2026年5月10日日曜日

富士市の生贄伝承一大群とTRICK感を考える、シティープロモーション化の可能性

富士市は令和8年(2026年)11月1日に市制施行60周年を迎える。そこで富士市について考えてみた所、富士市に内在する"TRICK感"が頭をよぎった。この機会にこれをしっかりと言語化しておこうと思った次第である。そして最終的にはシティープロモーションの可能性にまで話を繋げたいと考えている。

皆さんは「TRICK」(※ビジュアルではKは左右反転)という作品をご存知だろうか。この作品の世界観は何とも独特で言語化し難いものがあるが、YouTubeなどで「予告編」などが未だに残されているので、空気感を把握して頂ければと思う。

さてこの作品と富士市がどう関係してくるのかということであるが、何となく富士市にTRICK感が有りはしないだろうか、という話しなのである。この作品は、物語の舞台の地に辿り着くと決まって現地住民が不思議なことを口走ったり、奇妙な行動を取るというようなくだりがある。

ネットを調べると、富士市でそれに近しい報告がいくつも見られる。ここでは、都市伝説とかそういう野暮ったいものは挙げず、「地域伝承」に係るものに限局してその実例を紹介してみたい。

まず「磔八幡」(正式名称は「八幡宮神社」、通称「青嶋八幡宮」とも)である。報告は「磔八幡訪問時の報告」を見て頂きたい。「磔八幡宮は、ちょっと事情があって表から行かないほうがいい」という現地住民の発言であるが、これは次に登場する看板の文言と関係するのではないだろうか。

報告によると、境内の告知板の文言として「我が家の伝承と異なる点も多々あり迷惑致します」とあったという。これはここでいう"我が家"が、先の現地住民が述べる「表側」に位置しているという可能性を想定させるものである。

では「我が家の伝承と異なる」とはどういうことだろうか。それを探るために、緊張しながらも現地に赴いてみた。残念ながら、上の告知板はもう存在していなかった。そしてその当時は存在していなかった石碑が確認された。


石碑の内容はこのように大変な美談となっているのであるが、磔八幡に関する初見を見るに、伝承はそんなに美しい面ばかりではないようである。そのような事実を鑑みるに、「我が家の伝承と異なる」というのは、以下の2パターンのどちらかであろう。


  1. 美談ばかりが誇張されているが、実際はそんなものではないという抵抗感
  2. 川口市郎兵衛の末裔による粗相話は、あまり表に出さないで欲しいという抵抗感


石碑の文言を読むと「合議がなされ」「氏子組織を整え」「中興」とある。このような否が応でもリセットを感じずには居られない表現と石碑は美談で整えられているという事実を見たときに、上の告知文は「1」のスタンスであったのではないか?というようにも思えてくる。詳しくは分からないが、なんらかの対立があったことは明らかであろう。

次に「三股淵の生贄伝承」である。報告は「生贄伝説を語る古老」を見て頂きたい。もうTRICKの世界そのものといった雰囲気であるが、血走った目で生贄伝承を語る古老の心境を考えるに、"この伝承話が地元民の記憶から無くなって欲しくない"というような心情もあったのかもしれない。

一方私はこれまで一体何人の富士市民と会話してきたのか分からないくらいには接してきているが、生贄のエピソードがその口から出てきたという経験はない。しかも歴史の話においてでも同様である。しかしこの伝承を、特に上の世代が全く知り得ていないとするのは難しいと思われるので、触れてはいけないものとして扱われている可能性もある。

仮にそうであるとすれば、上の「磔八幡」の例と近しいものがあると言える。


  1. 伝承をそのまま伝えていきたいと考える側
  2. むしろ伝承を伝えたくないと考える側

この2つがあり、磔八幡も「1」と「2」の対立があったのではないかとの推測が浮上する。三股淵の伝承を語る古老は「1」であり、「2」の風潮を快く思っていないのではないだろうか。

富士市の伝承・伝説を一通りみていくと、根底は同じ性質のものであるということに気づく。つまり"生贄"である。磔八幡も、見方を変えれば"川口市郎兵衛一人が犠牲となった物語"ではないのか。「お菊田の伝承」も、お菊が無理難題の犠牲になったのである。富士市は歩けば生贄にぶつかるわけであるが、これはやはり偶然では片付けられない。これは「生贄郷」と呼ばれた地の宿命と言うべきだろう。この多さを考えると、生贄が付加されてしまうという性質を持ち合わせていたとしか考えられない。

そして富士市には「1」と「2」をミックスさせた現象も認められる。それがどういうことなのかを見ていこう。人柱伝説で有名な「雁堤」についての説明板が、同地には設置されている(雁堤の人柱伝承)。


こちらも大変な美談となっているのであるが、この伝承は平たく言えばこういうものである。


難工事であった堤を完成させるため、神に人柱を捧げることとなった。しかしそれは現地の人間からは選ばれず、東海道の通行人から無作為に選ばれ、実際にそれが行使された。


つまり、普通の感性から言えば「守護神」という表現にはならない。「人柱」「人身御供」「生贄」などが正しいだろう。この文を作成した人は、守護神の意味が分かっていない(おそらく故意であろう)。また説明板を読む限り、もうここ(問答無用で人柱にされている)に対する違和感は全く感知しないと言わんばかりである。

富士市はこのような"美談化"が大好きで、これは「1」と「2」をミックスさせたものである。つまり「伝承を取り上げるが、美談化しておこう」というものが「3」である。

この「3」は三股淵の伝承でも例に漏れずであった。以下は六王子神社にある御札である。


この御札の文言に対する違和感は「富士市の吉原一帯は何故生贄郷と呼ばれたのか、人身御供の風習と富士市の地理を考える」にて記している。これもそもそも土民が生贄を行っていることには触れず、「埋めた」ということ1つをもって「聖」の部分を喧伝しようという意図が見える。また私は「3」が郷土史家によって推し進められていたという仮説を立てており、「富士市において歴史学は何故敗北したのか、お菊田伝承や富士市刊行物から紐解く」にてそれを解説している。これは巧妙に、そして着実に進められた。

つまり、何となく感じるTRICK感の正体は、「3」から由来する歪みなのではないだろうか。なんだか訳ありで含みを持たせている告知文の存在や、血走った目で解説する古老の方を「異」として捉えてしまいそうであるが、実はそちらの側がいたって普通であったということは有りはしないだろうか。

以前"比定地とされていないのに山部赤人の万葉歌碑が建立されたのはおかしいし、異を唱える人が居なかったわけがない"ということを述べたことがある。さすがにそこまで人材が居ないということもないだろうし、そういう人は実際に居ただろう。しかし富士市のプロトコル的にはそれは異分子として処理されるだろう。

富士市は民俗学的にはとても興味深い地域である。従来富士市では、煙突群(工場群)は忌避されていた。しかし最近ではこれを「工場夜景」としてシティープロモーション化する試みが進められている

この生贄伝承の一大群も、シティープロモーション化してみたらどうだろうか。つまり「3」のようなことはせず、ありのままで、普通にプロモーション化すれば良いのではないだろうか。雁堤の説明板も、普通に「人柱」「人身御供」と書けば良いではないか。このような行動は、むしろシティープロモーション化の潜在性を失うことになるだろう。

