2017年4月21日金曜日

中道往還と浅間大社そして大宮口登山道

中道往還は「甲府盆地と吉原宿を結ぶ街道」である。


中道往還は甲斐国から駿河国に入ると、そのまま真下に直行する。しかし富士山本宮浅間大社のある地点の西側でL字型に曲がり(桝形)、浅間大社前を通過し富士大宮の町を過ぎた後、斜め下に降り吉原宿に至る。これが駿河国側のルートである。ルートをみると桝形の部分が大変特徴的であることが分かる。これは駿河国側の中道往還の大きな特徴と言っても良い。

橙:中道往還ルート 青:登拝道(登山道)
  • 中道往還の位置づけ

『甲斐国志』に以下のような記述がある。
本州九筋ヨリ他州ヘ通ズル路九条アリ
本州(=甲斐国)から他国に行く道が9つあったという意味であり、それぞれ
①若彦路②中道往還③河内路④鎌倉街道⑤萩原口⑥雁坂口⑦穂坂路⑧諏訪口⑨大門嶺口
が該当するとされる。下線のものが駿河国へと繋がる街道である(④は御殿場へ至るのでここに含めた)。これが甲斐国から見た場合である。以下に街道のルートおよびその名称を載せる。

名称(+別名)経路
中道往還、右左口路甲府盆地-吉原
駿州往還、河内路、身延路甲府盆地-静岡市(富士市)
鎌倉街道、駿州東往還、御坂路甲府盆地-御殿場

実は九条(九の街道)ある中で現在の富士宮市にかかるものは①若彦路②中道往還③河内路と大変多く、如何に現在の富士宮市域が甲斐国と交通面で密接であったのかがこれだけでも十分読み取れる。戦国時代、武田氏はあるときは河内路を用いて、またあるときは中道往還を用いた。そのため、河内路沿いの地である松野(富士市)の領主「荻氏」は何度も武田氏と交戦している。16世紀中盤の領主は「荻慶徳」であったといい、甲斐の武田信虎軍と戦い討死している。次代は「荻清誉」であり、信虎の次代である武田信玄軍と戦いやはり討死している。これは「内房口の戦い」と呼ばれるもので、内房(現在の富士宮市)で討死している。そのため首塚は富士宮市内房尾崎の地にあるのであるが、もちろん内房も河内路に属する地である。

中道往還は起源が大変に古いとされ、3世紀頃には既に成立していたと見るものもある(甲斐国と駿河国で差異はある)。また源平合戦(治承・寿永の乱、最期は壇ノ浦の戦いにて平氏は滅亡)の1つである「鉢田の戦い」の際は若彦路が用いられた。

  • 遺跡と中道往還
仮に3世紀という古代の時代に拓かれていたとすると、遺跡群の分布を考えていく必要性がある。富士郡下では主要路沿いに古墳群が分布しており、5世紀末期頃に築かれたという「伊勢塚古墳」は根方街道と東海道の交差点にある他、5世紀から7世紀にかけてとされる東平遺跡を構成する富知六所浅間神社周辺の集落部分は、やはり根方街道と東海道の交差地点にある。8世紀頃になると伝法古墳群と東平遺跡一帯に集約させる姿を見せ、この一帯に機能が集中している。このように東平遺跡一帯が拠点であったが、9世紀になるともっと広い地点に機能を分散させる形で遺跡が分布されるようになる。10世紀代には浅間大社の地点で墨書土器が出土している他、近くには「泉遺跡」が確認されており、この辺りは中道往還沿いである。これらの事実は、意図を持って中道往還沿いに集落機能を持たせたと考えても良いように思える。富士郡庁と富士郡官舎は未だ発見されていないが、おそらく発掘地点はやはり街道沿いになるであろう。

  • 中世の中道往還
先程「浅間大社は中道往還沿いにある」と記しましたが、いよいよここから中道往還の経路に関わる部分について書いていきたい。まず浅間大社が位置した富士大宮において、交通面を中心として考えた際にまず浮かんでくるものは「六斎市」、そして「楽市令」である。

