2018年8月13日月曜日

観応の擾乱における薩埵山の戦い再考と桜野・内房の地理

まず駿河国庵原郡は…というより「桜野」(静岡県清水区、旧庵原郡)・「内房」(静岡県富士宮市、旧庵原郡)は、まさに「観応の擾乱」の主要舞台の地の1つと言えるであろう。観応2年(1351)12月に駿河国庵原郡で足利尊氏軍と足利直義軍が交戦し、この戦が大きな契機となって両者の命運は決定されたのである。

緑枠が旧庵原郡(町村制施行時のものであり、中世の郡を示したわけではない)

しかしこの部分についてはいくつかの留意点もあるので、それを先ず述べてからにしたい。

足利尊氏

まず小和田哲男『武将たちと駿河・遠江』は、この戦に関して以下のように説明している。

27・28日の両日、再度戦いがくりひろげられ、直義側は、由比・蒲原に陣をとる上杉能憲、内房(現、芝川町内房)に石塔義房・頼房父子が陣を構え、桜野から内房にかけての地域で激戦が展開した。ふつうこのときの戦いを薩埵山合戦の名でよんでいるが、『太平記』に記されたことからその名が一般的となったものであるが、実際の戦いの行われた場所からいえば、"桜野合戦"あるいは"桜野の陣"とでもよぶべきであろう

としている。この戦に関しては、古文書が伝わっていないわけではない。むしろしっかりと残っている。それ故に実際の合戦地も判明している。以下ではそれら「一次史料」をベースとして解説を進めていきたい。


  • 古文書等から

この合戦の状況を示す好例としてまず挙げられる史料が、京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達家文書』である。京都大学文学部編『京都大学文学部博物館の古文書第5輯 駿河伊達家文書』には以下のようにある。

時あたかも南北朝の動乱は、尊氏・直義の対立によって激烈の極みに達していた。いわゆる観応の擾乱である。(中略)この間、駿河伊達氏の当主景宗は、一貫して尊氏方として、直義方や南北朝の軍勢と戦い、文字通り東奔西走した。そのありさまをよく物語るのが、写2~9の文書である。(中略)尊氏は先にも述べたように11月4日に京都を発して東に向い、12月13日には駿河手越宿に到着した。尊氏から恩賞を与えられた景宗は、観応2年(正平6、1351)12月27日から28日にかけての桜野の戦い(『太平記』に言う薩埵山合戦)でも奮戦した

とある。実はこれとは別に同じく入江庄の駿河伊達氏に関する文書群である『伊達与兵衛家文書』が中央水産研究所に伝わっている。史料は16点であるが、その中の正平7年(1352)年閏二月十四日「包紙(「駿河国入江庄内下知状 前遠江守在判 伊達藤三景宗」とあり)が注目される。中央水産研究所の報告書『伊達与兵衛家文書(採訪時住所 静岡県清水市入江)』によると"「正平七(1352)年閏二月十四日」の日付に大方の人は衝撃を受けたであろう。しかし後に、これは江戸時代に書かれたものとの見解に落ち着いたのである"としている。しかし京都大学総合博物館所蔵『駿河伊達家文書』のものは南北朝期を示すものが多数残されており、伝来の経緯は全く異にするものと考えられる。

また『伊達与兵衛家文書』に関する説明で、以下のようにもある。

一見してこれらの文書群は駿河国入江庄(現在の静岡県清水港の北西に広がる地域)を根拠地とした駿河伊達氏が残したものと推測できた。(中略)系図景宗の項に中世期におけるこの家の由緒(記事)が簡潔に書かれている。これによると、「足利尊氏に従い手越河原ノ合戦で高名感状を賜ったこと、観応二年十一月二十五日尊氏が関東御下向の時、駿河国佐田山合戦で高名、同年十二月二十七日、由比山桜野合戦で高名、駿河国入江庄を賜わり代々知行する。文和元年同国大津城、同鴾山城・神戸城にて高名、これにより正平六年十二月二十二日、右近将監に任ぜられる、その後、正平七年閏二月二十四日、駿河遠江の大将として今川上総介範氏御下向の間彼手に属し忠節いたすべく由、尊氏より御教書を賜る、その後今川家に属し戦功をたて感状数十通伝来する」とある。この由緒を裏付ける文書は多数現存し、今岡前書掲載の写真で確認できる。

