2022年10月9日日曜日

博物館構想説明会の質疑応答、富丘・白糸・芝川・北山・上井出編

博物館構想説明会の質疑応答富士根南・南部・大富士編、富士博物館誕生に期待」の続編となります。


  • はじめに

博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編」にて"そして「外」の見識にも触れておく必要性に駆られました"と記しました。"強いバイアスがかかっているかもしれない"と、強い危惧を覚えたものです。富士宮市の考古学を、もう少し引いた位置から見てみる必要性を感じたわけです。

このような考え方(複数の文献にあたること)が極めて重要であるという証左が、身近な例としても挙げられます。

皆さんは地域史を調べる時、まずどのような文献にあたるでしょうか。それが『市史』という場合も多いかと思います。実際に確認してみると、同じく「自治体史」といった編纂物であり且つ同じ対象に関する論考であるのにも関わらず、全くの正反対の解釈になることもあります。

それでは富士川町(庵原郡に属していた「旧富士川町」)の『富士川町史』と、富士市の『富士市史』を見ていきましょう。対象は「雁堤」です。

まず、雁堤が位置する富士市の『富士市史』(1982年)を見ていきましょう。


この堤防の普請計画は、後述するように、古郡孫太夫の後をついだ第二子重年の手によって見事完成するのであるが、完成した堤防が今日に至るまで雁堤とか、雁音堤とか呼ばれていることは周知のところである。(中略)延宝2年、遂にその完成を見るに至ったのである。着工が寛文7年(1667)であったから、完成した延宝2年(1674)は着工から数えて、実に7年余の歳月を必要としたのであった。とにかく古郡重年のひたむきの努力が、当時としては稀に見る大規模の築堤を成功させたのであるが、とりわけ天下の急流富士川に対して施行したというところに、別格重要な意味があったのである。(中略)こして富士川の堤が完成すると、これまでにも増して加島平野の開発は急速に展開していくのであった。


このように、雁堤で富士川は平定されたと言わんばかりであり、そうでなかった場合を万が一にも想定していない書きっぷりとなっている。『市史』全体を通して、「かりがね堤の完成=平定」というスタンスは一貫されている。富士市のコンテンツも、基本的にそのようなスタンスで統一されていることが分かる。

富士市資料


富士市HP


次に、『富士川町史』(1962年)を見ていきましょう。


富士川東岸に雁堤ができて流路が変わったためであろう、(中略)この時は安政2年の状態からは富士川が千間余も東によっていたというのである(中略)洪水のたびに主として川添にあった農家や道路は移転をしなければならなくなり…(中略)このように中之郷村は富士川の出水のたびに被害を蒙り、幕末には甚だしく困窮した村となり、農民も貧しい生活を営まねばならなかった。


この両者があまりにも対極であることは、誰でも気づくことかと思う。ここで「歴史的事実」を見ていきましょう。結論から言えば


「雁堤」完成後も富士川は何度も氾濫しており、しかもそれは大規模なものであった


このように言う他ないだろう。実は様々な史料が残っており、上の言い方は事実に則したものとなっている。雁堤自体は富士市(旧富士市)にあるので『富士市史』を参照するのは自然な流れであるが、実はそれだけでは実情が全く掴めないということになる。

対して"雁堤完成後も富士川の氾濫が多発し被害が生じている"という事実と向き合ったのが『富士川町史』だったわけである。雁堤ほど、実情からかけ離れた評価をされているものも珍しいと思う。

確かに加島平野(旧富士市域)は安定を得たが、そこから拡大解釈され「=富士川下流域の平定」と説明されるケースが極めて多い。しかし実際のところは、従来は被害の無かった地域(旧富士川町域)に皺寄せが来たわけである。歴史はどうしても美談に仕立て上げたくなってしまいますが、その最たるものと言えるでしょう。

このような実例から学ぶことは多いと思う。そして現在進行系で「雁堤により富士川の氾濫は治まった」と説明しているものは、端的に言えば「誤認」と言って良い。ちなみに加島平野の平定については「富士市の島地名と水害そして浅間神社」で記しているので、興味のある方は是非ご覧下さい。

更に補足しておきますが、れっきとした編者・編纂団体による刊行物であっても、適当である例は多いです。例えば図録『武田二十四将―信玄を支えた家臣たちの姿―』という、山梨県立博物館で催された特別展の図録がありますが、そこには原昌胤について「大宮城代」とあります(8頁)。しかし実際は、原昌胤が大宮城代であったことを示す史料は存在しません

なぜこんなことになったのかというと、おそらく丸島和洋氏の論考を読んだ編者が、その論考を拡大解釈したためと思われます。管見の限り、富士信忠の大宮城開城後についての「大宮城代」の存在を示唆した論考は、丸島和洋氏のものただ1つです。

しかし丸島氏の論考を読むと、以下のようにあるのです。


このことから、神職再編の担当は基本的に市川昌房であり、原昌胤は富士大宮が関わる部分でのみ関与したものと判断される。以上のような原昌胤の立場は、富士大宮城代として位置づけられるものではないだろうか(平山・丸島2009;p.90)


おそらくこれを拡大解釈して、単に「原昌胤:大宮城代」として紹介しているものと思われます。しかしこれはあくまでも推測でしかなく、また丸島氏の思惑とも反するものでしょう。推測でしかないので、「位置づけられる」という仮定を示しているに留まっています。皆さんも伝言ゲームをやったことがあると思いますが、それが学術的な場でも起こっているというわけです。

結論としては、大宮城付近の整備を行っている事実が限界点であり、大宮城代であることを示す史料は存在していないのである。しかし上のような特別展といった図録は簡易な言葉で記されることが多く、一般にも読みやすい部類といえ、現在巷で「原昌胤→大宮城代」という言説を見かけるようになっています。

以下、意見となります。


【富丘】

富丘


電子データ化…それこそとんでもないお金が掛かります。いつかはしなくてはなりませんが、とんでもないコストがかかることは間違いない。「バーチャルで見れるようにする」「立体的に見えるようにする」…その費用についての部分が全く飛んでしまっている。

例えば「大宮司富士家文書」はデジタル化され「静岡県立中央図書館」のHPにて公開されていますが(静岡県立中央図書館HP)、おそらくこれも相当な費用がかかったことでしょう。これは、補修と同時にデジタル化されたものになります。

ちなみにですが、同HPにみられる「浅間大宮司富士家文書」という呼称は同HPにて初めて出現した造語であり、通常は「大宮司富士家文書」と言います。現:富士宮浅間大社」ともありますが、正式名称は「富士山本宮浅間大社」といいます。このページを作成した人は、相当おざなりな人でしょうね。


富丘


税収は人口で決定されるわけではないので、人口が減っていても税収の増加は十分にあり得るのです。逆に人口が増加しても税収は下がる可能性もあります。まずこれを、回答者は答えてあげる必要性があるのです。

また展示されている古文書は「翻刻」されていることが殆どで、そのまま古文書を「ほいっ」と展示しているわけではない。そしてその翻刻文には解説が加えられている。もちろん、その解説は一般向けに分かりやすく解説されるのが常である。これくらいは「一般的な市民」でも知っていることである。


【白糸】


白糸


一体、何を聞きたいのでしょうか?


白糸


この御方は歴史を「近現代」だけで捉えている。古代・中世・近世の人に我々は意見を聞くことは出来ないのである。しかし「古文書」「木簡」といった史料は、当時の様相を我々に教えてくれる。「わざわざ博物館に行って…(以下略)」ということは、我々に歴史を教えてくれる対象・材料を「近現代」、それも「人」だけに絞れと言っていることになる。暴論としか言いようがない。

また高齢者は記憶補正も多く、実際のそれとは異なることも多い。一方で方言を録音するとか、民俗学的なお話を伺うと言った場合は、質問者のようなアプローチは生きてくる。


白糸


「意見を言える場」としてメール等がある。ただ、質問者の相手をする身にもなって下さい。"行動力のある問題者"ほどたちが悪い人は居ませんからね。


白糸


「展示する物が分からないのに建物を作るというのは商売上はありえないことです」とありますが、文化財は既にそこに存在しています。全く意味が分からない。


【北山】


北山


これは的が外れた意見です。というより「質問」ではなく「意見」になっています。富士山世界遺産センターもコンペによるものですが、公園に整備したものなので「基礎データ」があった上で作成しています。「川」もありますからね。鳥居を残すこと等、事前に取り決めがあったはずです。この方の意見は全く違うと思います。

もし土地の決定よりコンペが先であったら、(富士山世界遺産センターの場合で言えば)大鳥居に干渉してしまう等の問題が後から発生してしまいます。この場合、大鳥居を壊せとでも言うのでしょうか?その場合の費用はあなたが負担してくれますか?壊すことに対する住民説明をあなたが代わってする覚悟はありますか?

また、コンペに参画する人が歴史に関する知識があるとも思えない。ハード面も歴史と絡ませた方がよいというのが、私の考えです。


北山


安ければ安い方がよいという考えの人って、未だに居るんですね…。 


【上井出】




本当に歴史が好きな方なのか少し疑ってしまうのですが、義務教育で習うような史料に富士宮市が出てくると、急速に身近に感じられます。そして文化財が目の前に存在しているからこそ、「ただ暗記する」ではなくなるのだと思います。

また「合戦の歴史から学ぶ」という考え方が本当に「是」なのか、私は思うところがあります。質問者は「地政学」でも想定しているのだろうか。


上井出


まさか「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」の話をしているとも思えないので恐らく「ユニバーサルデザイン」のことを仰っていると推察されるのですが、ユニバーサルデザインとは


「すべての人のためのデザイン」のこと。年齢や障害の有無、体格、性別、国籍などに関係ないなく、できるだけ多くの人にわかりやすく、最初からできるだけ多くの人が利用可能であるようにデザインすること


なので、「現代的なものへの憧れ」でも何でもありません。あまりに馬鹿馬鹿しい質問にも対応せざるを得ない担当者が不憫でなりません。事実誤認もあるし、恥の上塗りでしかない。富士宮市民として、恥ずかしく思う。

以上となります。


  • 参考文献

  1. 平山優・丸島 和洋(2009)『戦国大名武田氏の権力と支配』,岩田書院

2022年9月20日火曜日

博物館構想説明会の質疑応答富士根南・南部・大富士編、富士博物館誕生に期待

 「博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編」の続編になります。 


  • はじめに

富士宮市の博物館には「コンセプト」が必要です


きらら

博物館で働いていた方から"人を引き付ける売り、『どういう博物館なんだ』 というこの博物館ならではの個性が必要になってくると思います"という意見がありました。全く、その通りだと思います。

全体的にですが、担当者は「子供たち」にフォーカスした回答が多いものの、私は人気のないユーチューバーがいきなりオフ会をやるようなものだと思います。需要があると錯覚し「人が来るだろう」と意気込むも、人は「来ない」。最悪、ずっと座っていることになる。そんな状況が容易に想像させられる。

学芸員その他専門の方々は、一種の「生存バイアス」に引っかかっているのです。回りは似たような過程を経てきた人で固められ、まるでその他多くの人も"アプローチ次第では歴史に関心を持つだろう"という幻想を抱いている。常に最善で事が進むという前提のもと、幻想はミルフィーユのように重なり、子供たちが大人になった様子をも幻想として抱く。悲しいかな、清々しいほどそうはならない。

ところで、質疑応答でこのような質問があった。


富士根南

この質問者は「富士金山」を知っているという時点で、知識を有する方と言って相違ないでしょう。富士宮市のセールスポイントは、実はこの辺りにしかないと考えている。というのも、


富士宮市の博物館のコンセプトは「富士」であり、名称は「富士博物館」を視野に入れても良い


と考えられるのです。極めて当たり前のことですが、富士宮市が「豊臣秀吉」や「織田信長」がテーマの博物館を作っても仕方がない。「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」で「地域密着がテーマでない方がよい」という意見がありましたが、とてもではないが支持できる意見ではない。むしろ普通に富士宮市の"基本的歴史材料"を題材にすれば良いだろうし、富士宮市の"歴史的人物"や"歴史的事象"を取り上げれば良いのです。

質問者に敬意を表して富士金山から紹介していきますが、「富士」というコンセプトを基とする「歴史的人物」「歴史的事象」「歴史的材料」は、以下のようなものだと思うのです。


  1. 富士金山(「麓金山」と呼び習わされることも)
  2. 富士氏
  3. 富士城(大宮城の別名)
  4. 富士野(曽我兄弟の仇討ち舞台の地)
  5. 富士海苔(芝川海苔とも)
  6. 富士川
  7. 富士山