「富士大宮楽市令」の発給文書から、この神田の地で六斎市(月に六回市が開かれる)が行われていたことが分かり、またそれらが楽市化されたことが知られる。またそれに伴い神田橋関が廃止されたことも知られる。現在も神田橋が残るが、その辺りに神田橋関があったと推測され、ここを中道往還が通過していた。六斎市が行われていた事実から、中道往還の経済路としての位置づけを改めて確認することができる。

「楽市論」では以下の興味深い指摘をしており、傾聴すべきである。

実は私は、富士浅間神社の地図を見たとき、神社参道、神社から山宮への道、さらには富士山頂への道という「信仰の道」が、基本的に〈南北の道〉なのに、浅間神社の門前町、駿州中道往還の〈社会経済の道〉が〈東西の道〉で、両者が直交することに大変興味をもった。これは建築学の神代雄一郎が述べる「奥宮・神社・御旅所を結ぶ信仰の道と、紐状にならぶ人家を数珠つなぎにするように走る社会経済の道が直交する」の定式そのものだからである。(中略)神社が今の敷地内に営まれたのは、ここが四神相応の地だったからだろう。東の川〈青龍〉は湧玉池から流れ出す神田川である。西の大道〈白虎〉は駿州中道往還で、古くは甲州から立宿に来て、桝形からそのまま直進し潤井川に出て、黒田、山本、高原と中道往還を下ったと思われる。北の〈玄武〉の山は当然富士山で、南の〈朱雀〉は今の駐車場辺りや神田川の中洲などだろう。(中略)中世の富士大宮は門前町でもあり、宿場町でもあった。江戸時代の宿場町の多くに桝形が見られるが、すでに中世の富士大宮には結界性があった。

確かに、各地の社寺参詣曼荼羅図をみても、「東:川ないし滝、南・西:道 北:信仰山(神社を基準として)」という構成は多いように思える。浅間大社もそれらの例に外れることなく計画されたものであったと思われる。ここでいう「数珠」とは、以下のような意味である。

注:繋いだ場合であり、実際の路順ではない

"神社から山宮への道、さらには富士山頂への道という「信仰の道」が、基本的に〈南北の道〉"とあるのは、下の地図で「青:登拝道(登山道)」と示した部分を指す。これを氏は「道者たちの動線は駿州中道往還と一度も交差しない」という表現をしているが、確かに登拝道と中道往還は直接的にはクロスしていないし、異なる方向へと向かっている。例えば『富士の道の記』(「天保十四年癸卯八月」の後書あるため、それ(1843年)以前に記されたと言える、天保9年頃という)には以下のようにある。

大宮の駅 駿州富士郡に属す。此所は東海道の官駅吉原の宿より甲州にの往還にて、常に人馬の往来絶間なく、繁花なる市中也。且また身延山等にも是を行くもの有。(中略)富士山本宮浅間大明神の社 大宮の駅の左の方にあり。(中略)本宮東の方回廊の内より、富士登山の関門有。是なん大宮口と称す
とあり中道往還の説明をしつつ、社殿の東から登山道が始まることを説明している。これは丁度湧玉池の部分であり、中道往還と登山道を区別していることが分かる。

橙:中道往還ルート 青:登拝道(登山道)
説明中の「桝形からそのまま直進し潤井川に出て、黒田、山本、高原と…」の部分はいわゆる「富士本道」が該当すると思われ、実際は中道往還とは区別されることが多い。富士大宮は六斎市、または後の楽市が行われる商業地であったが、それは中道往還の存在があって成立するものであった。また明らかに浅間神社の門前を通す形となっており、社人町または商人・職人等が住まう雑色町を通過する形が確認できる。『楽市論』では神田橋が境界となっていたとしているが、桝形からなるこの通りが「商業」「信仰」といった上で重要地点であったことは間違いないと言える。

