2014年12月30日火曜日

富士山本宮浅間大社と棕櫚との関係と富士氏の家紋

富士氏の家紋、特に富士大宮司家の家紋は「棕櫚」である。『長倉追罰記』に

…同六郷モ是ヲ打、シユロノ丸ハ富士ノ大宮司、キホタンハ杉カモン…

とあることから、富士大宮司の家紋であることは史料からも裏付けがなされている。近世の資料(幕府裁許状)にも「棕櫚葉之紋」とある。

棕櫚であることの意味として、例えば『姓氏・地名・家紋総合事典』(新人物往来社)では「神霊の宿る葉として昔から尊ばれた」と説明している。この家紋を考える上でよく言われるのは「羽団扇との関係」である。先の辞典では続いてこうとも言う。

あやまって天狗の羽うちわといわれたりもしたものは、やはり霊異の作用からである。駿河の浅間社では神紋としている。

他「天狗の研究」では以下のように記している。

天狗の勢威の強い社寺が用いる幕紋の羽団扇は天狗の持物にちなんだ紋かと思われるが、羽団扇紋は現来、富士浅間神社の宮司富士氏の家紋で、『太平記』にも、旗印の紋づくしの中に、「白旗、中黒、棕櫚の葉、梶の葉の紋書きたる旗ども、その数満々たり」とある

としている。史料から考えると、富士大宮司の家紋は「棕櫚」または「棕櫚の丸」であり、そこには団扇の要素はないと思われる。もしそうであれば、史料上にて「棕櫚団扇」といった文言などがあってもおかしくはない。

『太平記』の記述は、富士大宮司を指している可能性がある(が、太平記自体は記述の信憑性が薄い部分がある)。この記述は『太平記』巻31の「笛吹峠戦事」の条にある。現代語訳を下に記す。

同月28日、尊氏は笛吹峠へ押し寄せ、敵陣の様子をご覧になったところ、小松が生い茂り、前には小川が流れている山の南側に陣を構えて、峰には南朝の印である錦の御旗を掲げ、麓には白旗、中黒、棕櫚の葉、梶の葉の紋を描いた旗が満ちていた。

内容からして明らかに南北朝時代である。まず富士氏についてであるが、既に南北朝時代には武家として戦を重ねていたということは知られている。それは最近の研究で更に色濃くなっている。そして「棕櫚の葉」「梶の葉」と続くことも重要である。というのは、梶の葉は諏訪氏の家紋であり、同じ社家である。この記述が実際見たものでないと仮定しても、やはりこの連続性には意味があると思う。

また曼荼羅図や境内図に棕櫚が描かれることが多い点も重要である。

「富士浅間曼荼羅図」より
「浅間大社境内絵図」より

浅間大社境内を指す絵図類にて、棕櫚が描かれていることが多い。当時実際植えられていた可能性もあるし、少なくともこれは明確な意図があるのである。

  • 参考文献
  1. 丹羽基二,『姓氏・地名・家紋総合事典』,新人物往来社,1988
  2. 知切光歳,『天狗の研究』P184-185,大陸書房,1975

2014年12月24日水曜日

戦国期に見える富士又八郎と富士氏の権力構造

戦国期の古文書に、富士氏一族の名として「富士又八郎」が出てくる。この人物の詳細はほとんど分かっていないが、富士氏の権力構造を考える上で示唆してくれる部分がある。今回は富士又八郎について考えてみたい。


まず富士又八郎は、富士大宮司ではない。同じ時代の富士大宮司は富士信忠であるためである。この文書は富士氏の権力構造分析というよりは、「安良城・勝俣論争」に関連して良く取り上げられるのである。

まず中世になると古文書等に 「徳(得)分 」「内徳分」「加地子」といった用語が出てくるようになる。時代による差異はあるが、頻出する戦国期にこれらは「その土地の支配階層が農民層から得ていた得分」を指す言葉であった。「徳分」は「(年貢の)余剰分」であって、「余剰」が生まれるのには「余剰以外の基準」が必要なわけであり、「その基準は検地等で把握されたもの」「その余剰分が国主等から知行された」という論考も世に出された。しかし内徳に対する解釈を巡っては議論を呼び、論争にもなった。