今現在も「雁堤」「磔八幡」「阿字神社」「六王子神社」「保寿寺」「お菊田」等は残っているので、皆様に是非訪れて頂きたいと思っている。

2026年5月3日日曜日

曽我物語図扇面考、古画類聚との関係と松屋棟梁集の解釈

本稿では「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」でも取り上げた「曽我物語図扇面」について考えていきたい。(井澤1999;p.431)には以下のようにある。


一対の曽我物語図の遺例を紹介する。

一、「曽我物語図扇面」

扇の一面に富士巻狩図が描かれ、画風から室町時代末期から桃山時代にかけての大和絵系の町絵師の制作と見られる。兄弟は落馬する前の祐経を追いかける姿であり、また人物の頭上には「すけつね」「すけ成」「より朝」「ときむね」「五郎丸」「志げただ」「よし盛」「うつの宮」「につ田ただつね」と名が記され多くの登場人物が特定されているが、基本的なモチーフや構成は「月次風俗図屏風」中の「富士巻狩図」と共通する。この扇面画には対になる図が存在していた。松平定信編纂の『古画類聚』(序文の年記、寛政七年〈一七九五〉)に一対の「扇面古画」の模写が収載されているが(図 4)、そのうちの一面がこの現存している「富士巻狩図扇面」の写しである。その裏面であったとおもわれるもう一面は、三七軒の屋形が連なる様を俯瞰でとらえた図様である。これは巻狩の際の仮屋で、兄の十郎が仇祐経の仮屋をさがして歩く「仮屋廻り」に取材して歩く「仮屋廻り」に取材している。屋形に巡らされた幕には巻狩に参加した武将の紋が描かれ、いくつかの屋形には墨書で武将の名も記されている。


この紙本著色の扇は(和泉市久保惣記念美術館1990;p.68)に白黒で掲載されている。完成度が高く、絵師が制作したことが伺われる。井澤氏が述べるように、本来は一対からなるものであり、もう一方の図柄が『古画類聚』に認められる(東京国立博物館1990a;p.16-17)。

井澤氏は「裏面であったとおもわれる」という言葉を用いているが、現存例の扇面が一面しかないため(サントリー美術館他2018;p.253)、順番としては「富士巻狩図」が頭であるという意味で述べていると解釈しておく。つまり一面ずつ一対の扇があり、一方のみが残ったと考えるべきである。

「曽我物語図扇面」と『古画類聚』を見比べたところ、図柄はぴったりと一致しており、『古画類聚』が実物の扇を模写したものであることが分かる。そして井澤氏の論稿の脚注には以下のようにもある。


註2の鈴木廣之氏の論文中で、高田与清『松屋棟梁集』(文化13年〈1816〉頃執筆)にも本扇面画二面が収載されていることが紹介されている。それぞれに「古き扇の画に畫たる鎌倉の頼朝大将軍富士野狩の圖」「其二富士野假屋の圖幸若舞の草子夜討曽我の段を考合すべし」と添え書きがある。

私は以前より『松屋棟梁集』は知り得ており、その中の絵図は既知のものであった(日本随筆大成編輯部編1975;p.178-181)。しかしうち一方が現存することも知らず、また『古画類聚』に書写したものが収められていることは知り得ていなかった。

富士野假屋の圖(『松屋棟梁集』


そこで『松屋棟梁集』のものと見比べてみた所、やはり図柄は一致している。ただ『松屋棟梁集』のものは所々略式化している。というより、『古画類聚』が異様に綺麗に模写できていると言った方が良いだろうか。この様々行き来していたと思しき扇について、もう少し深く考えてみようと思う。

まず時代背景を考える。『古画類聚』の成立は諸説あるが、文化13年 (1816)『松屋棟梁集』と同じ頃とも言われ、どちらが先行するのかは定かではない。『古画類聚』の方には扇絵の横に説明書きとして墨書で「扇面古画」とあるのみで(東京国立博物館1990b;p.102)、他に文字はない。

『松屋棟梁集』には一方の扇絵の傍に「古き扇の画に畫たる。鎌倉の頼朝大将軍富士野狩の圖。」と、もう一方には「其二 富士野假屋の圖。幸若舞の草子夜討曽我の段を考合すべし。」とあるが、これは『松屋棟梁集』にて新たに説明として加えられたものである。扇という形態から考えても、これらの文字は元々存在したものではない。つまり『松屋棟梁集』にて扇絵に対して名付けされたわけである。

ここで注目したいのは、その図柄の意味が違わず理解できているということである。巻狩りの地が「富士野」であること、建物群が仮屋を指し、それらは幸若舞の幕紋づくしから由来するであろうことが推察されている。これはかなり高度な理解である。源頼朝の巻狩り=富士野で催されたものという理解が通っており、『曽我物語』を理解し、その上で幸若舞を知り得ていないと成立しない。

曽我物語図扇面を見てみると、各所指摘されているように「月次風俗図屏風」第7扇「富士巻狩図」と場面がよく似ている。しかし明確な差異もある。例えば「月次風俗図屏風」では頼朝の従者が傘を指す猫写などはないが、本扇絵ではそれが認められる。

(林2020;p.21)は挿絵入り『曽我物語』の図柄を指す形で「頼朝が多くの勢子を連れて狩りを催している様子が描かれる。ここでは、傘を差し、馬に乗った烏帽子姿の頼朝が確認できる。この姿は組合せ絵本から共通する姿であり、後に続く富士の巻狩り図の挿絵とも通ずる」と説明する。本扇絵は室町時代後期と推定されているため(和泉市久保惣記念美術館1990;p.161)、その早例とも言えるものであり、注目される

(林2020;p.31)で同じく挿絵入り『曽我物語』における頼朝の図柄の特徴が説明され、"どの版においても挿絵の中の頼朝は、尻鞘の太刀を持つように描かれていることが多い"とし、また各曽我物語図屏風について"挿絵と同様の狩場における頼朝の姿が確認され、描かれる位置も画面の右上となる"とする。本扇絵も右上に頼朝が位置するが、頼朝の装いなどについては、刊行物の写真では限界がありはっきりとは分からなかった。

  • 参考文献
  1. 日本随筆大成編輯部編(1975)『日本随筆大成 第1期 3』、吉川弘文館
  2. 和泉市久保惣記念美術館編(1990)『扇絵 : 日本・中国・朝鮮半島』、和泉市久保惣記念美術館
  3. 東京国立博物館(1990a)『松平定信 古画類聚 図版篇』、毎日新聞社
  4. 東京国立博物館(1990b)『松平定信 古画類聚 本文篇』、毎日新聞社
  5. 井澤英理子(1999) 「曽我物語図考 -双屏風の成立について-」『日本美術襍稿 佐々木剛三先生古希記念論文集』、明徳出版社
  6. サントリー美術館・山口県立美術館編(2018)『扇の国、日本』、サントリー美術館
  7. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」、『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会

2026年5月1日金曜日

源頼家の富士狩倉の絵画化例と仁田抜穴を考える

今回は源頼家の「富士の狩倉」の絵画化例を考えていきたい。本稿では頼家が敢行した巻狩りそれ自体を指して「富士狩倉」と記すこととする。

源頼家

『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月3日条に以下のようにある。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。