そして「7」の富士山は、「静岡県富士山世界遺産センター」に主な役割を担ってもらえればい良いと思います。或いは「千居遺跡」のストーンサークルを富士山信仰の一端と解釈し、展示に含める形が良いかと思う

富士宮市は"基本的歴史材料"の処理が未だ出来ていません。例えば「富士川」も何故かフォーカスしません。そういうルールでもあるのかというくらい、富士川と富士宮市との接点を描こうとしません。理由を教えて頂きたいくらいです。ちなみにお隣の富士市は、富士川がテーマの企画展を複数回行っています。それぞれとても良いものでした。

もちろん「富士氏」も圧倒的に足りない。富士宮市の地で起こった"歴史的事象"で全国的に有名なものは、普通に考えれば「楽市令」でしょう。しかし長らく、富士宮市の歴史年表には無かったりしました。全国で用いられる高校の参考書に載っているのに富士宮市の歴史年表には載っていない…そんなバカバカしいことが本当に起こる自治体なんです、富士宮市は。これは富士宮市・富士宮市教育委員会『年表・図説でみる富士宮の歴史と伝説』辺りで確認できるようになりました。これを確認したとき、"や、やっとだ…"と思いました。「法制史」でも頻繁に取り上げられる部分です。

あと、博物館は大衆的な面があっても良いと思います。「キッカケ」を与えられることが重要なのですから。今人々はどういうものを求めているのか、そういう部分をしっかり考えなければなりません。来るのは「一般の人」なのです。特に「刀剣」は人気です。富士宮市の国指定文化財は、刀剣類に恵まれています。







「大石寺」のものは展示できないでしょうが、他はやりようはある。また大宮城跡からの出土物も織り交ぜて紹介できるだろう。そこから広がることの方が多いと思います。回答者が想定するやり方は、子供に「通常」の信号の渡り方を教える前に「時差式」から教えるようなものです。

また以下のような不思議な質問もありました。


南部

他市のために富士宮市の多額の資金を提供するのは、「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」にあるような「新富士駅」の例などで十分です。理解できません、その考え方が。これでは富士宮市は完全な「タカられ屋」になってしまう。

しかしこの質問者が極めて不器用であったと仮定すると、静岡市も富士市も「駿河国」であるので、おそらくその辺りに意図があるようにも思われる。そこから私なりに換言すると


「駿河国」全体で考え、富士宮市とその他の地域との結びつきを考えよう


ということになる。そして富士宮市も富士市も「富士郡」であったため、更に換言すれば


駿河国、ひいては富士郡における富士宮市の位置づけ


について考えて欲しいということを言いたかったと捉えられなくもない。であれば、富士氏という国衆の在地とそれ以外での活動を考えれば良いし、富士城が富士郡の拠点であったことを分かりやすく説明すればいいし、富士海苔が今川文化の一端を担い上流階級でも重宝されたことを丁寧に説明すればいいし、富士川も「富士山木引」等を例に「富士山木引→上井出→青木→沼久保→川下し→吉原」という繋がりを史料と共に説明すればよいのである。

ちなみに私は、富士宮市の展示や刊行物で上のようなことに言及したケースを見たことがない。そもそもやっていないので、博物館以前の問題なのである。数十年分の刊行物を俯瞰して見ても、無いのである。

富士宮市といえば、「展開・アピールが下手」と内外から指摘されている。大河ドラマ『風林火山』の際も富士宮市が動かず大きな問題となったことは記憶に新しい。この時は普段歴史に触れる機会のない方々ですら声を上げていたくらいですからね。富士宮市は多くの市民から既に失望を食らっているのである。それを自覚された方が良い

他に例えば平成26年(2014)に各団体の協賛で「浅間大社に祈願した「戦国武将」展」というものが催されました。私も行きましたが、「晴れ、ときどきお城  -natchdes(なっち)の城攻め備忘録-」さんの記事に「思い切って富士宮詣で」という記事があり、紹介されています。

ここに「後北条氏の発給文書何で見せないの?」というような旨のことが書かれています。正直私も、完全に同じことを思いました。多くの人は、富士氏という国衆と大名との関係に関心があるのです。これは保存の関係もあってのことかもしれませんが、博物館ではもう少し「見える化」が求められます。また鎧も後ろに回って見れず、見せたいのか見せたくないのかよく分かりませんでした。最高の材料を以て最低の展示会に仕立て上げる必要性はあまりありません。今回の博物館もその例に漏れず、では困ります。

「富士」をコンセプトとした「富士博物館」の誕生であれば、私は博物館構想を支持します。正直なことを言えば、博物館が完成したとて実際に行くのかどうかすら分からない。私の中ではそれくらいの位置づけなのです、この博物館構想というのは。別に新しい知見を提供してくれるようにも思われないし、何のワクワク感もない。むしろ説明を聞けば聞くほど失望が大きくなる。それは、こちらの責任ではない。

では、以下から意見になります。

【南部公民館】


南部


当たり前ですけど入館料は「収入」です。「もとを取る/取らない」じゃなくて、収入になるのだから、そこに対してしゃかりきにならないといけない。こんなことを外の人間が言わなければならないというのが絶望的。意識の低さが見て取れる。

追記:

岡崎市美術博物館の企画担当の方が、Twitterでグッズに関する問いかけを行っていました。なんとたった7時間でこの反響です。



でも「入館料が収入として見込めない」といった考えの人が中に居たら、絶対にグッズを収入源としては考えないでしょう。もちろん具体的な検討もしないでしょう。もう意識が全然違うんですよね。

追記終わり。

南部


自然破壊につながるとは思わないし、逆に子供に「何で博物館が無いのか」と問われたらどう答えるのか教えて欲しい。それはそれで、子供に噛みつくんでしょうか。


【大富士交流センター】


大富士


本当に甘いです。「博物館は要らないんじゃないか」と人に思わせる能力に長けているとすら思う。


大富士


「大富士交流センター」についてはどう捉えていますか?私からすれば、同じ性質のものです。大富士交流センター自体も、議題が市議会に上がってから私も知る所となったと思うし、それが問題とも思わない。


大富士


全世帯にアンケート…コストを考えると馬鹿馬鹿しいです。これまでも、多くてもサンプル数は数千です。私は富士宮市が行った/対象となった調査のサンプル数について過去調べたことがありますが、管見の限りでは「富士山ネットワーク会議」のものが最多でした(環富士山の自治体全体に及んだもの)。

その結果も公表されていますが、富士宮市民の回答だけ浮いていました。本当に恥ずかしい限りです。身内が親戚の集まりで変なことを言っている…そんな感じです。「新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」にて"ここでは伏せておこうと思います"としたのが、そのアンケートです。博物館構想には関係ありませんが、そもそも変なことをいいやすい気質はあるということで参考として挙げておこうと思います。


大富士


「富士博物館」とか「富士〇〇」というものが良いと思います。仮に名称を募集するときも"「富士」を冠する"という条件にしても良いくらいだと思います。

2022年9月16日金曜日

博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編

「郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」の続編になります。


  • はじめに
私は子供の頃、「考古学」が好きでした。富士宮市の無料の冊子(遺跡)を繰り返し読んだり、自由研究はのテーマは「エジプトのピラミッド」を選んでいたくらいです。

小学生の時に「戦国武将チョコ」みたいな名前の食玩を書いました。開けてみると徳川家康のフィギュアと共に年表がありました。そこには「駿河国の大名今川義元、桶狭間の戦いにて敗死」というようなことが書かれていました。自分が住む地域が「駿河国」に属していたということくらいは小学生でも知っていたので、「今川義元」に興味が湧きました。しかし今川義元については静岡県に居ながらも聞いたことがありませんでした。まず、これを不思議に思いました。

学生でも義務教育は過ぎたくらいの頃、歴史の授業中は参考書を片っ端から読んでいました。まだ考古学に関心があったと思います。それから遠くない頃、市外の図書館をほっつき歩いていた時、『浅間文書纂』という本を見かけました。開くとまず古文書が掲載されていました。そこに「富士氏」を宛所とする文書が掲載されており、少し読んで富士氏をほんの少しばかり理解しました。私はその時「今川氏真」という存在を知りました。ここで義元と氏真が繋がりました。ここで私が抱いた感情は

富士宮市って何にも教えてくれなかったな

ということでした。昨今ですら、HPで「富士氏」と完全一致検索をかけても本当に少数なのですから、この言い方はそれ程間違ってはいないと思います。なので私からすると担当者が多用する「子供たちが…」という言い分はやや説得力に欠けるのです。と同時に、静岡県が今川氏についてあまり取り上げないことも奇妙であると思うようになりました。これが、10代の記憶です。

ちなみに、富士宮市が富士氏について取り上げる機会が「ゼロ」だったというわけではありません(近年富士山世界遺産センターの企画展「富士山表口の歴史と信仰」にて試みがあった、未読)。2000年に「大宮城と富士氏展」というものが催されています。その展示会資料を一部見ていきましょう。

今回の発掘調査では鎌倉時代の様子がわかる建物群が確認され、「富士の巻狩り」当時、大宮小学校あたりに有力な領主がいたことがわかりました。(中略)ただ、その人が今回の展示のもうひとつの視点である「富士氏」という人物と同一なのかどうかについては、まだよくわかっていません。(中略)その富士氏が治めていたこの居館は、戦国時代の動乱の中「大宮城」の名で呼ばれることを頻繁に見受けるようになります。しかし、それは長い富士大宮司館の歴史の中でも最後のほんの10年ほどのことです。つまり、この遺跡については、「大宮城跡」の名で呼ぶよりも、当時の政治・経済の中枢であった国人領主の居館としての「元富士大宮司館跡」の名を使うほうが適切であるといえるわけです

これについて私は、かなり奇妙な説明だと思いました。皆さんも一緒に考えてみましょう。それほど難しい話ではありませんから。

上にある「富士氏が治めていたこの居館」とは、以下の文書で確認される「富士大宮司館」「大宮司館」のことを指しています。では、その年と内容を確認してみましょう。

宛所内容
元弘3年(1333)9月3日富士大宮司館後醍醐天皇綸旨。駿河国下嶋郷の地頭職を富士浅間宮に寄進
建武元年(1334)9月8日大宮司館後醍醐天皇綸旨。駿河国富士郡富士上方を富士浅間宮に寄進

実は「大宮司館」という文言は、「1333年」・「1334年」という「たった2年」にのみ確認される用例なのです。つまり有史以来、このほんの僅かな期間の2例のみなのです。

そして何世紀も時代は過ぎて永禄4年(1561)7月20日、先にも出てきました今川氏真により富士信忠が大宮城の城代に任命されます。その後「大宮城」の存在が文書上で確認されるようになります。そこで

この「大宮司館」と「大宮城」はおそらく一緒の場所だろう…いや、一緒でしょ!

としたのが富士宮市教育委員会です。あまりにも大胆な推察に驚かされるところですが、なんと発掘調査の報告書にも『元富士大宮司館跡』という名称を用いてしまいます。ちょっと異常とも思える行動です。この両者を直接的に結びつけるものは、実は全く無いのですから。例えば今川氏が「大宮司館を改修せよ」と命じた古文書があるわけでもない。

大宮城跡からは祭祀・儀式に用いられたと推察される遺物が発掘されており、富士浅間宮に関係すると考えられます。特にその最高権力者である富士大宮司は何らかの形で関係していると考えられますが、「=後醍醐天皇綸旨に見える館」という帰結にはなり得ません。

そもそも同地かどうかも分からず、また綸旨のみでしか確認されない用語なので何を指しているのかも分からない。普通に富士浅間宮の中の一施設を指しているとも考えられる。後醍醐天皇綸旨は全国に渡ってかなりの量が発給されたことから、必ずしも当地に通じているとも思えず、富士大宮司が宛所であるということを伝えるための造語とも考えられる。

そして私は、実際に『元富士大宮司館跡』を手に取り読んでみました。そこには、執筆者の1人から以下のような意見も示されていました。

富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである(若林淳之氏執筆箇所)

このように述べながらも、富士氏の居館であったという説を一応は採っています。そしてこの綸旨が発給された当時居住していた富士氏の人物の比定作業を行っています。しかし「発掘担当者の皆さんと若干見解の相違するところがあるのであるが」とも述べ、富士氏の系図に習った説を取る発掘担当者とは意見を異にする立場を取っています。

実は世の論考では、これ(大宮城の前身は大宮司館であるという説)を素直に受け入れているものはほぼ「皆無」といって良い状況です。ここで私は

富士宮市はちょっと変わっている

と思うようになりました。そして幼少の頃読んでいた富士宮市の無料の冊子(遺跡)ですら疑わしい存在のように感じてしまいました。確証はないですが、同一人物によると思しき状況であったからです。ここから考古学に対してひどく距離を置くようになりました。そして「外」の見識に触れておく必要性に駆られました。ちなみに「大宮城と富士氏展」が催された2000年といえば、「旧石器捏造事件」の発覚年でもあります。何となく、悪い慣例が中世にも当てはめられてしまった…そんな感覚を覚えてしまうものです。