とある。実際に裏付ける文書は多く存在し、『駿河伊達家文書』もその代表格である。まず「手越河原ノ合戦」「佐田山合戦」も史実である。「手越河原の戦い」は建武2年(1335年)のものも知られるが(足利直義 対 新田義貞)、この場合は観応2年9月27日の合戦を指す。また「佐田山合戦」(薩埵山合戦)は観応2年11月25日のものを指す。



上は「伊達景宗軍忠状」(『駿河伊達家文書』、軍忠状は自分の戦功を申告する文書のこと)の1つであるが、「同十一日車返宿有御合戦」とあり観応2年9月11日に景宗は駿東郡の車返宿にて合戦、「同廿七日於手越河原合戦之時抽忠節畢」とあり9月27日に手越河原合戦、「自小河打出小阪山打越之時」とあり11月16日には小坂山にて合戦している事がわかる。

また以下の「足利尊氏軍勢催促状」によると、9月11日は車返宿以外でも合戦があったようである。こちらには景宗は参戦していない。

A文書

B文書

内容を見てみると、同日発給で内容は類似していることが分かる。この部分については松本一夫「南北朝期における書状形式の軍勢催促状に関する一考察」に詳しい。

内容から見ていずれも正平6年(1351)12月15日付で尊氏が時の信濃守護小笠原政長に宛てて出した軍勢催促状である。すなわち尊氏は、同じ合戦について政長に対し、御判御教書と書状をそれぞれ発給していたことになる。何故こうしたことを行ったのであろうか。2点を見比べてみると、史料5(註:A、上のもの)の御判御教書の方も単なる形式的な軍勢催促ではなく、歩い程度詳しい戦況を報じて急ぎの参陣を要請はしている。しかし史料6(註:B、下のもの)の方は、傍線部分にあるように、由比・蒲原で味方が一応勝利したけれども、敵方はなお悔りがたい動きを示していることが正直に記されている。総じて史料6は、5に比べてより率直に味方の危機的状況を訴え、急ぎの出兵を求めたものになっている。この1例のみからの判断ではあるが、足利尊氏の場合、形式的内容であることが多い御判御教書による軍勢催促を補う形で、実情をより具体的かつ率直に伝える書状を自らが副えることがあったものと考えられよう。

としている。まずA文書に「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、尊氏は12月13日に由比山に陣を置いていることが分かる。由比山は浜石岳のことであるとされる。そして尊氏軍は11日の「蒲原河原の戦い」にて直義軍に勝利している。小笠原政長に対し、信州での活躍を称賛した上で自陣の状況を説明し、そして軍勢催促を行う流れである。それが端的に示されている。しかしB文書は「十一日の合戦に由比・蒲原にて討勝と言えども猶大勢由比越内房この道かかり候て、既に先途の合戦にて候…」とあり、より具体的且つ感情的である。また小松茂美『足利尊氏文書の研究』Ⅲ解説篇には以下のようにある。

これ(註:B文書)は、前掲(註:A文書)と同日の日付。宛所も同じ「小笠原遠江守殿」とある。前掲は奉行人がしたためた軍勢催促状であるが、これは尊氏みずからが自筆を染めた消息(原本)である。前掲の軍勢催促状を書かせ、みずからの花押を据えた直後に、尊氏はふと気を取りなおして、筆を執ると、一気にしたためたのが、この一通である。この消息には、そのような尊氏の心中の微妙な動きを感知させるものがある。

またB文書の本文と月日の間に異筆で「尊氏御自筆」とある。






以下は伊達景宗軍忠状の1つである。伊達景宗は今川氏の被官であったため、今川範氏の証判を得ているのである(この時の駿河守護は今川範国であったが、在京していたため範氏が対応し証判を与えている)。



ここに「十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時」とあるため、尊氏は12月13日に今川範氏・伊達景宗と合流し、そして桜野に移った事がわかる


