2014年12月30日火曜日

富士山本宮浅間大社と棕櫚との関係と富士氏の家紋

富士氏の家紋、特に富士大宮司家の家紋は「棕櫚」である。『長倉追罰記』に

…同六郷モ是ヲ打、シユロノ丸ハ富士ノ大宮司、キホタンハ杉カモン…

とあることから、富士大宮司の家紋であることは史料からも裏付けがなされている。近世の資料(幕府裁許状)にも「棕櫚葉之紋」とある。

棕櫚であることの意味として、例えば『姓氏・地名・家紋総合事典』(新人物往来社)では「神霊の宿る葉として昔から尊ばれた」と説明している。この家紋を考える上でよく言われるのは「羽団扇との関係」である。先の辞典では続いてこうとも言う。

あやまって天狗の羽うちわといわれたりもしたものは、やはり霊異の作用からである。駿河の浅間社では神紋としている。

他「天狗の研究」では以下のように記している。

天狗の勢威の強い社寺が用いる幕紋の羽団扇は天狗の持物にちなんだ紋かと思われるが、羽団扇紋は現来、富士浅間神社の宮司富士氏の家紋で、『太平記』にも、旗印の紋づくしの中に、「白旗、中黒、棕櫚の葉、梶の葉の紋書きたる旗ども、その数満々たり」とある

としている。史料から考えると、富士大宮司の家紋は「棕櫚」または「棕櫚の丸」であり、そこには団扇の要素はないと思われる。もしそうであれば、史料上にて「棕櫚団扇」といった文言などがあってもおかしくはない。

『太平記』の記述は、富士大宮司を指している可能性がある(が、太平記自体は記述の信憑性が薄い部分がある)。この記述は『太平記』巻31の「笛吹峠戦事」の条にある。現代語訳を下に記す。

同月28日、尊氏は笛吹峠へ押し寄せ、敵陣の様子をご覧になったところ、小松が生い茂り、前には小川が流れている山の南側に陣を構えて、峰には南朝の印である錦の御旗を掲げ、麓には白旗、中黒、棕櫚の葉、梶の葉の紋を描いた旗が満ちていた。

内容からして明らかに南北朝時代である。まず富士氏についてであるが、既に南北朝時代には武家として戦を重ねていたということは知られている。それは最近の研究で更に色濃くなっている。そして「棕櫚の葉」「梶の葉」と続くことも重要である。というのは、梶の葉は諏訪氏の家紋であり、同じ社家である。この記述が実際見たものでないと仮定しても、やはりこの連続性には意味があると思う。

また曼荼羅図や境内図に棕櫚が描かれることが多い点も重要である。

「富士浅間曼荼羅図」より
「浅間大社境内絵図」より

浅間大社境内を指す絵図類にて、棕櫚が描かれていることが多い。当時実際植えられていた可能性もあるし、少なくともこれは明確な意図があるのである。

  • 参考文献
  1. 丹羽基二,『姓氏・地名・家紋総合事典』,新人物往来社,1988
  2. 知切光歳,『天狗の研究』P184-185,大陸書房,1975

2014年12月24日水曜日

戦国期に見える富士又八郎と富士氏の権力構造

戦国期の古文書に、富士氏一族の名として「富士又八郎」が出てくる。この人物の詳細はほとんど分かっていないが、富士氏の権力構造を考える上で示唆してくれる部分がある。今回は富士又八郎について考えてみたい。


まず富士又八郎は、富士大宮司ではない。同じ時代の富士大宮司は富士信忠であるためである。この文書は富士氏の権力構造分析というよりは、「安良城・勝俣論争」に関連して良く取り上げられるのである。

まず中世になると古文書等に 「徳(得)分 」「内徳分」「加地子」といった用語が出てくるようになる。時代による差異はあるが、頻出する戦国期にこれらは「その土地の支配階層が農民層から得ていた得分」を指す言葉であった。「徳分」は「(年貢の)余剰分」であって、「余剰」が生まれるのには「余剰以外の基準」が必要なわけであり、「その基準は検地等で把握されたもの」「その余剰分が国主等から知行された」という論考も世に出された。しかし内徳に対する解釈を巡っては議論を呼び、論争にもなった。

