2022年9月20日火曜日

博物館構想説明会の質疑応答富士根南・南部・大富士編、富士博物館誕生に期待

 「博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編」の続編になります。 


  • はじめに

富士宮市の博物館には「コンセプト」が必要です


きらら

博物館で働いていた方から"人を引き付ける売り、『どういう博物館なんだ』 というこの博物館ならではの個性が必要になってくると思います"という意見がありました。全く、その通りだと思います。

全体的にですが、担当者は「子供たち」にフォーカスした回答が多いものの、私は人気のないユーチューバーがいきなりオフ会をやるようなものだと思います。需要があると錯覚し「人が来るだろう」と意気込むも、人は「来ない」。最悪、ずっと座っていることになる。そんな状況が容易に想像させられる。

学芸員その他専門の方々は、一種の「生存バイアス」に引っかかっているのです。回りは似たような過程を経てきた人で固められ、まるでその他多くの人も"アプローチ次第では歴史に関心を持つだろう"という幻想を抱いている。常に最善で事が進むという前提のもと、幻想はミルフィーユのように重なり、子供たちが大人になった様子をも幻想として抱く。悲しいかな、清々しいほどそうはならない。

ところで、質疑応答でこのような質問があった。


富士根南

この質問者は「富士金山」を知っているという時点で、知識を有する方と言って相違ないでしょう。富士宮市のセールスポイントは、実はこの辺りにしかないと考えている。というのも、


富士宮市の博物館のコンセプトは「富士」であり、名称は「富士博物館」を視野に入れても良い


と考えられるのです。極めて当たり前のことですが、富士宮市が「豊臣秀吉」や「織田信長」がテーマの博物館を作っても仕方がない。「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」で「地域密着がテーマでない方がよい」という意見がありましたが、とてもではないが支持できる意見ではない。むしろ普通に富士宮市の"基本的歴史材料"を題材にすれば良いだろうし、富士宮市の"歴史的人物"や"歴史的事象"を取り上げれば良いのです。

質問者に敬意を表して富士金山から紹介していきますが、「富士」というコンセプトを基とする「歴史的人物」「歴史的事象」「歴史的材料」は、以下のようなものだと思うのです。


  1. 富士金山(「麓金山」と呼び習わされることも)
  2. 富士氏
  3. 富士城(大宮城の別名)
  4. 富士野(曽我兄弟の仇討ち舞台の地)
  5. 富士海苔(芝川海苔とも)
  6. 富士川
  7. 富士山

そして「7」の富士山は、「静岡県富士山世界遺産センター」に主な役割を担ってもらえればい良いと思います。或いは「千居遺跡」のストーンサークルを富士山信仰の一端と解釈し、展示に含める形が良いかと思う

富士宮市は"基本的歴史材料"の処理が未だ出来ていません。例えば「富士川」も何故かフォーカスしません。そういうルールでもあるのかというくらい、富士川と富士宮市との接点を描こうとしません。理由を教えて頂きたいくらいです。ちなみにお隣の富士市は、富士川がテーマの企画展を複数回行っています。それぞれとても良いものでした。

もちろん「富士氏」も圧倒的に足りない。富士宮市の地で起こった"歴史的事象"で全国的に有名なものは、普通に考えれば「楽市令」でしょう。しかし長らく、富士宮市の歴史年表には無かったりしました。全国で用いられる高校の参考書に載っているのに富士宮市の歴史年表には載っていない…そんなバカバカしいことが本当に起こる自治体なんです、富士宮市は。これは富士宮市・富士宮市教育委員会『年表・図説でみる富士宮の歴史と伝説』辺りで確認できるようになりました。これを確認したとき、"や、やっとだ…"と思いました。「法制史」でも頻繁に取り上げられる部分です。

あと、博物館は大衆的な面があっても良いと思います。「キッカケ」を与えられることが重要なのですから。今人々はどういうものを求めているのか、そういう部分をしっかり考えなければなりません。来るのは「一般の人」なのです。特に「刀剣」は人気です。富士宮市の国指定文化財は、刀剣類に恵まれています。







「大石寺」のものは展示できないでしょうが、他はやりようはある。また大宮城跡からの出土物も織り交ぜて紹介できるだろう。そこから広がることの方が多いと思います。回答者が想定するやり方は、子供に「通常」の信号の渡り方を教える前に「時差式」から教えるようなものです。

また以下のような不思議な質問もありました。


南部

他市のために富士宮市の多額の資金を提供するのは、「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」にあるような「新富士駅」の例などで十分です。理解できません、その考え方が。これでは富士宮市は完全な「タカられ屋」になってしまう。

しかしこの質問者が極めて不器用であったと仮定すると、静岡市も富士市も「駿河国」であるので、おそらくその辺りに意図があるようにも思われる。そこから私なりに換言すると


「駿河国」全体で考え、富士宮市とその他の地域との結びつきを考えよう


ということになる。そして富士宮市も富士市も「富士郡」であったため、更に換言すれば


駿河国、ひいては富士郡における富士宮市の位置づけ


について考えて欲しいということを言いたかったと捉えられなくもない。であれば、富士氏という国衆の在地とそれ以外での活動を考えれば良いし、富士城が富士郡の拠点であったことを分かりやすく説明すればいいし、富士海苔が今川文化の一端を担い上流階級でも重宝されたことを丁寧に説明すればいいし、富士川も「富士山木引」等を例に「富士山木引→上井出→青木→沼久保→川下し→吉原」という繋がりを史料と共に説明すればよいのである。

ちなみに私は、富士宮市の展示や刊行物で上のようなことに言及したケースを見たことがない。そもそもやっていないので、博物館以前の問題なのである。数十年分の刊行物を俯瞰して見ても、無いのである。

富士宮市といえば、「展開・アピールが下手」と内外から指摘されている。大河ドラマ『風林火山』の際も富士宮市が動かず大きな問題となったことは記憶に新しい。この時は普段歴史に触れる機会のない方々ですら声を上げていたくらいですからね。富士宮市は多くの市民から既に失望を食らっているのである。それを自覚された方が良い

他に例えば平成26年(2014)に各団体の協賛で「浅間大社に祈願した「戦国武将」展」というものが催されました。私も行きましたが、「晴れ、ときどきお城  -natchdes(なっち)の城攻め備忘録-」さんの記事に「思い切って富士宮詣で」という記事があり、紹介されています。