この文書から「由比越(由比山)」と「桜野」は異なる場所であり、桜野がより内房寄りに位置することが推察される。上のA文書(小笠原政長宛て)にも「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、やはり由比越(由比山)に陣を布いていたのだろう。そして同日に桜野に移動し臨戦態勢に入るのである。こう考えると、そもそも尊氏は薩埵峠には陣を布いていないのである。由比越ですら合流のために一時居たのみで、直ぐに桜野に移動しているのである。


上は「別府幸実軍忠状」であるが、「駿河国由井山上御陣処」とあり、「由比山上」とある。これはやはり「由比山の上」と理解すべきであり、由比山より北上し桜野へ移ったことを物語ると考えられる。

では直義軍はどうであろうか。「足利尊氏軍勢催促状」には以下のようにある。


「御敵等取登駿河国内房山之間」とあり、直義軍は内房山の地に居た事が分かる。また先のB文書に「猶大勢由比越内房この道へかかり候て」とあることも、この場所に軍勢がいたことの証左となるだろう。



内房に直義軍が至った背景として先ず「内房が交通の要衝であったこと」が挙げられるだろう。「駿州往還と富士宮市内房の歴史」で記しているように、中世の駿州往還にて内房は重要な中継地点であった。ならばこの時代も街道が存在したと考えてもおかしなことではない。大軍の退路にもなり得るというわけである。


  • 太平記の検討

上述のものは古文書をベースとして整理した文章である。一次史料に該当する『駿河伊達家文書』等と軍記物である『太平記』は乖離が激しく、もっといえば『太平記』の誤りが甚だ激しい。また『太平記』に「薩埵山合戦ノ事」とあるのみで現在「薩埵山の戦い/薩埵山合戦」と称されているに過ぎないのである

『太平記』の内容を抜粋し、そこから検討してみよう。

十一月晦日駿河ノ薩多山二打上リ、東北二陣ヲ張給フ(中略)其勢僅二三千余騎ニハ不過ケリ(中略)一方ニハ上杉民部大輔憲顕ヲ大手ノ大将トシテ、二十萬余騎由井・蒲原ヘ被向。一方ニハ石堂入道・子息右馬頭頼房ヲ搦手大将トシテ、十萬余騎宇都部佐ヘ廻テ押寄スル。高倉禅門ハ寄手ノ惣大将ナレバ、宗トノ勢十萬余騎ヲ順ヘテ、未伊豆府ニゾ控ラレケル

まず「十一月晦日駿河ノ薩多山二打上リ」とあり、尊氏は11月31日に薩埵山に到着したことになっている。正平6年11月26日の結城朝常宛の足利尊氏書状に「すてに今日廿六日かけかハへつき候へく候」とあり、11月26日の段階では掛川に居た。つまり尊氏は東海道を用いて東に下ってきたのである。そして軍勢催促状に「今月十三日於由比山取陣畢」とあるので、12月13日に由比山(浜石岳)に布陣したという理解が正しい。まず冒頭から『太平記』の記述は誤りであり、日時および場所が異なっていると言える。

また特に尊氏軍と直義軍の兵力差は誇張以外の何者でもない。尊氏軍は「三千余騎に過ぎざりけり」と「三千に過ぎない」とあるのに対し、直義軍は「大手の大将である上杉憲顕は20万騎(由比・蒲原)」「搦手の大将として石塔義房・石塔頼房親子が10万騎(内房)」「総大将の直義直轄軍は10万騎(伊豆国府に在陣)」とある。つまり

尊氏軍:計3,000
直義軍:計300,000(直義直轄軍除く)

としているのである。また「太平記」のその後の記述として「取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎、而モ馬疲レ粮乏シカレバ」とあり、直義軍は50万騎で尊氏軍は3,000騎であったとしている。「取巻ク寄手ハ五十万騎、防グ兵三千余騎」という記述からも分かるように、尊氏側の立場から見た記述である(太平記はすべてそうであるが)。

