2017年11月6日月曜日

富士城開城後の富士と武田の動向

この項では「富士城(大宮城)開城後の主に"富士城を取り巻く様子"」について取り上げていきたい(大宮城が「富士城」と呼ばれていたことについては「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」をご参照下さい)。

まず「富士城開城」自体は、富士信忠から武田方の穴山信君を通じてなされた。以下の2つの文書が知られる。


「大宮之城主富士兵部少輔、属穴山左衛門大夫、今明之内二可渡城之旨儀定」とある。


その後の富士氏であるが、富士城開城後も実は武田勢と交戦している事実がある。開城後直ぐに武田の軍門に下った訳ではないのである。


この文書について「戦国大名武田氏の富士大宮支配」では以下のように説明している。

開城後、富士氏はどこに移ったのか明確にする史料はないが、信玄による第三次駿河侵攻の際、蒲原城において抗戦したことが次の史料によってわかる。蒲原城は富士川以西における唯一の北条方の支城で、東海道を押さえる要所にあった。北条氏政は、ここに北条氏信を置いて守らせた。富士氏も大宮城を堅守した実績を買われてこの城へ送られたのであろうが、12月6日に武田勢の総攻撃を受け、城主氏信は討死し、落城してしまった。

そして北条氏は富士信忠に居住地として豆州河津の符河を与えた。

蒲原城
しかし戦況は好転せず、今川氏真により暇(いとま)を与える旨の感状が富士信通に発給されると、富士氏は武田氏に帰順することを決意した。
北条氏政
「戦国期東国の大名と国衆」では以下のように説明する。

武田氏は、甲斐と駿河との連絡路確保のために同年2月(注:永禄12年)から富士大宮城の攻略を図っており、そのため北条氏は富士氏の支援、あるいは富士郡や駿東郡御厨地域の防衛のための体制も整える必要があった。(中略)その間の7月3日に大宮城が武田氏によって攻略され、富士郡北部は武田氏に帰属するに至っており、これによって興国寺城はにわかに武田方に対する最前線に位置することとなった。(中略)永禄12年7月に富士大宮城の攻略に成功した信玄は、9月から10月にかけて西上野・武蔵を進撃して小田原まで攻めるなどして北条氏を牽制した後、11月に入ると駿河府中の再攻略のために駿河へ侵攻した。(中略)22日に武田氏が大宮城に着陣したことを知った氏政は、24日に韮山城に弟氏規・六郎を派遣するとともに、自身伊豆に出陣して駿河・伊豆国境地域の防備を固めた。一方、27日まで大宮城に在陣していた信玄は、その後は南進し、12月6日には蒲原城を攻略した。この時、「城主」北条氏信を始め、その弟融深、北条氏の重臣清水新七郎・笠原氏(美作守か)・狩野介らの在城衆のほとんどは討死するに至っている。

武田氏は大宮城を攻略したことにより大宮城に布陣する事が可能になり、大宮から直接軍を率いることが可能となった。また退路も確保した安定した状態で戦を進めることが可能となっていた。そしてその後、富士信忠は甲斐へ赴いた。


その後の動向として元亀3年(1572)5月23日「武田家朱印状写」が知られる。


この文書について「戦国大名武田氏の権力と支配」では以下のように説明している。

この史料は、最終的に服属を遂げた富士信忠の処遇について記したものである。信玄は富士信忠の居所を富士郡外に定めるとともに、子息を人質として甲府に滞在させるように命じ、扶持米として久能城の城米から50俵を出すように指示をしている。

富士信忠は興津と獅子原の間に留め置かれている。つまり富士氏を富士郡から離すことで軍事力を用いる手立てをなくし、また人質を取ることでそれら行動の抑止を図っている。

「大宮城を取り巻く動向」として注目される存在に「原昌胤」が居る。


「戦国大名武田氏の権力と支配」では以下のように記す

この後、大宮城は富士郡支配の拠点城郭として取り立てられており、ひとつの領域を形成するようになる。(中略)元亀元年5月、武田氏は大宮城下の路次整備を行った。(中略)以上のような原昌胤の立場は、富士大宮城代として位置付けられるものではないだろうか。

