2018年6月11日月曜日

善得寺の会盟と善得寺城について考える

「善得寺の会盟」とは「駿河国・甲斐国・相模国の三国同盟の際、三国の当主が善得寺(富士市)に集まり会盟を行った」という一説である。

大河ドラマ『武田信玄』(1988)

しかし現在、学術的に善得寺の会盟がなされたと考えられることは殆ど無く、「無かった」という見方が定説である。また「善寺」と「善寺」という異なる表記が確認できるが、小和田哲男氏は以下のように説明している。

どちらも混同して使われているので、厳密に使い分ける必要はないかもしれないが、概して、中世では善得寺が主として使われ、近世では、ほとんどすべてといってよいほど善徳寺という表記になっており、この違いは歴然としている。(中略)このことから考えると、今川氏は善得寺を公用語としていたことがわかり、今川氏の衰退後、次第に善徳寺になっていったことが考えられる。

とし、「善得寺→善徳寺」という変化があったことを述べている。

  • 善徳寺の会盟
「善徳寺の会盟」を記す史料は、『相州兵乱記』といった後世の編纂物にのみ確認できる。『相州兵乱記』に

三大将、善徳寺二於テ会盟有リ、然ラハ氏真ハ氏康ノ聟、氏政ハ信玄ノ聟、義信ハ義元ノ聟タルヘシト婚姻ノ約ヲ結ヒ給ヒ

とあるという。一方『妙法寺記』・『甲陽日記』(『高白斎記』)といった時事的な内容を記す史料には会盟を示す記録は無い。また近世は「善徳寺」という表記であったことを上で記したが、『相州兵乱記』『相州兵乱記』等はすべて「善徳寺」の表記である。『日本の歴史11 戦国大名』は『相州兵乱記』等の記録から

今川氏の軍師の太原崇孚(雪斎)が信玄・義元・氏康の三者を駿河の善徳寺(富士市)に集めて、甲・駿・相の三国同盟を提案した。(中略)これを「善徳寺の会盟」という。

と説明している。ただそれから研究も深化し、否定されるようになった。その先鞭をつけたのは磯貝正義氏である。

善徳寺の会盟を記す後世の史料では、その日時を天文23年(1554)3月としている。そこで、その前後の状況を考えていく必要性がある。武田信玄から見て姉にあたる定恵院は今川義元の正室であったが、天文19年6月に死去し、同盟関係上新たな関係構築が求られるところであった。そのため信玄の嫡男である武田義信に義元の娘である嶺松院が嫁ぐことになった。そのため駿府・甲斐間で婚儀のためのやりとりがなされ、信玄家臣である駒井高白斎がその取次を行った。そして天文21年(1552)11月には嶺松院は既に輿入れしているのである。その様子は『甲陽日記』に詳しい。

十九日丁酉御輿ノ迎二出府、当国衆駿河へ行(中略)廿三日ウツフサ廿四日南部廿五日下山廿六日西郡廿七日乙巳酉戌ノ刻府中穴山宿へ御着

とあり、駿府-興津-内房(富士宮市)-南部-下山-西郡-穴山宿-甲府というルートで移動した。つまり会盟が行われたとされる天文23年より以前に、既に二国間同盟はなされているのである。『妙法寺記』といった時事的動向を詳細に記す記録にも会盟を示すものが全くなく、また他史料の分析等から磯貝正義氏は「会盟は無かった」としている。『相州兵乱記』について糟谷幸裕氏は以下のように説明している。

天文23年(1554) いわゆる駿甲相の三国同盟は、この年、北条氏康息女(早川殿)の今川氏真への入嫁をもって完成する。『相州兵乱記』等の北条氏系の軍記物では、三月、氏康が駿州河東に侵入したのち、来援した武田晴信ともども講和がなったとするが、史実とはみなしがたい。三大名が一堂に会したという「善徳寺の会盟」も、やはり虚構であろう。

としている(『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』)。

早川殿
また史料にて「善得寺城」の存在が確認され、この部分も着目されるところである。


  • 善得寺城

善得寺城については「戦国時代の吉原の歴史と吉原宿の成立」にて取り上げようとしたが、史料的制約が甚だしい城である。『今川氏の研究』には以下のようにある。

善得寺城は存在しなかったと考えることも可能である。その場合、善得寺の伽藍(がらん)そのものが城として機能していたとみることもできる。あるいは、善得寺の寺域の一画に砦のような部分を設け、それを善得寺城とよんだと解釈することもできる。

とある。また立地状況等から『吉原市史』(自治体史、吉原市は現在の富士市)は

しかし、地形的なこと、さらには周辺の地勢などから見て、善得寺(富士市今泉五丁目)の場所に善得寺城があったとは考えにくく、他の場所にあったと見るのが自然であろう

としている。「そもそも存在したのか」と議論される城であるが、各所「善得寺砦跡」とも呼称され、城に満たない砦のような存在であったとも考えられる。杉山一弥,「絵図に見る東泉院境内堂舎の変遷」には以下のようにある。

その東泉院の南側には門があった。ただしこれは入口から数えて三番目の門であった。第一の大門(別称を慶長門)は、そこから東にのびる境内参道の入口にあった。現在でも石組みが残されている場所である。石組みは、東泉院の大門基壇と入口石郭の遺構なのであった。善得寺城跡の遺構とするのは誤りである

この石組みが「善得寺砦跡」とか「善得寺城跡」と説明されることも多いが、やはりこの指摘は大いに傾聴すべきであろう。

浮島沼西岸・沖田遺跡の調査からみた湖沼利用の推移

善得寺と東泉院は隣接するので、この図で示される「善得寺城跡」の場所も東泉院跡である可能性が大いにある。『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』に

「河東(富士川以東)第一の偉容を誇った善得寺の学術的調査研究報告書で、『善得寺問題』調査研究委員会が調査に当たった。(中略)昭和63年(1988)年4月17日の第一回調査研究委員会で調査計画・報告書の執筆分担が決定され(中略)翌5月4日に日吉浅間神社において善得寺城跡と考えられている現地調査を実施し…」

とある。この図はこのとき調査が元である可能性が高いが、今見直される時期に来ているであろう。当ブログでは今の所「善得寺城の箇所や有無は不明である」としておきたい。ただ砦のようなものは存在していたのだとは思う。

大河ドラマ『武田信玄』の影響で、一般層に「善得寺の会盟が史実である」というような認識が生まれたように思う。大河ドラマの影響は大変に大きい。また同大河ドラマの影響で「表富士・裏富士議論」なるものが歴史学においてもあるかのような誤解が広まってしまっているが、歴史学上では歴然たる理解があるということははっきり述べておこうと思う(「表富士と裏富士、表口と裏口」を参照)。


  • 参考文献
  1. 杉山博,『日本の歴史11 戦国大名』
  2. 磯貝正義,『甲斐源氏と武田信玄』,岩田書院,2002
  3. 小和田哲男,『今川氏の研究』,清文堂出版,2000
  4. 大石泰史編,『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』,高志書院,2017
  5. 大石泰史,『今川氏滅亡』,KADOKAWA,2018
  6. 杉山一弥,「絵図に見る東泉院境内堂舎の変遷」『六所家総合調査だより第3号』,2008
  7. 藤村翔,「浮島沼西岸・沖田遺跡の調査からみた湖沼利用の推移」『紀要 富士山かぐや姫ミュージアム』,2017
  8. 『富士市史通史編(行政)昭和六十一年~平成二十八年』

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