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2025年9月7日日曜日

『文武二道万石通』に見る江戸時代の富士の人穴のイメージ

以下に3年前のXの投稿を引用したい。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関するものである。


この「今回」とは、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第25回(6月26日)「 天が望んだ男」放送回のことである。『文武二道万石通』とは、朋誠堂喜三二(平沢常富)作の滑稽本であり、知名度が高い作品である。右の采配を振るう人物が畠山重忠であり、左の洞穴は「人穴」(静岡県富士宮市)である。人穴は極めて知名度が高く、『文武二道万石通』だけでなく様々な作品に登場する。

さて重忠であるが、「梅鉢」の紋の直垂を着用していることが分かる。しかし重忠の紋は本来梅鉢ではない。実はこれは、本当は別の人物を示しているのである。つまり重忠という体にしてはいるが、別の人物であると喜三二は暗に伝えているのである。その人物とは、時の老中「松平定信」である。


朋誠堂 喜三二

この場面は人穴に鎌倉の御家人が入り、ふるいに掛けられる場面である。結果「文」「武」「ぬらくら」の3つに選別される。「文雅洞」から出てきた武士が「文」、「妖怪窟」から出てきた武士が「武」、「長生不老門」から出てきた武士は「ぬらくら」である。

勿論喜三二の意図は別にあり、実際は鎌倉の御家人ではない。「長生不老門」から出てきた武士らは田沼意次ないし意次派の武士を暗に示す形となっている。つまり『文武二道万石通』は、定信の「寛政の改革」を風刺した作品なのである。具体的なストーリーについては『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)を御参照頂きたい。



大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第36回(9月18日)「武士の鑑」放送回で重忠は死する。ここで述べたように、当時の人穴のイメージを考えることは重要であると考える。

この「武士の鑑」というタイトルであるが、重忠は歴史の中でそのような像で実際に語られている。『文武二道万石通』で重忠が題材となったのは、やはり近世において「武士の鑑」というイメージが流布されており、それが「ぬらくら武士」を見極める役として適当と喜三二が考えためではないだろうか。重忠がなぜ武士の鑑とされたのかについては本稿では触れないが、理由としてはまさにここにある。

そして本稿では"何故喜三二は人穴を題材としたのか"という点を考えていきたいが、背景としてまず『吾妻鏡』の存在を挙げなければならない。富士の洞穴「人穴」を探索するという内容の初見が『吾妻鏡』なのである。(五来1991;p.79)は"地獄破りの初見"であるとしている。ではその箇所を以下に引用する。

三日 己亥 晴 将軍家、渡御于駿河国富士狩倉。彼山麓又有大谷〈号之人穴〉。為令究見其所、被入仁田四郎忠常主従六人。忠常賜御剱〈重宝〉入人穴。今日不帰出、幕下畢。

建仁3年(1203)6月3日に源頼家は駿河国の富士の狩倉に出かけた(=簡易版「富士の巻狩」のようなもの)。その山麓には大谷があり、「人穴」と呼ばれていた。


源頼家


頼家は人穴を調べるため仁田忠常と主従6人を向かわせた。忠常は頼家より剣を賜り人穴に向かったが、今日は帰ってこなかった。翌日については、以下のように記される。


四日 庚子 陰 巳尅 新田四郎忠常、出人穴帰参。往還経一日一夜也。此洞狭兮不能廻踵。不意進行、又暗兮令痛心神。主従各取松明。路次始中終、水流浸足、蝙蝠遮飛于顔不知幾千萬。其先途大河也。逆浪漲流、失拠于欲渡、只迷惑之外無他。爰当火光、河向見奇特之間、郎従四人忽死亡。而忠常、依彼霊之訓投入恩賜御剱於件河、全命帰參云云。古老云、是浅間大菩薩御在所、往昔以降敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

意訳:4日になると忠常が人穴より帰ってきた。往復に一夜かかったという。忠常は人穴について述べる。「穴は狭く戻ることも出来なかったため前に進むことにしました。また暗く、精神的にも辛く、松明を持って進みました。水が流れ足を浸し、蝙蝠が飛んできて顔に当たり、それは幾千万とも知れず。その先に大河があり、激しく流れており、渡ることができませんでした。困り果てていたところ、火光が当たり大河の先に奇妙なものが見えた途端、郎党4人が突然死亡しました。忠常はその霊に従うことにし、賜った剣を投げ入れました。こうして命を全うして帰ってきました」と。古老が言うところによると、ここは浅間大菩薩の御在所であり、昔より誰もこの場所をみることができなかったという。今後はまことに恐ろしいことです。(意訳終)

(西野1971;p.40)にあるように、人穴を浅間大菩薩の御在所とする信仰が当時すでに認められるという事実は重要であろう。(会田2008)は以下のように説明する。

「奇特」とはつまり富士浅間に他ならず、3日前に人穴に入った和田平太胤長(註:『吾妻鏡によると』頼家は富士の狩倉の前に「伊豆奥狩倉」に出かけ当地にあった「大洞」を和田胤長に調査させている。人穴とあるわけではない)の前には「大蛇」として化現し、新田に対しては「大河」としてその本体を現したのである。この人穴譚がもとになって、後世『富士の人穴草子』という室町物語が成立する。

伊豆奥狩倉の「大洞」に対する「大蛇」が、富士狩倉の「人穴」に対する「浅間大菩薩」であることは間違いないと思われる。この"穴(洞)に神が示現する"という特異な現象が『吾妻鏡』には立て続けに記されているのである。

しかし古老が言うように"見てはいけない"所を見てしまったという意味で、新田忠常も、それを指示した源頼家もタブーを犯してしまったのである。それ故に「今次第尤可恐乎」と締めくくられているのである。そして実際に頼家は翌年に亡くなっているのである。

