「一遍聖絵」第6巻(一遍上人絵伝)に見える富士山と富士川 |
- 文明の基点という考え方
網野善彦「甲斐の歴史をよみ直す」では、以下のように記している。
山梨については、これまで「孤立した山国」という固定したイメージ、理解の仕方がかなり広く行き渡っていたのではなかろうか。(中略)山は周囲から人を隔てるという性格を一面に持っている。しかし、山には山なりの道があった。と同時に甲斐を縦横に流れる河川は山や盆地を海とつなぐ、海に向かって開かれた道だったのである。(中略)このなかで田代氏は、直径五十センチメートルを超える大型の渥美焼が河川に沿って分布している状況を確定しながら、不安定な馬の背に限る陸路よりも、船によって海から富士川をさかのぼって甲斐にもたらされた可能性が高いことを指摘している。
これが真実であるとすると、甲斐の国というのは富士川などの河川を基点として文明が開いたといっても過言ではない。このように、富士川から歴史を考える必要性もあるかもしれない。
笹本正治「早川流域地方と穴山氏」には以下のようにある。
河内領という名称について文化十一年(一八一四)に成立した『甲斐国志』は、「河内カワウチ訓ズ。河落ノ転ナルベシ。三郡諸河一道二会集スル処」と伝えているが、この地はまさに富士川を中心として開けているといっても過言ではなく、人家は富士川の沿岸と富士川に流れ込む小河川のまわりを中心として点在している。
上は交通手段としての河川の役割についてであるが、この場合は在地の民衆が水の恵みを頼りとし、沿岸に住み着いていた事が感じ取れる。
- 富士川水運
富士川を語る際、外せないのは「富士川水運」であろう。「『富士川流域河川調査書』にみる物資物流」より引用。
富士川舟運は、(中略)山梨県ばかりでなく長野県、特に、その中信地域の物資物流の大動脈であった。しかし、明治三十六年(一九〇三)には中央線が甲府まで開通し、さらに、富士川に沿って北上してきた富士身延鉄道の昭和2年の完成によって富士川舟運は近世初頭以来のその役割を終える。
とある。そしてこのような認識で正しい。しかしそれまでは非常に重視された物流手法・ルートであった。その地域における位置づけも大きく、外せないものであっただろう。しかし後に完全に衰え、過去富士川水運で栄えた地域は今は衰退している(例:鰍沢町(現・富士川町)、南部町など)。田山花袋の『赤い桃』には以下のようにあるという。
鰍沢は十年前とはまるで変ったやうなさびしい町になってゐた。(中略)依然として川舟の出る河港はあった。しかしそのさびれてゐることよ。その衰へてゐることよ。その茶店のさびしく田舎的になってゐることよ。
つまり水運という糧を失って、町自体が寂れてしまったのである。鰍沢は舟運の町と言ってもよく、鰍沢の人口増加は水運の発達によるところが大きい(明治二十年代は最盛期だという)。「富士川運輪会社」なるものも、鰍沢に設立されている。これは明治八年のことであるが、中央線が甲府まで開通した明治三十六年から数年後の明治四十四年には、富士川運輪会社は総会を開き会社存廃の件を議題にしている。この事実からも、中央線開通の影響力の大きさが感じ取れるだろう。その後は悲惨な状況であったという。
『富士川流域河川調査書』には「鰍沢、青柳、黒沢、三河岸、市部、切石、南部、下稲子、沼久保、星山、松野、岩本、松岡、堀川、岩淵」のデータが記されているという。そしてこの地域は共通して富士川沿いであり、河岸・船着場などがあった地域と想定される。広域であり各地域について取り上げることは不可能であるため、ここでは富士宮市を例に説明していきたい。
富士宮市で富士川水運で栄えた場所は概ね「稲子」「沼久保」かと思う。沼久保は現在も問屋跡が残る地域である。問屋は物資などを保存・管理する場所である。以下の建物がそれである。
問屋(富士宮市沼久保) |
- 角倉了以
角倉了以は、富士川水運の環境を整えるため開削を行った人物である。角倉了以は本性は吉田氏といい、宇多源氏の流れという。近江佐々木氏の一流で、近江の吉田の地を根拠地とし吉田氏を称したという。その後(吉田)徳春が京にて室町幕府に仕え、その子宗臨が土倉を営んだため「角倉」と称されるようになったという。
「近世の富士川水運」によると、以下のようにある。
慶長十二年角倉了以が幕府の命を受け開鑿浚渫を行い通船が可能となった。(中略)しかしこの大事業が慶長十二年に完成したとは考えられない。市川大門村(町)円立寺の鎮守天神祀の天神画像の裏書に「慶長十七年(中略)京都角倉勝左衛門富士川通船始之砌祈願之天神」とあり、おそらく慶長十七年に富士川通船が創始されたと考えるのが妥当であろう
