といっても、同じく郡内の富士御室浅間神社はまた性格が異なる。こちらは古来より浅間社として成立してきた神社であり、御師とも強く結びつきがあった。御師から神職が選ばれていたわけであり、表裏一体とも言える。そういう意味で、北口本宮冨士浅間神社とは性格が全く異なる。北口も戦国時代、御師が神務に関わっていた部分は認められるが、それは富士御室浅間神社と比較すればその要素は圧倒的に少ない。
北口本宮冨士浅間神社の変化を考えると、当神社が御師により支配されていったと考える方がすんなり理解がゆく。
元亀3年の「宜吉田屋敷割帳」に「大鳥居祢宜」や「下祢宜」と記されている。「吉田」と「大鳥居」ということから北口の祢宜(神職)の屋敷と解釈されるが、「浅間祢宜」と評されていない。これについて「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」ではこのように述べている。
なぜ浅間祢宜と言わなかったのであろう。これについては、次のように推定される。永禄四年に、武田信玄が社殿を造営する以前には恐らく、ここには社殿といえるほどの建造物はなく、大鳥居内は富士山遥拝の神域とされ、その中に小祠くらいはあったかもしれないが、注連張を設け、そこで富士に向かって祈願、祈祷が行われていたのではないであろうか
これは「北口本宮冨士浅間神社の諏訪森と諏訪明神と浅間明神」で記した笹本正治氏の解釈とも繋がる。しかも戦国期の文書では「諏訪祢宜」と見えるのである。つまり、この時代(戦国時代)の北口社の中心人物は諏訪祢宜であったのである。というより、浅間祢宜が存在していなかったわけである。
資料1 |
宝永年間に北口社の祢宜「小佐野若挟」は、宮の支配権は神職に有りとして、御師の自由な祈祷を妨げようとした。それらに対する御師の訴状(宝永5年、1708年)に「祢宜の神社支配についての訴状」がある(資料1)。この中で、(御師の主観による)神職と御師の職分について記している。そしてその中で「神社の最も重要な祈願・祈祷は御師が努め、日常的な管理は祢宜が受け持つべき」とある。つまり御師たちは、神職より御師が祈願・祈祷を行うにふさわしいとしているのである。本来祈願・祈祷というのは神職が行うものであるので、御師の主張はかなり域を出たものと言えるだろう。
つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。
つまりこの段階で、御師の権威がかなり大きくなってきている。文献1では「戦国期より近世前期までは、神社の主導権は御師が握り、神職は日常の雑務に当たる者として一段下に見られていたを思われるのである」としている。これは、戦国期に領主により諏訪祢宜宛てに書状が発布されていたような時代(祢宜の立場が大きかった時代)と比較すると、あまりに様変わりしていると言える。
これらの流れを文献1が取り上げ帰結を記しているが、その解釈を要約すると「御師の解決法は、本殿以外の社殿の一部を御師の祈祷所として利用することを望む内容であるから、本殿の利用までは望んでいない以上御師が後退した形である」としている。しかしこれは神職の優位とは言い難い。そもそも北口は、御師が掌握していたものでは全くなかった。その中でここまで掌握されかけているのである。つまり、着実に御師の力が増しているのである。ただし文献の中で「神社に参拝する道者は、すべて御師を経由するわけであるから、御師との強調関係を簡単に失うことはできない」とある。たしかに道者は御師を経由して参拝しており、神社としては道者という最大の参拝者を失うわけにはいかない。その後ろにいる御師とは、協調関係は失うことはできなかったのである。
ここで御師はさらに神社との関係を深めるため、大きな動きに移るようになる。それは、「御師が神職になる」という選択である。これはどちらかというと、富士御室浅間神社のシステムである。しかしそこで「伝統的な体制に留まろうと考える人」と「御師」という2つに分かれることとなる。そこで争論が生じるようになる。
「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。
この内容によると、御師たちは「浅間大菩薩」ではなく「浅間大神」という神号を使用したことなどを不快に思っているようである。しかし本当のところは、相談せずにこのようなことを実行したことに納得がいかなかったという話のようである。また御師たちは吉田家をよく思っていなかったので、吉田家を介して行なったことに不満があったのである。
