2017年2月13日月曜日

富士市の島地名と水害そして浅間神社

浅間神社の総本宮は富士山本宮浅間大社(富士宮市)であるが、隣接する富士市域にも浅間神社は多く存在する。現在の富士宮市域は中世より≒富士上方と称され、富士市域は≒富士下方と称されてきた。富士市域は大きく「旧富士市域」「旧吉原市域」と大別でき(現在からするとやや大きすぎる分け方である)、例えば権威を誇った富士下方五社はどちらかと言えば旧吉原市域に偏る。

しかしこれらを見ていると、自然に以下のような疑問が湧き出してくるものである。それは
(吉原と比したとき)旧富士市域は富士山から遠くまた登拝路も限られるのにも関わらず何故浅間神社の分布が旧吉原市域並に存在しているのか
という疑問である。そして米之宮浅間神社以外は軒並み創建が下る(時代が新しい)ということも特徴としてあり、これらも疑問となってくる。

この疑問に答えてくれるのが富士市立博物館刊行物『加島 米と水』(企画展解説図録)である。同図録に以下のような説明がある。

富士山の裾に位置する加島にも米之宮浅間神社をはじめとして10社がまつられていますが、米之宮以外はすべて加島南部という狭い地域に集中しています。この地域だけで、富士山南西麓における浅間神社の1/4を占めています。(中略)米づくりのために開かれた村が、水神・農耕神的な性格を持つ浅間神社を勧請するに至ったのは不自然なことではないと思われます。

新田開発が行えるようになったのは比較的後世のことなので、旧富士市側の浅間神社というのは創建が比較的新しいのである。地名を見てみると旧富士市域に「島」がつく地名が大変に多い。「島」が付く地名に対して「幕末・富士川下流域の農事」では以下のように説明している。

周囲には森島・中島・川成島など島がつく地名が多い、これらはかつて富士川の氾濫原の中で島のようにみえた微高地の集落であると伝えられている。またこれらはほぼそのまま近世村の村名となり、島がつく村名は加島二十六ヶ村のうち九村に及ぶ。

とある。つまり富士川の氾濫でその土地が水に浮かぶ島のように見えたことから由来する、と言っているのである。例えば「川成島」などはそのままである。当ブログでは明治期の地名から「島」の付く地名(大字)を割り出してみることとする(タイトルの「島地名」とはこれらを指す)。
下表の吉原→図中での旧吉原市のこと 下表の富士→図中での旧富士市のこと


自治地名
加島村(富士)中島 五味島 水戸島 森島
田子の浦村(富士)柳島 鮫島 宮島 五乄島 川成島
島田村(吉原)荒田島 青島 田島 田島新田
伝法村(吉原)瓜島

共通の割り出し方法で試みたが、如何に旧富士市側で「島」がつく地名が多いのかが分かる。また面積比で考えてしまうと圧倒的とも言える。これは富士川流域がどちらかと言えば旧富士市側であったためである。また加島村域には「宮下」という地名があるが、『加島 米と水』は宮下についてこう記している。

宮下を歩くと、あちこちに石垣で周囲を補強され、高さを整えられた畑や屋敷があることに気づきます。このような高低の差が生じたのは、かつて富士川の氾濫によって土砂が宮下に流れ込み、土地が不均一になったためだと語られています。(中略)そもそも宮下の名は、山神社というお宮の下に集落が開けたことに由来していると語られています。山神社はかつて宮下では最も富士川寄りに位置し、その境内の敷地は大井川流域の舟型屋敷(舟形の形態をとることによって洪水・氾濫から敷地を守る)のように、富士川に向けて奥宮が舳先、鳥居が艫になる舟形を呈しています

まず「」は神社を意味する語である。そしてこの地に「山神社」があり、山神社の下に集落が開けたために「宮下」という地名となっているのであるが、例えばこのようなランドマークがなければやはり他の「中島・五味島・水戸島・森島」同様「〇〇島」という地名になっていたに違いない。

水神社(富士市松岡)
また以下のようにもある。

加島平野は富士川の扇状地であり、富士川がもたらした砂礫によって形成されています。(中略)江戸初期に富士川の治水が進み、加島には次々と新田や新しい村が開かれていきました、近年までタバショ(田場所)と呼ばれていた水田地帯を生み出します

治水により新田開発が進んでいったが、地名としてはそのまま残ったという形であろう。新田開発により米の栽培も可能となり、『駿河国新風土記』に以下のような記述がされるまでに至る。

米ハ早稲、多く他村に先ち熟す、7月中に出す、此を加島米と称す

とあるという。また水害が多かったことは、中世資料からも見出だせる。永禄12年(1569年)6月、武田信玄は駿河侵攻の過程で富士氏の大宮城(富士城)に攻め入り、これを落城させた。
武田信玄
大宮城主「富士信忠」は後北条氏の勧めもあり穴山信君を通じて開場し、駿河大宮は武田氏のものとなった。これらの動向を『甲陽軍鑑』ではこう記している