建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。

四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

また文保2年(1318)の自序を持つ『渓嵐拾葉集』には、以下の一節がある。


新田四郎ノ人穴ト云所ヘトメ行ク。其時ニ龍女嗔テ。


『渓嵐拾葉集』の成立を文保2年(1318)とした時、『吾妻鏡』との関係性は気になる所である。というのも『吾妻鏡』の成立も遠からずの頃とされるので(担当者が分かれていた)、やや年代が近すぎるように感じられるためである。従って、『渓嵐拾葉集』が必ずしも『吾妻鏡』から採ったとは限らない。この辺りは興味深い。もっと言えば、『渓嵐拾葉集』の前後の内容から考えるに人穴は早い段階で江島縁起の中にあったと見るべきだろう

そして富士狩倉の絵画化例は、主に以下の2つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』等)
  2. 浮世絵/武者絵

まずこれらを体系的に検討した研究は無い。富士野の絵画化例(源頼朝敢行)の研究は限られつつも見られるが、こちらは更に少ない。

ただ明確な差異は注目されるべきところであり、富士狩倉に関しては屏風図化はなされていない。また源頼家が狩場に居る猫写などは管見の限り無いと思われる

これは「富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図」で記したような、武家政権の象徴的な意味合いが富士狩倉では薄まっていることが挙げられる。後世の武将らは、富士狩倉に象徴性は見いだせなかったのである。同じ巻狩でも、頼朝と頼家のそれはその後の扱い方を見るにあまりにも対照的である。以下では絵画化例を具体的に見ていきたい。

  • 奈良絵本/草双紙の挿絵(『富士の人穴草子』)

奈良絵本は絵入り彩色写本が該当し、草双紙は絵入り小説本といえるものであるが、こと仁田忠常の人穴探索を題材にした群は『富士の人穴草子』として包括して扱われている節がある。その是非はともかくとして、とりあえず本稿では包括して扱う。

(中野1988;p.7)に「写本・版本ともに極めて多い」とあるように、多く現存する。しかし奈良絵本としては作例が限られるという(本井2003;p.471)。物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては諸本で差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていた。最古のものに室町時代後期写本(慶應義塾図書館蔵)が伝わっている。

(本井2003;p.478-480)に古活字版の挿絵を表化し説明したものがあったため、引用する。

場面
頼家の命を受ける平太(註:和田胤長のこと
和田義盛の宿所
平太の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴で多くの蛇に遭遇する平太たち
頼家に報告する平太
人穴探検に名乗りを上げる仁田四郎
仁田の出立(註:狩倉の風景も描かれる)
人穴の中で堂や御所を見る仁田
大蛇の出現
賽の河原を案内する大菩薩
三途の川の姥御前
罪人を釜で煮る獄卒
女房を来迎する天人、迦陵頻伽、阿弥陀三尊
火の車と業の秤
獄卒と罪人・十王の裁き
頼家に報告する仁田

やはり源頼家が狩場に居る猫写などはなく、武家政権の長としての権威を示す姿勢は感じられない。焦点は完全に人穴に向かっている。

物語の大筋の説明として「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

このように『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。


  • 『文武二道万石通』(天明8年(1788)刊)



『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ」で詳細を記したのでここでは省く。仁田忠常の人穴探索をオマージュした作品である。人穴の奥にそのまま進んでいくという点から言えば、『富士の人穴草子』の影響を受けていると見ても良い。

  • 各浮世絵/武者絵

以下に、確認できたもののみ挙げてみることとする。他にも作例は存在すると思われる(月岡芳年以降のものは取り上げない)。


歌川国芳「仁田四郎 冨士の人穴に入る」

作者年代作品名
歌川国芳天保12年(1841)頃「武勇見立十二支 仁田四郎」(『武勇見立十二支』)
歌川国芳江戸時代後期「仁田四郎 冨士の人穴に入る」
葛飾北斎嘉永3年(1850)「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」(『絵本和漢誉』)
歌川芳員嘉永6年(1853)「建仁三年源頼朝卿富士之御狩の時仁田ノ四郎忠常を依て人穴入ル図」
月岡芳年 「仁田四郎忠常」(『芳年武者无類』)
月岡芳年明治22(1889)から同25年にかけて制作「仁田忠常洞中に奇異を見る図」(『新形三十六怪撰』)

代表として葛飾北斎のものを解説していく。『絵本和漢誉』は序文に「嘉永ミとセ卯月日」とあり、嘉永3年(1850)刊行の武者絵集である。

うち「仁田の四郎忠常 富士の巌窟に入る」であるが、右側に人穴内で松明に火を灯した仁田忠常が描かれ、左側には大河があり、そちらから光が射し込む構図となっている。『吾妻鏡』の世界観を反映した図となっている。

これら浮世絵も"『富士の人穴草子』に影響を受け"といった文面で紹介されることがあるが、純粋に『吾妻鏡』の世界観を表現したに過ぎないという可能性は否定できない。


【人穴と江島/芝生浅間神社】

人穴は別の洞窟に繋がっていると流布されていた。これは『吾妻鏡』には見られない内容である。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある(首藤2006;p.28-29)。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

既に近世初期には認められるため、中世には流布されていたと考えられる。どこまで遡れるのかは分からないが、一応これが初見と見ている。貞享2年(1685)『新編鎌倉志』巻之六には以下のようにある。

仁田四郎抜穴 
龍池の東にあり。穴二つあり。俗に二つやぐらとも云。仁田四郎忠常、富士の人穴より此へ抜出たりと云傳ふ。【東鑑】に、建仁三年六月三日、頼家将軍、仁田四郎忠常を、富士山人穴に遣し、其所を究め見せしめ給。一日一夜を経て帰るとあり。此所へ抜出たりとはなし。

この伝承を絵画化したものが認められ、それらは人穴を直接描いたとは言い難いが、以下で取り上げていく。またそれらを見てみると、繋がる先の洞窟がそれぞれ異なる場所を指しているものが存在していることが判明する。その差異についても言及する。


  • 『江島大艸紙』(宝暦9年(1759))

宝暦9年(1759)の沙門因静『江島大艸紙』には以下のようにある。

仁田抜穴 山二ツヨリ南ノ石壁二昔ハ穴ノ形チ有シトナリ、今ハナシ伝フ、仁田忠常富士ノ人穴ヨリ入テ此山ノ半腹ヘ抜ケ出タリト云。東鑑ニ建仁三年仁田忠常富士ノ人穴ヘ入シ事ヲ載タリ。然レモ此趣ト異ナリ。

そしてこの「仁田抜穴」は『江島大艸紙』中の「相州江島画図」内にて図示されている。これらについて(藤澤1932;p.165)は「仁田抜穴は人口に喧しいが、全くは、例の甲賀三郎怪異傳の生み出した徳川時代の捏造である」とする。しかし甲賀三郎譚と仁田抜穴は両者それほど近似性は無く、甲賀三郎譚から由来するとは言えないように思う。また徳川時代とも言えないだろう。

寛政9年(1797)刊行『東海道名所図会』には、仁田抜穴について以下のようにある(粕2001;p.173)。

仁田抜穴
竜窟の東という。今さだかならず。俗諺にいわく、仁田四郎忠常、富士の人穴より入って、この山の半腹へ抜け出でたりという。富士の人穴のこと前巻に見えたり。然れども江の島へぬけ出でたりということ、旧記に見えず。

