2018年6月26日火曜日

沼津市の基本情報及び富士山との関係

このページは「沼津市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

沼津市
まず冒頭に言わなければならないことがあります。それは"Wikipedia等で掲載される「富士山の所在地」は誤りである"ということです。富士山の所在地というのは、文化庁の資料等で示されています。以下もその1つです。



文化庁の資料によると、富士山が所在する自治体は以下のようになっています。


富士山に所在する自治体
静岡県富士宮市 御殿場市 裾野市 小山町 富士市 沼津市 三島市 清水町 長泉町 静岡市
山梨県富士吉田市 身延町 西桂町 忍野村 山中湖村 鳴沢村 富士河口湖町
何故このような広範囲になっているのかというと、おそらく富士山の所在地の定義を「噴火物の届いた範囲」としているためでしょう。ただその「噴火物」も対象をより限局したものであると思われるし、この部分は詳細には提示し難い。しかし多くの人は、これら自治体すべてを「富士山麓」として捉えているということはないと思われる。そういう意味で、これは「広義的な富士山の所在地」とも言える。

確かに沼津市には世界文化遺産富士山の「構成資産」は無いし、「史跡富士山」にも関与しない。また「特別名勝」にも市域は含まれていない。だが、環富士山地域にも単独の構成資産及び史跡富士山に関与しない自治体はあるということは付け加えておこうと思う。


富士宮市御殿場市裾野市小山町富士市沼津市三島市清水町長泉町静岡市富士吉田市身延町西桂町忍野村山中湖村鳴沢村富士河口湖町
富士山―信仰の対象と芸術の源泉(世界遺産
富士山(史跡
富士山(特別名勝
富士箱根伊豆国立公園「富士山地域」の「特別保護地区」(国立公園

そこである文書に着目したい。


まずこの文書にある吉原(富士市)に所在した「道者問屋」「商人問屋」のうち、一般的に「道者問屋」については富士山への登山者を相手とした問屋と考えられている。「商人問屋」と「道者問屋」は区別されており、「道者」を相手とした問屋が一定数存在したのである。以下は大岡庄(沼津)に関する文書である。


沼津市にも道者問屋が存在したのであり、吉原の道者問屋が富士山の道者(導者)を対象としたものであるとするならば、やはり沼津の道者問屋も同じ性質のものと考えたほうが良いだろう。吉原より東から来る道者が利用したと考えるのが素直である。また沼津市にも浅間神社は多く存在しているし、一度「沼津市と富士山」という視点で考えても良さそうと思えるのである。


以下に環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
056千本浜公園
057大瀬崎
058発端丈山
059煌めきの丘
060金冠山
089古稀山

沼津市は選定地が多い自治体である。以上が、「沼津市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2018年6月24日日曜日

富士吉田市の基本情報及び富士山との関係

このページは「富士吉田市の基本情報」と「地理上の富士山との関係」についてを簡潔に説明するページです。イメージが湧きやすいように画像を多用しておりますので、御覧ください。

富士吉田市は山梨県郡内地方の自治体である。標高は最低標高が652mで最高標高は3,776mである。


富士吉田市は、山梨県側の富士山麓各自治体をまとめる立場にあると言って良い。行政主導の多くの場面で、「(富士山麓の)山梨県側の代表」として行動している節がある。 例えば2005年(平成17年)に環富士山地域の防災対策連携を策定し設立された「環富士山火山防災連絡会」は、富士吉田市が提唱したものである。このときから「環富士山」という言葉が多く用いられるようになったのであり、このような事例が確認できるのである。

ちなみに静岡県側をまとめたのは富士宮市であるが、富士山関係の事柄は普通

山梨県:富士吉田市主導
静岡県:富士宮市主導

という構造になっている。富士山に関わる何らかの動向の際に富士宮市と富士吉田市が動いていれば、それはおそらく実を結ぶ可能性が高いと言えるのである。

富士吉田市という名称を考える上では、先ず地理的な理解が求められる。明治期の町村制施行で、現在の富士吉田市の市域には3つの村が成立した。「瑞穂村」「明見村」「福地村」である。この三村の中では「瑞穂村」が中心地であった。