この文書は「百姓内徳」に関するものであり、いくつか論考がある。「戦国大名今川氏の内徳安堵について-百姓への安堵状の分析から-」にて以下のように説明されている。

この規定は、百姓がその内徳分の給恩化を地頭に届け出た上で地頭が了承した場合には給恩化を認めるが、地頭が了承しない場合には、今後(天文22年以降)、今川氏が百姓内徳の給恩化を認める判形を発給していても、その判形は認めないというのである。(中略)ところで、史料8(:上の文書のこと)の地頭富士氏に対する規定が地頭一般に対する規定でないことは、今川氏の分国法である「今川仮名目録」「かな目録追加」の規定や他の地頭への発給文書の規定にみられないことから推測できる。しかも史料8以降も内徳の給恩化を認めるという規定であり、今川氏による百姓内徳給恩化を全く否定した規定ではない。史料8は富士氏の「難渋」を背景として今川氏が地頭富士氏との関係、親疎を考慮して規定した富士氏優遇のための個別具体的法規定であると理解すべきであろう。

ここでいう地頭とは富士氏を指している(最も、このときの富士氏は地頭というよりは国人と言った方が正しい)。「内徳」を「加地子」と理解するか、「隠田・新田」(検地で明らかとなった増分)とするかで分かれている。

が、この文書の宛が富士又八郎であることには注意が必要である。広く言えば富士氏の領地における規定なので、宛が富士大宮司であってもおかしくはない。これは、土地の管理関連自体は富士家でも富士大宮司ではない人物が行っていたという可能性を示唆している。

これに似た事例は、実は別の文書でも見出すことができる。


先の文書から遡ること7年前の文書であるが、富士九郎次郎が富士上方の社寺の諸役免除を認める内容である。諸役は免除しているが、一部は徴収するともしている。つまり領主として税を徴収しているのであるが、やはりこの人物は富士大宮司ではない。諸役徴収や土地の管理が、富士大宮司が介入する範囲でなかった可能性がある。

この富士又八郎であるが、戦に交わっている記録も残る。


これは「飯田口合戦」と呼ばれるものであり、その戦においての富士又八郎の戦功を評する内容である。同日付の文書として、小笠原与左衛門宛ての同じく戦功を表する内容の感状が残る。他、12月16日の今川氏真感状にて朝比奈信置が飯田口合戦に参加していたことが分かる。「「遠州忩劇」考-今川領国崩壊への途」では飯田口合戦について以下のように説明している。

まず遠州忩劇の開始についてであるが(中略)同時代史料では永禄5年に引馬地域での戦闘が確認できないこと、㉖(注:永禄8年10月「今川氏真朱印状」)には「然者去々年以来遠州忩劇之処」とみえており、また②③⑤(注:上の富士又八郎・小笠原与左衛門・朝比奈信置宛の3文書)によって引馬郷飯田(浜松市飯田)での戦闘が初めて確認できるから、遠州忩劇の開始(飯尾豊前守逆心)は永禄6年、しかも12月の飯田合戦がその開始期にあたるとみてよい

としている。つまり富士氏は遠州忩劇時、今川陣営の最前線に居たことになる。また駿河国の地以外での戦闘が認められることも留意点の1つである。先の文書の時代(天文22年)は今川義元存命時であったが、桶狭間の戦いにて義元が織田信長に敗れると、次代の氏真が当主となっている。この時は今川家から離反者が相次いでいた時期であるが、明らかに富士氏は今川氏の元に身を置いていることが分かる。その後も、氏真に離脱を促されるまで一貫して今川氏側の戦力として戦っていたことで、富士氏は有名である。

  • 参考文献
  1. 臼井進,「戦国大名今川氏の内徳安堵について--百姓への安堵状の分析から」,『日本歴史』 1994-03,吉川弘文館
  2. 久保田昌希,「遠州忩劇」考-今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ』,吉川弘文館,2000

2014年12月19日金曜日

小田原衆所領役帳に見える富士を考える

河東の乱時の富士氏」にて’’「富士殿」とか「富士勢」といった表記を細かく確認する必要性がある’’と記しましたが、明らかに人物を指す場合は尚更と言えます。近世になると「富士○」といった人物名や創作人名はそれなりに見られますが、中世史料で「富士」という人名は、基本的には駿河の富士氏を指します。そして『小田原衆所領役帳』に人物名として「富士」が見えるというので、今回取り上げたいと思う。