としている。文書上では原昌胤が「大宮城代」「城主」であるということを示す表現はない。なので当文献でも可能性として指摘しているという段階である。ただ原昌胤は大宮宿の整備等を行い、より富士大宮に特化した整備を行っていることは事実である。

原昌胤
大宮城が富士郡の拠点であったことは周知の事実であるが、ここを局所的に原昌胤が関与していたことは注目される。また「"大宮城を取り巻く"」という意味では、渡辺豊前守宛の武田家朱印状が注目される。


この文書について柴辻氏は以下のように説明している(「戦国動乱期の九一色郷」)。

これら知行宛行状に共通している点は「大宮在城について」知行を宛行うから、「軍役を勤しむべし」である。つまり、九一色衆が、武田氏の駿河進出後の富士大宮城の在番役を長期にわたって勤めていたことを示すものであり、この段階では、当然のことながら、九一色衆の全体が武田氏の軍役衆と位置づけられていたことを推定させる。しかし表でも明らかなように、本栖の渡辺豊前守は他氏にくらべて知行高が突出している。この時の豊前守は縄であり、この後に活躍する囚獄祐守の父である。(中略)こうした点から、すでに通説でいわれているように、本栖の渡辺氏が九一色衆の頭目的存在であったと認めて良いだろう。

としている。甲斐の本栖は駿河国富士郡に隣接する地であるが、その在地勢力である同衆の有力者が大宮城に在城していたことは、「就大宮在城」とあり明らかなのである。「井頭」とは現在の「猪之頭」のことであり、「富士兵部少輔」(=富士信忠)の土地であった。つまり富士氏は従来、富士上方のその最北方まで保持していたのである。例えば応永16年(1409)の記録で「根原関」の管理を富士氏が勤めていたことが知られ、北方への関与は旧来から認められており、違和感は無いと言える。また大宮城と富士上方の百姓を結びつける資料もある。


「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」には以下のようにある。

これによって見ると何処の誰にという点のはっきりするのは天正2年11月30日の清左衛門外47名にあてたもののみで、それらの百姓は見その=後園(富士宮市北山)から猪之頭(同市猪之頭)にかけて住む48名であった。(中略)この朱印状によると武田氏の課した普請役とは見その=後園・馬場・上野・精進川・半野・佐折・内野・猪之頭などに住む百姓48人に、江尻城や興国寺城、更には大宮城や本栖城等々の築城に必要な葺板、材木などの調達にあたらせられていたものであることが知られるのである

としている。文書に「江尻興国寺幷本栖大宮」とあるが、すべて「城」のある地域であり、やはり城郭を示す可能性が高い。本栖城については「 戦国期における国境の一様相」に詳しい。

また「甲斐における辺境武士団について(上)」では以下のように説明し、『甲斐国志』の記録を取り上げている。

近世において九一色衆の指導的役割を果した渡辺囚獄佐守の系譜をみると次のようになる。渡辺右京亮知および左近はともに「武田家につかへ甲斐・駿河両国の境本栖に居りしばしば忠節をつくし」たといい、その子豊後縄は「信州大宮城ヲ守リテ功アリ元亀元年午7月15日五拾貫文大宮・井頭両所ノ印書ヲ賜」っている

とある。実際『甲斐国志』巻之百七には

〔渡邊囚獄佐〕本栖村
家系二内舎人綱十六世源次知武田家二仕ヘ左京亮ト称ス福島乱入ノ時功アリ其子源次縄豊後ト称ス駿州大宮城ヲ守リテ功アリ

とあるのである。「守リテ」という部分は、武田氏と徳川氏の争いを指すと考えられる。

富士城は伝承によれば天正10年(1582)に焼失したという。天正2年の文書から考えると、おそらく焼失直前まで大宮城として用いられていたと考えられる。ただ元亀期以降富士氏は武力解除が進められており、この時代に富士氏が軍を率いるということは無かった。武田方の九一色衆の有力者が在城していたことは確実で、これらを束ねていた存在としてあえて挙げるとすれば、原昌胤等が考えられるという状況である。