ここに「後北条氏の発給文書何で見せないの?」というような旨のことが書かれています。正直私も、完全に同じことを思いました。多くの人は、富士氏という国衆と大名との関係に関心があるのです。これは保存の関係もあってのことかもしれませんが、博物館ではもう少し「見える化」が求められます。また鎧も後ろに回って見れず、見せたいのか見せたくないのかよく分かりませんでした。最高の材料を以て最低の展示会に仕立て上げる必要性はあまりありません。今回の博物館もその例に漏れず、では困ります。

「富士」をコンセプトとした「富士博物館」の誕生であれば、私は博物館構想を支持します。正直なことを言えば、博物館が完成したとて実際に行くのかどうかすら分からない。私の中ではそれくらいの位置づけなのです、この博物館構想というのは。別に新しい知見を提供してくれるようにも思われないし、何のワクワク感もない。むしろ説明を聞けば聞くほど失望が大きくなる。それは、こちらの責任ではない。

では、以下から意見になります。

【南部公民館】


南部


当たり前ですけど入館料は「収入」です。「もとを取る/取らない」じゃなくて、収入になるのだから、そこに対してしゃかりきにならないといけない。こんなことを外の人間が言わなければならないというのが絶望的。意識の低さが見て取れる。

追記:

岡崎市美術博物館の企画担当の方が、Twitterでグッズに関する問いかけを行っていました。なんとたった7時間でこの反響です。



でも「入館料が収入として見込めない」といった考えの人が中に居たら、絶対にグッズを収入源としては考えないでしょう。もちろん具体的な検討もしないでしょう。もう意識が全然違うんですよね。

追記終わり。

南部


自然破壊につながるとは思わないし、逆に子供に「何で博物館が無いのか」と問われたらどう答えるのか教えて欲しい。それはそれで、子供に噛みつくんでしょうか。


【大富士交流センター】


大富士


本当に甘いです。「博物館は要らないんじゃないか」と人に思わせる能力に長けているとすら思う。


大富士


「大富士交流センター」についてはどう捉えていますか?私からすれば、同じ性質のものです。大富士交流センター自体も、議題が市議会に上がってから私も知る所となったと思うし、それが問題とも思わない。


大富士


全世帯にアンケート…コストを考えると馬鹿馬鹿しいです。これまでも、多くてもサンプル数は数千です。私は富士宮市が行った/対象となった調査のサンプル数について過去調べたことがありますが、管見の限りでは「富士山ネットワーク会議」のものが最多でした(環富士山の自治体全体に及んだもの)。

その結果も公表されていますが、富士宮市民の回答だけ浮いていました。本当に恥ずかしい限りです。身内が親戚の集まりで変なことを言っている…そんな感じです。「新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」にて"ここでは伏せておこうと思います"としたのが、そのアンケートです。博物館構想には関係ありませんが、そもそも変なことをいいやすい気質はあるということで参考として挙げておこうと思います。


大富士


「富士博物館」とか「富士〇〇」というものが良いと思います。仮に名称を募集するときも"「富士」を冠する"という条件にしても良いくらいだと思います。

2022年9月16日金曜日

博物館構想説明会の質疑応答に対する意見、上野会館・富士根北公民館・きらら編

「郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」の続編になります。


  • はじめに
私は子供の頃、「考古学」が好きでした。富士宮市の無料の冊子(遺跡)を繰り返し読んだり、自由研究はのテーマは「エジプトのピラミッド」を選んでいたくらいです。

小学生の時に「戦国武将チョコ」みたいな名前の食玩を書いました。開けてみると徳川家康のフィギュアと共に年表がありました。そこには「駿河国の大名今川義元、桶狭間の戦いにて敗死」というようなことが書かれていました。自分が住む地域が「駿河国」に属していたということくらいは小学生でも知っていたので、「今川義元」に興味が湧きました。しかし今川義元については静岡県に居ながらも聞いたことがありませんでした。まず、これを不思議に思いました。

学生でも義務教育は過ぎたくらいの頃、歴史の授業中は参考書を片っ端から読んでいました。まだ考古学に関心があったと思います。それから遠くない頃、市外の図書館をほっつき歩いていた時、『浅間文書纂』という本を見かけました。開くとまず古文書が掲載されていました。そこに「富士氏」を宛所とする文書が掲載されており、少し読んで富士氏をほんの少しばかり理解しました。私はその時「今川氏真」という存在を知りました。ここで義元と氏真が繋がりました。ここで私が抱いた感情は

富士宮市って何にも教えてくれなかったな

ということでした。昨今ですら、HPで「富士氏」と完全一致検索をかけても本当に少数なのですから、この言い方はそれ程間違ってはいないと思います。なので私からすると担当者が多用する「子供たちが…」という言い分はやや説得力に欠けるのです。と同時に、静岡県が今川氏についてあまり取り上げないことも奇妙であると思うようになりました。これが、10代の記憶です。

ちなみに、富士宮市が富士氏について取り上げる機会が「ゼロ」だったというわけではありません(近年富士山世界遺産センターの企画展「富士山表口の歴史と信仰」にて試みがあった、未読)。2000年に「大宮城と富士氏展」というものが催されています。その展示会資料を一部見ていきましょう。

今回の発掘調査では鎌倉時代の様子がわかる建物群が確認され、「富士の巻狩り」当時、大宮小学校あたりに有力な領主がいたことがわかりました。(中略)ただ、その人が今回の展示のもうひとつの視点である「富士氏」という人物と同一なのかどうかについては、まだよくわかっていません。(中略)その富士氏が治めていたこの居館は、戦国時代の動乱の中「大宮城」の名で呼ばれることを頻繁に見受けるようになります。しかし、それは長い富士大宮司館の歴史の中でも最後のほんの10年ほどのことです。つまり、この遺跡については、「大宮城跡」の名で呼ぶよりも、当時の政治・経済の中枢であった国人領主の居館としての「元富士大宮司館跡」の名を使うほうが適切であるといえるわけです