『小田原衆所領役帳』は永禄2年(1559)2月に作成されたとされる所領役帳である。が、原本は存在していない。一方写本は数多くあり、転写に伴い各写本にて差異が認められるという。小田原衆とあるが、決して小田原衆だけではない。富士が見えるのは「御家中衆」の中である。


これについて、「中世東国足利・北条氏の研究」では以下のように説明している。

『役帳』に「幻庵御知行分」の1つ東郡片瀬郷(藤沢市)が、富士氏と並んで大森氏に下された事実とも結びつこう。(中略)なお、この富士氏は駿河の大宮浅間社(静岡県富士宮市)の大宮司家富士氏の一族で、天文7年(1538)以降の「河東一乱」と呼ばれる北条氏と今川氏の抗争の過程で宗哲に属した人物と思われる。(中略)とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている。

幻庵(宗哲)とは北条幻庵のことであり、駿河とは関係が深い人物である。「被下」とあるので、富士氏と大森氏に委ねられた土地であったと理解できる。大森氏は駿河の大森の地からはじまったとされ、また北条幻庵も駿河と関係が深いことから、ここに富士氏が出てくるのは極めて自然と言える。

が、これが所領役帳であることには注意を要する。つまり、北条家の土地に富士氏が係るということであり、それは富士氏が北条家側にいたことを示すためである。しかし当時の富士氏の当主は、基本的に今川氏に属していた。しかし中には北条家と関係を密とするものもいたのであろう。それが「河東の乱時の富士氏」にあるような””謀反””という現象を生んだとも考えられる。

つまり、「日我置文」(天文18年11月16日)の「天文6年丁富士殿謀叛(むほん)之時、日是有同心而還俗之後、久遠寺御堂・客殿等焼亡」に見える富士殿は、『役帳』の「富士」と同一人物の可能性がある。少なくとも謀反を起こした富士家の者は、今川氏支持派ではない。

この記録において最も重要な示唆とは、武田氏による駿河侵攻以前の時代においても、北条家と富士氏との接点が縁者以上の関係として見出せることにある

  • 参考文献
  1. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006

2014年12月1日月曜日

富士金山を取り巻く武田氏と後北条氏と富士大宮司

まずは、ある文書を載せてみたいと思う。


これは天正10年(1582)3月6日の北条家朱印状である。内容は「富士金山の金山衆を富士大宮司一同に付属させる」という内容である。大宮司一同は「=富士氏」であるが、つまり富士金山衆が富士大宮司に従うよう命じた文書である。

これらのことを後北条氏が命じているという状況に、歴史の展開の早さを感じるものである。なぜ後北条氏がこのような文書を発布できたのかというと、武田家が滅亡したためである。代わって、富士郡を統治する立場として後北条氏が出てきたのである。

注目すべきは、その内容である。「大宮司一同」とあるが、当時の富士大宮司は富士信通である。またこの文書が出された次年(天正11年)に、先代の富士家当主富士信忠は死去している。内容から推察するに、おそらく後北条氏は富士家を再び武家として推すつもりであったと考えられる。そして北条家の戦力としようとしていたと考えられる。

具体的に、富士金山衆はどのような存在であったのだろうか。それは武田氏が統治していた時代の文書に答えがあるかもしれない。武田氏支配の時代は、武田氏に属する穴山氏が管理を行っていた(そもそも武田氏支配といってよいかは分からない)。


穴山信君が金山衆の者の諸役免除を認める内容である。また以下は、穴山信君の家臣が金山衆の者に屋敷等の安堵を認める内容である。


このことから、富士金山は穴山氏が支配していたと言える。この文書に関して「金掘と印判状」では以下のように説明している。

これは穴山氏の家臣有泉大学助昌輔が富士金山衆望月弥助に対し、十右衛門跡式の相続を認めた継目の安堵状であるが、ここで相続の対象として「家屋敷」・「堀間所」(坑口)と並んで「子方」があげられていることに注目したい。富士金山においても黒川金山同様、親方-子方組織の存在を裏付けることができるのである。

相続の対象に「堀」が含まれていたようである。つまり金山衆は個々で自分が担当する堀が決まっており、それは「財産」に等しかったのである。また子方は子分として属していたと考えられる。

このような親方-子方組織から構成されるのが金山衆であり、その金山衆は富士氏に属する形となっているのである。富士上方の実力者である富士氏に金山衆を付属させるということは、新たな権力を与えるということであり、これは後北条氏の戦略であると言える。