そして時は過ぎ2014年のこと、新たな発掘調査の報告書でも『元富士大宮司館跡Ⅱ』という名が採用されました。私はこの時、腰が抜けてしまいました。またこれは、富士宮市民が「大宮城」を知らない理由の1つであるとも言えるでしょう。明確に関係していると思います。

そもそもですが、少なくとも最新の状態は「大宮城」であったわけなので、「富士大宮司館跡」ではないわけです整合性を求めるために「元」をつけたわけですが、あまりにも常識から外れた呼称であることは言うまでもありません。結局、報告書のタイトルだけでは"何の跡地"かが分からないのですから。

これがどれくらいおかしなことか、考えてみましょう。例えば「サークルK」は親会社の統合で「ファミリーマート」になりましたが、その後閉店した例もあると思います。とあるファミリーマート跡地をいわば

元サークルK跡

と言い、しかも「実際にサークルKだったのかは不明」というのと同じです。「ファミリーマートであったという確実性」を無視する必要性が無いというわけですね。

このテーマは子供たちも一緒に考えてみると良いかもしれません。少なくとも「大宮司館」と「大宮城」は直接結び付けられる材料がないため、断定できる性質のものではないです。博物館はこの大胆な推察に対して協調することを、子どもたちに「強要」しないで欲しい。あくまでも、考え方の1つとして存在すると。博物館は洗脳装置ではないのですからね。

以下、意見になります。

【上野】



デジャブといいますか…「郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」の「柚野公民館」の例と同じですね。これ、結構恐ろしいことを言っているんですよね。つまり文化課は

「博物館」の他に大鹿窪遺跡には「ガイダンス施設」の建設を検討し、千居遺跡を使ってもう1つ「博物館」を作ることを考えている

ということになるわけですから。つまりこんなことをやっていたら、22億どころじゃないということになる訳です。富士宮市の悪いところがすべて出た…そんな感じです。「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」で述べているように"考古学への偏り"があまりにも分かりやすい形で出ているんですよね。

勘の鋭い人なら分かると思います。上で若林氏(故人)が「発掘担当者の皆さんと若干見解の相違するところがあるのであるが」とある「発掘担当者」は、おそらく考古学が専攻でしょう(若林氏は中世史です)。そして大鹿窪遺跡と千居遺跡に施設を建設することを発案したのも、おそらく考古学が専攻の人でしょう。そして『元富士大宮司館跡』という呼称を推し進めたのも、やはり考古学が専攻の人でしょう。富士宮市はなんだかオモチャにされているような気がしてなりません。

大鹿窪遺跡は世界文化遺産「富士山」の「構成資産」入りを最後まで検討された史跡である。その価値は誰しもが感じるところである。しかしその犠牲として「中世・近世の軽視」とも言うべき状況下で数十年と放置され、富士宮市は多くの機会を失った。本当に悲しいことである。計り知れない損失の上で同じ轍を踏む…重ね重ね悲しいことです。




私が危惧しているのは、学芸員の中で上のような議論にならないことです。なっているのかもしれませんが。




もっと回答を頑張らないと。この方は財政面からの回答も期待しているわけで。回答者はもっと説得力のある回答をしなければなりません。



上野



ここに「富士宮市には高すぎる」とありますが、それが本当に正しい感覚なのかを考えてみる必要性があると思います。自身の方に感覚のズレがあるという可能性を "万が一にも疑わない"という方でなければ、再考の余地があるとは思いませんか。


【きらら】

きらら


大鹿窪自体が、交通の便が悪いです。大鹿窪を「交通の便が良い」と捉える人はあまり居ないと思います。


  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2000), 『元富士大宮司館跡』
  2. 富士宮市教育委員会(2014),『元富士大宮司館跡Ⅱ』

2022年9月11日日曜日

郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編

富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」の続編となります。

  • はじめに

皆さんは、歴史学という学術分野において富士宮市が極めて深刻とも言える危機的状況に立たされていたことをご存知でしょうか?20世紀後半頃、富士宮市は外部からの猛烈な作用に晒されていたのです。しかもそれは、歴史学だけに留まる性質のものでは無かったのです。

上野公民館

このように富士宮市には博物館がありませんから、あまり研究報告がありませんでした。一方で他県の博物館の学芸員により富士宮市の歴史について言及されるケースはありました。やはりそれは富士山に関わることであり、特に「大宮・村山口登山道」について言及されるケースが目立ちました。

では他県の博物館、その中でも富士山に特化した「富士吉田市歴史民俗博物館」(現・ふじさんミュージアム)所属の学芸員が大宮・村山口登山道についてどのような評価をしてきたのかを見ていきましょう。以下に一例を示してみます。すべて「原文のまま」です。

表口登山道はもともと信仰場が少ない後発の道ではなかったか」「それぞれの登山道ごとに富士禅定の道・登山道は整備されていくが、相対的に北口が古い道筋ではなかったかと考えられる」((堀内1989;pp.583-592),原文ママ)


端的に言えば「吉田口が一番古い」と主張されているわけですが、その論拠はかなり強引です。表口登山道の後発説については、大宮口における比較的正確な合目区分を見て「新しいから機械的に正確に分けられていたのだ」としています。これもかなり無理な言い分です。

また「北口が古い道筋」という主張については、江戸時代の編纂物である『甲斐国志』の記述などを論拠としており、その遺物自体は現存しないというのに主たる根拠としています。また吉田口登山道に出土物が多いことを根拠ともしていますが、それぞれの年代から考察しているわけではないのです。しかも金石資料の多さだけで断定しています。それに加え、都合が悪い須走口における古い発掘物に関しては「詳細は不明である」で終えているのです。

こんなものではありません。実はどんどんエスカレートしていきます。

村山大鏡坊の所蔵する慶長期の文書の記述に注目したい。それは道者の登拝路は吉田口と須走口だと記すものである。つまり、富士道者の登山は吉田口と須走口に限られていたことになる。((堀内1993;p.33),原文ママ)


つまりこれは「大宮・村山口は登山道としては利用されていなかった」と言っています。いくらでも表口における道者の記録は存在しているのですが、作為的抽出である上に解釈が強引なものとなっています。

また以下は、それ以後の論考になります。

それ以前の登拝の道程はどうであっただろうか。岩本から直接村山へ赴き、そこから登山するのとは別の道程も考えられる。(中略)つまり、上井出や本栖を経、富士の西麓を巡って甲斐側に迂回して御山へ登拝する道者が存在したわけである。(中略)この記録の書かれた慶長以前は、富士道者の登山道は吉田口と須走口だとするものである。今川氏を端緒としてその後の徳川氏が通行整理のために、富士川以西の道者の登拝を村山口に限定したのは、他国へ通過する道者を領国内に誘致する政策によるものだったのである((堀内1995;pp.138-140),原文ママ)

著者の解釈では「右之内吉田・須走両口は、東西の道者登山致候」という記録は「登山道は吉田口と須走口のみであった」ということを指すとし、大名による政策で一時的に大宮・村山口が利用されたこともあったに過ぎないとしているのである。なぜこのような強引な解釈に落ち着いてしまうのかと言えば、結論ありきであり、また学芸員による強かな意図があるからなのです。

このような論考が1980年代という時点で既に出されてきている中、富士宮市側はそれを検証するような機会すら設けることもできないまま時を過ごしてきました。山梨県側の学芸員は様々な媒体を通して報告を繰り返し出すに至るという状況なのに、富士宮市側はノータッチでした。

つまり大宮・村山口登山道についてあまりにも不当な評価を繰り返され、いわば一方的なサンドバック状態だったのです。富士山に特化した博物館の学芸員が言うことですから、影響は大きいです。あわや、慶長期以前は大宮・村山口登山道は利用されて居なかったという考えが定説になってしまう危険性もあったのである

しかし労作、大高康正『富士山信仰と修験道』に所収されるような論考類の報告や他県の博物館の研究(一例を出せば館山市立博物館企画展「富士をめざした安房の人たち」も解明に一役買っている)も重ねられ、大宮・村山口登山道が見直されていきました。しかしこの領域を研究する人物は大変少なかったのです。このような研究者が現れていなかったら、富士宮市は大変なことになっていたでしょう(氏は郷土史博物館構想の委員でもあります)。しかも何も打つ手もないまま富士山が世界文化遺産に登録されていたら、富士宮市の資産は構成資産から除外され、無惨な状況となっていたことでしょう。「歴史学だけに留まる性質のものでは無い」というのは、そういうことなのです。

例えば文化課が何か調査をするとして、予算を申請したとします。仮にそれを判断するのが、議会ではなく今回の地域説明会の来場者の方々だったとします。その場合「何になるのか」とか「価値が分からない」「成果が出るか確証がない」といった文言を並び立て、物事は進捗しないばかりか全く通らないかもしれない。そして富士宮市側からの検証は何も出来ず、構成資産も富士宮市のものは数が制限され、悲しい結末を迎えたことでしょう。

しかも恐ろしいのは、そのような方々というのは「良かれ」と思ってやっている節があることです。本来得られたはずの成果や失った時は戻らない。質疑応答では決定の主体が「議会」であることに質問者が意義を唱えるようなものが何例かありましたが、私はそれ以外の場合の方がよっぽど怖いです。なので私としては、そのような主張をされた方々はそれを撤回するという英断を迫りたい気持ちもあるわけです。


富丘公民館


ここにあるように、古文書類は1万点程存在するようです。富士宮市がもう少し史料を広く公開できる状況にあったら、状況は違っていたかもしれません。これも、博物館が無いと難しい。「世界の富士山」であるのに、富士宮市はこの状況を等閑視していました。これは静岡県の問題と言ってもよいかもしれません。

もうお分かりのことでしょう。皆さんは、博物館の機能を狭く捉え過ぎているのです。そして学芸員の役割の大きさを甘く見ています。「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」で確認されるような"疑問を持つ人々"というのは、その意見に鑑みるに、このサンドバック状態を間接的に支持し得る存在と言っても間違いではないはずです。身内に敵が居るじゃないですけど、そんな感じです。

富士宮市に研究を促進させる体制がなく、不当な評価を許す状態が長らく続いていたことは否定できない事実です。これは富士宮市にとっての損失であり、市民としてそれを残念がるのが普通ではないでしょうか。それに民俗博物館が位置する富士吉田市は、富士宮市より遥かに経済規模が小さい自治体です。そのような点も考えた方が良いと思います。


以下、意見になります。

【西公民館】


初めから観光で良いと思います。「富士宮がどういう所なのか、自分たちがどのような資源を持っているのか」なんてものは、既にやっておいて然るべしなのです。戦後何年経っていると思っているんですか。そもそも観光客の方が富士宮市の歴史に詳しいのだけれども、それでも何とも思わない富士宮市民を律するのは大変でしょう。これは、これまでの文化課の姿勢そのものの問題でもある。


廃校を利用するということは、「廃校させる」ということでもある。今現在廃校は無いし、この意見が多い事自体が不思議としか言いようがない。また廃校の維持コストが本当に見合うものなのか、よくよく考える必要がある。


維持・管理のために必要だと思います。

 【柚野公民館】


同じ国指定史跡である「千居遺跡」の例を見ても分かるように、大鹿窪遺跡においても今後の展望はそれほど期待できるものではないと思う。例えば仮にガイダンス施設の認可が降りていたとして、実際に人が来たのか極めて懐疑的である。

私は千居遺跡の写真を撮りに現地へ赴いたが、「え?これじゃなんにも見えないよ…」と非常に落胆した記憶があります。仮に千居遺跡がもう少し整備されていたとする。それでも、どう考えても人は来ない。大鹿窪遺跡も同様の道を辿るでしょう。確かに発掘時は人が来たのかも知れないけど、それは一時的なのです。大鹿窪遺跡に夢を見すぎているように思う。



富士市の富士市立博物館・歴史民俗資料館は補助金が出ています(富士市1986;p.818)。内訳は以下の通りです。

施設国庫補助金県費
博物館5,500万円3,000万円
歴史民俗資料館700万円350万円

つまり国だけでなく、県からも出ている。正直、補助金の有無というのは"雲泥の差"どころの話ではない。しかしながら、富士市の場合はこれが成功だったとも言い難い。上井出出張所での質疑応答に対する回答に、以下のようなものがある。

