉田口の起点にあたる北口本宮冨士浅間神社は大いに繁栄することとなりました。吉田口は富士講の本道だったわけです。ですから「富士講が神社にどのような影響を与えたのか」というところが重要となってきます。

『富士山明細図』
  • 歴史的には浅間神社ではなく諏訪神社である
まず北口本宮浅間神社の最大の特徴は「地主神と勧請神が入れ替わってしまったこと」にあります。元々「諏訪神社」(地主神)であって、あくまでもその境内社(勧請神)が浅間神社でした。境内社として存在した理由は、富士山を拝する意味で鳥居などが建てられていたことから、浅間信仰的要素も含まれていたためと考えられる。したがって当神社の起源を説明するときにこれら(勧請神)だけでは説明できないし、直接の起源ではない。「なぜ諏訪神社が建立されたか」という視点が最も重要である。

この境内社としての立場は明応3年(1494年)に「吉田取訪大明神」(タイトル中では分かりやすいように「諏訪」に変えてある)という記録が見られていることなどからも、長く継続されてきました。しかし1480年に「富士山」の鳥居が建立されていることから、登山の大衆化で境内社浅間神社の拡大が図られていたと考えられる(または富士信仰としての側面の拡大)。しかしこれは15世紀から16世紀にかけてのものであり、富士講によるものではない。

例えば「吉田の火祭り」ですが、これは元々は富士信仰とかではなく「諏訪神社の祭礼」として存在していました。それが江戸時代に入って富士山信仰との関連付けがされたものであります。芙蓉亭蟻乗『富士日記』には、以下のようにある。

諏訪社は例祭六月十五日、富士山の形をこしらへ、台に乗せ渡御の時かき行くなり

したがって「古来より富士山信仰としての…」という巷でよく見かける解説は少し違います。むしろ現在でも諏訪神社としての要素が強いと思います。この祭りが当神社の代名詞ともなっていることも多く、今でも「地主神としての諏訪神社の形」が根強く残っていると表現できるでしょう。

  • 江戸期から富士信仰に深く関係し始める
1730年代に富士講の指導者である村上光清により境内の建造物の修復が行われます。18世紀後半には富士講が大流行します。それと共に勧請神であった浅間神社が隆盛し始め(むしろこのとき初めて浅間社が成立したとも言える)、本来「地主神」であるはずの諏訪神社を凌ぎ、立場が大きくなってきます。神社名に「富士」を冠するようにもなり(18世紀以降またさらに後期か)、明治時代には「冨士山北口本宮冨士嶽神社」と名乗るようになる。したがって江戸時代以前での当神社の歴史では、富士信仰の要素は少ないものであると考えたほうがいいと思われる。浅間神社としての歴史や側面は、周辺の山梨県の浅間神社と比べても非常に浅いと言える。18世紀以降から急激に形を変異させたのが、現在の北口本宮冨士浅間神社である。

  • 江戸期以前の富士信仰を探ることが重要
あまりに過度に富士講ばかりに注目されてしまい、江戸時代以前の山梨県における富士信仰が目立たなくなってしまっています。まさに功罪です。本来歴史は「時系列」で見ることが重要です。ですから古来から地主神が浅間神社であった小室浅間神社や冨士御室浅間神社に着目しないと富士信仰が全く見えてきません。ですから史跡富士山に「小室浅間神社」がないのはおかしいのです。なぜ古来より浅間神社であった「小室浅間神社」が史跡富士山に入らないのか。「富士信仰の成り立ち」というのは、これら古来より浅間神社として成り立ってきた部分に着目しないと分かってきません。

  • まとめ
ザックリ言うと「諏訪神社→浅間神社」となった神社と言える。しかも浅間神社となったのは近世以降である。富士講と関わりが深い関係で著明な一方、これまでの歴史などは不透明な部分が多く起源も説明がつかない。富士信仰の理解のために「古来からの伝承などからなる富士信仰」と「新興勢力による富士信仰」との区別が必要なのかもしれない。