しかしその後、当地にて後北条氏の介入はみられなくなる。富士金山に対してというだけでなく、駿河国自体に対しての介入がほとんどみられない。これは武田氏滅亡に伴い、徳川家康が織田信長より駿河一国を与えられたためである。北条家朱印状は武田氏滅亡直後または武田勝頼自刃直前に出されたものであり、また情勢は分からなかったのであろう。

  • 参考文献
  1. 桜井英治,「金掘と印判状」『中世をひろげる 新しい史料論をもとめて』,吉川弘文館,1991

2014年11月15日土曜日

古記録に見る富士山北麓西麓南麓の文言

富士山を地域別で大まかに分ける際、「西麓」「南麓」「北麓」という表現で区別することが多い。しかしこの表現は、かなり昔まで遡ることができる。

  • 西麓
甲斐国の江戸時代の地誌『甲斐国志』に「富士山ノ西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」とある。これは「中ノ金王路」という甲斐国と駿河国を結ぶ道路の説明における文言である。中ノ金王路の詳細は不明であり、また記録上決して多くは確認されていない。

しかしながら興味深いのは「西麓ヲ過ギ駿州上井出二至る」という表現である。駿州上井出とは現在の静岡県富士宮市上井出のことであるが、中ノ金王路が甲斐国-駿河国のルートであることで間違いがない以上、この表現は甲斐国の部分も西麓と言っているということになる。

「富士山西麓「駿河往還」の成立」によると、「『鳴沢村誌』にある絵図によると長尾山・片蓋山辺りを通るのではないか」としており、そうであるとすると鳴沢村辺りを西麓としているということになる。だとすると、山梨県側=北麓、静岡県側=南麓とするのは、現代の考え方であって歴史的にはそうでない可能性が高い。

  • 北麓
同じく『甲斐国志』に、「弘安五年壬午九月某日 日蓮往クトキ武州池上ニ富士ノ北麓ヲ過ギ 号鎌倉海道  川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とある。これは日蓮が弘安5年(1282)9月に身延山を下り、武蔵国池上に至ったことを示す内容である。日蓮は同年10月に没している。『甲斐国志』の記録なので江戸時代に記されたものであるが、当記述は「川口村上野坊ガ家ニ宿ス」とあり蓮華寺(現・富士河口湖町)に関する記述の中での文言であるため、川口村周辺は北麓と考えられていたと言える。鎌倉街道については、単に鎌倉方面に至る道を「鎌倉街道」と称していたことも多いといい、具体的なルートは不明である。

  • まとめ
細かく探せば「富士山南麓」という表現も多く見出せるはずである(という意味で題名に南麓を含んだ)。「どこまでを富士山南麓・北麓・西麓としているか」という点は興味深い。現代では「富士山麓」といったときに広範囲を指しすぎているように感じる。古来のように移動が容易ではない時代、もっと限局した地域を指していたのではないだろうか。中世の使用例を探す必要性がある。

  • 参考文献
  1. 末木健,「富士山西麓「駿河往還」の成立」『甲斐第121号』,山梨郷土研究会,2009
  2. 山梨県埋蔵文化財センター編『山梨県山岳信仰遺跡群詳細分布調査報告書』 ,山梨県教育委員会,2012

2014年8月12日火曜日

江戸期作成の浅間大社境内絵図を考える

「浅間大社境内絵図」は、2種類が知られている。寛文10年(1670年)に寺社奉行に提出した境内絵図と(以下「境内絵図」とする)、その写しとされる宝永5年(1708年)の境内絵図写である(以下「境内絵図写」とする)。

「境内絵図」寛文10年(1670年)

「境内絵図写」宝永5年(1708年)

「境内絵図」と「境内絵図写」は基本的には同じ構図であるが、細部は異なるという重要な事実もある。例えば「境内絵図」では三重塔の横は空白となっているが、「境内絵図写」では棕櫚の木が追加されているのである。

棕櫚の木の存在は、非常に重要な点である。境内図だけでなく、富士曼荼羅図にも棕櫚の木は描かれているのである(参考:県指定富士浅間曼荼羅図を考える)。

「富士曼荼羅図」(県指定)に見られる棕櫚の木

つまり追加された絵柄が棕櫚であることには、意味があるのである。今回「境内絵図写」を詳細に見る機会を得たので、ここで簡単に説明をしていきたいと思う。


「本殿」および「三之宮浅間神社」「七之宮浅間神社」などが描かれる。


入り口には狛犬が位置する。扉絵は松と梅(か)。二階構造であり、複雑な斗栱をなしている。その独特な建築と、家紋が詳細に描かれている点が、当境内図の最大の特徴である。また神仏習合を明確に示す点も特徴と言える。