『江島大艸紙』でいう「山二つより南の石壁」と『東海道名所図会』でいう「竜窟の東」が完全に一致するのかは分からない。


  • 落合芳幾『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』(万延元年(1860))

みゆネットふじさわ」に説明がある。同HPによると"神奈川宿と保土ヶ谷宿の中間に位置する浅間神社にある「富士の人穴」と呼ばれる横穴は、富士山に繋がっていると考えられており、東海道中の名所となっていました。画中では人穴をのぞこうとした喜多さんが、地面に転がり落ちてしまいました。"とある。

この浅間神社とは何処を指すのだろうか。(神奈川県立歴史博物館2013;p.33)には以下のようにある。

富士の人穴
 宿場を超えた芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町)にあった横穴のこと。『江戸名所図会』(1-11)中の「浅間社」や「東海道五十三次之内 神奈川宿」(2-11)「見立役者五十三対ノ内 神奈川」(2-12)では、人々が浅間神社の鳥居をくぐり、しめ縄を張った穴に向かって登っていく様子が描かれている
 また、道中記には、「民家のかたわらに穴二つ有。冨士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入りたる人穴なりと云ハあやまり也。」(『諸国道中袖鏡』1-20)とあり、これが『吾妻鏡』建仁3年(1203)6月の項に見える、源頼家の富士の巻狩りの時に仁田四郎主従六人が入った人穴が芝生の横穴であるとして、一時認識されていたことがわかる。
 昭和56(1981)には、浅間神社下の崖面から古墳時代の横穴墓九基が発掘された。道中記や浮世絵では「穴は二つ」とされており、数は合わないものの、仮名垣魯文作、落合芳幾画の「東海道中栗毛彌次馬    神奈川」(2-13)では、北(喜多)八が穴の中を覗いているうちに「赤土」で滑って転ぶ情景が描かれ、人穴が横穴墓であったことを想起させる。

つまり『照高院興意様関東御下向略記』・『新編鎌倉志』・『江島大艸紙』は同場所を指していると考えられ、一方『東海道中栗毛彌次馬    神奈川』『江戸名所図会』『東海道五十三次之内 神奈川宿』『見立役者五十三対ノ内 神奈川』は芝生の浅間神社(横浜市西区浅間町1-19-10)を描いているものと考えられる。また同地が「浅間町」である点にも注意が払われる必要性がある。

『諸国道中袖鏡』に

民家のかたわらに穴二つ有。富士のふもとの人穴に通じたると云。是を仁田の四郎が入たる人穴なりと云ハあやまり也

とあるが、これは江島の方を"正"とする意図と取ってよいかもしれない。

  • おわりに

以下に万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳を記す。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していた。

江戸時代も『吾妻鏡』は多く読まれていたようであるから、必ずしもすべてが六道を表現したものではなく、純粋に『吾妻鏡』の世界観の域を出ないものもあると考える。しかしこの絵画化例の多さは人穴の知名度の高さを裏付けるものである。

源頼朝の巻狩りと頼家の富士狩倉を合わせただけでも、絵画化例は相当数になる。この事実は、富士宮市の歴史的立ち位置を自ずから示すものと言える。各画集などを見た時、「倶利伽羅峠の戦い」や「那須与一と扇の的」といったものは多く目にする。しかしながら同じ地で複数の題材で多数絵画化されてきた地域は、それほど多くはないのではないだろうか。特にその絶対量は圧巻と言える。

  • 参考文献
  1. 藤沢衛彦(1932)『日本伝説研究 第6巻』、六文館
  2. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  3. 中野幸一(1998)『奈良絵本絵巻集4 伊勢物語・富士の人穴』、早稲田大学出版部
  4. 粕谷宏紀監修(2001)『新訂 東海道名所図会 下』、ぺりかん社 
  5. 本井牧子(2003)「『富士草紙』解題」『京都大学蔵 むろまちものがたり1 しづか(三種)・緑弥生・富士草紙』、 臨川書店
  6. 首藤善樹(2006)「『照高院興意様関東御下向略記』(中)」 『本山修験』第171号
  7. 奈川県立歴史博物館編(2013)『江戸時代かながわの旅 「道中記」の世界 : 特別展
  8. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

2026年4月6日月曜日

富士野の絵画化例考、18世紀までの富士巻狩図と夜討図

令和7年12月19日付で、文化審議会文化財分科会の答申を経て26の「文化財保存活用地域計画」が承認された。この中には富士宮市のもの含まれている。他「小田原市文化財保存活用地域計画」の資料には、富士宮市も関連する事柄が挙げられている。




文言としては、以下のようにある。

源頼朝が平家方に敗れた石橋山合戦や、富士野の巻狩りで決行された曽我兄弟の仇討ちは、浮世絵・浄瑠璃・歌舞伎などで広く知られ、市域にもゆかりの遺跡が残されており、鎌倉時代の出来事を今に伝えます。

〇曽我兄弟と曽我の里

曽我兄弟の仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」と並ぶ日本三大仇討ち事件として有名です 。鎌倉時代末期に成立した「曽我物語」は修験比丘尼などによって語り継がれ、江戸時代には浄瑠璃・歌舞伎などの演目として演じられました。曽我兄弟の父河津三郎祐泰が工藤祐経の従者に暗殺された後、兄弟の母である満江御前が曽我祐信に再嫁したことから曽我兄弟と呼ばれています。曽我兄弟が育った曽我の里には、曽我兄弟に関連する伝承地が数多くあり、曽我兄弟に関わる遺跡を現在に伝えます。

この点については過去「曽我兄弟の敵討ちの史実性、曽我物語と吾妻鏡から考える」「曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考」等にて取り上げたことがある。また示されている「構成文化財リスト」のうち「2」「3」「4」「5」「6」「13」は実際現地に訪問している。これら訪問地における体験は忘れがたいものとなった。残りも是非訪問してみたいと思う。

さて、小田原市が挙げている「富士野の巻狩り」であるが、今回はその絵画化例に着目していきたいと思う。「富士野」は富士宮市の歴史的地名である。歴史の中で数多描かれており、作例を数え上げるのは困難である。

つまり富士宮市は、歴史的に絵画化例が極めて多い地なのである。これも、富士宮市の特徴であろう。これほどまでに多い理由の1つとして、(小口2020)にあるように東国に政権を樹立した源頼朝と徳川将軍を重ね合わせる意図があったものと思われる。またそれは徳川政権だけでなく、頼朝以降のすべての武士が意識していたものと思われる。であるから、屏風図などが作成されてきたのだろう。この地に対する武士の眼差しは、頼朝像というフィルターを通しての極めて実直なものであっただろう。

富士野の絵画化例は、主に以下の6つが挙げられるのではないかと思う。

  1. 曽我物語図屏風
  2. 挿絵入り本の『曽我物語』
  3. 奈良絵本(一例に『小袖曽我』があるが、富士野の場面は有していない。他の奈良絵本が有するのかは未調査)
  4. 絵巻類
  5. 浮世絵
  6. 単発の富士の巻狩図・夜討図


「1」は室町時代末期に成立、以降制作され続けてきた(井澤1999;p.431)(井澤2008;p.289)。「2」は(林2020)によると大きく3種に分けられるといい、元和寛永頃の古活字本が最初の挿絵入り本であるという(林2020;p.13)。