上の図は富士山を山頂から見た図であり、財務省のHPにあるものに加筆したものである。ここでいう「福地村」(右上)が富士吉田市の山体側の市域となる。

そして中心地であった瑞穂村は町制施行で「下吉田町」と名乗り(1939年)、富士山体側の「福地村」は「富士上吉田町」と名乗った(1947年)。この両者と「明見町」とで合併がなされたが(1951年)、やはりそのまま「富士上吉田市」等ではおかしいので共通の固有地名である「吉田」と「富士」を合わせて「富士吉田市」と命名された。当地では今でも「上吉田」「下吉田」という呼称が用いられている

「福地村」の「福地」は「富士」に連なる用語であり、「福地≒富士」なのである。直接「富士」と名乗ってはいないものの(憚ったとも言える)、間違いなく「富士」の用例であり、自治体でそれを名乗っていた早い例とすることも出来るだろう。

また富士吉田市の特徴として「北口本宮冨士浅間神社とそれに付随する事柄」が挙げられるだろう。「吉田口登山道」「金鳥居」「御師住宅」等も北口本宮冨士浅間神社に付随すると言って良い。「金鳥居」については『富士山包括的保存管理計画本冊』に「登山鳥居」とあるそれがそうである。

西宮本殿の背後には登山鳥居(登山門)が建ち、この神社境内を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講信者は、御師住宅から懸念仏を唱えつつ北口本宮冨士浅間神社へと至り、神社の拝殿に昇って参拝した後、富士山頂を目指した。富士山の登拝を開始する「開山日」は古くから毎年7月1日と定められ、北口本宮冨士浅間神社では夏 山の安全を祈願する神事が行われてきた。今日では、開山日の前日に当たる6月30日に盛大な開山パレード及び登山鳥居(登山門)の注連縄を切り落とす儀式などが行われ、実質的な開山祭となっている。

ここからが吉田口登山道の起点と考えられている。富士山は「特別名勝」でもあるが、以下はその特別名勝の範囲を示したものである。


黄色の箇所がそうであるが、やはり細く延びる箇所が特徴的と言って良い。そして富士吉田市側で細く延びているその起点は何を隠そう「金鳥居」(北口本宮冨士浅間神社境内)なのである。登山道は道者が登拝した道であり、それを特別名勝を構成する1つとしているのである。

また世界文化遺産富士山における「富士山域」もやはりここから細く延びる形になっているのである。

登山門=金鳥居のこと(登山鳥居とも)

御師住宅は北口本宮冨士浅間神社の後ろに位置している。


世界文化遺産富士山の構成資産として当市に関わるものを以下にまとめた(富士山域を除く)。


構成資産
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社
御師住宅(旧外川家住宅)
御師住宅(小佐野家住宅)
吉田胎内樹型

環境省により公開された「富士山がある風景100選」の、本市に関わる展望地一覧を以下に示す。


No.「富士山がある風景100選」展望地
010 新倉山浅間公園
011富士見バイパス
012金鳥居
013富士パインズパーク(諏訪の森自然公園)
014城山東農村公園
015道の駅富士吉田
016富士散策公園
017富士北麓公園
019杓子山
101小富士

以上が、「富士吉田市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2018年6月14日木曜日

富士市の基本情報及び富士山との関係

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富士市は静岡県東部の市である。地図を見れば分かるように周りは山岳に囲まれており、南に駿河湾が位置する。「山岳に囲まれており」の中でも特筆すべきは愛鷹山塊の越前岳(1,504m)と北方に位置する富士山(3,776m)である。



海抜はサイトによっては最低海抜を「0m」とするものもあるが誤りであり、「0.7m」である。最高海抜は3,421mである。

隣接する富士宮市同様「富士」を冠する自治体であるが、その大元は加島村という村が町制施行した際「富士町」と名称を変えたことによる。昭和4年のことである。その後市制施行で富士市となり、「吉原市」(合併直前の人口90,224人)「富士市」(合併直前の人口53,247人)「鷹岡町」(合併直前の人口16,101人)の合併で富士市の名称が選ばれ現在に至る。