この独特な建築の呼称についてであるが、現代の呼称である「浅間造」と記すものは、歴史的史料では見いだせない。明治期の史料において初見とされる(浅間造の研究3)。ちょうど境内図写が記されたとされる宝永5年(1708年)と同年の記録に、「大宮司別当公文案主連署造営見聞願写」がある。その記録では「寶殿造」「三軒社」と見える。その他「二重造」「二階造」「樓閣造」といった呼称が古記録では確認されている。


「◯◯◯◯◯」→「葵・棕櫚・葵・棕櫚・葵」ということで良いと思う。

浅間大社社殿の家紋については、『富嶽之記』の「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」という記述が知られる。そして現在も、蟇股に菊葵の紋に該当する部分は現存している。この記録は享保18年(1733年)のものであるので、境内絵図を寺社奉行に提出した寛文10年(1670年)とはかなり時を隔てている。

寛文10年(1670年)時点で既に「菊の御紋」の装飾はあったのか、それとも存在したが境内絵図では描かれなかったのかは分からない(もしくはどこかに描かれているのかもしれない)。そもそも家紋は現在蟇股に存在するのであって、境内絵図では逆に蟇股ではない部分に見える。それらの差異もあるので、完全なる一致はないのかもしれない。デフォルトされている可能性も考える必要性がある。

また「リアルタイムの状況を本当に記しているのか」という点もある。「浅間造の研究6」には以下のようにある。

宝永5年の年紀を有する「大宮司別当公文案主連署造営見分願写」によると…続けて「廻廊三ヶ所 護摩堂 宝蔵 経蔵 三味堂 神馬厩」等29箇所について「右者四十年以前潰レ申候所堂社二而御座候御事」と記されている。したがって、14棟あった仏教建築のうち「鐘楼堂」を除く13棟は、寛文9年(1669)以前に何らかの理由によって「潰レ」ていたことが判明する

とあり、仮に寛文9年に描かれた場合、それは復原的に描いたものであるという可能性を指摘している。つまり描いた当時、それは無かった可能性はあるのである。しかし少なくとも、境内絵図や当時の記録にて葵紋が登場することに間違いなく、いかに富士山本宮浅間大社が徳川将軍家に庇護されて来たのかが端的に分かる。

安永8年(1779年)の「幕府裁許状」には以下のようにある。

慶長5年関ヶ原御合戦の節、御願望御成就本社末社不残らず御再建成せられ、其後散銭等は修理に致すべき旨、…

とあり、関ヶ原の戦いの戦勝成就として造営されたのである。この経緯から、葵紋があることは極めて妥当と考えられる。


◯◯◯◯◯◯→「棕櫚(か)・葵(か)・棕櫚・葵・棕櫚・葵」に思われる。

つまり境内絵図では、「葵紋」と「棕櫚紋」が交互に装飾される特徴が見られるのである。「棕櫚紋」は言わずと知れた富士氏の家紋であり、また浅間神社の神紋である。

棕櫚が浅間神社の神紋であることは間違いなく、静岡浅間神社(新宮)の宝物にも棕櫚を模した宝物が多く残っている。天正15年(1587)に徳川家康から寄進されたと伝わる「蓬莱山鏡」および「鏡台」には棕櫚紋が見える。また「御檜扇」(扇子)の模様も棕櫚が描かれており、それらが浅間神社の宝物である点を考えても相違ないと思われる。


この境内図は、かなり多くの部分で棕櫚が登場するわけである。


三重塔と棕櫚の木

三重塔と棕櫚の木である。







以下の画像の囲っている箇所にあるものは「護摩堂」である。

説明を追加
護摩堂については、永禄3年10月26日「今川氏真判物」(戦国遺文今川氏編1598号)にて名が見え、中世には存在していたことが確認できる。護摩堂や三重塔は仏教的建造物である。中世、または近世にかけても神仏習合が成り立っていたことを明確に示していると言える。

