2022年1月1日土曜日

曽我兄弟の仇討と富士宮市・富士市、鎌倉殿の意図考

「曽我兄弟の仇討」は、源頼朝による「富士の巻狩り」の最中、駿河国の富士野(便宜的に「富士の裾野」と記されることも多い)にて曽我兄弟が自身の父の敵にあたる「工藤祐経」を討った事件のことである。


『月次風俗図屏風』より

この事件を考える場合、まず曽我兄弟を取り巻く環境について考えなければなりません。しかし仇討事件は勿論のこと、兄弟の周辺状況を示す史料というのは主に『吾妻鏡』と『曽我物語』に限られます。なので冒頭ではまず『曽我物語』に沿った解説を行い、それから仇討事件について迫ろうと思います。「①解説編」(簡潔で口語的な形式にしています)と「②考察編」(やや難しい内容)に分けています。考察編は「富士地区(静岡県富士宮市・富士市)に関係する事柄」という視点になります。決して全体を捉えようというものではありません。しかしながらなんとか輪郭は把握できるよう構成するようにしました。

テキストは

  1. 『真名本曾我物語』(1),平凡社,1987(文中"平(1)〇〇頁"で記す)
  2. 『真名本曾我物語』(2),平凡社,1988(文中"平(2)〇〇頁"で記す)
  3. 村上美登志『太山寺本曽我物語』,和泉書院,1999(文中"太〇〇頁"で記す)

から引用しています。また真名本曾我物語・仮名本曾我物語は以下「真名本」「仮名本」と記します。特に断りのない場合、真名本は「妙本寺本」であり仮名本は「太山寺本」となります。太山寺本でない仮名本を示す場合、例として「仮名本(十行古活字本)」というように記します。


【①解説編】

  • 「曽我兄弟の仇討ち」の前置き(『曽我物語』による)

安元2年(1176)10月のこと、伊豆の奥野の狩庭で伊東祐親の嫡子河津祐通(祐泰)は工藤祐経の従者である「大見小藤太」「八幡三郎」にあえなく殺されてしまった。あとには5歳と6歳の幼い兄弟のみが残された。河津祐通の妻は一族の曽我祐信と再婚したので、その兄弟も曽我姓を名乗ります。工藤祐経は本来「伊東祐親」の暗殺を目論んでいましたが失敗し、従者は誤って河津祐通を暗殺してしまうのです。では「なぜ工藤祐経は祐親を暗殺しようとしたのか」という視点が重要になってきます。

富士市「富士市の歴史文化探訪 曽我伝説」より

それは久須実荘(楠見荘とも、大見・宇佐美・伊藤を併せた地名)の支配争いからであるとされています。元々久須実荘は工藤氏の有力者である工藤祐隆(出家後「寂心」)が一定規模を支配しており、祐隆は後継者に譲る気配を見せていました。しかし嫡子である祐家は早死してしまったため、なかなか定まりません。そこで後妻の連れ子との間にもうけた子である「伊東祐継」に久須実荘の「伊東」の地を譲ります。そして本妻との子にあたる「祐家」の子(祐隆から見れば嫡孫)には「河津」という地を与え河津祐親と名乗らせました。このとき河津祐親から見れば、本来なら「伊東」(こちらが主要な地)も自分が得るはずの地という感覚があったことは言うまでもありません。このとき祐親は、祐継の出生の秘密を知りません(「祐隆」と「後妻の連れ子」との間で出来た子供を養子とした形)。妙な感覚であったことでしょう。

一方、その久須実荘の中心地を得ていた伊東祐継が亡くなります(後述)。生前両者は和解していたともいい、祐親は祐継の子である金石(後の工藤祐経)の後見人となることを約束しています。また金石が成長した暁には祐親の娘である万劫御前を嫁がせ、15歳になったとき「伊東荘」「河津荘」両所を貰い受けるという約束をしました

しかし祐継が亡くなると祐親は河津から伊東に移った上で伊東姓を名乗るようになり(=伊東祐親)、自身の嫡子(祐通)には河津姓を名乗らせます(=河津祐通)。つまり「伊東」を自分の手中に収めたわけです。やがて祐経が元服すると娘である万劫御前を嫁がせますが、祐経には宇佐美姓を名乗らせるなど(=宇佐美祐経)、状況は遺言通りではありませんでした。

元服の翌年に祐親は祐経と共に上洛し、京にて暮らします。この間、祐通が伊東の地を支配します。しかしその後も祐経は帰ることが許されませんでした。勿論これは祐親が伊東の地を手放したくないがための企てでですが、祐経は京に居るためどうすることも出来ません。祐経は訴訟を起こして、なんとか所領の一部を取り戻します。しかし祐経はこれでは納得せず、帰国後に伊豆の奥野の狩庭で祐親の暗殺を企てます。しかし祐親暗殺は失敗、誤って隣に居た祐通を殺めてしまうのです。(支配領域の解釈・変化は煩雑であり(坂井2014;pp.179-180)に詳しいです)

しかしここで一旦ズームアウトして世の情勢について考えてみると、伊豆の狩場での暗殺から一定期間後、「以仁王の令旨」により源頼朝が挙兵しています。久須実荘は平家側の地であったため、伊藤祐親も平家側として参戦します。後に平家は滅び源氏が隆盛しますが、平家側として参戦し頼朝を窮地まで追い込んだこともあった伊藤祐親は捉えられ自害、子の祐長(祐通とは兄弟ということ)も最期は殺されてしまいます。

このように祐隆-祐家-河津祐親-河津祐通・祐長兄弟という流れの血筋のうち祐家は若くして死に、祐通は暗殺され、河津祐親・河津祐長は源氏側によって死に至しめられるという悲劇を経験します。一方後妻-女(連れ子)-伊東祐継-工藤祐経の血筋側は頼朝側に付いていたので生き残ります。暗殺された側の血筋において残されていた有力者は居ないといっても過言ではない状況となっていました。しかし暗殺された河津祐通には子がいました。祐成と時致兄弟です(→これで再び上から読むと関係が分かってきます、この兄弟が仇討ちを成功させるのです)。

  • 仇討ちの理由(曽我物語による)

少し仇討ち当日について記してみましょう。曽我物語、ここでは真名本(以下で説明します)にて説明しますが、兄弟は仇討直前に「伊出の屋形」にて母に手紙を書きます(阿部(2003)に詳しいです)。そこに時宗は「建久4年癸丑5月廿八日には駿河の富士の山の麓、伊出の屋形において、慈父報恩のため命を失ひ畢んなり(巻九、平(2)183頁)」と記します。そしてその後「ころは5月28日の夜半の事なれば、雨は居に居て雨る、暗さは暗し…(巻九、平(2)197頁)」とあるため、実際に建久4年(1193)5月28日に伊出の屋形にて仇討ちを決行します。「曽我の雨」・「虎が雨」という言葉は、この仇討ち決行時の雨から由来するとされます(坂井2014;p.72)。

このように兄弟は仇討ちの理由を「慈父報恩のため」と言っています。また頼朝を討とうとした理由については「祖父の伊藤入道は君より御勘当を蒙て、既に誅せられ進せ候ひぬ。敵の助経はまた御気色吉き大名に成て召し仕はれ候ひしには…(巻九、平(2)209-210頁)」とあります。つまり兄弟の祖父である「伊東祐親」が頼朝により亡き者となり、また一方では兄弟の敵にあたる工藤祐経が特別に取り立てられている事が不服であったとしています。

また「現にと千万人の侍共を討て候はむよりは、君一人を汚し進せつつ後代に名をば留め候はむと存じ候ひしかば平(2)210頁)」とあり、多くの侍を討つのではなく頼朝1人を討つことで後世に名を残したいという意図もあったようです。しかし五郎はこの直前に「敵と列れて参り候ひぬ」と述べ"敵についていった先に頼朝が居た"としていたので、矛盾点もあります。この点は(坂井2014;pp.46,126)でも言及されています。

これに対し頼朝は「哀れ男子の手本や これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず」と称賛します。この、曽我物語の中では極めて有名な一節は、頼朝の心情の変化を良く表していると言えます。

伊東祐親は大河ドラマでも登場します。これが兄弟が「工藤祐経」と「源頼朝」を狙った理由です。「伊出の屋形」については論考編で説明します。

  • 『曽我物語』の系統
まず「曽我物語」は、2種に大別されます。

真名本系統の「本門寺本」

1つは「真名本」(漢字(擬漢文)のみで表記)であり、これが現存するものでは古態とされています。もう1つは漢字仮名交じりで表記される「仮名本」であり、成立は真名本より下ります(諸本の解説は(村上2003)に詳しいです)。端的に言えば、真名本→仮名本という変移が想定されています。

※下部に「真名本」と「仮名本」の画像があります

分類諸本
真名本「妙法寺本」「本門寺本」
仮名本「太山寺本」「武田本甲・乙本」「彰考館本」「南葵文庫本」「万法寺本」「穂久邇文庫本」「十行古活字本」「十一行古活字本」「十二行古活字版」

真名本は「妙法寺本」と「本門寺本」(重須本)がありますが、「本門寺本」は「妙法寺本」を書写したものであるとされることが多いです(しかし一部は異なります)。真名本は成立が鎌倉時代末期まで遡ることができるとされますが、この妙法寺本も書写されたものであり、奥書は天文15年(1546)の書写を示しています。「太山寺本」は天文8年(1539)書写になります。

真名本を一見した時の特徴に、それぞれの巻頭に「并序 本朝報恩合戦 謝徳闘諍集」と必ず副題が付けられている点が挙げられます。この意味は、上で説明したように「兄弟が仇討ちする理由」を説明した言葉なのです。

北山本門寺

「大石寺本」は"真名本"を読み下した訓読本であり、そのため同系統に入れられることが多いです。ここでいう"真名本"とは「本門寺本」のことであり、つまり大石寺本は本門寺本の訓読本なのです。