  • 参考文献
  1. 安野眞幸,『楽市論―初期信長の流通政策』,2009
  2. 藤村翔,「富士郡家関連遺跡群の成立と展開 富士市東平遺跡とその周辺」『静岡県考古学研究 45』, 53-66, 2014-03 
  3. 西川広平,「世界遺産富士山「巡礼路の特定」に関する作業報告,『山梨県立博物館研究紀要9』, 70-63, 2015
  4. 加藤浩徳・志摩 憲寿・中西航,「交通システムの発展と社会的要因との関係:山梨県を事例に」,『社会技術研究論文集8』,11-28, 2011
  5. 山梨県教育委員会,『若彦路』(山梨県歴史の道調査報告書第8集),1986

2017年3月1日水曜日

富士氏の上洛と富士と今川

今回は富士氏でも富士親時と富士信忠の間、ちょうど15世紀終盤から16世紀中盤にかけての富士氏について考えていきたい。まず15世紀の富士氏は、既に武力を用いて戦を重ねていたことで知られる。例えば駿河国に焦点を当てると、「永享の乱」(1438年)時の駿河国は今川家のお家騒動の最中であり、彦五郎(後の今川範忠)支持派と千代秋丸支持派とで真っ二つとなっていた。富士氏は千代秋丸支持派に回り、彦五郎を推す室町幕府と対立した。これらの過程は『満済准后日記』に見え、明らかに武力を用いていることが分かる。

下って「享徳の乱」時には享徳四年(1455)「上杉持朝書状」「醍醐寺文書」等から室町幕府側として戦に参加していることが確認でき、宛より富士忠時が家督であったことが確認できる(→享徳の乱と富士氏)。しかし忠時と父「兵部少輔入道祐本」との確執が生じるとお家騒動まで発展し、寛正年間は混乱期となった。幕府の介入等の結果、文正元年(1466)の「足利義政御内書」で富士親時の富士大宮司職就任が確認できる。まとめると、15世紀前半で既に武家様の動向が確認でき、またお家騒動もこのとき生じた。15世紀後半は富士忠時に変わり富士親時が家督の時代に入った、という流れである。


15世紀の動向を大まかに振り返ってみたが、実はこの15世紀終盤から16世紀中盤までの富士氏に関する記録が急に制限されている節がある。系図上は「親時-信盛-信忠」であるが、親時と信忠の間の記録が少ないのである。より後世であるのに記録が少ないことには違和感を覚える。15世紀終盤の親時の動向として、明応2年(1493年)作成の十一面観音像に「檀那富士大宮司親時」という銘が残り、檀那として作成に関わったことが分かる。また明応6年(1497年)に「富士浅間宮物忌令」を出している。この前年の記録として、本名が見えない形で富士氏の人物が見えるものがある。「富士中務大輔」である。


明応5年(1496)の文書であり、足利将軍家の足利義澄が「富士氏」及び「葛山氏」に対して申し付けをするものである。内容は新将軍就任に対する「御代始御礼」が無沙汰であると非難した上で、上洛して釈明することを命じている。また合わせて、上洛が遅れれば所領に対する御成敗(所領没収)があるだろう、とも言っている。

この文書から読み取れることに、富士氏が必ずしも幕府に従わないことから独自性・独立性を模索していたと考えられる。葛山氏に向けたものでもあるため葛山氏との共通点を考えていかなければならないが、葛山氏も独立性を模索していたのであり、またそれ故に中央(室町幕府)との距離を置いていたと考えられる。これらについて『室町幕府の東国政策』では以下のような見解を示している。