参考文献
  1. 建部恭宣,「浅間造の研究」(1-10)『東海支部研究報集』,1(1998)-10(2004)
  2. 静岡市教育委員会編,『静岡市文化財資料館収蔵品 図録』,2001年
  3. 青柳周一,『富岳旅百景―観光地域史の試み』P174-182, 角川書店,2002

2014年6月25日水曜日

永享の乱時の富士氏

永享の乱(1438年)とは、室町幕府将軍である足利義教が鎌倉公方の足利持氏討伐を決定し生じた一連の戦乱を指す。

まずこの時の駿河国は、大変に混乱した状況にあった。というのも、駿河国守護である今川家のお家騒動があったためである。当時の今川家当主である今川範政は、後継者に嫡子である彦五郎ではなくまだ幼い千代秋丸を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。そこで駿河国の国人間では、彦五郎支持派と千代秋丸支持派とで分かれることとなった。

室町幕府としては、幕府側の戦力であり鎌倉公方と交戦すると想定される今川氏のお家騒動は、当然望ましくない状況であった。また千代秋丸の母が扇谷上杉氏出身(鎌倉公方と関係が深い)であることから、千代秋丸の家督継承は望ましいものではなかった。そのため室町幕府は彦五郎の家督継承を望み、その関係から千代秋丸支持派の討伐が必要な状況であった。

そこで駿河国の国人である富士氏を当てはめて考えると、富士氏は千代秋丸支持派であった。つまり室町幕府からみれば、討伐対象であったのである。そしてその後室町幕府の支援を受けた彦五郎勢は、千代秋丸支持派を鎮圧した。こうして「彦五郎=今川範忠」は今川氏五代目当主となった。

しかし室町幕府としては、これら千代秋丸支持派を排他的に扱う程の余裕はなかった。むしろこれら一連の動向を罷免し、鎌倉公方への交戦戦力として期待する方針の方がずっと効率的であったのである。その過程で発給されたものが、以下の文書である。


これは今川貞秋の駿河国への入国を、当時千代秋丸支持派に回った駿河国の国人らに伝える文書であり、忠節を求める文書である。内容から永享6年(1434年)に比定されている。室町幕府管領である細川持之の奉書であるため、室町幕府の意向として出されたものである。以下からは、当文書について考えていきたい。
参考1

「細川持之書状写」には「富士大宮司」「富士右馬助」の名が見える。これは各々にそれぞれ同内容のものが発給されたものであり、1つの文書にすべての人物名が書いてあるわけではない。
双方とも富士氏の一族であるが、一方が富士大宮司であるため「富士右馬助」は当然富士大宮司ではない。富士大宮司と成りうる一族のみが「富士姓」を名乗っていたわけではないということは知られているが、まずそれを理解できる文書である。また「富士大宮司」と「富士右馬助」双方が戦力と考えられていることから、当時富士大宮司のみが武力を有していたわけではないと理解できる。また富士大宮司だけでなく「富士右馬助」にも発給されたことは、富士大宮司に並ぶような権威を富士右馬助が保持していたと言える。なので当地の政治を語る時、富士大宮司だけに焦点を当てるのはおかしいのである。領主「富士氏」として考えなければならない。

次に「富士大宮司」と「富士右馬助」とは誰なのか、という疑問が出てくる。まず富士右馬助についてであるが、やや時代が下って「享徳の乱」の頃の複数の文書にて確認できる。

この双方の富士右馬助について、「十五世紀後半の大宮司富士家」では以下のように説明している。

道朝書状写の宛名に見える右馬助が、持之書状の右馬助と合致するかは不明ながらも、同人もしくは彼の先代とも考えられる。すると持之書状の宛名に大宮司の名も見えることから、右馬助系の富士氏は嫡流ではないが、富士氏の嫡流に比肩するほどの有力一族であったと推測することができる。

とし、「参考2」より道朝書状写の右馬助を富士忠時であるとしている。これは文書の内容からほぼ確実であると言える富士忠時は文明10年(1478)の仏像に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるように富士大宮司となっているため、「富士右馬助」系の富士氏も富士大宮司に成りうるということになる。
参考2

