今回は山梨県の「北口本宮冨士浅間神社」についてです。テーマは「富士講による神社の変移」です。江戸時代に「富士講」という富士信仰の1種が流行しました。富士講信者は主に吉田口を利用したため、その吉田口の起点にあたる北口本宮冨士浅間神社は大いに繁栄することとなりました。吉田口は富士講の本道だったわけです。ですから「富士講が神社にどのような影響を与えたのか」というところが重要となってきます。
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『富士山明細図』 |
まず北口本宮浅間神社の最大の特徴は「地主神と勧請神が入れ替わってしまったこと」にあります。元々「諏訪神社」(地主神)であって、あくまでもその境内社(勧請神)が浅間神社でした。境内社として存在した理由は、富士山を拝する意味で鳥居などが建てられていたことから、浅間信仰的要素も含まれていたためと考えられる。したがって当神社の起源を説明するときにこれら(勧請神)だけでは説明できないし、直接の起源ではない。「なぜ諏訪神社が建立されたか」という視点が最も重要である。
この境内社としての立場は明応3年(1494年)に「吉田取訪大明神」(タイトル中では分かりやすいように「諏訪」に変えてある)という記録が見られていることなどからも、長く継続されてきました。しかし1480年に「富士山」の鳥居が建立されていることから、登山の大衆化で境内社浅間神社の拡大が図られていたと考えられる(または富士信仰としての側面の拡大)。しかしこれは15世紀から16世紀にかけてのものであり、富士講によるものではない。
例えば「吉田の火祭り」ですが、これは元々は富士信仰とかではなく「諏訪神社の祭礼」として存在していました。それが江戸時代に入って富士山信仰との関連付けがされたものであります。芙蓉亭蟻乗『富士日記』には、以下のようにある。
諏訪社は例祭六月十五日、富士山の形をこしらへ、台に乗せ渡御の時かき行くなり
したがって「古来より富士山信仰としての…」という巷でよく見かける解説は少し違います。むしろ現在でも諏訪神社としての要素が強いと思います。この祭りが当神社の代名詞ともなっていることも多く、今でも「地主神としての諏訪神社の形」が根強く残っていると表現できるでしょう。
1730年代に富士講の指導者である村上光清により境内の建造物の修復が行われます。18世紀後半には富士講が大流行します。それと共に勧請神であった浅間神社が隆盛し始め(むしろこのとき初めて浅間社が成立したとも言える)、本来「地主神」であるはずの諏訪神社を凌ぎ、立場が大きくなってきます。神社名に「富士」を冠するようにもなり(18世紀以降またさらに後期か)、明治時代には「冨士山北口本宮冨士嶽神社」と名乗るようになる。したがって江戸時代以前での当神社の歴史では、富士信仰の要素は少ないものであると考えたほうがいいと思われる。浅間神社としての歴史や側面は、周辺の山梨県の浅間神社と比べても非常に浅いと言える。18世紀以降から急激に形を変異させたのが、現在の北口本宮冨士浅間神社である。
あまりに過度に富士講ばかりに注目されてしまい、江戸時代以前の山梨県における富士信仰が目立たなくなってしまっています。まさに功罪です。本来歴史は「時系列」で見ることが重要です。ですから古来から地主神が浅間神社であった小室浅間神社や冨士御室浅間神社に着目しないと富士信仰が全く見えてきません。ですから史跡富士山に「小室浅間神社」がないのはおかしいのです。なぜ古来より浅間神社であった「小室浅間神社」が史跡富士山に入らないのか。「富士信仰の成り立ち」というのは、これら古来より浅間神社として成り立ってきた部分に着目しないと分かってきません。
ザックリ言うと「諏訪神社→浅間神社」となった神社と言える。しかも浅間神社となったのは近世以降である。富士講と関わりが深い関係で著明な一方、これまでの歴史などは不透明な部分が多く起源も説明がつかない。富士信仰の理解のために「古来からの伝承などからなる富士信仰」と「新興勢力による富士信仰」との区別が必要なのかもしれない。
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