先ほど一億円が独り歩きしちゃうって話ですけど、議会でも答弁しましたが、 富士山かぐや姫ミュージアム、ここは広大な面積がありますが、旧家の建物も全部管理していて、それで一億超えている状況でかなり人件費もかかっています。

実際にどのような建物群があるのか、また建設コストはどうだったのかを見ていきましょう。以下、展示室の建物および資料館以外の「旧家等の建物」を一覧化してみる(建設当時のもの)

施設建設費
長屋門・原泉舎29,884,000円
松永家住宅39,000,000円
横沢古墳10,897,000円
眺峰館17,700,000円
東平遺跡高床倉庫15,700,000円

これらの維持コストがとんでもないことになっているわけである。補助金は沢山捻出させることに成功したけれども、その維持コストが過大ではあまり意味がないのである。またその後も同じ轍を踏み、追加で「杉浦医院」その他施設を設けているので、コストがとてつもなく膨らんでいると思われる。開業当初には無かったものがいくつも追加されている。

富士宮市は、富士市のような構成(建造物を何箇所も建設する)にはしない方が良いことは言うまでもない。


やはりハード面と歴史に何らかの関係性は求めたい。


  • 参考文献
  1. 富士市(1986),『富士市二十年史』
  2. 堀内真(1989)「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店
  3. 堀内真(1993)「富士参詣の道者道と富士道」『甲斐路No.76』
  4. 堀内真(1995)「富士に集う心 : 表口と北口の富士信仰」『境界と鄙に生きる人々』,新人物往来社

2022年9月7日水曜日

富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見

 「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」の続編になります。「地域説明会において提起された意見のまとめ」という資料が富士宮市により公開されているため、取り上げていきたいと思います。

資料の一部


  • はじめに
皆さんの意見を拝読させて頂きましたところ、「資金のスケール感」が独特であるように感じられたので、一度例を出して整理してみようと思います。まずは「億超え」事例の1つである「富士宮市による新富士駅建設費の負担」を例に考えてみましょう。富士宮市が新富士駅の建設費をどれだけ負担したのかというのは、(南部町誌1999;p.847)に記されています。

自治体負担額
富士宮市5億8,300万円
芝川町・富士川町・蒲原町・由比町8,600万円
西伊豆5町村500万円
山梨県2億円
8億7,400万円
計(最終報告)※(富士市1989;p.32)より7億2,100万円
※事業費は最終的に少し減額されたため、約6億円ではなく約5億円程であると思われる

私がこの金額をどう捉えているのかと言うと、「法外な高さ」と感じています。何故なら


  1. 結果として「身延線」と接続されていない=富士宮市民が金額に見合った恩恵を受けられていない
  2. 物理的存在として、富士宮市に所在するわけではない資産


であるからです。つまり富士宮市に出来るわけでもなく、利便性が高いわけでもない。そのようなもので、5億円以上の負担は高いと言いたいのです。

仮に億以上の金額が出るのであれば、それは最低限富士宮市に所在するものであって欲しいし、また他の意向に縛られない施設(この場合は富士宮市に関する内容)であって欲しいと私は思うわけです。まずこの博物館事業では、それが担保されています。

「そんなの当たり前でしょ」と思われる方も居るかもしれませんが、上のような事例を把握して頂いた今、当たり前ではないということは分かるかと思います。そして、富士宮市の大切な文化財を保護できるという「恩恵」も担保されています。まずそれを理解した上で、意見は表出されるべきだと思います。皆さんの意見を外から拝見する限り、"何やら何処からか負担を強いられている"かのようなスタンスに感じられます。

財政面で考えてみましょう。地方自治体の税収は「工業」に拠る所が大きいですが、製造品出荷額等が年間約1兆円を誇り本社も一定数位置する富士宮市にとって、約20億円の博物館を建設することがそれほど難しいことなのかという話です。私は、それほど難しいことではないと考えています。むしろそれに見合った「結果」を出せばよいだけの話です。求められるのは「結果」のはずです。

更に皆さんにとって身近なもので考えてみましょう。例えば「イオンモール富士宮」の土地・建物の所有者は㈱イオンです。小売業の企業が、店舗が所在する土地自体を所有している例は実は珍しいです。それ程あることではありません。この土地はオーミケンシ(オーミ・リアルエステート)が民間都市開発推進機構から土地を取得し、その土地を㈱イオンが買い取ったことによります。イオンの買収額は土地が62億5,000万円であり、建物は24億円です。億というお金は、身近なところで常に動いています。

この種の「事業説明会」で問題となるのは、結局のところ「その人の資金のスケール感」です。詰まるところ、経済等に殆ど通じていないような人が、「億」という金額を聞いて条件反射のように反応しているだけの話だと私は考えています。なので、質問に生産性を感じられない。そのような層だけの意見を聞いていたら、富士宮市は不幸なことになると思うわけです。何も出来ず、そこには一方的な不幸が待ち構えていると思います。

そして私は

市民の意見に対して市民が意見する

ということも重要だと思っています。「意見」を述べる人に対して「意見」を言ってはいけないわけもなく、以下で実際にそれをしていこうと思うわけです。"意見を述べる人が意見を述べられる側にはならない"と考える大人も居ないと思われますし、その材料を富士宮市が提示してくれているので、向き合ってみようと思うわけです。

資料の制約上「抜粋」でしかないというのは承知の上ですが、それでも本質は要約されていると思います。記される文言に対し正面から向き合い、意見を述べてみようと思います。


以下、意見になります。

  • 事業の意義に対する疑問

他に優先するべき事業があるなかで20億円以上をかける事業を行うことに反対

この種の意見は他分野でもよく見かけるものであり、ある種「紋切り型」と言ってもよいと思います。これに対しては単純に「どうして並行して進めてはいけないのでしょうか?」という問いに尽きます。

不登校対策、子どもの貧困対策、具体例なし

これが、博物館事業ということを理解する必要性があります。アマゾンのレビューで、商品のレビューをしなければならないのに「配送が雑でした」と書いているようなものです。

整備費用を給食費の軽減に回すべき

意味が分かりません。上に同じ。

もっと今の生活者のために回すべき

日本国による十分な保証があります。

特に具体策はないが、他を優先すべき

このレベルの意見で、説明会に来る意味がありますかね。

なぜこのタイミングで博物館を整備しなければならないのか疑問

逆にどのタイミングなら妥当と考えるのかを教えて欲しい。

子どもたちの理解を深める役には立たない

子どもたちの可能性を甘くみないで下さい。

 富士山学習への取り組みは十分で改めてターゲットにする意味がわからない

富士山学習への取り組みを無しにして、博物館事業を進めるでも良いかもしれない。一理ある。

観光客誘致を目的としたいが隠しているようにみえる

観光客を誘致して、何が悪いのですか?教えてください。

保存場所の確保ありきで後から博物館にする理由を付けているように思える

そうでしょうか。

利用者がいないのに整備する意味がない

一見するとそっけない意見のようにも感じるけれども、埋蔵文化財センターの利用者が少ないのに危惧する気持ちは大いに理解できる。しかし施設自体はそもそも出来ていないのも事実。埋蔵文化財センターは博物館ではありませんからね。

保存する文化財の価値が低い

単なる知識不足です。文化財の価値が低いのではなくて、質問者の知識が低いのです。文化財は、「文化財指定されたもの=文化財の価値」というわけではない。例えば岡路八幡宮の「綱敷天神座像」は、綱敷天神を彫刻化した作例として珍しいものであることが指摘される(鈴木幸人「天神在地縁起の研究」)。仮に文化財指定されてなくとも、各々価値は有するのである。

そもそも、博物館を文化財だけで定義しようとする考えそのものが、とてつもなく浅い。博物館を実物だけで構成する必要性は全くありませんし、そうではいけない。

例えば私は過去、富士宮市が舞台となった絵図を一覧化しようと試みたことがある。しかしこれは断念せざるを得なかった。何故なら逸話が多すぎて、絵画化例が多いためである。「富士の巻狩」や「富士の狩倉」関係だけで見ても、『曽我物語図屏風』や各種「武者絵」など、枚挙に暇がない。これらには浮世絵も含まれる。

例えば富士宮市の地図に番号を付し、その番号に応じた絵画化例をパネル等で展示するとする。これによって市内のどこの箇所を絵画化したものが多いのか、そしてその作品傾向が一目で分かるわけであるが、絵画は実物でなくとも良いのである(そもそも多くは用意できない)。

「保存する文化財」という視点で考えてみても、大変におかしな指摘である。富士宮市は「千居遺跡」や「大鹿窪遺跡」の発掘物を有しているが、この両者は国指定の『史跡』。国指定史跡というのは、そこらへんにあるものでは決してありません。文化財の1つである「特別天然記念物」を富士宮市は2つ程有していますが、日本全国で複数有する自治体なんて殆どないでしょう。現状を少しでも知っていれば、絶対に出て来ない意見だと思います。

歴史学習は他の事業で行えば十分

「他の事業」とは何ですか?また「歴史学習」は一側面でしかない。

 富士宮市の文化財だけでは展示を維持できない

本当に面白い意見です。富士宮市は国指定の文化財にとても恵まれている自治体です。知識不足が露呈しているに過ぎないと思います。また市が文化財を購入する事例もありますが、それこそ資金がかかってきます。例えば山梨県が『市河家文書』を購入した際は数千万円規模の出費であり、目玉となるような文化財取得はそれこそ資金がかさむのです。結論を言えば、見識が狭いとしか言いようがない。

(追記)

家康の肖像画と駿府城絵図入手 静岡市、歴史博物館で展示(静岡新聞Web版 10月5日)
 静岡市は4日、2023年1月にグランドオープンする市歴史博物館(葵区)の所蔵品として、徳川家康の肖像画や駿府城の絵図を入手したと明らかにした。花村章弘歴史文化課長が同日の市議会観光文化経済委員会で説明した。市が昨年11月に京都の古美術商から385万円で購入した。(抜粋)

(追記終)

説明内容ではワクワク感がない

確かに、説明会の時点ですら「ワクワク感」を感じられないのは良いことではない。プレゼンが魅力的でないのかもしれないですし、事業内容自体が魅力的でないのかもしれません。この種の意見は重要だと思います。一般の人が博物館に行くとき、そこには「ワクワク感」があるはず。お目当ての刀剣を見たいとか、富士山世界遺産センターのように建築自体にも関心があるとか、既に目的があることが多い。仕掛けがないと人は来ない。

地域の博物館には何回も行くわけではないに多額の費用をかける意味がない

もしかしてご存知ないのかもしれませんが、一般に「特別展」や「企画展」の度に同じ博物館に行くことは珍しいことではありません。「地域の博物館」とありますが、どの博物館も「地域の博物館」です。

地域密着では博物館として成り立たない

逆です。地方の博物館は、地域密着の内容でないと成り立ちません。しかも費用をかけて"富士宮市にあまり関係のないものにフォーカスする"というのはもったいないという言い方もできる。

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「事業の意義に対する疑問」に対する意見は以上です。一度ここで区切りを設け、この方々によって博物館計画そのものが練られたと仮定した場合、どのような産物が想定されるのかを考えてみましょう。「20億円以上をかける事業を行うことに反対」という意見があり、別意見で「2億~3億程度なら容認」という具体的数字も出てきているので、これを引用した上でまとめると以下のようになります。

2・3億という低予算から給食費・生活困窮者の生活費を差し引いた上で運営し、スタッフが子どもの不登校対策や貧困対策をも並行して考え、一方で博物館なのに歴史学習を行ってはならず、また観光客も誘致してはならず、地域密着の展示では構成しない方針で挑む。

これが、疑問を持つ方々による最大公約数的な意見です。「どのような産物になるのか」は、言うまでもなく悲惨なものとなるでしょう。

  • 20億円以上かける事業に反対(費用節減策の要求)

22億円かかる事業を行うこと自体に反対

もし単純に22億という数字に気圧されているのであれば、22億のスケール感が一般と乖離しているだけかもしれない。この考え方だと、20億以上の事業は富士宮市で未来永劫できないことになり、上のように一方的な不幸が訪れることでしょう。そのような不幸に巻き込まれるのは、一般市民なのです。

ハコもの整備は時代遅れ

「コンクリートから人へ」といった標語が好きな方はそう思うかもしれない。

ハコを作らなければ何もできないという昭和的発想

この「紋切り型」の感じが昭和的発想なのです。昭和的発想の人が、その例に漏れず発言しているが、それに気づけていない可能性がある。実際、具体案や代替案があるようにも思われない。