  • 参考文献
  1. 平山 優・丸島和洋,『戦国大名武田氏の権力と支配』,岩田書院,2008
  2. 黒田基樹,『戦国期東国の大名と国衆』,岩田書院,2001
  3. 若林淳之,「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」『戦国大名論集 10武田氏の研究』,1984
  4. 前田利久,「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡第20号』,1992
  5. 柴辻俊六,「戦国動乱期の九一色郷」『上九一色村誌』
  6. 畑大介,「 戦国期における国境の一様相」『戦国大名武田氏』,1991
  7. 村上直,「甲斐における辺境武士団について(上)」,『信濃』第14巻第1号,1962

2017年10月6日金曜日

富士宮市域の名族佐野氏と富士氏を今川氏武田氏後北条氏動向から探る

以前「小田原衆所領役帳に見える富士を考える」にて今川氏ではなく後北条氏方に与したと考えられる(武田氏による駿河侵攻以前より)富士家一族の人物について取り上げた。


『小田原衆所領役帳』(以下『役帳』)によると、後北条氏の領地である「東郡片瀬郷」が富士氏に知行されており、富士家一族の中でも後北条氏側に近接した者が居たことを示している。しかし当時の富士氏当主、つまり富士大宮司というのは今川氏に属していたのであり、ここに富士家の内部分裂を想定しなければならない。そしてこの『役帳』の富士氏が、「富士常陸守」であると指摘する文献は多い。『中世東国足利・北条氏の研究』では

とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている

としている。『後北条氏家臣団人名辞典』ではこの点について説明している。

元亀元年4月26日北条氏康禁制写では相模国早川(小田原市)の海蔵寺に禁制を掲げ、違反する者は富士常陸に申し断る事とした。海蔵寺は大森氏と関係する寺であることから『役帳』の富士某と富士常陸は同一人物

これは大変に重要な指摘である。つまり以下のようになる。『役帳』の片瀬郷は現在の藤沢市に位置する地であるが、その地を富士氏と共に大森氏が知行先として得ていた。ここに先ず両者の関係性を見出すことができる。そしてその大森氏と関係の深い海蔵寺に禁制が掲げられた際、その監視役的位置づけとして「富士常陸守」が出てくるのである。ここでも大森氏と富士氏との接点が見出だせる。


禁制は戦時における安全保障として大名側が出すものであり、寺社領内における軍勢乱入や狼藉を禁止する内容が織り込まれていることが多い。当文書も寺領内での狼藉等を禁止する内容である。このことから、この富士氏は小田原においても知行を得ていた可能性があり、少なくとも当地で一定以上の権限を得ていたのである。『役帳』は永禄2年(1559)成立ともいい、禁制自体は元亀元年(1570)なので時代も近く、富士常陸守ではないかと考えているのである。ただ同文献では富士常陸守を「大宮司職」としていたが、当ブログではそれを示す資料は確認できなかった。むしろ大宮司職でないがために、『役帳』の富士某が富士常陸守である可能性が高まるのである。

また永禄12年(1569)「武田信玄判物写」にも富士常陸守の名が見える。

この文書で富士家の人物として「富士能登(守)」「富士常陸守」「富士左衛門」「富士兵部少輔」がそれぞれ出てくる。まず富士能登守は富士信通、富士兵部少輔は富士信忠である。「富士常陸守」は元亀元年(1570)の北条氏康禁制写の人物と同様。富士左衛門は不明。そしてこの文書の宛は「佐野惣左衛門尉」である。佐野氏は言わずと知れた富士郡に土着した氏族であり、富士郡でも「稲子」を根拠地とする氏族である。現在富士地区(富士宮市・富士市)に多く分布する佐野姓の大元とされ、いわば佐野の故郷である