「3」の奈良絵本は詳細に解説するものを見ないが、(林2020;pp.23-24)にあるように「2」との共通性が指摘され、(井澤1999;p.442)は曽我物語図屏風の左隻は奈良絵本や絵巻の図柄を材料としたとする。つまり、奈良絵本が先行するとしている。「4」の絵巻は(大月2009)の紹介などがある。こちらも体系的に検討するものはない。

「5」は体系的に追った研究以前に基礎的な研究自体が皆無であるが、作例を調査し、その早例のみを一応推察してみた。本稿ではこの「5」および「6」を検討していきたいと考える。また今回は源頼家の「富士の狩倉」に関する絵画化例は取り上げない(仁田忠常の人穴探索のものなど)。


【解説】

  • 『月次風俗図屏風』第7扇「富士巻狩」
現存するものでは最古の富士巻狩図である(井澤1999;p.435)。従って、まず先んじて挙げられるべき絵図である。井澤氏が指摘されているように、後世の富士巻狩図にも描かれている伝統的図柄が既に認められる。

頼朝の猫写については、後述する"従者が傘を差す様子"や"尻鞘の太刀"などは確認されない。

  • 曽我物語図扇面
扇の一面に富士巻狩図が描かれる。(井澤1999;p.436)によると、室町時代末期から桃山時代にかけてのものであるという。

松平定信『古画類聚』に一対の扇絵が描かれているといい、そのうちの一面がこの曽我物語図扇面の写であるという。つまり一対のうちの一方が現存しているということになる(個人蔵)。

  • 曽我物語屏風(日本民藝館蔵)

「素朴絵」にカテゴライズされている日本民藝館蔵の屏風図。通常の曽我物語図屏風とは傾向が異なるため、特別にここに挙げた。(日本民藝館2013)によると、17世紀の作であるという。

この屏風図の図柄は興味深い。というのも、富士曼荼羅図の影響を見出すこともできるからである。(三井記念美術館他2019)に「巻狩りは山頂付近で展開し、頼朝を取り巻く一団はまるで空を飛んでいるようだ。館での仇討場面も富士の山容の中に溶け込んでいる」とある。指摘されている部分の猫写は、確かに富士の巻狩り・夜討に関するものであろう。

一方で左奥に描かれているのは「駿河湾」である。また寺社も描かれているが「清見寺」である可能性が高い。他に「桜」などが見える。しかしながら駿河湾との位置関係を考えると、清見寺以外である可能性も考えられる。更に奥は「清見ヶ関」のように見受けられる。

構図としては破綻しているが、これらの構成要素は富士曼荼羅図にこそ認められるものであり、「曽我物語図屏風」と「富士参詣曼荼羅図」の双方を参考にして仕立て上げられた素朴絵である可能性を指摘したい。曽我物語図屏風をそのまま参考にしていればここまで構図は破綻しなかっただろうし、富士曼荼羅図において富士山中を登拝する様を巻狩りに見立てたと考えると、辻褄が合う。(井澤1999;p.430)は「曽我物語図のおおらかな受容を見せる一例となっている」とする。

  • 射水市指定文化財「奉納絵馬額」

富山県射水市の十社大神蔵の「奉納絵馬額」は富士巻狩図である。(塩1989;p.71)によると、「奉掛諸願成就之所 天和三年十一月吉日」とあるという。つまり1683年に奉納されたものということになる。

図柄に関しては全体を示した刊行物が皆無で不詳であるが、「真ん中に富士山を描き、その裾野の右側に大勢の従者を従え、赤傘を差して見物するのは頼朝であろう(塩1989;p.71)」とある。

ここで、頼朝の図柄が他と共通しているのかを見ていこう。例えば(林2020;p.31)は頼朝の図柄を詳細に説明しているが、"どの版においても挿絵の中の頼朝は、尻鞘の太刀を持つように描かれていることが多い"とし、また各曽我物語図屏風について"挿絵と同様の狩場における頼朝の姿が確認され、描かれる位置も画面の右上となる"とする。

「奉納絵馬額」の頼朝を見てみると、確かに右側に描かれているが、尻鞘の太刀のようには見受けられない。

  • 浮世絵

絵画の一大ジャンルに「浮世絵」があるが、うち富士野の絵画化例の早例に鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』がある。この作品の成立は寛政(1789~1801)後期とされている。頼朝は右下に描かれ、尻鞘の太刀を所持する格好である。

管見の限り浮世絵としては早例のように思えるが、深く調べたというわけでもない。全く研究が無いので、その深化を待ちたいところである。

  • おわりに

(林2020;p.21)に「頼朝が多くの勢子を連れて狩りを催している様子が描かれる。ここでは、傘を差し、馬に乗った烏帽子姿の頼朝が確認できる。この姿は組合せ絵本から共通する姿であり、後に続く富士の巻狩り図の挿絵とも通ずる」とある。(小井土2020)は底本が正保3年(1646)の『曽我物語』を掲載しているが、(小井土2020;p.172)と(小井土2020;p.301)の挿絵が該当する。

付き添いの者が傘を差す猫写は脈々と受け継がれているわけであるが、これはいつまで遡ることができるだろうか。上述した奈良絵本の『小袖曽我』には富士野の場面は含まれないが、他の奈良絵本はどうだろうか。また富士野を描いた浮世絵の初見は鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』で良いだろうか。

19世紀になると、歌川派の作例が極めて多く見られるようになるが、その傾向はどのように言語化できるだろうか。また(小林1993;p.124)にあるような江戸時代の細工物や見立などは何から発想を得て形にしていたのか、それは絵図から由来するものだろうか。

研究が少なく様々な疑問が尽きないが、現時点ではこの膨大な作例を積み上げていくことに専念したい。


  • 参考文献
  1. 塩照夫(1989)『富山の絵馬 : その世界と系譜』、北日本新聞社出版部
  2. 小林幸夫(1993)「馬の頭の風流 : 祭礼と見世物と」『紀要』28 号、東海学園大学
  3. 井澤英理子(1999) 「曽我物語図考 -双屏風の成立について-」『日本美術襍稿 佐々木剛三先生古希記念論文集』、明徳出版社
  4. 井澤英理子(2008)「又兵衛風の曽我物語図屏風の量産について」『日本美術史の杜』、竹林舎
  5. 大月千冬(2009)「明星大学所蔵『十番切』絵巻の図様について」『物語絵画における武士』
  6. 日本民藝館(2013)『つきしまかるかや : 素朴表現の絵巻と説話画』
  7. 三井記念美術館・龍谷大学龍谷ミュージアム・NHKプロモーション編(2019)『日本の素朴絵 ゆるい、かわいい、たのしい美術』
  8. 林茉奈(2020)「絵入り版本『曽我物語』考 : 挿絵に描かれる頼朝と曽我兄弟を中心に」、『語文論叢35号』、千葉大学文学部日本文化学会
  9. 小口康仁(2020)「「曾我物語図屏風」の展開-富士巻狩・夜討図から富士巻狩図へ-」『國華』 第1496号、朝日新聞出版
  10. 小井土守敏(2020)『曽我物語 流布本』、武蔵野書院