これについて私は、かなり奇妙な説明だと思いました。皆さんも一緒に考えてみましょう。それほど難しい話ではありませんから。

上にある「富士氏が治めていたこの居館」とは、以下の文書で確認される「富士大宮司館」「大宮司館」のことを指しています。では、その年と内容を確認してみましょう。

宛所内容
元弘3年(1333)9月3日富士大宮司館後醍醐天皇綸旨。駿河国下嶋郷の地頭職を富士浅間宮に寄進
建武元年(1334)9月8日大宮司館後醍醐天皇綸旨。駿河国富士郡富士上方を富士浅間宮に寄進

実は「大宮司館」という文言は、「1333年」・「1334年」という「たった2年」にのみ確認される用例なのです。つまり有史以来、このほんの僅かな期間の2例のみなのです。

そして何世紀も時代は過ぎて永禄4年(1561)7月20日、先にも出てきました今川氏真により富士信忠が大宮城の城代に任命されます。その後「大宮城」の存在が文書上で確認されるようになります。そこで

この「大宮司館」と「大宮城」はおそらく一緒の場所だろう…いや、一緒でしょ!

としたのが富士宮市教育委員会です。あまりにも大胆な推察に驚かされるところですが、なんと発掘調査の報告書にも『元富士大宮司館跡』という名称を用いてしまいます。ちょっと異常とも思える行動です。この両者を直接的に結びつけるものは、実は全く無いのですから。例えば今川氏が「大宮司館を改修せよ」と命じた古文書があるわけでもない。

大宮城跡からは祭祀・儀式に用いられたと推察される遺物が発掘されており、富士浅間宮に関係すると考えられます。特にその最高権力者である富士大宮司は何らかの形で関係していると考えられますが、「=後醍醐天皇綸旨に見える館」という帰結にはなり得ません。

そもそも同地かどうかも分からず、また綸旨のみでしか確認されない用語なので何を指しているのかも分からない。普通に富士浅間宮の中の一施設を指しているとも考えられる。後醍醐天皇綸旨は全国に渡ってかなりの量が発給されたことから、必ずしも当地に通じているとも思えず、富士大宮司が宛所であるということを伝えるための造語とも考えられる。

そして私は、実際に『元富士大宮司館跡』を手に取り読んでみました。そこには、執筆者の1人から以下のような意見も示されていました。

富士氏の居館であったのでは無いかという大前提のもとに考察をすすめているのであるが、このことに対して若干の疑問を提起するところである(若林淳之氏執筆箇所)

このように述べながらも、富士氏の居館であったという説を一応は採っています。そしてこの綸旨が発給された当時居住していた富士氏の人物の比定作業を行っています。しかし「発掘担当者の皆さんと若干見解の相違するところがあるのであるが」とも述べ、富士氏の系図に習った説を取る発掘担当者とは意見を異にする立場を取っています。

実は世の論考では、これ(大宮城の前身は大宮司館であるという説)を素直に受け入れているものはほぼ「皆無」といって良い状況です。ここで私は

富士宮市はちょっと変わっている

と思うようになりました。そして幼少の頃読んでいた富士宮市の無料の冊子(遺跡)ですら疑わしい存在のように感じてしまいました。確証はないですが、同一人物によると思しき状況であったからです。ここから考古学に対してひどく距離を置くようになりました。そして「外」の見識に触れておく必要性に駆られました。ちなみに「大宮城と富士氏展」が催された2000年といえば、「旧石器捏造事件」の発覚年でもあります。何となく、悪い慣例が中世にも当てはめられてしまった…そんな感覚を覚えてしまうものです。

そして時は過ぎ2014年のこと、新たな発掘調査の報告書でも『元富士大宮司館跡Ⅱ』という名が採用されました。私はこの時、腰が抜けてしまいました。またこれは、富士宮市民が「大宮城」を知らない理由の1つであるとも言えるでしょう。明確に関係していると思います。

そもそもですが、少なくとも最新の状態は「大宮城」であったわけなので、「富士大宮司館跡」ではないわけです整合性を求めるために「元」をつけたわけですが、あまりにも常識から外れた呼称であることは言うまでもありません。結局、報告書のタイトルだけでは"何の跡地"かが分からないのですから。

これがどれくらいおかしなことか、考えてみましょう。例えば「サークルK」は親会社の統合で「ファミリーマート」になりましたが、その後閉店した例もあると思います。とあるファミリーマート跡地をいわば

元サークルK跡

と言い、しかも「実際にサークルKだったのかは不明」というのと同じです。「ファミリーマートであったという確実性」を無視する必要性が無いというわけですね。

このテーマは子供たちも一緒に考えてみると良いかもしれません。少なくとも「大宮司館」と「大宮城」は直接結び付けられる材料がないため、断定できる性質のものではないです。博物館はこの大胆な推察に対して協調することを、子どもたちに「強要」しないで欲しい。あくまでも、考え方の1つとして存在すると。博物館は洗脳装置ではないのですからね。

以下、意見になります。

【上野】



デジャブといいますか…「郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編」の「柚野公民館」の例と同じですね。これ、結構恐ろしいことを言っているんですよね。つまり文化課は

「博物館」の他に大鹿窪遺跡には「ガイダンス施設」の建設を検討し、千居遺跡を使ってもう1つ「博物館」を作ることを考えている

ということになるわけですから。つまりこんなことをやっていたら、22億どころじゃないということになる訳です。富士宮市の悪いところがすべて出た…そんな感じです。「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」で述べているように"考古学への偏り"があまりにも分かりやすい形で出ているんですよね。

勘の鋭い人なら分かると思います。上で若林氏(故人)が「発掘担当者の皆さんと若干見解の相違するところがあるのであるが」とある「発掘担当者」は、おそらく考古学が専攻でしょう(若林氏は中世史です)。そして大鹿窪遺跡と千居遺跡に施設を建設することを発案したのも、おそらく考古学が専攻の人でしょう。そして『元富士大宮司館跡』という呼称を推し進めたのも、やはり考古学が専攻の人でしょう。富士宮市はなんだかオモチャにされているような気がしてなりません。

大鹿窪遺跡は世界文化遺産「富士山」の「構成資産」入りを最後まで検討された史跡である。その価値は誰しもが感じるところである。しかしその犠牲として「中世・近世の軽視」とも言うべき状況下で数十年と放置され、富士宮市は多くの機会を失った。本当に悲しいことである。計り知れない損失の上で同じ轍を踏む…重ね重ね悲しいことです。