しかし全くの想像ではないので人物も実際参加した武将であるだろうし、地名もそうである。なのでここで「宇都部佐」と「=内房」がでてくるのは順当であろうしかし冷静に見れば、ここに「内房」と「薩埵山」の2地点が本戦直前の「布陣地」として出てくること自体がおかしいのである

赤枠:富士宮市内房

というのも、地図を見ればわかるように「内房-薩埵山間」はとんでもなく離れているためである。しかし軍忠状には「今月十三日於由比山取陣畢」とあるため、明らかに陣地は内房に隣接する側にあるのである。場所は浜石岳より更に北になるのである。

また一部で「薩埵山体制」なる言葉も存在する。「豊島氏とその時代」には以下のようにある(講演録)。

そのような初期鎌倉府の段階のなかで、観応の擾乱が起こってきます。尊氏と直義が血みどろになって、何度も何度もいろいろな戦いを繰り返し、最終的にはどこで決着がついたかというと、駿河国の薩埵山(東海道の一峠)で両軍が相まみえて、そこで尊氏方が勝利する、これが薩埵山合戦です。その薩埵山合戦の勝利によって、最終的に勝った尊氏が、その翌年に武蔵野合戦と言う形で、反対派の上杉憲顕・新田義宗連合軍を撃破して関東の政治的・軍事的支配権を確立する。この時点で、勝利するために尊氏方に結集した勢力の三本柱が、畠山国清と河越直重と宇都宮氏綱です。この三本柱を中軸に尊氏が組織した政治体制を「薩埵山体制」と名づけました。(中略)観応2年(1351)の観応の擾乱、上杉氏の没落、薩埵山体制の確立という一線でもって、きれいに変化し、越後の守護は上杉から宇都宮、上野の守護も同様、そして武蔵の守護も、上杉憲顕から仁木頼章を経てその後畠山国清へと、相模の守護が河越氏、そして伊豆の守護が畠山国清にと変更される。1351年から1362年のほぼ10年余の間その体制でいくわけです

とある。今考えると妙な言葉と言えるが、これら武将は概ね「薩埵山合戦ノ事」に見えるのである。また「鎌倉府「薩埵山体制」と宇都宮氏綱」には以下のようにある。

東国支配のため関東に留まる尊氏の子基氏のもとで、畠山国清は基氏を補佐する関東管領と武蔵・伊豆守護、河越直重は相模守護、宇都宮氏綱は越後・上野守護にそれぞれ任じられた。このような支配体制が成立する発緒となったのが薩埵山合戦であったところから、この体制は「薩埵山体制」ともよばれる

とある。引き続き『太平記』を検討する。「薩埵山合戦ノ事」には以下のようにある。

相順フ兵ニハ、仁木左京大夫頼章・舎弟越後守義長・畠山阿波守国清兄弟四人

尊氏に相したがう兵として「仁木頼章」「畠山国清」等が見え、両者は観応の擾乱後に躍進した。また

去程二将軍已薩埵山二陣ヲ取テ、宇都宮ガ馳参ルヲ待給フ由聞ヘケレバ

とあり、尊氏はすでに薩埵峠に陣を布いており、そこへ宇都宮氏綱が参じるところであるとしている。またそれを見た直義は上野国に一万余騎を差し向けたとある。またその後の記述で「十二月十五日宇都宮ヲ立テ薩埵山ヘゾ急ケル」とあり、氏綱は12月15日に急いで薩埵山に向かったとある。また「其勢千五百騎、十六日午剋二、下野国天命宿二打出タリ」とあり、16日には上野国天命宿に着いたとある。

しかし自軍の三戸七郎(高師親)が錯乱し自害してしまい門出が悪いということで「始宇都宮ニテ一味同心セシ勢許二成ケレバ、僅二七百騎ニモ不足ケリ」という状況となり、急にその千五百騎は七百騎へと激減したとある。その勢は「十九日ノ午剋二、戸禰河ヲ打渡テ、那和庄二著ニケリ」とあり、氏綱は19日には那和庄に着いた。

