富士山本宮浅間大社の建築として注目される箇所に、「蟇股(かえるまた)」がある。「浅間造」の二階の部分の蟇股には複数の「家紋」が見られるのである。今回はその部分について迫って行きたい。
- 史料に見る家紋の記録
中谷顧山『富嶽之記』(1733年)に「本殿二重閣、彩食彫物等美盡し、菊葵の紋あり」という記述がある。つまり少なくとも18世紀前半には「菊花紋」と「葵紋」の彫刻が本殿にあったということになる。
『浅間神社の歴史』ではこれを「富士氏の家紋と間違えたのではないか」という見解を示しているが、実はそうではない。本殿はかなり高い位置にあり、また蟇股という細かな部分になるので見逃しがあったのだろう。
- 菊花紋と葵紋が並列する蟇股
非常に興味深いのであるが、正面蟇股という重要な部分に「菊花紋」と「葵紋」が並んでいる(※かなり撮影の難しい箇所であるため画像が粗いですがご了承下さい)。
右が菊花紋で左が葵紋である。
十六菊 |
徳川葵 |
建部(1998)は
身舎の蟇股でまず目を惹くのは正面中央の蟇股で、脚の内部に菊の紋と葵の紋が二つ並んでいる。衆知のように、菊の紋は天皇家の紋であり、葵の紋は徳川家の家紋である。当然のことながら、正面中央というのは一番重要な場所であり、徳川家康が幕府直轄の仕事として浅間大社の造営をしたとすれば、正面に葵の紋をもってくるのは当然と考えられる。しかし、何故家紋の並列した題材を彫ったのか、という疑問が残る。管見の限りでは、2つの家紋、しかも菊の紋と並べた蟇股というのは残念ながら知らない。これも富士山本宮浅間大社の特徴の一つとしてみてよいだろう。
とあり、建部氏の述べることはもっともである。
本殿の西側の蟇股には「葵紋」が単独で見られる。富士山本宮浅間大社が徳川家と関係が深いことは知られているが、これはその一端であろう。
建部(1998)は
としている。西側が登山道となったのは比較的新しいので、建部氏のこの箇所の論考には同調できないが、葵紋があることは必然と言えよう。
東側は「菊花紋」と「桐紋」が並列する蟇股である。
建部(1998)は
としている。まだ豊臣氏が滅ぼされていなかった時代であるので、一定の配慮を持ったという見解を示している。
直接的には浅間大社の建築物に富士山は描かれていないと思っていたが、背面中央の部分に富士山が装飾されている。これもまた浅間大社特有であると言えるだろう。
特別な建築(浅間造)であるが故に、目に見えないところにこういうものが隠れていたのである。
建部(1998)は
としている。
徳川家は富士山を特別視していたことは間違いない。松島仁「富士山学を拓く」(『静岡県富士山世界遺産センター News Letter-Vol.34』)によると、江戸城本丸中奥休息の間のうち、上段の床間には三保の松原や清見寺をともなった富士山が描かれているという。松島氏は
としている。そしてここに絵画の「政治的側面」や「思想面」を見出だせるとしている。この蟇股に描かれる富士山にも同様のものを感じるのである。
- 葵紋のみの蟇股
本殿の西側の蟇股には「葵紋」が単独で見られる。富士山本宮浅間大社が徳川家と関係が深いことは知られているが、これはその一端であろう。
建部(1998)は
上層身舎の西側面、北側の柱間にとりつけた蟇股は、中央に葵の紋を配しその周りを唐草で囲んだ彫刻が施されている。浅間大社の西側には、現在もそうであるが、富士山への登山道があった。つまり、登山に先だってまず神前で参拝した人々は、西側の登山道からも浅間大社の本殿を見ることができたのである。
としている。西側が登山道となったのは比較的新しいので、建部氏のこの箇所の論考には同調できないが、葵紋があることは必然と言えよう。
- 菊花紋と桐紋が並列する蟇股
東側は「菊花紋」と「桐紋」が並列する蟇股である。
建部(1998)は
それでは何故、「関ヶ原の合戦に大勝した徳川家康が造営に着手したと伝えられる」浅間大社の本殿に、豊臣家の家紋を題材にした蟇股が取り付けられているのだろうか。(中略)慶長11年(1606)より少し前に造営された浅間大社本殿の蟇股に、豊臣家を象徴する五三の桐の紋が取り付けられていたわけであるが、ここでその頃の時代背景を少し考えてみたい。(中略)したがって、慶長11年に浅間大社の社殿が造営された時には、まだ豊臣氏は滅びていなかったことになる。
としている。まだ豊臣氏が滅ぼされていなかった時代であるので、一定の配慮を持ったという見解を示している。
- 蟇股の富士山
直接的には浅間大社の建築物に富士山は描かれていないと思っていたが、背面中央の部分に富士山が装飾されている。これもまた浅間大社特有であると言えるだろう。
特別な建築(浅間造)であるが故に、目に見えないところにこういうものが隠れていたのである。
建部(1998)は
背面の中央に取り付けられた蟇股の脚内には、富士山が描かれている。蟇股の題材として富士山が描かれているものは、ここ浅間大社だけであり、他に例がないと思われる。
としている。
- まとめ
徳川家は富士山を特別視していたことは間違いない。松島仁「富士山学を拓く」(『静岡県富士山世界遺産センター News Letter-Vol.34』)によると、江戸城本丸中奥休息の間のうち、上段の床間には三保の松原や清見寺をともなった富士山が描かれているという。松島氏は
将軍の身体と一体化することにより「御威光」を生み出す文化装置。それこそが江戸城内に描かれた富士山でした
としている。そしてここに絵画の「政治的側面」や「思想面」を見出だせるとしている。この蟇股に描かれる富士山にも同様のものを感じるのである。
- 参考文献
- 建部恭宣「浅間大社本殿の建築形式」『東海支部研究報告集 36』,1998
- 官幣大社浅間神社社務所編,『浅間神社史料』P147(1974年版),名著出版
- 宮地直一『浅間神社の歴史』(1973年版)P305,名著出版
- 松島仁「富士山学を拓く」『静岡県富士山世界遺産センター News Letter-Vol.34』,2017
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