2026年1月1日木曜日

私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しないことにしました

 当ブログにおける富士宮市郷土史博物館事業(以下、「博物館構想」)に言及した記事は9つに及び、累計4,500アクセスを頂いている。これは判断材料の提供の意図を持ってのことであるが、いくらかは意見確立に影響を与えたものと考えている。勿論、それは賛成であったり反対であったりするのであろう。またこの事業を取り巻く動向として、反対の署名活動が行われるといったことも報道から確認される。

 当ブログは歴史ブロクであるという性質上、本来は有無を言わず構想に対して賛成の立場を取りたいところではある。しかしそれを素直に許してくれない背景があり、それを説いたのが9つの記事とも言える。それらの多くは図説的なものであったが、今回は文章のみで構成される記事で総括してみようという試みである。

 富士宮市は妙な地域である…これは一定の年月にわたり居住して分かった私なりの帰結である。それを事細かに言語化するのは難しい。しかしそれらがほんの少しばかり垣間見える資料がある。

 それは「富士山ネットワーク会議」(以下富士山N会議)によるアンケート結果(「環富士山地域の広域連携等に関する住民アンケート調査」)である。静岡県側の環富士山地域の住民に無作為でアンケートが送られ、その結果をまとめたものになる。これによって市民性がそのまま反映されるだけでなく、自治体間の比較もできるわけである。過去にない規模で行われた、極めて貴重な調査である(以下度々引用)。

 目を通して頂ければ直ぐ判明することであるが、富士宮市民の回答のみが明らかに浮いている。それも間違った方向で。この事実1つとってみても「妙な地域である」という証明には十分になっているように思われるのであるが、少し背景を考えてみたくもなるものである。私はこの悲惨な現実から目を背けないことが重要であると考えた。

 まず富士宮市民は、何らかの指標があるときに“過小評価する”という傾向が極めて強く認められる。例えば実際は人口が減少していない時節であっても「富士宮市は人口が減少しているからねぇ…」というようなことを述べる人は多かった。私はその時節ではむしろ微増していたことを知り得ていたため、いつも不思議に思っていた。同じ地で同じ時間軸に生きているようにはとても思われなかった。私からすればその人の発言の信憑性などゼロに等しいのであるが、誤認するにせよ、多くの人は必ずマイナスの方面で見るという傾向は共通していた。

 また「財政破綻寸前だからねぇ…」や「財政状況が悪いからねぇ…」という人も多かったし、アンケートの問15からもそのような認識が明確に読み取れる。実際は全国的に見ても特段悪い水準ではないため全くの的外れと言えるわけであるが(むしろ良好とさえ言える)、やはりマイナスで考えるという傾向は例に漏れずである。

 「国立国会図書館調査及び立法考査局」に所属する研究員による報告に「地方自治体の経済活性化策に対する地方交付税制度の影響」がある。これは1975年から2005年における全国すべての自治体の地方交付税の交付状況を調べ、報告した資料である。この気が遠くなりそうな作業による成果物により、富士宮市は過去地方交付税不交付団体(=財政優良団体、財政力指数により判定)の時期を有していたことが分かる。と同時に、全国の殆どの自治体はそもそも地方交付税不交付団体になった経験すらない(財政力指数が1.0超えたことがない)ということも判明する。であるから、上のような財政論者は分かりやすく言えば「トンデモ論」の人々なのだ。私はトンデモ論に付き合うつもりは全く無い。 

 私はこのような自虐史観にも似た性格が普遍的となっている現状を不思議に思い、考えを巡らせることも多かった。しかし結論は出ていない。またここで普通は両立し得ない現象が発生していることも注目される。マイナス思考であるのは良いとして、それをひけらかすという傾向があることである。換言すれば、マイナスと捉えている事柄を殊更持ち出そうとするという不可解極まりない現象が認められるのである。つまり上で言うところの「財政破綻寸前だかららねぇ…」といった言説を持ち出すのが好きなのである。私にはそれの何が楽しいのか理解できないし、普段どのような矜持を持っているのか疑わざるを得ない。それならば無関心である方がよっぽど良いだろう。このような普遍的精神性が博物館事業と極めて相性が悪いという言い方は、許される範囲であろう。

 実を言うと、富士宮市民と会話が成立しないことが多々ある。今回はこの筆が博物館構想に端を発しているため、歴史の事柄で考えてみよう。例えば富士宮市民は、富士宮市の領主が「富士」さんであったことを知らない。また大宮城(富士城)が存在していたことも殆ど知らない。これらは限りなく歴史の入口に近いトピックであるから、平たく言えばもはや何も知らないと言っても過言ではない。したがって、少しでもこれらのワードを出すとまず話が通らない。ここまでのレベルの会話における脆弱性は、少し不思議である。

 勿論この背景には富士宮市教育委員会の信じがたい失策が大いに関係していることは間違いない。「大宮城」という言葉をあえて避け「元富士大宮司館跡」という呼称を中心として用いたこと(日本語としてもおかしい)、氏族「富士」という概念に触れてこなかったことなどは、後世に禍根を残す主要因と言えるだろう。検索しても市の歴史コンテンツが全くヒットしないのも、周知させる意識が希薄であることの証左となるものである。これらは、今すぐ誰でも検証できるものだ。

 そして現在、人材が一新したとされる文化課の人員が過去の尻拭いをさせられているという言い方が適切だろう。歴史的には、行政側が率先してアイデンティティ形成の芽を潰してきたのは間違いない。ある意味見事である。ここで少し悪い言い方をしてみよう。富士宮市の職員は、別に富士宮市出身者で構成されているわけではないのだ。こういう事例を見ると、自虐史観の形成とまでは言わないまでも、図らずとも行政はそれを後押ししていたように思える。

 富士山N会議の問11は、同会議に余り期待しない/期待しないとする人の考えを問うものであった。そして富士宮市のみが「既存の市町の枠を超えて市町が連携する必要はない」とする%が突出していた。富士宮市は会議に「期待する」という人が各自治体の中で最も多いという事実を踏まえると(問9)、少数派は反グローバリズム志向が強いことが分かる。それも極めて強力に。私はこの傾向は年々強まっているように感じる。

 このベクトルは富士宮市内に対しても例外ではない。富士宮市は往古の富士山登山口を複数有する地である。それをそれぞれAとBとしたとき、BがAを殊更否定するといった動向も確認される。人間はここまで排他的になれるのか、と驚く程である。こういう人々が居るために、地域は衰退するのだと痛感させられる。 

 また先程も挙げた問15の結果は富士宮市民の妄想力が如実に現れていると言え、「財政基盤に不安がある」の%が突出している。つまり富士宮市民は市の本当の課題が全く見えていないわけである。問18の「合併の効果として何を期待するか」の質問に対し「財政的な基盤の強化が期待できる」の%が多い格好となっているが、人口比で市債が少ない富士宮市が他と合併して財政基盤が強化されるという思考は、通常であれば生まれないだろう。他の市町は各項目でそれほど差異が見られないが、富士宮市のみがズレている。

 これらの背景も富士宮市の特殊性が絡んでいる。世の中には様々な資料が存在している。自治体の刊行物や論文、ジャーナル類など様々だ。それら資料を数点読んでもそれほど物事は明るみにならないが、これを数十、更に数百と広げていくと確かに見えてくるものがある。その結果言えるのは、信じられないくらいのおめでたさである。例えばAさんが欲しいものがあるとする。そこで「声の増幅」のためにBさんに声を掛け一緒に誘致を行うようけしかける。しかしその欲しいものは、実際は二分できないものである。目論見通り、Aはそれを手にする。この繰り返しということに全く気づいていない。富士宮市がABどちらなのかは、言うまでもない。これを数十年ただやっているということが、様々な資料から見えてくる。良く言えば「お人好し」だが、悪く言えばどうなるだろうか。 

