2020年1月24日金曜日

富士家の富士弥五郎について考える

今回は富士家の人物である「富士弥五郎」について考えていきたい。

まずこの時代の富士氏を取り巻く状況は混沌としていたと言える。家の存続に直接関わる事象が重なっていたと言っても良いくらいである。まず「今川範忠」の駿河入国以来、富士氏は室町幕府と対立していた(「室町幕府と富士氏」)。

『満済准后日記』

しかし『満済准后日記』 永享5年(1433)12月8日条に

富士大宮司御免事、不可有子細由被仰出間…

とあるように、永享5年末には富士氏は足利義教により罷免されている。そしてその後富士大宮司は管領「細川持之」に「富士海苔」と「伊豆海苔」を進上するなどしている。富士海苔は芝川海苔ともいわれ、芝川水系の河川で採れる海苔のことである。つまり富士大宮司は幕府との関係改善に努めていたのである。

そこで、気になる記録が『満済准后日記』にはある。 同日記の永享6年(1434)4月28日条に

富士弥五郎十二歳云々来、対謁了、当富士大宮司能登守孫子也、去年以来在京

とあるのである。富士弥五郎12歳が満済に謁見したという内容であり、弥五郎が富士大宮司の孫子であり、去年から京都に在住しているということが記されている。「去年」とあることから永享5年(1433)から京に在住していたことになる。これは普通に考えれば人質として在京していたと考えられる。もちろん今川範忠に対する反発が原因と考えられる。

ここに「富士大宮司能登守孫子」とあるわけであるが、この「能登守」を官位とする富士大宮司は誰なのであろうか。ここで考えなければならない文書に、永享6年10月25日「今川範忠書下」がある。宛は「富士能登守殿」とある。『満済准后日記』永享6年(1434)4月28日条に「富士大宮司能登守」とあり、当文書は永享6年10月25日付で「富士能登守殿」とあるので、この「富士能登守殿」は富士大宮司であるということがまず分かるのである。

『浅間神社の歴史』では『満済准后日記』に頻出する富士大宮司について「年代より推すに、第二十四代氏時の頃であろう」としている。つまり永享年間の富士大宮司は富士氏時ではないかとしているのである。そして「永享6年10月25日今川範忠より富士大別当跡を預けられたる文書の宛名に、富士能登守とあるのも氏時でなければならぬ」ともしている。これが氏時であるかどうかは別として、『満済准后日記』の富士大宮司と「今川範忠書下」の人物が同一であるというこは間違いない。

そして以下に文書(「後花園天皇袖判口宣案」)を載せたいと思う。



この文書には右馬助であった富士忠時が寛正3年(1462)11月2日に能登守に任命されている(打診されている)ことが示されている。そして天正元年(1466)の 「足利義政御内書写」よりこのとき富士忠時が能登守となっていることが確認できるのである。そして能登守は富士親時に引き継がれていくのである。であるとすれば、永享6年(1434)時点で能登守であった富士大宮司は少なくとも忠時より以前の富士大宮司ということになる。

しかし忠時より以前で時代と符号する各富士大宮司の官位は「右馬助」が確認できるのみで、「能登守」は無いように思われるのである。氏時も系図では「能登守」であるとはしていない。しかし富士忠時の例で分かるように官位は「右馬助→能登守」と昇官しているので、同じように右馬助から能登守に昇官したパターンか、右馬助を経ず能登守となったパターンの富士大宮司が居たと考えられる。

また「後花園天皇袖判口宣案」以前で、富士忠時宛と推察される文書が残る。


享徳四年(1455)閏四月十五日の発給文書であり、宛は「富士右馬助」である。忠時は寛正3年(1462)11月2日に右馬助から能登守に昇官しているため、ここに見える「富士右馬助」は忠時であると考えられる。

また更に遡った永享6年(1434年)、以下の文書が知られる(年代は比定である)。


狩野氏・葛山氏・入江氏・興津氏・富士氏・庵原氏・由比氏(か)ら各氏族の名が見える。先程"「今川範忠」の駿河入国以来、富士氏は室町幕府と対立していた"と記したが、端的に言えばこの者たちはその面々である。そして各氏族に幕府への忠節を求めているのである。ここに富士氏として「富士大宮司」と「富士右馬助」が見える(実際は各々にそれぞれ発給されている)。この「富士右馬助」が忠時かどうかは時代がやや遡っているため判断は避けたいが、忠時ではないように思われる。

富士大宮司に関しては①『満済准后日記』永享6年(1434)4月28日条②永享6年10月25日「今川範忠書下」③「細川持之書状写」(当文書)は同一人物と言ってよいだろう。