富士忠時と能登守の経歴は以下のようにまとめられる。


年号内容
寛正3年(1462)「後花園天皇口宣案」(戦今川・2665)より、富士忠時の能登守への昇官が打診される
天正元年(1466)「足利義政御内書写」(戦今川・28)より富士忠時が能登守となっていることが確認できる
※1462-1466年の間に富士忠時が能登守となっているということが確認できる
文明10年(1478)の時点木造大日如来坐像(戦今川・2668)に「大宮司前能登守忠時、同子親時」とあるため、このとき能登守を辞している可能性高い
※「戦今川」とは戦国遺文今川氏編を指す

富士大宮司については、系図から単純に考えれば富士直氏または富士政時と考えられるが、検討が必要である。

つまり永享の乱時の富士氏は、「駿河国内での今川氏家督相続問題」と「東国西国間を舞台にした戦乱」という2つの状況に挟まれる状況にあった。またある意味富士氏にとって、富士家の進退に直接影響する時期であったのかもしれない。このときの富士氏は、今川氏の家臣としての性格は全く伺えない(勝てば官軍なのでそう言い切れないが)。一方これらの文書類から、15世紀時点で既に武家的側面を有することは確実である。領主富士氏の内部構造と性格は、内部構造的には「富士大宮司」と「富士右馬助」の二頭構造にあった。そして富士忠時や富士親時は仏像の造立に関わることから、富士氏の性格として、社家としての側面も間違いなく有していた。ただこの棲み分けは不明である。印象的には、富士大宮司・公文・案主としての三頭体制はやや時代が下るようにも感じる。

  • 参考文献
  1. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2014年5月12日月曜日

駿河国吉原の吉原湊と道者問屋

駿河国の富士下方(≒現在の静岡県富士市)に吉原という地がある。吉原には「吉原湊」があり、必然的に水陸・水運としての経済的側面を有する地であった。

その吉原の支配者として有名な存在に「矢部氏」が居た(静岡県の清水に「矢部」という地名があり、『吾妻鏡』にて駿河武士団として「矢部平次」らの名が見えるが、清水の矢部の地ではない)。中世戦国期の吉原について解説する文献の多くで目にする矢部氏であるが、やはり吉原湊との関係は密接であった。

「戦国期の徳政と地域社会」では矢部氏について以下のように説明している。

吉原湊付近には現在でも沼川・和田川・舟川・潤井川が流れ、かつては富士川もこの付近で合流していたといわれている。戦国時代には渡し場、湊さらには商品流通の拠点となっており、今川・武田・北条の三国が激しい争奪戦を繰り広げていたが、矢部氏は一貫して道者問屋・商人問屋を経営し、吉原湊での川船業に関わっていたようである。

矢部氏の性格は、天文23年9月10日「今川義元判物」(戦国遺文今川氏編一一七八号)から分かる。

一 駿河国吉原道者商人問屋之事
一 吉原渡船之事、
一 立物之事、
   ︙
とある。ここにあるように矢部氏は、「道者問屋」「商人問屋」の他「吉原湊の諸々」(舟越屋敷など)を営む商人であった。問屋は宿泊施設のことであり、舟越は渡し船の水運業者のことである。

しかし河東の地は今川・武田・北条の三国が激しい争奪戦を繰り広げていた地であり、今川氏の凋落の過程である永禄11年(1568年)から永禄12年にかけて矢部氏は北条氏と関係を密にしている。

『公共圏の歴史的創造 江湖の思想へ』には以下のようにある。

11年末から12年初頭にかけて、矢部氏は(中略)として、早くも北条氏の道具(軍需物資)や兵粮を用立てるとともに、それらの吉原河東の川端への「積置」、すなわち保管業務をも担っている。(中略)河東という間隙においては、永禄11年末段階において、それぞれの領国の最前線に御用商人を擁する格好になっていると言える。(中略)この武田氏への内応一件を通じて、矢部氏が吉原における北条氏御用の排他的独占権を確立したものと言えるだろう

そこで注目されるのは「駿河国吉原道者・商人問屋之事」の道者問屋の存在である。吉原という地が、道者の宿泊施設として利用されていたことが分かる。荻野裕子,「富士講以前の富士塚-静岡県を事例として-」の中でも『吉原市史』の記述を脚注として「吉原湊には今川義元の時代に道者商人問屋の存在が確認されており、この道者とは富士山参詣の道者であったと推測されている」としている。

似た文書に永禄11年(1568)9月「今川氏真判物」(戦今二一九二文書)があり、大岡庄(現在の沼津市)の道者問屋と商人問屋の存在が明らかにされている。他にもこの種の道者問屋は駿河国に多く存在していたと考えられる。