そして訴訟された側はこのような主張をしている。
つまり「橘屋中務」「鶴屋新助」といった御師は、「神位、神幣を受けて格式を上げることに専念すべし」という考え方であったようである。この争論は内済によって決められ、「浅間大菩薩とするも、浅間大神とするも、互いに妨げるべきではない」という結論となった。こういう過程を経て、御師が神職となるケースも増えていったようである。御師はその性格上浅間社を推したため、諏訪社は追いやられていき、浅間神社が優位となっていったのだろう。
そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。
論考の中で
とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。
とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。
「神位、神幣新規申請についての書状」というものがある。宝永7年に「橘屋中務」「鶴屋新助」の2人(御師)が吉田家を介して浅間大神の神位・神号を請け、神幣を宮中(北口)に納め、浅間大神と記した大旗を立て並べたりした。これらの行動を良く思わなかった二十三人の御師たちは、上の2人を含む6人を訴えたのである。
神位、神幣新規申請についての書状 |
そして訴訟された側はこのような主張をしている。
答書 |
そして富士講の隆盛が決定的となり、諏訪社は影をひそめるようになった。浅間神社は拡大されてゆき、ここに御師による完全掌握が成されたのである。富士講は江戸幕府により禁制が繰り返しだされている。その内容の共通項として「僧侶でも神職でもない者が、行衣を着し、祈祷や配札などをすることを禁ずる」というものがある。つまり「僧侶でも神職でもない御師が、なにやらやっておるな」という解釈なのである。そういうようにみられないためにも、実際神職になることは御師にとっても悪いことではなかったのである。実は幕府の人間によって「御師が何やらやっておるようだ」というように見られていたのは事実である。そういう記述も、しっかり記録として残っている(再発見次第掲載)。
論考の中で
御師は、お山の守護者として、神礼の授与社として尊敬を受けたが、富士講とは一線を画する神道家としての性格を持つ姿になったようである
とある。しかし御師は富士講とかなり密接な関係であったため、一線を画すとはなかなか言い難い。しかしながら御師という存在が、信仰面では行動を異にしていた(共にしていない)のは間違いない。御師というと「祭祀的な行為」や「富士山への登拝」を行なっていたと考えがちであるが、実は基本的にそういう信仰的行為が見られない。「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」によると、富士講についてこのように記されている。
「このようにみてくると、地元の者の習慣の中には、天地の堺を超えて五合目に登る形態はみられない。頂上まで行くのは夏山を踏む富士講道者のみである」「御師の行動範囲は、道者・構中を出迎える下吉田愛染と浅間神社の裏門との間に限られる」
とし、また「山内に踏み入れることはほとんどない」と記している。江戸時代当時、このような習慣であったのだと推測される。つまり、御師は祭祀や登拝など信仰的行為を行なっていたわけではない。道者を出迎え、見送っていたわけである。見送りといった意味で御札類を発布していたが、それが信仰的要素の限界であろう。御師を信仰と直接結びつけてはいけない。冷静に考えると、それはそうである(信仰の裏付けがないこと)。なぜなら、そもそも富士講成立以前に御師は存在していたわけであって、富士講により誕生したわけではない。だから、必ずしも富士講と密接であるわけではない。しかも戦国初期に至っては、北口に浅間社すら存在していなかったのである。時代の変化の中で、生活を維持・充実させていくために御師が形態変化していったに過ぎないのである。「吉田御師による北口掌握の過程」とは、そういうことである。
- 参考文献
- 星野芳三,「北口浅間社と御師-戦国期より近世絵へ・その信仰の変遷-」,『甲斐路』77号,1993年
- 堀内真,「富士山内の信仰世界-吉田口登山道を中心として-」『甲斐の成立と地方的展開』,角川書店,1989年
- 笹本正治,「武田信玄と富士信仰」『戦国大名武田氏』,名著出版,1991年
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