永禄12年6月2日に、信玄公、甲府を御たちありて、駿河ふじの大宮(注:富士宮市のこと)へ御馬を出さる(中略)同18日に、三嶋をやき、がわなりじまに御陣をとり給ふ、一夜の内に大水いで、信玄公の諸勢、道具を津なみにひかれ候へども、無何事早々甲府へ御馬をいれ給ふ

つまり武田信玄は川成島に陣を張ったが大水が出て道具等も水にさらされ、甲府への撤退を余儀なくされたのである。「大水いで」「津波」とあり、海方面からの水害を推測させる。陣を置くような場所であるから完全に沿岸とは考えられにくいが、そのような地であっても道具が水にさらされるような状況に容易に陥り得る地だったのである。しかしこの頃の富士川流域は現在より東側であったとされるため、これが富士川の氾濫を指す可能性も考慮しておく必要性がある。「下」(海)からも「横」(富士川氾濫)からも水害の危険性を有していたのである。

この富士下方の地で「島」とある場所は、基本的に類似した地理的環境にあったと推測できる。これら水害を抑えるに成功するのは、雁堤の完成まで待つこととなる。

  • 参考文献
  1. 富士市立博物館『加島 米と水』,1998
  2. 荻野裕子,「幕末・富士川下流域の農事」『民具マンスリー第33巻10号』,2001
  3. 富士郡役所「静岡県富士郡々治一覧表」,1893年

2016年12月26日月曜日

松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図について

比較的最近発見された「富士曼荼羅図」に「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」(以下、当図または当曼荼羅図)がある。参考文献として「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」を参考に、解説していきたいと思います。まず、以下がその図である。

「松栄寺本紙本着色富士曼荼羅図」  (※両端少々切れています

まず著名な「絹本著色富士曼荼羅図」(重文)は「絹本著色富士曼荼羅図を考える」にあるように、”富士山信仰を広める目的があり、富士山信仰を絵画という形で説いたもの”であり、それは当曼荼羅図でも同様である。文献によると、この作品を伝来していた松栄寺(愛知県常滑市)の周辺で富士先達を勤めていた歴史があり、ここに伝来していたことには相関性がある。絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、当曼荼羅図では75人が描かれている。また以下のような説明がなされている。

白装束に身を包んだ富士山への参詣者である道者を画中に45人配置することで、道者が富士参詣する賑わった様子を表現している。またこの道者を導くかたちで頭襟を額に付けた山伏の人物図像が各所に配置されている点は、道者を案内する先達を意識した図像であっただろう。

とし、中世後期に作成された富士曼荼羅図の特徴を持つものであるとしている。


  • ルート

構成は絹本著色富士曼荼羅図と同様で清見ヶ関周辺が道者のスタート地点として設定されている。つまり当図は駿河国側を描いたものであり、もっと言えば「大宮-村山」(大宮:浅間大社のあるところ 村山:富士山興法寺等があるところ)を中心として描かれたものである。

清見ヶ関周辺(当図)

ルートは「富士本道」であり、「駿河国富士郡大宮と吉原の関係と富士山登山ルート」にある「岩本-高原/山本-黒田/田中-大宮」(黒字は確実)のルートである。例えば文政6年(1823)の紀行文に「東海道蒲原吉原の間、富士川東より左へ入、参詣道なり。大宮に凡二里斗、大宮に社人寺院も有」とあるのも、このルートである。

  • 時代背景
浅間大社が現在のような「浅間造」となったのは、江戸時代以降とされている。絹本著色富士曼荼羅図では浅間造が確認できず、一方「紙本彩色富士曼荼羅図」(静岡県立美術館蔵)では描かれており、前者は中世作で後者は近世作であるというように推定がなされてきた。

浅間造(「紙本彩色富士曼荼羅図」、静岡県立美術館蔵)

浅間造でない(絹本著色富士曼荼羅図)


富士浅間曼荼羅図(県指定)、浅間造でない

当図は浅間造が確認できず、上の法則に従うと中世期のものと推察される。

富士山本宮浅間大社(当図)
  • 絵解き
絹本著色富士曼荼羅図では全体で237人の人物が描かれているが、3名の女性が図示されている位置より上では女性が描かれず、女性が登拝できる限界点が示されていた。つまり「女人禁制」であるが、当図でも八幡堂前の3名より上では描かれず女人禁制が示されている。

3名の女性(絹本著色富士曼荼羅図)

3名の女性(当図)
当図上方に目を移すと柵の横で焚き火をしている様子が描かれ、その少し上でも小屋内にて火を燃やしている様子がある。絹本著色富士曼荼羅図では上方で松明に火を灯して登拝する様子が描かれており、夜間登山を示す構図となっている。

松明に火を灯し登拝する様子(絹本著色富士曼荼羅図)

焚き火や小屋の様子(当図)

また文献では復路として潤井川と凡夫川が合流する「龍巌淵」付近を描いているといい、龍巌淵での禊を描くために復路が描かれるに至ったと推察している。

富士山興法寺(当図)

村山から国へ戻る際、往路として通った浅間大社(大宮)ではなく直接この龍巌淵へ至ったとしている。

  • 参考文献
  1. 大高康正「富士山の参詣曼荼羅を絵解く 重要文化財指定本と新出松栄寺本」『聚美18号 富士山 ─信仰と美の象徴』,2016