またこの文書を引き合いに出す形で大石(2010)では

右馬助系の富士氏は嫡流ではないが、富士氏の嫡流に比肩するほどの有力一族であったと推察することができる

としているが、この考え方は些か妙である。つまり大石氏は富士大宮司(序列は一番上である)でない富士家一族の人間が「右馬助」を名乗っているので、右馬助系の富士氏は嫡流ではないとしているのである。

しかし富士大宮司が「右馬助」から「能登守」と官位を変化させている事実があるので、永享6年(1434年)に見える富士大宮司も以前「右馬助」であった可能性が十分にある。だから「右馬助系の富士氏は嫡流ではない」とすると整合性が保たれない。

大日如来像

またこの文明10年(1478)の大日如来像には胎内銘として「大宮司前能登守忠時 同子親時」とある。つまり文明10年時点で忠時は能登守ではなく、親時が能登守であったのである。『浅間神社の歴史』には「此時には能登守は離任したが、大宮司の職は依然として帯びて居たのである」としている。

管見の限りでは「富士弥五郎」なる人物は『満済准后日記』のみでしか確認できない。この人物を追求する難しさとして「弥五郎」は幼名であるので官位等から検討できないということと、「孫子」自体の範囲が広くなるという問題がある。そもそも同日記でしか確認できないので、検証しようがない。どうしても「富士大宮司能登守孫子」から考えていくしかないのである。

大宮司富士氏系図

まず候補として『浅間神社の歴史』でも挙げられていた「氏時」、そして「直氏」「政時」の線を考えていきたい。「氏時」「直氏」は系図上では両者は兄弟であり両者共富士大宮司経験者である。直氏が継いでいるということは、氏時には男子が居なかったのであろうか。『浅間神社の歴史』では「年代より推すに、第二十四代氏時の頃であろう」としているが、兄弟という線を考えると必ずしもそうは言い難い。むしろ「政時」の線も見えてくるのである。

この点を考えていくと「祐本」の存在も考えていかなければならない。「富士家のお家騒動と足利将軍」にあるように、忠時は父である「祐本」と折り合いが合わずお家騒動に発展していた。『浅間神社の歴史』では

現存富士氏系図には祐本の名は無い。されど当時入道しているのを見れば、寛正3年に能登守に任ぜられた右馬助忠時は、その子と想像せられるから、二十五代直氏の入道名であり、また宮若丸は二十八代親時であらう

としている。この忠時の父(=入道名「祐本」とする)を直氏とする考えはひとまず同調したいが、そもそも忠時が「忠時」と名乗っている点が興味深い。もし父から継いでいるのであれば「時」の字でなく「氏」を名乗っているはずである。しかし「政時」「忠時」と兄弟で「時」を用いているのである。

『親元日記』

そもそも系図を信じてよいかという問題もあるが、以下にまとめたいと思う。


富士大宮司
二十四代氏時系図上では直氏とは兄弟
二十五代直氏系図上では政時・忠時の父であり、「祐本」の可能性。
二十六代政時系図上、忠時とは兄弟
二十七代忠時右馬助(少なくとも1455年時点では同官位)、能登守(1466年任官、1478年時点では能登守を退官)
二十八代親時宮若丸(幼名、可能性)、能登守(少なくとも1497年時点)

これを考えると、永享年間の富士大宮司が「直氏」であるという印象を持つ。史料としては残らないが「右馬助→能登守」という昇官があったのではないだろうか。そしてそのパターンを後の富士大宮司も踏襲しているのではないだろうか。この場合は「富士弥五郎」は親時である可能性が高いと思われる。永享年間の富士大宮司は「直氏」であり、この時期孫の親時は在京していた。直氏は富士大宮司を退いた後入道名として「祐本」と名乗っていたのではないかと考える。そして寛正年間に忠時と対立していたと考えたい。

また大石氏は親時の兄弟が「宮若丸」である可能性を示唆しているが、『浅間神社の歴史』で指摘されるように、ここでいう宮若丸が親時である可能性も十二分にあると考える。

  • 参考文献
  1. 『浅間神社の歴史』
  2. 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年

2020年1月20日月曜日

尹良親王と田貫次郎の伝説と田貫湖

ダイヤモンド富士のスポットとしても知られる「田貫湖」。そのほとりには「田貫神社」が位置し、「尹良親王」と「田貫次郎」が祀られている。

両者は「人神」として祀られているのであるが、このような事例は富士郡では稀有であり、今回はこの部分について考えていきたい。まず『浪合記』という史料に

駿河国冨士谷宇津野ニ移シ田貫カ館ニ入レ奉ル此田貫次郎ト申者ハ元ハ冨士浅間ノ神主ナリ神職ヲ嫡子左京亮ニ譲リ宇津野ニ閑居ス(中略)冨士十二郷ノ者ハ新田義助厚恩ノ者共ナリ