大前提として、大元の題材はここにあるということは把握しておきたい。


『文武二道万石通』


さて『文武二道万石通』という作品自体に目を通すと、物語の舞台を鎌倉時代で統一できるところに、当時の文化人の知見の深さが現れているといえる。またぬらくら武士選別の舞台を「人穴」に設定するという斬新さも面白い。やはり作家として抜きん出たものがあると思う。

しかしこのアイディアは喜三二固有のものであったのだろうか。(小山2005;p.43)によると『文武二道万石通』と同年の山東京伝作『仁田四郎 富士之人穴見物』においても、表題にあるように人穴を題材としているし、また今度は仁田四郎が松平定信であるという。小山氏は仁田四郎=松平定信説を支持しているが、論稿内ではこれに意を唱える論の存在も示されているということを付け加えておく。


山東京伝

しかしここで考えていきたいのは、松平定信に対する揶揄のその舞台として、異なる作品であるのにも関わらず人穴が登場することである。であるから、ここには何か特別な背景があると考えられるのである。この点に関してはもう少し調べを進めてみないと分からない。もっとも小山氏もその点を疑問に思ったようである。

そして『文武二道万石通』と『仁田四郎 富士之人穴見物』両作品は、ある御伽草子の影響を受けているとも考えられている。それこそが、引用文で見えた『富士の人穴草子』(以下、『人穴草子』)である。『人穴草子』は小山氏の一連の報告に詳しいが、あまり読めていないので詳細は別で機会を設けたいと思う。

『言継卿記』大永7年(1527)正月廿六日条に「ふしの人あなの物語」とあり、少なくとも16世紀前半には流布されていたとされる。これは『吾妻鏡』の記述を下敷きにした作品である。多くの写本が残るが、物語の構成は以下のようなものである。

源頼家に人穴探検を命じられた和田胤長が人穴の中を進むと、そこには富士浅間大菩薩がおり侵入を拒まれた。結果胤長は引き返したが頼家は諦めることができず、今度は仁田忠常を人穴探検に向かわせた。忠常は主君から拝領した剣を富士浅間大菩薩に献じた。忠常は人穴を進むことを許され、中では六道の一部と極楽浄土を目にする。しかし中の様子の口外は禁じられ、もし口外した場合は命を奪うと告げられる。戻った忠常は頼家に内情を伝えるよう強く迫られ、やむなく口外した忠常はただちに命を奪われてしまうのであった。

概ねこの流れを有するとされるが、人穴から戻った仁田忠常の扱いについては写本によって差異がある。また六道の場面では罪人が苛責を受ける場面があるが、その人物の具体的な国名が記されており、これらの事実から元々は語り物であったという推論もある。

「忠常は人穴を進むことを許され」と記したが、この点を(米井1983;p.37)は「主人公は、人穴の奥の世界を統轄する神に追い返されるのではなく、逆にその神の案内で人穴の奥にひそむ地獄極楽の世界を巡歴するのである。この逃鼠譚から冥界巡歴譚への転位を支えているものが『富士の人穴草子』の独自の手法といえるのだが…」とする。

『吾妻鏡』と『人穴草子』の大きな相違点は、(米井1983;p.38)にあるように『吾妻鏡』においては剣を投げ入れて逃げ帰るのに対し、『人穴草子』では奥へ案内されている点にある。

人穴を取り上げた別の史料を見ていこう。以下は万治3年(1660)『驢鞍橋』(鈴木正三の弟子「恵中」の著)の現代語訳である。

小田原の沖に大蛇が出るということがあった。私はそれを聞く小舟に乗って行き、造作なく角を引きもいでやろうと思ったものである。又、富士の人穴などもわけなく通れると思っていた。若い時からこのように強く用いて来たけれども、何の用にも立たなかった(加藤2015;p.36)。

これは富士の人穴が恐ろしい場所であると一般に認知されていた故の言い回しである。そして「わけなく通れると思っていた」という表現からするに、やはり人穴の奥に得体の知れぬものが潜んでいるというイメージが強く存在していたのだろう。

また人穴は江ノ島の岩屋洞窟に繋がっていると流布されていた。『照高院興意様関東御下向略記』(誠仁親王の第五子である興意法親王の動向を記したもの)の慶長14年(1609)4月23日条には以下のようにある。

卯の廿三日  天晴 御門主、御看経遊ばさる。(中略)次に江島に御参詣あるべきなれば。本海道より脇道へかかる。(中略)まず一段高き所に弁才天御立ちある。(中略)山の上に昔頼家の時、仁田四郎、富士の人穴をくぐりて、この江島へ出でしあなあり。それより岩のがけ道をはうはうくだれば、昆深在より生え出でたる山あり。

既に近世初期には認められるため、中世には既に流布されていたのではないだろうか。この伝承の初見は調べていないが、検討の余地がある。ちなみに『吾妻鏡』には江島に出たという記述はない。

また人穴は能作品にもなっている(芳賀・佐佐木1915;p.201-203)。謡本もそれなりに流布されていたように思われ、(伊海・今泉2007)だけで見ても「伊達本番外謡(19)」「新謡曲百番(52)」「吉川本番外曲(56)」などに確認される。また延宝4年(1676)の芭蕉一座の連句作品には「人穴ふかきはや桶の底」とある(阿部1965;p.173)。

このように人穴は一通り様々な表現の中に組み込まれたと言ってよいだろう。ただ能〈人穴〉に関して言えば、歴史の中でそれほど演能されていたようには思えない。仮に『人穴草子』が語り物であったとした場合、もう少し能〈人穴〉の演能記録が伴っても良いように思えるが、どうだろうか。