上稲子
この文書について小和田哲男氏は以下のように説明している。

佐野惣左衛門尉は上稲子(現在、富士郡芝川町上稲子)の土豪であった。今川氏に仕え、大宮城の富士氏の指揮下に入っていた。富士氏を寄親とする寄子だったものであろう。ところが、周知のごとく、永禄11年(1568)12月、信玄率いる大軍が甲斐・駿河国境を越えて駿河になだれこんできた。そのとき、上稲子は武田軍の通り道だったこともあり、いち早く、佐野惣左衛門尉は信玄の軍門に降っている。この知行宛行状はそのときの功績によって与えられたものである。この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである。(中略)注目されるもう1点は、富士兵部少輔信忠の子富士能登守信通の屋敷が稲子と野中にあったことである。野中は現在の富士宮市野中東町に比定されるので、大宮城下の屋敷ということになるが、稲子にも屋敷をもっていた点は注目される。

としている。まず稲子は甲斐国の河内地区に隣接しており、国境に位置する。このことから早くに武田氏に降った背景は容易に理解できる。野中ですら大宮城が位置する狭義の「大宮」からするとやや離れた箇所の印象があり、また稲子は更に距離を有する。つまり富士氏は、富士上方各地に屋敷を有していたと考えて良いだろう。それは支配領域といっても良く、富士氏の富士上方での権力の一端を示すものである。「富士能登分但浅間領除」の「浅間領」は当然浅間大社領のことである。当文書は駿河侵攻で大宮を手中に収めた場合、それら土地を代わって佐野氏に充てがうという内容である。

武田氏はこのとき「大宮城の戦い」で2度目の攻勢を仕掛けたという段階であり、しかもその戦いで穴山信君と葛山氏元の連合軍は富士氏に敗れているという段階なので、まだ大宮の平定どころか大宮城すら落ちていない状況であった。小和田氏が"この文書で注目される点が2つある。1つは、文中にみられる富士兵部少輔の知行を早くも佐野惣左衛門に与えていることである"と述べているのは「まだ大宮は奪われていないのに佐野氏に知行を与えている」という意味であり、指摘の通りである。また現在ここまで佐野姓が多いのは、おそらく富士上方各地に散らばっていた富士氏領に佐野氏がより広範囲に住むようになったためであろう。

さて、上記の「武田信玄判物写」は以下のような過程があって現在翻刻に至っている。

この「佐野氏古文書併甲斐国志」を、私はたまたま東京の古書店で買入した。佐野氏関係の古文書は、これまでに活字となったものを何通もみていたので、はじめのうちは、本書に所収されている古文書もすべて活字化されているものとばかり考えていた。ところが、調べていくうちに、ほとんどが未紹介のものであることが明らかになった。何と、文書総数22点のうち、15通までがこれまで未紹介、すなわち新発見のものであった。(中略)いずれにせよ、写しとはいえ、戦国期の古文書がこれだけ大量にみつかったのは稀で、武田信玄による駿河侵攻の過程、さらに、武田勝頼および穴山梅雪による駿河国富士郡支配の実像が浮き彫りになってくる文書群である。

この発見により、富士宮市の佐野氏の実像が大きく判明したのである。まずこの事実は挙げておきたい。従来から伝わる「佐野氏文書」は若林淳之,「武田氏の領国形成─富士山麓地方を中心に見た─」にて「佐野文書(富士宮市大岩)に包括され所蔵されている文書であって、佐野氏によって代々継承されてきたもの」と説明されている。これら従来の佐野氏関係文書、またこの「佐野氏古文書写」からいくつか抜粋していきたい。まず佐野氏が従来よりこの上稲子に在住してきたことが分かる文書を挙げたい


この文書について小和田氏は以下のように説明している。

この文書は注目される文書である。佐野宗左衛門尉、すなわち惣左衛門尉の知行地が上稲子にあったこと、そして、佐野惣左衛門尉が本来勤めなければならなかった棟別役ならびに御晋請役が特別に免除されていたことである。(中略)しかも「如先方之時」とあるように、それが今川氏時代からの慣行だったことも分かる