とある。内容としては一行が尹良親王を奉じて吉野から上野国に移動する過程で駿河国富士谷の宇津野(=現在の富士宮市内野、"うつの"と読む)に移り、そこで田貫次郎の館に入るという内容である。田貫次郎は「富士浅間の神職」であったといい、その神職は既に嫡子である「左京亮」に譲っており自身は内野にて隠居生活を送っているというものである。

富士宮市内野

まず同記録の信憑性についてであるが、多くで信憑性が疑われている。しかし地理的背景だけで言えば、意外にも整合性が取れている印象がある。まず実際現在の富士宮市内野に隣接する形で田貫湖が存在している(この伝説から田貫湖と名付けられたとも)。そして地理的には上野国の途中に位置している。

一方「富士浅間ノ神職」については、どの浅間神社を指しているかは不明である。また同じ内容が『東武談叢』にもあるといい、『駿国雑志』がこれを引用している。内容は両者ともほぼ同じである。『白糸をめぐる郷土研究』では「富士浅間ノ神職」について

或は甲斐の明日見浅間ともゆふ

としているが、その出典等は示されていない。ただこの記述を思うに、「富士十二郷」の記述の存在が関係していると思われるのである。偽書である『宮下文書』には「富士十二郷」についての記述が確認でき、また同書には「富士大宮司直時」の名も確認できる(現在はその箇所が不明です、教えて下さい)。偽書も全くの架空ではなく実在する人物を取り入れていることから「直時」の名が見えていると考えられる。そして『宮下文書』が発見されたのが何を隠そう「明日見」なのである。おそらく著者は『宮下文書』を念頭に置いて「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」としたのではないだろうか。とりあえず「富士浅間」だけでははっきりしないとは言えるが、仮に富士山本宮浅間大社だと仮定してしまうと、整合性は全く無い。

田貫湖

『浪合記』によると、尹良親王は元中3年(1386)8月8日に征夷大将軍となり源氏姓を給わったとある。そして従者は吉野から上野国に迎え奉るのであるが、その道中に寄っているのが内野なのである。そしてここで「(元)冨士浅間ノ神主」として田貫次郎が出てくるのである。ではこの時代の富士山本宮浅間大社の神職が誰かを考えた時、史料的にはまず「富士直時」と同子「弥一丸」の存在が挙げられる


康永4年(1345)3月10日に直時は子である弥一丸に「天万郷」「上小泉郷半分」「北山郷内上奴久間村の田二反」「黒田北山郷野知分」を譲っているのである。富士郡にて「直時」の名が見える史料は、この文書の他に「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」にしか見えないように思える。したがってここに見える「直時」とは、富士大宮司である富士直時であると考えるのが妥当である。「大宮司富士家文書」として伝来している点を除いても、そう言える。そもそもこのような広大な領地を譲ることができる権力者自体が、大変に限られてくるのである。「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」には「康永四年三月十日卒」とあるが、この譲状は今際の際に作成されたものであろうか。

そして「和邇氏系図」と「富士大宮司(和邇部臣)系図)」には田貫次郎なる人物が神職として存在していたことを示す箇所は無い。そしてそれは「左京亮」も同様である(江戸時代の三十三代富士大宮司である富士信公くらいである)。とりあえず『浪合記』の「冨士浅間ノ神主ナリ」の浅間神社は、何処に設定しているかは分からない。しかし史実としては富士山本宮浅間大社を指す可能性はとても低いということは言って良いのではないだろうか。

私は『宮下文書』と『浪合記』に「冨士十二郷」なる用語が共通して見えることを考えると、「或は甲斐の明日見浅間ともゆふ」という指摘は大いに傾聴に値するのではないかと考える。「富士十二郷」については『今川記』に「富士郡下方十二郷」なる言葉が確認できるので、「富士十二郷」という区分は実際に存在した可能性がある。しかし同史料の内容も疑問視されていることも事実であり(「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」)、全く異なる方面から確認できるこの「富士十二郷」の真偽は不明である。

とりあえず「田貫次郎」の話は、あくまでも伝説の領域を出ない内容であるということを示しておきたいと思う。

  • 参考文献
  1. 渡辺兵定,『白糸をめぐる郷土研究 : 渡辺兵定翁遺稿』,1953年
  2. 『駿国雑志』