新生児が700人/年という状況の中で進める事業としては高額

いち意見としては成り立っている。

博物館のために増税することに反対

「博物館のために増税」の根拠が見当たらない。

費用節減を考えるべき

そうですね。

廃校の利用による整備費用節減

それで逆にコストがかかる可能性が高いと思われる。「廃校の利用」=「コストの削減」になるというデータが欲しい。住宅でも、後からリフォームする方が大変な資金が必要である。学校の設備をそのまま転用できるケースなら良いが、博物館はそれに当てはまらないというのは現時点でも分かるかと思う。

デジタルを活用した展示を行えば施設は不要

文化財は物理的な存在。なので施設は必要。

設計コンペを行い、低額で設計させればよい

役所ですから、わかっていると思います。

2億~3億程度なら容認

家数戸分ですよね。絵に書いたような「資金のスケール感問題」を体現されている方です。長く使用できる家庭用の体温計ですら数百円のものを買おうと画策する人もいますし、調理器具も非耐熱を買って結局すぐ駄目にしてしまう人も居ます。「安かろう悪かろう」を家庭内に飽き足らず行政に持ち込むことが好きな人が居るわけです。2・3億で作れなんていうのは、普通の意見ではないです。

ちなみに、富士市の「山部赤人万葉歌碑」の建設費(昭和61年完成)は704万円です(富士市1986;p.843)。2億円だとすると、だいたい歌碑28.4個分です。物価を加味すれば、更に作れない計算となります。

  • 事業の進め方が不透明

市民への周知の不足

あるかもしれない。

いつの間にか博物館建設が決定されている

議論の存在自体も把握していなかったとすれば、それは単純に新聞を読んでいないだけです。

いつの間にか建設が決定されて20億の予算が確保されている

上に同じ。

博物館の必要性の周知が不十分

博物館の必要性を誰しもが理解できるとは限らない難しさがありますよね。

検討委員会の議事録公開 

博物館議論を進めていた市議会の議事録は公開されています。委員会の方は特段必要性を感じない。委員にも費用がかかるので、コストがかさみます。

議論に関する情報公開の要望 

「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想」でも十分と考える。しかし一度ゼロベースで検討しても良いと考える。それくらい現時点で展望を感じないのも事実。

市民に周知しないまま建設が決まっている

周知は少し足りない部分もあるかもしれない。

決定過程が不透明 

そうでもない。

議会で反対が賛成に変わった理由が不明で裏取引を疑う。

ドラマの見過ぎです。

なぜ今後のスケジュールが決定されているのか

スケジュールがないまま進んでいる方が不思議です。

コンサルタントの企画に乗っているだけではないのか?

普通に違うと思います。

財源の確保についての見通しがない 

財源確保の見通しが有るので、今議論しているのです。

20億円で足りるのか

ここも重要なところですよね。

20億円を確保できるのか

確保できると思います。

補助金がないなかで財源を確保できるのか 

なんとかして、補助金を獲得する取り組みは欲しい。有るのと無いのとでは大違いですからね。

他の事業に影響がないのか

どうでしょうかね。「新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」で記したように、富士宮市は地方交付税の不交付団体(≒財政優良団体)に断続的に指定されていた自治体です。不交付になるのは基本的には財政力指数が1.0以上の場合。富士宮市は財政が悪くない自治体なので、ここをウロウロできる位置づけにあるわけです。

しかし1.0を超えると、地方交付税が不交付になってしまい、頂けるものが頂けなくなってしまう。ここをなんとかコントロールし、頂ける範囲に落とし込んでいるわけです。一般市民は知る由もないこのような微細調整があって、なんとか色々な分野に投資できるよう図ってきたわけです。私は、その対象が博物館となる番が来てもよいと考えています。

財源がないなら反対

あります。

借金が増える

税収を増やせば良い。

次の世代への悪影響

今世代の悪影響を取り除く努力を、現在進行系でされているのだろうか。また、どのような悪影響を想定されているのか。

博物館が利益を生み出す工夫がない

その通りです。現時点で、そこの深い議論があってもよいですよね。博物館の利益が維持管理費になるのですから、ここは極めて重要な部分です。

増税につながるので反対

まちづくりセンターの類も同様の性質がありますが、それでも反対でしょうか。

埋蔵文化財センターの処分費用が計上されていない

埋蔵文化財センターは少しもったいなかった印象はあります。思うところはあります。

維持管理の財源が不明

やはり入場料を取って、且つそれ意外の工夫も求められるでしょうね。

コストと収入のバランスが悪すぎる

博物館はそういう面があると思います。本当にそこだけで判断してしまうと、市立病院も矢面に立つことになる。黒字の公立病院なんて、全国に殆どありませんから。収入はこれからの計画次第でしょうね。

事業計画を示すべき

今現在は示されている。資料公開の前後はよく分かりませんが。

公園をつぶして整備しようとする発想に疑問

富士山世界遺産センターも「公園をつぶして整備」したものですが、私は見事な計画であったと思っています。

整備する場所に歴史的ストーリーがほしい

この意見に少し感動しました。ハード面を歴史と結びつけて考えることは極めて重要だと思います。

ストーリーを作れるところに

コンセプトが希薄になる心配がありますよね。傾聴すべき意見です。

遺跡の近くに整備すべき

何とも言い難い。その方が良いようにも思うし、そうでないと思ったりもする。実際どうなんでしょうかね。傾聴すべき意見です。

公共交通機関など交通の便を考えてほしい

「子どもから高齢者まで」来てほしいですよね。その場合は公共交通機関は必須。映画館だって、駅前にイオンモール富士宮が所在するので、子どもたちだけで電車を用いて来ることが出来る。もしこれが郊外なら、車で送ってもらい、車で迎えに来てもらわなければならないことになる。それって、寂しいことじゃないですか。

難しいかもしれないが、公共交通機関で来れる場所だったら嬉しい。

白糸は湿気が多いので留意が必要

実用的な意見。
 
市街地に整備すべき

≒「公共交通機関など交通の便を考えてほしい」ということかな?

人が集まるところに整備すべき

上に同じ。 

学芸員の増強が必要 

同意。どう考えても、富士宮市は色々な意味で足りていない。中世・近世が特に遅れている。

例えば先照寺の説明で「武田家の重臣穴山信友が先妣(亡母)の後生善処を願い寄進した延命地蔵菩薩だと考えられます。(中略)そこには武田氏の勢力も寺院に御本尊を奉納するというように、この地域は今川氏・武田氏・北条氏の勢力が拮抗する所であったといえます」といった説明があります。しかし穴山信友の時代、とてもではありませんがそのような状況ではなく、あり得ない説明となっています。

おそらく中世の専門でない人が書かざるを得ないような状況が、そうさせているのでしょう。ということは、1人に対する仕事量も過大であると推察できるし、それは好ましい状況ではない。「歴史の啓発」(歴史ガイド的なもの)と「コンテンツ作成」(市HPや文書作成)と「研究」(学芸員としての探究)と「保存」(文化財の管理)を両立させるのは、本来無理なのです。


整備に向けてプロフェッショナルのアドバイスを受けるべき

同意。しかし郷土史博物館基本構想検討委員会の委員には、プロフェッショナルも居るようです。

以上になります。

  • まとめ

結局のところ、富士宮市に関する知識のない人々が、安かろう悪かろうを推奨しようとしているようにしか見えないというのが正直な感想である。説明会の主催者は、質問者のレベルまではコントロールできない。

そもそも博物館の「内容」に関する質問が少ないように見受けられる。全部「ハード面」なんですよね。本当に文化・歴史に関心があったら、その種の質問があって然るべきなのです。

説明会は上にあるような「ワクワク感」を感じられるものでなければならないし、行政側はプレゼン能力を鍛える必要性がある。説明会はネガティブなものではありません。伝えたいことを、御尊顔を拝しながら「直接的ないし暗に伝える」ことができる、限られた良い機会なのです。そのような考え方で挑めば、次第に納得される方も増え、最終的にはもう少し質問者が博物館の内容に言及するレベルまでになっていくと思います。

20億円が妥当であるかどうかは結果次第だと思うが、今現在の展望の無さがその気持ちを削いでいるというのが個人的な気持ちである。

  • 参考文献
  1. 南部町誌編纂委員会(1999),『南部町誌』 下巻
  2. 富士市役所総務部企画課(1989),『新富士駅設置までの歩み』
  3. 富士市(1986),『富士市二十年史』

2022年7月29日金曜日

富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる

「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想」を独自に模索してみようと思います。

資料「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想」をベースとし、それに対して私見を述べる形で進めていきたいと思います。同資料から引用し、該当する頁数を附しています。では、始めていきます。

(仮称)郷土史博物館事業 豊かな歴史や文化を後世に伝える博物館の整備を進めます。(P2)

まず仮称の「郷土史博物館」ですが、この名称自体避けた方が良いと考えます。絶対に人は近寄りません。外部から来た人なら尚更です。仮称であることは分かりつつも、不安です。

富士宮市史を刊行し、富士宮市の豊かな歴史・文化を後世に伝えます。(P3)


新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」でも述べましたが、図説的なもので補えるのか懐疑的です。

市内に広がる多数の歴史文化資源を巡り、身近に「見て、触れ、感じて」も らうことをコンセプトに、24のモデルルートからなる「歩く博物館」を設定しています。(P7)

私は富士宮市HPに公開されている「歩く博物館」の資料を基に現地に訪問するなどしましたが、明確に所在地が異なるものがいくつも存在した。示されるポイント(グーグルマップでいうところの「ピン」)があまりにも巨大で、全く詳細が掴めない。ポイントが荒いだけでなく、明確に誤っているものもあり、訂正が必要である。

埋蔵文化センターの存在を知りませんでした。この施設の存在意義とは。市民に 告知されているのでしょうか。(註:アンケートより)(P8)


そもそも、自分から存在意義を調べようとしましたか?広報を見たことはありますか?

富士山と埋蔵文化財があるので世界遺産センターのような施設を作り県外を始め、国外からやってくる人を対象にした施設を作って欲しい。(註:アンケートより)(P8)

世界遺産センターのような施設は要らないと考えます。気持ちは分かります。

市民や多様な利用者が、富士宮市の歴史・文化の全体像を把握するととも に、市内に数多く所在する歴史文化資源や世界遺産富士山の構成資産などを知ることができるよう、展示施設等や富士宮市が展開する「歩く博物館」と連携し、市内周遊を促進する取組が求められます。(P9)


まず資料の完成度を上げる必要がある。人を動かしたいと本当に思っているのか、疑問にすら思う。

あらゆる世代の人々が気軽に訪れ、憩い、交流し、活動を行うことができる開かれた空間を備えます。市民や多様な利用者の様々な活動に利用することができる空間を提供します。(P13)


その「場」ですら歴史的なテーマを含むものであって欲しい。ただの「箱」で良いのだろうか。『築山庭造伝』に記される富士大宮司邸(茶庭・大書院)を模したもの等、施設自体の工夫を求めたい。もっともっと考えても良いと思う。


富士宮市の歴史と文化を学び、自ら調べる活動をとおして、より多くの市民が郷土への理解と愛着を深め、生きがいや心の豊かさを実感で きるよう、多様な探究と創造の機会を提供します。(P13)


おそらく、以下のような事例が広く認められるようになることを望んでいるのでしょう。



「自ら調べる」と言うと"文献にあたる"必要性があると思いますが、例えば富士宮市立中央図書館は郷土史に関わる文献が一部欠如しています。外郭の環境整備も必須かと思います。当ブログは参考文献を数百程掲載しておりますが、蔵書化することが望ましい文献は多く存在しています。年数が経れば経る程、入手は難しくなっていくのです。

この高校生らは研究レポートのテーマとして「富士氏」を選んだわけですが、通史で考えていくためにまず「古代」を調べようとしても、富士宮市の図書館にはその文献はあまりありません。古代を取り上げた「富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時」で挙げた参考文献も、半分も無いようです。全く話になりません。富士宮市の図書館だけでは、基本的な地域史情報の把握が出来ないというわけですね。

市民や多様な利用者が、富士宮市の歴史・文化の全体像を把握し、市内に数多くある歴史文化資源や世界遺産富士山の構成資産等を知り、市内を巡るきっかけを提供します。 (P13)


当地で数百年にわたり影響を及ぼしてきた「富士氏」ですら、市民の殆どが知らないのです。近年それらを取り上げる動きがやっと認められるようになってきたものの、失われた数十年は戻らない。現在の位置から考えると、「全体像の把握」は途方もない目標のように感じてしまいます。本当に途方も無いことだと思います。

(1)富士宮市の貴重な歴史文化資源の散逸を防ぎ、未来へ継承します。 [ 展開例 ] ① 現在の埋蔵文化財センターが収蔵する資料に関する情報を一元的に管理 します。 ② 富士宮市の歴史・文化に関する資料を、市民等からの受贈や寄託により、 また、必要に応じて購入することにより、体系的に収集します。(P16)


現在の富士宮市内房橋上(旧芝川町域)を根拠地としていた「森家」も、「森家文書」を静岡県側ではなく山梨県側に寄託しています(富士川との関わりが如実に現れている文書です)。もうだいぶ散逸しているのが現状でしょう。「森家文書」は富士宮市のせいではありませんが、思う所はあります。

ちなみにこの辺りの歴史も、富士宮市が取り上げているかと言われれば、そんなこともないのです。

(1)市民の活動に資する調査研究を行います。 [ 展開例 ] 学芸員による調査研究をとおして、富士宮市の成り立ちや歴史文化資源の 形成に係る特徴など、富士宮市の歴史・文化の基盤を明確にし、その成果を市民に提供します。(P17)


一例を出せば、「富士宮市文化財調査報告書」も50を優に超えてはいるものの、あまりにも考古学に偏りすぎている。この中で「中世・近世」をテーマとしたものがどれだけありますか?