私が危惧しているのは、学芸員の中で上のような議論にならないことです。なっているのかもしれませんが。




もっと回答を頑張らないと。この方は財政面からの回答も期待しているわけで。回答者はもっと説得力のある回答をしなければなりません。



上野



ここに「富士宮市には高すぎる」とありますが、それが本当に正しい感覚なのかを考えてみる必要性があると思います。自身の方に感覚のズレがあるという可能性を "万が一にも疑わない"という方でなければ、再考の余地があるとは思いませんか。


【きらら】

きらら


大鹿窪自体が、交通の便が悪いです。大鹿窪を「交通の便が良い」と捉える人はあまり居ないと思います。


  • 参考文献
  1. 富士宮市教育委員会(2000), 『元富士大宮司館跡』
  2. 富士宮市教育委員会(2014),『元富士大宮司館跡Ⅱ』

2022年9月11日日曜日

郷土史博物館構想地域説明会の質疑応答に対する意見、西・柚野公民館編

富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」の続編となります。

  • はじめに

皆さんは、歴史学という学術分野において富士宮市が極めて深刻とも言える危機的状況に立たされていたことをご存知でしょうか?20世紀後半頃、富士宮市は外部からの猛烈な作用に晒されていたのです。しかもそれは、歴史学だけに留まる性質のものでは無かったのです。

上野公民館

このように富士宮市には博物館がありませんから、あまり研究報告がありませんでした。一方で他県の博物館の学芸員により富士宮市の歴史について言及されるケースはありました。やはりそれは富士山に関わることであり、特に「大宮・村山口登山道」について言及されるケースが目立ちました。

では他県の博物館、その中でも富士山に特化した「富士吉田市歴史民俗博物館」(現・ふじさんミュージアム)所属の学芸員が大宮・村山口登山道についてどのような評価をしてきたのかを見ていきましょう。以下に一例を示してみます。すべて「原文のまま」です。

表口登山道はもともと信仰場が少ない後発の道ではなかったか」「それぞれの登山道ごとに富士禅定の道・登山道は整備されていくが、相対的に北口が古い道筋ではなかったかと考えられる」((堀内1989;pp.583-592),原文ママ)


端的に言えば「吉田口が一番古い」と主張されているわけですが、その論拠はかなり強引です。表口登山道の後発説については、大宮口における比較的正確な合目区分を見て「新しいから機械的に正確に分けられていたのだ」としています。これもかなり無理な言い分です。

また「北口が古い道筋」という主張については、江戸時代の編纂物である『甲斐国志』の記述などを論拠としており、その遺物自体は現存しないというのに主たる根拠としています。また吉田口登山道に出土物が多いことを根拠ともしていますが、それぞれの年代から考察しているわけではないのです。しかも金石資料の多さだけで断定しています。それに加え、都合が悪い須走口における古い発掘物に関しては「詳細は不明である」で終えているのです。

こんなものではありません。実はどんどんエスカレートしていきます。

村山大鏡坊の所蔵する慶長期の文書の記述に注目したい。それは道者の登拝路は吉田口と須走口だと記すものである。つまり、富士道者の登山は吉田口と須走口に限られていたことになる。((堀内1993;p.33),原文ママ)


つまりこれは「大宮・村山口は登山道としては利用されていなかった」と言っています。いくらでも表口における道者の記録は存在しているのですが、作為的抽出である上に解釈が強引なものとなっています。

また以下は、それ以後の論考になります。

それ以前の登拝の道程はどうであっただろうか。岩本から直接村山へ赴き、そこから登山するのとは別の道程も考えられる。(中略)つまり、上井出や本栖を経、富士の西麓を巡って甲斐側に迂回して御山へ登拝する道者が存在したわけである。(中略)この記録の書かれた慶長以前は、富士道者の登山道は吉田口と須走口だとするものである。今川氏を端緒としてその後の徳川氏が通行整理のために、富士川以西の道者の登拝を村山口に限定したのは、他国へ通過する道者を領国内に誘致する政策によるものだったのである((堀内1995;pp.138-140),原文ママ)

著者の解釈では「右之内吉田・須走両口は、東西の道者登山致候」という記録は「登山道は吉田口と須走口のみであった」ということを指すとし、大名による政策で一時的に大宮・村山口が利用されたこともあったに過ぎないとしているのである。なぜこのような強引な解釈に落ち着いてしまうのかと言えば、結論ありきであり、また学芸員による強かな意図があるからなのです。

このような論考が1980年代という時点で既に出されてきている中、富士宮市側はそれを検証するような機会すら設けることもできないまま時を過ごしてきました。山梨県側の学芸員は様々な媒体を通して報告を繰り返し出すに至るという状況なのに、富士宮市側はノータッチでした。

つまり大宮・村山口登山道についてあまりにも不当な評価を繰り返され、いわば一方的なサンドバック状態だったのです。富士山に特化した博物館の学芸員が言うことですから、影響は大きいです。あわや、慶長期以前は大宮・村山口登山道は利用されて居なかったという考えが定説になってしまう危険性もあったのである

しかし労作、大高康正『富士山信仰と修験道』に所収されるような論考類の報告や他県の博物館の研究(一例を出せば館山市立博物館企画展「富士をめざした安房の人たち」も解明に一役買っている)も重ねられ、大宮・村山口登山道が見直されていきました。しかしこの領域を研究する人物は大変少なかったのです。このような研究者が現れていなかったら、富士宮市は大変なことになっていたでしょう(氏は郷土史博物館構想の委員でもあります)。しかも何も打つ手もないまま富士山が世界文化遺産に登録されていたら、富士宮市の資産は構成資産から除外され、無惨な状況となっていたことでしょう。「歴史学だけに留まる性質のものでは無い」というのは、そういうことなのです。

例えば文化課が何か調査をするとして、予算を申請したとします。仮にそれを判断するのが、議会ではなく今回の地域説明会の来場者の方々だったとします。その場合「何になるのか」とか「価値が分からない」「成果が出るか確証がない」といった文言を並び立て、物事は進捗しないばかりか全く通らないかもしれない。そして富士宮市側からの検証は何も出来ず、構成資産も富士宮市のものは数が制限され、悲しい結末を迎えたことでしょう。

