2011年7月21日木曜日

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不二の高嶺に雪は降りける

著名な富士山の和歌として、山部赤人の以下の歌が知られる(万葉集三)。

山部宿祢赤人望不尽山歌一首 并短歌

天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎
天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利
時自久曽 雪者落家留 語告 言継将往 不尽能高嶺者

田兒之浦従打出而見者真白衣不尽能高嶺尓雪波零家留

万葉仮名のものはこれであり、それを読み下したものが以下のものである。

まず「富士山を望みし歌」一首の内容を以下に示す。


「富士山を望みし歌」一首の内容意味
天地の分かれし時ゆ天地の分かれた太古の昔から神々しくて高く貴い
渡る日の影も空行く日も光も山に隠れ照る月の光もみえない
時じくそ雪は降りける季節に関わらず雪は降っている

以下にその反歌とその訳を示す。


反歌
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける
訳:田子の浦越しに打ち出てみると真っ白に富士の高嶺に雪がふっていることだ

「時じくそ雪は降りける」は「≒季節外れの雪」という解釈もでき、冬の歌ではないと考えられる。この反歌のみ取り上げられることも多いが、本来この「一首」と「反歌」はセットであるので、並べて考えられるべきである。

また時代は大きく下り、『新古今和歌集』には以下の形で集録されている。

田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

注意しなければならないのは、一般に上の歌を紹介する際「…雪は降りつつ/山部赤人」と山部赤人の名をクレジットさせているが、山部赤人自身はそのようには詠んでいないという事実である


『万葉集』『新古今和歌集』
田子の浦田子の浦
真白にそ白妙の
雪は降りける雪は降りつつ

この点について『新 日本古典文学大系1 萬葉集一』は以下のように説明している。

新古今集に「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(冬・山部赤人)。(中略)これは選者の改作ではなく、平安時代の万葉集の訓読の1つであろう

とある。平安時代には万葉集の原歌では意味が通らず、その時代の言葉に合わせたという解釈である。しかし我々がこの歌を捉える時、まず「『新古今集』のものは赤人の言葉ではない」ということはとりあえず把握しておくべきであろう。『万葉集』の方が圧倒的に古いため、この2例を紹介する際に『新古今集』のものを『万葉集』より先に挙げるのは違和感を感じるということである。また2例のうち『百人一首』は後世の『新古今集』の方から採って集録している

ここで出てくる「田子の浦」は、現在の富士市の田子の浦とは異なるというのが定説である(この部分については「田子浦と吉原湊その地理と歴史」にて取り上げたので御参照下さい)。「田子の浦ゆ うち出でてみれば」の部分は、薩埵峠を越えた際に目に飛び込んできた富士山の情景を表現したものであると推察されている。

中谷顧山『富嶽之記』(江戸時代)には以下のようにある。

7月2日、鞠子の宿を出て、駿府浅間の社に参る。(中略)蒲原を過て、富士川の急流を越、東堤より本街道を離れ、北の方十五町、岩本村に至り、…

「鞠子宿」は現在の静岡県駿河区丸子に存在した東海道五十三次の宿である。そこから駿府の浅間神社に至るのだが、記録ではその後田子の浦へ出たとある(青柳周一,「観光地化する江戸の富士山を知る 近世の富士登山旅行-上方の旅人の事例から-」『富士を知る』を参照)。そして以下のようにそれを記している。

「富士の雪峯に残るを見れば、赤人の歌おもひ出て風景かぎりなし」

そしてその後に蒲原に至っていることを考えると、蒲原の手前のエリアを指して「田子の浦」と言っているということになる

しかし中世には富士川の東側を指して「田子の浦」とする例もみられることも事実である。13世紀成立という『東関紀行』は東海道西からの旅路を示すが

清見関→蒲原→田子浦→浮島が原

と移動しており、蒲原より東側を田子の浦としている。また同じく13世紀成立という『十六夜日記』は

清見関→清見潟→富士川→田子の浦

としている。江戸時代作成の『駿府風土記』を見る。

『駿府風土記』より

田子ノウラ」とあるのがそれである。つまり古来はおそらく西側を中心として広大な範囲を「田子浦」と称していたが、中世のいつからか富士川の東側を指すようになったと言える。そして近世にはほぼ統一されてきたと言える。しかし近世でもより広域を指して「田子の浦」とする例もあり、それは他国の人といった知見のあまりない人々による認識から由来するのではないだろうか。

「田子の浦」という語が用いられる短歌は多くある。以下『紹巴富士見道記』より。
快く夜雨晴て、富士の南に朝日も伊豆三島の北、雲の足高山浮島原より此方、田子の浦を数へられて詠やりぬ。

これは清見寺付近からの眺めとされている。また幻阿『宇良富士の紀行』には以下のようにある。

湖にさしおほへる富士の山の峯は、雪真白に、半より下は草山木山青みわたれるこそ目ざましけれ。かの田子の浦清見潟の海をへだて原よしはらは足高山宝永山のさはりあるに今この湖の汀にうち出でて見れば…

多くで指摘されているように、おそらく古来は由比・蒲原一帯の海沿いそのものを指して「田子の浦」と称していたのではないだろうか。

「富士清見寺図」(16世紀)/清見寺は古くから富士山と共に描かれることが多い

また山部赤人の歌には重要なポイントがあり、「田子の浦」とある事実である。この「ゆ」とは「通って」という意味であり、そのため訳は「田子の浦越しに」とか「田子の浦を通って」といった表現となるのである。

これらを総括していうと、まず「田子の浦」とあるから田子の浦で詠んだということにはならないということである(当たり前だが)。そして「田子の浦」とあるから「富士市の田子の浦を指す」となるわけでもない。この2つを考えると、やはり山部赤人の歌の場合で言えば、蒲原・由井付近で詠われたと考えるのが自然である。


このような情景を浮かばせるものである。

  • 参考文献 
  1. 小山真人,『富士を知る』P110,集英社,2002年 
  2. 『静岡県史跡名勝誌』P93,羽衣出版,1992年
  3. 『中世日記紀行文学全評釈集成 第七巻』P48-55,勉誠出版,2004

0 件のコメント:

コメントを投稿