富士宮市の報告書群を見ると、まるで「文化財」=「古代」と定義しているかのように錯覚すらしてしまう。信じられないような偏りだと思います。まず「時代の偏り」を内側から是正して欲しいです。文化課の姿勢にも問題があると考えます。

市民の活動に資する調査研究を行います。 [ 展開例 ] 学芸員による調査研究をとおして、富士宮市の成り立ちや歴史文化資源の 形成に係る特徴など、富士宮市の歴史・文化の基盤を明確にし、その成果を市民に提供します。 [ 必要機能・要素等 ] ・調査研究室、書庫、倉庫 ・収蔵資料データベース、歴史文化資源データベース、WEBサイト(P17)

富士宮市のWebコンテンツ量は、極めて少ないです。そして、とても分かりにくいです。

④ 世界遺産富士山や「歩く博物館」など歴史文化資源の拠点として、価値や魅力を紹介するとともに、アクセス情報を提供し、現地へ誘います。(P18)


資料の改訂を早急に行ってください。普通の人は行けません、これでは。「示されるポイントがあまりにも巨大」と上述しましたが、実際に見てみると"道の幅×8ないし10"くらいの巨大サイズです。

星山の手ひきと倭文神社コース(Jコース)

冷静に考えてみましょう。4.4cm(スケールバー)に対して距離200mのとき、ポイントの●は、直径およそ1.1cmです(ブラウザやズーム比等で表示されるサイズは異なりますが、比率自体は同様。原寸大ならおよそ1.8cmに対して距離200mで、●の直径およそ0.45cm)。簡単に言えば、おおよそ●4個分で200mということになります。

ということは、この1つの●だけでなんと直径50mの範囲を指しているということになります。実際は、この直径50mという広範囲の中から石造物等を探し当てる事になるわけです。それが各箇所に課されます。不親切であることは言うまでもありません。訪れて欲しいと思っているようには、とても思えませんよね。またこの場合、たとえ●1つや2つ分のズレであっても、全く別の箇所を指すことになります。

「歩く博物館」という言葉は同資料で「P7」「P9」「P18」「P21」「P38」と、かなりの高頻度で登場します。とやかく言いたくありませんが、もし売りと考えているならば、せめてそれに直接関わる部分くらいはそれなりのものを求めたくもなります。

③ 小中学校による地域学習「富士山学習」の場として、情報提供などの研究 支援を行います。 ④ 学校教員と連携し、学習プログラムや学習教材を開発・展開します。 ⑤ 学校の学習プログラムとの連動性を高めた取組を展開します。 ⑥ 教育普及ボランティアによる展示解説を行います。そのための人材育成プ ログラムを開発・展開します。 [ 必要機能・要素等 ] ・講座室、ワークショップルーム、屋外学習スペース、図書・情報室、 ミュージアムショップ ・教育普及担当職員、教育普及ボランティア、展示解説(P20)


正直、教員の負担をこれ以上増やさない方が良いのではないかと思うところもある。が、学習の中で富士宮市の歴史をほんの少しばかり挿入する工夫があるだけでも、学生の見方は大きく変わるようにも思う。以下に一例を示す。


先生)『今昔物語集』という平安時代に成立したとされる作品があります。(興味薄)
       ↓
変更例)『今昔物語集』いう平安時代に成立したとされる作品があって、実は「富士宮」も出てくるんです(興味がちょっとは出てくる)


というように、やりようは幾らでもある。つまり「義務教育で習うような知名度の高い史料」と「富士宮市との関連」を示す対応表などを作成する努力はあっても良いと思う。それを「富士山学習」で活用するという形が現実的ではないだろうか。余裕があれば普通の授業で挿入しても面白い。

また、多くの学校で用いられている山川出版社の『詳説日本史図録』には、富士宮市の事柄が2つ程確認される。1つ目は「富士大宮楽市令」であり、2つ目は「富士金山」である。このような学校の参考書に記されるレベルのことでも、学生・市民は殆ど知らないのである。これが現実です。現在地を知る必要性があります。

このような状況を打破できずにいるのは、富士宮市教育委員会のベクトルが誤っているためである。土壌づくりをあまりにも怠りすぎた。これをまず認める必要がある。必要なのは、現在地の底上げだったわけである。上記で言及したように、「全体像の把握」は途方もない目標です。本当に、あまりにも、途方もない目標だと思います。

そもそも行政側が出来ていないというのに、市民への啓発などできようもない。

地域の自然環境に調和し、市民の誇りとなるような優れた建築デザインを 目指します。(P24)

歴史史料に確認されるような、富士宮市に所在した建築を模して頂きたい。平面図を3D化する技術は既に確立されている。現地点でもっと考えて欲しい。

埋蔵文化財センターは現在地から移設し、本博物館に併設します。現在の 埋蔵文化財センターは立地などの観点から廃止します。 ・郷土資料館は、本博物館に統合します。(P25)

妥当である。

本博物館で必要となる機能の全てを整備することができる既存の建物がないため、新築することを前提とします。(P25)

妥当である。


整備及び維持管理費用を勘案し、必要な機能を満たしつつもできるだけコンパクトな建物を整備します。(P25)


一考の余地あり。むしろ災害との兼ね合いで、ある程度面積があった方が良いという考えもある。


施設合計 約 2,600 ㎡ 屋外 体験学習スペース(学校団体の昼食場所を兼ねる)、大型バスの車寄せ約 1,000 ㎡(P27)


マックスバリュより狭いですよね。


現状では活用することができる補助金等は確認できていません。今後、地方創生交付金や寄附金など活用することができる財源について研究します。(P29)

もっと規模が大きい方が模索できるのではないか。「安物買いの銭失い」では困る。

維持管理費についてはもちろん「市の財政」からとなる。地方公共団体の税収は、企業の固定資産税等に拠る所も大きい。平たくいえば、富士宮市に本社を置く企業が増えてくれれば、嬉しいのである。そうすれば、他分野にも振り分ける余裕が生まれるのである。

こういう基本的な構造すら理解していない人が、よりによって行動力を有し、説明会等を介して「安物買いの銭失い」へと誘導するのである。行動力があるので、他方で「税収が期待できるモノ・コト」のきっかけを奪っていたりすることもある。これを、正義感を持って行うのである。こういう悪循環が地方には有る。


本博物館の敷地として利用することができる可能性がある市有地のうち、前述の敷地面積(約6,000㎡)を確保することができる場所は、次の3か所(4地点)です。現時点では新たに用地を取得することは想定していません。(P30)


公共交通機関や自家用車、大型バスでの来館がしやすい立地に設置します(P24)」という考えと相容れないでしょう。


本市の歴史文化資源を継続的かつ効果的に保存管理し活用していくために、 入館料を徴収します。入館料の額は、減免対象なども含めて、今後検討します。(P35)


良い。それ故にストイックに来場者数を求めていく姿勢が欲しい。一番必要な人材は、それを成すことができる人です。そのために努力できる人です。

以上が、資料「(仮称)富士宮市立郷土史博物館構想」に対する私見です。

ここで、ある小さな施設の話をしたい。私は隣町の山梨県南巨摩郡南部町にある「道の駅なんぶ」に行ったことがある。事前に知る所では無かったのだが、そこには「南部氏展示室」が設けられていた。見てみると、それはそれは小さな空間であった。


「道の駅なんぶ」HPより

しかし私は、その空間の小ささからは想像も出来なかった充足感に満たされた。これは紛れもなく、「効果的な演出」によるものである。と同時に、南部町でははっきりとした形で「南部氏」をアピールする試みが認められるのに、富士宮市は「富士氏」をアピールする試みが無いのだという失望を覚えた。これが「意識の差」なのである(自治体の規模を加味すれば尚更である)。

富士氏は富士宮市の領主であり、しかもそれは永に渡ったものであって、城主の時代もあった存在である。言うまでもなく、フラッグシップとも言うべき位置づけにある。南部町にとってのそれが南部氏であり、確かな「形」としているのである

また南部町は、町HPに「南部氏の郷」という独立したコーナーをしっかりと設けている。そのため、ブラウザで「南部氏」と検索すれば1ページ目にはしっかりと表示される。もちろん、富士宮市にはそのようなものはありません。言わずもがなですが、検索して表示されることもありません。そこには、「意識の差」などという柔い言葉では本来済まされないような現実がある。南部町の方が、遥かに進んでいます。

以下の古文書は、「南部氏展示室」で撮影したものである(撮影は「可」とあり)。


この古文書は既知のものであり、「日蓮の身延入山と富士宮市・富士市」でも取り上げている。私は「大宮の初見」と思っているのであるが、解説も極めて分かりやすいものであった。一方で富士宮市の展示で「分かりやすい」と思ったものは、正直これまであまり無かったように思う。

私は、基本構想の前提自体が危ういものであると感じる。そして、現在の問題点を早急に改善していかなければならないと思う。もう時間はあまり無いだろう。

2022年7月24日日曜日

梶原景時の変と駿河国在地武士、三澤氏と三澤寺

「梶原景時の変」の末に梶原一族は滅亡するが、実は梶原景時らが討たれたのは「曽我兄弟の仇討ち」の地である静岡県富士宮市のお隣、現在の静岡県静岡市であった。


梶原景時

『吾妻鏡』正治2年(1200)正月20日条には以下のようにある。


廿日 (中略)亥の刻、景時父子、駿河国清見関に到る。しかるにその近隣の甲乙人等、的を射んがために群集す。退散の期に及びて、景時途中に相逢ふ。かの輩これを怪しみて矢を射懸く。よって庵原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎これを追ふ。景時狐崎に返し合はせて相戦ふのところ、飯田四郎等二人討ち取られをはんぬ。(中略)また景時ならびに嫡子源太左衛門尉景季〈年丗九〉・同弟平次左衛門尉景高〈年丗六〉後の山に引きて相闘う。しかるに景時・景高・景則等、死骸を貽すといへども、その首を獲ずと云々。

非常に激しい戦闘であったことが見て取れる。またこの討伐には駿河国の在地武士が主体として参加しているため、駿河国の情勢を考える上でも参考となる。

梶原一族の討死を順番通り記すと、先ず梶原景茂が、その後兄弟四人(景国・景宗・景則・景連)が、そして景時景季景高が死している。景朝は生き残っている。このうち下線の人物は「富士の巻狩」にも参加した人物である。景時は所々で大役を努め、景季は矢口餅を陪膳した人物であり、景高は万寿(源頼家)の初鹿狩りを鎌倉へと伝えた人物である。

ほんの数年前まで幕府の実力者であったのにも関わらず、この立場の変化は驚くところである。『吾妻鏡』同21日条には以下のようにある。

廿一日 戊申 巳の刻、山中より景時ならびに子息二人の首を捜し出す。およそ伴類三十三人、頸を路頭に懸くと云々。

景時・景高・景則の頸が山中より探し出されたとある。景時は

「清見関」(清水区)→「狐崎」(清水区或いは駿河区)→「後の山」

と移動した後、討ち取られている。「後の山」は梶原山(静岡市葵区)に比定され、「梶原景時終焉の地」として現在も管理されている。

『吾妻鏡』同23日条には以下のようにある。

廿三日 庚戌 (中略)西の刻、駿河国の住人、ならびに発遣の軍士等参著す。おのおの合戦の記録を献ず、広元朝臣、御前においてこれを読み申す、その記に云はく、

正治二年正月廿日、駿河国において、景時父子、同家子郎等を追罰する事。

(中略)