「道者・商人問屋」と区別されていることから、道者問屋は一定の規模を有していたことは間違いないと思われる。そして地理的関係から、富士山への登拝を目的とする道者と考えられる。道者が吉原に寄り、そこから富士山の登拝に至ることを示す古記録は多くみられる。やや時代は下るが、貝原益軒『壬申紀行』には以下のようにある。

富士山にのぼる人は、六月朔日よりはじまりて同晦日までにいたる。(中略)富士のいただきにのぼる道、大宮より村山に二里。村山に民家あり。別当三坊あり。是より上は山なり。(中略)およそ高峯にのぼる人、吉原より行には丑の時に宿りを出て其あけの日ひねもすゆけば、其日の暮つかたには、すなぶるひまでいたる。そこにて飯などくひ、やすみて、夜に入、たいまつをともしてのぼる。

吉原宿を出発後に大宮、または大宮を通らず村山にまで至り(「富士市岩本に出された制札と富士山登拝」を参考)、夜に富士山に入山して松明に光を灯しながら登っていた風習を示している。当時基本的に道者は夜中から登り始めていたと考えられ、それは「富士曼荼羅図」などからも読み取れる。中谷顧山の『富嶽之記』(1733年)では夜間に登山を行い、そのために「タイマツ三文ヅツ十二本」を購入している(『富嶽之記』についてであるが、『浅間神社史料』にも全文の記載はなし、「観光地化する江戸の富士山を知る…」を参考)。

松明に火を灯して登る道者
しかし吉原の場合、時代に注意を要する。吉原を数度にわたり津波が襲っており、拠点のより内陸部への移動が試みられている。

『壬申紀行』の記述は17世紀前半の津波より時代が下るため、吉原といっても吉原湊より内陸部を指すと考えた方が良い。そういう意味で、同じ"吉原から富士山方面に至る記述"でも場所に大幅な差異がある可能性を考える必要があるし、また時代別の比較が重要となる。道者の吉原から富士山方面に至る記述を少しづつ一覧化してみたいが、「道者問屋」が富士山を目的とする道者を指すと考えることは自然であると言える。

「富士曼荼羅図」には吉原湊と思われる箇所も描かれている。

漁師の姿
この周辺は吉原湊と考えられる。また先ほどの文章を借りれば沼川・和田川・舟川・潤井川の合流地点、またはその先と考えられ、これら周辺は吉原湊と考えても違和感はない。

一方それより左の箇所にみられる、多くの舟が目指す沖合は「蒲原-興津」辺りと考えられる。


この箇所は関所に近接しており、吉原とは距離を置いている。また多くの船は明らかにこちらの方向に向かっているのである。

『海の東海道』では矢部氏を取り上げ以下のように説明している。

船に乗った道者の着いたのは「蒲原船関」であろうという指摘があるが、それよりも吉原湊であると考えた方が、より直接的である。というのは、安土桃山時代の吉原湊には、ここで絶大な勢威を誇っていた矢部氏がいた。(中略)従って、「富士曼荼羅図」に描かれた船に乗ってきた道者の着いたのは、蒲原船関と考えられるかもしれないが、やはり矢部将監や矢部孫三郎らの経営する「道者商人問屋」のある吉原湊と考えた方がいいように思われる。

しかし曼荼羅図の位置関係自体を考えても、また先ほどの「今川氏真判物」(大岡庄に対してのもの)を見ても道者問屋が吉原固有の性質とは言えず、下の図は吉原湊ではないと考えられる(近年文書類の整理が進んでいるので、研究も進んできている)。転じて、海を渡って直接吉原に至り、そこから富士山に至ったというような風習は一般的では無かったと考えている。

しかし道者の存在が、吉原の商業都市としての性格を確立する1つの要素としてあり続けたと考えられる。

  • 参考文献
  1. 阿部浩一,「戦国期東国の問屋と水陸交通」『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館 ,2001年 
  2. 青柳周一,「観光地化する江戸の富士山を知る 近世の富士登山旅行-上方の旅人の事例から-」『富士を知る』,集英社,2002年 
  3. 若林淳之,「戦国期の海上交通」『海の東海道』,静岡新聞社,1998年 
  4. 東島誠,「租税公共観の前提――勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造 江湖の思想へ』東京大学出版会,2000年 
  5. 板坂耀子,『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) ,1991年