「本門寺本」や「大石寺本」の存在を考えると、やはり富士山麓の地域は同事件を特別視していたことが感じ取れると思います。

  • 『曽我物語』の背景
鎌倉時代の代表的歴史書である『吾妻鑑』は見た目は日記体ですが、やはりこれも後世に編纂されたものです。鎌倉幕府二代将軍である「源頼家」は、北条氏に幽閉された末に元久元年(1204)に暗殺されています。これだけの大事件ですから詳細にあってもよさそうなのですが、吾妻鑑は北条氏関係者による編纂なのであまり詳しくは書きません。『吾妻鑑』にはちょうど頼家が幽閉・暗殺された年に不吉な事が起きたという旨の記述が見られます。「鶴岡八幡宮の巫女が大変事を予言し将軍の身を案じた」「鶴岡八幡宮の鳩が死んだ」といったようなものです。つまり伏線を張っているわけであり、頼家の死に合理性を求めるような構成になっています。「こんな奇異な事があったよ」と言って、後に将軍が死んでいるという流れを作っているわけです。これだけ見ても、後から編纂したことは確実といえます。

工藤祐経の墓(静岡県富士宮市)

これと同じように「曽我物語」の方でも仇討ち前に工藤祐経に奇異な事が起きたという前置きがあります。『吾妻鏡』も『曽我物語』も、帳尻合わせがあるということは理解しておく必要があると思います。

  • 陰謀説
先程

このように祐隆-祐家-河津祐親-河津祐通・祐長兄弟という流れの血筋のうち祐家は若くして死に、河津祐通は暗殺され、河津祐親・河津祐長は源氏側によって死に至しめられるという悲劇を経験します。(中略)しかし暗殺された河津祐通には子がいました。祐成と時致兄弟です

と書きました。しかし同じ血筋なのにこの中で「祐」の通字のない人物が1人だけ居るのにお気づきでしょうか?そうです、兄弟のうちの「時致」です。「祐」ではなく「」なのです。『吾妻鑑』によると「北条時政邸にて元服し時致と名乗る」とあります。つまり北条時政より偏諱を賜っている(今川義→松平康といったように一字を賜うもの)と言っているのです。その時政が時致をそそのかしたのではないか、という陰謀説があります。偏諱のくだりもありますが、『保暦間記』といった他の史料等も吟味すると無視できない説と言われています。また富士の巻狩当時、駿河国守護は北条時政その人であり、吾妻鑑によると狩場の準備も時政が行ったとあります。つまり仇討ちの場を設けようと思えばできなくもない人物であったのです。これが「北条時政黒幕説」です。

前述の通り、仇討事件を示す史料というのは主に『吾妻鏡』と『曽我物語』に限られます。『吾妻鏡』の方は"本郷・五味編『現代語訳 吾妻鏡6 富士の巻狩』,吉川弘文館,2009"をご参照下さい。以下でも度々出てまいります。


【②考察編】(以下、やや難しい内容になります

  • 鎌倉殿という呼称

源頼朝は様々な呼称がある。ここでは大河ドラマのタイトルにも含まれる「鎌倉殿」という呼称を曽我物語から考えてみたい。頼朝は真名本の場合、巻第一にて相撲で俣野と河津が争う描写の中で

流人兵衛佐殿は伊豆の国の住人に南条・深堀という2人の侍を御友として御在しけるが、「哀れなる世の習ひかな。奴原が心のままに彶ふこそ安からね。(平(1)38頁)…

と、流人「兵衛佐殿」の名で登場する。(大川1997;p.77)に「発言力のない郊外者として争いを傍観している」とあるが、このように数多くの中の1人でしかない。これが巻第四になると

兵衛佐殿は北条四郎時政以下の兵共を以て山木を亡ぼして後は日本国を討順へつつ今鎌倉殿とて日本将軍の宣旨に預かり給へり(平(1)201頁)

とあるように「将軍鎌倉殿」として扱われるようになる。巻第一の「哀れなる世の習ひかな」は有名な一節であるが、このときは流人なのであり、立場に大きな変化がある。鎌倉殿となったタイミングは八幡大菩薩を鎌倉鶴岳に勧請した後であり、大川は「真名本曽我において八幡大菩薩と頼朝とのかかわりの強さがみて取れる。八幡大菩薩の擁護により頼朝の本意が遂げられたということが、頼朝物語の末尾において再確認できるのである」としている。また「本地物語性質」をここに見ている。重要な視点である。

(阿部2007)は「真名本『曽我物語』は『吾妻鏡』にも記録された曽我兄弟の仇討ちを「日本国大将軍」としての頼朝の誕生と、曽我御霊神の祭祀の始まりとして語る」とし、それを宗教的に支えたのは、伊豆・箱根権現、そして富士山を中心とする東国の重要な霊地であったとする。またやはり本地物語の性質を伊豆・箱根権現の描写から見出している。またこのような流人時代の動向を記す史料は、『吾妻鏡』には無い。『平家物語』や『曽我物語』に限られるという(坂井2014;p.214)。

真名本曽我物語は回想も度々挿入され時間軸も特殊であり、未来を先取りして「鎌倉殿」の呼称が出現する場合もある(この点も(大川1997)を参照、また(小井土2001)等を参照)。このような性質から、(坂井2014;pp.29-33)にあるように真名本曽我物語は「非年代記」である。また(小井土2001;pp.99-101)は頼朝と政子に関する記事は真名本で豊富であり、仮名本では削がれていることを指摘している。このように真名本と仮名本の志向に違いは多くで指摘される。

  • 「巻狩」という言葉と「狩場」の位置づけ

「巻狩」の意味は実は曽我物語内で説明がなされており、真名本『曽我物語』(巻八)に

そもそも巻狩と申すは、勢子の者共を太多山に入れて、上の嶽より鹿を追い下して麓の野辺に巻き籠めつつ、思ひ思ひに射て取るを云ふなり(平(2)132頁)

とある。つまり真名本曽我物語における巻狩は、このような価値観を前提としているのである。曽我物語に従えば、巻狩には少なくとも「勢子」「山」「動物」「射手」が必要なのである。真名本における狩の場面の初出は、(水谷1992;pp.11-12)が指摘するように

伊藤武者助継生年四十三と申す夏のころ、狩場より帰る道にて重病を受けて日数を経るままに、九つになる金石を近付けて、手に手を取り組みつつ(中略)終に七月十三日の寅の時には四十三にて失せにけり(平(1)16-18頁)

とある部分で、狩りの帰りに伊藤助継が重病で没する箇所にあたる。「金石」は後の伊藤助経である。なので助継は早々に物語の舞台から姿を消すのである。水谷が指摘するように、曽我物語全体を通して「狩場」を強く意識したものとなっている。

また(坂井2014;p.38)は「兄弟は「狩庭」の敵を「狩庭」で討った」わけであり、「真名本が狩庭の物語として構想されたものを示すものである」としている。

  • 憎しみの連鎖

上の内容から、曽我兄弟が仇討ちに至るまでの道筋が見えてくる。それは以下の通りである。

伊藤祐継が死亡
祐継の子である金石(後の祐経)の領地を、助継と対立していた伊藤助親が得る(横領)
恨みを抱いた祐経が祐親の暗殺を指示するも失敗、誤って河津祐通を討つ
祐通の子である曽我兄弟が将来「仇討ち」を行う

という流れである。祐経が暗殺実行を命じたのは「大見小藤太」「八幡三郎」である。

  • 敵討ちの場所と頼朝の意図

敵討ちの場所は多くで指摘されるように、静岡県富士宮市である。ここが諸家で意見が割れることは無いように思う。『吾妻鏡』と『曽我物語』では仇討ちの場所を両者共に「富士野」と記し、吾妻鏡では「富士野の神野の御旅館」と記されていることから多くで検討されてきた。特に「神野が何処であるのか」という点は注目されてきた。

そのような中で諸家による『信長公記』を引用した指摘は、この議論をかなりスマートにさせたと言って良い。『信長公記』には「4月12日 本栖を未明に出でさせられ…」とあり、天正10年(1582)4月に甲斐国本栖を織田信長一行が出発しその後駿河国に入ったことが分かる。その後、以下のように続く。

富士のねかた かみのが原 井出野にて御小姓衆 何れもみだりに御馬をせめさせられ 御くるいなされ 富士山御覧じ御ところ…

ここで小姓たちが馬に乗って大騒ぎした場所として「神野が原・井出野」が見え、井出野は「≒上井出」であるから、仇討ちの現場(神野)が駿河国富士上方の上井出またはその周辺であるということが分かるのである(後述する「「富士野」考」もご参照下さい)。

『舞の本』の「夜討曽我」の挿絵、富士野の狩りの場面。林(2020;p.21)にあるように、版本の挿絵に共通してみられる図柄である

「富士野」≒「富士山麓一帯」のように解説する論考もあるが、慎重になるべきである。というのも、そもそも吾妻鏡に「富士野藍澤の夏狩を覧んがために」とあり、同じ駿河国の富士山麓の藍沢と区別されているのだから富士山麓一帯とは言えないはずである。おおまかに言えば”東の藍沢、西の富士野”である。富士野は限局したエリアを指すと思われるのである。

実際富士の巻狩の一連の記述の中で、『吾妻鏡』の建久4年(1193年)5月15日条を最後に「藍澤」の地名は出てこない。「藍澤」を出て「富士野」に入ったので、「藍澤」という地名が後半登場しないという単純な話なのである。であれば、「藍澤」と「富士野」は別地である。この辺りはしっかり区別して考えることに意味があると思うのである。何故「藍沢」と「富士野」なのかという点に関しては、海老沼・木村両者の指摘を傾聴すべきだと思う。(木村2018;p.19)に

では、なぜ、頼朝はわざわざ富士山麓の2箇所で巻狩りを行ったのだろうか。これは、近年、海老沼真治がそのルートを含めて詳細に検討しているように、藍沢と神野が甲斐国から駿河国・東海道へ出る2本の主要な交通路の出口であったからである。(中略)まさに甲斐源氏の甲斐国への封じ込めである。

とある。この指摘は傾聴すべきと思う。また巻狩り後、甲斐源氏に悲劇が襲っていることはよく知られる通りである。ここにこそ頼朝の意図が見え隠れするのであり、タイトルに対する答えとなってくる。そもそも、富士の巻狩は異常な程に規模が大きい。これほどの規模であると、資金もかなり必要になってくる。頼朝にはそれでもやらねばならない理由があるのである。

