2011年7月31日日曜日

富士山を巡る静岡vs山梨という幻想

以下に、富士山問題の実際についてなるべく分かりやすく解説をしたいと思います。

  • 静岡(駿河)vs山梨(甲斐)ではない
よく「山梨県と静岡県は富士山を巡り争っていた」と言われることがある。しかしこの表現は歴史的経緯を見れば全く誤りと言うことが分かります。

山梨県と静岡県間で争っていたのではなく、「吉田」(甲斐国)と「河口(川口)」(甲斐国)などが争っていたように、また「大宮」(駿河国)と「村山」(駿河国)が争っていたことがあったように、歴史の中で「(登山口を有する)環富士山地域で利権を巡り争っていた」のである。なので「山梨県と静岡県間で争っていた」という表現は切り取りにしか過ぎないのである。

一例として「武田信虎の富士登山 -大永二年の登頂をめぐって-」から引用しようと思う。

川口の御師たちも舟津から吉田口登山道に向かうルートを道者に推奨していたようである。(中略)また文化7年(1810)の川口・吉田の山役銭をめぐる論争において、山内字鈴原より、五合目中宮迄は川口村にて道者仕來と川口は主張し、幕府はその事実を認定している。一方吉田の言い分は、北口登山之もの、上吉田村切手無之、参拝は不致筈之處、(中略)という認識であり、そもそも舟津から小御岳への舟津口登山道を認めていない

川口と吉田の著しいとも言える認識の違いが垣間見えます。これは同じ甲斐国の「川口」と「吉田」間の論争であるが、これらの事例は他にも多く確認されているのである。なので駿河と甲斐が争っていたという表現は、全くもっておかしなものと言える。そしてその環富士山地域の中で徳川幕府から庇護を受けた大宮が最終的に優位となったというだけの話である。個人的にはその自然の成り行きによって出来た土地認識の部分が適当であり、それに任せたいと思っている。「川口」と「吉田」とで論争していたように、「大宮」と「吉田」間の論争も事実としてあります(『浅間神社の歴史』古今書院版 P487-488)

  • 浅間大社への抗議はこれら利権争いの延長線
これら環富士山地域による過去の争いの延長線が「昭和」という時代に(なぜか)起きたのが、「浅間大社への抗議」であると言えます。ではなぜ昭和に起きたのかというと、多くの神社の中でも浅間大社の土地のみ無償で引き渡されなかったという、いわば「事務的なミス(といっていい)」が明治時代に起こり、それの最終整理が昭和に行われたためです。抗議の裏には「あわよくば利権を崩せるかもしれない」という考えがあったのだと思います。それは江戸時代などとは異にする、もっと悪質な意図があると見たほうが良いです。

1953(昭和28)年2月5日のことだ。東京都内で富士山の形をしたみこしを担いでいるのは山梨県の人たち。実はこれ、明治時代に国有地とされた富士山頂の一部を、静岡県の富士山本宮浅間大社に譲与するとした決定への抗議だ。(富士山頂の所有めぐり抗議 産経新聞)

これを見て私は、山梨県全域というわけではなくてあくまでも「環富士山地域の1つ」である「吉田」による動きではないかと推測していました。どうも山梨県全体の抗議とは思えなかったのです。そして調べてみました。

1953年抗議当時

現在の富士吉田市のお祭り

上の写真と下の写真の神輿は同じものです。そして下の写真は「吉田の火祭り」で用いられるものなので、つまりは1953年の抗議の人たちは吉田の人たちが中心ということになります。ですから静岡vs山梨とかではなく、環富士山地域の利権争いの一幕ということなのです。問題は、昭和という時代に果たしてそれをする意味があるのかということなのです。文明的な行いでは無いように私は思います。

  • 幻想

富士山に関する争いは他に「富士山の大宮・須走・吉田の争いと元禄と安永の争論」にて取り上げています。また「裏富士」という言葉ですが、葛飾北斎や歌川広重らの作品名にも採用されている歴史用語です(『冨嶽三十六景』『富嶽百景』『不二三十六景』等)。別に静岡県の人が作った名称ではありません。

「静岡と山梨は互いに昔から富士山を巡り争っていた」とか「静岡県が一方的に裏富士と言っている」など、これらはすべて幻想です。もし本当に富士山に関心があるのなら、歴史的な考え方をしたほうが賢明かと思います。そういう人が増えることを願って已みません。

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