一 廬原小次郎、最前にこれを追い責め、梶原六郎・同八郎を討ち取る

一 飯田五郎が手に二人を討ち取る〈景茂が郎等〉

一 吉香小次郎、三郎兵衛尉景茂を討ち取る〈手討〉

一 渋河次郎が手に、梶原三平が家子四人を討ち取る

一 矢部平次が手に、源太左衛門尉・平二左衛門尉・狩野兵衛尉、巳上三人を討ち取る

一 矢部小次郎、平三を討ち取る

三澤小次郎、平三の武者を討ち取る

一 船越三郎、家子一人を討ち取る

一 大内小次郎、郎等一人を討ち取る

一 工藤八が手に工藤六、梶原九郎を討ち取る

正月廿一日

(以下略)


とある。ここに梶原景時の武者を討ち取った人物として「三澤小次郎」が記される。この三澤氏と富士宮市との縁故を示す言い伝えがある。以下、(富士宮市;2019)より引用する。


三沢小次郎について、安永8年(1779)に編まれた日諦の『本化高祖年譜』には、「淡州ノ人移駿州 富士郡大鹿村富士十七騎之一、延慶二年五月十八日没、法号三沢院法性日弘、其居為精舎号弘法山三沢寺朗公為開祖」、つまり「淡路の出で富士郡大鹿村へ移り住み、延慶2年(1309)死去し、遁世して三沢院法性日弘を名乗り、日朗を開祖に住居を寺にした」と加筆している。延宝8年(1680)に三沢寺日相が書写した『三沢寺縁起』(『芝』)は、『吾妻鑑』に載る、奥州合戦等で軍功を挙げた三沢小次郎の孫昌弘が、日蓮から消息を受け取った人物としている(『芝』)。同内容は『駿河記』『駿河国新風土記』(文化13(1816)-天保5(1834))にも記述されるが、これらはいずれも後世の編纂物であり、三沢寺と三沢小次郎・昌弘を直接結び付ける同時代史料は今のところ確認できない。


三澤寺(富士宮市大鹿窪)が、その成立を三沢氏に求めているということが分かる。

ここで注目したいのは、三沢氏をはじめとする駿河国の武士の面々である。この一連の記述の中で、「庵原氏」「飯田氏」「吉川氏」「渋河氏」「矢部氏」「三沢氏」「船越氏」「大内氏」「工藤氏」の名が見えるのである。

中でも吉川友兼は実力者であり、曽我兄弟の仇討ちの際の「十番切」の人物でもある。『吾妻鏡』正治2年(1200)正月23日条には「駿河国内に吉香小次郎は第一の勇士なり」とあり、吉川友兼を強く称える構成となっている。

有力者の討伐ということもあり、通常では記されないであろう在地武士の名が記されたという意味で、この一連の記録は貴重である。戦国時代の史料には庵原氏や矢部氏の名が度々見られるが、『吾妻鏡』の「庵原」「矢部」といった面々はその祖先と考えて良いと思われる。ただ、戦国時代の吉原の商人「矢部氏」と『吾妻鏡』の「矢部平次」「矢部小次郎」らが同じ系譜であるのかは検討を要する。

また真名本『曽我物語』にはいわゆる「二十番の狩り」の場面で「洋津(興津)」「萱品」「神原(蒲原)」「高橋」らの名が見える。

また、以下の古文書が好例であるので示したい。




この古文書は年未詳で時代比定もやや分かれるところであるが、永享6年(1434年)辺りであるとされる。駿河国守護である今川家のお家騒動に関連して室町幕府により発給された文書である。今川家当主であった今川範政は、後継者に嫡子である「彦五郎」ではなくまだ幼い「千代秋丸」を推し、これがきっかけとなりお家騒動は生じた。駿河国の国衆間では、「彦五郎支持派」と「千代秋丸支持派」とで分かれた。

幕府は彦五郎(今川範忠)の擁立を決定し、反対勢力(千代秋丸派)を鎮圧した。その後今川貞秋が駿河国へ入国することとなったが、当文書は当時千代秋丸派に回った駿河国の国人ら(室町幕府に従わない勢力)に忠節を命じる文書である。

画像では各人の名が順に記されているが、実際は同文のものが各人にそれぞれ発給されている。「富士大宮司」と「富士右馬助」の両人にそれぞれ発給されているのは驚くべきことであり、室町幕府より別個の武力単位として把握されていたことを意味する。これは「富士家の家中関係考、富士大宮司とその子息および浅間大社社人」の大久保氏の仮説を支持する材料と言えるのかもしれない。

この文書には、上で挙げた「興津氏」「庵原氏」が記される。時代を越えて継承されていったと捉えて問題ないと考える。富士氏の場合『吾妻鏡』の「富士四郎」「富士員時」が当てはまるだろう(「富士氏家祖の謎と吾妻鏡に記される和田合戦の富士四郎および富士員時」)。

『吾妻鏡』や『曽我物語』に記されない一族も居たと思われるが、様々な「変」や「乱」で淘汰されていってしまったのだろう。

  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2019)「史跡大鹿窪遺跡保存整備基本計画」
  2. 杉山一弥(2014)『室町幕府の東国政策』178-179頁,思文閣出版
  3. 裾野市教育委員会(1995),『裾野市史 第二巻 資料編 古代中世』319-321頁

2022年6月12日日曜日

曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える

※やや難しい内容がありますので、下部の「曽我荘」の箇所まで飛ばして読まれても良いかも知れません。「曽我荘」の箇所は分かりやすいです。

「曽我兄弟の仇討ち」を考える際、「史実性」は大きな壁として立ちふさがる。



時代考証を担当する坂井氏が著書『曽我物語の史的研究』で


「真名本」のエピソードを鵜呑みにしてその歴史像を描くことには問題があるとしなければならない。とは言うものの、「真名本」の叙述がすべて唱導のための虚構、単なる説話であるとみなすこともまた危険である。何かしらの史実が反映されている可能性もあるからである。(坂井2014;pp.257-258)


と述べているように、古態を示すとされる真名本『曽我物語』(以下、真名本)であっても、その記述をそのまま「真」として受け入れることは出来ないのである。「五郎尋問」の場面については以下のように説明する。


「敵討ちの物語」のクライマックスを締めくくるにふさわしい見事な叙述である。とは言え、細部にはあえて感動を盛り上げるため、あるいは作品の構想を強調しようとする余りに生じた不自然さ・論理的矛盾を指摘することもできる。たとえば、九歳になる祐経の遺児犬房の登場である。(中略)わずか九歳の少年がこうした大事件の尋問の場に伺候を許されたとは考えにくい。(坂井2014;p.45)


そもそも、巻狩の場に9歳の少年が居ること自体が不自然かもしれない。9歳の少年にいったい何が出来るというのであろうか。また『曽我物語』には、兄弟以外に童は殆ど出て来ないのである。ましてや、巻狩の描写の中で童が出てくるのは犬房丸ただ1人である。おそらく、本当は犬房丸は居なかったのであろう。ただ真名本は、死罪の決定自体は犬房丸によるものとはせず、あくまでも梶原景時の諫言によるとしている。

城前寺境内にある曽我兄弟像

仮名本『曽我物語』(以下、仮名本)に至っては、犬房丸が懇願したことで死罪となったとするなど、物語性は更に増している。仮名本はあまりに劇的展開に拠っており、更に「真」とは言い難い。その仮名本を典拠とする「幸若舞」であれば尚更である。

一方で以下のように言及する場面も見られる。


無論、「真名本」は文学作品であり、その叙述には虚構や誇張などが含まれている。しかし、解釈の仕方によっては文書類・記録類が欠如した時期の歴史像を考察するための貴重な史料となり得ることを、本章によって示すことができたと考える。(坂井2014;p.224)

このような「史実性」の部分については、曽我兄弟の仇討ちの地である富士宮市や、曾我荘が位置した小田原市も承知しているところであり、例えば『小田原市史』は以下のような文言が見られる。


たとえば曽我谷津の宗我神社の八幡神が曽我祐信の勧請したものであるとか、谷津から六本松に至る「曽我往還」の大きな宝篋印塔が曽我祐信の墓であるというのは、曽我兄弟の養父として『曾我物語』に出てくる曽我祐信に仮託された中世遺跡である。(中略)このように大事件や著名な人物に仮託しながら大切に中世遺跡を保存してきた先人の知恵を、そのままストレートに解釈するのは、かえって伝承を取るに足らない虚構にしてしまう危険がある。(中略)曽我兄弟の墓や曽我の傘焼祭などで有名な城前寺は、曽我地区ではもっとも多く曽我兄弟に関する遺跡や遺品を有する寺として有名である。しかしそれらの多くは江戸時代以降の「曽我物」の流行によって形成されてきたものと思われ、かえって城前寺の本来の姿を分かりにくいものにしている。


このような小田原市史の毅然とした態度を見ると「富士の巻狩での源頼家の初鹿獲りと曽我兄弟の仇討ち、富士の狩倉と人穴の奇特」で挙げたような事例が恥ずかしくも思えて来る。「曲学阿世」という言葉は、まさにこのような時に用いるのだろう。この姿勢から学ぶべき部分は多いように思う。

曽我祐信宝篋印塔

ただ、すべてが仮託され形成されたものというわけでもないと思うのである。例えば坂井氏は曽我荘について以下のように述べる。


実際、事件後の共通記事には客観的に見て事実だったであろうと判断できそうな内容のものが多い。たとえば、頼朝が曽我荘の年貢を免除したという記事である。(中略)とすれば、この記事の史実としての蓋然性は高いといえよう。(中略)要するに、事件後の共通記事は人々が実際に目にし耳にし得た出来事であり、その内容も事実と極端な相違があったとは考えにくいのである。(坂井2014;p.133)


私も「曽我荘」の部分は史実であると考えている。また小田原市に現在残る伝承も、事件後のものは信憑性が高いように感じる。小田原市は史実性を多分に感じることが出来る地域ではないかと、私は強く思うのである。それは小田原市が、「曽我荘」が位置した地であるからに他ならない。

瑞雲寺境内

曽我荘は「曽我祐信」の所領であり、その祐信の元に「曽我兄弟の母」が後妻として迎えられている。そこで兄弟と曽我荘の関係が始まるわけである。その曽我祐信についてであるが、坂井氏は以下のように説明する。


まず『吾妻鏡』であるが、曽我祐信の名が見える記事は全部で16例ある。(中略)その初出から終出に至る15年間にほぼ4,5年おきの間隔で均等に分布している。(中略)祐信についてはそうした作品よりも、むしろ合戦や儀式の際の「合戦記」「随兵記」といった『吾妻鏡』編纂者が通常用いる原史料をそのまま活用したことによるものと考えられる。(坂井2014;pp.243-244)

とする。富士宮市から見た場合、富士宮市で仇討ちが発生したこと自体に異論はない。しかし「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」にあるような「曽我の隠れ岩」といったものは伝説と考えなければならない。舞台台本の中(幸若舞「十番切」)でしか確認されない「五郎が鷹ヶ岡で処刑される」といった展開も、同じような部類に入るだろう。無論、学術的方面で「岩に隠れて討った」とか「鷹岡で処刑された」とする例は見ないのである。

では「何を史実性があると判断するか」という部分についてであるが、実は坂井氏の先の著作は、多くの紙面・エネルギーをその部分に割いているのである。なのでこの記事ではその部分について考えていきたい。同氏の「曽我兄弟の仇討ち」に関する解釈・仮説は(坂井2014;pp.160-164)に集約されているため、そちらも一読を勧めたい。


  • 坂井氏の分析方法

例として、いわゆる「十番切」の場面を引き合いに出してみる。


吾妻鏡真名本『曽我物語』 
1平子野平右馬允大楽弥平馬允
2愛甲三郎愛敬三郎
3吉香小次郎岡部五郎
4加藤太原三郎
5海野小太郎御所黒矢五
6岡邉弥三郎海野小太郎行氏
7原三郎加藤太郎
8堀藤太橘河小次郎
9臼杵八郎宇田五郎
10宇田五郎臼杵八郎


このように、十番切の場面は『吾妻鏡』と真名本『曽我物語』とで類似することが多くで指摘される。(坂井2014;p.61)でも指摘しているように、海野行氏を例外として実名を記していない点も共通する。叙述方法も似通っているのである。また東国の御家人が主体であった「富士の巻狩」に、鎮西(九州)の人物と思しき「臼杵八郎」が十番切に確認される特異性も指摘される(坂井2014;pp.134-136)。

これを見ると『吾妻鏡』と『曽我物語』は全体的に近しいものがあるようにも思えてくる。しかし坂井氏によれば、類似するのは十番切の場面を含めあくまで一部でしかないとする(坂井2014;p.128-131)。描写の志向性は十番切から五郎捕縛の場面が類似しているとしているが(坂井2014;pp.123-125・136)、この種の一致はむしろ例外的という解釈なのである。