また人穴探索を題材とした作品群を単純に"『人穴草子』を典拠として/影響を受け"としていいものだろうかという疑問もある。例えば『富士野往来』も『曽我物語』と一致する部分は限られ、独立した部分の方が圧倒的に多い。

このように人穴探索を題材とする作品の中に、『人穴草子』に全く影響を受けていないものも存在したのではないかという疑念はある。しかし人穴の知名度の高さの背景に『人穴草子』は関係するだろうし、『驢鞍橋』にあるように"穴の奥に試練があり"、"試される場"であったというイメージが広く流布されていたものと考えられる。そのイメージが、朋誠堂喜三二や山東京伝の筆を動かしたと言える。

  • まとめ

富士宮市の歴史が江戸文化の中に深く入り込んでいたことは疑いの余地がない。絵画化の題材にもなったため、富士宮市を描いた浮世絵も枚挙に暇がない。芸能も「曽我物」が良い例である。

これらが「富士の巻狩り」「富士の狩倉」から由来することは間違いないが、流布される過程をもう少し細かく考えていく必要性はあると思う。そして"一通り様々な表現の中に組み込まれた"それら一群を、詳細に分析していくことが求められるだろう。

  • 参考文献
  1. 芳賀矢一・佐佐木信綱(1915)『校註 謡曲叢書 第3巻』、博文堂
  2. 阿部正美(1965)『芭蕉連句抄』、明治書院
  3. 西野登志子(1971)「「富士の人穴草子」の形成」『大谷女子大国文 1』、38-48
  4. 米井力也(1983)「大蛇の変身-「富士の人穴草子」と「小夜姫の草子」の接点-」『国語国文』第52巻第4号(584号)、35-39頁
  5. 五来重(1991)『日本人の地獄と極楽』、人文書院
  6. 棚橋ら(1999)『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79)、小学館
  7. 小山一成(2005)「彙報 平成17年度特別講演要旨 黄表紙 『仁田四郎 富士之人穴見物』をめぐって」『立正大学人文科学研究所年報 43』、立正大学人文科学研究所、42-44
  8. 伊海 孝充・今泉 隆裕(2007)「田中允文庫蔵書目録(上)(付解題)」『能楽研究所紀要 32』、法政大学能楽研究所、49-106
  9. 會田実(2008)「曽我物語にみる源頼朝の王権確立をめぐる象徴表現について」『公家と武家〈4〉官僚制と封建制の比較文明史的考察』,思文閣出版
  10. 加藤みち子(2015)『鈴木正三著作集Ⅱ』、中央公論新社

2012年10月17日水曜日

吉田御師の北口本宮冨士浅間神社掌握の過程

「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」にありますように、現在の北口本宮冨士浅間神社については、戦国期において初めて浅間社が建立されたと考えられている。一方江戸時代、とくに江戸中期以降は吉田御師との関係が綿密である。御師によって掌握されていると言って良い。戦国前期においては浅間社が存在していなかったばかりか、吉田御師と神社との関係も薄いものであったというのに、江戸時代中期にはこのような関係が生まれている。つまり、この短期間で非常に大きな変移があったと言える。

といっても、同じく郡内の富士御室浅間神社はまた性格が異なる。こちらは古来より浅間社として成立してきた神社であり、御師とも強く結びつきがあった。御師から神職が選ばれていたわけであり、表裏一体とも言える。そういう意味で、北口本宮冨士浅間神社とは性格が全く異なる。北口も戦国時代、御師が神務に関わっていた部分は認められるが、それは富士御室浅間神社と比較すればその要素は圧倒的に少ない。

北口本宮冨士浅間神社の変化を考えると、当神社が御師により支配されていったと考える方がすんなり理解がゆく。

元亀3年の「宜吉田屋敷割帳」に「大鳥居祢宜」や「下祢宜」と記されている。「吉田」と「大鳥居」ということから北口の祢宜(神職)の屋敷と解釈されるが、「浅間祢宜」と評されていない。これについて「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」ではこのように述べている。

なぜ浅間祢宜と言わなかったのであろう。これについては、次のように推定される。永禄四年に、武田信玄が社殿を造営する以前には恐らく、ここには社殿といえるほどの建造物はなく、大鳥居内は富士山遥拝の神域とされ、その中に小祠くらいはあったかもしれないが、注連張を設け、そこで富士に向かって祈願、祈祷が行われていたのではないであろうか

これは「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」で記した笹本正治氏の解釈とも繋がる。しかも戦国期の文書では「諏訪祢宜」と見えるのである。つまり、この時代(戦国時代)の北口社の中心人物は諏訪祢宜であったのである。というより、浅間祢宜が存在していなかったわけである。

資料1
明暦2年(1656年)に「御師職分についての訴状」がある。これは浅間社から御師に対して、境内の掃除や灯明番等において怠惰のなきようにと通達したものである。そしてその中で、宮の掃除や番は祢宜の職分であって、御師の職分ではない旨を訴えている。これは、浅間社の神職が御師に対して抵抗を示していたことを表している。時代が下るに伴い御師の介入が大きくなり、それに抵抗感を感じているわけである。御師による北口社支配の初期段階と言ってよいだろう。

宝永年間に北口社の祢宜「小佐野若挟」は、宮の支配権は神職に有りとして、御師の自由な祈祷を妨げようとした。それらに対する御師の訴状(宝永5年、1708年)に「祢宜の神社支配についての訴状」がある(資料1)。この中で、(御師の主観による)神職と御師の職分について記している。そしてその中で「神社の最も重要な祈願・祈祷は御師が努め、日常的な管理は祢宜が受け持つべき」とある。つまり御師たちは、神職より御師が祈願・祈祷を行うにふさわしいとしているのである。本来祈願・祈祷というのは神職が行うものであるので、御師の主張はかなり域を出たものと言えるだろう。

つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。

これらの流れを文献1が取り上げ帰結を記しているが、その解釈を要約すると「御師の解決法は、本殿以外の社殿の一部を御師の祈祷所として利用することを望む内容であるから、本殿の利用までは望んでいない以上御師が後退した形である」としている。しかしこれは神職の優位とは言い難い。そもそも北口は、御師が掌握していたものでは全くなかった。その中でここまで掌握されかけているのである。つまり、着実に御師の力が増しているのである。ただし文献の中で「神社に参拝する道者は、すべて御師を経由するわけであるから、御師との強調関係を簡単に失うことはできない」とある。たしかに道者は御師を経由して参拝しており、神社としては道者という最大の参拝者を失うわけにはいかない。その後ろにいる御師とは、協調関係は失うことはできなかったのである。

ここで御師はさらに神社との関係を深めるため、大きな動きに移るようになる。それは、「御師が神職になる」という選択である。これはどちらかというと、富士御室浅間神社のシステムである。しかしそこで「伝統的な体制に留まろうと考える人」と「御師」という2つに分かれることとなる。そこで争論が生じるようになる。

「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。

神位、神幣新規申請についての書状
この内容によると、御師たちは「浅間大菩薩」ではなく「浅間大神」という神号を使用したことなどを不快に思っているようである。しかし本当のところは、相談せずにこのようなことを実行したことに納得がいかなかったという話のようである。また御師たちは吉田家をよく思っていなかったので、吉田家を介して行なったことに不満があったのである。

そして訴訟された側はこのような主張をしている。

答書
つまり「橘屋中務」「鶴屋新助」といった御師は、「神位、神幣を受けて格式を上げることに専念すべし」という考え方であったようである。この争論は内済によって決められ、「浅間大菩薩とするも、浅間大神とするも、互いに妨げるべきではない」という結論となった。こういう過程を経て、御師が神職となるケースも増えていったようである。御師はその性格上浅間社を推したため、諏訪社は追いやられていき、浅間神社が優位となっていったのだろう。

そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。

論考の中で

御師は、お山の守護者として、神礼の授与社として尊敬を受けたが、富士講とは一線を画する神道家としての性格を持つ姿になったようである

とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。

「このようにみてくると、地元の者の習慣の中には、天地の堺を超えて五合目に登る形態はみられない。頂上まで行くのは夏山を踏む富士講道者のみである」「御師の行動範囲は、道者・構中を出迎える下吉田愛染と浅間神社の裏門との間に限られる」

とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。

  • 参考文献
  1. 星野芳三,「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」,『甲斐路』77号,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年

2012年3月22日木曜日

富士五湖とは

「富士五湖」とは、山梨県に位置する「本栖湖・精進湖・西湖・河口湖・山中湖」の総称である。富士五湖が富士山の噴火によって形成されてきたことは有名である。

本栖湖

  • 延暦の大噴火
現在の山中湖を形成したのは、延暦の大噴火(800年)であると言われている。しかし山中湖は成立が単純ではないことも指摘され、時代が更に遡る可能性も研究により指摘されている。延暦の大噴火で鷹丸尾溶岩が流入したことによる堰止からなると、基本的には言われている。

  • 貞観の大噴火
いわゆる現在の富士五湖の地形は、富士山の貞観の大噴火(864年)により形成されている。富士山の噴火は過去何度もありますが、その中でも「貞観大噴火・延暦大噴火・宝永大噴火」の3つは規模が大きかったと言われています。そして「貞観大噴火」は最大規模ではないかとも言われています。

貞観の大噴火により長尾山火口などから噴出した青木ケ原溶岩は富士山麓を覆い(これで青木ケ原樹海辺り)、本栖湖に流入していった。さらに続いて「セの海」に流入していった。セの海の大半は溶岩で埋まり、その末端に分断されて形成された部分が現在の「西湖」と「本栖湖」である。


  • 古記録

噴火の解説だけでなく、富士山の歴史の解説においてもほぼ確実に取り上げられるのが『日本三代実録』の記録である。

  • 「駿河国言、富士郡正三位浅間大神大山火…」(駿河国側)
  • 「甲斐国言、駿河国富士大山、忽有暴火…埋八代郡本栖并剗両水海、水熱如湯、魚鼈皆死、百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記、両海以東、亦有水海、名曰河口海、火焔赴向河口海、本栖剗等海、未焼埋之前、地大震動…」(甲斐国側)

このようにあり、噴火の様子とその被害を伝えている。特に甲斐国で被害が甚大であったようである。その中に五湖の名称が見える。

本栖并剗両水海:本栖湖と剗の海の両方
名曰河口海:河口湖という湖

このように、本栖湖、河口湖、剗の海などが古記録で確認できる。この噴火により、甲斐国側にも浅間神社が建立されたのは有名な話である。その神社については諸説あるが、現在は比較的「河口浅間神社」ということで収まってきている。私も「河口浅間神社説」を支持している。

  • 「富士五湖」という名称
富士山研究の金字塔である「富士の研究」の『富士の歴史』(本)に「富士五湖なる言葉は記録には見当たらない」という旨が記されてあります。このように、古来の文書などでも一切確認できていません。それはそうです。なぜなら、「富士五湖」なる名称は昭和に入って初めて誕生した名称だからです。ですから、比較的最近できた名称なのです。最近は古来より呼称されてきたかのように解説するものも多く、注意したいところです。「富士五湖」誕生の経緯は以下のような形である。

