文書1 |
享徳四年(1455)閏四月十五日、上杉持朝(扇谷上杉家当主)は「富士右馬助」宛てに、所々の戦功を賞する内容の文書を発給している。そして恩賞については上杉房顕(山内上杉家当主)と相談するように、という内容である。「享徳の乱」の際富士氏は、幕府より上杉氏への支援を命じられており、こういう文書が残されている。
「右馬助」は官途名であり、そういうものは一族で継承されることも多い。寛正3年(1462年)11月2日の「後花園天皇口宣案」の受給者は「右馬助和邇部忠時」、つまり富士忠時である。そして今回の文書は1455年とさほど時期を隔てていないため、ここでいう「富士右馬助」も富士忠時と考えることができる。
次に「醍醐寺文書」を掲載する。
これは上杉持朝との約束が反故にされているため、富士忠時が西南院に宛て、細川勝元(室町幕府管領)を通じ、持朝だけでなく上杉房顕への下知も依頼した文書である。享徳四年(1455)の文書とつなげて考えることができるため、忠時が恩賞を受けていないことの不満から発給されたと考えられる。
富士忠時の時代、富士家は武力を保持していた。そのため幕府からの依頼が来ることも多く、その結果古河公方勢力と戦をしていたことが分かる。そして数々の戦功を上げていたということも分かる。それらから、反古河公方勢力の中心である扇谷上杉家や山内上杉家などと関係が深かったのである。
しかし恩賞の約束が果たされておらず、当時の室町幕府の権力者管領「細川勝元」(後、応仁の乱を引き起こす人物)を通すことで、恩賞が支払われることを望んだのであろう。享徳の乱の時の富士氏は、こういう情勢であった。
これは上杉持朝との約束が反故にされているため、富士忠時が西南院に宛て、細川勝元(室町幕府管領)を通じ、持朝だけでなく上杉房顕への下知も依頼した文書である。享徳四年(1455)の文書とつなげて考えることができるため、忠時が恩賞を受けていないことの不満から発給されたと考えられる。
富士忠時の時代、富士家は武力を保持していた。そのため幕府からの依頼が来ることも多く、その結果古河公方勢力と戦をしていたことが分かる。そして数々の戦功を上げていたということも分かる。それらから、反古河公方勢力の中心である扇谷上杉家や山内上杉家などと関係が深かったのである。
しかし恩賞の約束が果たされておらず、当時の室町幕府の権力者管領「細川勝元」(後、応仁の乱を引き起こす人物)を通すことで、恩賞が支払われることを望んだのであろう。享徳の乱の時の富士氏は、こういう情勢であった。
- 参考文献
- 黒田基樹,『扇谷上杉氏と太田道灌』P120-123,岩田書院,2004年
- 大石泰史,「十五世紀後半の大宮司富士家」,『戦国史研究』第60号,2010年
0 件のコメント:
コメントを投稿