しかも恐ろしいのは、そのような方々というのは「良かれ」と思ってやっている節があることです。本来得られたはずの成果や失った時は戻らない。質疑応答では決定の主体が「議会」であることに質問者が意義を唱えるようなものが何例かありましたが、私はそれ以外の場合の方がよっぽど怖いです。なので私としては、そのような主張をされた方々はそれを撤回するという英断を迫りたい気持ちもあるわけです。


富丘公民館


ここにあるように、古文書類は1万点程存在するようです。富士宮市がもう少し史料を広く公開できる状況にあったら、状況は違っていたかもしれません。これも、博物館が無いと難しい。「世界の富士山」であるのに、富士宮市はこの状況を等閑視していました。これは静岡県の問題と言ってもよいかもしれません。

もうお分かりのことでしょう。皆さんは、博物館の機能を狭く捉え過ぎているのです。そして学芸員の役割の大きさを甘く見ています。「富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見」で確認されるような"疑問を持つ人々"というのは、その意見に鑑みるに、このサンドバック状態を間接的に支持し得る存在と言っても間違いではないはずです。身内に敵が居るじゃないですけど、そんな感じです。

富士宮市に研究を促進させる体制がなく、不当な評価を許す状態が長らく続いていたことは否定できない事実です。これは富士宮市にとっての損失であり、市民としてそれを残念がるのが普通ではないでしょうか。それに民俗博物館が位置する富士吉田市は、富士宮市より遥かに経済規模が小さい自治体です。そのような点も考えた方が良いと思います。


以下、意見になります。

【西公民館】


初めから観光で良いと思います。「富士宮がどういう所なのか、自分たちがどのような資源を持っているのか」なんてものは、既にやっておいて然るべしなのです。戦後何年経っていると思っているんですか。そもそも観光客の方が富士宮市の歴史に詳しいのだけれども、それでも何とも思わない富士宮市民を律するのは大変でしょう。これは、これまでの文化課の姿勢そのものの問題でもある。


廃校を利用するということは、「廃校させる」ということでもある。今現在廃校は無いし、この意見が多い事自体が不思議としか言いようがない。また廃校の維持コストが本当に見合うものなのか、よくよく考える必要がある。


維持・管理のために必要だと思います。

 【柚野公民館】


同じ国指定史跡である「千居遺跡」の例を見ても分かるように、大鹿窪遺跡においても今後の展望はそれほど期待できるものではないと思う。例えば仮にガイダンス施設の認可が降りていたとして、実際に人が来たのか極めて懐疑的である。

私は千居遺跡の写真を撮りに現地へ赴いたが、「え?これじゃなんにも見えないよ…」と非常に落胆した記憶があります。仮に千居遺跡がもう少し整備されていたとする。それでも、どう考えても人は来ない。大鹿窪遺跡も同様の道を辿るでしょう。確かに発掘時は人が来たのかも知れないけど、それは一時的なのです。大鹿窪遺跡に夢を見すぎているように思う。



富士市の富士市立博物館・歴史民俗資料館は補助金が出ています(富士市1986;p.818)。内訳は以下の通りです。

施設国庫補助金県費
博物館5,500万円3,000万円
歴史民俗資料館700万円350万円

つまり国だけでなく、県からも出ている。正直、補助金の有無というのは"雲泥の差"どころの話ではない。しかしながら、富士市の場合はこれが成功だったとも言い難い。上井出出張所での質疑応答に対する回答に、以下のようなものがある。

先ほど一億円が独り歩きしちゃうって話ですけど、議会でも答弁しましたが、 富士山かぐや姫ミュージアム、ここは広大な面積がありますが、旧家の建物も全部管理していて、それで一億超えている状況でかなり人件費もかかっています。

実際にどのような建物群があるのか、また建設コストはどうだったのかを見ていきましょう。以下、展示室の建物および資料館以外の「旧家等の建物」を一覧化してみる(建設当時のもの)

施設建設費
長屋門・原泉舎29,884,000円
松永家住宅39,000,000円
横沢古墳10,897,000円
眺峰館17,700,000円
東平遺跡高床倉庫15,700,000円

これらの維持コストがとんでもないことになっているわけである。補助金は沢山捻出させることに成功したけれども、その維持コストが過大ではあまり意味がないのである。またその後も同じ轍を踏み、追加で「杉浦医院」その他施設を設けているので、コストがとてつもなく膨らんでいると思われる。開業当初には無かったものがいくつも追加されている。

富士宮市は、富士市のような構成(建造物を何箇所も建設する)にはしない方が良いことは言うまでもない。


やはりハード面と歴史に何らかの関係性は求めたい。


  • 参考文献
  1. 富士市(1986),『富士市二十年史』
  2. 堀内真(1989)「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店
  3. 堀内真(1993)「富士参詣の道者道と富士道」『甲斐路No.76』
  4. 堀内真(1995)「富士に集う心 : 表口と北口の富士信仰」『境界と鄙に生きる人々』,新人物往来社

2022年9月7日水曜日

富士宮市立郷土史博物館の地域説明会における質疑応答に対する意見

 「富士宮市立郷土史博物館基本構想を独自に模索してみる」の続編になります。「地域説明会において提起された意見のまとめ」という資料が富士宮市により公開されているため、取り上げていきたいと思います。

資料の一部


  • はじめに
皆さんの意見を拝読させて頂きましたところ、「資金のスケール感」が独特であるように感じられたので、一度例を出して整理してみようと思います。まずは「億超え」事例の1つである「富士宮市による新富士駅建設費の負担」を例に考えてみましょう。富士宮市が新富士駅の建設費をどれだけ負担したのかというのは、(南部町誌1999;p.847)に記されています。

自治体負担額
富士宮市5億8,300万円
芝川町・富士川町・蒲原町・由比町8,600万円
西伊豆5町村500万円
山梨県2億円
8億7,400万円
計(最終報告)※(富士市1989;p.32)より7億2,100万円
※事業費は最終的に少し減額されたため、約6億円ではなく約5億円程であると思われる