すると「桃井播磨守・長尾左衛門、一萬余騎ニテ迹二著テ押寄タリ」とあり、氏綱に桃井直常・長尾景忠が襲い、その後桃井・長尾連合軍は敗走したとある。またその後「宇都宮二付勢三萬余騎二成リニケリ」とあり、この動向は直義軍に届いていたといい、「薩埵山ノ寄手ノ方ヘ聞ヘケレバ、諸軍勢皆一同二、「アハレ後攻ノ近付ヌ前二薩埵山ヲ被責落候ベシ」ト云」とある。

足利直義(歌川国芳筆)

このように直義軍の諸軍は宇都宮勢が後詰めの勢力となる前に攻めるべきであると主張したが、石塔義房・上杉憲顕は聞き入れなかったとある。但し、この一連の記述は特に疑わしい。直義軍の石塔親子に関しては序盤部分に

一方ニハ石堂入道・子息右馬頭頼房ヲ搦手ノ大将トシテ、十萬余騎宇都部佐へ廻テ押寄スル

とあり、内房(宇都部佐)に布陣したとある。この石塔義房は伊豆国守護であったが、観応の擾乱後はその地位を失った。上記にある「直義軍の諸軍が、宇都宮勢が後詰めの勢力となる前に攻めるべきであると主張した」という流れの後に太平記は

石堂・上杉、曾不許容ケレバ、余リニ身ヲ揉デ、児玉党三千余騎、極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル

と記している。「極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル」とあり、痺れを切らした直義軍のうち児玉党三千余騎が薩埵山に攻めかかったことになっている。ここは重要な箇所であろう。つまり太平記は尊氏は薩埵山に陣を布いており、そこへ直義軍が攻めかかる構図をあくまでも崩さないのである。しかし文書等から尊氏はこのとき薩埵山に本陣は布いていないことが判明しているので、この記述は明確に誤りである。しかも内房から薩埵山に攻めかかる構図であり、その距離感は不可解としか言いようがない。しかし太平記でも「桜野」が出てくるのは極めて重要であって、伊達景宗軍忠状に「十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時」とあることから

桜野→尊氏軍の本陣
内房→直義軍の本陣

という理解が成り立つのである。駿河国の地名としてはここまで「薩埵山」「桜野」「内房」等しか出てきておらず、その中で整合性を求めるならばこの理解以外は難しい。また太平記はこう続く。

児玉党十七人一所ニシテ被討ケリ。「此陣ノ合戦ハ加様也トモ、五十萬騎二余リタル陣々ノ寄手共、同時二皆責上ラバ、薩埵山ヲバ一時二責落スベカリシヲ

つまり諸軍のいうことを聞き石塔義房・上杉憲顕も同時に攻めていたら薩埵山は落とせていたかもしれないが、それをしなかったので児玉党は討ち取られてしまったとしているのである。しかし正平7年正月の伊達景宗軍忠状には

十二月十三日、将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時御共仕、同廿七日御敵石塔入道殿・同厩幷子玉党以下凶徒等寄来之処

とある。実際は石塔父子と児玉党は12月27日に尊氏軍を襲っていることが分かるのである。この記述からは石塔父子と児玉党はやはり行動を共にしていることが分かるのであり、太平記が記すようなことは無かった。

その後太平記は「廿七日、後攻ノ勢三萬余騎、足柄山ノ敵ヲ追散シテ」とあり、宇都宮勢は足柄山まで到達したとする。また以下のように続く。

焚續ケタル篝火ノ数、震ク見ヘケル間、大手搦手五十万騎ノ寄手共、暫モ不忍十方へ落テ行。仁木越後守義長勝二乗テ、三百余騎ニテ逃ル勢ヲ追立テ、伊豆府へ押寄ケル間、高倉禅門一支モ不支シテ、北条ヘゾ落行給ヒケル

直義軍は篝火の数の多さから恐れをなし、50万騎は十方へ落ち延びていったとある。また仁木義長は直義の居る伊豆国府に押し寄せ、直義はそれを支えられないと見て北条へと落ち延びていったとある。上杉・長尾左衛門に関しては、信濃国に落ち延びたとある。その後直義の元に和睦の提案があったため、それを受け入れ鎌倉へと帰ったという流れで「薩埵山合戦ノ事」は締めている。