としている。また同論考によると貢米(年貢米)は「-岩渕-蒲原(陸送)-清水港-江戸」と運ばれたようである。そしてこれを扱う問屋は独占的特権であったという。これらの地域は重要な輸送ルートであっただろう。
- 難所
「富士川水運の民俗」によると、以下のようにある。
この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。
富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
鰍沢から岩淵まで富士川十八里を船頭たちは『カワタケ』とよんでおり、『カワタケ』とは川が滝をなして流れることからよぶので、『カワタキ』というのだともいわれており、『カワタケ十八里』のうち支流早川の合流するところから上流を『クニガワ』といい、富士川とは早川の合流する下山以南を指してそうよんだのだといい、船頭らは船がクニガワに入つて来るとホッとしたという。
この論考は1961年のものである。そして鉄道開設(=水運の終わり)が明治三十六年の1903年であるから、この当時の論考でなければわからぬ部分もあると思う。習慣などについても詳しく掲載されており、大いに参考になる。
富士川において、難所は最も厄介であった。十坂舎一九『金草鞋』には以下のようにある。
舟のあたらざるやうに岩をよけて、舟を自由にまはすこと、まことに見るにあやうく、(中略)かくて富士橋の下、釜が淵といふところは、まことに目をあきてみられず、恐ろしき難所なり、そこを過ぎて、ほどなく東海道富士川にいでたり
このように、非常にスリリングなものでした。「富士川水運の悪場(難所)」によると、「天神ヶ滝、屏風岩、銚子ノ口(釜口=旧芝川町)」の三箇所は「富士川水運三大難所」と呼ばれていたという。ある種、賭けのような場所であったのだろう。川の合流点が「釜」で、水深があるところを「淵」というといい、そういう地名が多い。
しかしここまで犠牲を払ってまで水運に頼るのは、やはり生産の拡大や流通の必要性があったからである。水運は効率的であり、選択肢としては外せなかったのだろう。上で年貢米の例を出しているが、幕府の天領であった甲州は直轄の支配を受けていた。甲府の支配域の年貢分は鰍沢河岸から、市川の年貢分は青柳河岸から、石和の年貢分は黒沢河岸からと各河岸から積み出されることが決まっていたという。その関係で、これら地域には大規模な蔵があったであろう。特に鰍沢は諏訪領の米も積みだしていたといい、鰍沢に位置する諏訪問屋の裏の出入り口が由来となって『裏門』という地名があるという。
また『甲斐国志』にも「アクバ」が記され、やはり「銚子の口」などは記されている。古くから懸念の案件であったのだろう。鰍沢には「八幡神社」があるが、これは舟運安全祈願の社であったという(「研究材料七、建築」)。
- 水運と客船
東海道線が開けてからも、水運は尚生活に必要なものであったという。例えば、電車の発着時間に合わせ水運の時間も調整していたようである。それ故に「時間船」「普通船」といったようなものがあったという。実は私もこの話は聞いたことがある。不特定多数の山梨在住の高齢者に話を聞いたことがあるが、水運で下って静岡の鉄道線に乗った方が圧倒的に効率的に移動できたらしい(私が静岡なのでこの話題を出したのだろう)。これはかなり強調されていたので、習慣的な方法であったのだと思う。「郵便船」というものもあったといい、『甲府局誌』によると「明治四年甲府柳町二十二番地に郵便取扱所を設置、東海道吉原より甲府へ郵便枝道を開いた」とあるという。
以上、富士川の歴史でした。
- 参考文献
- 青山靖,「富士川水運の民俗」『甲斐路』No1,1961年
- 齋藤康彦,『富士川流域河川調査書』にみる物資流通,『甲斐路』No.88,1996年
- 望月武実,「角倉了以と富士川の開削」,『甲斐路』No.88,1996年
- 清水小太郎,「近世の富士川舟運」,『甲斐路』No.88,1996年
- 石川博,「富士川下りを描いた文学」,『甲斐路』No.88,1996年
- 立川實造,「富士川水運の悪場(難所)」,『甲斐路』No.88,1996年
- 羽中田壮雄,「建築」,『甲斐路』No.88,1996年
- 網野善彦,『甲斐の歴史をよみ直す―開かれた山国』P11-14,山梨日日新聞社,2008年改版
- 笹本正治,「早川流域地方と穴山氏」『戦国大名武田氏の研究』,思文閣史学出版,1993年
とても貴重な報告をありがとうございました
返信削除この問屋跡は親戚筋でして
今調査中の木伏、清という名字に繋がるかもしれません
重ね重ねありがとうございました