私がこの金額をどう捉えているのかと言うと、「法外な高さ」と感じています。何故なら


  1. 結果として「身延線」と接続されていない=富士宮市民が金額に見合った恩恵を受けられていない
  2. 物理的存在として、富士宮市に所在するわけではない資産


であるからです。つまり富士宮市に出来るわけでもなく、利便性が高いわけでもない。そのようなもので、5億円以上の負担は高いと言いたいのです。

仮に億以上の金額が出るのであれば、それは最低限富士宮市に所在するものであって欲しいし、また他の意向に縛られない施設(この場合は富士宮市に関する内容)であって欲しいと私は思うわけです。まずこの博物館事業では、それが担保されています。

「そんなの当たり前でしょ」と思われる方も居るかもしれませんが、上のような事例を把握して頂いた今、当たり前ではないということは分かるかと思います。そして、富士宮市の大切な文化財を保護できるという「恩恵」も担保されています。まずそれを理解した上で、意見は表出されるべきだと思います。皆さんの意見を外から拝見する限り、"何やら何処からか負担を強いられている"かのようなスタンスに感じられます。

財政面で考えてみましょう。地方自治体の税収は「工業」に拠る所が大きいですが、製造品出荷額等が年間約1兆円を誇り本社も一定数位置する富士宮市にとって、約20億円の博物館を建設することがそれほど難しいことなのかという話です。私は、それほど難しいことではないと考えています。むしろそれに見合った「結果」を出せばよいだけの話です。求められるのは「結果」のはずです。

更に皆さんにとって身近なもので考えてみましょう。例えば「イオンモール富士宮」の土地・建物の所有者は㈱イオンです。小売業の企業が、店舗が所在する土地自体を所有している例は実は珍しいです。それ程あることではありません。この土地はオーミケンシ(オーミ・リアルエステート)が民間都市開発推進機構から土地を取得し、その土地を㈱イオンが買い取ったことによります。イオンの買収額は土地が62億5,000万円であり、建物は24億円です。億というお金は、身近なところで常に動いています。

この種の「事業説明会」で問題となるのは、結局のところ「その人の資金のスケール感」です。詰まるところ、経済等に殆ど通じていないような人が、「億」という金額を聞いて条件反射のように反応しているだけの話だと私は考えています。なので、質問に生産性を感じられない。そのような層だけの意見を聞いていたら、富士宮市は不幸なことになると思うわけです。何も出来ず、そこには一方的な不幸が待ち構えていると思います。

そして私は

市民の意見に対して市民が意見する

ということも重要だと思っています。「意見」を述べる人に対して「意見」を言ってはいけないわけもなく、以下で実際にそれをしていこうと思うわけです。"意見を述べる人が意見を述べられる側にはならない"と考える大人も居ないと思われますし、その材料を富士宮市が提示してくれているので、向き合ってみようと思うわけです。

資料の制約上「抜粋」でしかないというのは承知の上ですが、それでも本質は要約されていると思います。記される文言に対し正面から向き合い、意見を述べてみようと思います。


以下、意見になります。

  • 事業の意義に対する疑問

他に優先するべき事業があるなかで20億円以上をかける事業を行うことに反対

この種の意見は他分野でもよく見かけるものであり、ある種「紋切り型」と言ってもよいと思います。これに対しては単純に「どうして並行して進めてはいけないのでしょうか?」という問いに尽きます。

不登校対策、子どもの貧困対策、具体例なし

これが、博物館事業ということを理解する必要性があります。アマゾンのレビューで、商品のレビューをしなければならないのに「配送が雑でした」と書いているようなものです。

整備費用を給食費の軽減に回すべき

意味が分かりません。上に同じ。

もっと今の生活者のために回すべき

日本国による十分な保証があります。

特に具体策はないが、他を優先すべき

このレベルの意見で、説明会に来る意味がありますかね。

なぜこのタイミングで博物館を整備しなければならないのか疑問

逆にどのタイミングなら妥当と考えるのかを教えて欲しい。

子どもたちの理解を深める役には立たない

子どもたちの可能性を甘くみないで下さい。

 富士山学習への取り組みは十分で改めてターゲットにする意味がわからない

富士山学習への取り組みを無しにして、博物館事業を進めるでも良いかもしれない。一理ある。

観光客誘致を目的としたいが隠しているようにみえる

観光客を誘致して、何が悪いのですか?教えてください。

保存場所の確保ありきで後から博物館にする理由を付けているように思える

そうでしょうか。

利用者がいないのに整備する意味がない

一見するとそっけない意見のようにも感じるけれども、埋蔵文化財センターの利用者が少ないのに危惧する気持ちは大いに理解できる。しかし施設自体はそもそも出来ていないのも事実。埋蔵文化財センターは博物館ではありませんからね。

保存する文化財の価値が低い

単なる知識不足です。文化財の価値が低いのではなくて、質問者の知識が低いのです。文化財は、「文化財指定されたもの=文化財の価値」というわけではない。例えば岡路八幡宮の「綱敷天神座像」は、綱敷天神を彫刻化した作例として珍しいものであることが指摘される(鈴木幸人「天神在地縁起の研究」)。仮に文化財指定されてなくとも、各々価値は有するのである。

そもそも、博物館を文化財だけで定義しようとする考えそのものが、とてつもなく浅い。博物館を実物だけで構成する必要性は全くありませんし、そうではいけない。

例えば私は過去、富士宮市が舞台となった絵図を一覧化しようと試みたことがある。しかしこれは断念せざるを得なかった。何故なら逸話が多すぎて、絵画化例が多いためである。「富士の巻狩」や「富士の狩倉」関係だけで見ても、『曽我物語図屏風』や各種「武者絵」など、枚挙に暇がない。これらには浮世絵も含まれる。

例えば富士宮市の地図に番号を付し、その番号に応じた絵画化例をパネル等で展示するとする。これによって市内のどこの箇所を絵画化したものが多いのか、そしてその作品傾向が一目で分かるわけであるが、絵画は実物でなくとも良いのである(そもそも多くは用意できない)。

「保存する文化財」という視点で考えてみても、大変におかしな指摘である。富士宮市は「千居遺跡」や「大鹿窪遺跡」の発掘物を有しているが、この両者は国指定の『史跡』。国指定史跡というのは、そこらへんにあるものでは決してありません。文化財の1つである「特別天然記念物」を富士宮市は2つ程有していますが、日本全国で複数有する自治体なんて殆どないでしょう。現状を少しでも知っていれば、絶対に出て来ない意見だと思います。

