2017年7月18日火曜日

田子浦と吉原湊その地理と歴史

まず「吉原湊」は現在の田子の浦港を指す。吉原湊の初見は不明であるが、矢部氏宛の文書の内容が大変よく知られている(詳しくは「駿河国吉原の吉原湊と道者問屋」を参照)。矢部氏は①吉原道者商人問屋②吉原渡船③立物に関わる有力者であり、吉原湊を経済的地盤にしていた。駿河国の地が徳川氏のものとなると、今度は徳川家康の各家臣が矢部氏にそれぞれ知行を与えている。例えば天正11年の牧野康成(長久保城城主)および松平康次(三枚橋城城主)から矢部清三郎宛の文書が残るが、それぞれ「吉原湊渡舟破損修理之事」「吉原湊渡舟修理依」とあり、徳川氏になっても吉原湊で矢部氏が経済活動をしていたということが伺える。

  • 田子浦は何処を指すのか?
言わずもがなかもしれませんが、昔からある議論である。田子浦は『万葉集』に「田兒之浦」とあるそれが知られ、次いで正史の記録である『続日本紀』に「廬原郡多胡浦浜」とあることでもよく知られる。この古記録からまず

この時代の田子浦が庵原郡にある、または少なくとも庵原郡にはかかる

という理解が生じます。単純に考えれば『万葉集』でいうところの「田兒之浦」も庵原郡(いはらぐん)を指すと推察できる。

『続日本紀』で多胡浦(田子浦)の所在地として見える庵原 ※廬原郡=庵原郡

「今川政権の金山開発と黄金運用について」では以下の解釈を示している。

駿河国において初めて黄金を産出したのは、続日本紀に天平勝宝2年(750)3月10日に廬原郡多胡浦浜に於いて黄金を得たという記事があり、これは富士郡麓村の金山から富士川に流れ出した砂金を得たことによるもので、以後、黄金の採掘は川床の砂金や河岸段丘に堆積した砂金などを中心に行われてきた

とある。「富士郡麓村の金山」とは「富士金山」のことであるが、まず富士金山の麓には富士川は流れていない。また仮に流域にかかるとしても砂金がそこまで下ることは考えづらい。庵原郡多胡浦浜で金が採掘されたのは別の理由であろう。

また『平家物語』にも「田子ノ浦」は「多胡浦」として出てくる。流れは以下のようなものである(『延慶本』より)

祇園精舎乃鐘ノ聲、諸行無常ノ響アリ。娑羅雙樹ノ花乃色、 盛者必衰ノ理ヲアラハス。(中略)昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為二、宇治民部卿忠文奥州ヘ下リケル時、此関二留リテ、唐歌ヲ詠ケルトコロニコソト、哀レニオホヘテ、多胡浦ニテ富士ノ高根ヲ見給ヘリ。時シラヌ雪ナレトモ、皆白妙ニミヘ亘テ、浮島原ニモ至リヌ。

「時シラヌ雪ナレドモ」は、『伊勢物語』の在原業平の歌で、『新古今和歌集』にも収録される以下の歌から由来する表現と考えられる。

時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ

ここから「時しらぬ山→時しらぬ雪」と転じていると考えられる。「多胡浦」が出て来る部分は、『平家物語』第六である。内容は源義経が、捕えた平家方を連れて都から鎌倉に下向するという内容である。その過程で捕えられている平宗盛が故事を偲ぶという流れである。

平宗盛
昔、朱雀院御宇、将門追討ノ為二、宇治民部卿忠文奥州ヘ下リケル時」とあるのは、十世紀の頃に藤原忠文が平将門討伐のため奥州へ下る際、清見関で唐歌を歌ったということを記している(宗盛の想起にて)。それを想起しながら、田子浦にて富士山を眺めるという流れである。その後に「浮島原ニモ至リヌ」とあることから、まず平家物語中で言う「田子浦」は、清見関以降且つ浮島原よりも手前であると言うことができる。文の流れからすると、清見関を過ぎた箇所から田子浦としているようにも捉えられる。ただ正確には不明である。他、『東関紀行』を見ていきたい。


記録表記場所
『万葉集』田兒之浦不明
『続日本紀』多胡浦浜庵原郡
『平家物語』多胡浦清見関-浮島原の間

清見が関も過ぎ憂くて、しばしやすらへば(中略)昔、朱雀天皇の御時、将門というふ者、東にて謀反起こしたりけり、これを平らげんんために、民部卿忠文を遣はしける。この関に至りて留まりけるが…(中略)この関遠からぬほどに、興津という浦あり。海に向かひたる家に宿りて侍れば、磯辺に寄する波の音も身の上にかかるやうにおぼえて夜もすばら寝ねられず。(中略)蒲原という宿の前をうち通るほどに、後れたる者待ちつけんとて、ある家に入りたるに(中略)田子の浦にうち出でて、富士の高嶺を見れば、時分かぬ雪なれども、なべていまだ白妙にはあらず。(中略)浮島が原は、いづくよりもまさりて見ゆ…。

清見関→蒲原宿→田子浦→浮島が原と通過していることが分かる。ここで「田子の浦にうち出でて」とあり『万葉集』との類似点・一致点を見出すことは確かにできるが、区別が必要であることも事実であろう。『万葉集』では「田兒之浦従」とあり「従→ゆ」は「通って」という意味であるので、「田子の浦を通って見えた風景」を指して言っているのである。しかし当紀行文はおそらく単純に「田子の浦」に到着した様子を記しているのである。『万葉集』の場合過ぎた地点を指している可能性があるので、意図に差異があると言える。『東関紀行』では蒲原以降且つ浮島原より手間の箇所を指して「田子浦」と言っているということが確認できる。これは『平家物語』とほぼ同様である。この記録でも庵原郡の箇所を指すのか、富士郡を指すのか、またそれを跨るのかははっきりしていない。蒲原宿の位置から幾らか至らないと富士郡には入らないし、『続日本紀』といった記録を考慮すると、この時代の「田子浦」も庵原郡を含めて呼称していたと考えた方が良さそうである。古態を示すとされる『延慶本平家物語』の成立年等も考慮する必要性がある。