昭和2年5月、東京日日新聞と大阪毎日新聞が共催で「日本新八景」選定の投票を企画した。鉄道省は、これにて選ばれた景勝を宣伝する約束であった(つまり国を上げての宣伝が保証されていた)。山梨県の湖は「山中湖」や「河口湖」などが中では有名であった。しかしバラバラであると選ばれない可能性がある。そこで、富士急行の前身である富士山麓鉄道の社長である堀内良平は「富士五湖」という形でとりつけることとした。これ(「富士五湖」という名称で投票を可とすること)を東京日日新聞に行って了解を得、堀内良平はあらゆる知り合いや関係者などに投票を呼びかけ、最終的に選ばれることとなった。

「富士五湖」という名称は誰でも思いつくであろうが、「投票における名称と変える」という工夫は、なかなか考えつかないものである。

富士急行
驚くべきは「比較的最近できた名称が、天気予報の地名にもなっている」ということです。これはものすごいことです。これはおそらく、山梨県の風土などが関係しているでしょう。知名度向上のために弛まぬ努力があったことは、いうまでもありません。

  • 富士五湖は富士山の湧水ではない
これを勘違いしている人がいますが、富士五湖は噴火により形成された堰止湖に雨水などがたまって形成された湖であって、湧水からなるわけではありません。しかし、一部で湧水が湧出されていると言われています。駿河湾も富士山の湧水が湧出しているといわれていますが、だからといって「駿河湾は富士山の湧水からなる」とは言えませんからね。基本的には雨水で構成されています。

  • 富士八海

現在でいうところの「富士五湖」の「五湖」は、富士講の巡礼地でもありました。こんな記録があります。

右ハ不二山の御手洗なりとて人々巡行するを八海巡りといふ しかれども皆山野の小路をわけ行く事なれハ案内を頼むべし

このように当時は「八海巡り」とよばれ、案内を付け険しい道を歩み行くものであったようです。それらは厳密にいうと「内八海」と「外八海」があります。内八海が富士山麓地域の巡礼地にあたります。

しかし「五湖」だけだと「八海(八湖)」にはなりませんよね。もちろんあと3つの巡礼地はありました。それは時代によって多少変移しています。長らくは、五湖と「明見湖」「四尾連湖」「須戸湖」の三湖を合わせて「八湖」としていました。しかし時代が下ると、「須戸湖」の代わりに「泉水湖」を含めて「八湖」としていたようです。

しかしもちろん当時は「五湖」などという概念はなかったため、例えば「河口湖」と「明見湖」も同じ「巡礼地」としての見方であったと思います。当時は五湖という概念がなく、「八湖」という概念であったということを認識することも、重要でしょう。


  • 「海」という表記

『日本三代実録』にて「河口海」という表記がみられ、また「本栖并剗両水海」という表記から本栖湖も「本栖海」としていることがわかります。「海」という表記は時代が下っても同様であり、河口地区で記されたと推定される『妙法寺記』には河口湖を指して「雨シケク当海イヨイヨ満ル」(永正9年)とあります。また天文23年条には同じく河口湖を指して「大原海」とあります(矢田俊文「戦国期富士北麓の法と参詣」を参考)。

  • 参考文献
  1. 『富士山麓の歩み 富士山麓史』(富士急行創立50周年記念出版),571頁
  2. 『富士の歴史』(再販:名著出版,1973),433頁

2011年8月31日水曜日

忍野八海と八湖信仰

忍野八海は山梨県の忍野村にある富士山の湧水群です。出口池、底抜池、銚子池、濁池、湧池、お釜池、鏡池、菖蒲池の総称で、天然記念物に指定されています。文化との接点もあり、富士山の文化の歴史を考える上で重要です。

  • 形成
これら八海、いや忍野村一帯というのはかつては山中湖と続いていた湖でした。それが富士山の噴火による溶岩流により分断され、干上がって平地になったことにより形成されたと考えられています。桂川という川の水源だそうです。

  • 八湖信仰
忍野八海は「富士御手洗元八湖」といわれ、富士信仰の霊場でもありました。角行の修行になぞらえたもので、角行を拝めることから形成された習慣であると推測されます。それぞれの池を巡礼する八湖信仰(江戸時代以降)というものが存在していました。内八海・外八海とはまた違うものであり(これになぞらえた)、これらに比べ範囲が狭まれていることから個別のものとして存在したのではないでしょうか。江戸末期には消失したものでしたが、再興に動いた友右衛門なる人物により浅間神社などが修復されたりしたようです。


  • 富士八海とは
混同しやすいのですが、いわゆる八湖信仰(忍野)と富士八海(内八海・外八海)は異なります。八海巡りは富士講信者による巡回のようなもので、時代によりその場所が多少異なります。当初は現在の沼津市と富士市との間に存在したという「須戸(すと)海」を含めて富士八海と言っていました(厳密にいうと富士八海のうち内八海)。しかし後に須戸海の替わりに「泉津湖」を加えて富士八海というようになりました。『甲斐国志』には「富士八海-山中海、明見海、川ロ海、西海、精進海、本栖海、志比礼海、須戸海」とあり、 須戸海が含まれています。このことから、比較的後に「泉津湖」が加えられたのだと考えられます。

このように、富士八海というものは特に甲斐国に準じていたわけではありません。また富士講信者が人穴などを訪れていたことを考えても、富士講の一連の現象は甲斐国固有の現象とは言えなさそうです。

  • 参考文献
  1. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№8』
  2. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№19』
  3. 『富士吉田市歴史民俗博物館だより№20』

2011年6月2日木曜日

富士講

今回は江戸時代に繁栄した富士講についてです。

  • 富士講とは何なのか
富士講を一言で表すことは、実は非常に難しい。定義が無いと言えるし、何を富士講とするかということ自体が難しい。一般に「富士講の開祖は角行である」と言われるが、角行自身は富士講を組織しているわけではない。よって富士講の起源が角行にあるわけではない。このことから、近年は「角行によって創設された」と説明されることはあまりなくなってきている。