歴史学習は他の事業で行えば十分

「他の事業」とは何ですか?また「歴史学習」は一側面でしかない。

 富士宮市の文化財だけでは展示を維持できない

本当に面白い意見です。富士宮市は国指定の文化財にとても恵まれている自治体です。知識不足が露呈しているに過ぎないと思います。また市が文化財を購入する事例もありますが、それこそ資金がかかってきます。例えば山梨県が『市河家文書』を購入した際は数千万円規模の出費であり、目玉となるような文化財取得はそれこそ資金がかさむのです。結論を言えば、見識が狭いとしか言いようがない。

(追記)

家康の肖像画と駿府城絵図入手 静岡市、歴史博物館で展示(静岡新聞Web版 10月5日)
 静岡市は4日、2023年1月にグランドオープンする市歴史博物館(葵区)の所蔵品として、徳川家康の肖像画や駿府城の絵図を入手したと明らかにした。花村章弘歴史文化課長が同日の市議会観光文化経済委員会で説明した。市が昨年11月に京都の古美術商から385万円で購入した。(抜粋)

(追記終)

説明内容ではワクワク感がない

確かに、説明会の時点ですら「ワクワク感」を感じられないのは良いことではない。プレゼンが魅力的でないのかもしれないですし、事業内容自体が魅力的でないのかもしれません。この種の意見は重要だと思います。一般の人が博物館に行くとき、そこには「ワクワク感」があるはず。お目当ての刀剣を見たいとか、富士山世界遺産センターのように建築自体にも関心があるとか、既に目的があることが多い。仕掛けがないと人は来ない。

地域の博物館には何回も行くわけではないに多額の費用をかける意味がない

もしかしてご存知ないのかもしれませんが、一般に「特別展」や「企画展」の度に同じ博物館に行くことは珍しいことではありません。「地域の博物館」とありますが、どの博物館も「地域の博物館」です。

地域密着では博物館として成り立たない

逆です。地方の博物館は、地域密着の内容でないと成り立ちません。しかも費用をかけて"富士宮市にあまり関係のないものにフォーカスする"というのはもったいないという言い方もできる。

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「事業の意義に対する疑問」に対する意見は以上です。一度ここで区切りを設け、この方々によって博物館計画そのものが練られたと仮定した場合、どのような産物が想定されるのかを考えてみましょう。「20億円以上をかける事業を行うことに反対」という意見があり、別意見で「2億~3億程度なら容認」という具体的数字も出てきているので、これを引用した上でまとめると以下のようになります。

2・3億という低予算から給食費・生活困窮者の生活費を差し引いた上で運営し、スタッフが子どもの不登校対策や貧困対策をも並行して考え、一方で博物館なのに歴史学習を行ってはならず、また観光客も誘致してはならず、地域密着の展示では構成しない方針で挑む。

これが、疑問を持つ方々による最大公約数的な意見です。「どのような産物になるのか」は、言うまでもなく悲惨なものとなるでしょう。

  • 20億円以上かける事業に反対(費用節減策の要求)

22億円かかる事業を行うこと自体に反対

もし単純に22億という数字に気圧されているのであれば、22億のスケール感が一般と乖離しているだけかもしれない。この考え方だと、20億以上の事業は富士宮市で未来永劫できないことになり、上のように一方的な不幸が訪れることでしょう。そのような不幸に巻き込まれるのは、一般市民なのです。

ハコもの整備は時代遅れ

「コンクリートから人へ」といった標語が好きな方はそう思うかもしれない。

ハコを作らなければ何もできないという昭和的発想

この「紋切り型」の感じが昭和的発想なのです。昭和的発想の人が、その例に漏れず発言しているが、それに気づけていない可能性がある。実際、具体案や代替案があるようにも思われない。

新生児が700人/年という状況の中で進める事業としては高額

いち意見としては成り立っている。

博物館のために増税することに反対

「博物館のために増税」の根拠が見当たらない。

費用節減を考えるべき

そうですね。

廃校の利用による整備費用節減

それで逆にコストがかかる可能性が高いと思われる。「廃校の利用」=「コストの削減」になるというデータが欲しい。住宅でも、後からリフォームする方が大変な資金が必要である。学校の設備をそのまま転用できるケースなら良いが、博物館はそれに当てはまらないというのは現時点でも分かるかと思う。

デジタルを活用した展示を行えば施設は不要

文化財は物理的な存在。なので施設は必要。

設計コンペを行い、低額で設計させればよい

役所ですから、わかっていると思います。

2億~3億程度なら容認

家数戸分ですよね。絵に書いたような「資金のスケール感問題」を体現されている方です。長く使用できる家庭用の体温計ですら数百円のものを買おうと画策する人もいますし、調理器具も非耐熱を買って結局すぐ駄目にしてしまう人も居ます。「安かろう悪かろう」を家庭内に飽き足らず行政に持ち込むことが好きな人が居るわけです。2・3億で作れなんていうのは、普通の意見ではないです。

ちなみに、富士市の「山部赤人万葉歌碑」の建設費(昭和61年完成)は704万円です(富士市1986;p.843)。2億円だとすると、だいたい歌碑28.4個分です。物価を加味すれば、更に作れない計算となります。

  • 事業の進め方が不透明

市民への周知の不足

あるかもしれない。

いつの間にか博物館建設が決定されている

議論の存在自体も把握していなかったとすれば、それは単純に新聞を読んでいないだけです。

いつの間にか建設が決定されて20億の予算が確保されている

上に同じ。

博物館の必要性の周知が不十分

博物館の必要性を誰しもが理解できるとは限らない難しさがありますよね。

検討委員会の議事録公開 

博物館議論を進めていた市議会の議事録は公開されています。委員会の方は特段必要性を感じない。委員にも費用がかかるので、コストがかさみます。

議論に関する情報公開の要望 

「(仮称)富士宮市立郷土史博物館基本構想」でも十分と考える。しかし一度ゼロベースで検討しても良いと考える。それくらい現時点で展望を感じないのも事実。

市民に周知しないまま建設が決まっている

周知は少し足りない部分もあるかもしれない。

決定過程が不透明 

そうでもない。

議会で反対が賛成に変わった理由が不明で裏取引を疑う。

ドラマの見過ぎです。

なぜ今後のスケジュールが決定されているのか

スケジュールがないまま進んでいる方が不思議です。

コンサルタントの企画に乗っているだけではないのか?