この文書は「百姓内徳」に関するものであり、いくつか論考がある。「戦国大名今川氏の内徳安堵について-百姓への安堵状の分析から-」にて以下のように説明されている。

この規定は、百姓がその内徳分の給恩化を地頭に届け出た上で地頭が了承した場合には給恩化を認めるが、地頭が了承しない場合には、今後(天文22年以降)、今川氏が百姓内徳の給恩化を認める判形を発給していても、その判形は認めないというのである。(中略)ところで、史料8(:上の文書のこと)の地頭富士氏に対する規定が地頭一般に対する規定でないことは、今川氏の分国法である「今川仮名目録」「かな目録追加」の規定や他の地頭への発給文書の規定にみられないことから推測できる。しかも史料8以降も内徳の給恩化を認めるという規定であり、今川氏による百姓内徳給恩化を全く否定した規定ではない。史料8は富士氏の「難渋」を背景として今川氏が地頭富士氏との関係、親疎を考慮して規定した富士氏優遇のための個別具体的法規定であると理解すべきであろう。

ここでいう地頭とは富士氏を指している(最も、このときの富士氏は地頭というよりは国人と言った方が正しい)。「内徳」を「加地子」と理解するか、「隠田・新田」(検地で明らかとなった増分)とするかで分かれている。

が、この文書の宛が富士又八郎であることには注意が必要である。広く言えば富士氏の領地における規定なので、宛が富士大宮司であってもおかしくはない。これは、土地の管理関連自体は富士家でも富士大宮司ではない人物が行っていたという可能性を示唆している。

これに似た事例は、実は別の文書でも見出すことができる。


先の文書から遡ること7年前の文書であるが、富士九郎次郎が富士上方の社寺の諸役免除を認める内容である。諸役は免除しているが、一部は徴収するともしている。つまり領主として税を徴収しているのであるが、やはりこの人物は富士大宮司ではない。諸役徴収や土地の管理が、富士大宮司が介入する範囲でなかった可能性がある。

この富士又八郎であるが、戦に交わっている記録も残る。


これは「飯田口合戦」と呼ばれるものであり、その戦においての富士又八郎の戦功を評する内容である。同日付の文書として、小笠原与左衛門宛ての同じく戦功を表する内容の感状が残る。他、12月16日の今川氏真感状にて朝比奈信置が飯田口合戦に参加していたことが分かる。「「遠州忩劇」考-今川領国崩壊への途」では飯田口合戦について以下のように説明している。

まず遠州忩劇の開始についてであるが(中略)同時代史料では永禄5年に引馬地域での戦闘が確認できないこと、㉖(注:永禄8年10月「今川氏真朱印状」)には「然者去々年以来遠州忩劇之処」とみえており、また②③⑤(注:上の富士又八郎・小笠原与左衛門・朝比奈信置宛の3文書)によって引馬郷飯田(浜松市飯田)での戦闘が初めて確認できるから、遠州忩劇の開始(飯尾豊前守逆心)は永禄6年、しかも12月の飯田合戦がその開始期にあたるとみてよい

としている。つまり富士氏は遠州忩劇時、今川陣営の最前線に居たことになる。また駿河国の地以外での戦闘が認められることも留意点の1つである。先の文書の時代(天文22年)は今川義元存命時であったが、桶狭間の戦いにて義元が織田信長に敗れると、次代の氏真が当主となっている。この時は今川家から離反者が相次いでいた時期であるが、明らかに富士氏は今川氏の元に身を置いていることが分かる。その後も、氏真に離脱を促されるまで一貫して今川氏側の戦力として戦っていたことで、富士氏は有名である。

  • 参考文献
  1. 臼井進,「戦国大名今川氏の内徳安堵について--百姓への安堵状の分析から」,『日本歴史』 1994-03,吉川弘文館
  2. 久保田昌希,「遠州忩劇」考-今川領国崩壊への途」『戦国大名から将軍権力へ』,吉川弘文館,2000

2014年12月19日金曜日

小田原衆所領役帳に見える富士を考える

河東の乱時の富士氏」にて’’「富士殿」とか「富士勢」といった表記を細かく確認する必要性がある’’と記しましたが、明らかに人物を指す場合は尚更と言えます。近世になると「富士○」といった人物名や創作人名はそれなりに見られますが、中世史料で「富士」という人名は、基本的には駿河の富士氏を指します。そして『小田原衆所領役帳』に人物名として「富士」が見えるというので、今回取り上げたいと思う。

『小田原衆所領役帳』は永禄2年(1559)2月に作成されたとされる所領役帳である。が、原本は存在していない。一方写本は数多くあり、転写に伴い各写本にて差異が認められるという。小田原衆とあるが、決して小田原衆だけではない。富士が見えるのは「御家中衆」の中である。