また「富士講により富士塚が築かれた」とは言えないということは、多くで指摘されてきている。19世紀の記録である『新編常陸国誌』には「富士塚 中世以後関東の風俗にて、塚を築き富士権現を勧請するもの所々にあり」とあるという。また蜷川家の年代記(天正年間に成立)に「文明13年辛丑、諸郷に富士塚を置」とあるという。これが事実だとすると、文明13年(1481年)には富士塚を築くという文化が成立していたということになる。また記録自体が天正期なので、少なくとも中世には富士塚は存在していたことになる。そのときに果たして「講」という形態が成立していただろうか。

  • 角行
富士講の起源に関わる人物が角行を崇めていたとすると、「角行に対する崇拝」と「富士講の出現」がつながることとなり、ある意味「由来」として角行の名がでてくるということなのである。しかし「角行が富士講を作ったわけではない」というのは変わらないのである。

人穴で修行する角行
  • 富士講考
このようによく分からない富士講であるが、富士講を知る上で懐疑的にならなければならないポイントはいくつかある。その例を示すために坂本徳一氏の「富士山ご縁年(庚申)の推移」という論考を引用する。この論考の主は『山梨日日新聞』連載の「富士山信仰」の筆者である。私はこの連載の記事をいくつか拝見したが、かなり多くで懐疑的な内容であると感じた。昭和という時代背景を考慮したとしても、これはあまりお勧めできたものではない。以下、「富士山ご縁年(庚申)の推移」より引用。

富士山信仰のこ縁年として六十一年目にめぐってくる庚申の年に登拝すれば在来、来世も必ず善い事にめぐり合えるという言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って、富士山信仰が民間に流布してからである。

この文は、懐疑的にならなければならない典型例のように思える。この短い文章の中でも、以下のことは言える。

  • そもそも富士講は江戸時代に隆盛したものなので、「言い伝えが富士講信徒にひろがったのは江戸期に入って」という表現はおかしい
  • 庚申の年の伝承は江戸時代以前から存在しているので、「江戸期に入って」というのはおかしい
  • 富士山信仰は昔から流布されていたので、「富士山信仰が民間に流布してからである」というのはおかしい

これは富士講関連の文献を読んでいて、いつも思うことである。なぜか「江戸時代から富士山信仰が民衆に広まった」としてしまうのである。もっと酷いと「富士講から富士山信仰が広まった」としてしまっている。例えば最後であるが、たしかに民間に最も流布されたのは江戸期であるが、まるで江戸期より前は流布されていないかのような書き方である(実際そう考えている)。この考え方は、私は根本的におかしいと思っている。富士山信仰はそんな歴史の浅いものではない。なので資料は選ばなければならない。その慎重さが富士講を追求する上では特に求められるように思える。

そもそも、江戸期以前に民衆による富士山信仰は明確に認められるというのに、それらをなぜ省いて考えるのだろうか。その延長線上に富士講はあるはずなのである。そういう意味で、先の論考は懐疑的と思える典型的な論考である。だから「江戸時代に富士山信仰が民衆に広まった」「富士講により富士山信仰が成立した」という説明には、特に注意しなければならない。そういう姿勢で富士講の歴史にあたらないと、混同してしまうのである。

  • 富士講の起源について
富士山信仰の総合的な学術研究は『富士の研究』シリーズより始まる。富士山研究の金字塔であり、ここから始まったようなものである。いわば、スタート地点である。そのシリーズにおける井野辺茂雄氏の『富士の信仰』では、富士講について以下のように指摘している(P306、古今書院版)。

按ずるに富士講の盛んになったのは、身禄・光清などといへる著名の行者の出でたる以後の事にかゝる

つまりこの時代の研究で既に、富士講の発祥がかなり後退する可能性を示唆している。しかしながら、その指摘を後の研究の中では汲み取れず、富士講の理解が忠実から離れた部分へと行ってしまったように思えてならない。根本的な部分から、再検討する必要性がある。

  • 禁制

江戸幕府により禁制が出されていることも、富士講の特徴である。つまりそれほど隆盛を極めていたわけであり、その集団性が幕府にとって必ずしも良いものではなかったのである。寛保(1742年)から嘉永(1850年)の間で10回も出されているといい、繰り返し出されていることから、禁制でも制限することができなかったことが推察される。

  • 角行の弟子と伝わる人物
「富士講の起源」というと「富士講とは何なのか」で述べたような感じになってしまうので「富士講を組織したのは誰か」という視点が重要である。富士講を組織したのは「食行身禄を支持する一派」とされる。しかし身禄に事実上の弟子は存在していなかったとされる(ここも非常に分かれる)。したがって富士講は、「食行身禄を支持した(信仰する)者たちが集団化し、構という形態を媒介として拡大したその広まり」とも考えられる。

食行身禄とは
食行身禄(1671〜1733)は月行系の信仰を踏襲する人物で、63歳の時に富士山中で宗教的自殺を遂げたとされる

ですから富士講の歴史は18世紀中盤からである。早くても17世紀後半以後であろう。

  • 富士講の隆盛
「食行身禄を支持・信仰する集団」は食行身禄の死後から「富士門弟」「富士御同行」を名乗る。これが形をかえたものが「富士講」である。この集団の中に「田辺十郎右衛門」という人物がいる。この田辺十郎右衛門は吉田(現在の富士吉田市)で信仰を広めようとするが村上光清などと対立することとなる。しかし田辺十郎右衛門は「吉田の御師」との関係を強くし、影響力強くする。やがて御師と共に先達(富士講の中の格の高い行者)に対し行名を与える行為などを行うようになる。