そもそも何故直義は直接尊氏と対峙しなかったのであろうか。亀田俊和『観応の擾乱』には以下のようにある。

また薩埵山包囲戦の最中、直義は伊豆国府から一歩も動かなかった。(中略)直義の消極性と言えば、軍勢催促状にもそれが現れている。擾乱第一幕においては、直義は武士に動員を命じる際、師直・師泰の誅伐を大義名分に掲げていた。しかし第二幕では、その師直・師泰はもういない。この時期においては、直義は尊氏軍を単に「嗷訴の輩」などと称するのみであった。最後まで尊氏を名指ししなかったのである

とある。また同氏は高師直との抗争が勃発して以降精神的・肉体的重圧が相当強くのしかかっており、望まない戦争と実子の陣中での死等が理由で健康状態を悪化させていたのではないかと指摘している。直義は正平7年(1352)2月26日に死亡している。この日は高師直が死亡した日と同じである。毒殺説がよく指摘されている直義であるが、単純に健康状態の悪化が原因ではないかと指摘している。

結果論ではあるが、この戦の後まもなくして死去しているのだから、大契機であったことは間違いない。それにも関わらず直義は駆けつけていないのである。直義は憔悴していたのだろうか。本気で討ち取る気があったのか、という疑問さえ出てくる。

  • まとめ

まず「文書」および「太平記」との親和性を考慮すると、以下のようになる。




文書内容
伊達景宗軍忠状十二月十三日将軍家当御陣御着之間、則日又被移御陳於桜野之時
足利尊氏軍勢催促状(小笠原政長宛)大勢由比越内房この道かかり候て(12月15日発給)
御敵等取登駿河国内房山之間(12月17日発給)
『太平記』 宇都部佐ヘ廻テ押寄スル
極メテ嶮シキ桜野ヨリ、薩埵山ヘゾ寄タリケル

これらの史料より本戦時に「薩埵山」が本陣の所在地である可能性は否定でき、文書および「太平記」双方で登場する「桜野」「内房」はそれぞれ尊氏軍と直義軍の陣が位置していた地と考えられる。石塔父子は他街道を経たのち駿州往還を用いて内房に着陣し、足利尊氏は東海道を用いて由比に至りその後北上して桜野に着陣した。そして両者交戦したのである。結果尊氏軍が勝利し、そして直義軍は敗走した。これがこの合戦の過程と結果であると考えられる。石塔父子の敗走ルートは東海道とはとても思えないので、やはり駿州往還を経てのものであっただろう。

従来の説は太平記にあまりにも寄りすぎているように思う。「薩埵山体制」なる言葉も、それを色濃く反映していると言えるだろう。「桜野・内房合戦」と言ったほうが正確であると考えている。

  • 参考文献
  1. 亀田俊和,『観応の擾乱』,中央公論新社,2017
  2. 小和田哲男,「南北朝の内乱」『武将たちと駿河・遠江』,2001
  3. 日本古典文学大系36『太平記三』,岩波書店
  4. 大塚勲,「南北朝・室町時代」『駿河国中の中世史』,2013
  5. 峰岸純夫,「南北朝内乱と東国武士-「薩埵山体制」の成立と崩壊を中心に-」『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』,新人物往来社,1998
  6. 江田郁夫,『室町幕府東国支配の研究』,高志書院,2008
  7. 鈴木江津子,「駿河伊達氏の末裔「津山松平家臣伊達家」文書の考察」『歴史と民俗29』平凡社,2013
  8. 松本一夫,「南北朝期における書状形式の軍勢催促状に関する一考察」『中世史研究』第39,2014
  9. 小松茂美『足利尊氏文書の研究』Ⅲ解説篇,1997
  10. 呉座勇一,「初期室町幕府には、確固たる軍事制度があったか?」『初期室町幕府研究の最前線』,2018
  11. 『静岡県史』資料編6 中世二
  12. 静岡県地域史研究会,『静岡県地域史研究会報第6号』,1982年

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