2011年7月8日金曜日

江戸駿河町と富士山

今回は日本橋界隈の「駿河町」(旧名、日本橋室町、東京都中央区)について取り上げたいと思います。なぜ駿河町かというと、駿河町は富士山とセットで描かれることが多く、「江戸と富士山」といったらまずでてくるのが「駿河町」であるからである。

ここで少し駿河と江戸の関係について載せてみたいと思う。

参考:家康公を学ぶ

  • 駿府銀座と江戸銀座
駿府銀座の由来は慶長13年(1608)に徳川家康が京都伏見の銀座を駿府に移したことにはじまるという。その駿府銀座が慶長17年(1612)に江戸に移されることになったそれが現在の銀座であるという。町の区切りなども駿府銀座を参考にしたという。
  • 金座
駿河には小判を鋳造する金座があった。駿河にある、秤を使って駿河小判を鋳造していた場所が現在の日本銀行静岡支店の場所という。その金座は慶長17年(1612)に江戸に移された。江戸金座があった場所が現在の日銀本店の場所という。

紫のエリアが静岡市金座町
そして本題の駿河町についてです。これもHPを参考に冒頭は説明します。

この駿河町の由来をまとめると「駿河町は駿河の者によって開かれた町なので、駿府の七間町から見た城と富士山の景色を江戸に再現するためや懐かしみから駿河町とした」という感じになります。
駿河の人によって開かれたというのはなかなか信ぴょう性があると思います。そういうことは結構あったりするものです。これはもっともっと後の時代の話かもしれないが、現在の静岡市中心部(や富士宮市中心部)の人は甲斐国から移り住んだ人が多いという説がある。甲斐国の人々は商売上手であり、成功者が移り住んだという説だ。のんびりした駿河国にはないセンスを持ち合わせたのではないかと思う。富士宮も昔は商都であったので、多くの人が行き交っていたと考えられる。

  • 絵画
駿河町を描いた絵として、有名な歌川広重の『名所江戸百景』「するがてふ」という浮世絵がある。
『名所江戸百景』「するがてふ」

あと、この有名な絵も駿河町である。
「朝鮮通信使来朝図」

またこちらも有名だ。三井越後屋のマークが見て取れるが、現在でいう「三越」である。
「江都駿河町三井見世略図」
江戸の人たちが富士を特別に想っていたのではないかと推測される。

今年は日本橋100周年らしく、イベントを多くやるそうである。金座・銀座含め、こういう部分も注目してもらえたらいいなと思う。

  • 参考文献
久保田淳,『富士山 信仰と芸術の源』P216-229,小学館,2009年

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