官報

2008年には富士川町を編入している(その後山梨県に富士川町が誕生したが、区別が必要)。


現在の富士市の地価最高地点は、青葉通り周辺(青葉町306番)である。市役所完成年にその一帯を撮影した写真が残る。

現在の青葉通り周辺

赤で囲った場所を既出の写真で当てはめたものが、以下のものである。


つまり人が殆ど住んでいなかったような土地が、地価最高地点へと姿を変えたのである。逆に鉄道駅が位置したような元来の中心市街地は著しく衰退した。これは「旧吉原市と旧富士市の間」を開発するという中途半端な都市開発方針が招いた結果であると、多くで指摘されている。

富士市は中世には「富士下方」(ふじしもかた)と呼ばれた地であり、その範囲は現在の富士市域と概ね一致している。隣接する富士宮市は「富士上方」と呼ばれていた。


上の図は富士山を山頂から見た図であり、財務省のHPにあるものに加筆したものである。富士市は市域の上部の細い部分が富士山体にかかってくる自治体であり、青と橙の間がそれである(大淵村とある箇所が現在の富士市にあたる)。

Google mapsより
現代の地図を見比べると、一層分かりやすいでしょう。

赤:富士山域
その地理的特質上、世界文化遺産上の定義である「富士山域」にかかる面積も少なくなっている。また富士市には「世界文化遺産富士山」の単独の構成資産は無い。


また富士山は「史跡」でもあるが、史跡としての富士山としては富士市は含まれていない。また富士市の特徴として浅間神社が多く分布することが挙げられ、その数は富士宮市より多い。


以上が、「富士市と富士山との関係」についての簡潔な説明である。

2018年6月11日月曜日

善得寺の会盟と善得寺城について考える

「善得寺の会盟」とは「駿河国・甲斐国・相模国の三国同盟の際、三国の当主が善得寺(富士市)に集まり会盟を行った」という一説である。

大河ドラマ『武田信玄』(1988)
しかし現在、学術的に善得寺の会盟が成されたと考えられることは殆ど無く、「無かった」という見方が定説である。また「善寺」と「善寺」という異なる表記が確認できるが、小和田哲男氏は以下のように説明している。

どちらも混同して使われているので、厳密に使い分ける必要はないかもしれないが、概して、中世では善得寺が主として使われ、近世では、ほとんどすべてといってよいほど善徳寺という表記になっており、この違いは歴然としている。(中略)このことから考えると、今川氏は善得寺を公用語としていたことがわかり、今川氏の衰退後、次第に善徳寺になっていったことが考えられる。

とし、「善得寺→善徳寺」という変化があったことを述べている。

  • 善徳寺の会盟
「善徳寺の会盟」を記す史料は、『相州兵乱記』といった後世の編纂物にのみ確認できる。『相州兵乱記』に

三大将、善徳寺二於テ会盟有リ、然ラハ氏真ハ氏康ノ聟、氏政ハ信玄ノ聟、義信ハ義元ノ聟タルヘシト婚姻ノ約ヲ結ヒ給ヒ

とあるという。一方『妙法寺記』・『甲陽日記』(『高白斎記』)といった時事的な内容を記す史料には会盟を示す記録は無い。また近世は「善徳寺」という表記であったことを上で記したが、『相州兵乱記』『相州兵乱記』等はすべて「善徳寺」の表記である。『日本の歴史11 戦国大名』は『相州兵乱記』等の記録から

今川氏の軍師の太原崇孚(雪斎)が信玄・義元・氏康の三者を駿河の善徳寺(富士市)に集めて、甲・駿・相の三国同盟を提案した。(中略)これを「善徳寺の会盟」という。

と説明している。ただそれから研究も深化し、否定されるようになった。その先鞭をつけたのは磯貝正義氏である。

善徳寺の会盟を記す後世の史料では、その日時を天文23年(1554)3月としている。そこで、その前後の状況を考えていく必要性がある。武田信玄から見て姉にあたる定恵院は今川義元の正室であったが、天文19年6月に死去し、同盟関係上新たな関係構築が求られるところであった。そのため信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行った。そして天文21年(1552)11月には嶺松院は既に輿入れしているのである。その様子は『甲陽日記』に詳しい。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