 皆さんは静岡県の二つ名をご存知であろうか。大分県の二つ名が「おんせん県」であるように、静岡県にも存在する。それは「ふじのくに」である。つまり富士山を指しているのであるが、富士山の静岡県側は大部分が富士宮市に属する形である。換言すれば、静岡県を「ふじのくに」たらしめているのは富士宮市の存在による所も明らかに大きいのだ。それは世界文化遺産富士山の構成資産の数としても如実に現れている。つまり「地理」としても「文化」としても、「ふじのくに」を支えているのだ。しかし各媒体等を見るに、現状それが反映されているようには思われない。つまり言っていることと実態が一致していないのである。

 富士宮市からすれば、そんなことであるのならばいっそのこと「ふじのくに」などと言わないでくれという思いも生じ得よう。であれば、富士宮市はベクトルを外に向けなければならない。むしろ関東の方が適切に向き合ってくれるし、メディア媒体が来ても「あ、静岡県の媒体さんもいらっしゃったのですね」くらいで良いのである。例えば江戸文化との関係性をテーマに関東に向けて展開するのも良いだろう。富士宮市を舞台とした無数の大和絵は、江戸を土壌として花開いていたものなのだから。ちなみにこの辺り(浮世絵・武者絵の類)も、富士宮市が取り上げてきた痕跡はあまり認められない。本当に不思議である。

  私は富士宮市の歴史を考えていくにあたり、まず史料上どのような事柄が多く確認されるのかという視点で調べを進めてきた。それが歴史上影響を与えてきたものと言えるからだ。しかしその作業で上がってきた事柄は、軒並み富士宮市には取り上げられては来なかった。なので、一般においても歴史を感じることができないし、歴史の流れも把握できないのである。そういう努力が無かったという言い方でも、大きくは間違っていないだろう。

 他に一例を出せば「富士海苔」は枚挙に暇がないくらい多くの史料に確認されるが、これも殆ど展開が見られなかった。しかし先に挙げたように近年は劇的な改善が認められるので、新『市史』の自然環境編には項目が設けられているという変化も認められる。

 私は普通に史料に多く見いだせる事柄を優先的に取り上げるべきだと考えるが(「博物館法」に「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し…」とあるように芸術や民俗学も重要とも考える)、従来の様子を見る限り、どういう基準で考えているのか最早見当もつかない。もう本当に皆目見当がつかない。

 ちなみに富士山N会議の資料には連携活動の事例としてUTMF/Mt.fuji100(ウルトラトレイル・マウントフジ)が紹介されている(P18)。このようなものですらも、富士山南麓の人々が潰そうとしている(「ウルトラトレイル・マウントフジ2023 全体説明会議事録」を参照)。これが偏西風のように常に富士宮市に流れている空気感であって、これが決定的な悪さをしている。何かを潰そうとするときにだけ躍起となって動くのだ。であるから富士山N会議の問11の結果は、この精神が要因と取ることもできなくもない。 もっと言えば昨今の動向もこれで説明がつくのかもしれない。

 話を博物館構想に戻そう。そしてもう、私が考えている事を一文で片付けてしまおうかと思う。


アイデンティティ形成の芽を尽く潰しておきながら今「博物館を作りたい」というのはさすがに通らない

 

 これまでの文化課の動向を見ると(近年を除く)、厳しい言い方をすればもはやグロテスクという評価へと繋がる。この状況を決定づけた成分が博物館構想にまで影響する余地があってはならないと、私は思っている。それは富士宮市にとっての不幸であると考えている。影響の余地がないという確証が持てるまで、素直に賛成するわけにはいかないという立場をここで明確にしておきたい。

 私には隣の山梨県南巨摩郡南部町が眩しく映る。南部町は素晴らしい。町が「南部氏ゆかりの地」というページを用意し、「道の駅なんぶ」には「南部氏展示室」も設けられている。ページが設けられているからこそ人々が感知し情報を得られるわけであり、道の駅に関係施設が併設されているのは地域アイデンティティの表れだろう。これが「町」単位で出来るのだから、富士宮市の努力不足は甚だしい。つまり、南部町の方がよっぽど先進的なのである。 

 南部町がそうであるように、富士宮市は富士氏のページを設ける必要があったのである。こんなことは当たり前のことなのであるが、現時点でも存在していない。思えば当ブログの初投稿は20111月のことであったが、フラッグシップな内容とするために必然的に富士氏に言及したものとなった。そして当時より、頑なに富士氏を取り上げない富士宮市が不可解で仕方がなかった。本当に心底理解できなかった。まさか10年後も不変であるとは夢にも思わなかったが…。とは言っても現時点ではこの異常事態は解消されているし、この変化をもたらした存在・空気感こそが富士宮市にとっての宝であろう。 

 そもそも博物館構想を策定する段階の前の時点で、その土壌作りをしておこうという発想には至らないのだろうか?という疑問がある。普通であれば円滑に進められるよう、歴史コンテンツの充実化や、象徴的な存在くらいは世に知らしめておこうと考えるものではないのだろうか。子どもですら、ゲーム機を買ってもらいたい時、何らかの行動は取るものだと思う。遅く購入してもゲームの進行が相対的に遅くなるため、それすらも考慮して子どもは動いている。ある意味では強かなのだ。簡単にいえば「賛成の人が多くなるよう事前に手を打っておくという発想は少しばかりも生まれないのか?」ということである。 

 もっと言えば、その期間は十分過ぎるほどあった。しかしそれは成されなかった。富士宮市の歴史を巡る環境は、深刻な危機的状況に陥っている。私は強く悲観している。これは決して誇張した表現では無い。例えば曽我兄弟の敵討ちであるが、これは富士宮市の地「富士野」で起こったことである。絵図のタイトルにも多く採用されている地名である(射水市指定文化財の1683年(?)「奉納絵馬額」、寛政後期(17891801)の鳥高斎栄昌『和国景夕頼朝公富士野巻狩之図』、文化13(1816)『松屋棟梁集』所収「富士野狩の図」「富士野假屋の図」、鳥居清峰の各「富士野御狩之図」、各歌川派作品(例えば豊国の「見立八景之内 富士野の夜雨」や『曽我忠臣蔵錦絵并番附集』所収のもの)など枚挙に暇がない)。富士宮市の地名において、歴史の中で最も現れるものであると断言できる。

 しかしこの地名の認識も、日本人の中から既に消え失せてしまったように思う。富士氏についても、少なくとも当地においては十分に認識されていたものが、徐々に失われていったものと考える。”歴史を失ったという歴史”が、ここ数十年の富士宮市の哀れな姿だろう。各自治体のシティープロモーションを見ると、当該地を描いたとされる浮世絵等を以て高らかに喧伝する様子が認められる。富士宮市は大和絵の題材となった絶対数で言えば日本屈指であり、そこから考えればもはや''かわいい程の事例''のようにも思えるが、そんなことは言ってはいられない。何故なら、我々はその種の表現自体を怠っているからである。やらなければ、一般からすれば無いことと同じなのだ。そもそもこの種のものを収集する試みがあったのかさえ疑わしい。