  • 五郎(弟)が処刑された場所

吾妻鏡によると、五郎は尋問の後に梟首されている。吾妻鏡5月29日条に「五郎を亘さる。鎮西中太と号するの男をもつてすなはち梟首せしむと云々」とあり、普通に解釈すれば犬房丸の指示で富士野にて梟首されたと解釈できる一文である

また真名本『曽我物語』巻九では「筑紫の仲太とて御家人のありけるが、左衛門尉に付て本領を訴訟しけるが、申し乞て切てけり。態と吉き太刀をば捨て、鈍刀を以て舁首にぞしたりける(平(2)218頁)」とあり、筑紫の仲太なる人物が五郎を処刑している。そしてその後巻十で「鎌倉殿は富士野を出で御在して(平(2)245頁)」とあるので、処刑時点では富士野に居たことが明らかなのである。

また仮名本『曽我物語』(太山寺本)巻九では「雑色を呼びてきらせけり(中略)掻き首にぞしたりけるは、上代にも末代にも、かかる弓取りはあらじと、惜しみ感ぜぬ人はなかにけり(太286頁)」とあり、富士野で処刑されている。

つまり吾妻鏡や真名本・仮名本曽我物語も五郎は富士野で処刑されたとしている

一方幸若舞曲「十番切」や「曾我吾郎首洗い井戸」・「厚原曾我八幡宮」の言い伝えでは鷹ケ岡(=鷹岡)にて五郎は処刑されたことになっており、『吾妻鏡』『曽我物語』と異にする内容である。

また(富士市2017;p.3)で「仇討ち後の鎌倉への護送中に討ち取る」とあるが、あえて『吾妻鏡』『曽我物語』とは明確に異なる見解を示しているということになるので、注意が必要な記述である。通常はこういう見解はしないと思うし、通常のそれとは異なる奇文と言える。

富士市HP

また上の画像は富士市HP中の「曽我物語」を解説したページであるが

工藤祐経を討ち取った後、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられました。この鷹ヶ岡が、現在の富士市鷹岡の地であるといわれ、兄弟にまつわる史跡がこの地に数多く残されています。

と説明している。普通の人は曽我物語にこのような記述があるのだろうと思うだろうし、そういう書き方である。しかし驚くことに、曽我物語にはそのような記述は一切ない(「兄十郎はその場で討ち取られ」以外の箇所)。信じ難い誤認であるので注意されたい。

しかし、同地との関係性も見ていきたいところである。幸若舞曲「十番切」を読むと「鷹が岡にも付しかば、九品の松の下に敷革しかせ、(中略)…と申こふてぞきられける(毛利家本)」とあり、五郎が処刑を請うて鷹が岡の「九品の松」にて処刑されたという設定を持つ。(泉2006;p.5)は渡辺美術館蔵「曽我物語図屏風」第6扇上方の、九本の松が周囲をとりまくように並んでいる部分を指摘し、これが「九品の松」を絵画化したものであるとしている。実際に確認してみると、端の部分にあたる松は全体こそ見えないがしっかり幹は確認できるのであり、明らかに意図しているのが分かる。貴重な指摘である。「九品の松」は曽我物語には出てこないように思うので、この場面は曽我物語に沿っていないと考えられるのである。幸若舞曲の独自性を感じる部分である。

(井戸2015)は曽我物語図屏風が右隻が源頼朝による「富士巻狩」で左隻が「夜討」である一双形式であるとし、幸若舞曲のテクストが大いに影響して物語の筋書きが逐語的に絵画化されていると指摘する。そしてその幸若舞曲を「夜討曽我」と「十番切」としている。つまり九本の松を描いたその場所は「鷹が岡」を想定したものと言えるのである((井戸2015;p.84)では「図7」がそれにあたる)。

左隻はその中で時間の経過があり、様々な場面を取り入れている。そのため曽我兄弟が左隻の中に何度も登場しているのである。場面の順番も行き来が激しいため、これが左隻の複雑さの要因となっている。"場面の境界"は屋形の部屋を区切りとしたり、庭に1つの場面を配置することで形成しており、部屋はちょうど「すやり霞」のような役割を果たしている(曽我物語図屏風の中には根津美術館本のように「金雲」で境界を形成しているものもある)。

仇討ち現場が富士野であることは揺るがないとして、復路にて鷹岡を通過した可能性は十分にある。頼朝一行は富士野を過ぎて南下し(中道往還)、鷹岡を経由し鎌倉へ帰った可能性は否定できない。鷹岡にて何らかの事象はあったのだろう。そう考えると富士山本宮浅間大社で流鏑馬を奉納したという言い伝えもあながち間違っていないのかもしれない。以下では往路について考えていきたい。

中道往還

  • ルート(往路)について

まず頼朝・曽我兄弟一行の往路を史料から見ていきたい。吾妻鏡によると

頼朝:鎌倉→藍沢→富士野

とあり、具体性を欠く。真名本によると

頼朝:合沢→浮島ヶ原→小林の里→伊出(富士野)
兄弟:曽我荘→箱根→三島→小林の里(ここで頼朝に追いつく)→伊出(富士野)

と移動している。一方仮名本によると

兄弟:箱根→三島→浮島ヶ原→いのこま林→相沢→富士野

と移動している。この「いのこま林」に関しては(福田2016;pp.323-325)は

この「いのこま林」が不明で、それは浮島原につながる愛鷹山西南麓に求めねばなるまい。しかもこの後の叙述に矛盾がある。その日、御寮は、この方面にはおられず、富士東麓の相沢(藍沢)におられたという。後にあげる諸本がいずれもこれに従っており、史実に引かれた物語の不手際と言わねばならぬ

と指摘している。全くその通りである。仮名本では頼朝が浮島ヶ原におり兄弟は急いで追いつく(太225頁)。その夜に仇討ちを仕掛けるも失敗する。次の日は「いのこま林」におり、やはり仇討ちを仕掛けるが失敗する。そして日も暮れてしまったが、なんと頼朝は既に相沢に居るのである。

だとすれば頼朝は日が暮れる前に工藤祐経より先に出立していることになり、まだ祐経たちは「浮島ヶ原と相沢の間」に居ることになる。しかもこれでは兄弟は頼朝を狙うこともできないのである。いのこま林は必然的に「浮島ヶ原と相沢の間」に求めることになる。ルートの整合性は難しい。


真名本の場合はどうだろうか。経由地は「小林の里日逼の狩倉」とあるのだから(平(2)104頁)、狩りが出来るほどの緑地でなければならない。これは「浮島ヶ原と富士野の間の緑地」と考える方が自然ではないだろうか。具体的に言えば、浮島ヶ原から十里木道を経て富士野へ至るケースが考えられる。その場合、十里木道沿いに富士の巻狩に関する伝承が残る背景とも合致する。

例えば伝承が残る曽比奈は越前岳(愛鷹連峰の1つ)の西南麓にあたる。また勢子を多く出したという伝承の残る「勢子辻」(富士市)もこの付近であり、ここで合流したとも考えられる。ちなみにこの富士市「勢子辻」は集落が形成されており、また冬季は積雪することで知られる。

富士ニュース

富士ニュース


しかし通過したのは5月(旧暦)であり、少なくともこの時に積雪はしていなかったと考えられる。北部は富士宮市と富士市とでは富士市で特に標高が高く、積雪が過大である(詳しくは「富士市の地理考、富士山と富士川水害と農業の関係や積雪地点や浮島ヶ原低地」を参照)。イメージしやすいように、以下に「勢子辻と富士山こどもの国エリアの地図」と「富士山こどもの国・森林墓園を含めた広域地図」を示す。


←富士宮市 →富士市

如何に愛鷹連峰を通ることが不可能であるかが分かるように思う(富士市・裾野市の越前岳は標高が1,504mである)。つまり愛鷹山麓の西麓・東麓を通過する形となるが、東麓だと遠のくので西麓が現実的かと思う。そして、浮島ヶ原付近で北上する街道としては、十里木道が最も近い。浮島ヶ原→小林の里(十里木道沿い)→伊出(井出、富士野)が想定されてくる。

中道往還と十里木道

  • 「小林の里」=「小林郷」か?

しかし「小林の里」に関しては解釈が大きく分かれるのも事実である。例えば(平(2)127頁)では「前には合沢から富士の南の浮島が原に着いたとしながら、ここでは小林の里に、また次には容易に井出に移ったように記しているのは、これら土地の位置関係について作者の認識が不十分であったものか」と困惑している。

(二本松2009;pp.226-229)は「駿河国小林郷は巻七においても見られる。(中略)真名本『曽我物語』では、小林郷は浮島ヶ原を過ぎて翌日には伊出の屋形に到着する位置にあった」としている。このように無意識下か「小林の里」(平(2)104頁)=「小林郷」(平(2)280頁)という前提で話が進んでいるのであるが、これは少し冷静にならなければならないと思う。真名本が同地を指す時にあえて表現を変える必要性が特段無いためである。

また小林郷の場面にて「富士の郡六十六郷の内の御霊神とならせ給ひて候ふ間」とあるので、やはり小林郷は富士郡の「郷」であるのであって、「小林の里」と同義ではないように思う。これでは仇討ちが未遂に終わった狩倉の地(=小林の里)に御霊神がおわすことになりはしないか。物語の破綻とも言える解釈であり、同じ地を指すと断定するのは危険な印象を持つ。「六十六郷」に関しては全く別の箇所でも認められる表現であり((平(2)8頁))、巻第六で宇都宮の女房の活躍が描かれ常陸国伊澤郡の 「六十六郷」が贈与されている場面でも登場する(田川1994;pp.13-15)。しかしながら常陸国に「伊沢郡」はないという((平(2)46頁))。であれば、「六十六郷」の説明に付随する「郷」の名が本当に意味をなすのか考えなければならない。

真名本にて頼朝は他にも多くの人物に過大な領地を与えている。田川は「権力者頼朝の、これら派手で気前のいい大盤振舞いを描くことに並行し、その陰に在る兄弟の姿を同時に点描するのが、『曽我物語』の常套的な手段である」としている。富士郡に実際は六十六郷も無いので、演出の要素が大きい。