しかしその後駿河国富士郡の地を指して「田子浦」と名乗る例が史料上出てくるようになり、両者異にする地であることから、混乱を生じさせている。近世以降の資料を見るに、少なくとも近世は富士郡の箇所を指していると考えて良いと思われるのである。

『駿府風土記』(江戸時代)


『駿府風土記』では岩淵のより東側を指して「田子ノウラ」としており、ここは富士郡の領域である。また下図でも「川成」(「富士市の島地名と水害そして浅間神社」を参照)の付近を指して「田子浦」とあるのであって、やはり富士郡である。以上のように古記録では庵原郡を「田子浦」とする記録が確認でき、中世は清見関-浮島原の間を指す傾向が確認でき、より後世では富士郡に限局するという流れが見えるのである。そして明治期の町村制施行の際に「田子浦村」(後の富士市)が誕生する。ただ「田子浦村」は中世・近世には見られない村名であると思われる。村名というのは、度々変更されることもあった。例えば富士市立博物館,『六所家総合調査だより 第11号』には以下のようにある。

一方、東泉院や旧善徳寺を含む広大な地域は、近世には村高三千石を越える善徳寺村という近世村落の村域であった。この村は、寛文二年(一六六二)に今泉村と改称されるが、「善徳寺」というのは、村名でもあった。

また「綱吉期孝子表彰と富士郡今泉村中村五郎右衛門の年貢永代朱印状」には以下のようにある。

今泉村は慶長4年(1599)には「瀬古村」と呼ばれていたことが残されている検地帳からわかり、その後「善徳寺村」と呼ばれ、寛文2年(1662)には「今泉村」と改称されている。

そこで「田子浦村」の存在を考えるに、時代別に調べを進めてみるも町村制施行までその村名は見出だせない。ここに「この地が古来から田子浦と呼ばれていた」という誤解を生じさせる要因があるように思われる。ただ『続日本紀』『平家物語』の記録に鑑みるに、この地(現在の田子浦港付近)と山部赤人の歌とを安易に直接的に結びつけることは望ましくないと考える。それ故に「田子浦は何処を指すのか」という議論が今日も生じているのだと言えるのであるが、当ブログもそれに追従しもう少し踏み込みたい。中世の『東関紀行』等の記録をみても庵原郡の領域を指すのか富士郡の領域を指すのか、はたまた跨るのかははっきりしないが、古記録で『庵原郡多胡浦浜』とあるので、中世の記録も庵原郡の領域を含める形で呼称していたと考えたい。『平家物語』では平将門討伐といった故事を持ち出しているのであり、これらは当時記録が存在しているので引用できるのであって、地理的側面も『続日本紀』といった古記録に沿っていると考えるのが大変自然である。また「吉原湊」との関係性も気になる所である。

  • 田子浦は「何」を指すのか?
「田子浦は何を指すのか?」といったとき、「浜」を指すのである。なので歴史的史料にて「吉原湊(みなと)」はあっても「田子浦湊」が無いのである。後世の町村制施行で「田子浦村」が誕生したがために「田子浦港」という名称になっているが、本来は「吉原港」といったほうが歴史的性質からはしっくりと来るのである。例えば『駿府風土記』で大変に内陸を指して「田子ノウラ」とあることに違和感を覚えたが、これは「浜」を意識してのことと考えられる。江戸幕府将軍「徳川家茂」は文久3年(1863)に上洛を試みるが、この際東海道を用いた。そのため原宿・吉原宿も用いているが、その様子を記したという『昭徳院殿御上洛日次記』で家茂は「足高山手前海岸田子之浦辺」を巡覧したという。ここでいう「海岸田子之浦辺」という表現も「海岸」とあるのであり、海自体は指していないのである。(大高康正「将軍徳川家茂の上洛と東泉院」を参考)。


中世の記録を見るに、戦国大名の発給文書等で「田子浦」を用いている例が見られない。管見の限り確認できていない。これは何を意味するのであろうか。おそらく中世でも戦国期に「田子浦」はそもそも多用される用語では無かったのであろう。支配領域の細分化・偏移で蒲原以降から浮島原の間(のどこか)という広範囲を指す曖昧な用語が受け入れられて来なかったのだと思われる。それ故に故事の引用や想起から由来し、紀行文等で稀に「田子浦」という用語が用いられることがあるに留まると推察される。『続日本紀』に「多胡浦浜」とあり、後世でも「浜」と「湊」を区別していたと考えると、水運関係に富む矢部氏文書であっても「田子浦」が出てこないことも理解できる。上の『駿府風土記』等でややランダム性を持つ形で図示される例が見られるが、各図でも異にする地を「田子浦」としており、最後まで明確な場所は定まっていなかったと考えられる。

  • 参考文献
  1. 高山利弘・久保勇・原田敦史編,『校訂延慶本平家物語 11』,汲古書院,2009
  2. 東島誠,「租税公共観の前提――勧進の脱呪術化」『公共圏の歴史的創造 江湖の思想へ』東京大学出版会,2000年 
  3. 阿部浩一,「戦国期東国の問屋と水陸交通」『戦国期の徳政と地域社会』吉川弘文館 ,2001年 
  4. 原田千尋,今川政権の金山開発と黄金運用について : 『真珠庵文書』を中心に読む,『静岡県地域史研究 (3)』,2013年