 この背景には富士宮市の問題も大いにあるが、歴史家の問題もある。歴史家が地名を重要視せず、論文等で「富士野」というワードすら出さず「富士の裾野で」等と表現を簡素化して換言してしまっている。いやもはや簡素化ですらないが、人文学系の劣化を感じるものである。これほど歴史の中で長きにわたって出現する地名も珍しいように思うが、それが消滅しようとしているのだから、異常事態に他ならない。

 例えば「往来物」の一種に『富士野往来』があるが、史料名を聞いてももはや富士の巻狩りに関連する可能性を感知することすら難しくなってきている。本当に悲しいことであるし、本来富士宮市こそがこの事態を打開するためにずっと前から動いておく必要性があったのではないだろうか。当地の地名を冠した絵画作品・出版物が歴史の中で世に出され続け膾炙されていたという事実は、決して軽んじられるものではない。むしろ12位を争うほど、重要な事柄である。それすら表現できずに、何ができるというのだろうか。それすら表現してこなかった地域が作る博物館などに、私は微塵も期待しない。

  「富士氏」「大宮城(富士城)」「富士野」…このようなキーワードが市民の中で飛び交う現在も十分あり得たと思うが、何を隠そう富士宮市こそがその可能性を根こそぎ奪ってきたようにしか映らない。想像を絶する損失である。私はこの損失を想像すると、冷静ではいられない。この中で言えば何故「富士氏」という言葉・概念を殊更避けてきたのだろうか。何らかの浄化思想があったとでもいうのだろうか。ここにつまらない感情が関係する可能性を勘ぐらずにはいられないし、警戒を解除することを許さない背景ともなっている。

 しかし完全に不可逆的なものではないし、今からでも復元することは可能ではないだろうか。またここ数年(67年くらい)は歴史を巡る展開において目覚ましい進展が認められ、取り組みも多様性を併せ持つものであり、上のようなキーワードが市民の中で飛び交う未来も見えてきたように思う。少し希望は見えてきた。ただそれが余りにも遅すぎた。何の誇張でもなく、20年くらいは遅れてしまったと言えると思う。

 説明会の質問では「お金」の観点による質問が多かった。従って、ここでお金に関する象徴的な事柄を話しておこうと思う。富士宮市は市外の施設に約5億円提供したという歴史がある。それは市外にある新富士駅のことであるが、5億円プレゼントしておきながら、一方で自身のための15億円~20億円の施設は絶対的に許されないという考えそのものが無理のある話だと思う。言ってしまえば、この額はその程度の話なのだ。

 なぜ5億円プレゼントしたのかというと、新富士駅と身延線を接続するという約束があり、接続から起因される経済的利益の可能性を考慮してのことであった。これは見事に裏切られた格好であるが、このとき市民団体がその資金の返還を求めるくらいの動きをしていたら、今回の動きも少しばかりは説得力が出てくるかもしれない。何故なら彼らは資金面を問題視しているからだ。もっとも、今回署名活動している人々がその時に居住していたかどうかなど知られないわけではあるが。

 接続が成されなかったことを悲観する富士市民は多い。その勘は当たっており「幹線駅の新設が市区町村の人口に与えた影響(竹林幹人,2024)」という論文によると、やはり新富士駅は効果が薄かったことが示唆されている。そこから更に距離を隔てている富士宮市など、期待された恩恵はなかったことは言うまでもない。逆に言えば、資金が多少かかろうとも、その時節で完成度が高いものを拵えることの重要性を示す事例とも言える。私はその時の10億円程度の差異など、将来に禍根を残すことに比べれば、取るに足らないことだと思っている。それはどのような施設においても同様だ。

 昨年の話であるが、とある富士宮市の私立中学校・高校の文化祭にお邪魔した。巷でも教育を軸として語られることが多い学校ではあるが、実際目にすると凄まじい。一般来場者に対して中学生が自分の意思で実験を披露したりしていて、教育レベルの高さに驚かされる。勿論それに足る環境が用意されているからこそ成せると言えるのであり、それらを支持する大人側の姿勢があってのことだろう。

 ではここでいう"大人側の姿勢"とは何だろうか。これは文明的なものを低く見積もらない価値判断姿勢"ではないかと思う。皆さんは共産国家ではなぜ「サービス業」が国家統計の除外項目扱いまたは非公表である/あったのかをご存知だろうか?それは共産圏においては製造・生産による成果物としての物理的な「モノ」に価値はあるが、資本家や芸術家などは非生産的なものとして認識されてきたからである。実際に共産圏では、それらに携わる人々は追放されてきた歴史がある。実際はサービス業も富を生むし、もう歴史がそれを証明しているのであるが、それを認めない層も居る。そのような層が今回の件でどう動くのかというのは、想像に難くない。 

 また価値判断の相違が複雑化したものに「文化的ジェノサイド」がある。これは浄化思想からなるもので、ある特定のコミュニティに対するアイデンティティの破壊を目的とする行為であり、言語・宗教・偶像崇拝といった概念の規制や文化財等の破壊行為などが該当する。一般的には包括されるものの内側では文化圏の相違を有する地域間や、実行支配した組織が旧来の習俗を否定する場合などで起こることがある。非侵襲的ではあるが文化的な暴力性を持つ行為である。私は、さすがにここまでのレベルではないが、何か近しい思想がこの地で横行していた可能性を捨てきれていない。でなければ説明できないような現象(本投稿内で記している事象)が発生している。それが地域アイデンティティの欠如を生んだとも考えている。

 富士山N会議の問1617の結果は富士宮市民の地域アイデンティティの欠如を示唆するものであるが、このようなものの背景にはアカデミズム側の問題も関与すると私は考えている。文化庁選定「歴史の道百選」の「みのぶ道(93番)」に富士宮市が含まれていないのは由々しき事態であるが、こういうものもアカデミズム側の責任だろう。論稿で富士野を「富士の裾野で」等と換言するのも、アカデミズムの態度としての問題である。こういう積み重ねが、歴史の中で地域アイデンティティを失う要因となっているのだ。そしてその最たるものは、本稿で暗に示した通りである。このような姿勢は、博物館建設から遠ざける要因になっただろう。何故ここまで地域アイデンティティが欠如しているのかという点について、富士宮市は一度真剣に考える必要性があると思う。

 であるから、私は専門家側の問題が存在しなかったとは全く思っていない。しかし皆さんも少し察しがついてきているかと思うが、今回の署名活動というのは、富士山N会議のアンケートに確認されるような富士宮市民の特有のズレ感が如何なく発揮されたという見方が結構しっくりくるのである。おそらく正しく恐れるということが苦手な方たちなのだろう。この労力・エネルギーが生産性の方に向かえば最終的には豊かさに繋がるものだと考えるが、如何だろうか。

 しかしながら、本稿で示した懸念から、私は富士宮市郷土史博物館事業を支持しない方向で定めた。つまり、"いいものは造れないだろうし明確な懸念もあるから、いっそのこと要らない"ということなのだ。寂しい考え方だが、そのような考え方にさせられてしまったという言い方が適切であると感じている。

以上。