2011年5月26日木曜日

吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講

今回は山梨県の「北口本宮冨士浅間神社」についてです。テーマは「富士講による神社の変移」です。江戸時代に「富士講」という富士信仰の1種が流行しました。富士講信者は主に吉田口を利用したため、その吉田口の起点にあたる北口本宮冨士浅間神社は大いに繁栄することとなりました。吉田口は富士講の本道だったわけです。ですから「富士講が神社にどのような影響を与えたのか」というところが重要となってきます。

『富士山明細図』
  • 歴史的には浅間神社ではなく諏訪神社である
まず北口本宮浅間神社の最大の特徴は「地主神と勧請神が入れ替わってしまったこと」にあります。元々「諏訪神社」(地主神)であって、あくまでもその境内社(勧請神)が浅間神社でした。境内社として存在した理由は、富士山を拝する意味で鳥居などが建てられていたことから、浅間信仰的要素も含まれていたためと考えられる。したがって当神社の起源を説明するときにこれら(勧請神)だけでは説明できないし、直接の起源ではない。「なぜ諏訪神社が建立されたか」という視点が最も重要である。

この境内社としての立場は明応3年(1494年)に「吉田取訪大明神」(タイトル中では分かりやすいように「諏訪」に変えてある)という記録が見られていることなどからも、長く継続されてきました。しかし1480年に「富士山」の鳥居が建立されていることから、登山の大衆化で境内社浅間神社の拡大が図られていたと考えられる(または富士信仰としての側面の拡大)。しかしこれは15世紀から16世紀にかけてのものであり、富士講によるものではない。

例えば「吉田の火祭り」ですが、これは元々は富士信仰とかではなく「諏訪神社の祭礼」として存在していました。それが江戸時代に入って富士山信仰との関連付けがされたものであります。芙蓉亭蟻乗『富士日記』には、以下のようにある。

諏訪社は例祭六月十五日、富士山の形をこしらへ、台に乗せ渡御の時かき行くなり

したがって「古来より富士山信仰としての…」という巷でよく見かける解説は少し違います。むしろ現在でも諏訪神社としての要素が強いと思います。この祭りが当神社の代名詞ともなっていることも多く、今でも「地主神としての諏訪神社の形」が根強く残っていると表現できるでしょう。

  • 江戸期から富士信仰に深く関係し始める
1730年代に富士講の指導者である村上光清により境内の建造物の修復が行われます。18世紀後半には富士講が大流行します。それと共に勧請神であった浅間神社が隆盛し始め(むしろこのとき初めて浅間社が成立したとも言える)、本来「地主神」であるはずの諏訪神社を凌ぎ、立場が大きくなってきます。神社名に「富士」を冠するようにもなり(18世紀以降またさらに後期か)、明治時代には「冨士山北口本宮冨士嶽神社」と名乗るようになる。したがって江戸時代以前での当神社の歴史では、富士信仰の要素は少ないものであると考えたほうがいいと思われる。浅間神社としての歴史や側面は、周辺の山梨県の浅間神社と比べても非常に浅いと言える。18世紀以降から急激に形を変異させたのが、現在の北口本宮冨士浅間神社である。

  • 江戸期以前の富士信仰を探ることが重要
あまりに過度に富士講ばかりに注目されてしまい、江戸時代以前の山梨県における富士信仰が目立たなくなってしまっています。まさに功罪です。本来歴史は「時系列」で見ることが重要です。ですから古来から地主神が浅間神社であった小室浅間神社や冨士御室浅間神社に着目しないと富士信仰が全く見えてきません。ですから史跡富士山に「小室浅間神社」がないのはおかしいのです。なぜ古来より浅間神社であった「小室浅間神社」が史跡富士山に入らないのか。「富士信仰の成り立ち」というのは、これら古来より浅間神社として成り立ってきた部分に着目しないと分かってきません。

  • まとめ
ザックリ言うと「諏訪神社→浅間神社」となった神社と言える。しかも浅間神社となったのは近世以降である。富士講と関わりが深い関係で著明な一方、これまでの歴史などは不透明な部分が多く起源も説明がつかない。富士信仰の理解のために「古来からの伝承などからなる富士信仰」と「新興勢力による富士信仰」との区別が必要なのかもしれない。

2011年5月24日火曜日

大宮・村山口登山道 村山古道とは

  • 大宮・村山口登山道とは
大宮(現在の富士宮市大宮町)または村山(現在の富士宮市村山)を起点とする登山道である



この登山道の起源は末代上人が開削した登拝道から始まるとされ(歴史的史料にての証明は難しい)、修験道の形成などにより登山道としての形をなしたと考えられている。

  • 大宮・村山口登山道の考え方
富士山本宮浅間大社が鎮座する「大宮」は、確かに登山口として捉えられるが、実際にはここから北東へ進んで村山に至り、そこから富士山体に至ることになる。それをまとめて「大宮・村山口」と称している。 ただ大宮と異なり、村山の地は確実に通過点となる。ここが決定的に「大宮」と「村山」では異なります。そもそも今現在は富士宮市として一体でありますが、当時は別々であったわけで、それぞれの性質を分けて考える必要性があります。

  • 結局「大宮起点」「村山起点」どちらなのか
これについては

  1. 富士市岩本に出された制札と富士山登拝
  2. 富士山禅定図と村山修験と元吉原

にてまとめました。

  • 「田子の浦が起点」という誤った情報
これは近年になって言われるようになったと思いますが、そんな事実はありませんでした。「海抜0mからの登山」というのも、当時そのような概念は無かったはずです。近年急に作られた言葉です。これらは以下の事実から、完全に否定できると思います。


  1. 古記録にて「大宮口」「村山口」という記録は数多く確認できるが、他には見られない(他に人穴口などがあるが、とても一般的とは言い難かった)
  2. 紀行文などで吉原宿からそのまま北方へ向かう記述が数多くあるのに、一旦海抜0mに下っていたという主張は成立しない
  3. 現在の富士市域に、富士宮市の地名である「村山」から取った「村山道」の石碑があり、明らかに村山へ至る道としての概念で留まっている

例えば1だけでも議論は帰結しそうなのであるが、2の部分も軽視してはならない。もっと吉原宿の歴史性を重要視すべきであると思う。2の事実から、海抜0mからの登山などという概念は一般にはなかったと言える。上のような展開は、道者が吉原宿に宿泊し、登山へ向かったという当時の風習を否定する行為でしかない。まず早期にぶつかる壁として①本当に一般にそのような風習があったと言えるのか②具体的名称は存在するのか③文書などの裏付けがあるのかといった基本的な部分も見いだせていない。

特に酷いのは、近世の末期-明治期の、それも裏付けのない単独の記録のみを大幅拡大解釈させている点です。近年この地域で、作為的な歴史の創造が行われてしまっているという点に、ご注意ください。またそれらの主体には決してなられぬよう、願います。題にある「村山古道」という言葉も、歴史用語ではありません。「大宮・村山口登山道」の後にあてて「村山古道」と付け足したのは、検索に引っかかるようあえて表記した次第です(自分が古道を発見したと主張する人が数年前に作った言葉です)。