またそもそも(二本松2009;pp.232-239)にある街道の認識も適当であるようには思われない。「吉原宿が中世を通じて東海道の流通拠点として繁栄した」とあるがとてもそうは思われないし(後述)、中道往還を現代の道に比定する場合「139号線」ではなく「414号線」が該当するように思う。また日蓮の例も、それこそ「車返(沼津市)→大宮(富士宮市)」のルートは示されていないのである。もちろん東海道→中道往還→駿州往還というルートが妥当であるが、補足材料にはなっていないと言える(「日蓮の身延入山と富士宮市・富士市」もご参照下さい)。

また氏は「甲駿街道(註:中道往還を指す言葉として用いている)を一歩踏み出したところが、本章の推定する小林郷である」としている。しかし「里」とも記される箇所をあえて街道沿いに比定することに違和感を禁じえない。むしろ街道沿いでない場所であるので「小林の里」ではないだろうか、と思うのである。また「小林の里」とすることで"小林郷と同一ではない"ということが分かる真名本の工夫とさえ捉えられる。仮名本にも「林」とあり共通性を強く感じるところである。そもそも「小林」は地名であるかどうかも分からない。「小林からなる里の狭い場所」とも十分解釈できるものである。

今の所、ルートの部分については定説を見ていない。吾妻鏡の記載が具体性を欠くがためにこのような状況となっていると言っても良い。少し富士市の伝承に寄りすぎた立場となっているが、個人的には

往路:藍沢(合沢)→浮島ヶ原→小林の里(十里木道沿い)→伊出(井出、富士野)
復路:富士野→中道往還に沿って南下→鷹岡経由→鎌倉

と考えている。吾妻鏡は下線の部分のみを記していると考えたい。

  • 曽我兄弟の亡骸
兄弟の屍・首の行方は曽我物語に明記されている。真名本曽我物語巻第十に

ここに宇佐美禅師とて、駿河の国平沢の山寺にぞありける、本は久能法師なり。この人共のためには従父なり。急ぎ富士野に尋ね入り、二人の死屍を葬送しつつ、骨をば頸に懸けて、6月3日には曽我の里へ入る(平(2)246頁)

とある。兄弟の頸は千種華苑の山で火葬され、屍は富士野にて火葬されたのである。そしてその御骨は法師が身につけるという形で曽我の里へ持ち帰られているのである。つまり頸や胴体が仇討ち現場で埋葬されたということは示されていない。吾妻鏡には「祐成兄弟が夢後を訪ふべきの由、仰せ下さる」(「夢後を訪ふべきの由」は菩提を弔い成仏できるように、というような意味)とはあるが頸や胴体の行方は記されていないので、真名本の記述がいよいよ重要となってくる。

没した地兄弟の首兄弟の胴体
吾妻鏡富士野(富士宮市)不詳不詳
真名本富士野曽我の里の千種華苑の山で火葬(小田原市)富士野にて火葬、骨を携え曽我の里に届けられる(小田原市)
仮名本富士野不詳不詳

(新村2016;p.34)は「そして、兄弟の百箇日の法要を箱根で行うと聞いた虎が曽我の里を訪れた時に十郎の住まいに案内されて見たのも、庭の「千種の華」であった」と説明し、千草の華と十郎との密接な連繋を指摘しており、重要な点であると言える。

また福田は(平(2)342頁)にて「虎御前回国譚が、大磯で終らず曾我大御堂で虎を往生させることによって結ばれているところに疑念をもつ」としているが、骨が眠る地で往生することはそれほどおかしい展開のようには思われない。むしろこの虎御前回国譚自体に疑念を持つ意見もある(坂井2014;p.132)。


  • 伊出の屋形=井出館(井出氏の館)か?

上記で真名本のルートを「小林の里→伊出(富士野)」と記したが、具体的に書くと真名本には「伊出の屋形に着かせ給ふ(巻第七、平(2)104頁)」と記される。この伊出の屋形と「井出館(井出氏の館)」が同一であるかどうか、という点も議論される。江戸時代の駿河国の地誌にこの両者が関係をもって語られる例が見られ、(渡井2018;pp.2-3)に詳しい。

同氏が指摘するように吾妻鏡に井出家や井出郷の名は記されていない。実は吾妻鏡と曽我物語の大きな違いとして「伊出の屋形の有無」が挙げられるのである。曽我物語の方では伊出の屋形が登場するのである。

頼朝の屋形の跡だとした場合、井出氏はこのとき曽我物語に名が登場するくらいでないとおかしいと思うのである。富士野の神野の地は井出野(上井出)の辺りであるが、頼朝の屋形の跡とするのは後世に権威付けされた結果であると思われる。

『信長公記』も「頼朝の屋形が立てられた上井出の丸山がある」とはしているが、井出氏と関係付けている訳ではない。吾妻鏡や曽我物語がどうかというよりは、井出氏の台頭を示す史料はもう少し時代が下ってくるので、鎌倉時代の伊出の屋形と直接的に結びつけるのは困難であるという印象を持つ。

  • 曽我物語に富士郡の人物は登場するのか?

曽我物語では富士郡の在地勢力が意外にも出てこない。巻狩は富士野で行われているのだから、普通に考えれば有力な在地勢力が居れば参加していそうなものである。そこで巻第八の「同国の住人に南条小太郎と深堀弥次郎ぞ出にける(平(2)136頁)」という部分が注目される(坂井2014;p.21)。これはいわゆる「二十番の巻狩」の部分であるが、この「同国」は文脈上伊豆国を指していると考えられ、また富士上方の上野郷には南条氏がおり関係性も考えられるところである。

(梶川2010)によると南条氏は伊豆国田方郡南条が発祥であるといい、また(梶川2008)ではこの南条小太郎が実在の人物とするかは検討が必要であるとしている。(梶川2011)には上野郷が得宗領であったことを示す史料等が示されるが、これら関係性を示す史料の時代は下るのであり、また(梶川2010)にあるように南条氏は南条時員が北条泰時の被官となることで有力御内人となったという背景がある。上野の南条時光とこの時員は同族にあたる。

この南条小太郎が実在するか否かは別として、少なくとも富士郡の人物ではないように思われる。また「二十番の巻狩」には伊豆国だけではなく駿河国からも出ている。「洋津」「萱品」「神原」「高橋」らがそうであるが、やはり富士郡の人物ではないように思える。曽我物語には必ずしも御家人だけが記されるのではない。仮に有力者が居れば名は出てきてもよいように思うが、管見の限り確認できないように思える。

また仮名本の巻第六に「古郡左衛門」の名が見え(太171頁)、仮名本(十行古活字本、『日本古典文学大系』の曽我物語はこれにあたる)に「古郡左衛門種氏」、また幸若舞曲「和田宴」(毛利家本)に「呑程ならば朝夷かふるこふりか」と「古郡」が登場する。古郡は現在富士市域に見られる名字である。(富士市1998;p.2)によると古郡家は中里村の小土豪で重年の代に現在の松岡村に移転したという。

しかし古郡は甲斐国の地名であり同氏の発祥の地とされる上、古郡保忠も「和田合戦」に破れ甲斐国で自刃しているというので、曾我物語や幸若舞曲に見えるこの「古郡」はあくまでも甲斐国の者であると思われる。富士郡に古郡氏が土着するのは、かなり時代が下るものと推察される。

結論、曽我物語には富士郡の人物が登場していないように思う。

  • 吾妻鏡・曽我物語から見る富士地区の様相、特に宿場について

吾妻鏡には以下のようにある。

ここに祐経・王藤内等交會せしむるのところの遊女、手越の少将・黄瀬川の亀鶴等叫喚し、この上祐成兄弟父の敵を討つの由、高聲を發つ

つまり仇討ち時には工藤祐経・王藤内の側には「手越宿」(静岡市)と「黄瀬川宿」(沼津市)の遊女が居た。両者は目の前でこの惨劇を見たのである。また両者は吾妻鏡だけではなく『曽我物語』にも登場する。

しかし両者は富士郡の遊女ではない。富士野で催されるのであるから、近隣に遊女が居れば必然的にそこから召されているはずである。しかしそうではなく、わざわざ遠方の遊女が召されているのである。私はこれら事実を見た時「富士郡には遊女が居るような大きな宿が無かった」と言って良いのではないかと考える。

曽我物語には東国の霊地や宿場が殊の外多く記されることが知られている。ここで少し「東国」の扱いについて考えたいのであるが、真名本巻第六に「東国には狩庭多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし(平(2)11頁)」という有名な一節があり、富士野を東国として見ていると解釈してよいと思われる。曽我物語には「東国」という言葉が度々出現する。

(稲葉1997;p.101)は真名本巻五の後半から巻六に見える地名を書き出し以下のように説明している。

以下にその地名を書き出して示すと、関戸宿、入間河宿、大倉宿、児玉宿、山名・板鼻・松井田宿、沓懸宿、三原野、赤城山、宇都宮宿、那須野、青竹落、法泉宿、品河宿となる。夙に知られているように、真名本曽我物語が伝えるこの間の行程は、地理的関係において極めて正確であり、また詳細である。

またこのような地名に子細な様は、十郎の遊女との出会いの過程にも見て取れる。その過程は(村上2006;pp53-66)に詳しい。兄弟は仇討ちの計画を異父の兄にあたる「京の小次郎(小二郎)」=「原小次郎」に打ち明ける。しかし小次郎は仇討ちのような時勢ではないとし否定的に見る。これをみた五郎は計画が露呈することを恐れ殺害を進言するが、十郎は身内であるとしてこれを止め小次郎に口止めをする。しかし小次郎は母にこの計画を伝えてしまう。それを聞いた母は仇討ちをやめるよう促し、また結婚もせず独り身であるからこのような考えを持つのだとして妻帯を進める。しかし五郎は女は無用であるとし、兄には仇討ち後も咎を負うことがないであろう妾を持つよう提案する。そこで十郎は遊女を探し

小田原→酒匂→国府→二宮→小磯→大磯→平塚→三浦→鎌倉(真名本巻第五)