これについて、「中世東国足利・北条氏の研究」では以下のように説明している。

『役帳』に「幻庵御知行分」の1つ東郡片瀬郷(藤沢市)が、富士氏と並んで大森氏に下された事実とも結びつこう。(中略)なお、この富士氏は駿河の大宮浅間社(静岡県富士宮市)の大宮司家富士氏の一族で、天文7年(1538)以降の「河東一乱」と呼ばれる北条氏と今川氏の抗争の過程で宗哲に属した人物と思われる。(中略)とくにこの『役帳』の富士氏は、元亀元年(1570)4月に北条氏康が早川の海蔵寺に禁制を下した際、その責任者として見えた富士常陸守某ではないかと考えられている。

幻庵(宗哲)とは北条幻庵のことであり、駿河とは関係が深い人物である。「被下」とあるので、富士氏と大森氏に委ねられた土地であったと理解できる。大森氏は駿河の大森の地からはじまったとされ、また北条幻庵も駿河と関係が深いことから、ここに富士氏が出てくるのは極めて自然と言える。

が、これが所領役帳であることには注意を要する。つまり、北条家の土地に富士氏が係るということであり、それは富士氏が北条家側にいたことを示すためである。しかし当時の富士氏の当主は、基本的に今川氏に属していた。しかし中には北条家と関係を密とするものもいたのであろう。それが「河東の乱時の富士氏」にあるような””謀反””という現象を生んだとも考えられる。

つまり、「日我置文」(天文18年11月16日)の「天文6年丁富士殿謀叛(むほん)之時、日是有同心而還俗之後、久遠寺御堂・客殿等焼亡」に見える富士殿は、『役帳』の「富士」と同一人物の可能性がある。少なくとも謀反を起こした富士家の者は、今川氏支持派ではない。

この記録において最も重要な示唆とは、武田氏による駿河侵攻以前の時代においても、北条家と富士氏との接点が縁者以上の関係として見出せることにある

  • 参考文献
  1. 佐藤博信,『中世東国足利・北条氏の研究』P165,岩田書院,2006

2014年12月1日月曜日

富士金山を取り巻く武田氏と後北条氏と富士大宮司

まずは、ある文書を載せてみたいと思う。


これは天正10年(1582)3月6日の北条家朱印状である。内容は「富士金山の金山衆を富士大宮司一同に付属させる」という内容である。大宮司一同は「=富士氏」であるが、つまり富士金山衆が富士大宮司に従うよう命じた文書である。

これらのことを後北条氏が命じているという状況に、歴史の展開の早さを感じるものである。なぜ後北条氏がこのような文書を発布できたのかというと、武田家が滅亡したためである。代わって、富士郡を統治する立場として後北条氏が出てきたのである。

注目すべきは、その内容である。「大宮司一同」とあるが、当時の富士大宮司は富士信通である。またこの文書が出された次年(天正11年)に、先代の富士家当主富士信忠は死去している。内容から推察するに、おそらく後北条氏は富士家を再び武家として推すつもりであったと考えられる。そして北条家の戦力としようとしていたと考えられる。

具体的に、富士金山衆はどのような存在であったのだろうか。それは武田氏が統治していた時代の文書に答えがあるかもしれない。武田氏支配の時代は、武田氏に属する穴山氏が管理を行っていた(そもそも武田氏支配といってよいかは分からない)。


穴山信君が金山衆の者の諸役免除を認める内容である。また以下は、穴山信君の家臣が金山衆の者に屋敷等の安堵を認める内容である。


このことから、富士金山は穴山氏が支配していたと言える。この文書に関して「金掘と印判状」では以下のように説明している。

これは穴山氏の家臣有泉大学助昌輔が富士金山衆望月弥助に対し、十右衛門跡式の相続を認めた継目の安堵状であるが、ここで相続の対象として「家屋敷」・「堀間所」(坑口)と並んで「子方」があげられていることに注目したい。富士金山においても黒川金山同様、親方-子方組織の存在を裏付けることができるのである。

相続の対象に「堀」が含まれていたようである。つまり金山衆は個々で自分が担当する堀が決まっており、それは「財産」に等しかったのである。また子方は子分として属していたと考えられる。

このような親方-子方組織から構成されるのが金山衆であり、その金山衆は富士氏に属する形となっているのである。富士上方の実力者である富士氏に金山衆を付属させるということは、新たな権力を与えるということであり、これは後北条氏の戦略であると言える。

しかしその後、当地にて後北条氏の介入はみられなくなる。富士金山に対してというだけでなく、駿河国自体に対しての介入がほとんどみられない。これは武田氏滅亡に伴い、徳川家康が織田信長より駿河一国を与えられたためである。北条家朱印状は武田氏滅亡直後または武田勝頼自刃直前に出されたものであり、また情勢は分からなかったのであろう。

  • 参考文献
  1. 桜井英治,「金掘と印判状」『中世をひろげる 新しい史料論をもとめて』,吉川弘文館,1991