これら文書から、従来より上稲子に佐野氏が土着していたことが分かるのである。伝承の域は出ないものの、源平合戦で敗れた平維盛の家臣「佐野主殿頭」が稲子の地に土着したことから佐野氏は由来するという。また西山(旧芝川町)の地頭である大内安清の孫「雅楽助」が佐野姓を名乗ったためともいう。これら伝承も含めて、中世期より佐野氏が根拠地としてきたことは疑いようがない。



この文書は佐野善次郎宛の文書である。この人物も稲子への知行を受けている。他「佐野氏古文書写」より多くの佐野姓の人物が確認できる。

また以下の文書は興味深い。


穴山信君から佐野善六郎への偏諱である。つまり穴山信君は、自身の「君」の一字を佐野善六郎に与え「君」と名乗らせたのである。このときの佐野氏と穴山信君との深い関係を思わせるものであり、着目すべきものである。鉄山宗鈍という高僧が記したという法語・香語録『鉄山集』によると、信君は「のぶただ」と読まれたという(『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』)。ここから推察するに、おそらく君胤は「ただたね」と読まれたであろう。また小和田氏は佐野氏古文書写のうち天正19年(1591)に比定される文書等から以下のように説明している。

武田氏のあと徳川家康に仕えることになった佐野惣左衛門尉が、関東から故郷下稲子に居住している佐野氏同族にしたためた書状であろう。戦国期、下稲子において、佐野氏による一族一揆的な結合、すなわち、地域的一揆体制ができていたことを物語る史料である。(中略)下稲子の土豪佐野氏の内、佐野惣左衛門尉が武士化して村を出、佐野九郎左衛門らがそのまま村に残ったことが分かる。
この文書の場合、下稲子にも佐野氏一族が居たことが確認できる。佐野氏は上稲子・下稲子、つまり稲子全域に土着していたようである。佐野氏のその後は不明であるが、現在の状況が示すように、佐野氏は隆盛したようである。以前「元亀天正期の富士郡情勢を富士氏と小笠原信興から考える」にて、小笠原信興の富士郡転封に伴う富士郡の情勢変化を記した。特に柚野周辺は影響を受けた。近接する稲子周辺も同様であったようで、信興が佐野弥右衛門に宛てた文書が残る。


この文書について黒田氏は以下のように説明している。

宛名の佐野弥右衛門に対し、その屋敷の四壁の竹木について信興の被官衆による勝手な伐採を禁じるとともに、用所の際には印判状をもって所望すると規定したもので、いわば信興被官衆の非分の排除を保証したものである。その具体的な在所については不明であるが、佐野氏は駿河富士郡北部に多く初見される土豪層であるから、この佐野氏も同様であったと見られる。また、本文書の内容や、ここで印判が押捺されていることからみて、宛名の佐野氏は信興の被官ではなく、その知行地に在所する土豪層であったと推定される。

としている。また小笠原信興の転封で篠原氏もその影響を受けているが、実は「佐野氏古文書写」には篠原氏宛のものも含まれる。以下はそれである。



篠原氏は柚野を根拠地とする氏族であり、佐野氏の根拠地である稲子に隣接する。なのでここで篠原氏が出てくるのである。


「中世期の文書」と「現代」が見事にリンクしていることから(現在も柚野には篠原姓が多いし稲子には佐野姓が多い)、文書が正直であることを実感すると共に、佐野氏の原点が稲子にあったことが改めて確認できた。

  • 参考文献
  1. 小和田哲男,「史料紹介「佐野氏古文書写」」『地方史静岡 第24号』,1996
  2. 下山治久,『後北条氏家臣団人名辞典』,2006
  3. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006
  4. 黒田基樹,「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究 第21号』,1999
  5. 平山優,『真田三代 幸綱・昌幸・信繁の史実に迫る』,2011