と移動する。そして「大磯の宿」の遊女である「虎」と出会うのである(平(2)272頁)。この部分の地名も相当詳しい。真名本は東国で成立したとされるが、その根拠の1つとして挙げられているのが「東国の地名の列挙」であり、良く指摘される。(新村2016;pp.30-32)は頼朝が鎌倉を本拠として新たな政権を樹立したこの時期は交通や流通面においても変化が見られるようになったと指摘する。そして「こうした時代背景に影響を受けてか、真名本は宿駅の1つ1つを細かく記す」「この時期において存在感をました交通路や宿駅に対する細やかな視点が真名本に反映されている」としている。

しかしそのような中でも富士郡の宿場は記されていないのである。他に近場で記される地名が「箱根-黄瀬川-手越」であるところを見ると、むしろ富士郡は「綺麗な空白地点」と言っても良い。この点は往路の検証の材料にもなると思われる。

ここでは東国との関係を記しているが、真名本には西国のイデオロギーも組み入れられていることが示唆され、東国のエッセンスのみで構成されているという意味ではない。(会田2008;p.90)が指摘するように巻二に頼朝が伊豆流人時代に発した言葉に「我必ず東国に住して東夷を平らげん」とあり、西国的人間として叙述する向きがある。また会田は梶原景時の鷹狩に関する論争の中で西国の価値観を意識しているという指摘もしている。しかしこの点に関して(二本松2011;p.355)は「鷹狩は東国武士たちに根生いイデオロギーではない」としている。と同時に仮庭めぐりの叙述を引いて「真名本『曾我物語』は東国の狩猟信仰に精通している」ともしている。やはり全体的には東国の地理に詳しいという指摘がなされることが多い。

以下では駿河国にあたる「手越」と「富士郡の宿」について考えていきたい。

黄瀬川

手越宿は駿河国有度郡(現静岡市駿河区手越)の宿駅である。安倍川の西岸で鎌倉街道に沿うという(中川2019;p.10)。同地は「手越河原の戦い」でも有名であり、建武2年(1335)のもの(足利直義 対 新田義貞)や観応2年(1351)9月27日のもの(足利直義軍 対 伊達景宗)が知られる(「観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理」を参照)。黄瀬川宿は静岡県沼津市大岡辺りにあったとされる。

安倍川

次に富士郡の宿場について考えてみたい。実はこの作業は大変難儀である。やや横道に逸れるので飛ばしていただいても問題はない。古くは『日本三代実録』貞観6年(864)12月10日条に「廃柏原駅。富士郡蒲原駅遷立於富士川東野」とあり、駿河郡の柏原駅を廃し代わりに富士郡の駅が富士川の東野に移されたとある。この富士郡の駅の名は「蒲原駅」であったという。9世紀後半は富士川の東(富士市域)に蒲原駅があったと目される。

また見附の存在が指摘される。(菊池2012;p1)に「初めは吉原湊に面した海沿いの砂山に見附が設けられたが、やがて現在も富士塚の残る今井地区へ移り」とある。この「見附の宿」に関しては『駿河志料』『田子乃古道』といった史料に見られるのみで、且つ後世の記録のみしか残らない。実際のところ存在したのかは定かではないが、最大公約数的な言い方をすれば「富士川東野の駅・見附→今井→吉原宿(元祖)」となる。上の「図2」の吉原宿は「新吉原宿」であり、「元祖吉原宿」→「中吉原宿」(寛永年中に高潮被害により移転し成立)→「新吉原宿」(延宝8年(1680)の水害により天和2年(1682)に移転したもの)という変移によるものである。


『駿河志料』の「駅はもと今井村の地にありて、権輿は審ならず、元弘年中今井見附と唱へ」という記録等に鑑みるに、仇討ち事件の頃は今井に宿場があった可能性がある。しかし吾妻鏡には「今井宿」とか「見附」といった文言は見られない。(中川2019)にあるような和歌に登場する例も無い。このように富士郡の宿場に関する記録はそもそも少ないが、はやり大きな宿場は無く、手越宿と黄瀬川宿から遊女を召す必要性があったのであろう。

  • 虎御前と富士郡  

真名本曽我物語において、曾我祐成の妾である虎御前が仇討ちの現場である「伊出の屋形」を弔問しているシーンがある。真名本では「伊出の屋形にもつきたれば、心も心ならぬ野原なれば、心の澄むことは限りなし(平(2)270頁)」と心情が述べられている。後に虎御前は、1度弔問したにも関わらず再度伊出の屋形に向かうことを決意し旅立つ。ここに、残された者の寂しさ・侘しさ・悲しさを強く感じるのであるが、その過程の駿河国小林郷で心の転機が訪れる。

小林郷に鳥居が建てられていたためこの社について訪ねると、曽我兄弟が御霊神となったことを奉ったものであると知る。そこで虎御前は不断念仏をし、曽我の里へ引き返す。心情に大きな変化をもたらしたのである(平(2)280-281頁)。

真名本のラストにあたる巻第十では「庭の桜の本立斜めに小枝が下りたるを十郎が躰と見なして走り寄り取り付かむとすれども(平(2)285頁)」とあり、虎は桜の木に小枝が垂れ下がる姿を十郎とみなして木に抱きつくのである(ここの解釈は(新村2016;pp.34-35)や(木澤2019;p.26-30)の指摘が示唆に富む)。有名な一節であるが、やはり残された者の悲しさがそこにはある。曽我物語は女語りによる口承という指摘が多くでなされるが、これらの部分を見ると妙に納得するものである。

作中では虎の諸国参詣の最中で往藤内(仇討ち時に工藤祐経と居合わせ討たれた人物)の妻と出会い悲しみを分かち合っており(往藤内は兄弟に討たれたので、一見すると妙であるとも言えるが)、やはり「女性」が重要な位置づけにあるのである。この部分は(会田2004;pp162-176)に詳しい。これは曽我物語の大きな要素だと言える。

「女性視点」という意味では幸若舞曲は女性視点があまり確認されない。例えば『十番切』の志向も、あくまでも十番切の場面そのものを描くことにあった。また幸若舞は虎視点の内容が認めらない。

そして「その時より病付て、少病少悩にして、生年六十四歳と申すに大往生をぞ遂げにける(平(2)285頁)」とあり、虎は一応の安定を以て安らかに眠ることになる。真名本のラストにあたる部分である。この部分の解釈について(木澤2019;p.30)は

物語は、死者と完全に断絶してしまっている兄弟のありようからはじまり、敵討を経て、死者との幸福な再会を幻視しながら安らかに往生する虎のありようで閉じられる。だとすれば『曽我物語』の到達点は、死きずな者とのつながり、時間的空間的に完全に隔たっていても結ばれ続ける絆という意味でのつながりを獲得するという点にあったのではないかと考えることができる。

としている。この記述は極めて納得のいく説明である。また上記の「小林郷」を富士市久沢・鷹岡に比定する論者も居る。実は曽我兄弟の仇討ち"後"と富士市は関係が深いと思うのである。

  • 絵図に見られる富士山

個人的に興味深いと思うのは、富士の巻狩を描く図や曽我兄弟の仇討ちを描く図において、富士山の描き方が二極化している点である。まず『月次風俗図屏風』の「富士巻狩」は三峰の富士山であり、富士山の他の絵画にも見られる普遍的な描写である。しかし渡辺美術館蔵「曽我物語図屏風」や歌川芳虎「曽我兄弟十番切之図」は薄暗い富士山を描いており、しかも秀麗なものとは言い難い。前者については(泉2006;p.3)に

本図では、第4扇と第5扇の画面上端に、灰色の巨大な山塊の一部を表すにとどめるという、例のない描き方がされる。富士山麓の狩りの場面で、富士の全容が美しく見える描き方よりも、はるかに「現実的」な描き方として注目したい

とある。渡辺美術館蔵「曽我物語図屏風」について(相澤2008;p.479)は天正の頃の作例としている。絵入りの「舞の本」もこのような一部のみを描く手法が見られる。

真名本には「ころは5月28日の夜半の事なれば、雨は居に居て雨る、暗さは暗し…(巻九、平(2)197頁)」とあるため、仇討ち自体は夜に決行されている。なので夜討図における富士山が暗い場合は問題はない。しかし「巻狩」自体は日中に行われているはずであり、それを表した「富士巻狩図」にて富士山が灰色である点は、確かに特徴的と言えるかもしれない。逆にこのような画題を採用しなかったのが曽我物語図屏風のうち「丸近本」(狩野永納作)や「栃木県文化財指定本」である。

また時代が下ると「夜討」を排した曽我物語図屏風の作例が多くなっている点を(小口2020;p.p.59-60)は指摘する。氏は赤穂事件といった仇討事件の増加を幕府が問題視し、それを想起させる曽我兄弟の仇討事件は忌避されたためとしている。

しかし一方で富士の巻狩は曽我物語図屏風の作例として残っている。この点については、徳川吉宗が当時大規模な鹿狩を行いこれが富士の巻狩に見立てられ、好意的に受け止められたためとする。そして富士の巻狩りは権威表象であり、徳川将軍家のテーマとして用いられたとしている。

曽我物語における刀の位置づけは、まさしく「資格継承」にある。幸若舞曲は「由来譚」に重きを置いている。(新村2015;pp.126-127)に

五郎が箱根別当行実から授かったのは兵庫鎖の太刀であり、屋代本『平家物語』剣巻などにも、この太刀ゆえに敵討を遂げることができたとの認識があったことが知られる。霊威ある剣を義経から継承する者としての資格が、一時的にせよ五郎に与えられたと受け止めるべきであろう

としている点や(村上1999;p.279)で

十郎が所持していたのは、いわば平家を代表する新中納言知盛の太刀・奥州丸であったが、これは鐔元より真二つに折れた。そして今、源家重代の宝刀友切が無事、頼朝の手に帰すというところに宝剣の持つ意味が自ずと語られている。