  • 富士講の行事や形式

江戸まで広まった富士講は枝講が別講をたてながら増加していく。講はそれぞれ「笠印」とよばれるマークを持って講の中の数名が代参に出かけたとされる。修行の基本は富士登山であるが「御中道巡り」や水行である「八湖修行」などがあった。八湖修行は角行が水行をしたといわれる湖で修行することを言い、富士五湖を中心とした「内八湖」、琵琶湖・諏訪湖など広範囲にわたる「外八湖」があった。 こうした先達の修行はすべて師匠からの口伝からなり、「お伝え」という「浅間様への拝み方を記す経典」を伝書として与えられた。ほかに海水に入る潮垢離や断食行などさまざまな形態があった。

  • 先達の服装
富士講の先達は山伏の姿に似ている。 腹掛けの上に白い行衣を着て、白の手甲・脚半をつけ、金剛杖を持つ。杖につけた小旗を「マネキ」といい、これは講中の目印である。頭に巻いたさらしの布は「宝冠」とよばれる。腰に鈴をつけ、大きな玉がついた数珠をかけて、御三幅の入った札箱を背負う。数珠は、富士山に行くたびに少しずつ玉を買い足して大きくしていく。また小物入れとして「下箱げばこ」を肩からかける。富士講の法会で本尊にする御三幅は、登拝の時にも祭壇代わりにするので、富士山に持参する。このため御三幅には頂上の印や小御嶽様の印が登頂した数だけ押されているという。よくこのような白い服装を見て「富士講だ」というような見方をされる事があるが、決してそうではないし、むしろ「村山修験の修験者と共通するものがある」という見方が正しいであろう。先達の持物は独特である。オフセギとよぶ「参」の字がぎっしり書かれた紙切れや呪文が並ぶ「虫歯守」、家相や相性を占う本などである。

  • 商業的成功
先ほど「御師と共に先達に対し行名を与える行為などを行うようになる」と述べましたが、このような行為は商業的成功を収めるようになる。その他にも宗教的行為としてさまざまなサービスを行い収入源とした。富士講は「信者たちのグループ」となっていき江戸までに流行が広まった。江戸までに流行が広まるとさらに拡大に拡大を続ける。諏訪神社(現在の北口本宮富士浅間神社)の境内社である浅間神社の影響力が強くなり「諏訪大明神富士浅間宮」などと言われるようになる(最終的には社号が浅間神社となる)。

  • 富士講の聖地
富士講は「食行身禄を支持する集団が自ら弟子を名乗り、身禄の信仰を独自の解釈で成立させ広まったものとその集団」であるが、食行身禄は月行系である。月行系は「旺心」の弟子から派生したものである。この大元の「旺心」は角行からみて三代目の富士行者である。このような頂に位置する「角行」は富士講信者にとっては「行の開祖」として拝められる存在であった。その角行は人穴で修行されたとされるので、人穴は富士講信者からみて聖地であった。そのため富士講信者が中道往還を利用し人穴を訪れたりしていた。碑塔などが建てられ、現在約230基確認されており「人穴富士講遺跡」として知られている。

しかしこれらすべてが富士講信者によるものかと言えばそうではない。現に建立年代が判明している碑塔の中で1664年(寛文4年)のものが確認されており、おそらく「(我々は)講の1つである」という認識すらなかった時代と言える。実は角行からの分かれは他にもあり、「角行の流れを汲む富士信仰の一派」とも言える。「村上光清」などもそれらである。また人穴に「法家」と名乗る一派がいたと言い、赤池家(人穴草子の版行などで知られる)との関連付けがされている。

当ブログは「〜中世までの富士山信仰」を中心としています。富士講を取り上げる上では「中世までの富士山信仰と比較する形」で関われればいいなと思っています。そうすることである事象が富士講由来なのかそうでないのかが見えてきますし、そこを明確とすることで富士講も見えてくるはずです。

  • 参考文献
  1. 坂本徳一,「富士山ご縁年(庚申)の推移」,『甲斐路』76,1993年
  2. 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
  3. 堀内真,「富士参詣の道者道と富士道」,『甲斐路』76号,1993年

2011年5月26日木曜日

吉田諏訪大明神から北口本宮冨士浅間神社への変移と富士講

今回は山梨県の「北口本宮冨士浅間神社」についてです。テーマは「富士講による神社の変移」です。江戸時代に「富士講」という富士信仰の1種が流行しました。富士講信者は主に吉田口を利用したため、その吉田口の起点にあたる北口本宮冨士浅間神社は大いに繁栄することとなりました。吉田口は富士講の本道だったわけです。ですから「富士講が神社にどのような影響を与えたのか」というところが重要となってきます。

『富士山明細図』
  • 歴史的には浅間神社ではなく諏訪神社である
まず北口本宮浅間神社の最大の特徴は「地主神と勧請神が入れ替わってしまったこと」にあります。元々「諏訪神社」(地主神)であって、あくまでもその境内社(勧請神)が浅間神社でした。境内社として存在した理由は、富士山を拝する意味で鳥居などが建てられていたことから、浅間信仰的要素も含まれていたためと考えられる。したがって当神社の起源を説明するときにこれら(勧請神)だけでは説明できないし、直接の起源ではない。「なぜ諏訪神社が建立されたか」という視点が最も重要である。

この境内社としての立場は明応3年(1494年)に「吉田取訪大明神」(タイトル中では分かりやすいように「諏訪」に変えてある)という記録が見られていることなどからも、長く継続されてきました。しかし1480年に「富士山」の鳥居が建立されていることから、登山の大衆化で境内社浅間神社の拡大が図られていたと考えられる(または富士信仰としての側面の拡大)。しかしこれは15世紀から16世紀にかけてのものであり、富士講によるものではない。