まず曽我兄弟の仇討ちを記す史料は『吾妻鏡』と『曽我物語』があり、これらはそれぞれ「原史料」の存在が想定される。『吾妻鏡』は『曽我物語』のように全容を示すものではないが、だからといって『曽我物語』を要約したものでもない。むしろ富士野の狩りまで両者共通する記事は殆ど無いとする(坂井2014;p.120)。しかし富士野の狩り以降は、十番切がそうであったように共通性が認められる(坂井2014;pp.127-128)。坂井氏はここに"史料の取捨選択"を見ているのである。

次に矢口祭を例に出してみる。実はこの部分の記述が不自然に長い。


とくに〈山神・矢口祭〉の記事が長い。敵討ち当日の記事よりも長く、詳細なのである。これが『吾妻鏡』独自の記事であることを考えると、このあたりに『吾妻鏡』の原史料の一面を解明する鍵が潜んでいるようにも思われる。(坂井2014;p.57)


富士の裾野の狩りと源頼家・北条泰時らの矢口祭、曽我祐信の作法と源頼朝の無念」でも引用しているが、曾我祐信の三の口に対する頼朝の言葉として記される「於三口者、将軍可被聞召之趣、一旦定答申歟」の「将軍」という用例に坂井氏は注目している。

氏によると『吾妻鏡』ではそもそも「将軍」の用例が極めて少なく(坂井2014;p.81)、またこれら儀式の記述は真名本『曽我物語』にも確認されないため、この箇所は独立した別の史料(「曽我記」と仮称している)から引用したものではないかと推測している(坂井2014;pp.83-85)。また同場面の頼朝は人間的な描写であり、『吾妻鏡』の所謂「工藤景光の怪異」の場面では恐れから狩りの中止を提言するなど、やはり人間的な描写が見られる。これらの箇所も「曽我記」と言えるものを元としているのではないかとする(坂井2014;pp.86-87)。そして「曽我記」が重視するのは、「狩猟者」の「山神」に対する感謝・畏敬の念にあるとしている(坂井2014;p.90)。なので人間的な描写となっていると言っているのである。

一方で例えば『吾妻鏡』と『曽我物語』に見える「五郎元服」の記事は双方で類似性が認められるため、これらは共通した史料(「原初的な「曽我」の物語」と仮称している)が元であるとしている(坂井2014;pp.75-76)。これと同じ理論で、『吾妻鏡』と『曽我物語』に確認される「曽我の雨」の箇所が双方で類似性が認められるため、この箇所も「原初的な「曽我」の物語」を元としているとしている(坂井2014;pp.72-73・145)。

また真名本『曽我物語』に確認されず且つ実録的な記録(Aは〇〇をしたといった単調なもの)は、幕府に公式記録として残っていたものとしている(部類記と仮称している)。例えば『吾妻鏡』に見える、仇討ち後に十郎の検死を和田義盛と梶原景時が行ったと記す箇や(坂井2014;pp.60-63)、源頼家の初鹿狩りが該当するとしている(坂井2014;p.82)。

つまり坂井氏は下線で記した三種の史料の存在を想定しているのである。まとめると、以下のようになる。


  1. 幕府の実録的記録
  2. 真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」
  3. 「曽我記」(真名本にみられず、且つ幕府の実録的記録とも思われないもの)


坂井氏はこの三点が『吾妻鏡』編纂時に"存在"し、取捨選択して『吾妻鏡』の記事を作成したと言っているのである。『吾妻鏡』は「原初的な「曽我」の物語」を用いることに積極的ではなかったが(坂井2014;p.131)、仇討ち事件は意図的に隠されたために、真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」に拠らざるを得なかったのではないかとしている(坂井2014;pp.161-162)。この文章からも分かるように、坂井氏は「2」を史実性という意味では低く見積もっている。


しかし、史料としての価値、すなわち史実をどれほど正確に伝えているかという史料的価値については、あまり高い表かを与えることはできないということである。(中略)原初的な「曽我」の物語をもとに記されたと考えられる『吾妻鏡』の記事には、常に同様の疑いをもって接しなければならないということでもある(坂井2014;p.80)


このように、『吾妻鏡』編纂時における史料の取捨選択の中、"真名本の原典となった「原初的な「曽我」の物語」"に拠ると想定される箇所は注意が必要であると述べている。一方で以
下のようにも述べる。

とすれば、そのような地頭御家人たちによって生み出され伝承されたと考えられる「曽我記」は、敵討ち事件の現場となった富士野の狩りについても、その本質的部分を思いのほか正確に伝えていると言えるのかも知れない。これこそ「曽我記」の史料的価値に他ならない。無論、そこに描かれたことが必ずしも史実であるとは限らない。創作・伝承の過程において、脚色や増補も行われたことであろう。しかし真名本の原史料となった「曽我」の物語に比べれば、武士社会の本質を伝えるものとして評価しべき点があるということである(坂井2014;pp.91-92) 

つまり「曽我記」にはある程度の史実性を見ているのである。

また「富士野の狩りまで両者共通する記事は殆ど無い」と上述したが、事件発生前は幕府の実録的記録や「曽我記」を用いたとしている。つまり富士野前は「原初的な「曽我」の物語」はあまり関与しないとしている(坂井2014;p.136)。そして事件当日は「原初的な「曽我」の物語」を用い、事件後の部分は事件発生前のように幕府の実録的記録や「曽我記」を用いたとしている。

坂井氏が想定する特徴を以下に表で記してみる。

特徴
幕府の実録的記録『吾妻鏡』編纂の基本史料
「原初的な「曽我」の物語」真名本『曽我物語』の原典となったと想定。頼朝を「鎌倉殿」と称する
「曽我記」真名本にみられず、且つ幕府の実録的記録とも思われないもの。頼朝を「将軍」と称する

『保暦間記』には曽我兄弟の敵討ちが記される。そこでは頼朝は「将軍」と称されている。そして『保暦間記』には「是ヲ曽我物語ト申ス」と記す箇所があるため、『保暦間記』が記された当時既に「曽我物語」が存在し、しかもそこから引用されているこということが分かるのである。これは大変重要な事実である。そして坂井氏は「将軍」とあることから「曽我記」(ないしそれを組み入れた『曽我物語』)との近似性を示唆している(坂井2014;pp.85-86)。

だとすれば、『保暦間記』に「井出の屋形」が登場することは見過ごせない事実である。真名本の「十番切」のシーンには「伊出の屋形」が登場し、これは"「原初的な「曽我」の物語」"に拠る箇所と坂井氏は推定している。

一方で「曽我記」と近似性があるとする記録にも「井出の屋形」が登場するということになる。この仮定の場合、「曽我記」にも「原初的な「曽我」の物語」にも「伊出(井出)の屋形」が登場するというということになる。敵討ちの現場である「井出」にある「屋形」ということで「井出の屋形」なわけであるが、言葉が自然に一致したとは考えにくい。(坂井2014;p.131)にあるように"結果的に近似した内容になった"可能性もあるが、このような言葉の一致は偶然とはいえないはずである。

なのでこの分析方法は果たして正しいのか、と思わなくもない。しかし坂井氏は「「曽我記」から「真名本」へと説話が増補・充実されていく(坂井2014;p.257)」といった表現も用いているので、論考を記す中で考えが変わっている部分もあるのかもしれない。

  • 曽我荘

曽我兄弟は、母が曾我祐信と再婚したため曽我荘に移り住む。真名本では巻四・五が該当する。曽我荘で過ごした幼少期の話として「雁を見て兄弟が嘆く描写」がよく知られる(坂井2014;pp.33-34)。そして兄弟の死後も曾我荘に言及される場面は多い。

どのような背景があったにせよ、一応の身分がある人物が死した際に、その人物は埋葬される。しかも今回は源頼朝により「菩提を弔う」よう命令されている(坂井2014;pp.127-128)。丁重に葬られたことは間違いないと考えられる。そのため、「曽我荘」が位置した小田原市の伝承は、他とは一線を画すと思われる。"墓所"や"史跡"が無い方がおかしいのである。また真名本巻十には


知行の処も広からねば、当時は分けて取らする事もなし


とある。(坂井2014;p.284)にあるように、知行が狭く、継子である曽我兄弟に所領を与えることが出来なかったという意味となる。しかもこれは「曽我兄弟の仇討ち」後の祐信の言葉である。坂井氏は「史実の本質的な一面」と捉えている。

兄弟が他に拠り所とする場所がなかったことから、仇討ち後に兄弟を弔う"施設"なり"供養の場"が新たに曾我荘に設けられたと考えるのが妥当であろう。そのようなものは曾我荘には無いのだろうか。いや、存在するのである。

曽我兄弟は曽我荘の地に眠るはずであり、その地はいくつか指摘される。それらの中でも「お花畑」が注目される。

お花畑


お花畑と城前寺


赤のピンは「城前寺」であり、黒のピンが「お花畑」であるが、その地から骨壷が発掘されている。『小田原市史』から引用する。


館址を挟んで城前寺の反対側に「お花畑」と呼ばれている場所がある。『曾我物語』に宇佐美禅師が兄弟の首級を曽我の地に持参し、兄弟が幼い頃に遊んだ「花園」にそれを埋葬したという話が書かれていることから、地元ではこの「花園」がその場所ではないかといわれている。この場所は昔から入ってはいけないといい伝えがある実際にこの場所から昭和の初めに骨壷が発掘され、曽我兄弟のものではないかと話題になり、現在では兄弟の墓に埋葬されているそうである。やたらに踏みれてはならないといういい伝えといい、骨壷の発見といい、かつてこの場所に何か宗教施設が存在したことを連想させる。

『小田原市史』は「かつてこの場所に宗教施設が存在したことを連想させる」とあるが、前身が曽我兄弟を祀る施設ないし墓所である可能性は高く、また骨も曽我兄弟のものである可能性は高いと考えられる。場所から考えても蓋然性は高いのではないだろうか。

城前寺に関しては、『小田原市史』は以下のように評価する。

ところで城前寺という「城」は、城址の南側に「城横」という地名が残っているように、明らかに曽我館を指し、その前方に建つ寺ということである。その由来は、寺のいい伝えによれば稲荷山祐信院と称し、その成立は、曽我祐信が館の後方に建立したもので、兄弟の死後に宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために、城前寺の境内に祐信院を引いて、庵を結んだというものである。この伝承は曽我祐信が館の後方に稲荷山祐信院を建立したことと、『曾我物語』のなかで宇佐美禅師が兄弟の首級を曽我の里に持参して手厚く葬ったという話にちなんでつくられた伝承であると思われる。

小田原市史が指す箇所は、以下の部分である。

ここに宇佐美禅師とて、駿河の国平沢の山寺にぞありける、本は久能法師なり。この人共のためには従父なり。急ぎ富士野に尋ね入り、二人の死屍を葬送しつつ、骨をば頸に懸けて、6月3日には曽我の里へ入る

確かに、そのまま宇佐美禅師が関わるとは思えない。しかし実際に「富士野」と「曽我荘」を行き来した人物は居たのではないだろうか。宗教関係者は想定されてもおかしくはないはずである。

また「首」に関しては、曽我荘に持ち込まれた可能性はより高いと思われる。真名本には以下のようにある。

鎌倉殿富士野を出で給ひて、伊豆の国の住人に尾河三郎を召して、「汝はこの者共に縁ありと聞し食す。これらが首どもをば汝に預くるぞ。足高に入れて曽我の里へ送て葬送せさせよ」と仰せされければ、

こちらに関しては「頼朝の命」とある。これも実際に尾河三郎なる人物が曽我荘に送り届けたかどうかは分からないが、首が曽我荘に届けられた可能性は極めて高いと思われる

他にも曽我荘に関する地名が真名本には登場する。巻六の「十郎と虎の別れ」の場面では、富士野で巻狩を行うことを知った十郎がいよいよ覚悟を決め、虎との別れを決意する。曽我荘にて虎と一夜を共にし、虎が最後まで見送ったその場所は山彦山(六本松峠)であった(坂井2014;p.37)。地名に詳しい真名本の性質を感じ取れる部分である。

※ちなみに「富士野」という地名であるが、『吾妻鏡』には「富士の巻狩」以外の箇所(治承4年(1180)10月13日・14日条)でも確認されるため、当時存在した地名である。

六本松跡


仇討ちの舞台の地となった「富士宮市」と曽我兄弟が眠る地である「小田原市」。両者の繋がりを考えるのは興味深いものがある。

  • 参考文献
  1. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  2. 小田原市(1998),『小田原市史』通史編 原始 古代 中世