と説明されている。つまり源氏を引き立てる構成であり、源氏の宝剣を所持する者の正当性が語られているのである。

『舞の本』の「剣讃嘆」挿絵。、曽我兄弟が「黒鞘巻の刀」「兵庫鎖の太刀」を授かる場面。十郎(左)の装束の絵はやや雑であるが千鳥模様であると思われる。

  • 富士宮市・富士市の伝承地

これは吾妻鏡や曽我物語を読んで驚いたことであるが、富士宮市や富士市に多く伝わる伝承地がこれら史料に全く出てこないのである。派生作品も含めればこれだけ多岐に渡るのにも関わらず、認められない。先の「曾我吾郎首洗い井戸」等もそうである。「曽我兄弟の隠れ岩」「音止めの滝」「陣場の滝」「太鼓石」「撫川」「お鬢水」「猫石」「櫃石」等も全く出てこない。御殿場市の「カンコラ淵」、裾野市の「頼朝の井戸の森」・「鮎壺の滝」、沼津市の「徳源寺」や「日枝神社の大釜」も出てこない。ある意味口承的に伝わったとも考えられるが、とりあえず曽我物語や吾妻鏡に登場しないことは留意すべきであると思う

猫石

この点に関しては、富士地区(富士宮市・富士市)をゆかりとする中で勝手な思い込みが形成されていたのかもしれない。逆に言えば富士郡に関わるもので『吾妻鏡』や『曽我物語』に登場する「神野」「富士野」「井出の屋形」といった地名に関してはしっかりと考えていかなければならないと思うのである。

貝原益軒

そのような中、吾妻鏡や曽我物語には登場しないものの、福泉寺(曾我寺)の存在は際立ってくるように思う。というのも、紀行文等に登場するためである。『東海道中膝栗毛』には以下のようにある。

それより久沢の善福寺(註:福泉寺)といへるに、曽我兄弟の石牌あるをおがみて北八

 今曽我に機縁を結ぶわれわれは外に一家も壱もんもなし

また貝原益軒の紀行文『壬申紀行』に「曾我の社」が詳細に紹介されており好例であるので、以下に挙げる。


大みやをいでて吉原のかたへゆく(曽我の社)(中略)厚原と云所、道の左のかたはらにはやしあり。其内に曾我祐成、時宗がほこらあり。一所に兄弟の両社、近くならべり。今も親の敵をうたんと志あるものは、此社にいのると云。其前に又小き草堂あり。曾我兄弟が位牌所となりと云。吉原より是まで一里あり。曾我の社より三町ばかり吉原の方に行ば、これも左の方に小なるほこら有。是、祐成が妾、虎が社なり。

とある。ここで「①祠(林の中)」「②曽我の社」「③草堂(位牌所)」「④虎の祠」が記されることに注目したいのである。「今も親の敵をうたんと志あるものは、此社にいのると云」とあり、近世もよく知られた社であったと考えられる。このような武士の志を形成する要素に、『富士野往来』といった教科書の存在もあるかもしれない。

また中井竹山『西上記』(往路は『東征稿』)にも福泉寺は登場し、面白いエピソードが記される。『西上記』は明和9年(1772)の旅を記したものである(湯城2011;p.1)。以下で説明していきたいと思う(※『紀行日本漢詩』を参考とした。途中誤記と思しき箇所あり)。

中井竹山


『西上記』に「芳原(吉原)に及ぶ則ち報有り云ふ、富士河溢る」とあり、吉原に到着すると「富士川が溢れている」という報告があった。「富士市の島地名と水害そして浅間神社」にあるように吉原の地は水害が跡を絶たない地域である(この明和9年は全国的にも酷く「迷惑年」とも呼ばれた)。富士川を渡れないと一行は西に行けず帰京出来ない。奇しくもこの足止めが、吉原の様相を後世に伝える好例となるのである。

同記には「東泉蘭若(東泉院)を過り路帰る」とあり、風害狼藉で見るものがないとして東泉院を通り過ぎている。翌日「近地の幽尋すべき者を索む、福泉寺に得たり。蘇我昆季塋在を。又た二蘇祠有り、相ひ遠からず」と福泉寺と蘇我昆季(曽我兄弟)の墓と祠が登場する。祠は「蘇氏碑の碑二基」とあり、苔花が封合しているとある。また「後ろに大柿樹有り」と、祠の後ろに大柿の木があり伝承では虎が植えたものであると記す。

また竹山は「東北行数百歩」し祠に赴きその由来を記し、また祠の前にある老杉一株についても記す。また祝氏の家で休み、「源頼朝が五郎の義勇を惜しんで特別に宥免を指示したが犬坊丸の懇願により刑に処された」という仇討ちの経緯を記した後で「其の教蔵め、祝氏に在り。出め(?)之を示す(※之出示すヵ)」とあり、頼朝が宥免を指示した書を祝氏の者が保持しており、見せてもらったとある。祝氏は神職または福泉寺に関係する者と思われるが、この書が現存するかは定かではない。しかしもし仮にこれが現存する場合、極めて重要な史料になると思うのである。竹山は真偽の判断はつけられないとしているが、それ程可能性があるとも言えるのである。福泉寺は富士宮市の杉田安養寺の末寺でもあったので、安養寺の方にあるかもしれない。とりあえず一度調査すべきであると考える(もしかして富士市の刊行物等に記されているのかもしれないが、見つけられなかった)。

※この点の詳細は以下の「福泉寺の喧伝か、はたまた正式な伝来か?」の項にて記す

また「祠畔の竹箭中に廃池有」とあり、「小蘇の元を滌ふ」という伝承があることが記されている。つまり「曾我吾郎首洗い井戸」の言い伝えは、少なくともこの時まで遡ることができるのである。

ちなみに往路を記した『東征稿』によると、富士川を渡った後に「雨中芳原(吉原)を発す」とあり、やはり天候が安定していなかったようである。また品川駅辺りの曽我兄弟の墓(蘇我昆弟とある)に立ち寄るなどしている。

つまり1度の旅行記に限ってみても、曽我兄弟に関する事柄が複数以上確認できるのである。この事実そのものだけを見ても、同事件が人々に与えた影響の大きさが分かるのである。時代を問わず世に知られていたのであり、逆に現代の認知度が妙に感じてくるのである(GHQの影響が指摘される)。曽我兄弟の墓は全国に分布しており、極めて特質である。

以下では『壬申紀行』と『西上記』の場所を比較検討してみたい。紀行では「①社」がありその境内に「②兄弟の祠」があり、その前に「③草堂(位牌所)」があるとしている。そして離れた所に「④虎の祠」があるとしている。

西上記は「①福泉寺」の境内に「②蘇我昆季塋」があり、その近くに「③二蘇祠」があるとし、その後ろに「④大柿樹」があるとする。そして東北に向かうと「⑤蘇氏碑の碑二基」があり、その前に「⑥老杉一株」が、横には「⑦廃池」があるとする。

これを見ると実は両者異なる場所を記しているということが分かる。貝原益軒は中道往還沿いに大宮(富士宮市)から吉原(富士市)に向かっており、①-③と④では前者が大宮側で後者が吉原側なのである。そう考えると、④は現在でいうところの「玉渡神社」が濃厚となってくる。

『西上記』は①-④までは同じ箇所であり、そこから「東北」(数百歩)に向かった箇所に⑤-⑦があるのである。①は福泉寺なのだから、東北に向かって「廃池」があるとする記述は、現在の立地を見ても合致している。とりあえずここでは、竹山は現在の玉渡神社周辺は記していないと考えたい。逆に言えば、鷹岡の地は曽我兄弟に関する伝承地が極めて広範囲に分布していると言えそうである。

伝承は時代と共に「付加」させられ、貝原益軒の時代は無かったもの・伝承が創作された可能性もある。例えば柳田(1981;p.516)は

尚富士郡厚原にある曽我の社などは、以前は單に虎御前様と言つて居つたに、何時の世にか曽我兄弟の祠とし浩々歌客の父君角田虎雄氏が近年撰文を書いて遂に本物の兄弟の祠にしてしまうたが、古く遡れば随分疑はしい

としている。浩々歌客は「角田浩々歌客」のことで、角田虎雄は「虎男」と思われる。しかし「曽我の社」については、曽我兄弟の祠とされていたことは肯定できる。

(静岡近代文学研究会2004;p.41)によると、柳田は吉原に住んでいた山中共古と書簡のやりとりをしていたようであり、富士郡の神社や塚の情報を多く得ていたようである。

他にも同地を経由した紀行文は多く存在するし、それらを総合して比定作業するのも有用と思われる。

  • 福泉寺周辺の喧伝か、はたまた正式な伝来か?

上記から一部引用する。

また祝氏の家で休み、「源頼朝が五郎の義勇を惜しんで特別に宥免を指示したが犬坊丸の懇願により刑に処された」という仇討ちの経緯を記した後で「其の教蔵め、祝氏に在り。出め(?)之を示す(※之出示すヵ)」とあり、頼朝が宥免を指示した書を祝氏の者が保持しており、見せてもらったとある。祝氏は神職または福泉寺に関係する者と思われるが、この書が現存するかは定かではない。しかしもし仮にこれが現存する場合、極めて重要な史料になると思うのである。竹山は真偽の判断はつけられないとしているが、それ程可能性があるとも言えるのであり、もし現存すれば曽我兄弟の仇討ちに関する一級史料になり得る

この点は少し興味深いのでもう少し考えていきたいところである。まずここで言い伝えられている内容は、幸若舞曲「十番切」にそのまま見られる展開である。またその関係で幸若舞曲を読み物化した『舞の本』にもみられる。むしろ「この両者にくらいしか確かめられない例外的解釈」と言ったほうが良い。

幸若舞曲「十番切」には「鷹ガ岡にての事(中略)頼朝も内々助け度おぼしめさるる処に、人々の訴訟を嬉しくおぼしめされ、自身安堵の御状をあそばし(毛利家本)」とある。五郎が処刑場に連れられた後に頼朝が「安堵の書状」を出すという展開である。しかし「犬坊丸の懇願により刑に処された」という展開は舞曲「十番切」には無く吾妻鏡の展開であるので(舞曲では五郎が所望し処刑される)、いつくか織り交ぜて伝えられているようである。また能「春栄」等に似たような演出があり、この種のものに影響を受けた可能性もある。