普通に違うと思います。

財源の確保についての見通しがない 

財源確保の見通しが有るので、今議論しているのです。

20億円で足りるのか

ここも重要なところですよね。

20億円を確保できるのか

確保できると思います。

補助金がないなかで財源を確保できるのか 

なんとかして、補助金を獲得する取り組みは欲しい。有るのと無いのとでは大違いですからね。

他の事業に影響がないのか

どうでしょうかね。「新富士宮市史編纂事業の意義と古史料の提供呼びかけ」で記したように、富士宮市は地方交付税の不交付団体(≒財政優良団体)に断続的に指定されていた自治体です。不交付になるのは基本的には財政力指数が1.0以上の場合。富士宮市は財政が悪くない自治体なので、ここをウロウロできる位置づけにあるわけです。

しかし1.0を超えると、地方交付税が不交付になってしまい、頂けるものが頂けなくなってしまう。ここをなんとかコントロールし、頂ける範囲に落とし込んでいるわけです。一般市民は知る由もないこのような微細調整があって、なんとか色々な分野に投資できるよう図ってきたわけです。私は、その対象が博物館となる番が来てもよいと考えています。

財源がないなら反対

あります。

借金が増える

税収を増やせば良い。

次の世代への悪影響

今世代の悪影響を取り除く努力を、現在進行系でされているのだろうか。また、どのような悪影響を想定されているのか。

博物館が利益を生み出す工夫がない

その通りです。現時点で、そこの深い議論があってもよいですよね。博物館の利益が維持管理費になるのですから、ここは極めて重要な部分です。

増税につながるので反対

まちづくりセンターの類も同様の性質がありますが、それでも反対でしょうか。

埋蔵文化財センターの処分費用が計上されていない

埋蔵文化財センターは少しもったいなかった印象はあります。思うところはあります。

維持管理の財源が不明

やはり入場料を取って、且つそれ意外の工夫も求められるでしょうね。

コストと収入のバランスが悪すぎる

博物館はそういう面があると思います。本当にそこだけで判断してしまうと、市立病院も矢面に立つことになる。黒字の公立病院なんて、全国に殆どありませんから。収入はこれからの計画次第でしょうね。

事業計画を示すべき

今現在は示されている。資料公開の前後はよく分かりませんが。

公園をつぶして整備しようとする発想に疑問

富士山世界遺産センターも「公園をつぶして整備」したものですが、私は見事な計画であったと思っています。

整備する場所に歴史的ストーリーがほしい

この意見に少し感動しました。ハード面を歴史と結びつけて考えることは極めて重要だと思います。

ストーリーを作れるところに

コンセプトが希薄になる心配がありますよね。傾聴すべき意見です。

遺跡の近くに整備すべき

何とも言い難い。その方が良いようにも思うし、そうでないと思ったりもする。実際どうなんでしょうかね。傾聴すべき意見です。

公共交通機関など交通の便を考えてほしい

「子どもから高齢者まで」来てほしいですよね。その場合は公共交通機関は必須。映画館だって、駅前にイオンモール富士宮が所在するので、子どもたちだけで電車を用いて来ることが出来る。もしこれが郊外なら、車で送ってもらい、車で迎えに来てもらわなければならないことになる。それって、寂しいことじゃないですか。

難しいかもしれないが、公共交通機関で来れる場所だったら嬉しい。

白糸は湿気が多いので留意が必要

実用的な意見。
 
市街地に整備すべき

≒「公共交通機関など交通の便を考えてほしい」ということかな?

人が集まるところに整備すべき

上に同じ。 

学芸員の増強が必要 

同意。どう考えても、富士宮市は色々な意味で足りていない。中世・近世が特に遅れている。

例えば先照寺の説明で「武田家の重臣穴山信友が先妣(亡母)の後生善処を願い寄進した延命地蔵菩薩だと考えられます。(中略)そこには武田氏の勢力も寺院に御本尊を奉納するというように、この地域は今川氏・武田氏・北条氏の勢力が拮抗する所であったといえます」といった説明があります。しかし穴山信友の時代、とてもではありませんがそのような状況ではなく、あり得ない説明となっています。

おそらく中世の専門でない人が書かざるを得ないような状況が、そうさせているのでしょう。ということは、1人に対する仕事量も過大であると推察できるし、それは好ましい状況ではない。「歴史の啓発」(歴史ガイド的なもの)と「コンテンツ作成」(市HPや文書作成)と「研究」(学芸員としての探究)と「保存」(文化財の管理)を両立させるのは、本来無理なのです。


整備に向けてプロフェッショナルのアドバイスを受けるべき

同意。しかし郷土史博物館基本構想検討委員会の委員には、プロフェッショナルも居るようです。

以上になります。

  • まとめ

結局のところ、富士宮市に関する知識のない人々が、安かろう悪かろうを推奨しようとしているようにしか見えないというのが正直な感想である。説明会の主催者は、質問者のレベルまではコントロールできない。

そもそも博物館の「内容」に関する質問が少ないように見受けられる。全部「ハード面」なんですよね。本当に文化・歴史に関心があったら、その種の質問があって然るべきなのです。

説明会は上にあるような「ワクワク感」を感じられるものでなければならないし、行政側はプレゼン能力を鍛える必要性がある。説明会はネガティブなものではありません。伝えたいことを、御尊顔を拝しながら「直接的ないし暗に伝える」ことができる、限られた良い機会なのです。そのような考え方で挑めば、次第に納得される方も増え、最終的にはもう少し質問者が博物館の内容に言及するレベルまでになっていくと思います。

20億円が妥当であるかどうかは結果次第だと思うが、今現在の展望の無さがその気持ちを削いでいるというのが個人的な気持ちである。

  • 参考文献
  1. 南部町誌編纂委員会(1999),『南部町誌』 下巻
  2. 富士市役所総務部企画課(1989),『新富士駅設置までの歩み』
  3. 富士市(1986),『富士市二十年史』