とあり、駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-穴山宿-甲府というルートで移動した。つまり会盟が行われたとされる天文23年より以前に、既に二国間同盟はなされているのである。『妙法寺記』といった時事的動向を詳細に記す記録にも会盟を示すものが全くなく、また他史料の分析等から磯貝正義氏は「会盟は無かった」としている。『相州兵乱記』について糟谷幸裕氏は以下のように説明している。

天文23年(1554) いわゆる駿甲相の三国同盟は、この年、北条氏康息女(早川殿)の今川氏真への入嫁をもって完成する。『相州兵乱記』等の北条氏系の軍記物では、三月、氏康が駿州河東に侵入したのち、来援した武田晴信ともども講和がなったとするが、史実とはみなしがたい。三大名が一堂に会したという「善徳寺の会盟」も、やはり虚構であろう。

としている(『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』)。

早川殿
また史料では「善得寺城」の存在が示されており、この部分も着目されるところである。


  • 善得寺城

善得寺城については「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」にて取り上げようとしたが、史料的制約が甚だしい城である。『今川氏の研究』には以下のようにある。

善得寺城は存在しなかったと考えることも可能である。その場合、善得寺の伽藍(がらん)そのものが城として機能していたとみることもできる。あるいは、善得寺の寺域の一画に砦のような部分を設け、それを善得寺城とよんだと解釈することもできる。

とある。また立地状況等から『吉原市史』は

しかし、地形的なこと、さらには周辺の地勢などから見て、善得寺(富士市今泉五丁目)の場所に善得寺城があったとは考えにくく、他の場所にあったと見るのが自然であろう

としている。「そもそも存在したのか」と議論される城であるが、各所「善得寺砦跡」とも呼称され、城に満たない砦のような存在であったとも考えられる。杉山一弥,「絵図に見る東泉院境内堂舎の変遷」には以下のようにある。

その東泉院の南側には門があった。ただしこれは入口から数えて三番目の門であった。第一の大門(別称を慶長門)は、そこから東にのびる境内参道の入口にあった。現在でも石組みが残されている場所である。石組みは、東泉院の大門基壇と入口石郭の遺構なのであった。善得寺城跡の遺構とするのは誤りである

この石組みが「善得寺砦跡」とか「善得寺城跡」と説明されることも多いが、やはりこの指摘は大いに傾聴すべきであろう。

浮島沼西岸・沖田遺跡の調査からみた湖沼利用の推移

善得寺と東泉院は隣接するので、この図で示される「善得寺城跡」の場所も東泉院跡である可能性が大いにある。『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』に
「河東(富士川以東)第一の偉容を誇った善得寺の学術的調査研究報告書で、『善得寺問題』調査研究委員会が調査に当たった。(中略)昭和63年(1988)年4月17日の第一回調査研究委員会で調査計画・報告書の執筆分担が決定され(中略)翌5月4日に日吉浅間神社において善得寺城跡と考えられている現地調査を実施し…」
とある。この図はこのとき調査が元である可能性が高いが、今見直される時期に来ているであろう。当ブログでは今の所「善得寺城の箇所や有無は不明である」としておきたい。ただ砦のようなものは存在していたのだとは思う。

大河ドラマ『武田信玄』の影響で、一般層に「善得寺の会盟が史実である」というような認識が生まれたように思う。大河ドラマの影響は大変に大きい。また同大河ドラマの影響で「表富士・裏富士議論」なるものが歴史学においてもあるかのような誤解が広まってしまっているが、歴史学上では歴然たる理解があるということははっきり述べておこうと思う(「表富士と裏富士、表口と裏口」を参照)。


  • 参考文献
  1. 杉山博,『日本の歴史11 戦国大名』
  2. 磯貝正義,『甲斐源氏と武田信玄』,岩田書院,2002
  3. 小和田哲男,『今川氏の研究』,清文堂出版,2000
  4. 大石泰史編,『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』,高志書院,2017
  5. 大石泰史,『今川氏滅亡』,KADOKAWA,2018
  6. 杉山一弥,「絵図に見る東泉院境内堂舎の変遷」『六所家総合調査だより第3号』,2008
  7. 藤村翔,「浮島沼西岸・沖田遺跡の調査からみた湖沼利用の推移」『紀要 富士山かぐや姫ミュージアム』,2017
  8. 『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』