しかしやはり「頼朝が安堵を認めた御教書が、今にも処刑されそうな五郎の元へ届けられる」という展開は幸若舞曲独自のものであり、それがこの地で紛れもなく伝えられていたということは驚嘆に値する。しかしながら幸若舞曲に限定される内容であり大衆的とは言い難く、この妙な現象は一言では説明し難い。

まず重要な視点に「御教書の真偽」と「どちらが先行するか」ということがある。御教書の真偽であるが、史実としてはそのようなことは無かったであろう。御教書は紛れもなく福泉寺サイド(か近しい者)が作成したものである。このような書が存在したということは、それに類するものは他にもあったと考えるほうが自然である。それらが「幸若舞曲の題材」として舞曲作成サイドに直接持ち込まれた可能性もある。また「何時作成されたのか」という点は別問題である。これは「いつから喧伝活動が行われていたのか」を考えるということでもあり、現物やその他の材料もない今、とても推定できるものではない。

「どちらが先行するか」というのは、「①幸若舞曲「十番切」の成立→鷹岡」と「②鷹岡→幸若舞曲の題材化」という意味となってくる。もちろん複雑に絡み合い、また並行していた可能性もある。まず鷹岡の在地勢力、例えば福泉寺のような寺院が、幸若舞曲に挿入される契機を作れる程大きな寺院であったとは思われない。しかしそれを可能にするエネルギーを一応考えてみたい。

この幸若舞曲の終盤は「(最終的には処されたが)頼朝は宥免を提案したのである」という寛大さの強調であり、「王権の保証」である(「王権保証」は(福田2004;pp522-545)が参考となる)。その過程の処刑の地として物語的に採用されたのが「鷹岡」なのであるが、「宗教」から考えていく必要性はありそうである。

『幸若舞曲研究別巻』(2004)によると、吾妻鏡・曽我物語との相違点として「特殊な仏教用語の使用」が挙げられている。そして「特に後半、五郎が鷹が岡へ引き立てられ切られる場面での会話や他の文における表現に特殊な仏教的文言が見られる(pp.238-239)」とある。鷹岡といえば「熱原法難」で知られる「厚原」が位置する地である。あまりに唐突な「鷹岡」の登場(他の史料には無い)と「特殊な仏教用語の使用」から考えた時、鷹岡の宗教勢力が関与している可能性は否定できない。そうであれば②となる。

堂々巡りになってしまうが、やはり鷹岡の在地勢力が幸若舞曲に挿入される契機を作れるとは思われない。若しくは在地勢力でないのかも分からないが、富士の巻狩の復路で鷹岡を経由し、何らかの事象があったと考えるのは許される範囲だろう。

しかし「何故鷹岡にこれほどまでに伝承地があるのか」という疑問に対する答えは出てきたように思う。「福泉寺またはその周辺による積極的な喧伝」と考えると辻褄が合う。あえて作成されたと思しき「書(御教書)」は、その一端を示すものである。そういう意味でもこの西上記の記録は興味深い。喧伝の過程で伝承地が増えていったと考えるのが自然である。

  • 成立・写本・伝来

吾妻鏡・曽我物語・富士野往来等で共通して登場する地名から系統や伝来を考えてみたいと思う。ここでは、仇討ちの場面で出てくる「イデ」から考えてみようと思う。


真名本曽我物語巻第七(妙本寺本)にみえる「伊出の屋形」

以下はその一部である。

イデ
『吾妻鏡』伊堤(富士の巻狩の場面で「イデ」は登場せず)
真名本『曽我物語』(妙本寺本)伊出
仮名本『曽我物語』(太山寺本でない)井出
仮名本『曽我物語』(流布本、12巻本)井手
『富士野往来』藺手
『保暦間記』井出
『運歩色葉集』藺手
『北条九代記』なし
幸若舞曲の曽我物基本的に仮名
能「伏木曽我」井手

一見して分かるように「伊出・井出・藺手・居出・井手と多くの表記が存在し、とてもではないが伝来の経緯は単純なものではない。富士宮市の地名でここまで多くの史料に出てくるものも珍しいと思う。

太山寺本(巻第五)

ただ注意したいのは、例えば太山寺本の「いでのやかた」
を「井出」として取り扱う論考が多いものの、実際に太山寺本を見ると「いで」の部分はすべての箇所(巻五・八・十)で仮名であった。「いで」の表記で考察を試みている例もあり、注意が必要である。

成立背景も複雑である。「源頼家の鹿狩り」とそれに付随する北条政子のエピソードは曽我物語には無く吾妻鏡独自のものであるが、例えば『北条九代記』はこれらを載せ、また真名本のような「往藤内」表記ではなく「王藤内」となっている。また「イデの屋形」は登場しない。こういうものは分かりやすく「吾妻鏡の要約版」と言えるのであるが、他はそのように単純に割り切れるものではない。このような吾妻鏡の「独自の記事」の存在を考えると、成立背景はやはり単純ではない。

(村上1990;p.372)は『吾妻鏡』建久4年5月29日条の記録を引き合いに出した上で

『吾妻鏡』の記事には、幕府の公式記録としては必ずしも採択される必然性のない記事が含まれており、そこに当時の語り物の類が流れ込んでいるのではないかと推測されている。(中略、ここで5月29日条について言及)この記事からは『吾妻鏡』に採録された曾我関係の一連の記事が既に現在の曾我物語の基本構想を備えていたことが推測される

としている。この指摘は極めて重要に思えるのであり、吾妻鏡に対して抱かざるを得ない違和感を説明する、核心を突いた指摘である。確かに、幕府の公式記録という性格を考えると虎御前が登場すること自体が不思議なのである。しかしそれは確かに記されるのである。吾妻鏡が成立した時点で「曾我兄弟の事跡を記す書」のようなものが存在し、それを吾妻鏡編纂の過程で導入していると考えるのが自然と考える。虎の登場こそ、記事冒頭でいう「帳尻合わせ」なのである。また村上は

したがって『吾妻鏡』に採録された曾我の物語は真名本に近い内容だったことが判明する。ただし『吾妻鏡』には6月1日条に虎が喚問され尋問を受けたが無罪釈放されたとの記事があり、これは現存の曽我物語のいずれの本にもない。『吾妻鏡』採録の曾我の物語は現存の真名本とは多少の相違があったことになる

としている。この点も極めて重要である。村上は吾妻鏡の限られた記述から真名本の近似性を見出し、また一方で異にする内容があることを述べている。吾妻鏡と真名本の相違を考えると、「①吾妻鏡が参考にした記録」と「②(今我々が目にしている)曽我物語の原典にあたる記録」は個別で存在していると考えられるのである。この辺りは諸家で「原曽我物語」とか「曽我記」「原初的物語」「曽我語り」(福田2004;p.327)といった表現がなされている。(坂井2014;p.54)では「福田の主張した〈…記〉のようなものを想定する立場をとりたい」としている。また(村上2003;p.34)では「仮名本はおそらく現在の真名本が多量の唱導文を含んで構成される以前の段階の原曾我物語というべき本文から発展したものと思われる」としているが、この点は論者によってかなり分かれるところであると思われる。

また(坂井2014;pp.48-49)の指摘も重要である。真名本に

されば平家に曽我を副えて渡したりけるに(平(1)157頁)

とある。平(1)の註にも「平家」(『平家物語』)「曾我」(『曾我物語』)とあるが、この記述から「ここから、現存「真名本」が成立した時点で「曽我」と呼ばれる書物が存在してたことが裏付けられる」としている。

「曽我語り」の事例として『七十一番職人歌合』・謡曲『望月』・『醍醐寺雑記』・『自戒集』はよく挙げられる。このうち『七十一番職人歌合』と謡曲『望月』は曽我物語に対応しない部分がある。これらは独立して存在していたのである。『望月』に関して(二本松2019;p.156)は「七つ五つになりしかば…」の箇所が曾我物語にて兄弟が雁を眺める場面(平(2)205-206頁)を想起させるとしているが、一方で持仏堂の場面は曾我物語に相当する場面がないとしている。

『七十一番職人歌合』より

『醍醐寺雑記』に関しては(村上1990;pp.369-372)は仮名本との近似性を指摘しており、また冒頭の前置きでも説明した「楠見荘」の構成が雑記と仮名本とで類似している点も指摘される(二本松2019;pp.154-155)。また二本松は一休宗純『自戒集』に見える「絵解き」の記述に関しても、仮名本に相当する場面を見出している。(三戸2020;p.30)も同様の指摘をしている。この辺りは大変興味深い。

つまり今我々が目にしている曽我物語のその成立と①「曽我語り」②「曽我記」③「原初的物語」との関係をどう考えるか、という問題なのである。福田は『吾妻鏡』には「曾我語り」が投影されているとした上で(平(2)328頁)、真名本のように広い展開を見せるものではないため客観的に事件を記した「曾我記」ともいうべきものを参照したのではないかとしている。

(坂井2014)は、吾妻鏡は①「曽我記」と②「真名本の原典となった原初的物語」の双方を取り入れているとしている。例えば『吾妻鏡』と真名本とで類似した文章表現・表現法があることに着目し、「真名本と同じ原史料をもとにしたということを示唆するものであろう(坂井2014p.62)」としている。また『吾妻鏡』に唐突に出てくる「将軍」という表現の違和感から「「曽我記」は頼朝のことを「将軍」と称しており、〈山神・矢口祭〉に「将軍という表現が出てくるのも、『吾妻鏡』がこれを原史料として用いたためと考えることができる(坂井2014;p.84)」としている。

また曽我物の成立に関しても、「曽我物語の成立後」とするか否かで大きく分かれている。少なくとも幸若舞曲は曽我物語成立以後という見解で一致している。能に関しては仮名本に先行する可能性も指摘され注目されるところではあるが(佐藤2009)、大胆な推察とも言える段階にあり、慎重論も聞かれるところである(伊海2015;pp.109-111)。

<伊出>
これは真名本特有であり、また真名本は「往藤内」表記であることも特徴である。

井出
仮名本に多い。仮名本系統は多く流布されたので、最もよく見る表記である。

<藺手>
『富士野往来』や『運歩色葉集』"のみ"にしか見えないといって良いように思える。

<井手>
「井手」については能「伏木曽我」と「流布本(12巻本)」に見られる表記である。(井畔1972)は伏木曽我の原拠を流布本(仮名本のうち12巻本は「流布本」とも呼称されその一群)の巻十二「井手の屋形の跡見し事」に求めている。伏木曽我は現在能ではなく夢幻能であり、曽我物では珍しいとされる。