例えば「吉田の火祭り」ですが、これは元々は富士信仰とかではなく「諏訪神社の祭礼」として存在していました。それが江戸時代に入って富士山信仰との関連付けがされたものであります。芙蓉亭蟻乗『富士日記』には、以下のようにある。

諏訪社は例祭六月十五日、富士山の形をこしらへ、台に乗せ渡御の時かき行くなり

したがって「古来より富士山信仰としての…」という巷でよく見かける解説は少し違います。むしろ現在でも諏訪神社としての要素が強いと思います。この祭りが当神社の代名詞ともなっていることも多く、今でも「地主神としての諏訪神社の形」が根強く残っていると表現できるでしょう。

  • 江戸期から富士信仰に深く関係し始める
1730年代に富士講の指導者である村上光清により境内の建造物の修復が行われます。18世紀後半には富士講が大流行します。それと共に勧請神であった浅間神社が隆盛し始め(むしろこのとき初めて浅間社が成立したとも言える)、本来「地主神」であるはずの諏訪神社を凌ぎ、立場が大きくなってきます。神社名に「富士」を冠するようにもなり(18世紀以降またさらに後期か)、明治時代には「冨士山北口本宮冨士嶽神社」と名乗るようになる。したがって江戸時代以前での当神社の歴史では、富士信仰の要素は少ないものであると考えたほうがいいと思われる。浅間神社としての歴史や側面は、周辺の山梨県の浅間神社と比べても非常に浅いと言える。18世紀以降から急激に形を変異させたのが、現在の北口本宮冨士浅間神社である。

  • 江戸期以前の富士信仰を探ることが重要
あまりに過度に富士講ばかりに注目されてしまい、江戸時代以前の山梨県における富士信仰が目立たなくなってしまっています。まさに功罪です。本来歴史は「時系列」で見ることが重要です。ですから古来から地主神が浅間神社であった小室浅間神社や冨士御室浅間神社に着目しないと富士信仰が全く見えてきません。ですから史跡富士山に「小室浅間神社」がないのはおかしいのです。なぜ古来より浅間神社であった「小室浅間神社」が史跡富士山に入らないのか。「富士信仰の成り立ち」というのは、これら古来より浅間神社として成り立ってきた部分に着目しないと分かってきません。

  • まとめ
ザックリ言うと「諏訪神社→浅間神社」となった神社と言える。しかも浅間神社となったのは近世以降である。富士講と関わりが深い関係で著明な一方、これまでの歴史などは不透明な部分が多く起源も説明がつかない。富士信仰の理解のために「古来からの伝承などからなる富士信仰」と「新興勢力による富士信仰」との区別が必要なのかもしれない。

2011年4月10日日曜日

白糸の滝の歴史

白糸の滝は、静岡県富士宮市に位置する瀑布である。高さは約20m、長さ約120m。富士山の溶岩流(一万年前に噴火により形成)から富士山の雪解け水が湧き出し、滝が形成されている。その姿は「白糸が垂れるが如く」であり、それが名称の由来である。国の名勝および天然記念物に指定されている。新富士火山の溶岩流の一種として「白糸溶岩流」があり、当滝付近に広がる。この溶岩流は4枚の溶岩流層から形成され、白糸の滝では2枚が確認されているという。

『富士山道しるべ』より

  • 富士の巻狩と白糸の滝

「富士の巻狩」の際に白糸の滝を訪れた源頼朝は、以下のような歌を詠んだと伝わる。

この上にいかなる姫やおはすらん おだまき流す白糸の滝


また時代が下り戦国時代において、織田信長がこの付近を通過している。『信長公記』(巻十五)の部分にその記録が見られる。天文10年4月12日に信長は甲斐から大宮へ向かう。4月12日に本栖(甲斐、都留郡)を出て「かみのが原-井出野-人穴」と移動し、南下していった。途中浅間大社の社人たちが出迎え、上井出に至る。記述としては、以下の通りである。

根かたの人穴御見物。爰(ここ)に御茶屋立ておき、一献進上申さるゝ。大宮の社人・社僧罷り出で、 道の掃除申付け、御礼申上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり、西の山に 白糸の滝名所あり。

こういう場面でも浅間大社の社人が出てくるところは、富士上方の特徴であろう。信長は、各名所をくまなく回っている。「頼朝かりくらの屋形立てられしかみ井手の丸山あり」ということから、やはり富士の巻狩は当時としても知られたな出来事であったようだ。「丸山」がどこを指すのかは不明であるが、記述から見て井出地区であることには間違いない(参考:信長公記に記された「かみ井手の丸山」)。また何より、「名所」とあることから白糸の滝が古くから広く知られた滝であったことを示している。

また、白糸の滝の入り口側には「お鬢(びん)水」という湧水がある。源頼朝が髪のほつれを直したという伝承が残る。 

  • 富士講と白糸の滝
富士講の開祖である角行が水行を行ったと伝わる。修行地がそこであったか正確にはわからないが、富士講信者が滝壺にて修行したという記録は事実として残る。人穴との立行に合わせて白糸にも顔を出し、水行を行ったようである。このように角行が修行を行なったと伝わるこの場所は特別な地となり、富士講信者の巡礼の場となった。滝壺にて垢離をとる信者の周囲に虹が形成されるその様子を「御来光」と表現したともいわれる。『富士山道しるべ』に白糸の滝がでてくるのもその所以であると言える。
  • 参考文献
  1. 桑田忠親,『改訂信長公記』P370-371,新人物往来社,1965年
  2. 富士吉田市歴史民俗博物館,『博物館だよりMARUBI №20』 
  3. 『富士山推薦書原案』