明応年間の政治的動向をみると、明応2年(1493)、京都における明応の政変に加担して足利義澄の異母弟堀越公方足利茶々丸をねらい伊豆国に襲撃した伊勢宗瑞(北条早雲)は、なおも生き延びた足利茶々丸との抗争を明応7年まで繰り広げていたことが知られる。(中略)つまり室町幕府奉行人奉書が葛山氏へ発給されたこの明応5年という年は、伊勢宗瑞らにとって軍事的緊張がもっとも高まった時期だったのである。そして伊勢宗瑞らの一連の行動は、異母弟足利茶々丸によって自身の実母円満院と同母弟潤童子を殺害された将軍足利義澄の支持を得ていた可能性が高い。それゆえ明応5年の将軍足利義澄による葛山氏への室町幕府奉書の発給は、伊勢宗瑞らとは若干の距離をおく葛山氏に対して将軍みずから政治的圧力を加えるとともに、言外に伊勢・今川両氏への協力を葛山氏に要請するものであった可能性が考えられるのである

これを富士氏で置き換えて考えた時、おそらく富士氏は政治的自立性の維持に努めていたのであろう。ここでいう「政治」とは浅間社内に関することであり、また富士大宮司の後継の選択等が考えられ、これらへの介入を拒んでいたのではないか。葛山氏の場合もう少し形が異なり、同氏は駿河郡・御厨地域および富士郡の一部にも支配領域を持っており、これら地域下における権利保持がまず第一に考えられる。また葛山氏は交通路の掌握にも長けており、これらへの介入も望ましくないと考えていたのであろう。それが「距離を置く」という形になって現れていたと考えられる。

この期間の空白は、その心理が背景にあったと考えたい。ただ戦国時代も過熱を迎え、次第に今川陣営に取り込まれている様子が見て取れる。例えば『勝山記』の大永元年(1521年)の記録に「富士勢負玉フ」とあり、武田氏当主武田信虎との戦で富士氏が出陣している事が分かる。このとき今川氏と武田氏は一進一退の攻防を繰り返しており、そこで富士氏の関与が見出だせるということは、おそらくこのときには今川氏陣営であったのだろう。


「中務(大輔)」を官途名とする富士氏は、他に『塵塚物語』に見出すことができる。『塵塚物語』は史実性に欠け疑問が残る記録ではあるが、存在しない人物を取り上げているかと言われればそうでもなく、室町時代の人物が中心となり物語を賑わせる構図となっている。『塵塚物語 二』の「鹿園院殿の別荘 三重の金閣と埋木の流話」に以下のような記録がある(参考文献の現代語訳より)。

去る中秋、ある武家の会合の席で、この金閣の話が出て、座の者一同が耳をかたむけ、しきりに関心しているところへ、奥から、富士の神職で、大宮に住む中務という者が走り出て、一同を見下げ「だいたい都の人々は、都以外をよくご存知の方が少ない。そのために、その一枚の天井板をおひとりおひとりが素晴らしいなどと言われるのである。富士山の埋木というものには、その板の倍の大きさの木がたくさんある。まず、私の家に二間の杉障子がある。それは一枚板である。うたがわれる方は私と一緒においでになれば、お目にかけましょう」と、小声で語ったところ一座の人々は手を叩いて関心し、そのほかの話はしなくなってしまった。

というものである。「富士の神職」「大宮」ということから富士氏を指していることは間違いないが、実際にこのようなやりとりがあったかは不明である。しかし上の文書によると将軍足利義澄により上洛を強く促されているのであり、京都に富士氏が居ることは全くおかしなことではない。少なくともここに「中務」と出てくることは決して偶然ではなく、やはりこれが記された当時「中務(大輔)」を官途名とする人物が富士氏の中心に居たのである。当時富士氏の存在は中央まで届いていたことは明白であるし、それがこのような説話に登場する背景となっていたのである。私見としては、金閣寺に出向いているか否かは別として、富士氏はその後上洛したのだと考えている。

  • 参考文献
  1. 杉山一弥,『室町幕府の東国政策』,思文閣出版,2014
  2. 鈴木昭一訳,『塵塚物語』(原本現代訳〈63〉),教育社,1980
  3. 『静岡県史 資料編7 中世三』P83