堤>
後述する。

  • 「富士野」考
吾妻鏡の「伊堤」(いで)は、上記のように富士の巻狩の部分に見えるわけではない。この点を論ずると一見脱線してしまうようにも思えるが、実は極めて重要ではないかと思うのである。この「イデ」は

梟彼頸於富士野伊堤(いで)之辺云々(治承4年(1180)10月14日条

と見える部分に確認される。つまり「イデ」は「富士野」の地名なのである。また前日の13日条にも富士野は確認され、

十三日壬辰(中略)甲斐国源氏幷北条殿父子、赴駿河国。今日暮兮止宿大石駅云々。戌尅、駿河目代以長田入道之計、廻富士野襲来之由有其告。

とある。13日に甲斐源氏と北条時政・義時が「大石駅」に到着したが、平家方の駿河目代「橘遠茂」の軍勢が富士野を廻って攻めてくるとの知らせが届いていたことを示している。この襲来で生じた戦いが「鉢田の戦い」であり、諸家により場所が議論されている。

実は従来、この合戦は「朝霧高原」辺りで行われたと解釈されることが多かった(杉橋1988)等。しかし近年は甲斐国とする風潮が強い(海老沼2015)。しかし意外にも「富士野」の方から考えているものが少ないので、そこから考えていきたいと思う。

まず「大石駅」であるが、この場所も議論の的であった。富士山麓に「大石」の地名が甲斐国側にも駿河国側にも存在するためである。しかし13日に甲斐源氏らは大石駅に到着しているわけであり、ここを駿河国の大石(大石ヶ原=富士宮市上条)としてしまうと、「富士野を廻って」という説明は成り立たないのである。何故なら、既に自身らが富士野周辺(しかも大石ヶ原は上井出より下である)に居るのに「敵が富士野を廻って襲ってくる」と言っていることになってしまうためである。なのでここでいう大石駅が「大石ヶ原=富士宮市上条」ではないことは明らかなのである。

また『信長公記』に「富士のねかた かみのが原 井出野」とあり神野が井出野に隣接することが明らかなのであるが、上井出は駿河国の国境に近いので、上井出を過ぎると甲斐国に至る。まさしく「県境を跨いだ移動」である。吾妻鏡の「廻富士野」は「≒富士野を通って」と解釈できるものであるが、仮に知らせ通りに富士野を廻って襲来してきた場合、その場所は甲斐国である可能性が高いと思われるのである。

したがって「廻富士野」の部分こそ重視すべきではないかと思える。

「富士野」が『吾妻鏡』における「富士の巻狩」ではない箇所でも記述が認められるという事実そのものが重要であり、『信長公記』等の記述と『吾妻鏡』の記述を合わせて考えても齟齬がないと言える。富士野は上井出から朝霧高原一帯を指すと考えられる

このページでは主に富士郡と関係する部分について取り上げたが、同事件を調べるにあたりとても奇妙な現象に気づいたので記しておこうと思う。同事件は吾妻鏡や曽我物語から分かるように「富士野」で起こったことであるが、ネットで検索してもあまり出てこない。多くの史料・資料に地名としての「富士野」の名は見え、それこそ"勝計すべからず"という状況であるのに、これは大変不思議であると言わざるを得ない。曽我物語中にて頻出する地名を挙げる場合、間違いなく富士野は上位であると思われる。江戸時代には「富士野往来」が教科書として用いられ、多くの「曽我物」でも登場する事実からも分かるように"富士野"の名は歴史の中で生き続けた。「富士野」というキーワードが消えていくのはとても由々しき事態だと思われるのである。そのために同事件が何処で発生したものなのかという極めて初歩的な部分が全く認識されていないように思われるのである。

  • おわりに
本来はもう少し取り上げたい事項もあったが、時間の関係もあり除外した。地名からの観点に関しては、ある程度言及できたのではないかと考えている。

地名と言えば、「鷹岡」については深慮が必要である。特に上のHPのような書き方が望ましいのかという点は、最低限考えなければならないと思うのである。また幸若舞曲にあるその点「(ほぼ)ひとつだけ」を取って定説であるかのようにして良いのだろうかという点も考えなければならない。わずかな例外同士を貼り付けて説明するのは、極めて危険である。

少し考えてみる。「曽我記」や「原初的物語」があって、二次的に吾妻鏡の記述に影響を与え、また曽我物語が成立したとする。能は別としてもやはり幸若舞曲はこれより時代が下ると考えられる。また更にこの幸若舞曲を題材として絵図が作成されるようになる。この間の隔たりは相当なものであることは言うまでもない。でもこれら材料のうち大胆な作為的取捨選択をし、あちらこちらを捻じ曲げて文章を拵えると、不思議なことに上のような産物が生まれるのである。しかしそれで良いのだろうかという疑念は拭えない。有り体に言えば、市HPの曽我物語の解説は事実誤認であり、また事件の解釈上五郎を「鷹が岡で処刑された」とする論者も1人も居ないと思うので、とても参考になるようなものではないと言える。

実は曽我物語には「かぐや姫説話」が挿入されている(平(2)99-103頁)。時間の関係上解説は省いたが、この部分は「富士市や富士宮市は竹取物語発祥の地であるのか」をご参照頂きたいと思う。とにかく今年は鎌倉時代に注目が集まる年になりそうです。

※急ぎ書き上げた故、中途半端となっている点はご了承下さい
※1月9日にもう1つ記事を投稿しますが、休みの方針は基本的には変わりません。内容は「大河ドラマの主人公で富士宮市に来た人物」といったものを予定しています。

  • 曽我兄弟の敵討ちを調べるにあたって(追記)

以下に「参考文献一覧」を掲載する。あくまでも当記事に関わる文献を掲載したものとなっており、参照した文献は他にも多数ある。その過程で生まれた所見を、備忘録として少しばかり書いてみようと思う。

曽我物語に対する距離感を縮めるという意味で最も好例なものは「14」(うち「曾我物語の世界」)であり、次いで「2」「3」「5」「6」「11」「28」あたりが入りやすい。「14」でも難しく感じた場合、同氏の講演会を文字起こしした「曾我物語の歴史的背景」(『静岡県史研究』第7号,1995年に所収)が良い。そしてもう少し対象を広げて“手にとるべき文献とした場合は前掲のものを含めて「1」「2」「4」「5」「6」「7」「11」辺りが該当すると思う。そしてお供として「8」「9」「10」があることが望ましい。購入するのであればこの3冊であろう。汎用性が極めて高い。

これらの中で「真名本を理解する」「仮名本を理解する」という意味でそれぞれ1つずつ選ぶとする。その場合個人的には前者は福田晃(2004)『曽我物語の成立』で後者は村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代』となってくる。これらは現在も通じる良書である。「1」はもちろん参照すべき文献ではあるものの、諸本の分類に多くを割いており、読破にはかなりの時間を要すると容易に推察される。むしろ同書で参考とすべきは末尾の方にある「付篇・付章」(1207-1299頁)であり、分類に関しては同氏の「3」でも十分かと思う。分類は勿論重要であるが、曽我物語の一側面でしかないことも事実である。

曽我物語は本地物としての性格もあるが、それに従い「①鎌倉近郊」「②伊豆・箱根・三島」③「富士」と分けたとする。そうした場合、以下の参考文献を振り分けると①は「24」「25」「30」②は「22」「23」③は「6」「7」「44」が該当する。一般書とされるものでもこのうち①-③を網羅しているものは少ない。例えば「5」は③に関して殆ど言及されていない(比較的対象が限局している)。全頁読んでみたが、氏は専ら「史実か史実でないか」に関心があったようである。なので、どれか一冊読めば良いという性質のものではないと思われる。これを補完するためにジャーナル類等を参照する必要性が生じてくる。個人的には新村(20152016)がとても参考になった。同氏の博士学位論文はWeb上でも公開されている。

富士の巻狩を理解する場合、「14」と"木村茂光『初期鎌倉政権の政治史』,2011年(第六章 富士巻狩りの政治史)"がとても参考になる。あとは「おわりに」で言及した点に留意して頂くことが重要かと思う。注意しないと、一向に理解が進まなくなってしまう。

この追記が皆さんが曽我物語を調べる上での一助になれば幸いである。特に「おわりに」の部分は救われる人も出てくるかもしれない。曾我物語の諸本が数多くある中、存在しない記述を探し続けるのは苦痛でしかない。仇討ち事件を検索する人が増えている昨今、折角調べる所まで漕ぎ着けたのに裏切られ、これら一切を辞めてしまうようなことが無ければと思っています。


  • 参考文献
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  5. 坂井孝一(2014)『曽我物語の史的研究』,吉川弘文館
  6. 二本松康宏(2009)『曽我物語の基層と風土』,三弥井書店
  7. 会田実(2004)『『曽我物語』-その表象と再生-』,笠間書院
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  11. 村上美登志(2006)『中世文学の諸相とその時代Ⅱ』,和泉書院
  12. 福田編(2004)『幸若舞曲研究別巻』,三弥井書店
  13. 麻原美子・佐竹昭広(1994)『舞の本』(新日本古典文学大系 59),岩波書店
  14. 石井進(1974)『中世武士団』(1974年,小学館「日本の歴史」12巻)
  15. 山岸・中田編(1974)『真名本曽我物語』,勉誠社
  16. 濱口博幸(1998)『太山寺本曽我物語』,汲古書院
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  18. 海老沼真治(2015)「甲斐源氏の軍事行動と交通路」,『甲斐源氏 武士団のネットワークと由緒』,戎光祥出版
  19. 富士川・佐野編(1992)『紀行日本漢詩(第3巻)』,汲古書院
  20. 板坂耀子(1991)『近世紀行集成』(叢書江戸文庫17) ,国書刊行会
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  23. 阿部美香(2003)「曽我兄弟の母」,『曽我物語の作品宇宙』,至文堂
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